アフガニスタンまとめ ●形勢 ◆西にイラン高原、北に中央アジアの盆地、東にインド平原、いずれも古代文明の栄えた場所をおさえる要衝の地「文明の十字路」 ・さらに東北方にはタリム盆地のオアシス都市群、その東にはChina proper ・山がちの地形 最高峰ノーシャフは海抜7485m(1960京大隊初登頂) 居住地は400~2600mに分布 ちいさい谷がたくさんある ・北部と南部に平野 北部国境沿いに流れるアム川 アム川沿いに広がる肥沃な平野 ・国土の半分は草原に分類 ・乾燥した気候 年雨量の七割が2~4月の3ヶ月に降る。 夏暑く、冬寒い 地域差が激しい 夏 平野部では40度を超すが、 カブールあたりでは30度くらい 冬の最低気温は零下20度をくだるところもあるが、 10度をくだらないところもある。 ●アフガン人 人口2300万くらい?正確な統計が存在しない ・約半数がパシュトゥン人(パタン、アフガン) 世界最大の部族社会を形成 同じくらいがパキスタン側にも住んでいる。 ・タジク人 ペルシア語 スンニ派 (中央アジアにいるペルシア語話者のこと) ・ウズベク人、トルクメン人 トルコ系 それぞれの言葉 ・ハザラ人 ペルシア語 シーア派 モンゴル系 (モンゴルの千人隊ハザーラとの関係?) <何族とか何人という「人、族」に惑わされてはいけない。要はどんな集団がそこにいるか> アフガンはペルシア語圏に入る。公用語にアフガン・ペルシア語(ダーリ語)イランで話されている現代イラン語とは古典を共有するが、口語を異にする(古形を多く保存)。パシュトゥン語は印欧語族のイラン語に分類されるが、方言がたくさんあり標準語がない ・推定識字率 1947 6% 1967 10% (1993 31%) 知識人層に乏しい ・部族社会 生活集団ごとにひとつの共同体をつくり、すみわけ。内部のことはジルカで決定(争いの調停や違法行為の処罰) ジルカはイスラム聖職者と有力者で構成される「よりあい」のようなもの。全会一致が基本。独自の掟(パシュトゥンワリ) 閉じた世界 ・国中でやるのがロヤ・ジルガ(部族長大会議) ・谷が一つの村、その上のひとかたまりも村、その上がマンテガ ・アフガン人の帰属意識はせいぜいここまで<違う見方だと個人→家族→部族→民族 X 国> ・その上がdistrict。さらにうえがprovince。これは近代行政組織。 ・都市民は5% ・山がちの地形、伝統的な社会構造→大土地所有はあまり見られない→地主と小作人の関係は安定。貧富を決定する最大要因は自然条件 ・誇りたかく(部族単位での)独立心つよく、ほかからのいいなりになるのは好まない ●産業 ・石炭 ・天然ガス すべて北部 宝石とケシが二大産品 ・宝石 機械化されていない、工業もない、牧畜と農業 ・アフガン国内での西回り鉄道敷設は技術的には難しくないが、ついに引かれることはなかった。イギリス側ロシア側には国境まで敷設。<ロシア側では数キロほどアフガン国内まで引かれている。> ●アフガニスタン前史 前2000~前1000 アーリア系の侵入? 北部の古代都市バルフは重要 前6c アケメネス朝ペルシア 前4c アレクサンダーの東征 前3c~前2c バクトリア王国 1c~4c クシャーナ朝 ・北インドから中央アジアにまたがる大帝国 ・ガンダーラ美術で有名 4c ササン朝ペルシア 5c エフタル 7c後半 アラブ到達(イスラムに改宗した者は少) 9c ターヒル朝、サッファール朝(ムスリム増える) 9c-10c サーマン朝 ペルシア文化(中央アジア) 10c-11c ガズナ朝 はじめのイスラム王朝 ・北インドへたびたび侵略 12c ゴール朝 ・インド支店が独立→デリースルタン朝 13c モンゴル チンギスハン ・バルフ、バーミヤンなどで屠城 14c チムールの大帝国(ヘラート、サマルカンド) 16c サマルカンドのバーブル王子はウズベク族の攻勢にやぶれカブールに亡命政権。デリースルタン朝最後のロディー朝をつぶし、ムガル帝国の礎を築く 16c 息子のフマユーンはペルシアのサファビー朝の援助でインドに返り咲き 以後アフガン領域はサファビー朝とムガル帝国が支配 ・カンダハルのあたりが係争地 18c両大国の支配がよわまった頃に自立の動き 18c初 アフガン人、落ち目のサファビー朝をつぶす 1736-47 トルコ系ナーディル=クリーのアフシャール朝ペルシア大帝国 ・ナーディルの死後、故郷に帰ったアフガン人が部族連合国家をつくる「ドゥッラーニー朝」 ●イスラム ・七c初ムハンマドが天使より天啓を受ける ・唯一神アッラー 預言者ムハンマド ユダヤ教キリスト教の影響 死後の審判 ・コーラン ハディース ・五行(信仰告白<アッラーのほかに神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり>、礼拝<一日五回のアレ>、喜捨<金持ち税>、メッカ巡礼、ラマザンの断食<イスラム暦九月、日の出から日の入りまでの断食>)六信(アッラー、天使、預言者、コーラン、来世、宿命) ・その簡単な教義が受けたのか、イスラムによって初めてまとめられたアラブ人がつよかったのか、はたまた分割統治のような共同体まる抱え方式がよかったのか、当時の文明社会を席巻。ビザンチウムは落とせなかったが、スペインから中央アジア、インドまでいたる。 ・「ムスリム(信者)であれば、イスラムの一員」という方式でいろんな民族、集団を内包していったため、民族アイデンティティが消失、エジプトからシリア、イラク方面はみんなアラブ人になってしまった。 ・ムハンマド死後、「信者の長」は四代目娘婿のアリーまで、ムハンマドに近しい人の間でうけつがれていた。アリーはダマスカス太守のムアーウィアに殺され、以後は世襲になる。それを認めるのがスンニ派。認めないのがシーア派。 ・シーア派を利用して「信者の長」の座を獲得したのがアッバース朝。以後ペルシア方面でシーア派が盛んになる ・10c頃にはむしろシーア派が優勢だったが、中央アジア方面から出てきたトルコ人によりスンニー派に逆戻り ・12c頃から修行を通じて神人合一の境地をもとめる神秘主義スーフィズムが盛んになる。トルコのメフレビー、中央アジアのナクシュバンディーなど有名 ・18c頃から、ヨーロッパ勢力の進出が脅威とうけとられ、イスラム復古運動が盛んになる。アラビア半島のワッハーブ派が有名(→サウジアラビア) ◆グレートゲーム◆ 19c、インド・中央アジア・ペルシアをめぐりイギリス・ロシアははげしく角逐した。その産物がアフガニスタンである。 ・19cまで ●ロシア 13cモンゴルの虎の威を借りてモスクワ大公国勢力拡大 16cにはカザン・アストラハン両ハン国を征服、タタール(モンゴル)支配を克服 17c、カスピ海に注ぐボルゴ川がロシアの東方貿易の中心に。インド商人やアルメニア商人が顧客 ・森林地帯ぞいにシベリアへ進出、遊牧民がこわくて森の外へ出られない 18c初ピョートル大帝のころ南進するが東では清朝にぶつかりストップ。中央アジア方面ではカザフステップにはいりこまず。 ・しかし、ペルシア・トルコ方面には熱心だった。 1807ナポレオンとアレクサンドルⅠのティルジット条約<インド攻略> ●イギリス東インド会社 16c初、東インド会社設立、海上通商に力をいれだす 18c中頃、インドのカルカッタ周辺に会社領を獲得。通商会社会社から統治機関へ変質。 19cまでにガンジス川流域と南インドを獲得。 19c初に急激に拡大、いろんな手段をもちいてインド領を拡大させる。 1833年には商業活動を停止する ●清朝 1759 乾隆帝の時代、東トルキスタンを押さえる。回部。 ・北京政府にとって東トルキスタンは辺境であり、おまけの土地だった。 ●ペルシア 18cにアフガン人の侵入によってサファビー朝崩壊、短命なナーディル=クリーの大帝国のあと、短命なカリーム=ハーンのザンド朝。 ・ペルシアにはトルコ系部族が各地に盤踞しており、彼らの支持を得るか得ないかで支配が確立できるかできないかが決まった。 18c末カージャール朝成立 しかしロシアがコーカサスまで来ており、19c初にはロシアにやられっぱなしになる。 1828 トルコマンチャイ条約(不平等条約の嚆矢) ・19c ■アフガン 18c末からインドへ侵略しだす 19c初イギリスはアフガンへ介入し出す <仏露のティルジット条約(1807)> ・反対勢力を援助するが、失敗 ・新王シャーシュジャーを支持し、約束をとりかわすが、むかし援助した反対勢力に追い出される そのころ、アフガン内での部族勢力に変化があり、バーラクザイ家のドースト=ムハンマドが台頭する。混乱の中、アフガンの土地だったペシャーワルはシーク教徒に奪われる。<シーク教徒は1840年代に東インド会社にやぶれる> 1826 ドースト=ムハンマドが全土を押さえ、バーラクザイ家に分配。 ・1836 ドースト=ムハンマド、「アミールアルムーミニーン」(信者の長)に。 ●第一次アフガン戦争 1837 ロシアを背景にペルシアはヘラートを包囲 ・イギリスはアフガン各勢力を糾合して事に当たろうとする ・ドースト=ムハンマドはペシャーワルのことしか頭にない 1838 思い通りにならないので、宣戦を布告、シャーシュジャーを擁立しようとする 1839 王位につける 1840 ドースト=ムハンマドをつかまえる ・しかし、統治はうまくいかず、撤退を決意 1842/1 イギリス守備隊は撤退中アフガン人におそわれ、ほとんどころされる。 ・結局ドースト=ムハンマドを放ち、アフガン王にさせておくしかなかった。 ●ロシアの影 1850年代カザフステップを南下 ・クリミア戦争<中央アジア(西トルキスタン)への侵略も露土戦争の一環とうけとめられた> ・南北戦争<綿花危機を将来、中央アジアの綿花生産が急激にのびる> ・当時西トルキスタンのオアシスエリアには三つのハン国(ボハラ、コーカンド、ヒヴァ)があった。 1863 侵略本格化 ・同年、東トルキスタンの騒ぎに乗じ、コーカンドハン国の将軍ヤークーブ=ベクが東トルキスタンを支配する。ロシア、イギリス、トルコと国交を結んだ 1865 コーカンドハン国合併 1867 ロシアのトルケスタン総督府 1876 コーカンドハン国廃絶 1878 アフガニスタンとの間に対英相互援助協定 ・1878ヤークーブ=ベクの死と左宗棠の討伐 ・ロシアの影響力が東トルキスタンに及ぶのをおそれたイギリスが清朝に働きかけて討伐させた。 1881 ギョクテペの戦いでトルクメン制圧 ●その間、イギリスは東インド会社を解散させ、直接支配に乗り出す。1849シーク教徒の国をあわせ、セポイの反乱をのりきり、1877にはビクトリア女王がインド皇帝をかねることになった。 ●第二次アフガン戦争 リットン卿の前進政策 1878/11 三つの峠から侵入 ジャララバードとカンダハルを落とす 1879 ロシアにたすけを求めるが、戦争をやめるよう勧告される ・ガンダマク条約を締結、イギリスは外交権を掌握する ・しかし、アフガン側は大使を殺すなど相変わらずのやんちゃぶり 1880 総督の交代により、直接支配をあきらめ、新王アブドゥル=ラフマーンを支持して撤退 ●アフガニスタンの完成 1885 トルキスタン平野部の国境確定 ・アム川以南はアフガニスタンに 1889-93 イギリス、カシミールを傘下に 1893 デュランドライン ・カシミールからバルチスタンにいたるアフガン・インド国境線の設定。 ・パシュトゥン人の居住地域を横断 ・これがのちのちまで問題になる。 1895 パミール協定でパミールにおける国境が確定 ・ロシア領トルキスタンとイギリス領インドの間にアフガン領のワハン回廊をもうける。 1907 ペルシア・アフガニスタン・チベットに関する英露協約 <ドイツの脅威に対抗> ・アフガンとチベットはイギリス、ペルシアに関してはおのおの勢力圏を設定 ●ペルシアの動向 1908 ペルシア領フーゼスタンで中東初めての大油田の発見 ・ペルシアの石油がイギリスにとってきわめて重要になる 1917 ロシア革命でペルシアからロシア撤退 ・同時にイギリス領インドへのロシアの脅威が消える→アフガンの重要性低下 1919 イギリスはペルシアと保護領化を目的とした協定を結ぼうとするが失敗 ・→親英派にクーデターを起こさせる。1921のクーデターでレザー=シャー登場 ●アフガニスタンの独立 1919 第一次世界大戦後のインドの動揺に乗じ、インドに攻め込む ・8/19 ラーワルピンディー条約で外交権を回復、独立 ・ロシア革命でロシアの脅威が消えた 1921 イギリスとの関税協定 ・カラチ経由でアフガニスタンに輸入されるモノの一定品目には無課税 (1965 アフガニスタン中継貿易協定 ・パキスタンのカラチを経由するアフガンへの輸入品の一定品目にはパキスタン側で関税をかけない→アフガン経由パキスタン行きの密貿易の横行)