◆90年代◆
アフガンに残された地雷は約14万個 1998には500-700万個との目算

●湾岸戦争
・背景 イランイラク戦争でイラクは莫大な負債
    一方ではアメリカなど各国の援助で世界第四位の軍事大国に成長
    クェートは石油権益確保のためイギリスが設定した都市国家
    クェートとイラクにまたがる油田の存在
    イラクには世界第二のキルクーク油田がある
    イラクはアラブ人世界とペルシア人世界の境に位置する国
   フセイン 1979から大統領、イランイラク戦争で地位固まる
   ブッシュ(テキサスの石油会社の社長、CIA長官、レーガンの副大統領、大統領)
1990/7 イラクは石油値上げに同調しないクェートとUAEを非難
 ・イラク軍が国境に軍隊を集結し、攻撃にうつりそうなことをアメリカは察知しつつ放置したといわれる
1990/8 イラクはクェートに侵攻し、占領する
  ・国連の撤退要求 <制裁など>
  ・英米軍中心の多国籍軍(ちなみにアフガンゲリラも参加している)
1991/1 湾岸戦争
 1/16 ブッシュ大統領攻撃を決断
 1/17 多国籍軍イラク空爆を開始
 1/18 イラク、イスラエルにスカッドミサイルを撃ちこみだす
 1/30 イラク・サウジの地上戦 <アラブの問題はアラブで解決>
 2/24 多国籍軍の地上戦開始
 2/26 フセイン、クェートからの撤退表明
 2/27 クェート解放
 4/11 停戦
・停戦後もアメリカは制裁を続行させる
・また、北部と南部に飛行監視区域を定め、制空権を確保し続ける
  ・北部のクルド人と南部のシーア派を援助し、フセイン体制を動揺させるため
結果
 イラク軍の主力は地上戦までに北帰していて以後も温存
 クェートを復活させ、国境をクェートに有利なようにひきなおした
 ★アメリカ軍のサウジ常駐 →サウジ国内でのテロの伏線
 アメリカ大統領の強権<スタッフの反対を押し切っての判断>
 情報操作の成功
 ハイテク兵器の衝撃と命中率の低さ
 アメリカはフセイン体制を揺るがすため、クルド人やシーア派に援助したり、たまにミサイル打ち込んだり経済制裁を続行させたり、化学兵器の査察を執拗に繰り返させたりしたが、経済制裁のため、国民生活は極度に悪化、反体制派は根絶やしになり、フセイン体制を強化させただけだった。
→逆にアメリカの強引なやり方に不信感
 アメリカ軍の存在によって安定するという中東の不安定な状況
(豆知識・クルド人関係三国イラン・イラク・トルコのなかでイラクが一番クルド人に権利を与えていた)
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 みすてられたアフガンにあらわれた救世主、それがタリバーンだった。
◆タリバーン登場
タリバーンとはターリブ(求める人、神学生)の複数形。学生たち。マドラサで学ぶ人たち。
 パキスタンの難民キャンプにいたパシュトゥン人のイスラム教聖職者たちと学生たちによって結成。

●パキスタンのJUI
・セポイの反乱後、イギリス領インドでもやはりイスラム復古運動がおこったのだが、その一つがデオバンド学派だった。スーフィズムのナクシュバンディーの流れをくむ。もともとイスラム社会の再生を目指した運動
・パキスタンにおいて、そのデオバンド学派を信奉する政党がJUI(イスラームウレマ協会)。過激な教義解釈を持ち、シーア派を敵視する。
・パキスタンのハク将軍は各地にマドラサ(イスラム寺子屋)をたてさせた。
・80年代、JUIは北西辺境州などのパシュトゥン人地域にマドラサをおおくつくり、アフガン難民とわかいパキスタン人に無料で教育。
・援助国のサウジのワッハーブ派の影響も
→タリバーンの素地
・ハク将軍の死後おこなわれた選挙で議席を獲得、ブット女史と連立する。
・SSP(パキスタン・サハーバ軍団)とレシュカル=イ=ジャンヴィ派はさらに過激な分派。のち手入れを受けカブールにのがれる

●ムジャヒディン オマル師 <1959?->
・カンダハル近くの村のマドラサでまなぶ
・対ソ戦ではイスラム党ハリス派にはいった
・戦闘で片目を失うがすばらしい名声を得る ムジャヒディンのヒーローのひとり
  ・そのころオサマ=ビン=ラディンと知り合ったとされる
・ムジャヒディン政権の成立後、カンダハルは有力ムジャヒディンに分割
  ・ここでも恣意的な税の取り立て、略奪、強姦強盗の日常化
○伝説1
1994/春 少女二人が現地のムジャヒディン司令官にさらわれたという噂
 オマルは学生たち(タリバーン)三十人をあつめ、カラシニコフ十四丁を手に奪回にむかい見事成功
●伝説2
1994/10/初 国境近くの悪名高い関所スピンボルダックを200人で襲撃、守備隊を殲滅
  ・タリバーンの緒戦 おおくはパキスタンのクェッタでまなぶタリバーン
  ・まもっていたのはヘクマティヤル派
  ・ここにはアフガン最大のパシャ武器庫があり、共産政権から奪った武器や西側援助の武器が大量に納められていた。
10/20 パキスタン政府は「トランス・アフガニスタン・ハイウェイ構想」をうちあげ米英中伊韓に三億ドルの援助を頼む
 ・アフガニスタン西部を通り、パキスタンと中央アジアのトゥルクメニスタンをむすぶ
10/29 パキスタン政府はデモンストレーションとして30台ものトラックを試験的に通行させようとする
11/2 カンダハル周辺のムジャヒディンたちは一致協力してトラックを停止させる
11/3 タリバーンが現れ、トラック部隊を救出、ムジャヒディンたちを撃破
  ・この戦闘でのタリバーンの死者はわずかに9人

さらに進んで、カンダハル州の武装解除を決行。
その後たった四週間で二州を支配、三州に進出、へルマンド州ではケシ栽培の違法化を宣言
○・パキスタンのある勢力の援助があったのは確か
 ・パキスタンの北西辺境州、バロチスタン州のタリバーンたちが殺到
●快進撃
 ひろがるうわさ
  ・タリバーンは略奪強姦をしない
  ・タリバーンは住民をいじめない
  ・タリバーンは治安と秩序の回復に専念する
進出するさきではムジャヒディンの武装解除
 ・まず交渉、ついで買収。現金をわたし、丸腰にして放り出す
 ・応じないモノは殲滅
94年中は同じパシュトゥン人の地域をすすみ、ほとんど戦う必要がなかった。
それまでヘクマティヤル派を支援していたパキスタンもこの快進撃を見てタリバーン支援に鞍替え

1995/1 カブールへ進出、南に陣地を構えるヘクマティヤル派と衝突、二週間で敗走させた
   ・無敗神話を決定的に
 (しかし、マスードを負かせず)
1995/9 ヘラートを落とす
●戦法
・1990にクーデタをしたタナイ将軍派がついている(ISIの保護下にあった)
・それまでのゲリラ戦法とは違う
・小型トラックに戦士や対空砲・ロケットランチャーをのせ、その単位をもとに100人から200人の機動部隊をいくつも作り、素早く移動、敵をかこみ四方八方から攻撃 
・圧倒的なはやさ、みだれない指揮統制、緻密な計画行動、効率的なコミュニケーション
→ほとんどのゲリラは敗走さえまともにできない(秩序だって敗走したのはマスードのみといわれる)
・旧政府の軍人(タナイ将軍派など)、ムジャヒディン(イスラム党ハリス派など)、タリバーン、と雑多な構成にもかかわらず統制を維持

●カブール入城
1996/4 オマル師、カンダハルで「アミール=アル=モミニーン」宣言
1996/9 マスードの撤退
 タリバーンのカブール入城
  ・まず、ナジブラを公開処刑
  ・厳格な「イスラム法」の施行
タリバーンのイスラム法というのはパシュトゥン人の掟「パシュトゥンワリ」の影響が強い。また、デオバンド派はパキスタンは成功したが、それまでアフガニスタンには受け入れられなかったモノだった。しかし、このころのタリバーンは現地の風習を尊重する風があった。
   ・写真、映像の撮影禁止
   ・カブールのホテルにあったバーミヤンの大仏のレリーフを爆破
   ・女性の権利の制限
「アフガニスタン首長国」
まっさきにパキスタンが政権承認(サウジ、UAEは遅れて承認)
 しかし、他の国はタリバーン政権を認めず

1997/5 ドスタム将軍派内部の寝返りによって北部を一時手に入れる
 →武装解除しようとして反発をくらい、撤退
1997はタリバーン支配地域でのケシの生産量が急増する(タリバーンの奨励?)
 (1998年からは減少→2001にはケシ栽培禁止の徹底が確認される)

●カスピ海盆地の資源と運送ルート
 中央アジアはソ連のモノであったが、ソ連崩壊後、そこに眠ると見積もられる天然ガス・石油が脚光を浴びる。
 ・中東の湾岸地域は政情が不安定、それにくらべれば中央アジアの官僚の方が扱いやすい
 中央アジアは北にロシア、東に中国、南にアフガニスタン、南西にイラン、西にカスピ海をひかえる
 アフガニスタンからパキスタンを通せば、面倒な大国を通すことなく海に出すことができる。
 1994には前述のハイウェイ計画(1996には整備に着手)
 1997にはトルクメニスタンの天然ガスをアフガン経由でパキスタンへ出すパイプラインの受注合戦が始まる
  ・アメリカのユノカル社とアルゼンチンのブリダス社ほか

 また、パキスタンのカラチからイラン、中央アジア方面への運送を牛耳る運送マフィアはタリバーンを支援し、秩序の回復を歓迎した。
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 アフガンの聖戦が残したもうひとつのもの
◆アフガン帰り
 ジハードを呼びかけられアフガニスタンでイスラムのために戦ったムジャヒディンたちは、ソ連撤退とムジャヒディン政権の成立にしたがってそれぞれの国へ帰っていったが、彼らアフガン帰りは「本国の状態は本来のイスラムではない」と認識し、敵対するようになっていった。はじめは英雄扱いしていた政府側も彼らを取り締まるようになっていく。
◆オサマ=ビン=ラディン<1957->
・前述のとおり自前の資金をもってソ連との「聖戦」に参加
・資金運用がうまい
・1987にはバクティア県南部で追いつめられたが、数量に勝るソ連軍に勝利
  ・写真などでうしろにたてかけてあるカラシニコフはそのときソ連側の大将から奪ったモノ
・1988 対ソ戦中に「アル=カイダ」結成
・サウジに帰ると賞賛と寄付金の的
  ・演説テープは25万本以上売れる
1991 湾岸戦争でアメリカが聖地メッカを擁するサウジに進駐したのに不快感
 ・サウジの王室批判など過激な言動
1994 サウジから追放されスーダンへ
    ・スーダンは80年代よりイスラム原理主義勢力による統治→内戦

●「テロリストイスラム原理主義」
世界中でアフガン帰りによるテロが起こったが、オサマに関係あるとされているのは以下の通り
1992/12 イエメンでホテル爆破事件
1993/2 WTC爆破事件 3人死亡
   ・有罪判決を受けたヨウセフは逮捕されたときオサマ出資のパキの宿に泊まっていた
1993 アメリカのソマリア派兵と撤退
   ・米軍ヘリをうちおとした部隊はオサマの所有だとCIAは信じている。
1995/6 エチオピア訪問中のエジプトのムバラク大統領テロ未遂
   ・エジプト諜報機関はオサマの支援があったと疑っている
  /11 サウジ リヤドの国家警備隊訓練施設での自動車爆弾テロ 米軍事顧問ら7人死亡
    ・容疑者はサウジ当局につかまりサウジで処刑、アメリカの抗議
  /11 在パキスタンエジプト大使館爆破 15人死亡

1996/6 サウジ ダーラン近郊の米軍基地宿舎爆弾テロ 米兵19人死亡
 ・容疑者がオサマ=ビン=ラディンの影響を受けたと証言
 ・これ以来、オサマ=ビン=ラディンは「テロの黒幕」という位置づけで注目されるようになる
  ・しかし、一方でこの事件についてアメリカはイランの関与をも指摘している。<米当局の捜査は事実上失敗>
  ・オサマはこの件に関係していないとみる諜報分析者もいる
 ・オサマ=ビン=ラディンは常に実行した者を賞賛「我々は呼びかけ彼らは答えたのだ」
 ・サウジのダーラン、リヤドの二件は自分が関係したとオサマは主張
中東でのイスラム原理主義運動の重要な資金源?

サウジとアメリカの圧力
 →オサマ=ビン=ラディンはアフガニスタンへ
  ・客人としてあつかわれる
  ・オマル師はオサマの18歳の娘を娶ったといわれる
  ・アフガンではテロ訓練キャンプを維持しているといわれる

1998/2 「ユダヤ人と十字軍に対するジハードをうながす世界イスラム戦線」による宣言
 ・「いつでもどこでもアメリカ人を殺害し、財産を奪うよう」呼びかけた。
 ・オサマ、エジプトのイスラム過激派、JUIの書記、バングラデシュのジハード運動家の署名
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◆分岐点
 アメリカがアフガンをゴミ箱にしたてた。
●マザリシャリフ制圧
1998/5 和平交渉もタリバーンの夏攻勢の開始によって頓挫 (この年二回大地震)
1998/6 オサマ=ビン=ラディンの引き渡しについてサウジとの間で裏交渉
    ★サウジの一王子が特使として派遣され、タリバーンは引き渡しを約束、詳細を詰めていた
8/8 北部の要衝マザリシャリフをおとす
 ・パキスタンの北西辺境州、バロチスタン州の神学生たちがこぞって参加
 ・秋の国連総会へむけて承認を勝ち取るための示威
 ・地域司令官の寝返りとハザラ人の内紛
  ★しかし、応援に来ていたパキスタンの過激派SSPがシーア派のハザラ人を虐殺し、そのうえイランの外交官まで殺す
  ・数千人規模?
  ・1997にタリバーン兵士2000人が虐殺された報復?

9月にはハザラ人の本拠バーミヤンを制圧
 ・こちらでも虐殺事件
 ・これで国土の9割を掌握
 ・反対勢力はマスードだけ
 ・このとき、一部兵士がバーミヤンの大仏の小さい方を砲撃したが、オマル師にいさめられる
  →1999には偶像破壊禁止令、2000/8にはカブール博物館の修復会館式典までやっている。

●ミサイル
8/7 ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件 死者263人重軽傷5000人以上
8/10 イスラム聖域解放軍の犯行声明
8/16 容疑者のパキスタン人ホワイダーはアフガンに逃げ込もうとしているところを捕まり、ケニアへ押送される
8/20 ★アメリカ軍、スーダンの「化学兵器工場」とアフガンの「テロリスト訓練基地」に100発のミサイルを撃ち込む(アフガンには79発)
 ・オサマ=ビン=ラディンをイスラムテロリストネットワークの中心とし、タリバーンはその基地を提供しているという認識 <以後この認識が基礎となって方針が決められる>
 ・直接関与の証拠はない
 ・スーダンの「化学兵器工場」はスーダンの薬品の半数を生産する重要な薬品工場
 ・アフガンの基地は対ソ戦時代にCIAの援助でつくられたゲリラ訓練基地
 ・モニカ=ルインスキーとクリントンの不倫についての公聴会が開かれるところだった。
 ・オサマ=ビン=ラディンは「神の加護により間一髪で攻撃から逃れた」と宣伝
   →反米英雄としての地位を絶対的なものに
★この攻撃はタリバーンの態度を硬化させ、サウジの裏交渉も反古に。→1998/9サウジとの外交関係凍結
・アメリカの態度も硬化、以後執拗にオサマ=ビン=ラディンの引き渡しをもとめてゆく

8/22 米ユノカル社の天然ガスパイプライン計画中止
/9-10 クーデタ未遂?多数の旧共産政府系将校の逮捕
 ・オサマ=ビン=ラディンをめぐる強硬派(オマル師)と穏健派(ラバニ師)の意見のくいちがい?
10/25 オマル師、オサマのテロ活動関与の証拠の提出を求める布告
11/4 アメリカは大使館同時爆破事件の首謀者としてオサマを起訴、5万ドルの賞金をかける
11/20 タリバーン側は「十分な証拠が提出されなかった」としてオサマに無罪の判決
12 オサマ、アメリカのマスコミのインタビューに答え、「米国に対する聖戦」への断固たる姿勢を示す

●イラン
・タリバンの国連への正式承認要請はまったく無視される
・ハザラ人虐殺は国際社会からの非難を浴びる
・外交官の一件はイランを檄昂、20万もの軍隊をアフガン国境に配置
1998/9/22 「6+2」外相会議(アナン国連事務総長の呼びかけ)
(イラン、パキスタン、中国、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン + ロシア、アメリカ)では厳しい要求
   ・外交官殺人犯を裁判にかけるための調査
   ・ハザラ人虐殺についての調査
  ・(ミサイルを撃ちこんだ)アメリカはイランに自制を求める
・サウジアラビアが外交関係凍結を発表
1998/10-11 ブラフミ国連大使のシャトル外交、タリバーンの譲歩(イラン人捕虜の釈放)などによりイランとの開戦の危機は回避
・しかしイランとの国境は閉じられたまま
 →積極的にマスードを支援

●まとまらない和平プロセス
タリバーン 「オマル師をトップに仰ぐ首長国」への参加による形式的な連立
反タリバーン勢力 広範な勢力を代表する実質的な連合政権の樹立

1999から2000にかけてもいろんな和平交渉が行われたが、双方ゆずらず、実りなし
 ・何かの合意に達しても、戦いを再開して台無しにする
○ザヒルシャーのローマプロセス
 ・ロヤ・ジルガの呼びかけ 一部に歓迎、主要勢力は拒否反応
○キプロスプロセス
 ・王政復活を嫌うイラン主導の和平プロセス 嫌われ者のヘクマティヤルがいるのですすまず

●カシミールとオサマ
1999/2 アメリカのタルボット国務副長官、パキスタンを訪問
     ・その際、ミサイルもちらつかせながらオサマ引き渡しを要求した
1999/2/12 タリバーン、オサマ=ビン=ラディンが姿を消したと発表 <病気?>
1999/5 カシミールでは、パキスタン側のムジャヒディンなどが雪解けのころに停戦ラインを越えインド側要地を占領 (カルギル紛争)
  ・インド軍は反撃し、じわじわおしかえす
  ・ムジャヒディンら現地で戦う主力はアフガン国内のゲリラ訓練基地で訓練された原理主義勢力
  ・インドはマスード派の支援に乗り出す
 ・中国やアメリカの仲介
1999/7/4 パキスタンのシャリフ首相とクリントンの会談でムジャヒディン撤退に関する合意
  /7/5 ★アメリカ、タリバーンに対しオサマ支援で経済制裁 <実質的内容はないが意志表示>
  /7/8 タリバーン、オサマの保護を公式に認める
  /10/12 パキスタンでムシャラフ将軍によるクーデタ
   ・シャリフ政権の金権腐敗体質
   ・カシミール処理の仕方に不満
   ・国内情勢の悪化
  /10/15 国連安保理 オサマ国外退去を求めてタリバーン制裁決議
     ・タリバーンがイスラム原理主義勢力に基地をあたえ軍事訓練を施しているとして。
     ・アメリカはタリバーンとオサマを締め上げていくお墨付きをえた。
   →10/22 イランが国境を開ける
 (2000/4にはイラク人医師による腎臓病と肝臓病の治療でオサマは病から回復したという)

●タリバーンに対する反感
・1999年からはパキスタンの学生がそれほど集まらなくなった。
 →パキスタン兵やアラブアフガンで補充
  ・パキスタンISIや宗教政党の進出
  ・のちには基地を提供したテロ組織の連合軍「国際義勇軍」が三割以上をしめるように
・テロの対象になる
 1999/8 オマル師をねらった自動車爆弾
   /11 タリバーンの幹部をねらった自動車爆弾 一人死亡
   /12 カブールのタリバーン基地が襲撃される 20人死亡
 2000/2 カブール空港や政府関係施設に爆弾事件 4件
   /5 タリバーンの弾薬庫爆破事件
   /7-12 計10件の爆弾事件
・アリアナ=アフガン航空機ハイジャック
 ・2000/2 ハイジャックされた飛行機が客ごとイギリスに亡命
・脱獄
  2000/3/26 「ヘラートのライオン」イスマイル=ハンの脱獄→イランへ亡命
   ・タリバーン内部の手引き
・不正が横行し始めている?
・強制徴兵への反発
・治安の悪化 武装強盗の出現
しかし、1999から2000にかけてはマスードに対するタリバーンの軍事的優位は揺るがない
 ・2000/9にはタロカンを奪うが、例年のマスードの反攻でも奪い返されない。

●国連制裁の強化
2000/10/12 イエメンのアデン港で米軍イージス艦コールに対する自爆テロ
 ・17名死亡 39名負傷
 ・ゴムボートで近づいていったらしい。
  /11 オサマ=ビン=ラディン、関与を否定
2000/12/19 ★安保理で制裁強化決議案第1333号可決
 ・ロシアとアメリカ主導
 ・タリバーンがオサマ=ビン=ラディンの国外退去とテロリスト訓練キャンプの閉鎖を30日以内に履行しないと発効
 ・武器輸出や軍事支援、訓練の禁止 タリバーン高官の外国への移動禁止 在外事務所の閉鎖 資産凍結
 ・国連自体や一部諸国、NGOの反対 ←2000年はここ30年で最悪の干ばつ
タリバーン、パキスタンの反発
2000/12/31 ハザラ人勢力がバーミヤン州のヤウカランを占領
2001/1/7 タリバーン側がヤウカランを一時奪還
 ・「イスラム国際義勇軍」(パキ人、アラブ人)によるハザラ人虐殺 100人ほど?
2001/1/9 息子の結婚式のビデオにオサマ登場
2001/1/19 第1333号発効

●制裁への反発
一月末に異常寒波の到来
 →2/1までにヘラートの国内難民キャンプだけで504名死亡
2001/2/2 タリバーン内オサマについて強硬派と穏健派の衝突?
  /2/14 アメリカ、タリバーンのニューヨーク事務所を閉鎖させる
  /2/26 オマル師、すべての偶像の破壊令をだす
  /3/11 ★タリバーン、バーミヤンの大仏を破壊
   →世界中からの非難
    ・国際的孤立は決定的に
  /4 ダンス、音楽の禁止
  /4/16 穏健派ラバニ師パキスタンの病院で病死
  /5 カブール以外の国連事務所を閉鎖させる
    ヒンドゥー教徒は黄色の標識着用の義務
  /6 カブールの国連事務所をも閉鎖させる
    すべての外国人にタリバーンの規則を遵守する誓約書を提出するよう求める

  /7 女性の観光を禁止 カブール博物館のカニシカ王像も破壊
  /8 NGOの職員をキリスト教の宣教をしたとして拘束 インターネットを禁止
・強圧的な宗教警察
・2001年もひきつづき大干ばつ
・アラブ人のビジネスマンは活発に往来

●逆風
・マスード
2000中の出来事 マスードとドスタム将軍の協同戦線 イスマイル=ハンの脱獄
 しかしうまく機能せず、タロカン陥落につながる
2000/10 ロシアとイラン、強力な支援を約束
2001/4 マスードの訪欧 (欧州議会からの招待2000/6) 好感
  /4/10 タリバーンへ暫定政権樹立の呼びかけ
  /4下旬 タリバーンは春季大攻勢で返答
   →ドスタム将軍らが亡命先のトルコから戻ってきて戦端をひらく
  /6 イスマイル=ハンも亡命先のイランから戻ってきて戦いだす
・タリバーンは各地でゲリラ的襲撃をうけるようになる

・ザヒル=シャー
2001/4 ザヒル=シャーのローマプロセスとイランのキプロスプロセスの代表団が会談→交渉決裂
  /5 タリバーン内の元イスラム党ハリス派のユヌス=ハリスがローマプロセス支持を表明
  /6 アメリカ国務省の「アフガニスタン国内世論調査」結果発表
    ・ほぼ半数が「現状の問題を解決できる指導者」にザヒル=シャーを選ぶ
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●パキスタン
・密輸 アフガン国内の交通再開にともない、アフガン経由の密輸が増加
・タリバーン化 タリバーンの産地、北西辺境州などではパキスタン内でのタリバーン運動がはじまる

●上海協力機構(SCO)
 上海ファイブはもともと1996/4、中央アジアの分離独立運動が中国へ波及しない目的で設立
  ・ロシア連邦、中国、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン
 タリバーンの北上や、1999からの過激派の活動活発化にともない、中央アジアのイスラム過激派対策に目的がシフト
 →ロシアの影響力強化を嫌っていたウズベキスタンも★2001/7加盟、上海ファイブは上海協力機構に。
 中央アジア資源が注目されるにつれ、その利用についての調整機関の面も 
   →イランルートのパイプライン敷設をねらうイランが次に加盟のみこみ
ロシア、中国、イランの三大国のつながり
→アメリカの一極支配を制する動き
 
●アメリカ政府の世界戦略
・中東政策は失敗続き
 ・イスラエルを支持 →「テロ支援国家」として周辺諸国に圧力
 ・イランのシャーを支援しすぎてイスラム革命を将来
  →その後はイランを敵視しすぎて、現在イランでのビジネスチャンスをつかめない
 ・イランイラク戦争でもイラクを軍事大国に太らせてしまう
 ・湾岸戦争後もイラクに親米政権をつくれず、逆にフセイン体制を強化させてしまう
 ・サウジに米軍を常駐させたが、反米テロをひきおこす
→安定を米軍の軍事力で直接管理しなければならない不安定さ
  →「ダブルスタンダード」で「自国の利益しか考えない」という見方

・ソ連崩壊後の仮想敵国
  ・ならず者国家
   ・北朝鮮、シリア、イラク、イラン、リビア、キューバなどアメリカの言うことを聞かない中規模国家
    (この言葉はクリントン政権末期に破棄)
  ・中国敵視
   ・1996日米安保改訂 中国を仮想敵にしようとした
   ・1999ごろからは米国内で中国脅威論が台頭
・ミサイル防衛計画
  飛んでくるミサイルを撃ち落とすためのミサイル網をつくる「計画」
ニクソン政権のABM(ミサイル防衛網)→1972 米ロのABM削減協定
レーガン政権のSDI(戦略宇宙防衛構想)技術的に無理
クリントン政権のBMD(弾道ミサイル防衛)
NMD 長距離ミサイルから米本土を守る国土ミサイル防衛
TMD 中短距離ミサイルから海外駐留米軍と同盟軍を守る戦域ミサイル防衛
やっぱり技術が追いつかず、非難を浴び、配備決定はせず次政権に先送り

●独走小ブッシュ政権
まれに見る接戦で大統領になったブッシュ大統領だが、その就任当初から強硬路線鮮明
・「ならず者国家」の呼び名の復活
 ・北朝鮮敵視 金大中の太陽政策や、クリントン政権の宥和政策の成果を無視
 ・2001/2 イラクにミサイル 無意味になった制裁を継続
・2001/1 NMD構想の推進
 ・NMDとTMDをくみあわせた大構想 2005年配備をメド
 ・「ならず者国家」を念頭に置き、ロシアと中国を牽制
 ・逆に軍拡競争になるおそれ
 ・実現に異様に熱心 踏み絵?
・はっきりと中国を仮想敵国に
 ・2001/3 アメリカの世界戦略の転換(ソ連→中国)
 ・2001/4 米中軍用機衝突
 ・中国をパートナーと見なすクリントン政権の路線から一転
・日本・台湾重視
 →軍備をいくらか負担させる方針
・環境問題や死刑

もっとも、2001/7ごろから、ブッシュ政権内の強硬派(チェイニーなど)は冷遇される
(今回のテロ→アフガン戦争で返り咲き)

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●ソース
平凡社の百科事典、ブリタニカ百科事典、山川の各国史講座など
松井茂『国際紛争地図』新潮文庫 1998
カブールノート http://www.i-nexus.org/gazette/kabul/
田中宇の国際ニュース解説 http://tanakanews.com/
アフガン情報 http://village.infoweb.ne.jp/~fwkc3828/
Shのホームページ http://www4.justnet.ne.jp/~k-nsh/
Afghanistan Online http://www.afghan-web.com/
などを主に参考