2013/05/03 作成
2013/05/05 「1933年長城抗戦 喜峰口の大刀隊」 追加
2013/05/08 加筆

大刀向鬼子们的头上砍去

(大刀進行曲)

「大刀で鬼子の頭を叩き斬れ」--これも中国人にはおなじみだが、日本人にはあんまりおなじみでないフレーズである。1937年7月麦新(孫培元)によって作曲された大刀進行曲の冒頭だ。(一番下に楽譜とサンプルの音源あり)

大刀向鬼子们的头上砍去! 大刀で鬼子の頭を叩き斬れ!
全国武装的弟兄们! 全国の武装した兄弟たち!
抗战的一天来到了, 抗戦の日がついに来た、
抗战的一天来到了! 抗戦の日がついに来た!
前面有东北的义勇军, 前には東北の義勇軍、
后面有全国的老百姓, 後には全国の一般人、
咱们军民团结勇敢前进, われら軍民団結し勇敢に前進せよ、
看准那敌人, あの敵をしかと見よ!
把他消灭,把他消灭! 冲啊! あいつらを消しされ!消しされ! 突撃!
大刀向鬼子们的头上砍去! 杀! 大刀で鬼子の頭を叩き斬れ! ウォー!
 戦時歌謡らしい勇ましい曲であるが、中国では愛国教育の教材として今でもよくつかわれているため、このフレーズはよく目にはいる。博物館などではこの曲を楽譜つきで大きく展示していることが多い。抗日ドラマでは大刀はおなじみの武器だしそのものずばり「大刀向鬼子们的头上砍去」をタイトルにつかったものまである。「冲啊」は突撃シーンではおなじみで、日常生活でもときどき耳にすることがある。

 1937年7月に作曲されたことからわかるようにこの曲自体は盧溝橋事件の第二十九軍をうたったものであり、「第二十九軍の大刀隊に捧げる」とそえられていた。第二十九軍というのはその数年前の「長城抗戦」での大刀隊の活躍で一躍有名になった軍である。まぁそのときの大刀の切れ味よもう一度ということだろう。大刀隊の事については後でくわしく書く。「全国武装的弟兄们」はもともと「二十九军的兄弟们」、「咱们军民团结勇敢前进」は「咱们中国军队勇敢前进」であったらしい。その後、どっかの軍隊ではなく、軍と民共同で立ちむかおうというふうに書きかえられたのはもちろん中国共産党の都合である。

 この歌詞をみると、「抗战的一天来到了」と日本との戦争を待ち望んでいた様子がわかる。その後の展開は彼らの望んでいたようなものではなかったんだろう。


1933年長城抗戦 喜峰口の大刀隊

 第二十九軍の宋哲元を一躍有名にしたのが1933年「長城抗戦」での大刀隊である。
 長城抗戦というのは、満洲国成立(1932)後、地盤をとられた張学良が熱河省でがんばっていたが日本軍の熱河作戦(1933)の前に敗れる。その後の長城ラインでの防衛戦のことである。
 ちなみに熱河省というのはモンゴル高原の一部であり、東になだらかに降りていけば満洲の山地にぶつかり、南に向かうと断崖をくだって北京に直接でるという位置にある。その断崖に設置されているのがいわゆる万里の長城である。それからもわかるようにもともとモンゴル人の土地で、清のころには満洲人の皇帝の避暑地があった。それを中華民国成立後、内地化(漢化)させるためにまず1914年熱河特別地区を設置、1928年には熱河省を置いて本格的に支配しようとしたところである。とりあえずそのへんの是非は抜きにして、熱河省も1932年成立の満洲国の範囲にいれようと関東軍が勝手にやったのが熱河作戦であり、作戦目標としては長城のラインまでだった。
 張学良は「救国義勇軍」を組織して熱河省でがんばっていたのだが、熱河作戦の詳しい経緯は抜きにして、各地での激戦の末、張学良は敗北。参加していた他の軍も崩れてしまい、熱河と河北の境目であるモンゴル高原の縁の崖まで逃げるように撤退。長城で抵抗しようとした。
 当時の新聞記事の切り抜きをみていると中国側は日本が中国を侵略しにきて長城線を越え中国本土に入ってくるように書いていた。満洲国は建前としては清朝の復辟そのものだったし、その成立間も無いネオ清朝の立て役者である日本軍がどんどん攻めてくるのだから無理もない。しかもこの敗北で地盤も軍隊も全てを失なった張学良はまだ長城での抵抗がどうなるかもわからないのに辞職を申し出。もうダメダメなムードが漂っていた。かくして長城ラインでの抵抗が最大の関心事となっていたのだった。
 ←左は3月11日の記事だが、9日のこととして、猛攻してきた日本軍部隊に対し「我が軍の大刀隊が血肉あい打つ激戦を終日やり、敵勢をおおいにくじいた。双方に死傷あり。今も対峙中」と勇ましいことが書かれている。
 曲りなりにも銃砲で近代化された軍隊が刀を振りかざして戦うということはまぁ防衛線を破られたことを意味するわけだが、やはりイメージ的にはいかにもがんばって戦っているようでわかりやすい。なによりボロ負け一色になっていた戦いがいかにも食いとめられてこれで大勢挽回されるような気になってくる。というわけでそこから大刀隊のイメージが一人あるきする。
(記事画像の下につづく)

 3月15日になると敵将を討ちとったとか残敵も包囲中とか書かれるようになる。さらに夜襲をかけ数千を討ちとったらしい。最初四五千と報じられた敵兵が数千も死ねば、軍隊としては全滅も同然であろう。まぁその数字が正しければ、の話であるが。さらに大刀ひっさげ敵営襲撃みたいな記事がバンバン書かれることになる。3月9日の大刀隊についても五百健児などとまとめられている。
 ところが17日にはやや詳細な情報が入り出し、19日にはさらにトーンがかわり苦戦中などという記事がでる。

 中国の新聞記事としてはこうであるが、その第二十九軍に対峙した服部旅団の服部兵次郎が1934年に出した『戦跡を顧みて』によると3月9日の戦闘は喜峰口の第一関を占領したときのもので、旅団の先遣隊が単独攻撃しあっさり取ったものらしい。そのとき声だけ出して手投げ弾を浪費させたりする手が「日本軍によって」つかわれたそうだ。手投げ弾がなくなったころに敵陣へ突入、そのときには白兵戦があったそうで、大刀と銃剣の壮絶な戦いになったのかもしれない。といっても日本側の死者はわずか3名に対し、敵の死体は150ほど。おそらくこれが「血肉あい打つ激戦」のことなんだろう。その後旅団の主力が到着し、3月10日には下にある第二関も占領。3月11日には西部の高地にのこっていた敵も一小隊で壮絶な格闘戦の末占領。その深夜、3月12日の午前2時に中国軍3000程度が川を越えて長城の後ろにまわり夜襲をかけた。このとき砲兵の中隊が襲撃にあってこの被害が一番ひどく、中隊57人のうち戦死11負傷17を出したがその程度であったらしい。中国側は死体730を残していったらしい。おそらくこれが「敵将をうちとり数千を殲滅した」という夜襲のことであろう。
 しかも13日には攻勢に出ると敵は西へ移動してその後出現しなかったとある。

 この本は熱河作戦の翌年にでているので、中国の宣伝に対する反論の意味でだしたものかもしれない。時々数字が食い違うこともあるし詳しく数字があがっているときもあればないこともある。砲兵中隊が57人しかいないのは少すぎるようにおもうが、この本、書かなくてもいいような指揮上での迷いとか情報をどう集め処理したかなんて事や小さなエピソードまで詳しく書いてある。そもそも勝ち戦なのでそのときの兵士の目算でなく、整理した数が明記してある場合はそれほどゴマカシもないだろう。(アジ歴にこの戦闘での死亡者の名簿あり)
 この本によれば旅団の先遣隊は民間から集めたトラックで移動したが、そのごく普通のトラックを敵は装甲車だとおもいこんでいたそうだ。そのあたり華北の中国軍の情報収集力の程度が知れるし、中国における情報というものが噂程度のものだということもわかる。だから大刀隊のような故事が作られるのだろう。また、既にこのころ、日本の輜重部隊を襲うということがあったそうだ。部隊といっても荷物のラクダの列に数人警備がついているだけだが、それでも日本軍は撃退したらしい。この種の襲撃を数年後に大規模にやったのが中国共産党のいう平型関の戦いだとおもえばなかなか味わいぶかいエピソードだ。

 この熱河作戦のその後の経緯であるが、長城ラインでの戦いをこれ以上拡大させないためと、中国が善戦しているという宣伝を潰すため、日本軍はついに長城ラインを越えて抵抗を一掃することにし、北京近くまで進軍した。その結果結ばれた停戦協定が塘沽協定である。

 まぁ以上のような感じであるが、「大刀」と「長城」が日本に対する抵抗の象徴になったのはこれからである。中国共産党もその空気にのっかっているので、大いにそのイメージを活用しているし、今も脈々と受けつがれている。中国語の教科書には「長城」の話がよくのっているし、抗日ドラマでは大刀で日本軍を殺すのが普通である。
 ちなみに抗日ドラマでは八路軍側の手として日本軍相手に声だけで手投げ弾を浪費させる作戦がよくでてくる。実は日本軍がその手を使っていたことがおもしろいので特記した。
大刀向鬼子们的头上砍去 - Google画像検索


楽譜

最初は数字譜を入れようかとおもったが考えなおしてLilypondで五線譜にした。


ネットにころがっている数字譜だとテンポ100だがそれだと歌詞ににあわないのどかな曲になる。もっと速い方がいいかも
参照: 大刀进行曲 - YouTube


このページ、2012年中にはつくっていたが楽譜に凝りかけて(数字譜をテキストで入れるつもりだった。)途中で放りだしていた。
参考:
大刀进行曲_百度百科
《大刀进行曲》_互动百科
犬大将/抗日袋