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2018/06/25 月 東京

 昨夜パーキングチケットの場所で車中泊したら普通にできたので、味をしめて朝になって人が徘徊するようになってから朝風呂に行こうと上野方面に行った。非常に車内が汗臭い。秋葉原から末広町のあたりにパーキングチケットエリアが展開しているので夜あのへんで泊まれるかもしれないがしかし変な人も多そうだし警察のチェックももっと厳しくてよく寝れないかもしれない。
 結局神田江戸遊に行って休憩室で日記書いた。

 また国会図書館に来たが、ヒゲのおっさん(朝鮮系でよくある顔のうち熊系っぽい顔・体格)で北斗の拳を持参しててしょっちゅうそのへん徘徊してるやつが今日も来ていた。何かしらべものをしてるフリはしているがその実なにもせずうろうろしているだけである。こそ泥にしか見えない。なんでこいつと席が近くになるのか。

 佐藤錬太郎「李卓吾評『忠義水滸伝』について」東方学71、1986 をみたが、容與堂本の評のような観点は本来の李卓吾的な見方ではなく、むしろ百二十回本的ななんか硬い方が李卓吾的な見方と知って驚いた。


2018/06/24 日 東京

 昨日は新砂の300円の駐車場にとめてみたがやはりトイレが近くにまったくないのには困った。それ以外は問題なくしずかでよく寝れた。

 雨か。

 マクドナルドまで行って作業してから雨が上がりそうなのに地下鉄(東京メトロ)の24時間券を買ってしまった。で、都立中央図書館に行こうかとおもっていたが、池袋のジュンク堂にとりあえず行ってしまった。で江藤さんと連絡がついて午後にまたジュンク堂で合流したのだが、先週はなんか仕事辞めるのかどうのこうのというメールだったがそれは単にそのとき仕事がキツかったからなのか、そんな気配が全くなく、心配して損だったかという気がした。

 一日重いカバンを担いで歩きまわっていたので非常に疲れ、遠くまで行く気にならず、西葛西のパーキングチケットの場所で寝てみた。夜中に一回警察かなにかが近付いてきたときに目が覚めてしまったが、そのとき警察とか消防が出ていたので何かあったんだろう。22日の夜も銭湯から歩いて帰るときに駐車場でのボヤさわぎにあった。そんときはレンタカーのトラックの下から煙が出ていたということだった。あいかわらず変なのが徘徊しているようだ。


2018/06/23 土 東京

 2000-0800の最大料金300円という駐車場をイオン葛西の近くにみつけて寝ていたがどうもよく寝れないのでスマホで駐車場を検索していたところ、東砂の方に同様の条件でもっと規模の大きい駐車場があるのをみつけた。それからイオン東雲は2時間半まで無料なのだが、2000-0800の最大料金が500円でこれも地味にいい。これで車での短期滞在には十分な気がするが、こんなことになっているのは車の総量が減ってるということだろうか。

 あと都内に車を持ちこむ時の問題は田舎より車が殺気立ってるということだな。

 なんか猛烈に汗臭くなった気がするがたぶん野田で岩盤浴したからだな。岩盤浴で変な脂が出る→洗濯しない→腐敗とこういうコースだろう。まぁ着てたものと毛布を洗濯すればそこそこおさまるとはおもうが。問題は天気だ。来週頭くらいまで都内にいる要件があるのでたぶんそこまで居るがこの汗くささに自分が耐えれるか。というか洗濯しろというだけの話か。

 さらに水滸伝系の論文漁ってるがあぁうぅという感じだ。うーむ。まぁ昔よりも簡単に論文にアクセスできるようになったというのが大きいのか理解力不足だったのか。

 今ごろだが、笠井直美「李宗侗(玄伯)旧蔵『忠義水滸傳』」東洋文化研究所紀要131 1996 を読んだのだが、この論文でそれまで目が向けられていなかった不分巻系百回本の低評価の原因が中国の適当な排印本にあることが明確になり、ここから不分巻百回本の研究がすすんでる...はずだったが自分はそんなことちっとも知らず、80年代までの水滸伝研究の総纏めである高島さんの『水滸伝の世界』を金科玉条として『水滸伝人物事典』とか作ってたんだな。まあチンタラチンタラ8年もかけて作ってて高島さんも水滸伝研究からは遠ざかっていたからしかたないといえばしかたないのだが、うーむ。しかし旧態然とした学説をネットで垂れながしたままにしてる部分があるのでそこは早急に直さないといけない。

 激流さんと西葛西のカレー屋に行ったのだが、目当てのインド料理屋の分店に来てしまいちょっとアテがはずれた。どうも今回激流さんと行くところは両方とも間が悪かった。


2018/06/22 金 東京

 昨日停めた駐車場が12時間600円24時間700円だったのでとりあえずそこで寝てみたらまぁ特に通報されることもなく寝れた。

 ということで朝は特にすることもないので国会図書館に来てみたが着いたのが7時半と早すぎて駐車場の柵も開いてなかったので外で路駐して待機している。
 9時ちょうどまで待たされた。

 結局銭湯とか行かぬまま国会図書館に来てしまったが。まぁ今晩は銭湯に行こう。

 昨日おもったのだが、夜だけなら500円以下の駐車場はよくみかける。都内でそういうところをまわっていれば、15000円程度の安い家に住んでいるようなものではなかろうか。まぁ、そうするならekワゴンよりももうすこし居住性のいい車の方がいいが。

 とりあえず来週頭くらいまでは国会図書館のへんでうろうろしているつもりだが。できるのか。うーむ。洗濯の問題をどうするか。

 水滸伝関係の論文でめぼしい研究者で未読のものにざっと目を通した。まぁ10年前でも版本の系統のことはあんまり理解していなかったことがよくわかったが、これは実際に中文とかで訓練うけてないから仕方ないかもしれん。文簡本の系統についてもかなり曖昧な知識だったが、最近詳細な文簡本の研究してた氏岡真士の最初の文簡本研究が2004年で、それをみればまぁそれまでは本が揃った段階だったのでしかたないかもしれん。あと馬場とかいうやつの論文は読むだけでなんか腹が立つ。

 住民税の支払い期限が7月2日らしいのでそれまでに帰る。

 イオン葛西→近くの駐車場


2018/06/21 木 野田 → 東京

 もう木曜か。

 今朝も野田の河川敷で寝て、朝おきてから顔洗いに公園に行ったら公園にいたおっさんにパンクを指摘される。

 よくよくみるとネジがささっていた。調べたあげくとりあえず空気をいれてみたら問題なく入ったので、そのままマクドナルドまで来て日記を書いた。


 野田の河川敷から出るときいつも横を通る香取神社で気になっていたが今回パンクを気にしながらトロトロ走ったのでついでに写真とってきた。鳥居のかざりもさることながら石造物がズラリとならべてあっておもしろい。

 新宮でオイル交換したときお勧めされるままにメンテナンス会員になったがパンク修理はタダでできるらしいので早速使う時がきたようだ。

 久しぶりに梅田んとこまで来た。十条方面。
 うーむ。なにか臭うようなのでどっかで全部洗濯せねばなるまい。


2018/06/20 水 野田 雨

 昨日の朝洗濯しておけば一瞬で乾いたのにわざわざ夜洗濯して今朝雨をみる。
 いつも早めに目が覚める時の明るさよりも早めに目が覚めたのだが雨の予兆だったようだ。

 昨日キッコーマンの社史をみていい感じだったのでキッコーマンもの知りしょうゆ館の見物の予約をいれたら15時の組にまわされたのでとりあえず図書館に来た。

 野田・草加では醤油味の煎餅のことを塩煎餅というが、それは江戸時代初期にはあった米の煎餅が、中期には小麦粉製の甘い煎餅が一般的になり、米粉製の煎餅は区別のために「塩煎餅」と称することになったその名残だという。
 そして醤油を塗った煎餅の存在は明治には確実に存在することが確認されているが、いつからかはわかっていない。案外新しいものらしい。なので江戸中期の塩煎餅という名前は実態を反映したものだろうとおもわれる。関東の醤油が江戸市場で関西産を圧倒するようになったのは文政年間らしいので、文化文政年間までに香り高い濃口醤油が確立し、それが安価に手にはいるようになって、煎餅に塗ることへの応用がおこなわれたということだろうか。
 草加煎餅の起源は江戸末期、農家の余業として始まったということで上の話と合う。もっとも今も溜醤油で味付けする煎餅が存在するので濃口醤油の出現=醤油煎餅の誕生とは言い難い。大量生産でき安く普及するようになってからだろう。

 もともと葛飾はすべて下総

 キッコーマンのもの知りしょうゆ館に行ってきた。行ってわかったが自由見学コースとガイドツアーのコースがあり、自分のような人間には自由見学コースで十分だったということだ。

 まぁ通り一遍の見学をしてしょうゆもらって終了。最後の組だったのであまり時間もなくもう一回見てまわるのもできず。まめカフェというのがあってそこで各種醤油をくらべられるのだが普通の醤油がいちばんよかった。キッコーマン90周年のしょうゆがあったが、ちょっと古い感じがした。それが芳醇なのかもしれんが。昔ながらの一年仕込みの高い醤油もあって御用とか言ってるがやっぱりそれも香りが古いんじゃなかろうか。


2018/06/19 火 野田

 昨日寝た河川敷の公園は横にゴルフ場があって、ゴルフ場の開発の残りが公園になったようにもみえる。野営したところはその公園からさらに奥に行ったところで公園なのかなんなのかわからないところだった。たぶん公園内なんだとはおもうが。

 うーむ。国会図書館に通うか温泉地帯へ行くかなかなか迷っている。野田の辺りでウロウロするのも悪くないが。

 それ以前に市民税の請求が来たようだ。さてどれだけ請求が来たのか。見にいかないといけない。

 利根運河 - Wikipedia
 利根運河は木曽三川が各川の流れを分流する方向で治水を進め逆川も閉鎖しようとしていたのとは逆だなとおもっていたら、やはり連結したせいで洪水になったことがあったようだ。

 野田市の興風図書館に来た。
 丸井敬司『千葉氏と妙見信仰』岩田書院、2013 なる本があったので読んでみたがこの本おもしろい点もあるけど残念な所がある。それは関東に移住させられた渡来人がもたらしたと再三書くことだ。この本は論文の体裁をとっているので、書いていることについて理由・典拠をいちいち明らかにしないといけない。そのため無理にこじつけようとしていることが逆に浮き彫りになってくる。
 まず司命神としての北辰・妙見信仰なるものがあり、それが全国に広く信仰されていたと書くのはいいのだが、こと房総に関しては渡来人のものだと強調したがる。そしてそれが後の武神としての千葉氏の妙見信仰採用に影響を及ぼしたと書く。そう書くためには理由を挙げないといけないのでかなり無理な操作をしている。はっきり書くと論理が破綻している。よくこんな本が出せたもんだとおもったが、岩田書院について調べてみると一人出版社ということなので、まぁ出版してる本の内容をそこまできっちり検討しているわけではなさそうだ。
 普通に書いてあることをそのまま繋げれば、桓武天皇が権力による妙見信仰の利用の先駆けとなって御灯の儀式を作り、摂関期には尊星王法という修法の形に変化し、その後院政期に院権力が園城寺に妙見信仰の尊星王法の修法を独占的に行なわせていたが、承久の乱の後、鎌倉幕府の鶴岡八幡宮で尊星王法が行われるようになった。これは司命神としての土俗的な妙見信仰とはまったく別の系統の信仰になる。
 そして千葉氏が妙見信仰を取りいれるようになったのはお家の事情もあってその後と確定しているのだから、単純に幕府の妙見信仰をとりいれたとすればよいものを、とにかく渡来人の影響にしたいためにいろいろと屁理屈をこねたため論理の破綻に陥っているわけだ。
 他のところは案外まともなように見えるのにそこがおかしいのはどういうことか。 この人、1948年生まれの団塊の世代ど真ん中で、千葉市郷土博物館の館長やってたという人らしい。この世代は在日史観の直撃を受けているので、その傷跡だろうか。他のところは自分のおもいつきを押しつけようとするところがないのでおかしくみえないだけで、同じくらいおかしいのかもしれない。

 そういうと旭は顕正会の支部があったが野田には霊波之光の本部があった。

 コンプラ = Comprador(ポルトガル語) = 英語のBuyer(買い手)

 江戸後期に関東の醤油は関西の醤油を江戸市場からほぼ駆逐したが、逆に清酒は関西のものが主流になった。明治になると関西の清酒は蒸気船で運ばれるようになり、関東の清酒醸造家に大打撃を与え、廃業して醤油醸造に転ずるものがでてきた。野田の醤油はそれに対して技術の進歩で応じて優位を固めた。

 キッコーマンの亀甲は大国屋という業者が土浦の醤油につけた亀甲大のマークが流行ったのが元らしい。
国分のあゆみ|会社案内|国分グループ本社株式会社
 土浦城の別名が亀城だから亀甲というのがもともとの由来。

 野田争議という労働争議が昭和3年にあったが、これは実働8時間制を導入しようとしたから。野田醤油の工員の80%が請取という一種の請負制のような契約をしており、たいてい平均5時間で課された仕事を終え、帰ってから農業などやっていたので実働8時間だと副業ができなくなる。争議は長びき、結局工員がほぼ入れ替わって収束した。

 昭和5年の醤油の東京市場のシェア キッコーマン55% ヤマサ32% ヒゲタ13%

 キッコーマンの社史をみてたら戦争中くらいから窒素利用率の向上が至上命題とされたようでGHQにもそのことで材料配分をめぐって攻防があり、その余波でかその後も窒素利用率の向上ですさまじい技術革新があった。今口にしている醤油は昔のものとは別物なんだろう。


2018/06/18 月 埼玉(蓮田) → 關宿 → 野田 → 吉川 → 野田

 阿野さんとこを出たあと特にあてもなく、とりあえず江戸川の方へ行き、利根川まで行ったが河川敷に車で降りれるところがない。ただ利根川まで行くとかなり管理が雑になって土手沿いに未舗装道路があり、そこから途中まで登れるところがあってとりあえずそこにいって利根川をながめてから車に戻ると急に眠くなって寝てた。阿野さんとこでついつい睡眠時間削ってネットしてたからだろう。

 一眠りしたら便意に導かれるように元来た道を戻り関宿の町の中心部のスーパーまで戻って一息ついたあと、おちついてgoogle地図を見ていると図書館がある。旧關宿町役場で、図書館が2階3階に入っているということで行ってみたらパソコン使える机があった。wifiはない。ということで充電。
 関宿出身の著名人は将棋の関根名人らしい。ということで将棋関係の本がたくさんある。

 関宿城は湿地帯に盛土して近世城郭がつくられたと書いてある。円筒埴輪も出たということは古墳とか崩して盛土につかったんだろうな。
 江戸時代の牧には囲む土手がありそれを野馬土堤といったらしい。野馬から荒されるのを防ぐため田畑を囲ったのが野馬除土堤で、両方あるそうだ。

 蓮田春日部野田のあたりは車中泊生活もなんとかできそう。

 利根運河を見てきてついでに江戸川を渡って吉川の図書館まで来た。ここも月曜開いていて電源がつかえる。

 吉川のあたりって関東平野の中でもかなり後まで海だったようだ。

 「縄文時代晩期の終わり頃には、関東一円で竪穴住居はおろか遺跡そのものが激減してしまう。集落と呼べるような遺跡は皆無といっても差し支えない。生活の痕跡といえば、わずかな土器が見つかる程度で、定住の痕跡も見当たらず、およそムラとはいえないような場合がほとんどである。このような状況は弥生時代中期初め頃まで続いている。この間に人々がどこに住んでいたのか、現在のところ大きな謎であり、今後の研究課題である。」
 吉川市史 通史編I 平成26年12月

 なんか疲れてるな... 昨日の焼肉のせいかも

 疲れてるとおもったのでスーパー銭湯を探したら野田のスーパー銭湯が620円でかつ岩盤浴が290円とかいう謎の安さだったので行って散々汗をかいてきた。

 その後googleナビに従って河川敷の公園に行って寝る。静かでよい。


2018/06/17 日 埼玉

 さて埼玉まで来てしまったので品川まで行くのが億劫になって結局まだ品川まで行ってない。阿野さんとこ来るの一日ズラしたらよかった。

 結局阿野さんに焼肉おごってもらった。焼肉屋に14時から17時くらいまでいたな。

 こんなのみつけたぞ。
東京駐車 | TOP
 パーキングエリアをまとめてみやすくなっている。案外停めれる場所多いな。というか組み合わせたら葛西のあたりなんか一日置いておけるのでは? でも葛西のあたりにはりつくことになる。

 うーむ。どうしようか。都内に戻って国会図書館にはりつこうかとも思うが都内はやはり車で来るところではないし。
 うーむ。とりあえず温泉に行くかな。

 とはいいつつも国会図書館に行く案も捨てがたいのでとりあえずもう一泊させてもらって明日どうするか考える。

 予約のできる駐車場 - 軒先パーキング


2018/06/16 土 東京 → 埼玉

 昨日は葛西のイオンに行って飯などくったが眠くなってから暁埠頭公園に行ったらたくさん車が停まっていた。停めたのはいいが夜の12時くらいに音楽を垂れながしながら車が入ってきて隣に停めたので目がさめた。結局その車は朝までエンジンかけながら横に停まっていた。公園の入口の方はあいていたがこっちはトラックのエンジン音でうるさく、停めていたあたりは比較的静かだったのによりによって真横にそんなのが来て寝苦しかったが寝た。

 朝一に国会図書館に行ってみたら簡単に車停めれた。

 ここ10年くらいの水滸伝研究を追ってみてるがなかなか進歩するもんだな。
 どういうわけかわからんが水滸伝の日本における受容史の論文を日本に来てる中国の留学生が盛んに書いている。まぁ日本の大学院が留学生ばかりという状況を知ればそれも無理ないのかもしれん。

 あれ? 上海図書館の容与堂残本って2009年に上海図書館通ってたときに何も考えずにみつけて目通してるけど学界的にまともに研究されたのって2011年なのか。あれれ?
 まぁ上海図書館に行ってそれみつけて最初はこれが嘉靖残本かとあほなこと言ってたくらいだから何の値打ちもないな。

 まぁ今日もいっぱい本を出したので時間いっぱいまで論文をみてそれから葛西のイオンに行ってメシ食ってダラダラして暁埠頭公園に行くかもしれん。
 そういうと葛西のイオンが駐車場無料で、その原因は道が狭いからかもしれんと昨日おもったが、よくよく調べると葛西にイトーヨーカ堂系列のアリオという大型商業施設ができていて、そこも駐車場無料らしい。対抗上そうせざるをえないというところだろうか。いずれにしてもありがたいことだ。

 メモ
 森中美樹「維経堂蔵板『繡像紅楼夢』について」『汲古』第56号、汲古書院、平成21年12月

 国会図書館閉館後、杉林とメシくって、さらにその後、かなり久しぶりに阿野さんとこまで行ったらゲーム中で大変そうだった。


2018/06/15 金 市川 → 東京

 例によって朝早く目覚めてしまったので昨日の日記を書いた。

 東京に比較的近い無料駐車場のある大型商業施設
 イオン葛西店/東久留米店/むさし村山店/大宮西店/大宮店/与野店/北戸田店/川口店/春日部店/入間店/吉川美南店/大井店/柏店
 ララガーデン川口店
 アリオ葛西
 埼玉方面が案外多くて驚いた。神奈川・千葉方面は探すのが難しい。というかそれが普通か。埼玉が異常。

 国会図書館の駐車場に一回挑戦してみたいものだがやはり朝一でないと無理なんだろうか。

 とりあえず道の駅いちかわに来てちょっと地図など見てたら小一時間寝てしまった。うーむ。激流さんとこでフローリングに寝袋で寝るスタイルだと足が伸ばせても疲れが取れないか。

 なんか昨日いきなりマイクロソフトからInsiderDevとかいうイベントへの招待メールが来たのでためしに応募してみたが、そのイベントは17日日曜に品川である。ということでもうすこしこのへんでうろちょろすることになる。
 でも今日明日は雨なのでできることは限定的になる。東京でなにかするなら駐車場代くらいケチるなということか。

 道の駅で寝てた間に雨がはげしくなってこれで都内に入るのこわいな。

 国会図書館まで来てみたら東側の駐車場はいっぱいだったが、西側に入れた。雨の中歩くことになる。
 とりあえず週間少年チャンピオンで弱虫ペダルを眺めてから適当に閲覧。


2018/06/14 木 印旛沼 → 市川・八潮・西葛西

 印旛沼公園なかなか快眠できた。師戸城の跡を公園にしたようだ。対岸の臼井城と連携してたらしい。

 激流さんを拾って八潮へ。しかし行ってから知ったのだが今ちょうどラマダン中で、明日終わるかどうかというところで、パキスタン人いなかった。それくらいのこと知っておくべきだった。四街道のアフガン料理屋には結局行けてなかったのだが、行けなくて正解だったということだ。

 ダルをたのんだらパキスタンらしいギトギトのダルがでてきてなつかしかった。昼なのに客が二組しかなかったのもラマダン中だからということらしい。

 西葛西でインド産マンゴーが買えるということだったので見にいった。

 これがインド産マンゴーで非常にうまかった。ちなみに西葛西にはイオン葛西に車をとめて行った。そしてイオン葛西のイートインでマンゴーを食った。
 しかし八潮でもここでもインド産マンゴーの輸入ルートについて質問などしてわかったことだが、インドカレー屋の食材の輸入ルートは限られていて、大阪のサルタジなどから仕入れるらしい。インド→日本の輸送ルートの問題で卸が成立している感じだな。乱立するインドカレー屋の背景には卸が確立してるので日本どこでも材料が入手しやすくなっている面もあるんだろう。

 激流さんとこに泊めてもらったのだが、腹をくくって駐車場にカネ払うつもりで探すと、24時間700円上限というのをみつけた。市川くらいだとすこし離れた場所を探せば24時間で1000円以下の駐車場は珍しくないようだ。探せばあるということか。
 日記を書こうとしたらWindows が緑背景を出してしまい、一時間ほど待っていたがらちがあかないので強制終了させたらこんどはwindowsの更新が始まって放置。終わったころには最近の疲れと今日一日の疲れがでて日記を書く気力もなく寝袋の上で寝てしまった。

 激流さんに言われて気付いたのだが、このサイトのトップページが一週間ほど死んでたようだ。ファイルの権限の問題だった。


2018/06/13 水 旭・銚子 → 豊里 → 印旛沼

 このへんに噂に聞く顕正会の支部があるらしい。路地をくねくね走っている間に知らずに横を通っていた。

 明日どうしても駐車場を使うことになりそうなので検索してたらこんなのみつけた。便利そう。
駐車場の予約なら akippa (あきっぱ)

 今日はまっすぐ図書館に行くのもなんだなーと思い、銚子の方まで足を伸ばしてみた。
 途中に猿田神社があるので寄った。

 石段がおもしろいのは鉄道を越えているからで、明治30年と書いてある。どうも日露戦争に縁があるらしいがそれはともかく、この神社の門前にあった伊東商店というのが怪しい気配を放っていたので入ってみたらやたら酒に凝ったおっさんがいた。

 酒の原酒を売っているというのがウリでここが醸造してるような感じで話をするのだが、どうも醸造家に頼んで作ってもらっているという設定らしい。300年前とかなんとか言うんだが、酒自体凝りだしたのが1990年代っぽいなのでちょっと矛盾がある。たぶん『夏子の酒』をこのおっさんが読んでそれから酒に凝り出しただけでは...とおもったが口にはせず聞くだけだった。あとで調べたらあっている。とりあえずそこで一口きき酒みたいなことをしたがたしかにうまかった。火入れしてない生原酒を売っていると自信満々に言うので瓶詰めしてあるのは中には吹き出すものもあるのではというとあるらしい。まぁ家が近くなら買うのもおもしろそうだが今の状態で買えるわけないので賞味期限が来ている炒り豆を買って銚子までの間ボリボリ食った。

 銚子についたらとりあえず図書館に行って郷土資料室をみるとここはかなり整備されていてよい。日本図誌大系の千葉県が含まれている巻もあった。どうも銚子の地方紙っぽい新聞社がまとめた銚子市大事典というのがあったのでそれをちょっとみると新聞屋らしく中身の吟味はともかく要領よくまとめてあるのでそれでザッと銚子の歴史の要点をおさえてみた。銚子は利根川河口の形を酒の容れ物の銚子に例えたもので、他にも似たような地名はあるが、都市の名前になったのは銚子だけらしい。あと紀州人と縁が深く、桃山時代から江戸にかけて紀州の漁民が西の最新の漁法をもって房総半島に来て定着したらしい。銚子のあたりはその最後の処女地だったそうだ。最初は岬の南側の太平洋に面したところで発達したが、そのうち中心は河口の方に移ったとのこと。紀州人がもたらしたのは漁法だけではなく、醤油ももってきたということで「紀州で衰微した湯浅醤油の正統が本国銚子に集結した」みたいに書いている。こういうまとめ方が新聞屋らしい。
匝瑳南条荘 - Wikipedia
 あとこの荘園が熊野三山領だったようで明恵上人もここと縁があるらしい。

 あと銚子は飯岡観音の門前町として発達したらしいので行ってみた。

 門前町の商店街はもうシャッター街になってしまって見る影もない。飯岡観音もあんまり人が来てなかった。もう観音巡りをするような年寄は少なくなってしまったんだろう。行ったときはなんかテレビ屋がよくわからん踊りの撮影をしていて正直邪魔だったがまぁそんなのを堂々とできるほど人が来てないということなんだろう。こんなとこに明治初の水準原標石があった。最初に作った水準原標で日本の河川測量の原点ということだ。

 それから犬吠埼、最初に紀州人が築港した外川と見てきた。

 犬吠埼は手前に公園と駐車場があり、そこから歩いていく歩道や石段があったがその方が車も停めやすく景色もよい。犬吠埼の南側に東映かなんかの映画のオープニングシーンの波を撮影したところがあったようだが、そこを見物する歩道などが壊れていた。震災の津波で破壊されたんだろうか。
 外川について築港した人の碑がある神社に行ってみたら老人が草むしりしていたのでちょっと聞いたところ、外川の築港の要諦は石段と格子状の道だと教えてくれたのでそれを見ておいた。あとで外川駅に行ったら簡単な説明があった。

 あと外川駅はなかなか古風でよかった。

 まぁでもこういうのって要は鉄道発祥地のイギリスのスタイルが色濃く残っているということで、インドに行けばもっと源汁あふれる古い駅がみられるので、むしろインドの地方の古い駅に似てるなと思う程度。

 ドーバーと自称している崖を眺めて、遅いメシと休憩を兼ねてイオンモールに行ったらかなり夕方になってしまい、図書館まで来て日記を書いたという次第。

 明日は市川→八潮みたいなことをするのでなるべく疲れないように印旛沼あたりまで行って寝る所存。

 途中豊里にある黄金の里なるところに行ってきたがこれがなかなかよかった。また濃い食塩水だったし硫黄はこれっぽっちもなかったが。あと千葉県の温泉は総じて高いがここは680円と比較的安い。なぜか受付のおばちゃんが明日賞味期限だというところてん二個パックをくれた。よくわからんが寝る前に一つ食った。


2018/06/12 火 旭

 うーむ。ここまで来たきたからには四街道のアフガン料理のランチバイキングでも食いに行くたいところだが。
 ほぼ直線のルートで約50kmか。うーむ。

 海水浴場見てから県立東部図書館に来た。台風の後で波が高く海が濁っている。海水浴場だけに公衆便所に公衆水シャワーがついている。外で丸見えなので海水浴前提になるが夜来たら普通にシャワー浴びれるな。暑ければ問題ない。

 こうして旅行してみるとあまり浪費せず移動しまくらず車中泊で暮すとだいたい月6万くらい出ていくな。食費が大きい。次にガソリン代。文具類の出費は誤差の範囲内だ。インドなり中国なりに行くとして飛行機代いれても二ヶ月以上でインドなり中国なりの方が安くなってくる。
 東京で働いてたときは月20万入ってきて10万くらい出ていったのだから家賃などを引けばそんなに変わらない。まぁほぼ食費なのでそこをもっと工夫すればさらに圧縮はできそうだが、そんなとこに凝ってもしかたない。

 エアアジアにアムリトサル行きの便ができてる。

 千葉県立図書館、松戸に西部図書館があるが、ここも駐車はできるらしい。

 昼飯に焼肉食べ放題食って、満腹になったのでついでに椿海の北の縁のあたりを見にいった。

 高台に公園があって見渡せたが、この台地の縁まで湖だったようだ。

 旭市の図書館に行ってみたら郷土資料はちょっと微妙な感じだったが、市民会館に併設されていて、廊下に郷土資料館的な展示があった。その中に網戸城後の模型があった。

 ネットのブログなどで網戸城に言及する人はこういうものすら見ていないようだ。かなりわかりやすい。この模型の他にも地図に書きこんだものもあった。全体にここの展示は手製感にあふれるがなかなかよい。

 図書館に戻ってまたすこし椿海干拓について経緯をまともにメモしてみたが、江戸に近い場所ということで幕府中枢に直接アクセスして無理に干拓しようとしていろんなことが起こったようだ。言いだしっぺは資金が尽きて脱落。コネで強行した人は何度も運動して下流の農民の反対を押し切って排水路を開通させたが、突貫工事だったのでいろいろ配慮が足らず、排水の勢いを制御できずに下流で水害を起こしてしまう。排水のための工夫がなされてなんとか干拓でき、請け負った三者は三元締として君臨するが、代官の検見のとき、手代が痴情のもつれで刃傷沙汰を起こしてしまい、発狂したということで代官は内々に済ませようとするがそれで済ましたくなかった方が訴えでてしまい、訴訟合戦になり数々の不正が明るみに出て三元締は没収と年貢の追徴を受けた上に追放されてしまう。椿海がなくなったことによってその後の水のコントロールが難しくなり、昭和になっても塩害など起こしていた。
 最初椿海の干拓については最初話が持ちあがったとき、治水で有名な伊奈氏が検分して干拓不可という結論を出したらしい。それでこのザマだからなんとも言えないが、かといってそのとき干拓されなければ椿得が残っていたかというと、それもあやしくて、結局は大正昭和のころに干拓されていたとはおもう。

 八潮スタンに行くのは木曜に決した。


2018/06/11 月 旭

 ドボ博 | いつものまちが博物館になる
 こんなんみつけた。

 台風これなら午後には晴れるのでは。

 匝瑳(そうさ)って郡名から来てるのか。
下海上国造 - Wikipedia
上海上国造 - Wikipedia
 上海上国が東京湾側の市原のあたりにあり下海上国が銚子あたりの東端にあるのでその間にあるのは後から勢力が入りこんだのではないかという説。

 椿海というのが旭市のあたりにあるということだったが、
椿海の干拓
 ここにある椿新田の新18村をマッピングしてみたら傾斜線量図でみえる台地の端とだいたい一致したので海辺の砂丘と台地で区切られた内湖だったようだ。
 というか明治の地図をみたらかなりわかりやすい。今木曽義昌の水葬跡のあるあたりって本当に椿海だったところなんだろうか。明治の地図をみると砂丘列の間に池が残っているのもわかる。

 結局イオンの立体駐車場に避難していたが、本州東端地域だけあって夕方まで雨雲の中だった。晴れても雨でも車にはありがたい立体駐車場... 夜でも入れるとありがたいが犯罪の巣窟になりそうだ。


2018/06/10 日 習志野 → 八千代 → 旭

 谷津干潟の駐車場のゲートの前で寝てたが車の音が気になって目がさめ、google地図を眺めていると沿岸に茜浜緑地というのがあり、そのあたり日曜は駐停車禁止の範囲外になるらしいということで行ってみたらその通りだった。ここで明るくなるまで寝た。それなりに寝れたが昨日暑かったのに風呂にも入らず寝たので垢が浮いてる感じがあり、またパンツは一応三浦のスーパーで適当なの買ったもののまだはきかえてないのでキツかった。
 八千代にほっこり湯なるものがあり、朝の7時からあいてるというので行ってみることにした。道々どっか充電できるところはないかと探したがマクドナルド探していたらあったので行った。花見川店。神奈川県のあたりは車で行けるマクドナルドは充電できなかったのでようやく車社会に戻れたことを実感。

 それから神奈川県は和歌山並にガソリン高かったが、千葉側に来たら三重並に安かった。極端すぎる。

 八千代から旭市にある千葉県立東部図書館までgoogle地図のナビをつかったらよくわからない千葉の畑地帯を延々と走って結構早く着いた。昨日もナビを使えばいい感じに走れたかもしれないがどっちにしても暑かったので一緒かもしれない。
 千葉県立東部図書館、今まで見ていた小都市の図書館よりはそろってる。県立図書館の中でも「調査研究図書館」ということになっているからのようだ。といってたとえば「日本図誌大系」を探してみると西部と中央にしかなかったりするので調査研究も微妙なもんだ。
 県内に居住・通勤していないとカードは作れないらしい。そしてパソコンを使える机はカードで申し込みするので一時的に毎度申請することになる。それから2時間しかつかえない。うーむ。

 せっかく来たのに眠い。

 宮谷県

 旭市史は昭和45-55年にかけて作られたようだが学説が古い。

 結局眠すぎて深く読めないので一時間もせずに退散。本を浅く読んでも何も見につかない。とりあえず旭のイオンに行ってみたら高い立体駐車場があったので昼飯食ったあとは上層の方で寝てた。夕方まで寝れた。それから木曽義昌の水葬跡を見、飯岡の展望台に行き、そこから近かったので調子のイオンモールまで行った。千葉県のこのあたりは車中泊もしやすそうだし店もそれなりに揃ってるし便利そう。
 明日は台風らしいし図書館も休みだしまだ長距離移動の疲れが取れてないので一日中このあたりでブラブラして寝て暮すことにする。とりあえず本を読めるレベルまで回復せねば何をしているのかわからない。


2018/06/09 土 鎌倉 → 三浦市 → 横浜 → 川崎 → 習志野

 鎌倉のひらしょー邸を朝出たのはいいが、そこで大船とか出ればよかったものをついつい三浦半島のさきっちょまで行こうとしてしまった。
 三崎港までついたのはいいが、そこで警察のマヌケワナにはまり、一時停止違反で二点とられる。しかも7000円収めないといけない。つらい。

 しかも日差しがきつく適当な駐車場がないのでつらい。三浦半島を脱出するべく必死に北上したが適当な場所がみあたらず、延々と北上をつづけて暑さで頭がフラフラになったころ、横浜方面で第二環状線というのに入ってしばらくイオンがあったのでとびこんでみたら一時間420円無料時間なしというキツさ。これが南関東か。まず鎌倉から小田原あたりまで戻ってからその後どうするかゆっくり考えたらよかった。
 アクララインで千葉へ逃げれるか調べてみたらETCありで640円なしで2470円とすごい差なのでちょっとあきらめることにした。

 なんでこのイオンの駐車場が高いのかよくよく地図をみたら駅前だからか。ボケている。
 うーむ。ここからこの時間に北上せず神奈川西部方面に逃げて夜になってから東京を越えるというのも手か。
 いや。とりあえず川崎大師を目指そう。

 昨日ダイソーで買ったパンツが例によって例のごとく太股の細いものでやたらくいこむ。中国人基準のものだからか子供向けなのか。朝はいろいろキツかった。


 とりあえず川崎大師に夕方ついた。境内のことはたいして言うほどでもなく。仏教らしく偶像がいっぱいあった。ただ、夕方なのでトイレなども封鎖してあってちょっと不便だった。しかしすぐ横に公園があるのでなんとかなった。
 川崎大師のあたりは立体駐車場を備えた大型商業施設が複数あったのでしばらく休憩がてら大型商業施設を梯子した。しかし暑い。夕方になると立体駐車場が熱を持って逆に暑かった。

 川崎から大田区に行き、ベイブリッジ経由で千葉県に抜けたのだが、途中谷津干潟のあたりで疲れて駐車場に入ろうとしたが閉鎖していた。あー。そういえばそうだ。こういう駐車場閉鎖してないと変なのが夜たむろするからだ。このへんで夜潜りこめる公園探すのは難しそうだな。
 といいつつあてもなく移動するのは余計つらいのでそのゲートの前で寝た。


2018/06/08 金 富士宮 → 箱根 → 小田原 → 鎌倉

 うーむ。昨日は明星山公園の南にある岩本山公園に行ってみたが、ここは人が多すぎた。夜も2時すぎに目がさめてそれから寝れない。場所を変えてようやく寝れるかとおもいきや、警察が来て不審尋問。蚊をつれてきたのでよけい寝れなくなりそうこうしているうちに明るくなる。しょうがないのでまた明星山公園に行ってみたが、なんか足が気持ち悪くなり、足を洗いに降りてその次ついでに白尾山公園というのに行ってみたらここは駐車場の横に豪邸がありさらに朝から結構人の出入りがあって落ちつかない。で、パソコン出して日記書いてる。うーむむ。

 地図をみてたのだが、ここから関東に入らず山梨から長野へ抜けるとすぐ草津温泉だな。どうしようかな。箱根の温泉もそんなに入るところもない。うーむ。今日箱根に行って夜東京を抜け、とりあえず千葉の方に行くという手もある。

 箱根の郷土資料館って行ったような気がしたが、2011年に行ってた。しかも箱根湯本に行ったものの、共同浴場の町内と町外の料金の差に腹を立てて入っていなかった。


 箱根行ってとりあえず芦之湯温泉に行ったが雲が降りてきてあたりが白くなったのでそれ以上箱根に居るのはやめて小田原に降りたのが夕方。
 そこからひらしょーに数年ぶりに連絡とってみたら行ってもいいといことで行ったら泊めてくれた。第一子は小二になってかなりしっかりしていた。幼児のころの状態なんて何のあてにもならんな。


2018/06/07 木 富士宮


 昨日は星陵高校の奥にある公園で寝たがなかなか静かで久しぶりによく寝れた。はずだったが今日も図書館に行って富士宮市史を見たがどうもあんまり集中できず昼で退散し、富士山本宮浅間神社に行く。

 うーむ。静岡の方は趣味がよかったが、こっちはベンガラがベタベタ塗ってあって微妙だな。その後図書館の横の文化会館の中にはいっている郷土資料館に行ってみたが、この浅間造、室町時代にはなかったようだ。
 それから昨日いろいろ見ていたときには村上浅間神社というのが散見したが、これは修験者の拠点だったようだ。ということで頂上にあった大日堂に対応する大日堂が村上にもあったようだ。富士川より西は村上との縁が深く、関東は吉田との縁が深いらしい。今の富士登山道はグネグネ曲がっているが、地図などみていると昔は一直線だったようだ。

 あと昼飯をマックスバリューで済ませてから浅間神社の山宮を見にいった。こっちも特に言うほどのことでもなく。うーむ。ということでその後マクドナルドに来てコーヒーすするながら適当に日記を書いている。
 以下は図書館でメモしたこと数条。

 そういうと富士山も世界遺産に指定されててこっちにも県立の世界遺産センターがあるがなぜか駐車場が有料だった。よくわからん。

 富士宮市、銭湯類がまったくないので長居は無理だ..
 まったくないわけではないのか。

 富士通のバッテリ充電制御ユーティリティとやらがバッテリが消耗してると起動時にポップアップを出してくるようになったのだが、過度に充電放電しないよう大切に使ってるのでそんなに減っていないのになぜ出てくるのか。とおもって説明をよく読んでみると、実際に消耗した場合以外に、サイクルが300回を越えたときにも警告を出すと書いてある。なんつーお節介なことを.... しかも勝手に満充電量を65%に制限してきやがる。なんつーことを... まぁ大事に大事に使われたら富士通もカネをむしれないからバッテリを人質にカネを払えと脅してきたということか。


2018/06/06 水 静岡 → 富士宮

 昨日の夜は23時すぎまでコメダ珈琲にいたあと寝場所を探しにいって適当に入ってみたイオンの駐車場で夜中の2時ぐらいに警備員に起こされ、しょうがないので三保の松原行ってみたが予想以上に民家の中で落ちつかず、明るくなったらすぐ出たが昨日コーヒーなんかのんだせいかトイレが近く、眠いのとトイレが近いのとで面倒だったがとりあえず富士宮まで行った。
 しかし雨の中富士浅間神社まで行ったが雨なので出る気にならず、開いたイオンに行ってちょっと食糧を補給して図書館に行くことを思いつく。

 富士宮市の図書館は電源も机もつかえるいいところで、郷土資料もたくさんあってよかったが、問題は眠くて本を読んでも頭に入らない。しかたないので適当に切りあげてどっか寝場所を探しに行った。しかしいちいち探しにいかなくてもいまからおもうとイオンの屋上でよかったな。

 うーむ。今日は無駄に時間をつぶしてしまった。富士宮の図書館は使えるということがわかったのが収穫か。あと明日東京に行くのはやめた。これで都心部に行かなくてすむかな。といいつつも駐車しづらいというだけなので通り抜けるくらいはするかもしれない。

 そもそも箱根の山を越えるのはいつになるだろう。

 富士浅間神社も調べたがまぁ雨降ってるから見にいくもくそもない。富士山上の奥宮はずっと大日堂で明治の廃仏毀釈で富士浅間神社が手にいれて奥宮にしたとか。八合目から上の土地は富士浅間神社のものらしい。山宮なるものがあるが、奥宮も山宮も発掘調査はしたものの、あんまりおもしろい結果も出ていなかったがとにかく眠くて読んでも頭に入らなかったので何をしてもしかたない。今日は素直に寝ておけばよかった。よい寝場所を得られないとこういうことになる。この調子で東京なんかに行ってたら事故でもおこしてるところだった。

 はっ! ひょっとして梅雨入り?


2018/06/05 火 金谷の山の中 → 寸又峡温泉 → 静岡

 昨日は結局適当な車中泊地点をみつけられないまま金谷から山の中に入っていき、途中旧道がのこってるところに入りこんで寝たがかなり気持よく寝れた。

 朝おきたらこんな感じのところだった。

 で、もう朝の5時前から出発して途中道の駅で休憩しつつ寸又峡めがけて山をのぼっていったのだが、着いても早すぎて町営の露天風呂があいてない。

 ただボイラーがまわってるのをみて、まぁそういう温泉なんだなということでそのへんふらふら歩いていると、どうも温泉街の旅館で日帰り温泉提供しているところは朝でも入れるらしい。ということで適当に一軒選んで入った。ぬるぬるの温泉だったが、温度もぬるかった。まぁ長時間入るにはちょうどいいかもしれないが朝ちょっと入っただけなので微妙だった。ただまぁ美人の湯というだけのことはあるな。

 このあたり崩壊しやすい地形らしく写真のように崩れているところをよく見掛けた。これ道つくってもすぐ崩壊するんだろうな。河原の広さなんかも熊野川を彷彿とさせたが、このあたり地図から予想したほどには道が狭くなかった。ただこれだけ入りやすいと狭い道に慣れないドライバーがたくさん入ってくるんだろうとはおもった。早朝に来て朝のうちに降りたのは正解だった。
 地図でみてると大井川鉄道の千頭とかすごい山奥なんだろうとおもっていたが、すごい山道になったのは鉄道沿線から離れる奥泉のあたりからだった。千頭まではまだ行きやすかった。

 そこから梅ヶ島温泉に行こうかとおもったがガソリンが1/4程度だったので静岡まで降りる。
 途中よくわからないオクシズの駅とかいうので蕎麦を食ったがなかなかうまかった。ただ冷たいのを選んだので、温蕎麦をそのまま冷したのが出てきたのでつゆの味がしなかった。口の中に入ってあたたまるとうまい味がする。温そばにしておけばよかった。


 静岡浅間神社。富士山浅間神社から勧請して作ったたのでここを新宮と言ってたらしい。うーむ。全然意識してなかった。ついでなので「本宮」も行くか。
 境内に静岡市の文化財資料館があったので行ったのだが、この神社のある山を賤機(しずはた)山といい、静岡の「しず」の由来らしい。この見晴らしのよい山に古墳があり上の方が古いのだとか。資料館の展示では神仏混淆のころの図面とかも示してあり、そのころの寺の施設があるところが今どうなっているのかもよくわかるようになっていた。

 午後は日差しもキツく熱かったのでアピタの立体駐車場で涼んでいたが朝早かったので結局寝ていた。夜になって柴田と合流して飯をおごってもらった。ハンバーグ食ったのだが結局その後スマホなどの充電のためにコメダ珈琲に来て日記を書いている。

 梅ヶ島温泉に行くつもりだったが、富士宮の本宮→箱根温泉でもいいかなという気になってきた。そんでとりあえず東京に行くか。しかし7日の夜新宿に行くとなると車をどう始末するかだな...

 千葉県立東部図書館とか設備が充実してるわりに空いてそう。


2018/06/04 月 伊勢市 → 鈴鹿 → 浜松 → 掛川 → 金谷の山の中

 大仏山公園で朝起きてから地図をながめてとりあえず出発。もうすこし早く出てもよかったか。ということで鈴鹿のマクドナルド23号岸岡店にひさしぶりに来た。このへん一日くらいのすごいスピードで通り抜けていったが案外覚えているものだ。
 これから伊勢湾の反対側に向う予定。図書館の休館日だから....

 暑い。この暑い中浜松まで来たのでフラフラになって浜松の臨海公園でちょっと気を失っていた。ようやく日が傾いてきた。
 絵本を読んでるような感じで「ここに暗ーい暗ーい森があります。」などと子供に語りかけつつ犬を引いてる人がいてすごい親だなとおもっていたら、どうも親ではないよな口ぶり。なんだろうプロの子守か家政婦か?
 しかし足裏消毒したおかげか窓あけて公園で寝てたのにそんなに蚊にかまれていない。頭かゆいところがあるのでそこがかまれた可能性があるくらいか。今も日が沈んできているのに全然蚊がこない。

 おそらく週末には関東のあたりにいるはず

 時間制限駐車区間 案内地図 警視庁
 これだな....

 しかし都内は面倒くさいから近寄らないのが正解か。

 寸又峡温泉の町営露天風呂 400円 9:30-17:30

 前、激流さんに八潮スタンへパキスタンカレーを食いに行こうと話をもちかけたら6月になったら外環が開通するので市川から八潮まで行きやすくなりますという話だったが本当に6月まで車でブラブラしているとはおもっていなかった。

 掛川のマクドナルドまで来た。今日は暑さでバテたので下界で充電して寝る。明日の朝飯のにんじんはもう確保した。

 しかし今日23号の道の駅にしおの近くでちょっとスピード出してたらピカッと何か光った感じがした。ひょっとしたらスピード違反取られてるかもしれん。その場合40km制限区間だったようにおもうので一発免停だな...
 だいたい55km巡航を心掛けていてもこういう高架の高速道路のような道を走るとそんなことをしてしまいそんな目にあう。
 まぁ今のところはオービスが光ったわけでないことを祈ろう。

 静岡県地理情報システム
 静岡だけの旧版地形図が閲覧できる。各図の図歴の一番古いので構成しているらしい。山の方は戦後の地図でちょっと値打ちがおちる。


2018/06/03 日 伊勢市

 昨晩も大仏山公園で寝たが、図書館に置いてある手用の消毒用アルコール噴霧器を足とサンダルにぶっかけておいたら、寄って来る蚊が減った。京都の高校生が発見した方法はかなり有効なようだ。
 消毒用アルコール、実験のために買おうとして探してみたらちょっと高かったのでそのときは見送ったのだがよくよく考えてみれば図書館にはよく置いてあるのでこれから積極的に足にかけてみる

 今朝ごく自然にカーブの手前で減速しようとしてブレーキとアクセル踏みまちがえて戦慄した。これははじめてだ。

 関東までジワジワ行こうかとおもったが、一気に白根山周辺まで行って滞在できるところを探してみるのもわるくないな。

 月岡温泉 - Wikipedia
 硫黄泉として優秀らしいがちょっと宣伝がキツいか。

 【厳選】おすすめの東京都の車中泊スポット
 東京周辺の車中泊スポット一覧 - 全国車中泊マップ
 都内でもなくはないのか..

 昼飯食いに行ったついでに本屋をさがして技評のHTML5&CSS3のリファレンス買ってきた。いまさら? いまさら。
 とおもったら見返しにHTML5開発ポケットリファレンスというのがのっていた。こっちだ欲しかったのは...まぁそれなりの都市に行けば手にはいるだろ。

 とにかく新宮で調べたことは全部吐きだすことにして必死に書いてるがなかなか。

 図書館追わったので今度はコメダ珈琲に来た。カネがかかるな。
 明日また図書館休みだが、関東方面に行くという案の他にまた南下して田辺まで行くという手もあるな。

 まぁ鳥取方面は去年散々行ったのにあんまり観光できていないのでまた行くという手もある。


2018/06/02 土 伊勢市

 昨夜も大仏山公園で寝たが、夜中に横に車がきてうるさかったので場所を移動した。朝にはいなかった。何だったのか。

 にんじんを朝飯にしたのは正解だった。昨日買っておいたので公園の駐車場で食べれる。

 昨日はやたら眠かったが、なぜか東京方面からの連絡がきて眠さで対応がなかなかつらかった。そのわりに夜中に目がさめているのはなぜか。

 静岡の山奥にある寸又峡温泉と梅ヶ島温泉、車だと行きやすいな。
 しかし関東の東京周辺はやっぱり車が邪魔になる。うーむ。

 午後インドカレー食べ放題に行ったら本当に腹いっぱいになり大仏山公園で昼寝した。一時間半ほどして気がついたら横にエンジンかけっぱなしの軽がとまっていて、頭だけみえる。どうも二人してあやしいことしてるようだったのでこんな白昼堂々と人が寝てる横でやるなよなとおもいつつ時間も時間だったので図書館に戻った。


2018/06/01 金 伊勢市

 昨日は大仏山公園で寝た。雨で蒸したが朝には上がってよい天気だった。

 むむむ

 織田作之助みたいなメアドから熊野記事おもろいというメールが来た。今ごろ来てもな。

 さてまたエロシーンのないエロ小説でも書くか。以下はフィクションである。
############ エロ小説ここから ############
 S市の図書館には郷土資料室があり、地域の特殊な資料の宝庫となっているのだが、その資料室の閲覧方法は特殊で、図書館員の作業スペースの壁際にある机で閲覧することとなっている。机二つで三人ほどしか座れない。座ってみてわかったがそんなにたくさん閲覧者が来るわけではないのでそれでもいいんだろう。
 この郷土資料室に一ヶ月ほど通っていた。なぜ通っていたかというと妙な色気を振りまく図書館員がいたからだ。その妙な色気に心を奪われ、最初一日、また数カ所まわってもう一日、その後西海岸のT市まで行ったあとまた東海岸のS市まで来てそれからずっと通っていた。自分もなんかエロいことができるのではないかと勘違いしていたことだけは書いておこう。しかしそんなにしつこく通って開館から閉館までずーっと本を読んで何もせずにサッと帰ってくるような鈍感不器用な男に何かできるわけがない。いや、鈍感不器用ならいいのだが敏感不器用だからそれが悩みの種になるのだ。
 さらに通いだしてすぐ椅子に必死に座ったせいか、前立腺がおかしくなり、チンコが萎縮しだした。そんな体験ははじめてで非常に焦った。結局それは座り方を改善することで萎縮は止まったが、それでも鈍痛は残った。おそらく自転車の乗りすぎでおかしくなるのとおなじメカニズムだろう。チンコの盛衰が前立腺の匙加減一つできまるというのはなかなか新鮮な体験だった。このおかげで性欲も減退し、なにか事件をおこさずに済んだことは天の采配かもしれない。
 妙な色気の主であるが、体格容姿的に色気があふれているわけではない。むしろ体格的には控えめで、ちびまる子ちゃんやコケシを彷彿とさせる雰囲気があったが、なぜか元気そうな男が来ると、謎の色気を放出させるのだった。年齢は自分とほぼ同学年の40代半ば。既婚者だから男を知っているだけの色気は出てもおかしくないが、普通こんなところで無秩序に出さないはずだ。おそらくだれかこの職場で触っている人がいてそれで女として開発されてしまいこの職場にいるだけで半興奮状態なのではないかと考えたが、この職場は女だらけでその図書館員Mが現場の長である。ときどき館長Fがくるがもう白髪のいいジイさんだ。
 郷土資料室の机は作業スペースの横にあるので座って本を眺めているだけで、図書館員が交わしている情報が入ってくる。だいたいの人物関係はそれで見えてくるものだ。職員としてえらいのはMとTのようで、Tは若くてしっかりしている。ま、そっちはダラダラ書いていってもしかたない。座っているうち最初の一週間は結構閲覧者が来た。その中になんか変なのがまじっていた。おもしろいので書いておこう。元図書館員のY。最初は週に二回来てMちゃんMちゃんと言っていたがそれから来なくなった。よくわからんおっさん1。電車の痴漢の動向の観察が趣味の一つである自分にとって、このおっさん1はおもしろかった。座っているMに向かって股間に腕をやって膨らみを強調させたりしてる。うーむ? それからこちらの様子をしきりに伺う。見られてないか気になるのか。自分は人より目が広めについているので本を読んでいても見える。こっちがあんまり熱心に読んでるのでそのおっさんはあきらめてMに挨拶して帰っていったのだが、そのときなにか言いたそうだったが人がいるので言わずに帰るというような妙なことを言って去っていった。Mから先生とよばれるような人であった。
 次におっさん2。近所に住んでると言い、どうもよく知って来ているような感じがあるのにはじめて来ているようなふりをする。そして文物の雑誌をとってきてこれは持ってるとか持ってないとか言いながらこれを一冊まるごとコピーしろとか次またくるとか混乱したことを言う。例のごとく熱心に本を読んでいるとおっさん2は必死にページをめくっていたがそのうち鼻をすすりだした。どうも自分がいつづけているので思い通りにならないために鼻水が出ているようである。たまにそういう人はいる。さておっさん2がMにコピーをさせてる最中にトイレに行って帰ると、おっさん2がMの横にいた。Mはいきなりコピーの手をとめてトイレに行っていた。ふーん。
 あと通常の閲覧者以外でいうともうひとり精薄のようなあうあう言う青年が来ていた。あうあう言うだけでどうも中身は普通のようだったが、これもなんかMとの間に変な空気を持っていた。自分も言語不明瞭なので人からみるとあうあう言う青年のようなものかもしれない。
 なにか黙契を持っているような人が来てあやしいふるまいをみせるので最初はMが弱味を握られ、ある集団のおもちゃにされているのではないかと疑った。S市といえば同和の町で、この図書館は同和地区のなかにある。隣保館も近くだ。あるいはそういう人たちにハメられて共有のおもちゃになっているという可能性も考えた。もしくはM自身がそういうところの出身で陋習を共有しているのか。しかし単に変態さんであったのかもしれずそのへんは今でもよくわかっていない。
 ところで自分は結局何もできないままずるずると通ううちに、資料をたくさん読み知識が増えてくるとそれが重力となりますます調べる方に偏ってきた。またそれと同時に性欲の減退とチンコの萎縮も加わって、ちょっと心理的に異常になりかけたこともあったが、その状態が簡単に治らないものであるようだと悟るとこれは天罰であるとおもい何もできないまま図書館員と会話などするようこころがけた。しかしそこでちょっとなれなれしくしすぎたせいか、Tの疑心を生む結果となり、もしくはMとTはすでに自分が無差別に襲ってくるのではないかという結論に達していたのか、厳しく監視されるようになった。さらには作業室にMと自分のふたりだけにして、Tが別室で潜んで様子を伺うということまでしだした。それで何かするなら最初の一週間のうちにしてるだろとおもったのだが、同時にそれだけ信用されてないとわかると、自分も面倒くさくなってきて神経質になってきている女性陣には顔を見ず口を聞かないようにした。だいたいM以外に無駄口叩いていないのにどうして君たちが緊張するのか。まぁ調べ物は好きなので変に下心ない方が調べ物は進むのだ。
 詳しくは書かないが女性は本音と建前がなかなか激しくズレているものだな、あるいは建前が何重もあるんだなと今回のことで勉強したのだが、それは置いといていきなり終局に向かうと、Mを誰が開発したのかということがわかるときがきた。さてもうかなり長期いたのでその図書館の3階にあるN資料収集室というのを管理してるおばちゃんに見せてもらった。そのとき図書館に詰めている人数がすくないようにみえたが、実は館長Fもどっかに潜んでいたようだ。小一時間ほど説明をうけたり資料をみせてもらったりしてから下に降りると、最初この図書館に来たころによく漂っていたやらしいにおいがひさしぶりに3階から2階にかけて濃厚にただよっていた。郷土資料室の閲覧用机にはパッと見青年のような人が座っていた。書庫の中に行くとMが本を探していて、やらしいにおいがここでもする。Mが青年を見て発情したのが3階まで漂ってきたのか? (にしては濃いが) と最初はおもってまぁ書庫にひっこんでるかとおもったが、そのパっと見青年に見えたのは若い女性だった。あれ?
 まぁどうでもいいやとおもって本でも見てしばらくたつと、館長Fが奥の方から寝てたとか気分よくなったとか言って白々しく出てきた。この館長Fはベラベラしゃべらないとすまないタチで、最初は週数回の勤務ということであまり頻繁には来てなかったが、そのうちよく来るようになり、午前中とか午後とかずっといるようになった。まぁへんなハゲのおっさんを見はるには男が必要だということなんだろう。館長FがしゃべりまくるおかげでどうでもいいS市の知識を得たが、その情報からわかっていたことは、校長もやってること、その昔高校の教師だったこと、Mは生徒だったこと、Mは父親を早くになくしたかなにかでいないということだった。
 なるほどそれでこうならだいたい辻褄があう。父がいなかったMが当時教師だったMを父がわりに慕ってた可能性はある。調べてみると館長Fは今年で75歳で30くらい違うからちょうど父的な年齢だ。Mがおっさんを好む傾向があってもおかしくないし、館長Fも今はなんかどうしようもない老人にみえるが、若いころの写真をみるとなかなかの好男子だ。館長Fはこの15年間館長をしているが、Mは約20年図書館に務めている。さてその前から関係があったのか図書館で関係ができたのか。いつからの関係かはわからないが、館長Fが75にもなってまだまだ館長をやめないのもその関係から抜け出せれないからなのかMを管理職にするまでは目を離せないというところなのか。
 そうなるとなんか変な閲覧者の件を解決できないが、まぁそれ以上つっこんでもしかたない。あるいは変な閲覧者が来るきっかけになるような事件があり、それを館長Fが最後収集してこういう形になったのかもしれないが、経緯については知りようがないのでどうでもよい。それにここに書いてないがなんか変な関係にみえる人もいた。父なし子だと後ろ盾が必要になるような土地なのかもしれない。なんか最初やらしいにおいをプンプンさせていたのも館長Fが適度にいじっていたからなんだろう。変な色気をふりまいていたのもその余波だろうか。とはいえ滅多に来ない若い男が来ると言葉つきまで慣れ慣れしくなるくらいなのでそれだけでもないんだろう。S市はいろいろだらしないようでそのへんはよくわからない。とりあえず、そういうことでなるほどと得心したということだ。謎が解決して満足した自分は翌日も来てのこり必要なことを調べてからS市を後にした。
############ エロ小説ここまで ############


2018/05/31 木 南伊勢町 → 伊勢市

 河村瑞軒の出身地ということで南伊勢町の東宮に郷土資料館があるのだが、開くのが午後かららしい。伊勢まで行くのもすぐだがなんだかなということで町内でぐるぐるまわる。

 浮島があった。

 今日各所で聞いた話によると、昔は風に吹かれて右に左に移動していたらしい。ただしここは新宮のように熱心に研究する人はいないのか、数千年前に山の上の土が落ちてきたとかいう謎の理屈で成因を説明している。まぁしかたないか。しかし新宮よりは浮島っぽくなっている。

 南伊勢町東宮資料保存館
 中に入ってみたら河村瑞軒関係が半分、のこりが旧南島町関係。河村瑞軒は13歳で江戸に出て、いろいろな事業をしたあげく最後は旗本になったということで、資料はほとんど残っていない。北畠に仕えた武士の家系だということを知った。

 ということで今日もあまり成果のないまま伊勢市の図書館まで来て電源+ネットにありつく。

 そういうと某文化財保存課がどうなったのか気になって調べたら、課長は定年退職後再就職で主幹になり愛人の課長補佐は独身のままで課長になったようだwww


2018/05/30 水 新宮 → 瀞 → 紀北町 → 南伊勢町

 昨日は宇久井半島で寝たが、夜寝苦しくあまり寝れなかった。そのままマクドナルドに来てこれから先どうするか地図を眺め中。

 中上健次の小説も岬とか枯木灘とか読んだけどそんなにおもしろいもんでもなかった。たぶん小説自体あんまり好きでないんだろう。あと調べものしてすこしわかったくらい。雨降ってたので飯食いにいくにも車で行かねばならない。ならもうこのへんで切りあげて瀞ホテルに行ってみようかとおもって行ってみたが、瀞まで行って雨のなかわざわざ行ってみたら今日は営業終了してた。雨だしな...
 そこからどうするか考えたが田辺の方に行くのと伊勢の方に行くのと二つ考えられる。うーん。ということで伊勢に行くことにした。
 海山の道の駅で17時くらいになったので日記でも書いてる。うーむ。

 大内山のJAのガソリンスタンドで満タンにしてから南伊勢町の展望台で寝る。


2018/05/29 火 新宮

 洗濯して干しておいたらズボンから納豆的発酵臭がするようになった。それもポケットのあたりから。うーむ。おかしい。たぶんハンガーのせいだとおもう。

 今日はこの図書館の謎がひとつ解けた。それはそれとして、中上健次資料収集室に初めて案内してもらったら特に展示があるというわけでもなく本当に資料収集室でちょっと昔の写真をみれたくらいだった。
 中上健次の小説ちょっと読んでみたが何がおもしろいのかよくわからん。じゃりんこチエの大人版みたいなもんにしかみえない。まぁとりあえずメジャーなのは全部目を通してみるかな。


2018/05/28 月 熊野市 → 下北山村 → 北山村 → 新宮

 昨日は熊野市の定例車中泊会場の鬼ヶ城の駐車場で寝たのだが、チンコがニョキニョキ伸びてものすごくでかくなる夢を見た。なんなんだとおもっていたがまぁ今日の観光はなかなか成果があってよかった。

 なんか上記夢をみて起きたのが2時くらいでそれからまた例のごとくあまり寝れずとりあえず5時前になったらかなり明るくなったので、早朝なら道路上の車も少なく煽られないだろうと、移動しだして下北山村の桑原あたりについたのが6時前。来てみるとやけに箱みたいな切妻の家が多い。ふつうもっと入母屋が多いとおもっていたが、ここはほとんど見られず箱っぽいのでこれはあるいは西村伊作が全部一度作ったのかとおもったが、結果から言うとそんなことはなく、このあたりの在来の民家が切妻の家だったらしい。

 早朝なのでそのへんの人に聞いてもよくわからず、役場の教育委員会に行けといわれたので、それまで時間つぶしにちょっと下北山村をまわった。


 明神池というところに池神社というのがあってなんか大層だなとおもったが、そこから北に行くと急斜面を川底へ下っていくので、なるほどたしかにこんな斜面の上にある大きな池は祀りたくなりそうだ。川には昭和3年にかけられたという狭い橋が残っていた。さらに北には巨大な池原ダムがあり、峡谷の斜面とおなじくらいのところまでダムの高さがあって、ほぼ山のようにみえた。ダムのすぐ下に公園があってなかなかの絶景ではあった。

 さて役場が開きそうな時間になったので行ってみると教育長が詳しいというのでわざわざ会ってくれた。しかも今日はたまたま時間があったそうで、案内までしてくれた。
 西村伊作が作ったことが明白なのが今は民俗資料館になっているのだが、これは毎週木曜しか開かないと来ている。そして今週の木曜は第五木曜なので休み。そんならどうでもいいやというので直接来てみたのだが、おかげで中を見ることができた。

 作ったのが明白なのが民俗資料館。そうではないかと言われているのが旧公民館(今はNGOが図書館にしようとしている)。それから西村本家は教育長の話ではその前からの家ということらしい。中はその後改造されているとかなんとか。まぁしかし山林地主なのに質素な家にみえる。最初に書いたが、そもそもこのへんの家がこんな感じらしい。

 こういうのが典型的な下北山村の家だということだ。最後のはちょっと小屋かもしれないが、石で屋根を押えるというなかなか古風なことをしている。うちのへんなんか一軒一軒がデカい入母屋の屋根を抱えているのだが、日本の田舎はだいたいそれに準じた形の家で縄文時代以来の竪穴式住居の末裔だとおもっていたので、ここに来て質素な板張りの切妻の家が並んでいておどろいた。
 なるほど西村伊作が当時流行していたアメリカのバンガローに目をつけたのも道理だ。バンガロー自体、西村の著書でもインドや日本の簡素な建物の影響で成立したものという認識だった。それがだんだんゴテゴテしだしているのはよくないとも書いていた。なるほどそういう美意識がこういう簡素なところで涵養されたのだということがよくわかる。

 あと最近幕末-明治初の実利(じつかが)行者のことが盛りあがっているらしく、民俗資料館でもその資料なるものを見せられたので、ついでに実利行者が彫ったという磨崖仏の場所まで連れていってもらった。

 これは北山村の方にあり、筏下りの人のために彫ったらしい。他に経塚と刻んだデカい石があったらしいが、行ってみたら見当らなかった。

 そこで教育長と別れて、道の駅奥瀞で昼飯食って、いわゆる瀞峡をみた。

 まぁ瀞峡自体はこんなもんかというところだが、そこに瀞ホテルという建物があって明治大正的雰囲気があってよかった。道の駅なんかで飯食わずにここで飯食えばよかったと心底後悔した。なにせ招仙閣と書いてあるのだから本物だ。

 そこから新宮まで行って食糧を調達してから高田グリーンランドまで来てこうして日記を書いたという次第。


2018/05/27 日 新宮 → 熊野市

 昨日は浜で寝たのだが夜中の2時くらいに目がさめてからよく眠れず、朝になってから新宮大社の河原に行ったらこっちはよく寝れた。何がちがうのかよくわからん。

 今日は同和のことをさらえた感じになった。新宮だけをマトにしたものがあるのだがなぜか蔵書にない。よくわからん。

 そういうと米騒動は被差別部落の人がかなり暴れたということでそれが自信となって水平社設立となったと書いてあった。教科書に米騒動が特大筆記してある理由はそういうことか。

 明日下北山村の西村伊作関係のところを見にに行くことにして、とりあえず熊野市のイオンまで来た。電源もあるしすごくいい。
 また月曜に高田グリーンランドの予約をいれてしまった。うーむ二週つづけて同じところか。というよりはもう一ヶ月くらいこのへんでうろうろしてるのか。うーむむ。


2018/05/26 土 新宮

 今朝はマクドナルドで充電だ。

 寝るときや図書館内などですぐには使わないときなどスマホを機内モードにしてGPSも切ってアプリ一覧で全部アプリを消しておくと全然電池が減らない。wifiがある場所でwifiオンにしてもそれほど減らない。まぁ余程無駄な通信をしてるアプリがあるのか、結局ロシア製で日本の電波に完全には対応してないのでその辺で電池食いやすいのか。

 ルポ 陰謀論者の楽園「田布施システム」の真実(1) | 示現舎
 たまに目にする田布施の大室寅之助のネタの出る元を探った良記事

 今日はすこし調べものできた。熊野川の滝の近くで今日も寝るのもなんかなぁとおもい、かといって勝浦方面に行くと結局同じくらい走るので今日は三重県側にまた来た。で道の駅で日記。

 まぁここにいるのも最大5月中かな。5月31日は図書館の整理日で休みらしいのでそのころ移動か。
 正直なところ調べもの読みものにはキリがない。


2018/05/25 金 新宮

 今日も図書館で西村伊作の本を読んできたが、もう相当の長尻になってるのでかなりいやがられているのがわかる。郷土資料室なんか閉架にすればいいとおもうんだがまぁできないよな。

 近くのコンビニにとんびか隼かなんかそんなのがいて、コンビニの前で食ってるのんきな人を襲うのだが、今まで一勝一敗だったのに二日ほど居なかったので油断してたらおやつに食いにいったシュークリームをやられた。あたりにクリームが散って悲惨なことになった。

 今日はとっとと飯食ってまた熊野川の道の駅の近くの滝で水浴びした。気持ちいい。


2018/05/24 木 新宮

 昨日はBoox Max2 のファームウエアアップデートのためにあちこち移動しまくったあげく、三重県側で寝ようとして雨の中、熊野川沿いに車を走らせた結果、ほとんど停車する余地のないまま通行止め個所につきあたりそのままひきかえすハメになっていろいろと迷走した結果、紀宝町のふるさと郷土館のあたりで寝た。ひさしぶりになんか車の運転で疲れた。朝になってからいろいろと走ってみてあんまり車中泊しやすいところがないことを確認したが浜の方に出るといけるかもしれない。三重県側の方が地形が広いので、新宮市も三重県側を含めて都市計画できたらもうすこしよい展開できたんだろう。

 ふー。今日はそんなに調べものせず本読んだだけだな。この図書館も長居しすぎていろいろ問題が出てきそうな気配があるのでそろそろどっか行った方がいいけどまだ読んでないものがあるな。

 今日はとっとと熊野川の道の駅の近くの川で水浴びした。最近日が長いので完全に暗くなる前に入れた。もう十分暑いので川の方が気持ちいい。


2018/05/23 水 新宮

 昨日寝る前に日記書いてないな。はてなの方書いて満足して忘れたのか。まぁ図書館に行って調べたこともはてなに書いてしまったのでそんなに書くこともない。
 昨日は宇久井半島で寝たが珍しく先客がいた。

 南紀保勝協会『熊野めぐり』大正15年をみると交通手段はもちろん船で、大阪勝浦急航線や大阪名古屋線なんてのがある。巻末の案内図など鉄道と船と川しか書いてない。勝浦が紀州最良の港と紹介されている。


2018/05/22 火 新宮

 せっかく布団で寝れるのに夜中に目がさめてから寝れずに起きてた。うーむ。運動不足か?


2018/05/21 月 新宮

 昨夜は那智山の上の展望台で寝た。静かでなかなかよい。走り屋とか今はいないんだな。日曜の夜だからか。

 さて前立腺炎?と勝手に自己診断してた件だが、昨日の夜には鈍痛が痛痒い感じになっていたのでこれは治る兆候だとおもっていたら、とりあえず器質的には問題なくなったっぽい。ただし感覚はあんまりない。まぁ使う機会ないからどうでもいいか。これで機能喪失してたら子孫を残す能力がないなら生きててもしかたないと世をはかなむところだった。
 前立腺関係ではないかと気付いてから座布団を持っていって折って座ったりしていたのだが、ここ数日やったことはそもそも座らずに立ったり蹲踞したりして本を読むことだった。がんばって座ったことによる炎症にくわえてリンパか血液の巡りが悪くなってたんだろうか。もしくはそのあたりの組織が一時的に死んで血行不良になったんだろうか。
 この日記読んでるのは同じように座って仕事する中年のおっさんが多いとおもうので書いておくと、チンコが鈍くなったとおもったときは激しい運動をしなくても、多めに歩いたり、股間を圧迫しない座り方を開発したり、頻繁に席を立ったり、股割などのストレッチをしてみたりするだけでよくなる可能性がある。

 さて今日は一週間ぶりに宿に泊まることにした。雲取温泉 高田グリーンランド。目の前に市役所の支所があり、なかなかおもしろい雲取温泉の昔話を聞けた。明日図書館で資料を補ってまたはてなに記事をのせてみよう。

 クソコンサルが前の作業のとき、ギリギリまで教えてくれなかった設定(価格単位)のことを持ちだして、フロントのシステムの方で対応してないものを入れたからおかしくなったとか言いだしてるらしい。おまえらが瀬戸際になってから急に言い出したからあわてて入れたのに何を言うのかこのクソコンサル。こんな単純な作業で因縁つけてくる程度の低さに本当に腹がたつ。PwCは早く絶滅しろ。


2018/05/20 日 新宮

 昨夜はマクドナルドで必死に調べたことをまとめていてなんか中途半端なところで終わったまま公開してしまったがその勢いで宇久井半島まで行って寝た。でも宇久井は散歩の人が早朝からうろちょろしてるのであまりよくない。気温が低かったのでよく寝れたのは寝れた。もっとも最初から滝で寝ることにしたら問題ないのかもしれないがすこし遠い。
 昨日はてなの方に書いたのは最後マクドナルドの時間切れで早く書いてしまったのでもっと補筆しないといけない。

 そういうと前立腺方面のことだが、回復基調にあるので放置することにした。まぁなんか全体に身が軽く体調がよくなった気がする。

 今日はいろいろ資料を見たけどあんまり実りがなかった。まぁもう材料そろってるか。ということで続きを書く。


2018/05/19 土 新宮

 昨夜は熊野川の道の駅の近くの某所で寝たが、意外にも蚊が出なかったので窓を開けておくことができてかなり快適に寝れた。暑いのは暑いのだが朝になったらそれなりに涼しくはなる。川の音はするが人が来そうにないというのがいい。

 (2018/05/21 日記をみかえすとここに何も書いてないが結局医者にみてもらってない)


2018/05/18 金 新宮

 今朝起きて明るいところでよく観察してみると血は流れてるようだったので、病院行くのはやめた。

 へたに文字を使うことを知っていたり、なまじ文章が書けたり、私は小説家だと豪語する人たちの中に、奇妙な思い違いがある。
 熊野を隠国(こもりく)だとか、根(ね)の国だとか書きたがる。
 (略)
 明るく暖かい大洋に向い、常緑の厚い歯がつやつやと陽に輝いている照葉樹林の山、遥かな山嶺でもなければ積雪をみることができない太陽の照り輝く熊野地方が、なんで"隠国" "根の国"であるものか
 熊野を"こもりく" だとか"根の国だとか表現して平気でいられる人は、熊野を頭の中でコネ廻して考えるだけで、熊野の山を、川を、海を、ことには熊野の人びとのくらしを自分の目で見、自分の耳で聞き、皮膚で感じる、それができないか、熊野そのものをヨウ見ずに文字の上での熊野ことばの上での熊野しかみとめる能力がない、生きながら死んだ感覚を持つにすぎない人である。

 さんでージャーナル 540号 昭和53年1月1日 「熊野は紀伊の一部ではない 熊野は伊勢の一部ではない 行政区劃越ゆるものを探る」
さんでージャーナル社(和歌山県新宮市)

 もう暑くてたまらん。今日は結局病院行かなかったが明日行く。まぁ治る方向にあるような気もするが専門家の意見を聞いた方がいい。


2018/05/17 木 新宮

 同和行政終結は正当という判断を最高裁が昨日出したそうだ。なるほどなかなかおもしろいときに興味を持った。
 共産党だけが同和行政不要を主張しているのもおもしろい。自民党には逆に自由同和会という保守系の同和団体があって連帯しているそうだ。共産党とつながりのあるのは全国地域人権運動総連合で、「部落問題解決の4つの指標」は「基本的に達成された」という立場だそうだ。そして部落解放同盟の三つが政府の交渉団体らしい。
 新宮では大逆事件の大石誠之助を顕彰する運動が目立つが、これもお左翼というよりはそっちなのだろうか。

 オール・ロマンス事件と江府町の入会権問題 : 鳥取ループ
オールロマンス事件 - Wikipedia
 昭和31年(1951)のオールロマンス事件であわてて同和対策予算を約6倍にしたのが京都市らしく、それが部落解放運動の変質をもたらしたらしい。おかげで問題が劇的に改善したのはよい話だがカネで話をつける方式が運動の本筋になって日本中で取りくまれいまだに切れないと。
 せっかく戦後に社会が激変したのにそういう中で特殊職業にしがみついている事が同時にそれを継続させるんだがわかってるんだろうか。そういう意味では昭和31年はちょっと早かったんだろうな。

 今日ちょっとひさしぶりにゆりのやま温泉に行ったのだが、そのとき自分の股間がなんか死んだタコみたいな感じになってるので本格的にヤバいと今ごろ思いだした。明日素直に医者に行くことにする。


2018/05/16 水 新宮

 昨日もまた山の上に行って寝ようとしたのだが、上まで行ってから、強電界がチンコによくないのかも.....と思いだして熊野川方面へ行くことにして、高田の方へ入るところで川沿いの公園を見付けてそこで寝た。川のすぐ側なので結構うるさい。

 昨日書いてた有機溶媒臭だが、昨日の朝も宿を出るころになって同じ臭いを感じた。近くに新築っぽい建物があるのでそこの建材臭か、ひょっとしたらシックハウスとか化学物質過敏症とかその類かと思ったのだが、実は感じていないものという可能性もあるのではないか。ひょっとしたら体内のホルモンバランスかなにかが崩れてて疑似的にそういう臭いを感じる時があるのかもしれない。

 今朝方、石があたったような衝撃を感じて目が覚めたら朝立ちしていた。うーん? しかし確認しだすと急速にシボんでいった。感覚がマヒしてるのもあまりかわってない。
 単に交感神経優位になり続けているだけなのかもしれんな。ちょっと必死に本読みすぎかもしれん。
 目がさめたら今度は周囲が気になって寝れないので高田の奥の方を見にいったら集落の中でもう早通行止めになってた。

 新宮から熊野川上流方面に抜ける越路トンネルは平成20年ということで最近のものだがその横に昭和39年の越路隧道がある。地図をみるとさらにその上に昭和11年の旧越路隧道があるので朝のうちに見にいったが途中からついに舗装がなくなり結構デカい石がゴロゴロしてる道になったのでやめた。そのへんに車停めれるところもあったのでしばらくそこで寝てからイオンに来た。

 新宮市の広報はなかなか情報が多くてよいが計画を延期したり中断した場合の情報があまりない。ただ通読してだいたいスタート地点がはっきりした。

 同和同和というけれど同和対策法って2002年には終わってるのな。
 田辺とか新宮でなんか変な空気のある場所があったがだいたい同和関係だとわかった。あんまりそういうのほじくるとろくなことないかもなぁ。

 1969 同和対策事業特別措置法
 2002 に終結
 2016 部落差別解消推進法


2018/05/15 火 新宮

 せっかく布団に入れてよく寝たかというと寝ながらパソコンいじりやすいのであんまり寝れてない。たぶん総体の疲れとしては同じくらいなんだろう。

 先週図書館で本を読んでたころのことを考えると、有機溶媒臭がすると言って騒いだ時があるのだが、日記をみてもそのころの記事がやけに少ない。思いかえすと雨のあとだから水曜のころか。ひょっとして図書館で本読んでるあいだに流れてきた科学物質の中毒になってたとかそういう可能性はなかろうか。木曜に歯が外れかけたとあるのもそれっぽい。みるからに怪しい人間が来て本読んでるような格好でずっと座ってるので追い出すためになにか置いたんだろうか。

 今日は長期計画っぽいものを片端からみた。月報もおもしろい。
 ところで座ってると会陰のあたりが痛かったのでまぁ前立腺炎なんだろう。車の中にある座布団を持っていったらちょっとマシになった。しかしちょっと足りないとおもったので帰りにダイソーで300円のクッションを買ってきた。さてこれで明日どうなるか。

 昨日は布団で寝れたけど今日は車中泊かー。


2018/05/14 月 熊野市 → 尾鷲 → 新宮

 さて昨夜は熊野市の鬼ガ城の駐車場で寝たので朝日がさしてきて暑くなったのを機にまた見てきた。

 この奇怪な石だが、新宮で読みまくった成果によると、マグマが噴出するさいにその縁で破砕されたものの名残だという。破砕されたカケラや塊がその後まだ固まっていないマグマにとりこまれてこんな複雑な形を呈するようになったようだ。前、砂岩とか書いてたけど全然違ってそもそも火成岩だった。古座川町の奇岩も同じ。

 そこから二木島へ。

 西国三十三所名所図会には「英虞子明神社」と「牟婁子明神社」が愛川(二木島の集落のところを流れる逢川)の橋を挟んで東西にあり、それはその昔紀伊と志摩の境目がここにあった名残りと書いてあるのだが、実際に行ってみると川のまわりにはそんなものはなにもない。まぁ津波でさらわれてないのかもしれないが、続紀伊風土記には湾を挟んだ岬にある阿古師神社と室古神社があると書いてあり、今実際にあるのはそれ。なかなか狭い道でたのしかった。
 阿古師神社がある半島は盾ヶ崎がありそっちの方が有名だ。神武上陸地はここだという設定のようだ。

 戦前に建てられた神武像もあったようだが室戸台風かなにかで壊れたということで今は台座だけ残っていた。ここにも千畳敷といわれるところがあるのだが、その隅の小さい盾のようになっているところに「岡田信次」なる人物の昭和16年の歌がハメこんである。政治家の岡田信次だろうか。
 ここで座ってズボンのケツの破れたのを直した。まだ早いので誰もこない。そもそも月曜にこんなところに来る人もいないか。

 あとはシシ垣記念碑もみてきたがこちらはいわゆる熊野古道沿いにあって解説も親切につけてあった。それで満足してしまい肝心のシシ垣を見てこなかった。ただし周りは石垣の段々だらけで、中には江戸時代式にくさびをうちこんで割った石もあった。あれは何なんだろう。

 そこから尾鷲の熊野古道センターに行ってそこの案内の人とどうでもい雑談をしたり、昼飯食ったりしたが、あんまり日射しがキツいので木陰で避暑してスマホをいじっているうちに今日くらいどこかで泊まろうかという気分になった。たぶん汗かいたせいだろう。ただスマホの回線があんまりよくないので尾鷲のイオンに移動する途中、尾鷲神社があったので入ってみた。

 隣の寺に松井石根の興亜観音なんかあって驚いた。

 尾鷲のイオンで検索して結局新宮の3200円のビジネスホテル光洋なるところに投宿した。共用の風呂があり洗濯機があってちょうどよい。ということで全部脱いで洗濯して浴衣で布団にころがるともう布団から離れられない。この一ヶ月半程度車中泊に慣れたつもりだがやはり布団には勝てないようだ。まぁしかし部屋があるだけで全然生産性が違うような気がするぞ。

 ところでどうでもいい話だが新宮に来てから急速に性欲が減退してしまった。しかも一物などマヒしたようになっている。うーむ。なんだろう。前立腺炎とか? 図書館の固いイスに座りすぎた?もしくは頭の神経が切り代わってしまったのだろうか。ボーっとしたことを書いてしまったり何回もぬいて発散しないといけなかったりするよりはマシだがこれから先ずっと使い物にならないのは困る。まぁエクストリーム観光したりエクストリーム図書館アタックなどしていては使うアテもでてこないのだが、今までの人生で道具として正しく使っていなかった報いが来ただけかもしれない。
 なんか体調悪いとか書いてたのは微熱があるとかそういうのなのだが関係あったのかな。


2018/05/13 日 新宮 → 熊野市

 最近どういうわけか日記を拙速で書いている。まぁコンセントのあるところで書いてないからかもしれんが、別に車中であろうとそれなりの時間はとれてるはずなのにどうしたことか。明るいとこで座って書いた方がいいのか。

 どうもケチの癖がすぐ出てくる。

 今日はなんか西村伊作という人関係の講演会のようなものに行ってきてすこし興味をもち図書館で調べてみたらなかなかすごい人だった。近代の事象は無視してたので意外だった。

 どうせ明日は図書館開いてないので閉館後、車を飛ばして北に来てしまった。とりあえず朝書きかけていたはてなの記事をまとめたがさてどうするか。来るとき飛ばしてしまった二木島に行くかな。

熊野列石と宇久井半島の神籠石 - メモ@inudaisho
 まぁ既に日記で書いてる内容ではあるが、とりあえずこの調子でまとめていくことにする。

 熊野市のイオンまで来たので電子レンジで冷凍スパを温めて食おうとしたら中の皿を落として割ってしまった。気にせずにといわれた。情けない。
 ちなみに出す時だったのでスパは食えた。


2018/05/12 土 新宮

 また電波塔の近くで寝てたのだが、今朝の5時半ごろ車の音がして二台車が登ってきて電波塔の方へ行った。メンテにしては県外ナンバーで不思議。日の出を見に来たのか。

 遺跡がみつかって熊野学研究センターなるものが頓挫したわけだが、新宮での「熊野」を冠した博物館を作ろうという動きは1980年頃からあったようだ。それを調べだしたらなかなかおもしろい。ただ的確な資料を探すのが難しい。その運動の中心にいた人は図書館にいれば会えそうな雰囲気ではある。

 そういうと漫然と調べていると書いたが、その中で宇久井の神籠石のことを調べた人がいた。やはり那智勝浦町史をみて疑問を持ち、同じように現地に行き、同じ結論に逹していた。
 浮島の成因についても学説の進歩がみえて、最初は京都の深泥池の浮島とおなじで縄文時代とかなんとか言ってたのがどんどん時代が上がってきて、最終的に江戸時代ということになっていた。

 勝浦の銭湯はま湯。
 今晩は宇久井半島で車中泊。


2018/05/11 金 新宮

 昨夜も電波塔のある丘に潜入したが昨日より眺めのいいところで車中泊した。ただその前にエンジンオイルの交換してみたり新宮の銭湯に行ってみたり洗濯したりガソリンいれたりしたので寝るのが相当遅れた。最初からそれらを全部やる手順ならまた違ったが。

 どうも最近体調が微妙なので昨日は晩を食わずに寝た。昨日昼パンを食べたときに左の真ん中に残ってた歯が外れかけた。今まで残存歯かとおもっていたが実は上部構造だけ挿した歯だった。なんだ。それならこの歯外してしまって義歯入れた方がよかったのではないか。

 図書館の方もかなり無目的にダラダラ熊野誌を読んでるがもう平成に入った。今日くらいでおもしろいところは全部読んでしまうかもな。

 充電のためにイオンに来た。昨日エンジンオイルを交換したのは4月5月とこれだけ暑いのに思うほど燃費が上がってなかったからだが、昨日の夜はあまり数値的に改善がなかった。ただ今朝の数値をみると明らかに昨日よりよかった。交換する意味はあったようだ。

 今ごろ知ったが新宮市の人口は3万切っていた。これだけ広域の市でそうなんだから町の規模が小さくても当然か。

 今日も図書館に行ったが熊野誌はある程度見てしまった。こうしてみると最近の薄さが目立つ。うーむ。明日はどうするかな。

 なんか去年と同じようなことをしてる気がしてきた。


2018/05/10 木 新宮

 昨夜は電波塔の立ってる丘に潜入してみたらいい野営地を発見したので車中泊した。強電界はどうかとおもったがまぁよく寝れた。たぶん風が強かったのでそれどころじゃなかったんだろう。よく寝たつもりだがなんか眠い。

 昨日日記をイオンで書いたのだが朝新宮の歴史民俗資料館に行ったことを書きわすれていた。昔はもっと徐福推しだった気がするが今見るとかなり冷静な展示になっていた。写真を撮ってないのでなんともいえない。写真禁止と書いてあるにもかかわらずデカいカメラを提げた年寄が堂々と写真を撮っていた。
 続百名城めぐりのスタンプなるものがあるようでスタンプ巡りのために来る人が多いらしい。迷惑だなと言いたいところだがそうでもしないと人がこないということか。しかしそんなスタンプ巡りを必死にやってる奴が結構いるというのが不思議だ。


2018/05/09 水 那智・新宮

 昨夜も橋の下で寝たが朝になるとフロントガラスが汚れてたので公園でサっと洗ってきた。

 今日も漫然と熊野誌読んできたがようやく昭和60年代になったのでそれなりに読めるものが増えてきた。しかしまだ妄想を書き並べてる郷土史家率が高い。まぁネットのない時代の作文だからな... それ系で案外おもしろかったのは尾張にある高倉下を祭神とする神社の紹介だった。高座結御子神社というのが熱田神宮のそばにあるらしい。なるほど神仏習合時代の前の段階での展開が確かにあったんだなとおもわせる名前だ。


2018/05/08 火 那智・新宮

 研鑽が足らんだけか。

 今日も図書館に行って本を読んできた。昨日にひきつづき雨でどっちにしてもどこにも行けない。

 今日は熊野誌にとりかかったのだが、その中の文章の一つに熊野鉱山は慶長のころに金を産出した記録がないと書いてある。紀和鉱山資料館にあった慶長小判は熊野鉱山の金という記述は何なんだ。
 熊野列石がシシ垣じゃないといいたい向きがこのあたりにあったのは神武天皇上陸地と関連づけたいからのようだ。とくに三輪崎のあたり。

 新宮のイオンのイートインっぽいところの隅にコンセントがあるのを発見した。しかし席の確保の難度が高い。

 今晩も雨だから昨日と同じとこで車中泊かな。


2018/05/07 月 那智

 昨日は那智高原公園で車中泊した。この雨なので明るくなっても誰も来ないかとおもいきや10時くらいになったら横を素通りしていく車が結構ある。単にここが雲に近いので雨がつづいているような気がしてるだけで下界では案外雨も小降りになっているのかもしれない。

 雨雲レーダーをみるとこのあたり雨降っていない表示だったので雲の中だから雨が降っているのかもとおもい降りてみたがやっぱり雨降っていた。レーダーで正しく感知できない範囲なんだろう。
 レーダーに出ていなくても降水量は出ている。
 倒木とかで通れないことがあるかもしれないのでこのまま登らないことにした。しかし下界は非常に蒸している。

 湯川の温泉のゆりのやま温泉というところに行ってきた。なんか背中にアカみたいなのが浮いてきたからだが勝浦の銭湯であるはまの湯に行くとたまたま月に二回の休みに当たって入れなかった。で、外湯案内をみて安かったのでとりあえず行ってみたのだがここはすごくよかった。無色透明でかすかな硫黄臭。それよりもすごいのはドバドバと大量に投入される湯。蛇口も全開。しかも飲用可としてある。湯も濁りがない。ぬるめなのでいつまでも入っていれそうだが長湯せずに適当に上がったがそれでも体がポカポカする。まぁこれは気温が高いだけかもしれないが。300円と安い。表の方の湯は人がたくさん入ってきてあんまりいい気分ではなかったが、こっちで湯川温泉味わうとなかなかいいもんだな。

 橋の下に車を停めた。雨に打たれず静かでよい。ただここは結構人が来そうな感じもあるのでよいかどうかはわからん。


2018/05/06 日 本宮→熊野川→新宮→那智

 結局また新宮に来てしまった。

 七越峰で高台を先取していた人は夕方本宮に着いた人だったらしく朝方降りていった。
 さて湯の峰温泉へは朝風呂に行ったが、朝から結構人がいっぱいだった。くすり湯の方だがあの湯量であれだけ人が入っているところへ夜とか入る気にならなくなった。

 その後途中の滝野川の道の駅の近くにある鼻白の滝なるものをみてきた。大水害で道とか崩壊したままで入れないようになっていた。
 新宮に来て今回まだ行ってない高倉神社に行く。石段を登るのはいい運動だった。よくわからんが夫婦モノで仲がわるいのか旦那がトロい奥さんをおいていき気味にしているのがいた。かわいい系のお嬢さん系にスポーツマン系の旦那が合わせきれないという感じだが、なんかもっと裏のありそうな所もあり。まぁ男女の間のことは外からみてわからんもんだ。

 ついでに新宮大社の神宝館にも行った。うーむ。展示方法が微妙だがまぁ古い博物館の形式とおもえばこんなもんか。室町時代のものが並べてあるのがすごくよい。ただどこまで信用していいのか。年代が書いてあるのが同じ年になっているので目録作成の時か一括して奉納されたものが残ってるのか。ただこういうところは古くみせかけたがる傾向がある。足利義満が奉納したという神輿に三つ葉葵が入ってるんだが.... それとも紀州徳川家が奉納したという船といれちがいになってるだけだろうか。

 で、結局また新宮市図書館に行った。やっぱりここはよそにない変な本があっていい。いちおうこれで熊野はだいたい一周したことになるので、熊野地方を主題にした研究誌とか読んでてもおもしろい。90年代に出ていた熊野史の研究誌つまみよみしてたが時間が足りなくなって取りおきしてもらった。明日は休みなので明後日また行くことになる。

 マクドナルドで充電しているがさて今夜はどこで車中泊するか...

 あ。今晩から雨なのか。新宮まで来て失敗した。


2018/05/05 土 田辺→近露→本宮

 昨日もBig-uの近くの公園で泊まったのだが、深夜までかなりうるさかった。GWを舐めていた。朝から人が多めで殺気立っているので早々にでて近露の方まで行ってみた。

 なかへち美術館というのがあるが10時からなので近くにあるバスの転回場兼駐車場みたいなところに行ってみたら他にもGWで遊びにきてる車がたむろしていたので 入口のあたりに車を停めてパンなど食っていたところバスが来てエンジンかけたまま停車していた。まぁ昼間っからブラブラしてるのがいるのがいやなんだろう。ちょっと山奥に行って寝て10時前に来てしばらく美術館が開くのを待ってたら妙な車が来てトロトロ車を転がしてこっちを観察していた。ここなんか事件でもあったんだろうか。

 美術館だが野長瀬晩花の絵を展示していた。ここの晩花の紹介でも『北満国境線を行く』が書いてあったので受付で聞いたら学芸員に電話して直接話しろと言われた。単に晩年が画家としてはパッとしない中でちょうどまとまったものがそれだったからということらしい。

 その後ついでなので本宮まで来たが日差しもキツく日陰をさがしてさらに山奥へ行き結局寝ていた。夕方になって道の駅に来た。


 google地図をいじっていると乳子大師(ちちさま)の場所がわかったので行ってみた。意外と本宮大社の近くにあった。存分に触ってきたが石なので冷たかった。

 車中泊のため七越峰にあがってきたが一番いい高台にテントはっている先客がいた。ここでテント... これから奥駆にしてもここまで奥駆にしても近すぎるんだが夕方に着いたということなんだろうか。

 明日はここまで来たついでに新宮まで降りてみよう。というか道路が改良されてるせいで田辺新宮間をまっすぐ行けばたぶん二時間かからず行けるとおもう。


2018/05/04 金 田辺

 今日もBig-uに来たぞ。というかGWであり白浜周辺は観光地でもあって人が押しよせる事が予測できるのでうかつに移動できない。寝場所に使った公園にも屋台が並んでいて、テキヤが朝から蠢動していた。移動するなら夜のうち。

新製品レビュー:4,000万画素 & ISO102400…トリプルレンズ搭載スマホ「HUAWEI P20 Pro」を実写 - デジカメ Watch
 モノクロセンサーとカラーセンサーを組みあわせてるのか。なるほど。


 アクセスログをみてると4月の中頃から急に減ってるような気がしたので手元にあるapacheのログからこのページの取得回数を単純に集計してグラフ化してみた。クローラの数とかもそのまま入ってるが気にしない。2017年の5月頃から11月ごろまで明らかな山があるがまぁコンサルとかZの人がチェックしまくってたんだろう。GW だから減るとかそういう相関があるわけではなさそうだ。仙台に呼ばれて一ヶ月ほど仕事のようなことをしてたときとかも減ってる。単純に更新回数が少ないと減るんだろうか。そもそも誰がどういう目的で見てるのかもよくわからん。
 こういうデータは折れ線グラフよりヒストグラムの方がいいんだろうか。実は。

 海路書院というところが歴史の道報告書集成をつくっているが国会図書館に納本されているのは21まで。他に日本の町並み調査報告書集成というのも作っているがこれは31まで。国会図書館の所蔵でいうと2010年までしかないのでそのあたりで解散したんだろうか。


2018/05/03 木 田辺・白浜

 昨日はBig-uの近くの高台の公園の駐車場で寝たのだがなんか静かだった。うーん。白浜の高台の駐車場になんか人を疲れさせる何かがあるのか、蚊取り線香のせいか。

 牟婁の湯に朝一で行ってみたらモンモンの人がいた。それはそれとして、やはり朝一番に行くと、観光客の汗・汚れがなくてよい湯だった。牟婁の湯は二つの源泉が使われている。有名な崎の湯につかわれている「行幸(みゆき)湯」源泉と水着で入れるしらすなに使われている「(まぶ)湯」で、別々の湯船になっている。鉱湯はしょっぱく色があり濃い。行幸湯は無色透明。こないだ夜に入ったときは人がいっぱいだったのもあって、行幸湯はなにも感じなかったが、今朝行ってみると行幸湯のほうから微かな硫黄っぽい臭いがしており上質な温泉な感じでよい。
 草津温泉みたいな激烈な酸性硫黄泉と椿温泉とか白浜のようなアルカリ硫黄泉だと一般にお勧めできるのはアルカリの方なんだろうな。

 こないだとりあえず一日寝るために山奥の方に行ったが、山の険しさが熊野の東側よりも急だった。熊野地方(南紀)の東側は崩壊の危険が高いが西側は山が高くて人も住みにくいんじゃなかろうか。

 google地図自体が経路検索に対応してるので全画面google地図は捨てて国土地理院をベースにしようかとおもったが、その場合何をフレームワークにするかというのでOpenlayersとleafletというのがある。複雑なものをつくるならOpenlayes、とにかく軽くならleafletということらしい。うーむ。


2018/05/02 水 田辺・白浜

 昨日みつけたところは昨夜釣りかなにかをする人でいっぱいだったが21時をすぎたらだいぶ減り、雨のせいか朝には誰もいなかった。静かでよく寝れた。でまたBig-uに来ている。

 最近google地図アプリをつかいまくっているが、これに写真を投稿して共有する機能があり、最近どこに行っても撮ったら投稿しまくっているが、これはパソコンからでもみれる。パソコンでgoogle地図を開いて立っているピンをクリックするとその場所の詳細が開くがそこでユーザが五段階評価やコメントを書きこめるしついでに写真まで見れる。しかも投稿した奴の名前まで出てくる。その名前をクリックするとどういう口コミを書きこんでいるのか、どんな写真を投稿しているのかがわかるが、写真は日付順に並び換えれるので、地図上での最近の写真の投稿場所が一目で確認できる。どの辺にいるのかまるわかりなので物好きしか投稿しないんじゃないだろうかとおもったが結構投稿されている。

 そういうとここを降りたところに半島があり、泥岩岩脈なるものがあるとgoogle地図が教えるので朝の間に見にいったのだがその向かい側に南方熊楠が保護運動をした神島があった。

 昨日一日寝てた件だが単純に蚊取り線香を二日続けて狭い車内で焚いたために人体にも効いてしまったのではないかと疑っている。やはり蚊対策はシーツにくるまって蚊の羽音は慣れるしかないようだ。

 元寮生で伊勢の方で人力車を引いてたやつがいるが、前調べたときウガヤフキアエズ朝がどうのこうのとか書いてたので、これは近づいてはならんなとおもって忘れていた。今になって思いだしたのでどうしてるのか調べてみると今でも人力車やっててゆるやかな教祖っぽくなってて今年デキ婚したらしい。まぁ子作りしてるだけで俺よりもえらい。

 臨川書院の紀伊国名所図会の解説で、今原稿類は和歌山県立博物館に寄贈されているという知見を得た。

 今日は大分写真の整理が進んで、熊野に入るくらいのところまで来たが、伊勢から熊野に来たあたりは頭が随分ボーっとしていたように思う。どういうことかはわからん。


2018/05/01 火 白浜・田辺

 昨日も高い公園で寝たが夜中に職質を受けたりいろいろあったせいかあんまりよく寝れてない。といいつつ朝方移動して結構いいところをみつけた。今日はなんか疲れた感じが強く、どこか人がこないところで寝れないものかといろいろ探してみた。朝見つけたところは静かでよかったが釣り客がいそうで朝のうちは日陰だがすぐに日差しが強くなる。ちょっと山奥の方にいったらなんとか廃道をみつけてそこで寝た。よく寝れた。なんでこんなに疲れてるのか。
 今は上富田のへんのスーパーで食糧を調達して公園で飯食いながら日記書いてる。今夜は朝みつけたところで寝ようとおもう。


2018/04/30 月 白浜・田辺

 昨日は白浜の高いところにある公園で寝た。意外と静かでよかった。まぁ無料の観光駐車場が完備してるのでわざわざそんなとこまで来ないんだろう。夜中に管理の人っぽいのが観察しに来てた気配はあったが根拠は軽トラの音っぽかったというところだけなのでよくわからん。


 朝方三段壁を見に行ったが志摩地方からぐるりと紀伊半島をまわってきたので、特になんともおもわなかった。千畳敷はちょっとおもしろかった。熊野でよくみる砂岩のようなもの(これは火成岩なので厳密には砂岩ではない)が海岸で露出して滑らかな表面を見せていてなかなかよい。

 前買ったタンカンがまだ車内にのこっているのをみつけたので食べた。セミノールも残ってる。セミノールはなんか皮がおっさんくさい。

 三段壁とか見に行ったときにゴムサンダルの鼻緒が千切れた。コーナンに行ってみたが指で挟めるタイプのゴムサンダル売っていない。海沿いだからありそうなものだが。

 コメリとか市内のオークワとかいろいろまわったのだがゴムサンダルみつからず、しかたないので植芝盛平の生地を見にいったところ途中にシューズパレスクスモトという靴屋があり店先にゴムサンダルの棚を出していた。丸中製作所のPearl印の普通のゴムサンダルが780円。まぁそんなもんか。

 植芝盛平の生地(今は空き地)の隣にウエシバ電化サービスという店があった。

 全然関係ないが除染の戦友がもう島を撤退して徳島の方に行ってるというので案外飽きやすすぎる奴だなとおもっていたが、先月Youtubeで98万稼いだらしい。うーむ。やるな。

 Big-uは万人に開かれているようで、エホバの証人が部屋を借りて「無料の本」とかいうのを出してた。エホバの証人が野放しなら自分のように他府県の人間が野放しで使ってるのもいいわけだ。ありがたい。

 2017年中の写真の整理をいまごろしているが終わらない。2017年は忙しかったので順番にディレクトリつくって入れたままここ最近の撮影ペースが上がってついに99まで来てしまった。まぁちょうどいい機会だ。

 日本図誌大系はさすがに中古市場でも安くはないようだ。出版数の問題だな。

 明日はBig-u休みなのでどっか山奥の日陰で一日寝てようかな。


2018/04/29 日 田辺・白浜

 GWということで山奥の方で車中泊した。滝や巨石があるところで川の音がうるさかったが沿岸部よりはマシだろう。

 朝のうち闘鶏神社に行ってきた。もともとは熊野権現をもってきたもので、源平のころの熊野別当湛増がどっちにつくか闘鶏で決めたという由緒があるので明治の廃仏毀釈のときに闘鶏神社にしたとか。

 同じ境内に田辺藩の安藤氏を祭った神社もある。ちょうど熊野巡りのバスツアーの団体さんがいて、添乗員ではなくて神官っぽいのが解説してくれてたのだが、江戸時代は今熊野大権現と言ってたという話だったが実際に江戸時代に建てられた灯籠をみると鶏合大権現と書いてある。うーむ。
 まだ時間があるので次は港に行ってみたら植芝盛平の像があった。田辺出身らしい。しかもどうも生地の碑も市内にあるようだったが複合文化施設が開く時間なので行ってみた。

 一階が図書館、二階に歴史民俗資料館があるという構成だが、写真禁止。牟婁郡の牟婁がここということになっているくらいなので牟婁郡の中でも開けていて遺物やら古墳やらいっぱいあったが全然メモしていない。ここに来るまでに調べすぎたのもあって展示自体はよかったものの見ただけに終わった。
 田辺関係の有名人の中にもちろん南方熊楠や植芝盛平などいたが、その中に野長瀬晩花というのがいた。代表作のような感じで『北満国境線を画く』というのが紹介されていてちょっと興味があったので下の図書館に行ってためしに請求してみたら出てきて驚いた。
 北満国境線と一口に言うが、主な対象は黒竜江最北の漠河からさらに奥の砂金地帯だった。それだけで十分内容的にすごい。絵入り随筆のようなもので、絵もスケッチ程度のものだが、写真もまじっている。野長瀬晩花の画家としてのピークは大正のころのようで、昭和にはいってからについては最近まで終わった画家扱いされていたようだが、そのころ朝鮮満洲中国方面へ写生旅行に行きだし、満州事変後は朝日新聞満洲各地の絵を載せたりしていたようだ。なるほど戦後になってから画壇はそのころの画業を藤田嗣治を生贄にして逃げたので評価の対象にもなっておらず、最近になってようやく再発見されたというところか。しかし田辺の民俗資料館の展示で代表作のようにそれを紹介するのは不思議だ。

 Big-uに来た。Big-uには県立図書館の支館もあり最低限程度の調べものはできそうでまぁ悪くはないな。ただしそこそこ便利な町はそれだけ人がスレていてそのあたりは新宮の方がいいがまぁしかたあるまい。
 これでとりあえずタダの駐車場と図書館と電源のセットがある地帯を精華町・三重・南紀の三個所みつけたので回遊してもよい。でもそれぞれが遠いか。


2018/04/28 土 串本 → すさみ→ 日置 → 白浜 → 田辺

 昨夜も同じ場所で寝たが昨夜は朝まで一台も車が来なかった。
 そろそろ外で足を伸ばして寝ることを考えた方がいいかもしれない。

 今日は田辺まで来てしまったが、自由にパソコンと電源を使える夢のような環境があるのをみつけて興奮してしまい、手順をまちがえて写真を消してしまった。串本から田辺までは歴史的経緯から口熊野といい、また明治のころに西牟婁郡に編入されたところだが、東海岸よりも海岸地形が厳しい。それは同時に景色が非常にいい事を意味していて、走りながら写真撮ったりしたのだがそれもみせることはできない。まぁ写真をはるのにふりまわされてる気配なきにしもあらず、これはよい機会ではある。

 すさみには歴史民俗資料館があり土曜だけ開いている。つまり今日。展示物で多いものは絵馬だがそれも普通の絵馬ではなく、船絵馬。まぁ北陸の方でみたことあるのだが、太平洋側ではここだけらしい。菱垣回船などが風待ち港として使っていたので待ってる間に奉納したのだという。特徴として背景に神社の屋根が三つほど描いてあるのだが住吉大社なのだそうだ。それが幕末ごろから旭日に変わる。受付のおっさんは明治からと言ってたが、確実に幕末のころには旭日になっていた。中には住吉と旭日が両方描いてあるものもあった。それからジョン万次郎とおなじころアメリカに漂着した人がいたのだが、ペリーが来たときに日本中から64人ほど通訳をかきあつめた中の一人として呼びよせられたそうで、その書類なども展示してあった。これも後でじっくり見るつもりだったが消してしまったので読めない。
 ここでも串本とおなじくオーストラリアの木曜島へ出稼ぎに行っていたようで潜水服までほぼ同じものが展示されていた。

 すさみでは図書館に行ってみたが、整理中のようで郷土史料は見れなかった。

 その次は日置川で、資料館もないがとりあえず日出神社とか参ったあと、図書館をじっくり探してみるとここも公民館の中にあった。しかも若干の展示物まであった。やはり展示施設のないところは図書館的な存在を探してみるべきか。
 ここは熊野水軍の安宅氏の本拠ということだったが、この安宅は「あたぎ」と読む。しかも安宅荘という荘園がこの日置川の河口にあったのだが、その安宅荘とは関係なく、もともと阿波の被官で、熊野の海賊の反乱があったときに鎌倉から送りこまれ、後醍醐のときはちょっと没落してたが、その後足利幕府側についてもりかえしたそうだ。熊野水軍の筆頭みたいに言われることがあるのはそういうことのようだ。
 串本の潮御崎神社がすさみから東海岸の方の漁港の総鎮守だったが、この日置は別なのもなにか関係しているのか。
 安宅氏は阿波の被官で同時に淡路島に進出している。戦国時代に三好氏の養子をうけいれて三好氏の配下になる淡路島の安宅氏はもともとはこの安宅氏と同じらしいんだがその三好氏が配下に入れたころどういう関係だったのかはまだわからないらしい。

 安宅氏の中世の城の跡が日置川の河口のまわりに密集して残っていて、日本中でどこでも中世の城の売り出しをやっているようにここでもそれ用のパンフレットまで作て置いてあった。ということでちょっと見にいったが主城の八幡山城跡はたいした高さではないのに登る気がどうもせず麓で涼んで次へ行くことにした。

 道の駅を二個進むともう椿温泉である。ということで午後3時ごろだったが入ってきた。アルカリ性の硫黄泉ということだったがまぁさっぱりとしたものだった。そこから白浜もすぐだったがもう温泉も十分という感じで入らずとりあえず図書館の白浜分室でちょっと白浜町史を読んだが17時閉館ということでとっとと終了。その後電源のつかえる場所をもとめてマクドナルドまで行ってみたがコンセントは封じてあり、しょうがなくオークワの立体駐車場でモバイルバッテリーにつなげながらいろいろとググってみると、県の施設のBig-uというところで電源つかえるようだった。そのBig-uというのが最初ちょっと車を停めて検索してたところの近くで、その後田辺市内まで行ってたのでかなり無駄足だった。
和歌山県立情報交流センターBig・U
 県の施設のBig-uというのは来てみてわかったが、情報系施設ということでパソコンを使うことを奨励しているために使い放題状態になっているようだ。うーむ。田辺使えるな。


2018/04/27 金 串本

 朝になってから日記書いてるが夜のうちに書いておけばよかったな。とにかく明るすぎるのでノートパソコンで書くに及ばない。といって充電のあてがないのでMax2をディスプレイにするのも厳しい。日陰をなんとかみつけて昨日の分も書いた。

 ところで昨日樫屋崎の灯台で屈強な男達にぴっちり追尾されてからしばらくずーっとなんか怪しいのにつきまとわれていたが、今朝も潮岬が見える公園で寝て、起きてから毛布などを干したりしてたせいか、なんか変なのが来て去るでもなくうろちょろしていた。昨日から来てる怪しい人たちはたぶんこのへんに基地のある自衛隊関係なんだろうが、服装に独特なセンスがあっておもしろい。と同時に自分の服装のセンスもかなり似たようなものがあるので、なぜその筋に怪しまれるのかわかるような気がした。
 まぁ軍事的にも重要なのはわかるんだが、シーツとか布団とか干したのをいちいち観察しに来るかね。今北朝鮮関係でピリピリしてるのはわかる。

 応挙芦雪館。写真不可。
 串本の無量寺には長沢芦雪の描いた代表作の襖絵があるということで、それを中心に若干の絵などを並べてあるところ。若冲のものが数点あるのが一番よい。目玉の芦雪はなかなか稚気あふれる絵でおもしろかった。応挙はもう50代なのでちょっと型にハマっていてよろしくない。

 そこから図書館に行っていろいろ調べていたが、結局角川の日本地名大辞典が要領よくまとまっていて使えた。


 それで古座川町にものすごくでかい一枚岩があるということなので明るいうちに見にいった。古座川町のあたり行ってみたら山の形がボコボコしている。まぁ熊野地方全体にボコボコしているのだが、ここは他の所よりもその具合がひどい。そのせいか奇岩として有名なものも何か所かあった。

 夜になってビジネスホテル串本温泉というのに入ってみたがこれがものすごく強かった。無色透明の硫黄泉。そんなに長く入ってないのにフラフラした。

 さてついにゴールデンウィークに入ってしまうがこのまま白浜方面に行ってしまう。わざわざ混む時期に有数の観光地に行ってしまうのが何だが串本に来てから充電できてない。このままこのへんにいて電池切れでパソコン関係つかえないというのもいいかもしれない。

 自衛隊関係だが、今コンビニのイートインで日記をちょろっと書いてる横で高校生に勧誘してるくらい警戒対象から外れたようだ。そらそうか。


2018/04/26 木 新宮 → 串本

 朝マクドナルドに来た。夜マクドナルドにいくと飯のかわりにセットをたのむが、ついてくるポテトが毎日食うとつらいんよな。
 ちなみに新宮港の緑地の駐車場というのがオークワの反対側にあって、穴場的な感じなので寝やすいが、他にも一台軽バンをスキなく目張りしてるプロの車中泊師がいる。この駐車場は知る人ぞ知るという感じで結構知られているようでトイレ使いにきたりちょっと時間つぶしに来る人がかなりいる。

 潮岬まで行ってみることにして南下。太地の先串本まで資料館らしきものがない。串本にも歴史民俗資料館みたいなのはなく日米修好記念館とかエルートゥールル号遭難を扱ったトルコ記念館とかオーストラリアへの移民の展示館しかなかったが夕方になってわかったのは応挙芦雪館はかなりいいらしいということでこっちのためにここで泊まることにした(まとめ)


 橋杭岩だが直近に道の駅ができて眺めやすくなっているが、あまり近くで見るものではないようにおもった。線路のあるところから眺めるくらいの方がいい景色になる。しかし以前はもっと立派に橋桁になってたような感じがするんだが地震で壊れたりしたんだろうか。


 日米修好記念館は1790年にアメリカの船がやみくもに日本に来てラッコの毛皮を売ろうとした事件を記念したものらしい。しかし展示の内容が新しい。そして太地のくじら博物館にあった展示と形式がかなり似ていた。それもそのはず、同じ学芸員によるものらしい。その展示の隅々に225年と書いてあるのはそれから225年目の記念に展示が整えられたということのようだ。太地の方の展示も捕鯨の近代化でノルウェーの技術を導入するまえにアメリカ式を習得しようとしていたことを特集するもので、いずれもアメリカとの関係を強調する展示だった。たぶん同じ文脈なんだろう。
 この記念館の近くに海金剛という橋杭岩の三角バージョンみたいなものがありそのついでに作られたもののようだ。


 トルコ記念館だがエルトゥールル号遭難事件現場というのがものすごく沿岸に近いところで、古来遭難の名所だったという話だがそのころでも台風のときは沿岸を行くしかなかったということなんだろうか。

 供養の碑があるのだが、そのまわりに明治24年にたてられた遭難碑をはじめ数個の石碑があるがかなりきれいに整えられていて非常に読みやすくなっていた。センス的には西アジアの石碑で字のところに色をつけて読みやすくしてあるようなものなんだろうが、日本のは放置するあまりほぼ読めなくなってるのとかあるのでこれはこれでわるくはない。

 オーストラリアの展示館だが、潮岬の公園の中にあった。ボタンの原料となる貝の採集にたくさんこのあたりの人が出稼ぎで行っていたようだ。こういう展示館が散在してることをここにつめてる人に聞いたら管轄が違うということだ。ここは環境省らしい。


 トルコ記念館の近くには樫屋崎の灯台があり、潮岬にも灯台があり両方とも日本が条約で作ることを約束した最初の灯台らしい。まぁ黒潮がぶつかるところでそれだけ重要なんだろう。

 図書館とか行ってちょっと串本の歴史を調べたあと温泉に入り、オークワで晩飯調達して潮岬の辺で寝た。温泉はさんご温泉というのに行ったが出たあと柔軟剤のにおいがプンプンした。よくわからん。


2018/04/25 水 新宮

 昨夜は一晩中雨がうるさくよく寝れず大変だった。しかも明るくなってピタリと止んだ。事前に判ってたのだからどっか泊まってもよかったか。
 おかげで車はキレイになった。

 もうすぐGWでどこも混む季節だな。

 今日も新宮市立図書館に行ってきた。がやはりあまり行かないところへよく行くと不審がられるような気配がある。書庫に行くのはやはり気がひけるのでやめとくか。

 それはそれとして今日は新宮市史と熊野川町史を見てきた。新宮市史は昭和47年と70年代だが熊野川町史は平成20年と2008年でかなり新しい。しかも熊野川町域が本宮と新宮の間だがそんなに書くこともなく昔になると地域の従属関数のような扱いになるから、まず熊野地方の概史を書いてそれにどう関わるかという調子で書いてある。ということでその間の学説の進歩がそのまま反映されていてなかなかわかりやすかった。
 熊野が国家的な「大社」に位置づけられるのは9世紀後半から10世紀前半にかけてで、そのころ急激な神階の上昇がみられるらしい。文化財になってる神像もそのころ作られたものだそうだ。しかも11世紀まで史料のうえに神社としての那智の名が全く見えない。しかも那智が整備され、熊野三山が成立したときに神格も整理されたようだ。
 花の窟の記事が出るのもそのころの話なので、そのころ取り込まれたのではなかろうか。

 もとは熊野坐神社と速玉神社だったのが、やがてそのように熊野三山に再編されていったのは修験道の聖地になったというのが大きいんだろう。あと10世紀初の宇多上皇のように仏教にハマった系の天皇が熊野に行ったりしたせいで神話との整合性を取って価値を高めようとしたのもあるんだろう。

 あと北山地方だが、北山の一揆についてもこのあたり連動したのでふれてあるのだが、天正14年の一揆、天正16年の検地免除を求める一揆、慶長19年の一揆のうち、天正16年の検地免除一揆については実在性を疑っている。天正14年の方はその前年の秀吉の紀州征伐で地位を失なった人たちが結束したということでわかりやすく、慶長19年のも経緯がはっきりしている。
 赤木城の築城も検地反対一揆との関連性で語られることが多いが、当時大建築が各地で行なわれて木材の需要が高かったために木材調達の政庁としての面も大きかったのではないかという。藤堂高虎が田子平で処刑したとかなんとか書いてあることが多いが、慶長19年の一揆のときも田子平で処刑されてるのでそっちと混同してるのではなかろうか。

 昨日通った滝本というところに興味があったのだが、あんまり特徴のあることは書いてなかった。滝の名所であっても山奥すぎると人も来ないんだな。

 毎日充電のためにマクドナルドで晩飯食いつづけたためなんかマクドナルドに行きたくなくなった。ということで今日はそれほど書くこともないのでオークワのイートインを使った。弁当半額193円。明日はどうしようかな。


2018/04/24 火 本宮 → 紀和町 → 新宮

 朝になってから車の中で日記を書く。雨降ってて誰も来ず静かなので非常によい。

 世界遺産のセンターまで出てきた。本が置いてある。

 facebook の通知、ブロックすればいいだけだったのか。

 紀伊続風土記の考えでは花窟についての増基法師の解釈は坊主のさかしらということになるらしい。まぁ幕末だしそういう空気だったのか。10世紀中にそういう観察を残していること自体が珍しく、古い記録なのでなんともいえない。

 熊野市紀和鉱山資料館
 横に道の駅があるが、資料館の近くにできたというところか。

 受付に熱心な人がいるらしいが、今日はなんか違う人で解説もなかった。二階の半分が旧紀和町の郷土資料館で他が鉱山資料館という構成。展示してあるものもなんというかテーマでまとめてある感じだが、しかし諸処に工夫が凝らしてあっておもしろい。二階から一階に行くエレベータを鉱山のエレベータにみたてて、エレベータ内の行き先表示まで「地底」にかえてある。
 全然知らなかったのだが、少くとも南北朝のころから続く鉱山で、熊野床とよばれる銅の精錬技術まで開発していたらしい。鉱山の地質図をみると尾鷲の裏側からつづく谷の東面というのはどういう鉱脈に優れたところだったようだ。もっとも鉄はなかったらしく、中世の刀鍛冶がこのあたりにもいたそうだがどこから鉄を調達したのかわからないそうだ。
 昔の鉱山事業所の案内資料の写真があったがそこに書いてあるところによると慶長小判の金はここの産らしい。

 ついでに湯ノ口温泉に行ってみた。紀宝町のふるさと資料館のおっさんに勧められたところだ。なんか500円玉出したつもりがいつのまにか100円玉になっていたのだが自分の不注意なのか何なのかわからん。それはともかく入ってるときは何も味のない温泉だなとおもったのとなんかホモっぽいのが多いのでとっとと切りあげたが、上がってからしばらくは体がポカポカしていたのでその辺は目をつむってもうすこしつかっていてもよかったかもしれん。

 赤木城

 藤堂高虎が紀州攻めで北山の代官になってる10年余の間に作られた城ということで中世と近世の特徴のまじった城がよく保存されているというのが特徴らしいが、その後各地の名城を作った藤堂高虎による初期の城というところも注目点のようだ。


 ここまで来たらもうついでもついでなので紀和町の有名観光スポットの千枚田も見てきたが、このあたり立派な石垣で構成された棚田は珍しくもないので遠くから眺めるのみ。山を越えて海側斜面に出るとみかんの産地でとくい甘いという「せとか」というのを食べてみた。うーむ。はかり売りでこれ一つで100円だったがちょっと古くなっていたようだ。たぶんこの直売所あんまり売れずに古くなってるな。

 七里御浜の道の駅を観察したあと駐車場で影印本のPDFを読んで日が暮れそうになったらまた新宮佐野のマクドに来て充電しつつ日記。なんか今日も詰めこんでしまった。


2018/04/23 月 那智勝浦 → 本宮

 今日はホテル浦島の湯につかりまくろうということで、夜は勝浦港で車中泊し、9時くらいになってから車を停めておける適当な場所を探したがみあたらない。宿泊客用の駐車場ばかり。あとは船着場に近い町営の駐車場だがちと高い。大型商業施設の駐車場に停めておくという手はこのあたりのはそれほどデカくないので気がひける。とかいいつつもマネする人がいると困るので詳細は書かないが裏の手をつかってとりあえず受付まで行って湯めぐりチケットを渡しいざ温泉へ。とはいいつつも午前中から入れるのは清掃の都合で二つしかない。昼くらいに来ればちょうどよかったがそこはしかたない。あと飯を食う場所はなく、ロビーのコンビニでなんか買って食うしかない。
 とはいうものの、二つ入ったらもう十分という気分になった。忘帰洞と磯の湯、この二つが浦島ではよいのだが午後からでないと入れない。とはいうもののそこまで待つ場所もなく、牛乳飲んだらもう帰る気になって、詳細は書かないが出て勝浦の街中のローソンで充電しながら飯を食った。

 さて昨日ダウンロードしたファイルでも読もうかとおもいながらgoogle地図をみていると県道44号というのが目につく。那智の裏あたりから県道43号があり、それと交差して本宮と新宮の間の熊野川に出る。ネットでみるとひどい道のように書いてるところもあるので興味がでて行ってみた。


 なかなか眺めのよい道だし道幅も十分あるのでとてもよい。ただ途中那智高原公園とか色川とか、道を通す大きな理由のあるところのあたりまではかなり整備されていたが、そのうち最後の写真のような一車線道路になった。これでも見たらわかるように昔の細い道の路肩を強化して今の車でも走れるように拡幅してある。そういう具合なので何の問題もない。

 色川村の狩場刑部左衛門記念碑。

 このあたりまで来ると道に穴があいたりほぼ廃村のようにしかみえないところを通ったりする。土砂災害の跡は車が通れるように土砂をどけただけのところもあった。まぁいちいち維持にコストかけてられないということだろう。実際色川の中心を通ったころからあとはすれちがう車もなかった。
 まぁでもこのあたり路幅は十分確保されてるので、日曜ライダーがオフロードの用意をせずに通ったら悲惨だろうが、自動車ならアクセルとブレーキ踏んでるだけで通りぬけれるので楽々通れる。


 急に見晴らしのよいところに出たのでしばらく休憩したが、このあたりが新宮市と那智勝浦町の境らしい。この見晴らしのよいところで本宮へ行く道(45号)と熊野川へ行く道(44号)が分岐しているが、本宮へ行く道は未完成。まぁ完成はしないだろうな。
 44号は一度滝本というところまで急降下してそこからまた峠を越える塩梅だったが、その滝本も廃村っぽい気配があった。


 みごとな地層のみえる川へ降りたあとはずっと川沿いに走りやがて国道に出た。今までの道にくらべると高速道路のようで非常に怖い。

 その後ついでに本宮に行って湯の峰温泉に入った後、温泉の駐車場で寝ようかとおもったが駐車場に住みついてるジジイがジロジロ見てくるので居心地わるく移動した。そのうち奥駆のとき本宮へたどりつく最後の尾根の七越峰に公園があったのを思いだし、行ってみた。google地図には出てこないが上り口があった。途中見晴らしのいいところに駐車場があったが一台大音量でラジオを流してる車がいたので一番上まで行った。鹿がいたが気にせず寝たが異常に暑い。気温が高いのと湯の峰温泉で体温が高いのと両方だろう。ついでに鹿もピーピーうるさかった。


2018/04/22 日 新宮

 長座布団を導入してから就眠時の体温が上がってしまい、シーツを使うようになった。

 那智勝浦といいつつ新宮市の南端の駐車場で寝ていたのだが今日は新宮市の方に来た。新宮城。石垣はしっかり残っているが崩壊の危険が迫っているらしくあちことトラロープが張ってあってあまり入れない。

 その後オークワの立体駐車場で日を避けながら過去の日記をみかえすと前回来たときは生憎の雨だったが効率的にまわったことがわかる。城跡はとばしていた。捕鯨については五島列島から来てたとか書いてあったのだがまぁ太地よりはじめたのが遅かったんだろうか。また資料館行けばいいんだろうがあんまり行く気がしない。写真がないのはとらなかったのかフォルダごと消えたのか。

 浮島の森。

 もともと広い池がありその中に浮く浮島で、昔は動いて家を壊したこともあったそうだが、開発で周りを埋められ今は動いていないとのこと。泥炭化してるそうだ。受付のおっさんは熱心だったが、中の木が伐採されてることを根掘り葉掘り聞くとどっかの大学の先生が切ったということだったが、他の受付のおっさんが担当してる間になんか木が消えてることもあるということだ。そして引き継ぎもされていないらしい。まぁ夜中にだれか忍びこんで切ったりしててもわからんだろうな。受付のおっさんは熱心な人だったがみんながみんなそうとも限らないだろうし。

 今日は図書館でこないだ気になったことをチマチマ調べた。紀伊国名所図会の熊野篇は昭和になってから作られたもののようだ。江戸時代の間に作られた草稿をもとにしているということだが、たぶんその材料は田辺から中辺路で本宮につく前あたりで終わっている。紀伊半島東半分についてはほぼ昭和だろう。

 温泉入りにこのあたりまで来たが結局なんやかんやしている。もっとダラダラするべきか。しかし今日は奥熊野いだ天マラソンとかいうのをやっていたので那智周辺には近寄りづらかった。明日は平日だし朝から浦島に行ってみるか。


2018/04/21 土 那智勝浦・太地

 那智勝浦町史の文化財の中に神籠石があり、昭和50年代に神籠石とか言ってるあたり微妙な話だなとおもいつつ今では観光地図に出てこないのはなんでだろうと思って見にいった。宇久井ビジターセンターで適当に聞いたが知られていないらしい。

 で見付けたのがこれ。町誌にのってるのとほぼ同じだった。どうみても岩のかたまりだし六角か八角かそんな形をしてるのでどうみても柱状節理である。終了。

 南紀の海沿いに謎の長大なシシ垣があるのは知っていたが、ここに来るまで存在を思いださなかった。宇久井ビジターセンターでだいたいの場所を教えてくれたので適当に探しに行った。

 これ。この石垣の高さは場所による。シシ垣とも熊野列石とも言うらしいんだが、写真の中の丸い石組み、これは落とし穴らしい。延々と横方向に石垣がつづいているだけではなく、縦方向にもあったりする。よくわからん。のぼるところは結構デカい石がゴロゴロしていて太古の巨石文明を彷彿とさせるかとおもったが、そもそも山中石ころだらけだった。これだけ立派な石垣が組めたのもそのへんにある石を寄せてるだけだろう。場所によって低かったりするのは手頃な大きさの石がそのへんに少なかったからか。

 石垣を追っていくとこういう巨石にぶつかった。巨石に見えないかもしれないがこれが天然のダムのよな巨大さで、V字に切れこみがはいっている。その切れこみの下に倒木や石がたくさんあるので上の斜面で崩壊したのがこのV字の切れ込みから下へ噴き落ちて木を薙ぎたおしていったんだろう。近くに侍岩というのがある。

 これも相当な巨石だが、途中に穴が空いている。途中だけではなく随所に穴があいていて、上に空いていたところに落ち武者が住んでいたという伝承から侍岩となったらしい。よくみればわかるが砂岩で、場所によっては手で崩れる。よくこの岩がいままでのこっていたものだ。このあたりの山自体がこういうモロい岩でできていて、すぐに崩れたりするせいで山の中に巨石・奇岩がゴロゴロしてるんだろう。(砂岩と書いたがあとで火成岩だとわかった)

 さて次は熊野地方唯一の前方後円墳の下里古墳。

 当時は海岸で砂丘を利用して作ったものらしい。前方部が低くてよくわからない上に昔は円墳だとおもわれていたのか後円部のまわりに境界の棒が立っている。後円部の葺石は健在。


 そこまで行ったついでに太地町のくじら博物館も行ってきた。ここは朝から行った方がよかったかも。江戸時代の捕鯨法のことを知りたかったが展示は鯨の生態と近代捕鯨法と江戸時代の捕鯨法の絵とかばかりだった。まぁ館内に図書コーナーがあったので本を読んだところ、縄文時代あたりの捕鯨はともかく、江戸時代の捕鯨法は戦国時代末期に誕生したらしい。要は打ちあげられるのを待つのではなく、積極的に突きに行くのだが、それを始めたのが知多半島の先の師崎の漁師で、しかも1570年頃とある。つまり信長治世の尾張ということでなんというか。太地はその技術が伝播してから最初に組織的にやりだしたらしい。関ヶ原の戦の後なので武士を雇ったとか書いてあった。そして網でひっかけてから突く方法を編み出して大きい鯨でもとれるようになったそうだ。
 この江戸時代からの沿岸捕鯨法はアメリカの捕鯨船が外洋でとりだしてから廃れてしまい、日本も近代捕鯨法を学んで外洋へうって出るようになったということで、今はたまたま近代捕鯨法を学んだ件が特別展示になっていた。

 このくじら博物館の目玉はイルカショーらしいんだが、図書コーナーからそのイルカショーが見えるので本をまとめながら見ていると、指導員というかエサもってる人が腕をふりまわしてサインを送り、それをイルカが見て芸をみせているので、司会のおねーさんが何を言ってるのかよく聞こえないが、どういう芸が次来るのかわかるようになった。そういえば世界中のイルカショーのイルカはほとんどここから出しているとか聞いたことがある。

 最後に湯川温泉で一風呂入ってきたのだが、硫黄っぽいのは臭いだけのような感じだった。まぁしかしそれなりにサッパリしたからそれはそれでいいか。

 結局またマクドナルドに来て日記を書いている。最近の日記は冗長すぎるので今日はやったことをいちいち書かなかった。


2018/04/20 金 那智勝浦

 昨日は宇久井の展示施設の近くで寝た。静かでよかったが軽トラが一台朝までいた。その後オークワの近くの公園で洗濯した。天気が非常によいのですぐ乾燥する。なんか臭かったのだがパンツが異臭を放っていたようだ。百均で買ったセスキ炭酸ソーダとバケツだけでかなり落ちるのでよしとする。
 洗濯してからとりあえず那智勝浦の図書館に行った。大正の南牟婁郡誌があったのでザっと読んでみたが、このころからアイヌ語源説があるのが意外だった。イギリス人が言ってたようだが思い付きレベルを越えておらずあまり相手にはされてないが紹介だけはされている。
 昭和50年代の町誌の中で大正の町誌が紹介されていたのでないか聞いていたらなかった。まぁしかたないか。
 熊野唯一の前方後円墳である下里古墳の紹介の紙切れだけもらってきた。

 駅前の観光案内所に入って温泉に入る通しの券を買ったのだが、三個所入れる「手形」(1300円)ではなく、二箇所入れる「チケット」をつい買ってしまった。

 とはいってもこの中から中之島は抜けてしまったのでちょっと価値が減ったかな。中之島は日帰りを2000円に値上げしたらしい。まぁ客層を選んだということだな。

 さて那智の坂の下にある和歌山県土砂災害啓発センターを見に行く。土砂災害をテーマとした展示施設は富山の立山とここの二つだけらしい。

 ここはおもしろかった。砂防ダムの原理を模型で簡易な実験をしてわかるように見せてくれる。県で長年治水に関わってきた技官が定年後飯食うための腰掛け施設のようだが、長年治水一筋の専門家なので話がわかりやすい。最新の砂防ダムは水を流すように柵状になっているらしい。なんか江戸時代の治水技術に戻ったような感じがあるが、今までのような半ダムだと水が優越して木を流してしまうそうだ。スカスカだと木が溜ってよいらしい。砂防ダムだが土砂がたまったら固まるのでよいという説明をうちの親がしていたのだが、あやしいなとおもっていた。ここで砂防ダムの原理が何かよくわかった。砂防ダムで土砂がたまるとその分傾斜がゆるやかになり上の方へ上の方へと溜っていくのだが、砂防ダムは何を防ぐためのものかというと土石流で、それは急な斜面でおこるから、傾きが緩やかになるだけで意味があるということだ。当然土砂は徐々に砂防ダムを越えて流れていくが、土石流を起こさない方が重要だということだ。ダムもあまり高いと倒壊してしまうので高さは15メートルにおさえられていて、足りないときは数層にする。
 中津の山奥の耶馬渓で山崩れが起こったらしいがそれについてもたぶん原因はこうだろうと専門家らしい考えを披露していた。山は岩山の上に土がのってるだけなので、地下水の流れの具合次第でその上の土がまるごと崩れるらしい。で、そういう深層崩壊は全国で頻繁に起こっているという。堰き止め湖みたいな事態はよくあるそうだ。
 その後那智に歩いて登ったのだが帰りによくみると啓発センターからよく見えるところにその新型砂防ダムがあった。しかも谷の両方。本当に展示施設だった。

 せっかく那智大社の近くまで来たのでついでに登ってきた。

 ちょっと登るのにちょうどいい高さでジジババの団体も歩いていたくらいだ。大社や青岸渡寺は工事中だった。

 雰囲気的に金比羅山に似ていたが大権現と書いた灯籠があちこちに建っていたりしなかったのは残念。見所は鎌倉時代の宝篋印塔とかあったくらいか。だが今写真を見返すと鳥居の扁額に「那智山熊野権現」と書いてあった。ただし字が下手なのでそんなに昔のものではないだろう。瀧も遠くから見ただけ。宝物殿があったようだがそもそも閉館時間を過ぎてたようだ。

 今日はローソンの冷凍食品を二回食ったがローソンで充電するのはちょっと気がひける。

 湯めぐりチケットをつかって勝浦御苑というところに行ってみたがあんまりいいような気がせず長湯はせずにとっとと上がったのだが、これがなんとなかなか汗がひかない。温泉の強さというのは全然わからんものだとおもった。

 またマクドナルドに来て日記を書く。汗かいたのでカッターシャツの臭さも顕在化してしまった。今日は夜のうちに洗濯してしまおう。明日も天気よい。


2018/04/19 木 熊野市 → 紀宝 → 新宮 → 那智勝浦

 昨夜は熊野市の山の方にあった公園に行ってみたが、その目の前にホテルがあり、ホテルがあると当然ボイラー音が一晩しているので地味に寝苦しかった。

 どうも寝つけないので明るくなると昨日飛ばした鬼ガ城を見にいった。鬼ガ城のあたりの駐車場はそれはそれは静かでそこで寝ればよかった。しかしトラックが停まっていたので結局同じかもしれない。

 なかなかの奇岩だが鬼ガ城といわれる空洞のところは撮り忘れていた。まぁ日ののぼる前なので暗かったから撮れないというのもあったかもしれない。後で江戸時代の名所案内などみても出てくるのでそのころから有名だったんだろう。案内板をみると坂上田村麻呂の熊野の海賊退治と関連づけていたりする。海賊の基地にはちょっと厳しいんじゃないかな。
 波が寄せて返す様がなかなか激しかったので見ているうちに日が昇ってきて人が来たので撤退。こういう景勝地は早朝に来るに限るな。

 その後適当に南下しながら道の駅に寄る。うーむ。折角来てるのに見れないのはもったいないとおもいつつ車で開く時間まで寝てしまった。

 せっかくなので飼育されているウミガメをみた。まぁ見てるとそのへんの池とかにいるカメと同じような動きをしていた。水槽は狭くて窮屈だろうな。

 新宮対岸の鵜殿まで行ったがスマホのバッテリーがないのでファミマで充電。50%までやって退散し、烏止野神社に行ってみたがペンキぬりまくりで風情がない。よく神社の入口にあって由緒とか書いてある板まで一色に塗ってあって何が書いてあったかも読みとれない。横にある歴史館も開いてなかったが、後で知ったところによると合併してから山の方の展示施設にモノは移動したらしい。

 しょうがないのでとりあえず図書館に行ってみたら紀宝町の新しい町誌があった。いろいろ調べたがそれはあとで書くとして、おもしろかったのは巡礼のことでいろいろと書きすぎているところだ。六部というのは六十六部の略で全国六十六国の社寺をまわる巡礼ということらしいが、職業化・賤民化が進んだとあり、賤民化のところが消してある。修験の高僧が諸国をまわりがてら六部の実態を調べてこう書きのこしたらしい。

世上には馬鹿愚人あり 渡世の六部を行者と思ひたいせつにする。
 修験の高僧といっても加持祈祷などとひきかえに施しをもらったりするわけで、巡礼とはやってることが似てるのだが、行者への施しが常態化するとそれに頼って生きる人間が出てくるらしい。そして賤民化していくと。

 町誌にのってた神内神社に行ってみた。町誌は新しいにもかかわらず神社のところがいいかげんなことが書いてあったのだが、大学で訓練受けてない人が事務力で書いたんだろうか。そのわりにしっかり書いてあるので神社のことは埒外だから鵜呑みにしたのかそれとも単なる事務的作文で作ったものなのか。

 神内神社もなぜか「子安の宮」という看板がかかっている。この「なんとかの宮」というのは最近の流行りなんだろうか。それはともかく神社の手前、山の尾根の先に巨石があったりしてなかなかいい雰囲気だった。裏にも木がいい感じに生えていて岩と融合していた。あとで聞いたところによると上の方に池があるらしい。

 そこから紀宝町のふるさと郷土館に行く。

 まあ民具とかいろいろあったが、その中で一際大きかったのがこの三反帆。その昔熊野川を上下していたものらしい。しかも最近はこれを復活させて熊野川を上下しているそうだ。

 その後弁慶の生誕地なるところをみつけそこねたまま牛鼻神社に行く。

 このように五千年前創建とかアホなことが書いてあり町誌にもそのまま反映されていておかしい記述になっていたが、郷土館の年表には1038年永保元年牛鼻神社が作られると書いてあった。熊野川の対岸の熊野速玉大社の繁栄が妬ましくてそんな偽史をつくって由緒を誇ろうとしたのかもしれない。


 これは御船島。牛鼻神社はここも自分の土地だったのが速玉大社に取られたと主張しているらしいがどうでもいい。

 その後ついに熊野川を渡って新宮市。とりあえずイオンに行ったがデカすぎてイートインに電源がない。それでとりあえず新宮市図書館に行って郷土資料をみようとすると別室にある書庫に案内される。うーむ。もっと軽いのはないかと聞くとカウンターの横にあるのを案内されたが軽すぎて話にならない。しかたないので書庫で本を眺めているといろいろおもしろいのがあったので調べていたら閉館時間になってしまった。

 マクドナルド24号新宮店に行ってみるとなんとか壁に電源のある席があったので日記を書いている。

 平安時代10世紀後半ごろとされる増基法師が伊勢路を通ったのでこのあたりの記録があるのだが、その中に花の窟神社のことが書いてあり、お経を籠めたものだと書いてある。図書館でいろいろみているとそれがどこにも出てくるのだが、いつごろのものか知らなかったので仏教化したという説明もそんなもんかとおもていたが、10世紀後半なら仏教化してしまってはいないだろう。たぶん花の窟のあたりは仏教施設だったんじゃなかろうか。産田神社あたりは弥生時代から土器がでていて勾玉とかもでてるらしいからなにか特殊な祭をやっていたのかもしれない。日本書紀に有馬村と名指しで書かれているくらいだからよほど有名だったんだろう。それが結局花の窟まで取りこんでしまったというだけではなかろうか。

 熊野は地方とはいえ熊野大社があり、また熊野別当が鎌倉時代に活躍し、また南北朝では南朝の地盤となり、応仁の乱の時期にはその震源だった畠山氏の地盤だったのでまたその畠山氏の抗争の舞台となって戦国時代を迎えるという具合でずっと混乱している感じがありなかなか把握するのが大変だ。


2018/04/18 水 尾鷲 → 熊野市

 朝になってファミマに行って日記を書いた。

 とりあえず尾鷲に郷土資料館みたいなのがないか探してみると、郷土室という形であるようすなので行ってみると図書館も入っている複合施設の中の一室だった。ちょうど尾鷲を構成する各浦の紹介が企画展示であってなかなかわかりやすかった。特に戦国大名の九鬼氏のことが平然と出てきていた。その名もずばり九木なる土地があり九鬼嘉隆がこのあたりの抗争に参加していたりもしていた。あとで図書館で調べたことも混ぜて書くと、その出自については南北朝のころ伊勢から追われたという説と熊野別当で流れてきたという説の二つあるらしい。その追われてきた人の子の世代ですでに波切に進出、その曾孫が鳥羽の田城に前進基地をつくり、その子の嘉隆は一時ここに戻るが弘治2(1556)九木を捨てて波切に移ったということになっていた。
 志摩の方の郷土資料だと九鬼氏の出自について諸説ありどうのこうのとか嘉隆が別系統だとかいろいろと詮索しているが、結局志摩の中の材料だけでどうにか理解しようとしているので何もわからないことになる。
 それから志摩であるが国を設置したころに鳥羽の辺からこの尾鷲までの海岸が志摩ということになったらしい。戦国時代に伊勢の北畠氏が南海岸へ進出し、新宮の堀内氏が紀伊半島東岸を北上したのでそれを秀吉が追認して志摩が鳥羽周辺だけになったという次第のようだ。うちのあたり、つまり丹波と山城の境についても秀吉が操作していたりする。国の境というのは奈良時代にいろいろ操作されたあと中世を通じて変化はなかったが、一度秀吉の頃に整理されたということのようだ。
 曽根というところは縄文時代には開けたところだったらしく、全期の土器が出るらしい。しかも各地方の土器が出るともパネルの方には書いてあるがうーむこのあたりはちゃんと確かめていない。

 それから当然のように木材産業の常設展示があったが、どうも大正のころには奈良の方の材木も尾鷲から出していたそうだ。ここの植林は寛永年間のころかららしく、日本の中では結構早くに植林に着手していたことになる。ちなみに一番早くにやってたのはわが山国だ。

 図書館あたりでじっくり調べすぎたので次はとりあえず三重県立熊野古道センターというところに行く。

 このセンターは木造で、尾鷲の檜を使って作ってあるようだ。
 尾鷲というか熊野地方の自然について詳しく書いてあり、郷土資料館の欠を補うような形だった。その自然の方の情報の圧縮具合に比べると伊勢路については少ない情報をなんとかのばしている感じがあった。ところでやはり伊勢の田丸でルートが分かれるという意識があったようで、東国から伊勢に参拝した人は田丸で京・大阪・奈良方面行きの人と熊野方面行きの人に分かれるらしい。熊野に行くのは西国三十三箇所巡礼が那智からはじまるからという理由もあったようだ。

 ところで尾鷲のあたりは深層海洋水も売りにしているらしく、センターの近くに深層海洋水を使ったスーパー銭湯と飯屋があった。そこで塩ラーメン売っているというので昼飯にしようかと寄ってみたが、土日の16時以降かららしい。うまそうな昼バイキングが1200円でやってたがそんなに食欲なかったので深層海洋水のボトルだけ買った。ナトリウムは除去してあるらしいがまぁつまり硬水ということで若干苦かった。


 とりあえずここまで来たので九鬼浦まで海沿いに移動したが、高雄のあたりから愛宕山の方へ行く山道のような感じで険しかった。このあたり山の斜面がキツくかつ高いので条件的には似たようなものか。途中公園があったが尾鷲ユースホステルの廃墟があった。山が険しい=眺めがよいということでその点はなかなかよかった。

 さて九鬼だがろくに調べずにぶっつけ本番で来てるので何も情報がない。

 来てみたら途中のあの険しい眺めの下を鉄道が通っていて、この九鬼まで鉄道が通っていて拍子抜けした。それも尾鷲市史の昔の地図しか見てないのでわからない。とりあえず九木神社なるものがあったが天満宮だった。由緒によると伊勢佐倉説である。しかも九鬼(=九木)に蟄居したあとまた南朝に仕えて伊勢で戦争したときに包囲されて自殺しようとしたが天満天神のおかげで助かったのでそれを記念して立てたものだという。永和年中に帰ったとか書いてあるがそのときすでに義満の時代だからよほど筋金入りの南朝ということになる。熊野別当説ならどのつく幕府方なのだが。
 他におもしろいのは丸い石が納めてあることか。これ丸石信仰で探すと結構あちこちにあるようだ。ググって出てきたのは山梨・熊野地方。信貴山縁起絵巻にも出てくるらしくそこではサエノカミとなっているそうだ。ここのは札が立っていて「龍宮の使者」と書いてある。

 そこからまた海沿いを走ったりして海を見つつ熊野市に出てきた。尾鷲周辺まではリアス式だが、熊野市あたりから直線の浜になる。その境目の海岸には巨石・奇岩の景勝地が多く、その一つが花の窟神社ということだった。

 日本最古の神社とか書いてある。んー?これもあとで図書館に行って調べたのだが、日本書紀に「熊野の有馬村」と書いてあるからそういうことになってしまうらしい。ここは墓所で、神社は別の産田神社だという話もあるがまぁどうでもよい。

 熊野市歴史民俗資料館に行く。

 案外まともな展示もありつつも、花の窟神社があるせいか神代のあたりなんかまるのみにしてただ展示してある。まぁ実際よくわからんのだろう。あとで図書館に行って熊野市史をみたが、花の窟神社のことについてはかなり混乱した記述をしていた。普通熊野といえば本宮と新宮・那智のへんのことを言うのでここが熊野である理由がないといけない。という苦しい事情があったんだろう。「窟の熊野」という苦しい理屈をつけていた。

 資料館の人に勧められて産田神社に行ってみたがここがイザナミがカグツチを生んで死んだところだと説く。うーむ。とりあえず弥生時代ごろからの祭祀の跡はあるようだ。  そういえばこの辺にも木地師がはいりこんでいたとか資料館には書いてあった。

 資料館と産田神社に行ったあと、さらに図書館に行ったことは書いた。駐車場が一時間だったのと、熊野市史が花の窟神社などについては信仰寄りでその他にまともな本がなかったので切りあげてイオンとオークワを探検してみた。イオンのイートインは電気が使えるので座って飯食いながらのんきに日記を書いているという次第だ。図書館に行く前に一度下見したときは親子が暇潰ししていたがある程度日記を書いてバッテリーを減らしてからイートインに来たが誰も使っていない。うーむ。しかしこれ毎日長時間使うのは具合悪いだろうなぁ。


2018/04/17 火 伊勢市 → 多気町→ 大紀町 → 紀北町 → 尾鷲

 昨夜も大仏山公園で寝たが、寝る前にイオン系のビッグというスーパーで1000円程度の長座布団を買って敷いたところ、体温が高いまま寝れた。それはそれとして夜中に目がさめたとき変な音がしていたがまわりをみても一台も車が停まっていない。トイレに行ってあたりを確認してもなにもなさそう。それはそれとして自販機がまぶしいので場所を買えたらもと停めていたあたりに黒猫がいた。

 さて今日は図書館やすみなので那智勝浦の方へ移動することにした。田丸城の方に行って城下町で熊野方面に行くと途中多気町の郷土資料館に行く。

 六角堂というのがあってそこに「郷土史料館」と掛けてあるがこれは今開けてないらしい。郷土資料館自体は間借りしてる状態で一部をテーマ展示していた。ここに伊勢本街道と書いてある石の道標のレプリカがあった。
 ここで拾ったパンフレットを後で読むといろいろ興味深いことがあったが、中でも気になったのが、江戸時代には伊勢暦というのが伊勢の御師によって頒布されていたが、そもそもはここの丹生というところの人に伊勢国司の北畠氏が享禄5年(1532)、暦司の地位を安堵して丹生暦を出したのが最初らしい。それを伊勢の宇治山田で御師がマネして発行しだしたのが伊勢暦ということのようだ。そういうと陰陽師の土御門家は応仁の乱のとき福井の名田庄に避難したのだが、それと関係してるんだろうか。とおもって三島暦を調べたら応仁・文明頃からとか書いてあるのでたぶん関係してるんだろうな。
 ところで丹生だが奈良県からこのへんまで水銀の鉱脈があり、そういう地名になっているそうだ。山の反対側に丹生川上神社とかあるが単に水銀がとれるよというだけの話か。

 そこから適当に下っていくと瀧原宮というのがあったので、道の駅に寄ったついでに拝んでおいた。

 その前に秋津教会というのがあったので何かとおもっていた。ググるとカトリックの秋津教会というのが多すぎていい塩梅で見付からない。
紅葉の瀧原宮 – 神宮巡々
 ここにそれっぽいことが書いてあるのだが、その由来であるところの神名については瀧原宮 - Wikipediaに書いてあった。神道五部書由来のようだ。ということでやっぱり新興宗教みたいなもんじゃなかろうか。

 三重県のローカル牛乳は「大内山牛乳」なのだが、このあたりが本拠地のようで42号沿いに直売所があった。

 小麦粉系のお菓子は休みで置いてなかったのでコーヒー寒天を食ってみたけど寒天とコーヒー・牛乳というのがちょっと合わないような気がした。どうでもよい。

 紀伊長島郷土資料室
 山中から出て海辺に降りたところの紀伊長島に図書館がありそこに併設されていた。つい最近作られたそうで展示内容もかなりよくまとめられている。

 2階の図書室にパネル展示で紀伊長島の概要が展示してあり、3階にモノが並べてあるという趣向。
 このあたり紀伊国だったとおもっていたが、経緯からいうとまず熊野国がありそれが大化の改新のころ志摩国の新設によってこのあたり志摩国になったそうだ。さらに戦国時代に新宮の勢力によって切り取られて紀伊国になったということらしい。
 鯨も鰹も沿岸漁業だということが書いてあるが、その起源はよくわからず、江戸時代前期に銛でくじら2頭を突いたのでお祝いに伊勢参りしたという記録があるようだ。どこかから技術が入ってきたということは書いてないので記録もないんだろうが、江戸時代前期のうちに紀伊半島で捕鯨技術が確立して他地域に広まったということかな。他のとこだと紀州の漁師が来たという風に書いてある。

 海山郷土資料館
 紀北町は紀伊長島町と海山町が合併して誕生したようだが、その海山町の方の郷土資料館がそのままのこってたのでついでに行ってみた。

 雑然と資料が展示してあるが、この資料館ができたころからそんなに変わってないらしい。たぶん民具収集の運動があったころに集めて展示してそのまんまなんだろう。ボーっとみてると今ここを管理してる人が出てきたので話をした。
 この建物はもともとこの隣の山林地主が作った木材のセリのための会所だったようだ。そのセリに使った箱なんかも最近出てきたらしい。それが公民館になり最後は資料館として転用されたということだ。漁業が盛んなのかとおもったが杉・檜の輸出が大きかったようだ。しかも江戸時代に江戸方面へ輸出するということだった。なるほどなぁ。土佐の材木を堺方面に運ぶのが阿波の財源の一つだったとおもえばそのもうすこし規模を大きくしたものになる。海沿いの多雨で急峻な山地という条件もおなじだ。なんか関係あるのかどうか。
 雑然と置いてあるが中には明治初期に村だけで通用した「村札」とでもいうような珍品があって驚いた。(村札は珍品でもない。このころボケてた模様。)しかもこれで全てではなくて収蔵庫も別にあるようだ。

 この旧海山町模型は手作りらしく、今いる人も製作してるのを横で見たそうだ。ちなみに退職した先生とかがこういうのを担当してるそうだ。まぁ最近は年寄も若くなってきたとはいえ老人の域に足を踏み入れている人たちにしてみれば現状維持が精一杯というところか。整理もすこしづつやってるけど進まないとのこと。
 こういう郷土資料もそのうち地方のお荷物になってるんだろう。途中にあった大紀町などは郷土資料館があったが閉館していた。定年になった人らの腰掛けに使われてろくに整備もされず朽ちてくのかもしれない。

 さて尾鷲にマクドナルドがあるので電源があるのを期待して行ってみたがなく、イオンのイートインに電源があるというので行ってみたがない。うーむ。よくよく調べるとファミリーマートの休憩するところに電源があるようだがどうでもよくなってとりあえず海山の道の駅に戻ってとっとと寝た。


2018/04/16 月 伊勢市

 昨夜は大仏山公園で寝た。上の方は朝いた車がまだいて驚いたが、車がひっきりなしに入ってくるのでポケモンでもやってるんだろう。朝になってまた上の方に移動したら誰もいなかったがそのうち車が入ってきた。

 『陰謀の日本中世史』だが観応の擾乱のあたりは亀田説をある程度踏襲しているものの、一番肝心の高師直と足利直義の衝突の原因は亀田本で必死に否定していた従来説の政治路線の対立に置いている。亀田説ではそれほど差はなくしかもどっちかというと保守的なのは高師直の方で、衝突の一番の原因は後継者を義詮と直冬のどっちにするかというところにしてわかりやすくしてたはずだが。呉座的にはそこは憶測の範囲を越えないという判断だろうか。

 今日ようやく全部読んだのでちょっと給油しに明和のイオンに行ってからまた小俣の図書館に来た。長距離移動しないときはどっかで充電せんといかんからつらいのー。それはそれとして松阪のガソリンスタンドで入れた分は明らかに燃費がわるかった。松阪から伊勢市・志摩のあたりは短距離移動がメインだったからかもしれんが。


2018/04/15 日 伊勢市

 昨夜はまた河川敷の見通しの悪い林の中で寝た。雨は昨日から降っていたが、朝になって目がさめるとその音が気になりだし、明るくなってから大仏山の公園の駐車場のど真ん中に移動した。雨がかかるのはおなじだが、林の中で雨垂れに打たれるよりは雨が平均化されてわりとうるさくない。

 朝からパラパラと河出の日本歴史大辞典を読んでいたが、左翼的とかなんとか言う以前に情報が古くてまとまりなくあんまり使えない。

 田丸城の近くにあった村上龍平記念館のおまけみたいな郷土資料館だが、昨日あつめたパンフレット数枚を眺めるが記述が一定していない上、展示資料が昔とどうも違う気配もある。ちょっとレベルが低かったんだろう。町の教育委員会だからしかたない。

 図書館に来た。このへんパソコンについては整備されてるな。マクドナルドとか使うより全然いい。

 北畠家について調べるとどうも本城は霧山城という山奥らしい。山奥とはいえここは伊勢本街道という街道が通っていたらしい。図書館で調べたが結局これがわかりやすい。
みえの歴史街道/ウォーキング・マップ:伊勢本街道
伊勢本街道の難所越え・峠を越えて温泉にひたる! |歩く・奈良
 飛鳥時代はこの道が伊勢への道だったということらしい。霧山城のあたりを通って田丸城のへんを通ると。昔から何々街道という正式な名前があったわけではないが、この歴史街道の企画による整理によると、やはり松阪が和歌山街道の到着するところで、田丸城はこの伊勢本街道と和歌山街道から分岐した和歌山別街道が合流するところとなっている。熊野街道については伊勢起点しか認めてないようでここでは松阪に行く道はのっていない。まぁ歴史街道の企画は一般向け水準のようで説明にもあやしいところがあるので参考程度だが、伊勢本街道は飛鳥時代のころの道で奈良時代には鈴鹿を通るようになって使われなくなったのが北畠氏の霧山城のおかげで再度使われるようになったらしい。
 しかし飛鳥時代のころ街道として使われていたというのは本当かな。

そもそも「伊勢本街道」は、神宮を伊勢に祀った倭姫命が大和から伊勢へ向かった際に通った道といわれており、北緯34度31分を貫くいわゆる「太陽の道」とも関連付けられることから“神意に叶う道”として西からの参宮者が多く利用した道であった。しかし、伊勢本街道は距離的に短い分、険しい山道が多く、これより北を走る北街道の方が平坦であったため参勤交代に使われたため、次第に伊勢本街道の整備は怠られるようになり、利用者も減っていった。
伊勢本街道とは | 伊勢本街道保存会
 なんか伊勢本街道を称揚するのはこういう情報源がいいかげんな記述をするところが目につくんだが、この「伊勢本街道保存会」はどうもユネスコ「プロジェクト未来遺産」というのに応募するのを目的としたものであるようで、その前後しか活動してないようだが、その会長だった人は今こんなのをしているらしい。
公認先達・歩き遍路の会:So-netブログ
 まぁ早期退職して適当に暮せるならなんでもいいんだろうな。

 これだけ寿命が長くなると定年になってもその後の人生も長くなりどうやって暮すか必死なんだろ。生活レベルは一度上げてしまうと簡単には下げれないし。今の日本の小さい悪事がそういうところに集中してるのもアホらしい話で。

 Amazonの中古で国史大辞典全巻揃いが26300で売ってるなぁ。それ買って車に積もうかな。

 図書館の小俣の方に離宮院の遺物の展示があった。斎宮の関連施設で、斎王が年に数回離宮院に行って祭祀を行なうということだが、ここは宮川の西側になる。伊勢神宮の諸施設は宮川の東側にあるのだがどうしてその範囲内に入れなかったんだろう。

 図書館の外宮に近い方に行ってみると本が豊富だった。そしたら昭和50年代の歴史の道調査の報告書があった。それでわかったのだが、「伊勢本街道」の名称は明治15年の政府の調査によるらしい。伊勢本街道についてはいろいろ本があったが、どうも古道ブームというのがあって平成の最初のころに注目されたようだ。それで通俗本にはそのころの流行りのレイラインとか取りいれられたということかな。
 通俗本には大阪の玉造神社を起点としてるのが多いのだが、どうもよみうりテレビの宗教番組枠でこの伊勢本街道を扱ったのがあり、しかもそれを数冊の写真本(絵本的な体裁)で出していて、その本で玉造神社を起点としていた。「伊勢本街道保存会」がユネスコへの申請のために集めた資料の中にもあったんじゃなかろうか。

 ところでこの歴史の道の調査報告書は各県の教育委員会がまとめた貴重な報告書なのでPDFで公開してほしいところだがどこでも公開してない。それどころか集成して復刻してる出版社まである。これくらいのものは公開してほしいところ。


2018/04/14 土 伊勢市

 しばらく無駄に移動しまくって疲れたので今日はスーパー銭湯に行ったり本でも読んでたりしようとおもう。昨日は宮川の河川敷で寝たがいい塩梅に木もはえていてよかった。今日はすこし冷える。ただ昨日日本歴史大辞典を車内に入れたせいか結露しなかった。ところで日本歴史大辞典だがあんまりいいものではない。左翼史観バリバリの時代にできたもので一揆とかやたらたくさん項目が立ててある。これは資料集ではなく項目の全ては編纂物なので筆者の意向がモロに反映する。どうせなら国史大辞典でも置いてあったらよかったんだがそんな簡単に手にはいらんわな。まぁ車内湿度をバランスする材料としては優秀だからいいか。

 国史大辞典買おうかな。

 的屋元彦なる人物が志摩市立歴史民俗資料館の年表の中で出てきており、たぶん大成経となにか関係あるんだとおもっていたが、以下の文章の中にある的矢氏の後裔というのがそれなんだろう。
伊雑宮偽書事件顛末記
 戦国時代のころ九鬼氏に横領された領地をとりかえすためにいろいろやっていたが、九鬼氏が改易されたときに伊勢神宮の二見は返還されたのに伊雑宮の磯部は返還されず、その後も長年運動するうちにエスカレートして偽書作成となったようだ。それでも結局そういう領主領地関係がなくなる明治になるまで返還はかなわなかったらしい。年表の方をみると、御師も御田植祭も18世紀になってからはじまっているようで、偽史によって一度高く持ちあがると下がらないものとみえる。

 これが昨日泊まった宮川の河川敷のあたり。渡し船があったあたりが公園になっていて開放されてるが他のところも開放されてるところがあって車中泊につかえる。ただしすぐには入口がわからないようになっている。


 それからついつい田丸城を見にいってしまった。日本歴史大辞典の地図をみてると田丸城から和歌山街道と熊野街道がわかれることになっており、たしかに松阪でも田丸でもいけなくはないものの、地形的に松阪の方がいいのになんでだろうとおもったわけだ。田丸にも松阪とおなじように支藩があって城があったのはわかっている。

 写真のようになかなか凝った石垣をしていておもしろい。天守に入るところの石垣などは斜めについている。
 もともとここに城ができたのは南北朝のころらしいが、案内板によると、織田信雄がここに入り、安土城ができる前に天守閣ができたといい、安土城の天守閣ができる前のプロトタイプの可能性があるということだ。
 ということでぐるぐる回ってみたが、天守閣のある方は複雑で凝っているが、連結されてる北の丸は入口のところだけ複雑であとは四角の台だったのであんまりおもしろくもなかった。まぁそっちは中世的な城ということか。

 村上龍平記念館というのが麓にあるが、これは戦前の朝日新聞の社主らしい。それで豪勢な箱がつくってあるのか。

 朝日新聞をつくったわけではないが、新聞草創期に朝日新聞社を買いとって経営にのりだし大新聞に押しあげた功績は大きいということだろう。田丸城についても城跡を払い下げてもらい、城山公園として寄付したのだという。
 ここに昔の田丸城の模型があったので、田丸城は本丸と二の丸も北の丸と同じように切り離されているはずだが、今は連続して一つの土台のようになっているので誰かが埋めたということがわかる。
 郷土資料は散漫に置いてあってまとまりがない。そもそも南北朝のころに北畠親房が最初に根拠とした城らしいのにその関係のことがちょっとしかない。もっと大々的に顕彰されててもいいはずなのに不思議でもある。戦前にそういうのやってたとしても戦後抹殺されたんだろうか。

 そのあと銭湯にでも行くつもりだったが、大仏山というところが車中泊しやすいようなので下見に行ってちょっと寝たらそのまま寝てしまった。夕方みたすの湯というスーパー銭湯に行ってみたがここはなかなかよかった。で、銭湯でゆっくりしたのでイオン伊勢まであわてて来て充電しつつ日記を書いている。
 そういうと伊勢市の図書館はパソコン使えるスペースがあるようなので使うかもしれん。


2018/04/13 金 志摩 → 鳥羽 → 伊勢市

 昨日の夜というか丑三つ時に体験した怖い話でも書く。
 伊勢神宮の近くの公園で寝ようとしたが、高架の道路の下なので案外うるさい。それで伊勢道路を通って志摩市側に抜けるとどっか山の中で寝れるのではないかと思ったのだがこれがほぼすべて脇道の入口が閉鎖されている。まぁそらそうか。伊勢神宮の裏山だから頭のおかしいのが入りたがるんだろう。それになんか嫌な感じもするので、志摩市側にいったら、天の岩戸なるところがあって駐車場まで入れた。
 真っ暗で誰もおらず静かでいいのだが、ここは妙なところがあった。最初寝床をつくっているときに自動ロックをかけてキーをシートの上に置くとすぐ開錠した。ん? なんかのはずみだろうが初めてだ。そしてとりあえず毛布にくるまって頭を後ろのドアの方に向けて寝るとすぐ、外からなにか二回つつく音がした。うーむ。なんかいやな感じはするがまぁここまで用意したので気にせず寝ることにした。
 さて夜の二時ごろに一度目がさめたのだが、寝惚け眼ですぐ上にある後ろのガラスをみるとよく見えない中になにかうごめいているのがみえる。木の葉の具合だろうが下からみえる一部に四角い部分ができてそこになにか映像が移っているようにみえるのだ。なんかしらんが寒気がして、眠気で伸びていたイチモツも縮みあがってしまったのだが、だからといってここをすぐに立ち去るのもアホらしい。さてこんなので死ぬことあるんだろうかと思いながら見ているとその四角い窓が二転三転したかとおもうと、青白い火の玉のようなものになって、それが四散して数個の火の玉になって消えた。ちなみにその四角い窓のようなものに移っていたのはたとえば目の玉のデカい女のようなものだったりしたが一瞬でうつりかわってたのでどうでもよかった。
 それからは必死にキンタマを揉んでとりあえず縮みあがってるのを伸ばす作業に着手して強制的に体を寒気のする状態から戻そうとするのだが、上を見ているとときどきまた光る点がみえてまた寒気がしてくる。とはいいつつもずっとやっていると普通の木の葉の間から見える夜の空になるのだが、そのうちまた眠気が戻ってくると、ドンというような音がする。
 そのとき考えたのは覚醒ゾーンと睡眠ゾーンの間の眠気ゾーンのようなところのせいではないかということだ。霊感とかなんとかそういうのは眠気ゾーンで影響を及ぼしているものではなかろうか。もしくは眠気で外界の認識がはっきりしないときに心の中の不安などが投影されるのではなかろうか。何か光っているのがたとえば車の前方で光っていたのがガラスに反射して、青白い火の玉に見えたのか、単に風が強く、木が揺れて葉の影がいろんな形に見えたり、その向うにあった星が見えたり見えなかったりしたのか。
 とにかくどうもこの場所で眠気ゾーンに入るとヤバいようなのでとりあえずほっとくと縮むイチモツを伸ばしたりしながら朝を待った。朝になって外を見たら、わざわざ木の影になるところを選んで車を停めていた。うーむ。

 せっかくなので天の岩戸を見にいったら岩穴から水が出ており前に滝などあった。名水百選に入っているらしい。真珠王の御木本幸吉手植えの楠なんてものもあった。ついでに風穴なるものもみた。

 また恵利原の水穴という名前もあるようで、そっちが本筋なんだろう。なぜ天の岩戸なのかよくわからんが、案内の看板に御木本幸吉が信者だったとか書いてあったのでたぶんそのころなんかそういう宗教団体でもあったんだろう。

 朝になって返って元気になったような気になったのでとっとと降りると近くに道の駅がある。なぜ気付かなかったのか。行ってみたら車中泊組でいっぱいだったので行かなくてよかったかもしれん。志摩市歴史民俗資料館は9時半にならないと開かないのでとりあえず伊雑宮に行ったあとそのへんの名所をぐるぐるまわった。

 この伊雑宮は江戸時代に先代旧事本紀大成経(いわゆる先代旧事本紀とは別物)という偽書がつくられ、その中で伊雑宮が伊勢神宮のメインであるというような説が書かれたとかいう話だ。倭姫の天井石なるものもその文脈から推定されたものらしい。天の岩戸もあるいはそうかもしれない。神道系の偽書で有名な九鬼氏もこの辺の領主だったからそういうものの影響があるだけということかもしれん。

 それでも時間があまったので次に相差海女文化資料館というのに行ってみた。これは鳥羽市側にあるのだが、途中の道が工事中で旧道を行くことになったがなかなか狭いところを通った。

 展示自体はたったの一部屋で、海女の漁について一通り説明があり、あとは若干地方資料があるだけですぐ見終わったのでまた同じ道を通って戻った。途中海がきれいだった。

志摩市歴史民俗資料館
 志摩市役所磯部支所の複合施設の一階が資料館と図書館になっている。

 考古資料から民俗資料までいろいろ置いてあってよかった。たまたま特別展示で志摩市内の文化財のパネル展示があり、いくつかは実物も持ってきてあった。海女や真珠などについていちいち年表でまとめてあったところもよい。ここは年表のつくりかたがなかなかうまく、説明するより年表で感じろという風のところもある。
 考古資料で興味をひくのはおじょか古墳という古墳が5世紀中葉~後葉にできたがこれがそこの古墳群の中で一番古く、また北九州の影響が強いらしいところ。

 ひととおり見たあと、図書館と資料館の間のところにいくと、除籍書籍の配布をやっていた。ほとんどは文庫の小説だったが、中に河出書房新社の日本歴史大辞典があったのでそのままもらってきたが車の中に置きづらく無理に置いた。

 それから九鬼氏が根拠にしたという波切に行ってみたが、実に狭い港町でまた有料駐車場だらけで車をちょっと置きづらい。まぁ300円とかなので払えばいいのだがすこし離れたところで停めるところを探して狭いところに入っていって引き返したりしたあげくあきらめて、志摩半島の先まで行った。

 志摩半島の先は海水浴場として開発されており、のこりは別荘地になっていたようだが、それらの施設た一様に古いのがまたなんとも。先端までは行く道はなかったのでとりあえず行けるとこまでいった。

 そんな風に無駄なドライブをしているあいだに夕方になり、ひきかえすことにした。伊雑宮のあたりで鳥羽道と伊勢道に別れていたのだが今でもそのように道がわかれているので鳥羽道を通って鳥羽城まで行ってみることにした。

 鳥羽の町に近づいたころ、道の右手にいわくありげな丘があり、九鬼岩倉神社の鳥居があるのでよくみると「田城城跡」とある。日本歴史大辞典にあった「志摩国田代」はこれかとおもって車を停めた。九鬼嘉隆の祖父がここに拠ったとか書いてあるのだが、嘉隆が兄の子を殺して城を廃し、その怨霊を鎮めるために九鬼「惣領」権現が祭られたとか書いてあるので嘉隆は簒奪したということなんだろうか。
 その後鳥羽城に行ってみたが石垣だけ残っていた。本丸は城跡に建てられた小学校のグラウンドになっていたらしい。その小学校は文化財として残されていた。

 ということで今日も無駄に見まくって日記を書くだけで手一杯というありさまだった。まあ昨日の夜のどうでもいいことを詳しく書いたせいだが。スーパーのPLANTがこんなところにあったので二回も寄ったことも書くべきだったか。最後に頼ったのはイオン伊勢。で、閉店時間の22時が来たのでイオンララポート(伊勢市郊外)の方に来て駐車場で書いた。


2018/04/12 木 松阪 → 明和町 → 伊勢 → 志摩

 昨日は本居宣長の墓があるという「ちとせの森」の駐車場で寝た。静かでよかった。しかし本居宣長の墓までは見に行っていない。

 そういうと松阪は紀州藩のものだったそうだ。調べてみると紀州藩はかなりたくさん伊勢国に領地をもっている。紀伊国のうち新宮から北は今三重県なのだが、もともと紀州藩とのつながりがたくさんあり、それでそんなに抵抗なかったんだろうか。

 松阪から伊勢街道沿いに移動したが道々古いものがあってよい。

 斎宮歴史博物館

 340円。ここは斎宮の博物館の皮を被っているが、その実、三重県の埋蔵文化財センターなので展示も考古学が随所に顔を出す。斎宮だけあって出てくる器の質がよい。特に磁器系。それから鎌倉時代くらいまでは存続していたので連続して出土しているので出土しているもので綺麗な編年が作れるあたりがまたよい。しかし編年的な展示をしているコーナーは撮影不可なのであった。なぜ?
 未婚の皇族の女子が斎王として滞在するということで、日本書紀とかにあるのを地にやってる感じだが、天皇在位中はずっといるということで男女の祭祀王的な面がそこに現われるということか。しかし未婚の女性がそんな長期に伊勢にいるとなると婚期を逸するよな。院政に移行した一因なんじゃなかろうか。
 あとは瓦がないとか古来の掘建柱形式であるのを仏教を排除したという風に解釈しているのも興味深い。そんなに早く神道と仏教を截然と分けれてたんだろうか。とはいっても実際に普通ならあるものがないのだからそうなのかもしれない。
 承久の乱以後すぐに斎王を立てなくなり、持明院統は立てないようになったりして最終的に後醍醐のときに立てたのを最後に消滅するということだが、これは仏教化したということでいいんだろうか。後醍醐は例の画像で密教に凝ってたというので有名だが、大覚寺統は実は代々そうだったらしいし、持明院統は光厳は出家したうえに死ぬ前に自分の寺を持っていたりする。まぁもっとも南北朝のころに皇女を伊勢に出すということ自体難しいか。


 斎宮歴史博物館の駐車場に地方物産を売る店があり、そこで萬金飴なるものをひとつもらった。薬の萬金丹を黒糖飴風にしたものらしく、黒糖味がそのうちそういう味になる。
 近くに斎宮の施設を復元したものがあった。まぁノリは平城宮跡みたいなもんなのだろう。たまたま三重ローカルの番組の撮影班が入ってて邪魔だった。

 復元施設の近くの休憩所で伊勢うどんでも食べたのだが、そこにあった明和町の案内をみていると、斎宮関係が前面に出ているが、隠れるように明和町の歴史資料館っぽいものがある。ついでなので行ってみた。

 明和町のふるさと会館なる複合文化施設の二階。放置気味なあたりも嬉野とおなじだが、こっちはこっちでおもしろかった。坂本古墳というのがありそこから大刀がでている。この古墳がおもしろいのは終末期古墳なのに前方後円墳だということ、大刀が出ていることの二つ。斎宮が伊勢神宮の近くではなくこの辺にできた事に関係している豪族の墓ではないかということになっている。あと、松阪の方で特産として有名だった藍もそれをつかった織物もここが本場だったようだ。あと関東の方には伊勢型の土器なるものがたくさん出てくるのだが、その土器を生産していたのもこのあたりらしい。説明のパンフがたくさん放置してあったのでそれを一枚づつ全種類とってきたが読み応えあった。
 こういうしっかりした資料整理できているということはちゃんとした学芸員を置いているということだが、そばで斎宮の発掘してるので余計ちゃんとするんだろう。

 さてここまで来たのでついでに伊勢市の郷土資料コーナーへ。伊勢市役所小俣支所の一角にあるが、小さい場所をちょっとだけしかあてがわれていないにもかかわらず意欲的な展示をしようとしているのはわかる。

 うーん。郷土資料館があったのを整理してこうなったようだが、どういうことかわからん。見せ方に凝ってわかりやすいけど情報量の薄い博物館が増えて、こういう実直で趣味性が高くて白黒付けがたい展示が減るのはいかがなもんかとおもう。

 そこからマクドナルド伊勢宮川店に行ってもらってきた資料を全部読みつつスマホの充電をした。


 そこから大湊を見にいったがなにもないのでスゴスゴとひきかえす。ここまで来たのでついでなので伊勢神宮の内宮と夫婦岩だけ見てきた。斎宮の歴史の中に斎王が伊勢神宮の荒祭宮に託宣したという体で朝廷の斎宮軽視を訴えたとかいう事件があったということなので、内宮の別宮の荒祭宮もみてきた。まぁ見たところでどうということはないが。ただ17時すぎてから行ったので警備がなんかモノモノしかった。
 夫婦岩の方は自転車でなんとかした。もっとも伊勢の観光なんかは自転車の活用しがいがありそうだったがやってない。

 最後、ATMでカネをおろすべく伊勢のイオンに行ってみたら、イートインに本が置いてあって読みながら100円のコーヒーが飲めるようになっている。そのうえ電源も開放されていた。ということで半額商品を買って食いながら今日の日記を書いた。伊勢は山が近く、また半島の端にちかく、南側の志摩は人口密度薄いので案外車中泊の場所には困らなそうだ。ここいいかもな。


2018/04/11 水 津 → 松阪

 昨日は津の海水浴場の無料駐車場に停めて寝たが朝になったら警備員みたいなのがいた。

 とりあえず松阪まで来て松坂城(松阪城)を見にいく。

 石垣が複雑でなかなか格好いい。そう思えてくると城内のなんでもかんでもいいような気分になって、公衆便所ですら格好よくみえてくる。

 城の上でラジオ体操やってたので参加した。自転車をつかって城内を適当に回ったあと、城下をグルグルまわった。観光は6時台に済ませると人があんまりうろちょろしていなくてよいな。
 松阪市内は時代に取り残された気配があるが、古いところをなるべく残すようにしているようだ。武家屋敷地から城がいい感じに望めてるところなどはよかった。

 マクドナルドでちょっとスマホの充電をしたあと、はにわ館に行く。宝塚古墳という前方後円墳があり、そこの造り出し部から船形埴輪などが出たという。

 この船型埴輪は船の上部構造の部分が保存されていて当時の船の実際をしのべるものであるということだ。展示の方ではヤマト政権が東の方へ進出する頃にできてるので松阪のあたりは進出する拠点となっていてそこを押さえていた王の墓だろうとのこと。あとで宝塚古墳を見にいったが平野を一望できるいい場所にあった。

 その後また城にのぼって城内にある歴史民俗資料館にいく。この建物は明治末に建てられた図書館らしい。チケットを買うときに「松阪商人の館」との通し券を買うと50円安くなるというので買ったが、中にその家の持ち主の小津家の詳しい事績が書いてあったので逆に興味が出てきた。

 他の展示は松坂城関係、梶井基次郎、紺、木綿、松阪商人、水銀など。本居宣長関係のことは随時差しこんであった。

 そういうと松阪神社というのがあるが、城のある丘はもともと神社の森だったそうで、神社も城と峰つづきのところにある。さらに昭和初年に本居宣長を祀る神社ができて半分とられてしまい、そのままその神社がのさばっていて今は本居宣長の宮とかいう変な名前の神社になっているようだった。ただしこの神社、氏子がないのを逆手にとって、松阪神社のような土地神ではないとでもいうような書き方をあちこちにしていた。<br>  伊勢の商人の営業形態は、伊勢に資本、江戸に営業所という形だったらしく、伊勢の方にいる主人は遊んで暮していたらしい。本居宣長もそういう形で学問に励む時間が作れたようだ。余技で学問するは公家のマネかもしれんな。

 あとまぁついでに松阪商人の館を見にいった。疲れたので畳でしばらく寝てきた。土間を広くつくり採光部もつくるのは流行りだったんだろうか。うちもそんな感じの構造をしている。たしかにそうすると夏涼しくてよい。

 しかしこの風呂の小ささは意外だった。松阪商人の館だが、西側に現代の家がついてるのでたぶんその家が本宅で、古い家のおもりが面倒なので公開施設にしたのではないかという気もする。

 宝塚古墳はこんな感じ。

 土を被せてあるが昔は玉石で覆われていたのが見えていたらしい。公園の一部なのでのぼり放題。

 その後さらに嬉野考古館というのにも行った。もとの嬉野町歴史資料館でその名前がそのまま残っていたりする。松阪市に統合されたものの、複合文化施設などはそのままのこっているということだな。

 内容的には縄文弥生と古墳の埴輪に古代寺院ということでオーソドックスな展示。ただし放置気味だったがあれは昔からだろうか。

 ついでにそこで特集展示されていた「天白遺跡」にも行ってきた。

 環状列石ということだがいっぱいあった。こんなにあると祭祀跡なんだろうかと疑ってしまう。

 あと、商人の館でとってきた松阪市のパンフレットに平家の落人がどうのこうのと書いてあったので天白遺跡まで行ったついでにその奥地まで行ってみたがこの道がひどい。のぼりが特に怖かった。酷道477の百井をもっとひどくしたようなところだったが標高はそんなに高くなく、感覚的には氷室に行くような感じ。

 六代御前とかいうらしいが、清盛→重盛→維盛→六代という形で平家の嫡流ということになっている。

 今日はこれだけ回った上にスーパー銭湯にも行ってみたが、銭湯に毛の生えた形のスーパー銭湯でダラダラしたかったができなかった。とはいえ薬湯風呂があってぬるかったのでそこでしばらく寝ていたようにおもう。一時間くらいはいた。

 今日は珍しくサイゼリアに行って飯食いながら日記を書いた。ノートパソコンけっこう電池持つのでどうせマクドナルドに行って充電するなら使った方がいいということで使ってる。さてどこで寝るかな。


2018/04/10 火 津

 EKワゴン、後部座席を倒してそっちに体を置いて寝た方が楽だった。シートは水平になるように設計されてないのでよくないことがわかった。昨日津のイオンのセリアで買った枕のようなクッションが役にたった。

 実は呉座勇一『陰謀の日本中世史』を新品の本としてはひさしぶりに買って持ってきているんだが、おもしろい。前、詳説日本史をざっと読んで、後白河って義経を頼朝の対抗馬に当てようとしたんじゃないのとおもったのだが、それも切りすてられていた。

けれども後白河の行動を細かく検討してみると、長期的視野に基づく戦略的な思考を見出すことは全然できない。判断が常に場当たり的で、ほとんどが裏目に出ている。にもかかわらず生き残れたのは単に彼が至尊の地位にいたからにすぎない。
 しかし密度高すぎるのでメモとりながら読んでいる。

 昨日長野トンネルのあたりに行ったがあのあたり砂山だった。

 どうしようかなこの先。那智勝浦の方に行ってもいいが東に行くのもいいかもなと箱根温泉の記事をみておもった。

 三重県総合博物館「MieMu」常設展510円。

 総合という名前に恥じず、自然と民俗・文化などを渾然とさせた展示でなかなかよい。そのかわり普通の歴史博物館にあるような名品展示的なところもなかった。歴史は文化・経済・交通などに重点が置かれて政治史はあんまり顔を出さないあたりもそういう博物館としては悪くない。そのかわりそうやって横断的な展示をしてるわりに三重県の枠を越えてない面もあるがそれはしかたないか。
 紀伊半島には1500万年前の巨大カルデラの跡があるという。湯の峰とか那智勝浦のような硫黄のキツい温泉があるのも合点がいく。象の化石などあり広い面積を占めているが、やはり見栄えのいいものを置いておくとアピールするのか。
 大台が原のあたりの降水量は有名だが、それとは違う仕組みで鈴鹿山脈の降雪量も多いらしい。尾鷲あたりに降る水の湿気の源は目の前の海だが、鈴鹿山脈は日本海と琵琶湖だとか。
 あと昨日長野トンネルのあたりを見にいったとき、峠のてっぺんのあたりの土が砂地なので驚いたが、花崗岩が多いということなのでそれが風化したもののようだ。

 渾然としてるとはいっても、自然展示と歴史展示はだいたい分かれてはいるが、歴史展示の最初にくるのが交通であるあたりはかなりいい。

 内海交通から16-17世紀の海外進出などまでひととおり押えてある。安濃津や大湊といった港は明応の大地震の津波で壊滅したことになっているようだ。

 それから伊勢まいりで御師という人たちが活躍していたのは知っていたが、具体的に御師屋敷を持っていて、そこで饗応していたとは知らなかった。それをみると旅行代理店的な活動をしている。しかも御師屋敷で出る料理は普通の旅籠のメシとはちがって豪勢なモノであったようで、お参りという非日常を演出するものだったようだ。今の温泉旅館とかで赤くてデカいおひつにごはん入れてでてくるのはこういうのが元だったりするんだろうか。
 タッチパネルで御師の旅行プランを組めるゲームのようなものがあるのがおもしろかった。貧乏旅行も豪勢な旅行も組める。

 伊勢参りといえば、幕末に流行ったときのように、急におもいついて行くようなエピソードが紹介されるので皆急に行くのかとおもったが、普通はこういうパック旅行のような形式で行くんだろう。流行が最高潮に達したときはいつでも浮かれて変なことをする人がいるというだけなんだろうか。
 あとは伊勢商人とか。

 県立博物館で伊勢・志摩・伊賀・紀伊の旧四国にまたがっているせいか、たとえば津藩がどうとかのようなよくある政治史の歴史展示がなかったのは当然というか残念というか。属人的なことよりもテーマから展示内容を選んでいる感じでそういう点もそういう博物館としてはよい。

 そういうと三重の由来は石川県とおなじで、明治初に一時県庁を四日市に移動させたときの地名を採用しただけらしい。

 昼下がりまで博物館にいたあとは本読んでた。夜になってまたイオンに来て充電しつつ日記を書いている。車中泊生活、スマホの充電が難だな。


2018/04/09 月 鈴鹿 → 津

 鈴鹿のマクドナルド(23号岸岡店)で充電しながら日記など書く。

 四日市にシェルの製油所があるのか。それでこのあたりガソリンが安いのか。


 今日はとりあえず津市の埋蔵文化財センターに行ってみた。うーむ。一部屋だけですぐ見終わった。で、そこから榊原温泉に行こうとしたのだが、時間が余りすぎるのでとりあえず伊賀街道の峠を登って旧道の方をのぼっていったら古い長野トンネルというのがあったのだが、その上にさらに明治の長野隧道が残されていた。

 明治に掘ったトンネルと昭和のトンネルは経路も違っていた。ということは明治前期にトンネルを掘って街道整備したものの鉄道の発達で荒廃するにまかされ自動車の発達でまた掘られたということだろうか。そのあたり今日は何も調べてないのでわからん。あと風力発電の装置がいっぱいあったがあれ近くにあると本当にうるさいな。

 榊原温泉。湯元のところがやってる日帰りは2時間1000円。行ってみたら源泉そのままの浴槽があるのだがそれが温水プールのような温度になっているのだが、熱くないので上せずいつまでも入っていれる。ということで半分寝ながらつかっていたら時間があっというまにすぎてしまった。温泉の方は微かな硫黄っぽいにおいがあるがそれはまぁないよりましという程度でお湯自体はヌルヌル。ヌルヌルのお湯に一時間半ほどつかっていたせいかやたら垢がでてツルツルになってしまった。そんな美容効果があってもしょうがないのだが。

 そこから津の市内に戻って港の方で車停めて本でも読んでた。風呂で読めたら読んでたんだが。そういうことからいうと普通のスーパー銭湯にでも行ってた方がよいのかもしれない。でも持込で作業できるようなスーパー銭湯なんかないだろ。
 最後に津のイオンに行ったが、広いフロアに売り場がギチギチにつまっていて地図がないとよくわからなかったり、駐車場が巨大でどこがどうなってるのかいまいちわからなかったりした。もとはサティらしい。

 今日は海岸で日記を書いてみた。また海岸で寝る。ちょっとスマホの電池が心配。


2018/04/08 日 湖北町 → 高月町 → 浅井町 → 上石津町 → 鈴鹿

 朝起きてすぐその昔大連別院をやってた人の寺を見に行ったが特に何もなかった。写真をすこし見せてもらった。ただ朝から行事があったところに来てしまい話はあんまり聞けなかった。高月町のマクドナルドに来て日記を書く。

 Mansh kshinroku : 880-04 Takeuchi, Tadajir : Free Download & Streaming : Internet Archive 『満洲興信録』大正4(1915)

 地図をみていると365が関ヶ原を横切って四日市の方まで延びてるのでそれで南下することに決定。適当に下る。

 365は関ヶ原から木ノ下までの北国脇往還そのままのようだ。途中高月の歴史民俗資料館なるところに行くがちょうど一階が閉まっていて二階しかみれない。禅宗のコレクションの展示があってなぜか白隠の書画をたくさん見れた。ここの売りの観音はそんなに興味がないので見てない。
 そこから途中走落神社というのをみて、さらに南へ。戦国時代の浅井氏の小谷城はこの脇街道の要所だった。わかりやすい。浅井歴史民俗資料館にも行く。ここは浅井氏と姉川の合戦の展示が中心だが、当時の浅井氏の文書が展示してあった。じっくり読んでみると読み方まちがってるっぽいところがあった。
 民俗資料の方に絹の展示があったが、和楽器の弦のための絹は特殊らしくそれ専用の絹を栽培していたそうで、普通の絹糸産業が衰退してもこのあたりの特殊な絹糸は残っているそうだ。

 関ヶ原はそのまま通り抜けてさらに南側へボーっと走っていくと上石津資料館の道路表示があったので何も考えずに寄ってみたらここがかなりおもしろいところだった。

 地図をみてると関ヶ原の南側の方が抜けやすいような感じがしていたが、南側を通って養老山地の東側を抜けていくのが東伊勢街道、西側の谷を通っていくのが西伊勢街道というらしい。上石津は西側になるのだが、関ヶ原の戦いのあと島津軍はここを通って多賀の方に出たそうだ。ということで殿軍を担当した島津豊久の墓もあるということだ。
 明智光秀の出身地もここ、宝暦治水の幕府側の監督だった高木氏はここが所領ということでこの資料館自体が高木氏の陣屋の跡地に建っていた。高木氏は三家あって、「交替寄合美濃衆」というのを構成していたらしい。そして美濃の治水を担当していたようだ。宝暦治水も高木氏が絵を描いて実施を薩摩藩が担当したということになるようだ。
 宝暦治水の10年ほど後の明和年間にも長州藩などの手伝普請があってこれも宝暦治水並の規模だったようだが、江戸時代を通じて16回あった大名御手伝普請で実務を実際に担当したのはその明和の治水が最後で、後はカネだけ出すということになってたようだ。

 それから上石津あたりは大昔東海湖があったころの浅瀬になるらしく、鹿や象の足跡の化石なるものがあった。

 上石津で時間くったのでもうあとはどこも行けず。コンビニの駐車場でひたすら資料館関係を調べていたが、当然のことながら月曜はほぼどこも休みであることがわかった。とりあえず月曜は温泉にでも行くことにして南の方で車中泊好適地をさがすと、鈴鹿の方に23号が海にちかづくところがあり、そこに海水浴場があるので今なら車停め放題だろうということで行ってみた。海水浴場沿いには停めづらく、端の港の駐車場で寝る。寒かった。


2018/04/07 土 山奥 → 今庄365 → 湖北町

 今庄365温泉なるものに行ってみたが、たしかに外側の露天風呂の方は硫黄温泉っぽい臭いがした。内側はそうでもない。
 そのまま今庄365の外の駐車場で寝ようとおもっていたが、ちょうど激しいみぞれが降ってきてみるみるうちにあたりが白くなっていった。さすがにスキー場だけのことはある。朝が怖くなって下に降りマクドナルドで地図をみながら行き先を検討し、湖北町の湖岸の道の駅で寝る。
 ただし実は朝になってから北国街道を行くつもりがあったのだが、降りるときに峠へ行くところが封鎖されているのを見たのでその計画は破綻していることがわかった。


2018/04/06 金 京都 → 山奥

 うーむ。蘇州号飛び乗るとしたら今日か。

千田嘉博『信長の城』岩波新書(2013年)
 昨日読んでたのはこれ。勝幡にあった復元モデルの詳細を知りたかったが江戸時代に作成された図面からどう復元したのかよくわかった。現代忘れられてぞんざいに扱われていた城についても復元できたのは尾張藩がちゃんと図面をのこしてくれていたおかげのようだ。織豊系城郭に先行する畿内の山城の石垣についてもちゃんと書いてあり、必ずしも時代の最先端ではなかった尾張に畿内など国内の最先端の技術をセットでまとめて導入してさらに発達させたとかいうことがよくわかった。今の中国とか韓国みたいに遅れて来た方が効率良いという話だな。

 とりあえず山奥帰った。


2018/04/05 木 京都

 facebook のchrome 連携がうざい。もともとそんなに見てなかったがchrome連携でプッシュでお知らせしてくるのがうざくなってきてその機能をオフにしたら今度は開くたびに画面が真っ黒になって見たければプッシュをオンにしろと迫ってくる。面倒くさいしアカウント消そうかな。
 Instagram も作ったけどこっちはいちいち写真をアップしないといけないので非常に面倒くさくほぼ何もやっていない。

 本を読みながら双が丘→四条のへん→京都駅と歩いて最後はJRで花園まで帰った。


2018/04/04 水 京都 → 山奥 → 京都

 今回昼間に移動して思ったのだが幹線国道はオートマの普及でちんたら走れるようになって車の列が途切れにくくなった反面、右折・左折がしづらくなっているように見える。ただちんたらしてるのでその間を縫って行きやすくもなっているので、そういう流れののりかたが定着すればすいすい流れるようになるんだろう。
 田舎にいると都会からくる奴は暴走車両ばかりだとおもってしまうが、そういうのは高速道路に行くので下道の幹線国道をチンタラ走るのはかなり楽になった。といいつつもたとえば九州方面に行ったりしたときにはそんな事微塵も感じなかったので、渋滞が常態化して暴走車両は避けて通る京都・滋賀のあたりだけかもしれん。自分も今まで避けていたのでこういう具合になっているとは思わなかった。

 10日ぶりくらいに家に帰ったら静かなことがよくわかる。

 図書館で本借りるためにまた降りてきた。信長の生地が那古野から勝幡に変わったのは、父の織田信秀が那古野城をのっとった年の学説が信長の生後になったために勝幡以外の選択肢が消えたからのようだ。復元モデルは尾張藩が詳細な図面を残していたのでそれをもとにして復元したということらしい。


2018/04/03 火 桑名 → いなべ → 八風峠 → 京都

 マクドナルドで昨日のことを日記に追加。

 昨日車中泊したせいか背中が痛い。朝明るくなったのでとりあえず桑名の城跡を見にいくがそれらしいものもないので七里の渡しに行く。

 このあたりは城としてのこされているわけではなく、治水装置の周辺施設として残されているようだ。それから桑名宗社というのに行ったが、去年算額を奉納してる物好きがいた。

 もう十分日が長いので暑い昼間に動くよりは朝の間に動いた方がいいのかもしれん。

 町中の方のマクドナルドに行ってみたらコンセントもあるし昨日もここに来ればよかった。ということで充電しながら昨日の日記を書いた。昨日はいろいろ行きすぎてるな。

 うーん? 中国からの荷物が発送されたのだが昨日関空から出て大阪で受けいれられているようだ。そろそろ一回帰るか。

 桑名市博物館に行ってみたらGWくらいまで閉館だった。

 さてここからどうするかということで考えたが、八風峠ルートがどんなもんか見にいくのもいいかとおもった。というのも地図をみてる限りではトンネルができて道の駅までできていたからだ。途中郷土資料館(旧大安町郷土資料館)があったので寄ってみたがこれがすごかった。

 一階はこんな感じで大量に民具が置いてあったのだが、この大量具合の時点でただならぬ気配を感じさせる。そして詳細に見ていくと他のとこでは置いてないようなものまで置いてあって唸らせる。圧巻は三階だ。そもそも今日は表の掲示によると休館日だったのだがなぜか入れてくれて三階も開けてくれたのだが、戦争関係のものがこの一階とおなじ具合に置いてあった。貴重なものが無造作に置かれていて触り放題なのだが、あまり紹介すると紛失・盗難が発生しそうであまり紹介したくない。


 八風峠は写真の左側の凹んだところだが、行ってみたら非常に険しいところだった。ただトンネルと新しく整備された道が非常によくて今なら越えるのはそれほどでもないが、しかし滋賀県側が険しいのは変わらない。道の駅についてみたら学校を転用したところで、そういうのははじめてみたが、しかも火曜日が休みということで営業してる状態をみれなかった。ここでメシ食うつもりで来たので肩透かしだった。ここから永源寺の方へ下っていくとダムがあるがここも急ピッチで道を広げている。近江八幡→桑名の道をちゃんと作るということなんだろう。ただ永源寺のダムまでは昔つくった道そのままなので逆にボロく見えた。

 そしてチンタラと京都まで帰ってきた。観音寺城を見にいく案も頭の中にあったが、道の駅でメシを食えなかったせいかどうも寄る気がおこらず。山奥まで帰るつもりだったが遅くなったので京都で泊まる。


2018/04/02 月 羽島 → 津島 → 桑名

 さて今日で先払いしてた分は終わりだが。どっちに行くか。と書いたところですでにわかってることだが、三重県北部はよくわからないのでそっちの方に行く。
 全然関係ないが、地図だけ見ていると鈴鹿山脈の東側、養老から三重県のあたりまでの木曽三川と鈴鹿山脈に挟まれたあたりはパキスタンのインダス川右岸のデラガジカーンとかデライスラマイリカーンのような感覚をうける。滋賀県をアフガニスタンとみたてると、三重がシンド地方で美濃が北西辺境州とパンジャブ、飛騨がカシミールで長野がチベット、愛知がインド北部。岐阜がラホールで大垣がペシャーワル、高山がスリナガルで関ヶ原がジャララバード、彦根がカーブル。名古屋はデリーとかアグラとかあの周辺だな。

 とりあえず羽島から東岸の起宿方面に行ってみたが、資料館が月曜なので休みだったのでゲッソリしつつとりあえず津島の方まで行くことにする。途中美濃路をたどっていったのだが、萩原というところで南に曲がった。この萩原が昭和中期くらいで時計の針が止まったようなところでショーケースに昔の商品が置きっぱなしにしてあったりおじいさんがヨボヨボ歩いていたりするあたり死の街という言葉が頭をよぎった。車で走りぬけただけなので写真もとっていない。
 濃尾大橋が昭和31年にようやくかかっているのでそれまでは渡し船で物流が動いていたんだろう。だからこの美濃路はそれまでは自動車よりも人の足がまだ生きていたところでこの萩原の宿場も賑わっていたんだろう。ところが自動車の普及と濃尾大橋の開通との二つの要因で交通経路の移動が一挙に起こったため、萩原は一挙に寂れてしまい、昭和中期が冷凍保存されたような状態になっているんだろう。まぁしかしそのころから住んでる人ら(ヨタヨタ歩いてたジジイ)がそろそろ死ぬので萩原の風景もそろそろ消えてしまいそうではある。

 津島。とりあえず津島神社。

 津島に来たのは田原本に封じられた平野長泰が津島の方の出身ということで、秀吉とかもあのへんかとおもって来ただけだった。神社の南側に池があり、津島湊跡とかいうことなのでここまで船で入れたんだろう。門楼は秀吉の寄進、本殿は慶長10年の建築ということでこれでも桃山様式らしいんだがやけにあっさりしてる。

 津島に来たのは津島市の図書館が月曜にもかかわらず開いていたからで、そのついでに津島神社とか来たのだが、図書館でいろいろ調べたらちょっと初見での予想とは違っていた。
 津島神社の近くに湊があり、また東海道の脇街道がこの近くを通っていたので津島神社はかなり昔からあってそれで津島神社があり津島=対馬でスサノオなのかと軽ーく予想していたが、そもそもこのあたり古代のころはまだしっかり陸地になっていなかったようで、津島の名前が現われるのも中世からのようだ。中世には津島は牛頭天王社だったそうで、だから明治になって祭神がスサノオになったようだ。尾張藩の時代には大事にされていたようで今よく残ってるのもそのおかげだろうがそのへんはあんまり興味ない。
 織田信長の織田氏の興隆はこの津島の湊が資金源だったらしい。織田氏の城は津島の近くの勝幡にあり、また街道筋も名古屋の方から勝幡を経由して津島に行くようなのでとりあえずその旧街道を通って勝幡に行ってみた。


 勝幡までの旧街道、昔の地図をみるとその街道筋だけ家がぎっしり並んでいる状態だったのだが、今はあまり大きな屋敷もなく寂れた住宅地という感じでしかも太い道でズタズタにされてはいたがとりあえず勝幡までたどれるのはできた。
 勝幡城跡の石碑は明治43年と大正4年の二つがあるが、目立つのは写真の方。目立たない方には稲沢市の教育委員会の看板があり、信長もこの城で生まれたとする説が有力である」と書いてある。
 写真のように石碑があるところは本当に狭い場所になっているが二枚の写真の真ん中の川が江戸時代に掘られた運河で、勝幡城の中心はこの川で消えてしまっているようだ。

名古屋から勝幡へ 覆った信長出生説 : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
 勝幡の歴史を再発見したのはこの人らしい。しかし阿波の勝瑞城と似たような名前の付け方だな。


 その後ついでに三角縁神獣鏡がまつられていた奥津神社。この小さい丘が古墳ならこのへんまでは古代は陸地だったんだな。


 木曽三川公園の近くにある治水神社と千本松原。千本松原は宝暦治水の遺跡で、その近くに治水神社があるのは明治の木曽三川分水が成功してから記念に作ったそうだ。誘致した人たちの記念碑とか銅像が横にあった。
 他にも宝暦治水碑もあったがいずれも明治になってから先人の顕彰のために立てられたものだ。

 ここまで来たらついでなので多度大社も行ってみた。

 神社なので特に言うこともない。

 その後、例によてマクドナルドへ行こうとしたが電源のあるなしがわからずとりあえずインター近くのところに行ったが100円ごまかされかけたりあんまり居心地のいいところではなかったのでとっとと日記書いたりせずに引きあげた。車中泊地点だがPA近くの下道の川向かいという非常に適当なとこで寝たが、あとで知ったが桑名の城の近くの揖斐川沿いで寝ればよかった。
 そういうと長島に共同浴場があるというので行ったのだがちょうど閉まるところで入れなかった。


2018/04/01 日 羽島

 河原とか駐車し放題だろうとおもってちょっと車を走らせたが羽島のまわりの河原は入りづらいようになっていたので土手でちょっと車停めて本読もうとしたが結局寝てしまい帰る。
 大須観音の大須はこの羽島にあって昔は名鉄がそこまで電車を走らせていた。ついでに行ってみたが昔の繁栄の跡もない。羽島は昭和の後半まで渡船がのこっていたくらいだから交通の発達から取り残され、大須まで駅があっても門前町の規模の小さいものしかなく、規模の小さいそれが宅地に変化してしまっただけなんだろう。バス停になっていた。

 ブロンコビリーなるところに昼下り行って、とりあえず標準のハンバーグなるものを食ってみたがうまくて驚いた。

 スマホの位置情報がしばらく放置しておくとなぜか下呂温泉になっている。よくわからん。とりあえず下呂温泉行こうぜということか? 下呂温泉はあっさりしてるので今行く気分でもないんだが。

 岐阜羽島駅前の大野伴睦夫妻像は政治駅の象徴みたいに言われているが、その足元にある文章をみると、半分は羽島市のことを中心に書いてあるので、岐阜県というよりは羽島市の人たちが作ったものらしい。
新幹線岐阜羽島駅は大野伴睦の政治駅だったか検証してみる: 骨まで大洋ファンby革洋同
 これによると、関ヶ原の降雪の退避駅としてJRの都合でうまい具合に話が落ちたのが岐阜羽島駅ということになるらしい。たしかにこんなところに作るよりは大垣なり岐阜なりに作った方が岐阜県としてもよいだろう。というか新大垣駅のような形で作った方がいろいろとよかったとおもう。JRがそうしなかったのはよくわからんが在来の旧東海道線を完全に無視して線形で作ってるのでJRの都合がよかったんだろう。他のでは産経の戦後史開封にあるのを引いて大垣は軟弱な地盤だったということにしてある。まぁ岐阜県は岐阜羽島駅にも反対していたということで政治駅という話が信用できないことはわかる。
 JRの都合だったにしても、外から見た経緯では棚ボタのような形で新幹線の駅を手にいれた羽島の人たちにとっては大野は銅像を立てるに値する存在だったんだろう。ただし完全に車社会となった現在では周辺に市街地が密集しておらず駐車場がいっぱいある岐阜羽島駅は貴重な存在のようだ。たぶん地方の車社会のことがまったくわからない都会人はこれから先も岐阜羽島駅のことを口汚なく罵るであろう。
 とはいえ羽島の弱点として木曽川・長良川を越える橋の規格が古いというのがある。なんとかするのかな。

 でも今の技術なら名古屋からまっすぐ西進して草津のあたりで合流するのもそんなに難しくないだろうな。ちょっと前に新幹線栗東駅の計画が潰れたことがあったけど実は関ヶ原を捨てて名古屋と栗東をトンネルでつなげる計画でもあったんだろうか。


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