つれづれ


2009/03-05
2009/05/31 日

 昨日は調子にのって合唱にいったが、当然音取れていないので涙目。やっぱりムリかもしれない。
 ということでそのまま森田家泊だったが、このまま遠慮がなくなるのは人としてどうかとおもう。とか書きながら嫁さんの方が出かけていて旦那の方だけだからといって、シャツパンツ姿で寝っころがってノートパソコンいじっているのは人としてどうかとおもう。
 森田邸のジーンズが生乾きでくさい。

 Rosegarden、JACKがどうこうとかいわれるけど、ちゃんとうごくのでこれで楽譜をチマチマ入力しよう。

 楽譜をチマチマ入力していておもったが、なにか道をみうしなっていないか?


2009/05/30 土

 昨日、新宿駅で野宿してみたら、失業者で家もない人にはなしかけられた。同士に見えたんだろう。こぎたないしな。職安で寮つきの仕事みつけたから明日行くと言っていた。歌舞伎町の職安付近でカンパンを配っているから、水で食ったらいいよとおしえてもらった。栄養足りてないように見えたのか。
 野宿しても結構いけることがわかったので、野宿で切迫感を持つ方向でいこう。今日は寝たりなかったので、もっと早くに寝てしまうことにしよう。
 御徒町の燕湯で朝風呂。朝風呂できるから野宿は上野が便利だなぁ。

 10万年の世界経済史


2009/05/29 金

 新宿の職安にいったら結構人がいた。

 そうそう。ひらしょーんとこに行く前の予想では「女野尻」で、会ったらそうでもなかったが、同世代のせいか、貧乏くさいとこの感覚とかかなり近かった。世代的なもんでくくっていいのかよくわからんが、親の世代が戦後の窮乏時代に子供時代をおくっているとか、田舎の人間であるとか、その辺に原因があるんじゃなかろうかという気がする。
 こことかこことかで家賃の上限を8万(管理費とか込みにチェック)にして、間取りを2DK以上にしたら結構あるぞ。

 まぁしかしおれみたいなのは履歴書上からみても使い道にこまるものなのかもしれない。

 grassのつかいかた

 住む方は野宿でもいいんよな。よく考えたら。そしたら毎日銭湯に入っても440*30の13200円で済む。

 GoogleMapAPIがv3になったそうで、リファレンスとかみてたら、v2の逆ジオコーディングの仕様がやたら簡単になっていた。
 gmap.phpをv3仕様にしようとしたが、まだできない機能があったので途中でやめた。マーカーをドラッグできない。


2009/05/28 木

 2009年7月22日日全食google地图--日全食网
 便利な時代。
 有名どころでは上海や杭州、武漢、重慶でみれる。行きやすいのは間違いなく上海だな。上海からアクセスしやすいところでは、上海と杭州の中間の嘉興が一番長時間食がつづくらしい。
 屋久島の南のトカラ列島の方が長時間食がつづくらしいが、交通機関も限られているので既に行く手段がないだろう。

 なぜアメリカの性表現は(倫理的・感情的な側面においては)日本よりも非難されにくいのか

 仕事探しはとりあえずメール投げて返事待ちでいくことにした。
 京都にちょうどいい仕事が湧いている。京都に帰るか。。。むむむ。
 まぁいいか。京都に帰るとまた親がうるさいのでそれだけがかなわん。とりあえず部屋さがしやってみよう。
 蒲田とか五反田とか南の方がおおいなぁ。あと女性限定とか。

 くっ。部屋探しの方がやたら反応がいい
 職さがしは販売。部屋さがしは購買。その違いなんだろうな。

「Yahoo!ニュース」の表示速度が3〜5倍に、そのからくりは……:記事の芽


2009/05/27 水

 さて。さっさとどっかにおちつかないとまずい。どーしよーかのー

 都内にはドミトリー形式の月貸しがいっぱいあるな。敷礼なしで気楽だが、相部屋にどんなやつがくるのやら。そういうことをかんがえると、北千住の奥のほうの四畳半一万数千円とかもいいかもしれない。今もあるのかな。

 ひらしょーんとこでダラダラしてきた。ひつじこみてきた。ふむ。なるほど。ほとんどおないどしだった。ここも仲よさそうだな。
 日記を読むと毎日ダラダラしているようにみえるといわれたがそのとおりだからしかたない。ダラダラのプロです。

 今日も森田邸泊。ずっと泊ってけみたいなことをいわれるが、そういうのに甘えつづけるのはよくない。


2009/05/26 火

 昨日はひさしぶりに阿野さんのMR2にのせてもらった。足元を改善したそうで、安定感がすごい。いい車はスピードだしてもあんなに安定するもんなのな。いや、おどろいた。とゆーわけで、スーツのまま埼玉泊。こんなことになるならスーツなんて着ていくんではなかった。
 最近のサーバ仮想化技術の話を聞いて、vmwareESXiをノートにいれたくなったけど、無理だった。そもそもメモリがたらん。
 さて。どーも開発は不況のあおりを一番くっている業界らしく、阿野さんの前の職場の開発系派遣もビシっと切られているらしい。求職者が野に溢れている状態というわけで、自分のように仕事を中途半端にやってる人間がスキに潜りこむには相当がんばって探さんとあかんのではなかろうか。そもそも短期というのがネックだな。

 山川の世界史研究ってなかなかすぐれものだな。そりゃ人や事象の名前だけ書いてあってよくわからんというところはあるけど、とっかかりには十分だ。民衆文化とか社会史とかにまで説明が及んでいるところがいい。
 タークシンは教科書に出てこない。

フィリップ・フォール駐日フランス大使は東京で開いた記者会見で、日本人とフランス人の資本主義観について、「金融を中心とするアングロ・サクソン系の取り組み方よりも、はるかに産業面と長期的視野を重視する」との見解を示した。
 フランスが日仏産業協力の強化を希望
 フランス大使館のサイトにこんなのがあったのだが、フランス人って素で「アングロサクソン」とかいうのか。

 ヨーロッパの17,18世紀ころの思想史ってフランスとイギリスの掛け合い漫才みたいなもんだな。

 阿野さんが起きてきてからダラダラ vmwareESXiで遊んで晩飯おごってもらって都内に帰ってきた。ということで今晩も森田邸にお世話になります。


2009/05/25 月

 昔書いた履歴書を検索していて結局どっかにやってしまったことがわかったが、そのついでに転送メールアドレスからのスパムが最近ふえていることにきづき、サービス元にいって削除した。犬大将@csc.jpはこれで使えなくなったのだが、それしかしらん人は結構いそうだ。まぁいいか。

 スタッフサービスに電話したが、直近の仕事が2007年と言ったせいか、短期はあんまりあつかっていないといって断られた。
 ふー。やっと最初電話するつもりだったところに電話した。ひさしぶりに仕事でもしてみようとすると、ごくあたりまえのことがすぐできなくてイロイロつかれる。なんか心理的に余裕がない感がある。昨日から寝っころがってノートパソコンをいじったりしているわりにはなにも生産できていないので、これでは京都でダラダラしているのとあんまりかわらない。
 そういうことに気付いて今日はスーツでも着て、森田夫婦が出勤する朝に出かけようとおもったが、意思の弱さを発揮して、いまだに昨日とおなじように布団でダラダラしている。うぅ。

 ドイツで買った散髪器だが、秋葉原で買った変換プラグ(口の形を替えるだけの簡単なもの)で充電できるようだ。電気が通っている。どうもこれはポーランド製らしい。道理で安いはずだ。

 電話したので元気になって外に出た。スーツ暑い。
 ついつい中心の方に出てきてしまったが、郊外の方に出た方が人口密度がすくなくてよかったな。

 調子にのって豊島区立図書館にきてみた。ノートパソコン持ちこみできるビジネスコーナーというのがあったからだ。でも人がいっぱいで、利用時間が一時間までで、誰もいないときだけ一時間延長できるとかいうことだった。カードをつくれということなので、つくろうとしたが、住所が京都だと作らせてくれないらしい。
 まぁいいや。ネットするならここでなくてもできる。本でもよむことにしよう。


2009/05/24 日

 布団の魔術。人んちだが寝放題。むむむ。この数日でさすがに疲れたようだ。しかしあつかましいにも程があるよな。自分のことだけど。
 明日は仕事さがしするぞ。


2009/05/23 土

 今晩は森田邸泊。以前はまだ夫婦の真似事をしているような感じの夫婦だったが、いまはさらに夫婦仲がよくなっているようで、あんまり長居しづらい感じだ。それでもさも当然かのように泊めてもらうくらいおれもあつかましくなってきた。おっさんになってきたということか。

 今日は水戸市立博物館と水戸城周辺と茨城県立歴史館を見た。博物館はまぁ小さかった。陳列館のおもむき。鉄道展示の駅前のミニチュアが昭和しているのに感心した。自然展示はまぁまぁ。美術はたいしたことない。
 歴史館はしっかりした歴史博物館だった。この常陸地域も被征服地っぽく、東海や南関東からの移住がおおいようだ。霞ヶ浦の水上生活者についても言及してあった。解説員がいて、毎日きまった時間に解説してくれるという。今日は休日のせいか、おっさんおばはんがいていっぱいだった。残念。
 破成の盟約って展示があったが、本当のことか? なんか猛烈に作り話っぽいのだが。
 長久保赤水の地図の日本の形はかなり正確だった。国土地理院でもこれを見たのだが、この地図が一般に流布していたらしい。「伊能忠敬がすげー地図つくってはじめて日本の形がはっきりした」というわけでもなく、一般には伊能図は公開されず、この地図がひろまっていたという。
 オランダからの測地法はすでにひろまっていて、部分的に測られていたので、それをつなげてつくったのがその日本図らしい。しかしこれで気になるのが経度なのだが、あれはどうしたんだろう。緯度を測るのは簡単で、北極星の高度を測ればそれなりにわかるが、経度は正確な時計がなければ測れない。北極星で測った角度分の長さを横にしたんだろうか。

 その後合唱に顔だして、最初に書いたとおり森田邸にお世話になっている。


2009/05/22 金

 昨日の夜つくばまできて、サウナ大学に泊まった。二千円余りで風呂と岩盤浴にはいれて寝れた。仮眠室だが、テレビがついているシートがある。みんな寝ているのにテレビの音をけっこう大きくしているやつがいた。まぁ寝たからどうでもいいけどな。
 ネットカフェが980円のセール中だったがまぁいいだろう。
 今日の予定は国土地理院を見て、できれば霞ヶ浦にいって、可能なら大洗もしくは水戸までいきたい。

 朝っぱらからマクドナルドなんかくってる。

 キャノンのイスは、工場だからできることなんだろう。でも、前はたらいていたときは、イスをどかしてヒザで立って仕事してたこともあったな。イスに座りっぱなしはよくない。

 国土地理院にいってきた。
 旧版地図がそこに置いてあるコンピュータ上で閲覧できる。すべて画像データとしてとりこみ済みのようだ。外邦図や台湾朝鮮などの地図は国土地理院の「成果」として公開するのは都合がわるいらしく、そういうのは国会図書館にいってくださいということだった。しかし、旧版地図、その画像の状態では配布しないらしい。紙の地図の状態にして売るのでそれなら好きにしていいそうだ。500円。むむむ。
 中庭に日本を球面上に再現したものがあった。いや地球は丸い。

 土浦市博物館。
 土浦の歴史がよくまとめてある。しばらく中国とか東南アジアのしょぼい博物館を見ていたので、ものすごくよくできているように見えた。まぁ首都圏の地方の博物館としてはいい方だとおもう。
 霞ヶ浦に水上生活者がいたはずなのだが、そういうことには触れてなかった。しかしこのあたりは結構昔から開けていたようだ。内海としての霞ヶ浦ということがしきりに強調されていた。しかしその内海の霞ヶ浦への航路とかの紹介がなんもなかったなぁ。水上交通も紹介してなかったし。江戸時代に醤油生産が盛んになったそうで、その販路として、利根川をのぼって野田から江戸川を下るというルートが紹介されていたくらいか。なんで野田みたいなとこが千葉県なのかようやくわかった。

 水戸まできた。ネットカフェだが、金曜夜に空いているだろうか。まぁ空いてなければ野宿しよう。
 ユースホステルがあって、25才未満なら420円でとまれるらしい。そうでない場合は2790だ。むむむ。

 エイサーって踊り念仏がもとなのか。


2009/05/21 木

 きのうは梅田んちにとめてもらって仕事してるよこで寝てた。つくば方面はいついくかわからん。いかんとこかな。


2009/05/20 水

 東京まできた。朝来るのが早いなぁ。

 asahi.com(朝日新聞社):国会図書館、デジタル化予算前年比100倍計上 - 社会
 サトレさんにおしえてもらったが、なんか国会図書館では1968年までの図書をネットで公開する予算をもう申請しているらしいな。すげー長尾。1968年って昭和43年ですよ。
 しかし、グーグルに対抗するといっているが、ネットで公開している以上、グーグルに材料を提供するだけになるんじゃなかろうか。まぁ、理由なんてどうでもいいのだ。古い本がネット上でみれたらそれでいい。

 昨日コーナンくいな橋店で作業用靴(別名カンフーシューズ)が500円くらいで売っていたので速攻買った。はきごこちはこのタイプの靴としてはこんなもんだ。きつめのサイズを買ったらよかったような気もする。コーナンブランドで、こんなとこまで自社ブランドがきていることに感慨をおぼえた。別に寅さん買ってもよいのだが、寅さんは色が紫っぽくて派手なのでいけない。これは黒いのでそこもよい。ただ、足の甲があたるところの合わせ目の布ゴムが白地に黒の横縞になっている点だけはいただけない。そんなとこで色気を出さずにもっと作業用に徹してほしい。
 旅行前買った寅さんシューズは三ヶ月で靴底のゴムが裂け、中国の地面に接触するのをおそれて買いかえたけど、イギリスの田舎の泥濘の中を何度もあるいたりしなければ一年はもったとおもう。寅さんは千円程度だ。このコーナンブランドのカンフーシューズがどれくらいもつかわからんが、500円程度だからまぁいいだろう。安物はおそらく耐久性に問題があって、日本製なら一年はもつところが三ヶ月でこわれたりするんだろうが、最近はこのタイプの靴でも中国製になりつつあるので、どれ履いても大差ないとおもわれる。
 いま福山ゴムのネットショップ(楽天市場)をみたら、寅さんシリーズでも黒色があるようだ。なんで大抵のところで青いのばっかり見るんだろう。
 中国ではこのタイプの靴を、鞋といって乾燥した気候の北方の人がよくつかう。毛沢東が愛用したせいか、いまでもたくさん製造されて履かれている。カンフーシューズと呼ぶのは、日本で広く受容された中国ものが香港のカンフー映画だったから、「ブルースリーが履いてたあれ」というのでみんなわかるからだが、要するに清代風俗だ。もし毛沢東映画みたいなのが日本で流行ってたら、マオ靴と呼ばれていたかもしれない。
 これが南方にいくと、北京布鞋とよんでおしゃれ靴になって高くで売っている。まぁ、つまり中国で大量生産される素地はすでにあるということだ。日本の作業靴は足袋から発展したもので、西洋靴の普及につれて、足袋から上をなくして靴になったのがいまの作業靴だ。由来はちがうが、形はいっしょなので、このタイプは中国製に淘汰されるかもしれない。
 形はいっしょと書いたけど、実はすこし違いがあって、鞋は靴底の部分が白い。白い靴底に布をかぶせる形だからだ。だから、中国の大量生産品も底を白いゴムで覆って気分を出している。日本は地下足袋の延長だから、靴下状の布袋にとけたゴムを塗って整形したようなかたちになっている。ゴムもまるだしだ。構造としては日本のもののぼうが強いが、外見は中国の方がコントラストがはっきりしてカッコいい。白い底はもちろん外出が前提ではないからだ。そのへんはおおきな違いか。

 最近はやりのPHPのフレームワーク

 PHP自体が軽量フレームワークみたいなもんというのには納得した。

 青年海外協力隊の申請用紙の記入漏れを記入してきたけど、なんか猛烈にダメな予感がした。こういう公募系はダメなのかもしれんな。

 つくばまでいってみるかとおもったけど、どうも迷ってしまう。とりあえずノートパソコンの電池がきれたので、満充電するまでここでなんか調べていようとおもう。
 迷うというのは、短期の仕事がボンボンあるのは東京なので、とりあえず職さがしをするつもりでスーツまでもってきたけど、なんかすぐやる気がおこらん。

 経済学についてしらべている。せっかくの機会だからな。調べないと。

たとえば、輸出によって得られるドルなどの外貨は日本国内では決済完了性を持たない(使えない)。輸出業者が銀行に外貨であるドルを持ち込んで日本の国内通貨である円と両替してもらえるのは、輸入や海外への投資のためにドルを必要とする人々がいるからである。しかし、輸入や海外への投資が禁じられているとすれば、輸出によって得られたドルを必要とする人々はおらず、ドルの使い途は全くなくなる。使えもしない紙切れも同然のドルと有用な製品とを交換することで日本の国民が豊かになれるとは考えられない。
重商主義 - Wikipedia
 これか。つまり中国は重商主義の罠に陥っているということか。

 ヒュームすげー。ヒュームはニートの星。ヒュームは哲学の極北。


2009/05/19 火

 早稲田大学の古典籍データベースはすごいなぁ。
 新編水滸画伝. 初,2-9編 / 曲亭主人 編訳 ; 葛飾北斎 画
 第五才子書施耐菴水滸伝. 巻之1-75 / 施耐庵 [撰] ; 聖歎 [評]
 水滸後伝. 巻之1-8 / 古宋遺民 著 ; 鴈宕山樵 評
 水滸百八人画像臨本 / 陳洪綬 画
 水滸百八像賛臨本 / 陸謙 筆
 傾城水滸伝. 初,2-13上編 / 曲亭馬琴 著 ; 歌川豊国 画

 しかし臨本ということは模写したものだということなのに、それがわからんように書いてあるのはあんまりよくない。まぁでもそんなのは僅瑕で、PDFでそのままダウンロードできるようになっているのがとにかくすごい。国会図書館もこんなふうにしてほしい。でも国会図書館は古典籍を一部しか公開してないからもったいないな。古典籍とか江戸期の外国語書籍を早稲田形式でPDFで公開してくれたらいいのに。いや1945年までの本はもう珍本なんだから全部そうしてほしい。

 昼の高速バスにのろうとして出たけど、日本手拭いをわすれたので取りに帰った。ギリギリだったので、これで京都駅発に乗りおくれるのは確定したので、とりあえず深草のバス亭に行ってみたところ、ちょうど工事中であと一週間は停止中とのこと。そこから最後の昼行便に乗るには、大山崎か大阪にいくしかないが、大阪はギリギリ無理で、大山崎のバス亭は電車の駅からかなり遠く、間にあわなそう。しかたないのでとりあえず京都駅にもどって周辺の高速バスを調べてからマクドナルドでネットに接続して高速バスを調べたら、3400円の最安に近いのが空いてたのでそれに乗ることにした。夜行バスはあんまりのりたくないがしかたない。

 利用者アンケートを活用したサービス改善
 ちゃんと仕事してるなぁ。

 上海新華書店旧蔵書 (当館の蔵書から 22 ) : 国立国会図書館月報2003年3月号
 ええええええええええええ。なんでこんなもんが購入できるの? 謎。

 中国のいびつな経済成長
 これはつまり中国の内需が弱く、世界経済を牽引するには役不足だと言っている。うーむ。


2009/05/18 月

 これはやばい。無目的にネットでうろちょろするのが一番やばい。

 書類に不備があったらしい。診断票に署名しないといけなかったとか。。。ちょうどいいので関東いきますね。

 ネットでダラダラするのも中でするより外でやった方がなんか生産してる気分になれていい。

 カンボジアにあったオランダ商館は1640年代に王族とのあらそいで、没収され、しかも艦隊を派遣してカンボジア水軍にやぶれたらしい。しかもその後、再開したが、1667年に中国人の略奪をうけ、1682年に閉鎖されたらしい。
 鄭成功が台湾をオランダから奪ったのが1661年で、当時明の遺臣と称するものがいっぱいベトナム南部からタイ南部にいっぱいいたらしいから、その流れか。
 スペイン人ポルトガル人もカンボジアに来ていたが、16世紀末の王位争いの一派に肩入れしたせいで、その王位あらそいにまきこまれて滅ぼされ、オランダもそんなことになり、西洋勢力は17世紀の間にカンボジアから閉めだされたことになる。  しかしこの時代の中国人の進出はすごいな。ベトナムについてメコン河口を開拓し、カンボジアからここを奪う原動力になっているし、カンボジアの商業をにぎっているし、タイではタークシン王が中国系だし。

 どうでもいいけどタークシンはタイのナーディルシャーだな。

 秀吉の朝鮮出兵のとき、ナレースエン大王が明に対し、麾下のチャム人艦隊の派遣を申しでたらしい。実現してたらおもしろかったのにな。まぁ寒いから十分活動できないんじゃないかという気がするが。
 シャムってペルシア人官僚がいたのか。17世紀のアユタヤ貿易はインド方面が重要で、貿易をつかさどるプラクランはペルシア人がおさえていたが、18世紀には清との貿易が重要になり、中国人におきかわったそうだ。

 サームコック - Wikipedia
 タイに影響をあたえた中国の小説が三国演義で、日本に影響をあたえたのが水滸伝というのがおもしろいな。てか、水滸伝がウケた周辺諸国って日本だけじゃなかろうか。満洲も朝鮮もベトナムも三国演義がはやったけど水滸伝はウケてない。

 タイの王様の神聖視はなにか由来があるもんだとおもっていたが、この本では1798年に翻訳されたラーマーヤナがその基礎になったといっている。そんなもんかもしれん。

 ビルマとベトナムが比較的早くに人民支配の制度を整えだしていたのに、その両国がイギリスフランスによって植民地とされてしまったのは、逆にシステムとして整っていたからか。
 シャムとか王族支配の交易国家のままだったしな。

 清仏戦争でフランス軍は負けていたとおもったが、どうもその前段の黒旗軍の活躍とごっちゃにしていたようだ。


2009/05/17 日

 関西バス(大阪・京都・神戸) - H.I.S.国内旅行(東京発)
 これは安い。安いが全然あきがない。

 たぶん後世からはメキシコ -> アメリカ -> 先進国諸国 と広がっていったと解説されるんだろう。アメリカで大流行ということは天下の大道のど真ん中で大流行ということだからな。

 ゴロゴロしていると何にもしないので出かけようとおもうが、読みかけの本がまだおわらないのでこれがおわるまでは出かけない。

 ヨドバシカメラからのワイヤレスゲート登録も、Yahooの金がからむサービスをやめるのも全部ネット上でできた。これならもっとはやくしておけばよかった。

 メコンデルタの開発のところを読んでおもいだしたが、新潟なんかに大規模な庄屋が多かったのは、単純に開拓してからの時間がみじかかったからじゃなかろうか。

 読売の輿論調査だと民主党が自民党を越えてるらしい。輿論調査はそんなに外れているわけではないらしいので、しばらく解散とかないな。まぁだいたいインフルエンザがもうすでに国内にはいって広がっているらしいから、それどころじゃないだろう。


2009/05/16 土

 へー。スーパーリッチってその筋では有名だったのね。

 プログラマの仕事はいっぱいある。あーどうしよう。選ばれるかどうかはまた別の話だが。でも関西は長期しか仕事がないんよな。

 明の永楽帝の北ベトナム侵略はチャンパの要請によるもので、鄭和の航海とセットであるとな。永楽帝ののち、明はモンゴル対策が大変になって東南アジア方面は放置した結果、チャンパは北ベトナムに併合されてしまったと。
 タインホアの軍人というのがよくでてきて、これと科挙選抜の人達の対立というのがその後の混乱の時代の軸であるらしい。人材の輩出口としては第三の勢力といえるのがタイソン朝であるということか。
 フエよりはタインホアの方が行くべきところだったようだ。タインホアには胡朝の城なんかがのこっているらしい。胡朝はそれまでの李朝陳朝の時代の王族支配を一掃して科挙官僚による政治機構を整備した。東洋史でいう唐宋変革のような役割をひきうけ、以後のベトナム社会・王朝のかたちをつくった。胡朝という名前だが、実際にはタインホアの黎氏で、永楽帝に一度滅ぼされたあと、タインホア軍団が黎朝を開いた。で、以後タインホア出身者が延々と力をもつ状態がつづき、タイソン朝で一掃されるところが一掃されずにフランスなんかに推されて再登場したわけだ。そしてつくったのがフエの都だ。19世紀。値打ちはなくはないが、タインホアの方が歴史的に重要だな。
 まぁしかしベトナムがベトナムの形をととのえるようになったのはフエに都があった時代からだから、現在からすればそこが重要である。そうおもえばいいのか。

 鳩山w
 民主党は人材墓場になりたいらしいな。本当にもったいないことだ。


2009/05/15 金

 ふとおもいだしたけど、明治維新のとき、フランスは幕府側について、イギリスは薩摩長州側についたんだな。フランスにはなにか憑いているとしかおもえない。

 確定申告してみたら、何も問題なくできた。金をとりかえす場合は別に罰金もないらしい。五年以内ならできるらしいので、給与生活者(天引きされてる人)で、一回も確定申告したことない人は五年分まとめてやると結構なお金がかえってくるとおもう。ちなみに去年の収入は30万ちょいで、天引きされていた八千円程度はそのままもどってきた。一ヶ月くらい後にふりこまれるらしい。
 今日は昼まで寝てしまった。いかん。このままでは本当に去年のようなダラダラ生活にもどってしまう。

 そんなこと書いといてなんだが、今からおもえばバンコクにいるときによんたいさんに強要してバンコクのカラオケなるところへ一回つれていってもらったらよかったなぁ。(ウヘヘ

 ピューは、その知られなさにもかかわらず、当時の東南アジアの中心的存在だったらしい。インドとの近さと乾燥した気候のおかげか。


2009/05/14 木

 はじめて羽田記念館に行った。

 とりあえず書類書きおえた。明日出すか。
 去年一年ブラブラしておいてなんだが、ブラブラしているのは体にわるい。短期の仕事をもとめて関東にでもいくか。東京なら短期の仕事がいっぱいある。それに青年海外協力隊、もし一次がうかっていても二次試験があるしその結果がわかるまでまた時間がかかり、わかってから合宿があるのが最短で10月とやたら時間がかかる。待つのはブラブラするよりもっと体にわるい。
 そして残念なことに金があんまりない。まぁもうすこしあたたかくなってから満州の奥の高句麗遺跡を見にいくとか、韓国の行ってないところに行くとか、ビルマと雲南とラオスと北タイのあたりをもうすこし見てまわるとかするくらいならできそうだが、まぁ、したってなぁ。中南米にいくのはすこしやめたほうがいいレベルだ。

 「チンギス・ハン」はどこの人? 韓中蒙で大論争
 ククク


2009/05/13

 サーチナの世界各国のブログ で紹介されている中国ブログは日本マンセーのものがおおくて気持ちわるい。サーチナはヤフーにニュースを提供しているので目につく。気持ちわるいというのはそれが少数意見だからだ。サーチナは幇間なのか宣伝機関なのか。どっちにしても気持ちわるい(恶心!)。
 レコードチャイナというのも似たようなもんだな。なんでかね。

 健康診断の白血球の数値にちょっと高いところがあり、感染症の可能性があるそうだが、まぁ気にせず提出することにする。10800円かかった。

 山川の世界各国史の東南アジア史を読んだら、金属器登場のあたり、考古学と記述がかぶっていた。説明がほとんどおなじ。まぁ専門外だから参考文献の記述をそのままつかうのはしかたのないことか。
 北ベトナムが南海貿易の窓口だったが、広州発海南島の南経由がメインになってさびれかけたのが北ベトナム独立の要因とある。しかし雲南の独立が8世紀で、広東と江西を結ぶ梅嶺の開削もそのころだから、雲南経由北ベトナムの交易ルートの途絶と、江西から広東への輸送路の拡大が同時にほとんど同時期におこり、さらに造船or航海技術の発展があって、広州発海南島の南経由チャンパ行きというルートが南海貿易のメインになったのだということなのだろう。安史の乱のとき、玄宗は四川の方に逃げたが、どんづまりの奥地ではなく、四川の南に雲南があり、雲南から北ベトナム・ビルマ方面への交易ルートがあったので、貿易ルートの一つに沿って逃げたともいえる。

 日本における現代農業の発展は中国に基本的な示唆を与える:追加貨幣資本|SciencePortal China


2009/05/12

 フランスは植民地の獲得が下手だ。地面の獲得を優先してしまうあたり。アメリカでは内陸部をおさえて、海岸部からのイギリスに負けるし、インドではインド亜大陸の中央部をおさえて、ベンガル湾からのイギリスに負けるし、アフリカでは大陸の西からおさえて東海岸までおさえようとするもイギリスの南北をおさえる方針に負けるし。たぶんフランス人は地図をみて、面積を広げないと評価されなかったんじゃないかな。んでイギリスが要所要所をおさえていくのに負ける。オセロで負けるやりかただな。
 インドシナの獲得には成功したものの、そんなとこ取ったってしかたない。本命は清だ。イギリスが香港、シンガポールというほんの小さな面積をおさえて清との交易を握ったのにくらべれば全然効率的ではない。しかも、イギリスの真似をして広州湾をとったものの全然活用できてない。そもそも清に戦争ふっかけて負けてるしな。(しかし外交工作で勝利して属国視されていたベトナムをもぎとってインドシナ植民地が確定した)
 もっとも、競争相手がイギリスでなければよかったのかもしれない。まぁしかしスペインポルトガルのアメリカ侵略みたいなやりかたは貿易拡大の時代には時代おくれだったんだろう。そこが大陸国家と島国の違いなのかもしれんが。

 現代中国専門家の矢吹晋は中国の経済について、元の切り上げをする時期をみうしなって国民に相応の富を分配せず、 飢餓輸出をつづけてひたすらドルを蓄え、それを軍備と米国債にまわしていると批判している (DIRECTOR'S WATCHING No.47:恐慌下中国経済の根本問題No.48:「輸出指向型」から「内需指向型」への転換)。おれにはこういうのが正当な言い分なのかどうかわからんのよな。 中国株『人民元切り上げ』について考える たとえばここは、中国が労働集約型の産業構造を脱するまでは切り上げを引きのばすのが正しい戦略だといっている。また、切り上げ圧力はアメリカが自国の都合のためにやっていることだともいっている。そういう見方は排外的な中国ならもっと強いだろう。矢吹さんが言うように反日で日本に対抗するためにやっているというよりは、アメリカの言いなりになると面子がつぶれるというところじゃなかろうか。
 今の中国にいけば、どこもかしこもすこしづつ金まわりがよくなってきていて、あまり不景気などを感じさせない。配分されるべき富といっても、すこしづつもらうほうが、一度にもらって減ったり増えたりするよりはありがたみがおおきいに決まっている。貧乏でも仕事がいっぱいあって働いただけ儲かるほうがうれしいにきまっている。たぶん金融危機みたいなのがなければ、切り上げ引きのばし作戦で国民を比較的に貧しいままにして外部から金をすいあげる方式をつづければよかったんだろう。
 しかし購買力が総体的にあがらないまま金融危機に突入してしまったため、いまになって必死に内需拡大とか唱えている。そしてとりあえずは最大の消費者をかかえるアメリカに消費してもらうため、米国債を買ってやるしかない。ドル連動をつづけるということはつまりアメリカ経済の一部になるということなのか。
 プラザ合意についてネットで検索したら、その後のバブルの原因になったというのはまぁそうなんだろうけど、デフレとか「失われた10年」の原因になったとまでいうのはどうなんだろう。
 プラザ合意と平成バブル これをみれば、なるほど、今につづく低金利はバブル中に用意されたことということになるのか。


2009/05/11

 昨日は焼き肉たべて酒飲んだ。

 ラオス周辺には高床式住居とか入母屋式の草葺き屋根とかもち米とか納豆くさいものとかあって、あのへんに日本の文化の一つの淵源をもとめたくなるのもわかる。中尾佐助の本でもよむかの。

 ボートピープルというのはベトナム戦争の戦火をのがれてきた人が主体ではなく、統一ベトナムが成立したときに中国系の排斥をおこなったので、そういう人たちが船でのがれたのだという話がある。ラオスでも革命政権ができたときに中国人排斥をやったらしい。
 しかしそれが今やラオスにはくまなく中国人が進出し、商店を開いているし、ビエンチャンには、目視していないが、中国租界みたいなものができてしまっているらしい。
 中国の海軍力増強は、ベトナムを目指しているのではないかという気もする。南沙諸島の領土主張とか、ラオスカンボジアへの進出っぷりを見ると、ベトナムはすでに中国の勢力範囲で包囲されている。90年代の台湾海峡緊張のときに米軍の空母の威力をみせつけられた江沢民が海軍増強を指示した結果ということだが、ではそれを実際に台湾にむけるかといえば、それは被害甚大なのでしないだろう。北ベトナムは漢代から五代のころまでは皇帝の版図だったわけで、ベトナムの主要構成民族であるキン族も炎帝の子孫ということになっているから、中華民族とかいうのは簡単だ。もっとも実際に使うのではなく、武力で威圧してということになるのだろう。台湾とか日本とか朝鮮半島方面だとそういうことはできない。台湾併合後に琉球「解放」作戦とかならありそうだが、台湾をいつ併合できることやら。

 既存宗教に変わって急拡大する「宗教的なるもの」への信仰 | Kousyoublog

 今日は大半寝ていたが、なんとか東南アジアの島嶼部も読んだ。
 東南アジアにはイスラム教徒のペルシア人アラブ人が8世紀ごろから来ていたが、これがジャワ方面のイスラム化をうながしたわけではないらしい。鄭和の遠征がその契機だとか。おそらくモンゴル時代の交易がその契機ではないかとおもうが。マラッカの拠点化はやはり鄭和の仕業らしい。ジャワとシャムが勢力あらそいをしていたところへ明が介入したということか。
 アラブ人とかペルシア人は見るからに異人なので、それよりは見た目が近い中国系のイスラム教徒がやってきてはじめて大々的にイスラム教が広まったということだろうか。そこからひろがったイスラム化はそれまでのヒンドゥー系のマジャパイトをよわめていったが、さりとてイスラム勢力がジャワを統一したというわけでもなかったらしいところへポルトガルがやってきたということだそうだ。  そういうと考古学の本にそういうことがかいてあるのはおもしろいな。あと、日本の焼き物が特大筆記されていたが、あれは17世紀の明清交代期の混乱で中国本土の磁器輸出が減った間にそのシェアをうばったものなので、時代の指標という意味がおおきい。しかもその後はまたシェアをうばわれるし。


2009/05/10

 田舎から帰ってきた。京都の部屋に自転車が装備されていた。ある人の遺品らしい。自分で買ってもよかったが、この部屋はしばらく住む所ともおもっていなかったので買わなかった。のりまくろうとおもう。

 無徴という言葉をみたので、これは何語なのかとおもったら、どうも、記号論でいうところの non-marked の訳語らしい。記号論はよくしらないが、漢文読みだときざしなしとかしるしなしとかいうところだな。

 世界の考古学シリーズの『東南アジアの考古学』、大陸部は読んだ。アンコール時代まででおわっているが、アンコール時代については考古学的にはほとんど知られていないらしい。それは歴史学者による碑文解読などが先行していてそれでおわってしまっているからだとか。だから王朝がどうしてどうなったかというところだけ詳しくて、それを支えた社会の変化は全然わかっていないらしい。
 雲南の青銅文化が栄えた時代に北ベトナムでもその影響をかなり受けている文化がさかえていたが、タイ東北部の平原でも青銅文化がさかえ、青銅三角地帯のような状態になっていたそうだ。今回の旅行で雲南ベトナムのは見たが、タイのものについては気づかなかった。
 ラオスの壺平原の壺もこれは墓だと明確に説明してあった。ちなみにビエンチャンの博物館にはひとつ壺が展示してあり、鏡で中がみえるようにしてあったが、お札がなげこんであった。
 こういう本は行くまえにザッと読んでおくべきなんだろうとはおもう。


2009/05/09

 なぜ急いで帰ってきたか。青年海外協力隊にまだ未練があって、応募するために帰ってきたのだが、青年海外協力隊のサイトをよく見ると海外から応募できるようになっていた。そのことは雲南で気がついた。そして、検査項目が減っている。今日健康診断の申しこみにいってわかったのだが、一日で結果がでるらしい。前やったときは一週間かかったのだが。
 18日消印有効なので11日に健康診断とかそんなことを考えていたのだが、そんなに急いで帰ることはなかった。さらに言えば、バンコクなんかでやったほうが安上りだったはずだ。バンコクで健康診断して応募し、疲れがこない程度にゆるゆると北上して寧夏や内蒙古を通過し、満州韓国のまだ見ていないところを見て対馬から島づたいに帰るということもできたはずだ。あーぁ。まぁ過ぎたことはしかたない。

 田舎。日本の田舎の緑は目にささる。そして、ジメジメしている。

 .fonts.conf でビットマップフォントの使用を強制する方法だと、Gnome上ではきくが、Fluxbox上ではきかない。結局アンチエイリアスとか使うなら、今のように xfce のターミナルをわざわざつかうのではなく、Gnome の端末をそのままつかったらいいようにおもう。うーん。xterm のフォント設定をなんとかして、簡体字とか太字とかが豆腐にならないようにしたほうがいいような気がしてきた。


2009/05/08

 ようやくノートパソコンの環境が回復できた。ubuntu9.04。いまのところいい感じです。どっちにしても普段使う環境は Fluxbox 上なので、大差ないのだが。
 クリーンインストールするまえにいろいろ設定を保存したけどモレがあった。あー。
 9.04になってから、フォント内蔵のビットマップフォントの扱いがかわったようで、コンソールなのにビットマップフォントにならず見づらい状態になっている。こうなるまで、フォントの内部にビットマップフォントがあり、アンチエイリアスかけるかビットマップフォントを表示させるかなどの設定を Linux のディストリビュータがいい感じにチマチマ設定してくれていたことを知らなかった。ありがたいことだった。
 まぁそれはいいとして、どうしたら8.10までみたいな感じになるんだ?

 ネットが早くて気持ちいいです

 図書館にちょっと行ったけど、今回の旅行の範囲が広すぎて、読みたくなる本が多すぎることがわかった。旅行はやっぱりたくさん一度にするものではないのだろう。


2009/05/08 15:33:10 金

USBメモリを買ってきてなんとかUSBメモリブートはできた。
さてこれからだが。
がんばってチマチマ修復するのもめんどくさいので、データをバックアップしてクリーンインストールすることにする。なんか疲れてきた。


2009/05/08 09:49:48 金

ubuntuのCDがやけない。。。
もっとも、ちゃんとインストールできてるけどハードの問題で起動できない可能性もあることがわかった。


2009/05/07 21:01:25 木

関空到着。
京都まで行けそうなので行ってみる。
しかし京都まで私鉄乗り継ぎで100元あまりか。まぁそんなもんか。
関空でユーロのコイン両替できた。


2009/05/06 21:36:41 水

しかしこの時期に飛行機でわざわざ帰るのはまずかったかもなー
ただでも遅く着くのに検疫とかで時間がかかりそうだ。大阪で泊まることになるのか。まぁいいか。
どうでもいいけど、このネット屋、1時間二元のくせにダラダラネットしているとコップにはいったお湯をくれる。しかもガンガンのむとガンガン補給してくれる。1時間二元(30円程度)のネットカフェで働く給仕の給料ってどれくらいなんだろう。


2009/05/06 14:28:07 水

昆明から飛行機。明日。北京経由。夜関空着。

今よくよくしらべると無理して帰国しなくてもよかったようだ。まぁいいか。


2009/05/06 08:59:57 水

昆明到着。
すずしいー。
きもちいー。


2009/05/05 16:32:51 火

中国入国。あっけない。
これから昆明上海大阪と一気にいくわけだが、3万くらいかかる。
飛行機でもっと安いのがないかなぁ。


2009/05/04 20:48:52 月

ラオス。
夜行列車でビエンチャン→夜行バスでルアンパバン→ウドンサイ。
ルアンパバンで泊まったらよかったか。ここまできたら中国商店とかがおおい。ついつい中国系の賓館に泊まってしまった。
ラオスは山だらけの田舎でよい。一番よいのは夜になったらものすごく涼しいことだ。気持ちいい~


2009/05/02 18:19:22 土

やっぱりラオス経由だな。
ラオス国境いきの切符買った。一番安いのは売ってくれず、エアコンつきの二等寝台だ。


2009/05/02 12:55:14 土

バンコクではよんたいさんのお世話になった。ありがとうございました。
さて。今ネット屋でどう帰るか思案中。飛行機だと約四万円(台北経由)。
やっぱりラオスとおって中国抜けるべきなのか。
昆明から上海までが一日半かかる。いま中国も五一だから列車がとれるかどうか微妙だしな。うーむ。


2009/04/30 13:40:57 木

昨日は夕方の列車でアユタヤに行き、早朝にぐるっとまわってそのままロッブリーまできた。
とにかく暑いので日中まともに観光するのはやめたほうがいい。
ということでスコータイ行きはやめようとおもうのですがどうでしょう>よんたいさん


2009/04/29 16:51:31 水

バンコクの博物館がでかすぎる。博物館をみてさっさとアユタヤにいくつもりだったが、でかさと暑さでかなり消耗した。
ということですぐ近くのカオサン通りの安いネット屋で涼んでいる。
海外駐在員よんたいさんの部屋に重たい荷物を置かせてもらって身軽になったのでこの暑さのなかでも行けるはずだが。


2009/04/28 18:07:28 火

バンコク到着。暑いかとおもいきや、カンボジアより涼しい。ここから帰ると結構高いのがわかったので、がんばって中国まで北上するとおもう。たぶん。


2009/04/27 19:00:41 月

アンコールワット。暑かった。
チャンパの遺跡であるミーソンとか見といたらよかった。比較になったのに。まぁしかたない。
明日の朝バンコク行きのバスに乗る。夜にはバンコクについているだろう


2009/04/25 22:17:08 土

プノンペン到着。
サイゴンの宿が無線LAN使い放題だったので調子にのって寝ながらUbuntuのアップグレードなんかしてみたら見事に失敗してしまった。もっと環境のおちついたとこでやるべきだった。当分ノートパソコンつかえない。


2009/04/24 金

 ホーチミン市博物館。
 この地域がベトナムの支配下に入ったのは17世紀のこと。考古的なもののあとはそこまですっとばしてある。二階に少数民族展示があり、そこに壺があって細い竹が指してある。民具なんかを熱心に見ていたせいか、展示の監視のおっさんがその壺を指さして、竹をつまんで上下させ、口で吸うしぐさをした。よくよく見ると、壺のなかに籾殻のままの米のようなものが入っていて、水につかっているようだ。これは醸造か。飲んでみたら本当に酒でうまかった。暑いときに酒ってうまいのな。ビールを飲みたくなったが、結局飲んでない。
 17世紀に陶磁器が発達したそうだが、これは日本の伊万里焼とかとおんなじで、明清の際の混乱で陶磁器の先進国の中国本土からの輸出がなくなったために発達したものだろうな。
 民俗展示の一角に舞台関係のものがあり、楽器がおいてあった。それがまた。中国経由の琵琶・琴類と、西洋経由のマンドリン・バイオリン・ギターの類、あとこの辺の一弦琴とか二胡っぽい楽器とか。弦楽器勢揃いみたいな感じだった。


2009/04/23 木

 フエからダナン。南バスターミナルまで歩いたらダナン行きのミニバスが出るところだった。25000ドン。南北ベトナムを分けるという峠越えだが、何度か寝てしまった。
 ダナンの博物館まで歩いたら閉まっていた。チャム博物館まで行ったころにはかなりバテてしまっていた。
 チャム博物館にはチャンパの彫像が初期から最盛期衰退期まで並べてあるのだが、何分バテているのでひととおり見ただけだった。まぁモロにインドで、リンガとかまであった。唐草模様がありそうなところにおっぱい模様というかおっぱいモチーフの突起物が並んでいた。

 チャム博物館の前でホイアン行きの市バスをつかまえる。10000ドン。どうも旅行者はいい鴨になっているようで、最初は50000とかふっかけてきた。この路線上にふたつの博物館もあったのでそれに気付いた時点で乗ってしまえば疲れなかったのだが、通る度にホイアンホイアンとしつこく声を掛けるのでその時は乗らなかった。
 ホイアンには四つ博物館があり、他にもいろいろ観光地があるところを通しのチケットを買って、博物館は一つ、華僑の商人会館も幾つかあるうちの一つという風にしか行けないらしいのだが、博物館にだけ行きたかったので、通しのチケットを買わずに全部行ってみたら何事もなく入れた。博物館の建物自体も古いもので、古民家もそれで十分見たつもりになれた。
 サフィン博物館。革命博物館が併設されていて、そっちの方が分量が多い。サフィン文化についてはハノイの博物館で見たものばかりだった。革命の方はあんまりじっくり見なかった。
 陶磁器博物館。海外交易の重要拠点ということで、日本の肥前焼きがたくさん並んでいる。陶磁器は中国産のものの方が多いはずだが、なぜだろう。
 歴史文化博物館。ここはホイアンの歴史を大雑把に紹介。建物もこじんまりしていた。
 しかし。ここといい、陶磁器博物館といい、日本のことばかり書いてある。ここには日越友好がどうこうというプレートがあったので、ベトナムの方で配慮したのだろうか。もっと重要な中国貿易があんまり触れられていない。
 最後に民俗博物館。民具がいっぱい。
 港町の雰囲気は日本の廻船で賑わった港町と似ているなぁ。昔栄えて今はさびれているのが似ているだけなのかもしれんが。

 ホイアンからダナンに戻るが、南行きのバスがもう終っている。ジアライというところに行くのがあったがそれが中部高原らしいので行ってみた。しかしさんざん歩いて疲れていたので、ぐっすり寝てしまった。ジアライはプレイクという都市のどっかの名前らしい。着くとすぐサイゴン行きに乗りかえた。
 中部高原はすずしかった。高いところは違う。ルートもほとんど峰伝いだったので眺めもよかった。警察が結構いて、ミニバスから金をむしっていた。10000ドンをなにかの書類にはさんで持っていっていたので、なにかの料金だとはおもえない。
 沿道の茶屋っぽいところがハンモックを標準装備。きもちよさそうだなぁ。
 黄色い蝶が乱舞していた。蝶類って自動車にぶつかる前に風でとばされるとおもっていたけど、なかにはぶつかって潰れるのもあるのな。はじめて見た。

 サイゴン。市バスで安宿街のファングーラオ。しかし事前に調べていたドミトリーのある安宿がほとんどきえている。むーん。シングル10ドルとか8ドルはまぁ悪くないが、ベトナムドンがすくなくなってきているので節約したい。がんばって歩いてさがしたらシングル4ドルというのがあった。エアコンもないし狭いが、wifiつきなところが最高。


2009/04/21 火

 ハノイからフエに行くのに一日かかった。午前10時に出て、夜の二時到着。よくわからんところにおろされたが、どうも、フエのバイパスの入口らしい。20kmか10kmかよくわからんがとにかく長時間歩いて、朝にはフエに到着。城郭を見る。城壁は立派だが、望楼がなんか。

 フエではミーアン温泉に行った。歩いていったら途中道を聞いた人に騙されて違う道を行ってしまった。帰りにも同じ目にあって、だいたいわかってきた。ベトナム人が外人に道を聞かれたとき、騙すときはまったくの反対方向を指し示すらしい。
 温泉は個室とプールがあって、どっちでも温泉がたっぷりでてくる。しかも、ヒマだったせいか、何時間居てもいいらしい。普通のプールもあって、そっちは別料金だった。暑いときに温泉に入って疲れたのだが、行きも歩いて、帰りも歩いた。しかも道に迷ってしまったので、余計疲れた。まぁしかし二本の足をとにかく前に出しておけば、どこかへはつくものだ。
 ということでベトナムの都市近郊農村の間をぐるぐるまわって堪能した。
 一番のイベント。
 親切な人がその辺の住民に頼んでくれたので小舟で渡河。コールタールで防水したザルみたいな船。手漕ぎ。しかもしゃもじみたいなのを二つもって漕いでいた。
 歯医者が多い。多いのだが、その辺の村の建物よりもボロい小屋で診療をしている。なんでなんだろう。墓地もたくさん見た。仏式キリスト教式中国式なんかが混在していた。寺もけっこうあった。関羽を祀った寺があった。教会も意外なところにポツポツある。


2009/04/19 日

 ハノイ。暑い。
 昨日はスイカを一個まるごと食べたけど、ほとんど汗になってしまっているようだ。暑い。死ぬ。

 今日出てもよかったけど暑いのでダラダラモードになってしまい動けない。

 ユースホステル毛唐だらけだ。従業員からたまにベトナム語で声を掛けられるが、ベトナム人チェックらしい。なんと声を掛けているのやら。
 駅のまえをフラフラしていたらバイクのおねーちゃんに道を尋ねられた。困った。
 夜になると若干すずしくなるし、ドミトリーに冷房がはいってききすぎないのできもちいい。湿気取りだけかもしれない。

 ロンプラのコピー本を買った。"Vietnam,Cambodia,Laos & the Greater Mekong" 13万ドンした。高いのか安いのかわからない。

 中越国境の河口ラオカイ周辺は今も1947年頃もおんなじで、違うとおもったのは勘違いだった。線の引き方はだいたい緯度に平行で、山の峰に沿っており、時々谷をまっすぐくだって向かいの峰まで続くようになっている。雲南の高原からすれば、高原の境目で区切っているわけではないとはいえる。ラオカイのところだけ紅河に沿っているのは、南岸がラオカイの街で、北岸に支流の河が合流しており、その河の北岸が河口で、南岸がベトナムになっている。なんでかしらんがそこが境目になったんだろう。昔は鉄道がつながっていて、モスクワからハノイまで運行していたこともあったらしい。
 歴史地図集をみると、雲南方面と北ベトナムの境目は一貫して河口-ラオカイになっている。


2009/04/18 土

 ハノイ。
 暑い。暑くて死ぬ。

 ラオカイからハノイ行きの列車のなかで、向かいの中国人の持っていたベトナム語口語の本を見たけど、ベトナム語は漢語の影響がものすごいな。それも漢語の現代口語音に近い。そういうところは朝鮮に近い。

 ハノイは白人の観光客がうじゃうじゃいる。
 ハノイの安宿って昔は数ドルのところが普通にあったらしいが、今はそんなにないらしい。ということで、ユースホステルにとまった。130000ドン。中国が安かった分高いように思ってしまう。人民元とベトナムドンの簡単な変換は一万ドンが4元。13万ドンは52元になる。うーむ。
 暑い。

 ベトナム歴史博物館。20000ドン。
 ひさしぶりにまともな歴史博物館に来た感じがする。しかし説明がベトナム語で、よくわからない。
 紀元前500年くらいからのドンソン文化は同時期の雲南の青銅文化とものすごく似ている。雲南をしょぼくしたような感じか。
 思っていた以上に中国中国していた。
 チャンパについてはその前身となるドンソン文化とならぶ文化の紹介のあとは、チャンパの彫像だけだった。しかしこれがものすごくインドだった。文字も南インド系だし。北ベトナムのシナっぽさと中部ベトナムのインドっぽさ。インドシナとはよくも名づけたものだ。しかし北の方で中国経由の仏教が栄えているころ、南の方ではインド系のヒンドゥー教的なものが栄えている。アンコールワットなんかをつくったクメール人も最初はヒンドゥー系の寺院をつくっていて、それが仏教の寺院につくりかえられたそうだが、南伝仏教というのは遅いものなんだな。
 雲南省の博物館に置いてあった密教系の経典の説明に、南伝仏教の由来を考える上での重要な資料と書いてあって、いかにも南伝仏教というのは中国経由ですエヘンと言いたげだったが、それよりはシナ系仏教の南下の限界を感じさせるものだった。北ベトナムより南に行かなかったのは漢字の壁じゃなかろうか。
 いわゆる占城のチャンパについては像や碑がならんでいるだけ、真臘についてはほとんど触れられていない。

 ひさしぶりに一万円札を直接両替した。1767900ドン。銀行。レート的には1%くらいが手数料なので、ATMで引きだすのよりはレートがいいことになる。

 ベトナム人は細くてムチムチした美女がおおい。暑いからみんな薄着なのでそういうのが目立つだけだが。

 最低気温27度で最高気温32度か。そりゃ暑いはずだ。

 歴史博物館でタイソン朝というのがあって、歴代王朝の一つとしてあげてあり、出身が農民ということで、革命史観的にはけっこうおいしい扱いをうけているんじゃないかとおもって


2009/04/16 木

 昆明から河口。10:30の安い方のバス(103元)にのった。すると蒙自から山奥を通った。眺めがよかった。棚田あり、田舎の街あり、バナナのトラック積み出し風景あり。まぁルート全体が山がちだが、蒙自からが特に山奥で、谷が深すぎてよかった。高速に入ろうとしたが、追いかえされたので山奥になったようだ。あれはまだ開通していないのか、もともと通れないのか。

 河口到着が夜の九時ごろ。暑い。とりあえず適当に20元のところに泊まる。
 とにかく暑い。

 米軍地図を見ると、今と中越国境線が微妙に違うような気がする。この河口から紅河の南岸沿いにベトナムが中国に向って奥に領土があるように見えるが、気のせいか。
 ここの国境ってやはり清仏戦争のときに決めたのだろうか。山の峰ではなく、峰が中国側にあってその下の谷に国境がある。


2009/04/15 水

 昨日貴陽。夜行で昆明。

 貴陽の貴州省博物館。
 夜郎自大で有名な夜郎国があったがよくわからない、ということで片付けてある。

 昆明の雲南省博物館。
 昆明市博物館。(ほとんどおなじ内容の展示)
 青銅。
 南詔・大理の仏教国っぷり。密教の経典のうつしが展示してあるのが意外だった。50年代に「収集」したとあるから、共産党が「地主」などからとりあげたものだろう。仏教国っぷりといっても日本をはじめとする支那周辺地域と大差ないのが意外だった。紀元前の青銅器の異様っぷりもおもしろいが、これには北方の遊牧民の影響が見えるのがまた意外。ちなみにその担い手については漢の先進文化を受容して融合し消滅したとある。中国お得意の民族融合だ。

 久しぶりにユースホステルにとまったら中国人ばかりのドミトリーに放りこまれた。天気がよいので洗濯した結果、洗濯ものが臭いのは石鹸のせいだとわかった。それで新しい石鹸を買ってきたが、変わらないかもしれない。明日河口に行く。明後日ベトナム入りか。
 無線LANがつかえるのをいいことに、米軍地図のインドシナ部分をダウンロードしているけどなかなかおわらない。


2009/04/14 火

 頭がうごかない。うごかしていないんだからうごかないのは当然か。めんどくさがりの自分がいてそれがいろんなことをジャマする。


2009/04/13 月

 雨の中心は広東福建に移ったようだ。

 列車の時刻がすくなすぎる。午後か。

 貴陽。ここまでずーっと田舎だった。貴陽がいきなり大都会でおどろいた。
 1900m級の山があるところはものすごい谷になっていて、見あげると、山の上に山があって、あれがてっぺんかとおもって見ていたらその上にさらに山があったりするような感じだ。でかすぎる。
 高原は岩だらけで、よくこんなところを開墾したなと感心する。
 乗ってくる人がいままでとくらべて田舎田舎するようになった。他のところでは比較的冷淡な扱いを受けている車内販売の玩具売りが、ここでは子供に大人気で、大人も興味津々に見ていた。でもやっている内容は他のところと一緒だった。あれ台本あるんだな。

 ようやく洗濯物が乾きそう。でもくさいにおいが抜けないので捨てるかもしれない。

 この先昆明に行くのも時間がかかりそう。

 ボーっとニュースを見ていたら、メロドラマっぽいものの予告をやっていたが、舞台が民国っぽいので、どうせ日本がからんでくるんだろうとおもって見ていたら、やっぱり日本軍みたいなのがでてくる場面がでてきて、その画面に一瞬ポーっと詩みたいなのが浮びあがるのだが、日人を殲滅するとかなんとか書いてあった。一瞬すぎてよく読めなかった。
 山奥の田舎の飯屋で飯食ってて日本人ってバレたときに、若造に「日本鬼子ガン3ホー1」とかしつこく言われて不快だったのだが、ガンホーの意味がわからんかった。干火?


2009/04/12 日

 重慶三峡博物館。
 荷物をあずけるところがない。こんなにでかいのに。朝飲んだ緑豆豆乳がへんな味で、飲んでからやたら汗がでてフラフラするので荷物を持つ気にならない。展示室の入口に置いといたら保安に持っていかれていた。よし。
 見るものがあるのは三峡展示・考古展示・抗日展示くらいか。あと絵とか書とかあったみたいだが、たいしたことなかった。
 関羽の銅像なんてのがあったけど、制作年代が書いてない。関羽はこんな人です、関羽廟からもってきました。以上。みたいな。まるで信仰の対象みたいなあつかいかただ。
 このへんは古人類とかいろいろ出ているようだ。人類アジア発祥説とかまだ言っている。巴って現地人がつくった蛮族政権だとおもってたけど違うのか。そもそもは周に封建された国で、中心はもっと東にあって楚に圧迫されて重慶中心になったとか。そのころから征服政権だったのか。

 重慶は豆腐花の本場なのか、鍋いっぱいの豆腐が飯屋の先においてある。たのんだら、葱と油といためたトンガラシと塩のはいった小皿をもってきた。いためたトンガラシは油につけてラー油にしたものなんだろう。油はそんなに辛くない。塩がうまかった。これでかなり元気になった。塩不足だったのか。

 成都に行こうかどうか考えていたが、ネットで調べたら四川省博物館は現在閉まっているらしい。どっちにしても明日は月曜なので、まぁいいやということで、貴陽方面に行くことにした。貴州省との境目に1900mくらいの山があって、鉄道がその側をとおっているらしい。日がおちる前に着く赶水がそのちかくなので行ってみたら、見事に山奥だった。虫の音がよくきこえる。
 まぁしかし中国の宿でそんな静かなところがあるわけないではないか。テレビが大音量でなっているのもよくきこえる。

 桂林で洗濯したものが全然乾かず、かつ、とても臭い。重慶の宿がお湯つかえたのでもう一回洗濯した。まぁそして乾いていない。この山奥に来てまた干しているのだが、山奥だけに乾くともおもえない。
 臭い原因だが、石鹸の脂がわるいのかもしれない。しかしなかなか乾かないシャツパンツが臭く、まだ乾きが早いワイシャツは臭くなくなったところを見るとそうでもないのかもしれない。

 米軍地図をよく見ると、赶水のあたりはまだ標高が300m弱しかない。もっと南の桐梓とか遵義のあたりの方が高く、1000m前後する。共産党の逃亡ルート(長征ルート)をあまく見ていた。
 つーか貴陽のあたりもそうなのか。高原かこれ。
 ちゃんと地形図のある地図を持ってくるか買っとくかしたらよかったなぁ。中国で売られている地図はほとんど交通図で、標高なんか書いてない。北京で買ったポケットサイズの中国地図は見掛けによらずとてもつかえる地図だった。これに一枚ものの地形図がついていたらなぁ。


2009/04/11 土

 靖州県から重慶北行き。朝5時52分。おなじ宿にそれに乗って怀化まで行くおばさんがいて、駅まで連れてってくれるというので、朝がんばって起きた。
 この路線は湖南省の東側の山奥を通り、貴州省の西側の山奥を通り、重慶特別市の山奥を通って重慶まで至るものなので、どんな辺鄙なところを通るのかとワクワクしていったら、始終高いところを通る列車で、パノラマ鉄道のようなおもむきがあった。それはよかったのだが、とにかく遅い。よく止まる。駅での停車時間が30分なんて普通。重慶についたのが19時20分ごろで、ちょうどそのころから暗くなった。駅出たところで客引きにつかまってつれていかれた。暗くなってしまったのでそこにした。30元。シーツがきれいだ。

 この路線はずーっと木造建物がならんでいた。日本の田舎とたいしてかわらない。トン族だからというわけではなく、このへんはそういう地域らしい。ほんとにそうか調べんとわからんが。重慶のまちのごく近くになってようやく漢族らしい無愛想なコンクリートやレンガの家が見えるようになった。
 怀化から重慶の間はトンネルがとにかく多かった。まぁつまりそれだけ山深いということで、ときどきトンネルから出ると雄大としか言いようがない景色が広がる。これ、観光列車として優秀なのではなかろうか。駅の停車時間とトンネルのなかにいる時間がもうすこし短ければもっといい。

 重慶北は重慶の中心からすこし離れている。建物は立派で、まわりの建物もあたらしい。雰囲気が上海南に似ている。こういうのはあんまり好きじゃない。もっと駅前にゴミゴミした街がひろがっている方がいい。まぁゴミゴミしすぎたから郊外に駅があるのかもしれんけどな。

 どうも大雨が降っていたようでその被害をテレビでやっていた。霧も濃いらしい。そのせいで列車が遅れたのか?


2009/04/10 金

 霊渠。桂林から興安までバスで20元。そこからまっすぐあるいて風景区。40元だが、まわ(略)。
 普通に堰だった。湘江が霊渠のほうにまがってえぐれてかなり迫っているところが二箇所あり、将来が心配。たぶん護岸工事しちゃうんだろうな。

 桂林から靖県まで。着いたら靖州県となっていた。重慶まで列車で一気にいくのもつまらんだろうとおもって、バスで山奥を通りぬけるルートをとってみた。そしたら寝台バスだったので病みあがりに好都合。
 沿道にはところどころトン族の集落があり、木造家屋がならぶ。集落の入りぐちにある風雨橋とか集会所とかはすでに広西博物館で見たので、そういうものが実際にあることを確認できた。必ずしも全てにあるわけでもないみたい。でかい橋が国道から集落にかかっているのだが、橋と集落のなかの道が釣りあっておらず、なんか奇妙だった。国道をつくったときにとりあえず一律橋をかけといた感じだ。そういうのが風雨橋になっているところはわりとすくなかった。釣り橋になっているところもあった。日がくれると家の中の裸電球がつく。昔の日本の田舎もあんな感じだったんだろうな。トン族の分布だが、広西省よりも湖南省側の方がたくさん集落があって、しかも湖南省の方が活気があった。家は入母屋式なので、日本にちかい。漢族式に近い切妻の家もあったが、壁の上に屋根が乗っているところが漢族式と違う。まぁ日本式に近いということだが。
 屋根は全部瓦葺きになっていたが、ごく少数の小屋に板葺、木の皮葺きがのこっていた。昔はそれがメインだったんだろう。茅葺き系はなかった。貧困の象徴として抹殺されたのか、そもそもないのか。
 ところどころ祠があったが、バスの中からなので、中になにが置いてあるのか確認できない。自転車とかバイクでチンタラはしったらたのしかろうな。

 靖州県。降りようとしなければ怀化まで乗れたような気がする。まぁ夜中に行ったってしかたないが。
 宿が安い。テレビ、温水シャワーつきで20元。


2009/04/09 木

 のどの奥が腫れてる感じがある。黄色い痰が出る。まぁしかし布団で寝て、だるさや微熱がなくなった。治りかけということなんだろう。
 しかしそれよりも土砂降りの雨だ。寝とけということか。

 ネット屋が安かった。午前中は一時間1元、午後から1.5元。この地域がそれだけ貧しいということなんだろう。
 桂林米粉というのが近くにあったので食べた。百年老店と書いてあるのが本当だとはおもえないが、それなりに古そうで、まず食券を買って、すぐ横の厨房でうけとる。ビーフンを想像していたら全然ちがっていて、太麺がでてきた。それに肉をいれてもらい、スープを自分で好きにいれ、薬味も自分で好きにかけてたべる。しかしスープもなにもいれずにたべたけど、タレがかけてあるのがいい味で、全部キレイにたいらげた。

 東南アジアから帰りのルートを雲南からチベット通って西寧に抜けるのがよかろうとおもっていたが、東チベットを通るのが難しそうだ。素直に成都を経由するルートにするのが無難か。帰りのルートにするつもりでいた大理とか麗江も中国式観光開発がされていて風情もなにもないらしい。

 やっぱり風邪は全快しているわけではなさそうだ。あとはおとなしくねていよう。風邪ではなくて、なんとか炎とかなのかもしれんが、しったことではない。

 禹は治水のために13年間家に帰らなかったというけど、おやじが治水をまかされて功をあげられなかったので殺されたことをかんがえればそれはしかたないことじゃなかろうか。

 新三年、旧三年、縫縫補補又三年。


2009/04/08 水

 広州から海南島の海口へ寝台バスで行き、またその日のうちに寝台バスで南寧に行き、南寧から桂林に行ってやっと宿泊。客引きのおねーさんにつれていかれたが30元でシャワートイレ付きだった。すごい。
 そういう移動をしたせいか、体がだるく微熱がある。なんかの細菌じゃなかろうか。

 広州博物館。
 月曜であったにもかかわらず開いていた。公園にはいるのに金をとられる。一階に広州発の世界航路の歴史図がある。広州は中国の海外への窓口として栄えてきたということだ。
 前漢のとき征服されたけどすぐ反乱、後漢になってまた征服されたとか。漢代の陶器製船模型なんてのがあった。開発がすすんだのは唐代に五嶺山脈を越える通路が整備されてから。
 広東方面って北の遼寧・朝鮮と比較できるところがおおいな。ともに漢前後に支配下にはいったり、草原ルートと海上ルートの交易の出入口だったり。雲南とか満洲といった独立政権もあったり。大きな違いは北にはモンゴル高原があることか。
 広東省博物館は閉まっていた。新館をつくるらしい。あたり一帯工事していた。旧館での展示は2月くらいまで一部やってたようだ。

 海南省博物館。
 去年かそこらに開館したらしい。それまでなかったという。最近できただけあってキレイだ。
 国宝展をやっていた。鐙のある最古の陶俑があって、西晋の長沙のものらしい。たしかに片方しかないっぽい。しかし西晋からあったのか。
 普通の展示と少数民族の展示があった。まぁ中国ではあたりまえのことだが、歴史展示とは漢民族の歴史展示のことだ。
 海口にある城は唐代以降のものだが、これが漢代からのものかどうか議論があるらしい。なるべく支配を古くしたい中国人らしい議論だ。
 昔からいる少数民族が黎族しかいないのはなんでだろう。他には宋元のころにチャンパから逃げてきたイスラム教徒と明代に駐屯兵としてやってきた苗族しかいない。台湾にはやたらたくさんの部族がいたのに。台湾はフィリピンから島続きだが、海南島は不便だということか。
 少数民族展示では、中国ではあたりまえのことだが、彼等の言葉で何と呼んでいるのかの説明はなく、全て漢語の名前で説明してある。

 海南島は南国の雰囲気がいっぱいだったが、曇りだったので、涼しくすごすことができた。

 広西チワン族自治区博物館。
 屋内展示は少なかった。明清磁器と考古展示とよくわからん書道展だけ。明清の磁器とか現代書道なんか見たってしかたない。
 考古展示によると、広西は陶器磁器ともに中国内で最古の部類にはいるという。開発がすすんでいないから発掘もあんまりないんだろうが、稲作とかもこっちの方が古いんじゃないか。
 屋外展示で各民族の代表的な建築物があった。模型なのか移築なのか説明がない。木はそれなりに古そうだ。それぞれ中が喫茶店とか飯屋とか土産物屋になっているのが漢族の仕業っぽい。普通に展示できないのだろうか。少数民族っぽい女の子たちがいたが、みんな化粧に夢中だった。

 桂林から重慶にいって成都貴陽昆明とほとんど行ってからベトナムに入ることにした。そうすると、帰りに漢族っぽくないルートを取ることができる。まぁそのとおり行くとは限らんけどな。
 しかし桂林って観光地っぽいな。
 南寧から桂林まで列車で行ったが、沿線の様子を見ていると、棚田は小規模だがすでにあるし、漓江沿いでもないのに奇岩っぽい山がゴロゴロしている。漓江下りでみる奇岩とこのへんは同じ地質ということなのだろう。ということで、見るつもりもなかったが、このへんの名物はかなり見てしまった。


2009/04/05 日

 12時前の列車にのって広州へ。ここから乗る人がおおい。広州の労働人口の供給源の一つなんだろう。乗り口に人が殺到。押しあいへしあいしながら乗っている。しかも乗った人が奥まで入らず入口あたりのいい場所を占拠しているので奥へ進まない。入口で詰り、中でも詰り、ということで余計に乗車に時間がかかっていた。そういう状態なので先頭の方に行ったらまだ余裕があった。しかしそれでも多いのは多い。車外の眺めはいいけど、あんまり見えない。最初はトンネルが多かった。
 郴州はすずしかったのに、しばらくして急に暑くなった。まだ峠を越えていないのに。
 途中「省界橋」と書いた橋が一瞬見えた。あれ民国の時代のものじゃなかろうか。
 広東は急な山だらけの土地だな。開発しにくそうだ。でも川はものすごく広い。人口保持力はよわいけど交通の便がいいと。で、着いた広州の広いこと。広州って山だらけのなかの都会なんだな。駅の出口方面からみる駅構内にはいままでのどの駅よりも人がいっぱいいた。こりゃ次の切符が大変だ。
 着いたら四時過ぎで、暑くて都会ですぐに宿とかもみつからなかったのでうろうろして、しつこい客引きに根負けして30元の宿にした。で、道でたところの向いにあったネット屋でしらべたら、広州は博物館がいろいろあるらしい。まぁしかし明日月曜なんだが。もうすこし山奥でだらだらしていたらよかったか。
 とにかく暑い。暑いのはダメだ。死ぬ。

 履物屋がいっぱい。サンダルが箱にいっぱい入って15元とかで投げうりしている。アラビア語で併記してある看板なんかもある。岳陽で雨に負けて靴を買ってしまったが、ここまで待ってサンダル買ったらよかったなぁ。まぁしかたない。
 道行く人の服装が今までと違って都会になっている。香港からの風なんだろうか。

 この宿の人は外人が泊まっているのがバレると免許とりあげられるとかなんとか言っててビビっていた。そういう事件があったんだとおもう。そのビビり具合が神経質なので、一泊でやめとこう。


2009/04/04 土

 長沙の湖南省博物館。
 朝一に着いたのに長蛇の列。二時間弱並んでようやく11時半入場のチケットをもらう。
 馬王堆古墳の展示。漆器だらけだ。琴は曾侯乙墓とくらべると弦の数がすくないけど、基本的な形態がおんなじで、あんまり変化してないのが意外だった。音律管があったが、漢の制度とあわないので、明器(墓葬用の模型)だと断定している。それなら他のものも明器で厳密な参考にはならないんじゃないか。棺の漆絵がおもしろかった。
 他には考古十大発現のパネル展とか磁器なんかの展示があってそれでおしまい。馬王堆古墳展示館とかに名前を変えたほうがいいんじゃなかろうか。

 長沙市博物館。今いちばんにぎわっているのは古物商市場みたいだ。裏口から表門ちかくまで屋根のある回廊があり、そこにズラーっと古物商が布をひろげていた。玉をあつかっているウイグル人みたいなのもいた。
 奥に展示館がある。むかしは革命展がメインだったんだろう。その残滓があちらこちらに見えるが、今は改革解放30年展をやっている。まぁあんまり時間もなかったのでそれはパスした。二階に毛沢東記念室みたいなのがあるが、一番広い部屋は土産物売り場で、奥の狭い部屋に毛沢東の胸像とその平生を紹介したパネルがある。部屋にはいると中国語で解説してくれるがわからんのでいいよとさえぎると、胸像の前でなにか言いながら花をわたされた。胸像の前にすでに一本置いてあるので、献花せよということらしい。とりあえず偶像の前に花を置いたら、すかさず金ピカの金属板のカードをとりだして、これに名前を入れるので記念にどうですかと言っているようだ。ニコニコしてパスしといた。
 土産物売り場だが、古いものもまじっているので、あれは昔の展示品を売りはらっているんじゃないか。
 毛沢東の旧家があった。

 八時前発の列車に乗って郴州。安い切符を買ってみたらギュウギュウのコミコミで、久しぶりに人民列車にのった気分になれた。到着が0時すぎ。今日はとにかく雨つづきで、新しく買った靴もぐちょぐちょになった。結局は布靴ということだな。しかし底がポリスチレンとかそういう発泡合成樹脂系でできていて、乾くのも早かったのでよかった。これなら新聞紙作戦でなんとかなる。あとが臭くならなければそれでいいや。


2009/04/03 金

 岳陽。
 岳陽の博物館を見にいった。狭いくせに10元とられた。
 民俗部門があったのが珍しかった。日本人が唐箕と言っていたものとおんなじものが風車という名前で展示してあった。これスペインの人類学博物館で見たけど、フィリピンにも渡っているのな。漢人が人口爆発で海外に進出したことと関係あるんだろうか。
 展示は狭いし小さいけど、興味を引くポイントをおさえてある。新石器時代の太陽信仰とか。

 岳陽楼に行ったけど入場料が高かったので入らなかった。君山公園にも行ってみた。やはり入場料が高かったので入らなかった。まぁ、ここは洞庭湖を見るために行っただけだからいいだろう。楊麼寨があるとのことだが、ネットの君山公園の案内とか、現地の入口とかには全然触れてなかったので、もう起義ものは避けられているのだろうか。それに今日は天気がわるく、小雨と霧雨の中間のような状態で見晴らしが非常にわるかったので、そういうところに入ってもしかたない。洞庭湖もあるのかないのかわからんような状態だった。
 岳陽にもう一泊。スーパーで布靴系の靴のいいものを見付けたのでおもわず買ってしまった。約30元。布靴の鞋は北京製がおおいな。雨のあんまり降らない北方の履物なんだろう。これが通気性が一番よくていいのだが、あるスーパーで見つけた底が高くてゴムでできているのがとてもよかった。上は普通に鞋。ただ、最大で26しか置いてなかったので、無理に履けば履けなくもなかったがきつすぎるのでやめた。ウォルマートに行ったら、体育館シューズ系の布靴のなかにスポーツシューズっぽい格好をしてしかも軽くて安いのがあったのでそれにした。なぜ重たい体育館シューズより安いのかわからん。軽いから安いのか?安いなりの理由があるんだろうか。
 帰って履いてみたら小指が圧迫されるな。うーん。まぁしかたない。水浸靴は水浸靴下といっしょに捨てる。

 長沙行きのキップだけ買っといた。これで明日朝、駅で待つ事なく出発できるということだ。


2009/04/02 木

 武漢。
 長江経由の客船はもう廃止されたようで、フェリーターミナルがあるけど使われていない。バスターミナルは残っている。九江 → 武漢くらいのフェリーならあるとおもったんだけどな。渡船はのこっているのでそれには乗った。
 清明節が近づいて鉄道の切符売り場はどこも長蛇の列。これ来週もつづくんだろうな。

 湖北省博物館。
 荷物を預けるのに10元もとられるので、門前にあった店に、存包の看板もでていないのにむりにおねがいして預かってもらった。5元。
 ここはテーマ別だったので、全時代をカバーしていなかったけど、新石器時代のことがわりとわかった。江西省博物館はなんか抜けていたので、よけいにしっかりして見える。やっぱり稲作文明って強調しているな。全然関係ないけど「稲作」って日本語だとおもう。
 曾侯乙墓専門の部屋が一階にあって、人がうじゃうじゃしていた。楽器がいっぱいあった。ほかには秦漢の漆器とか、おきまりの磁器とか。
 湖北湖南って早くに漢族が蔓延したところだったんだな。

 武漢市博物館。
 近代展が改装中。他にもいろいろと改装中のところがあったが、歴史展示は開いていたので、みれた。読史方輿紀要が引用してあったな。

 岳陽。宿20元。途中、赤壁市を通った。実際にそういうところを通ると、土地勘が全然ないことがよくわかる。土地勘をつけるための旅なのかこれ。

 なんか日記をまともに書く気がおこらん。 →といいながらあとからいろいろ書きたしたらそれなりの分量になった。

 ミサイルが東京に飛んでくるわけでもないのに撃ちおとすとか言っているのは愚かすぎる。北朝鮮のミサイルの脅威が世間にしれわたってから十年はたつのにミサイル防衛はあいかわらずアメリカ謹製のパトリオットだとかなんだそりゃ。アメリカの景気対策か? 日本製のミサイル防衛兵器つくれよ。どうせ無理だから作らないというなら撃ちおとすなんて言えないだろうに。
 それこそ「指をくわえて」みてればいい。どうせ宇宙空間からジョンイルの長寿をねがう歌を流す衛星とかじゃないの。
 中国の新聞に出ている情報を見ると、あせってあれこれごちゃごちゃ言っているのが韓国で、ヒステリックになっているのが日本で、飛んでこないからどうでもいいと言っているのがアメリカ。だいたいアメリカはそれどころじゃないよな。中国をおだてあげて金をひきだすのにいそがしいようで、中国の新聞テレビは我こそ世界の救世主と浮き足立っている。G2とか言って本当にうれしそうだ。まぁ、幸せそうだからいいんじゃなかろうか。

 プラザ合意後の日本みたいに人民元が切り上げされると、今みたいに安くで中国旅行できないだろうな。今でも観光地は風景区という名前で囲いこんであって、金持ちだけが行ける区域になっている。人民元がきりあげされると本当に高くて入れないところになるんだろうな。


2009/04/01 水

 もう四月か。

 九江。潯陽楼は外から見た。対岸までがせまい。


2009/03/31 火

 南昌の江西省博物館。
 中に歴史館革命館と生物館の三つがあり、期待できるかとおもわせた。
 歴史館。年代がない。特に考古。新石器時代としか書いてないのがあたりまえ。何だその体たらくは。とにかく力の入っていない展示だった。
 江西がだいたい今のかたちになったのは明からだが、説明で「はじめて江西北部が江南の支配から抜けだした」みたいな書きかたしてあったのが印象的だった。長江沿岸の中流域南岸が独立して山岳地帯を支配した、みたいな感じでとらえているのか。
 江西も福建も金属が豊冨な一帯で、江西は殷周の青銅器の銅の産地であったらしい。温州にいた東瓯国人が移住させられたのが鄱陽だったのだが、そういうことは触れていない。客家のことだけ展示があった。
 昔の越人は龍虎山などの崖に棺を置くという葬送をしていたらしい。宋代にはそれが仙人の住処みたいな認識になっていた。宗教関係はおもしろそうだ。仏教の南禅がほとんど江西から出ているらしいということを知った。また道教の総本山の一つが龍虎山。道教って張天師が晋の南遷のときに龍虎山にうつってきてから変容したんじゃなかろうか。すぐちかくの福建の山奥には明代でも土司が置かれるようなところで、書房まで歩いたとき、途中の村の村人たちがなんか集団で歩いているのとすれちがったが、あきらかに漢族とちがって東南アジアっぽい人たちでおどろいた。昔はもっとそういう人がうじゃうじゃいてて、変な信仰をもっていて、道教とか禅とか朱子学なんかを育んでしまうような影響をあたえたんじゃなかろうか。

 革命館は中共の公式な近代史を展開していた。北伐後もちゃんとあっておもしろかった。「南昌暴動に失敗」とか書かないんよな。その後、方針を転換したのが今の天下取りにつながるんだから失敗したとか書いてもよさそうだがなにか差し障りあるんだろう。展示品に国民党の政治活動のものがあって、共産党とあんまり変わらない。ほんとに双子だったんだな。

 殺虎口、おもしろそうだ。殺虎口は地名らしい。
 敵味方なさそうな感じがおもしろかったのに漢奸とか小日本とか普通に言ってて一気に萎えた。
 あー。日本軍をやっつけた場面があったらしいのに見逃した。日本語が不自由な日本軍の将官がどなっている場面しか見れなかった。
 国民党軍の描写がひどくて笑える。

 TMDを聞いたのは福建だったか。ゲームしてる子供がTMDを連呼していた。


2009/03/30 月

 鷹潭は道教の主要会派正一教の総本山龍虎山の最寄りだった。水滸伝の最初に出てくるところだ。行くのはやめて、市の博物館に行ってみたらやっぱり閉まっていた。ここは中共内で唯一の道教博物館であるらしい。まぁいいや。
 鷹潭から楽平に行き、バスで鄱陽。鄱陽は昔府級の治所があったが近代には中心にならなかったということなので、いいかんじに寂れているのを期待したけど、夏の観光地っぽい感じの開発がされているようなので、長居せずにそのまま南昌行きにのった。鄱陽湖を見ようという魂胆だが、まぁいい感じにかすったようだ。
 鄱陽は江西省の鄱陽湖の西側南寄りの集散地だったんだろうな。今は鉄道の発達のせいでその港としての機能が長江沿いの九江に吸収されてしまい、また各地から鉄道に乗って移動できるので、湖岸の夏の観光地としての値打ちしかないのだろう。ネットで鄱陽湖を横断する船がないか調べたら、鄱陽県が船を購入して南昌との横断連絡ルートを構築しようとしたが、運行2日で故障して以後復活しなかったので、訴訟沙汰になったことがわかった。
 南昌のバスターミナル近くの宿。20元。

 読史方輿紀要って電子テキスト化されているのな。しかし簡体字か。


2009/03/29 日

 建陽は明代の印刷の中心地のひとつだ。なかでも麻沙が有名らしい。ということで、麻沙にとりあえず行ってみたがなにもわからない。ネット屋でしらべてみた。すると、建陽のなかでも有名なのが麻沙と崇化ということだった。麻沙のほうは麻沙鎮の中の東坪で、麻沙鎮の中心から西北に8キロ程度。崇化は書房郷で麻沙鎮からだと南に十キロくらい。宋代の傾向だと、麻沙は私家版が中心で、おかたい本に片よっていて、崇化のほうは粗製濫造の坊刻が中心で、硬いのも柔らかいのもとりそろえていたという。で、明代の崇化は月に二回本の市が開かれるくらいの賑いで、街の入口に立っていた書林門なるものが現存するという。水滸伝とか三国演義なんかの小説を粗製濫造していたのもこっちだとか。建陽の業界では書林と言うと崇化の方を指すくらい、書林という名前が通用していたという。水滸伝の冒頭にも「書林」がでてくるな。革命老区ということなので、かなり辺鄙なところのはず。
 ということで、書房郷に行くことにしたが、そのへんの人に聞いたらワゴンみたいな乗合タクシーもあんまり走ってないという。勢いで歩いていくことにした。しかし、すこし歩いてみたが、このあたりの景色は日本とあんまりかわらん。福州には街路樹が気根をたらしていて、南国の気配が濃厚だったが、ここはそうでもない。植生も日本に近いんじゃなかろうか。たぶん高いせいなんだろう。
 福州の周辺は沖縄にもあるような形の墓があったが、ここにはない。このへんには家に、監視塔のような土つくりの建物がついていることがおおい。あれはなんだろう。最初はサイロかとおもったが、中には煙道みたいなのがとりついていてススのあとがあったりするので、窯とか焼却炉とかかもしれない。コーカサスにある塔みたいに、襲撃から身を守るための家用要塞なのかもしれない。もしくは村によっていろんな使いかたをされているのかもしれん。まぁわからん。
 犬に吠えられたりしながら、景色をながめてなんとか着いたが、書林門は文革のときに破壊されて今あるのは再建されたものだという。また文革か。一気にがっくりしたが、この門から街への道はのこっている。街(村?)自体は木造のたてものが結構のこっていたので一周してみた。なかなかいい。光緒年間の銘のある石づくりの門がひとつあった。

 建陽にもどって、武夷山にバスで行ってみたが、観光地観光地している。しかも江西省方面に行く列車は明日の午後になる。もう日がおちたけど移動するか。しかし今日南昌に行ってしまうと、明日月曜で博物館とか閉まっているはずなので、すこしなにか挟んだ方がいい。ということで時刻表をながめて、鷹潭というところに行くことにした。一駅。
 十時すぎにつくはずが、他の列車の通過まちがやたら発生して、11時すぎに到着してしまった。列車のなかではひまな乗務員にいじられた。それで日本人ということが知れわたってしまったが、合肥の人に、合肥を一日ですましたのはもったいない、数日かかるものだ、案内してあげるからまた来いといわれたのでまた行くかもしれない。

 朝飯は建陽でなぞの煮物を食べた。貝が入っていた。昼飯は麻沙で歩くまえに適当な飯屋にはいったら、肉とかをみせられてどれをどう料理する?と聞かれた。こまったので、貝っぽいのを指すと、xxxにするかチェンタンにするかと聞かれたので、よくわからずチェンタンと言ったら、煎蛋のことだった。ハーリーチェンタンといっていたので、何貝かわからんが、ハーリーらしい。昼飯は貝の卵とじ。晩飯は列車の弁当。ここしばらくしっかり食べている気がする。図書館通いで習慣がついたか。

 戦北平というドラマをやっていた。めずらしく国共内戦をテーマとしていた。北平(北京)攻略の話らしい。毛沢東の智慧とか言っていた。


2009/03/28 土

 福州市博物館。
 温州市のにくらべるとあっさりしている。抗日とか全然なくて拍子抜けした。あんまり閩であることを強調していない。清の海禁などが社会を厳重に破壊したと書いてあるけど、明の海禁には触れてなかった。クセがあるのはそういう漢族中心主義みたいなのがすこしにおうくらいか。南宋の墓からでてきた死体が展示してあった。なにかの液にひたしてガラスかアクリルかの透明なケースにいれておいてあった。

 福建省博物院。
 どうでもいいけど博物院というのはただの美詞なんだろうか。正式名称なんだろうか。
 福州市よりもさらに、閩であることにはあまり触れない。それよりは台湾が福建と関係が深いことばかり強調している。福州市博物館と重複する内容がおおかったが、こっちの方が範囲が広いのでわかりやすい。宋元から詳しくなる。泉州のアラブ文字墓とかあった。
 近代風雲としてアヘン戦争以後のことは別にしてあったので、中国が近代をどういう物語でとらえたいのかわかりやすかった。アヘン戦争の敗北で列強が侵略をしてきたので人民がめざめる。それのひとつが太平天国であるらしい。魏源の「師夷長技以制夷」で「西方から真理をさがす近代中国の困難な道程」が始まったとする。清仏戦争(中仏戦争らしい)での台湾戦を強調するのはお約束か。で、日清戦争(甲午戦争)のあと厳復の『天演論』(進化論)「物竟天択、適者生存」、戊戌変法の失敗と来て、広州起義、福建光復となる。その後、北洋軍閥が革命の果実を「窃取」。あとは北伐を暗示する展示と、開港以降の経済の発達にほんのすこし触れただけでおわり。
 そんだけ詳しくやっといて、日本の侵略とか、共産党とか蒋介石とかに全然触れてなかったのが新鮮だった。評価を避けたのだろうか。
 こうしてみると、公式見解からあんまりはずれていないけど抗日とかに全然触れない福建の博物館と、評価が分裂している温州の博物館をくらべると、温州は抗日にムリヤリこじつけているところがあるけど、本音みたいなのがボロボロこぼれているのがいいところ。

 中国人って他人に干渉しない代りに、他人から干渉されるのをものすごく嫌がるんじゃなかろうか。近代史が恥辱の歴史とされるのは結局そういうとこなんじゃなかろうか。

 福州から建陽まで列車で来たら五時間かかった。遠いのな。沿線が山。はじめのうち木造の古い建物が散見されていたが、だんだん増えてくる。貧しいってこういうことか。
 宿のおばはんが文盲。ひさしぶりに文盲見た。つーか、すこし若いのも文盲で、大学に行ってたやつんとこへ字を読んでもらいに紙を持っていくってどういうことだ。おやじはスラスラ読めない。それでも宿屋がつとまるので、そんなの関係ないんだろう。当然のように登記の紙を書かされた。まぁこれはしかたないかもしれない。他の安宿でも、パスポートを出すと、どこを見たらいいかわからないらしく困った顔をすることが多い。おばはんの言うには、日本へ出稼ぎに行っている中国人はみな福建人で、しかもこのへんの人だと言う。

 めずらしくウイグル人みたいなのがでてくるドラマがあるとおもったら、国民党のスパイで日本で暗殺教育うけたとか、わけわからん。ウイグル人がウイグル人同士で話するときも漢語しゃべってるのがなんかやだ。
 これもリメイクっぽい。
 「殺虎口」というドラマの宣伝があった。抗日で日本軍いっぱい殺して愛国だって。
 東京オリンピックやったころの日本も天皇ものや戦争ものの映画をいっぱいつくってたけど、そのころって敗戦から20年程度で、現役で戦争してた人たちがまだ元気なころだったから、そのころの日本と今の中国の抗日ものが氾濫している状況をくらべるのはおかしい。


2009/03/27 金

 雨でさっそく靴が濡れる。一度濡れるとしばらく乾かない。あーもうこの靴いやだ。そろそろ買ってから一ヶ月くらいになるから捨てて新しいのを買おうかな。とにかく水がしみても乾きにくいのはだめだ。

 天一閣博物館。
 朝早くブラブラ歩いてみたら、8時開館だと。早いなぁ。ひとまわりしてから入った。
 天一閣の蔵書も7万冊が1万冊あまりまで減ってるのな。知らんかった。セコセコ盗んだやつがたくさんいるんだろうな。
 元代の刊本とかけっこう置いてあった。あと麻雀の展示があって、水滸伝のマージャン牌も展示してあった。
 天一閣の屋根や壁の屋根のはしがとんがってきている。屋根の尾根もまんなかをへこませてとんがりを強調させていたり、壁の上の屋根も段差をつけて数段にしているいるあたりはもう東南アジア臭がただよってくる。こういうのって少数民族の風習が反映されたものなんだろうか。それとも中国江南の特殊な流行が南に広がったのだろうか。

 雨がはげしくなったので、それ以上うろうろすることもできず、おりたたみ傘を買ってさっさと駅の方に行った。バスで温州。130元。高いなーとおもったら、横三列のノビノビ豪華バスだった。豪華と書いてあるバスにのったことはあるけど、本当に豪華だったのはこれがはじめてだ。

 浙江は今までで一番ゆたかな省なんだろう。街のかんじが台湾とか日本に似てきた。何が違うんだろうか。その辺の土地に草が生えているとか、看板が柱つきで立っているとか、ビルの窓の感じとかそんなのか?

 温州。地図を見ていると博物館があったので、期待せずに行ってみた。既に4時前。とりあえず歴史展示を見にいったら、これが充実したものだった。温州地区は漢のころまで東瓯国があったらしい。秦によって一度は郡にされたとか。漢代に南の閩越国に圧迫され、江西省の方に移住して一時は人口希薄な地域になったということで、当時の漢の版図の南のフロンティアであったらしい。晋の南進で開発がすすみ、宋代には紙や印刷で有名だったとか。船の生産の中心のひとつだったとか。福建に文化のピークがくるまえは温州に来ていたんだな。
 この博物館は民俗の展示もあり、なかなか現代的で感心していたが、現代中国の政治的話題に関係するところはやっぱり微妙だな。清末に開港したところの一つで、説明の最後には中国で最も早く近代化した地域の一つと誇りながら、そのタイトルとかでは、イギリスに無理矢理開港させられた、と被害者意識丸出しである。評価が分裂している。
 あと日本関係は酷いな。日本に行った商人が虐殺されたから、世界中に移民するようになったとか、意味がわからない。虐殺というのも意味がわからんが、まぁなんらかの事件があったにしても、それがなかったら日本がよかったということなんだろうか。
 倭寇ももちろん触れてあって、倭寇侵略大事記みたいな年表まで用意してあった。これも最後に、海禁政策をといて、私貿易を許すようになってから倭寇はなくなったと書いてあるのだが、その前には倭寇討伐の将軍を愛国ともちあげるような記事しかかいてなく、海禁と倭寇の関係がわからない。まぁ、まともに説明する気なんかないんだろう。

 歴史展示を見たら丁度閉館時間まぢかで、まぢかということは展示がどんどんしまっていくということだ。中国で開館17時までという場合、17時になってから片付けをはじめるのではなく、17時までに客を追い出して帰る準備を済ませてしまうという意味だ。まぁ歴史部門をみれたからいいや。

 温州でとまってもよかったのだが、バスの確認に行ったら福州行きのバスが今でるというので、乗ってしまった。135元。高いとおもうが、4時間くらい乗るからまぁしかたないんだろう。それに一日四便しかないっぽい。
 地図では温州と福州の間に線路があるのだが、走っていないらしい。内陸から福州に行く線路は生きているようだ。これひょっとして台湾が攻めてくることを想定してのことなんだろうか。
 そんなわけで福州まで来て、日づけがかわるころにバスターミナルから一番近い招待所にはいった。ボロくて窓ガラスとかやぶれているけどやすい。登記すらしない。25元。足と靴下をあらって日記を書いている。まぁ換気がいいから乾きやすいだろ。

 蚊だ!蚊がいる!なんと南まで来たことか。緯度的には沖縄とおなじくらいだ。まぁこれからまた北上するけどな。


2009/03/26 木

 パスポート領取。ビザの期限は4/18。

 いちおう予定。上海→浙江→福建→江西→湖北→湖南→広東→広西→ベトナム→カンボジアかラオス→タイ→ラオス→雲南→四川→陝西→寧夏→内蒙古→(吉林)→遼寧→韓国→日本。
 まぁ東南アジアはどうなるかわからない。ヘタレてバンコクから日本に帰ったりするかもしれない。
 これからやばいのは清明と五一があることだ。まずいなー。

 ということでこれから上海を離れて寧波に下る。またしばらく日記更新できないだろう。

 一度はプログラムで飯を食った身なのにこれではいかんとおもい、列車のなかでチョロチョロっと日記更新phpを書いたが、USBメモリをなくしたことに気付いた。あれ4ギガあったのに。胸ポケットに入れていたけど、しばらく暑くて上着を脱いだりしていたので、そんとき落としたんだろう。こりゃ本格的になんもできんな。

 もうこのあたりは水郷だ。

 てきとうな旅館にはいったら、浴室付きで60元といわれ、高いといったら奥の部屋で50元だった。奥のほうがしずかでいいのになんでそうなるのかわからん。まぁいいや、ということでとまった。液晶テレビが壁についている。
 飯をさがしに行ったら、客引きのおねーさんがいて、「とまり?」「休憩していかない」とか言ってくる。シャオクーニャンとかはじめて聞いた。寧波の安宿はおねーさんがかならずいるようだ。そういう目でみるとその辺のどこの宿にもおねーさんがいるように見える。
 どっかのおねーさんが強引にはいってきて、「どこのひと?」とか「あそびましょ」とか言いながら無理矢理チンコ揉んできた。あぶないあぶない。こんな強引なのははじめてだ。あれでもうすこし見た目がよくて健康そうだったらおいかえそうとしなかったかもしれない。あぶないあぶない。しかもそのあと、「xxxはどこだxxx」みたいなことを言いながら男が階段をのぼってくるのが聞こえたから、なんかのワナだったのかもしれん。あぶないあぶない。まぁ、男についてはただの宿さがしの人かもしれんが。
 そういうと記憶が曖昧で寧波じゃなかったかもしれんが、どっかの会社が慰安旅行で娼婦を呼んだとかで反日ネタになったことがあったような気がするな。それ以降日本人を狙った公安の取締りが厳しくなったとかいうような本当か嘘かよくわからん話もどっかで見た。この宿の受付のときにおっさんがパスポートを見て「韓国人か」と大声で言っていたのだが、面倒を避けるためだったのかもしれない。

 抗日ドラマのほかになんかないのかとおもってさがしたら「鄭和下西洋」というのをやっていた。んー。鄭和ってイスラム教徒のはずなのだが、怪僧の弟子になっているな。そして延々永楽帝がまだ皇帝になるまえのことをやっている。洪武帝の海禁は撤廃するべきだとか、海に進出しようということばかり言っている。中国政府ってホント露骨だな。洪武帝の皇太子が死んで、皇太孫が立つところまでやってた。これひょっとして、建文帝が南海に逃れたのを鄭和が捜しにいくという話だったりするんだろうか。明清小説の三宝太監がHDDにあるかどうかさがしたがなかったので、元ネタでどうなっているかわからん。たしか西遊記みたいな話だったはず。主題歌っぽいもので「中華大航海」とか歌っているので、航海がメインなんだろう。アメリカ大陸に行ったりするのかな。
 永楽帝役の人、雍正帝やってたときは深刻な顔だったのに、このドラマでは終始ニタニタしているのでなんかいやだ。そういう役づくりなのかもしれんが。


2009/03/25 水

 中東TODAY: NO・1250オバマ大統領アフガニスタンからの撤退を模索か
 最初っからみとめとけばよかったのに。

 昨日も今日も図書館でいろいろ本を読んできた。地方志は雑多な情報がつまっていておもしろい。昨日は旅行の本、今日は大名県つながりで回族関係。
 明代初期に江西省が湖北湖南への移民の供給元となり、明末四川省で張献忠とかのせいで人口激減したあとは湖北湖南から四川への移民がおこなわれたこと。
 明初靖難の役後の華北の人口減を埋めるために山西などから回族が大量に移民したこと。
 大名県のあたりも1945年の5月に解放されたらしい。
 五禮記碑って嘉靖年間に掘りだしたときに壊れたとかいうふうに書いてあるけど本当か? 文革のときに壊したんじゃないの?
 民国10年代軍閥時代の国民党の秘密工作は教育方面から。国民党も抗日地方政府をつくっていたらしい。へー。「も」というのは、共産党がそっくりそのまま後でやっているからだ。
 開封のユダヤ人減少の原因は回族に吸収されたということらしい。「许多人把这个原因归结于中华文化的力量,其实是伊斯兰改变了他们」。最近の中国の研究はまともなものもあるようだ。

 楊海英『モンゴルとイスラーム的中国』風響社。時間の都合で途中までしか読めなかったけどおもしろかった。メモしとく。


2009/03/23 月

 連環画業界を回顧する本を見てきた。文革中の60年代後期には連環画は大毒草とされて極端に少なくなったそうだ。70年代になってから周恩来のお声がかりで復活したとか。それでも革命的な内容を要求されたりしていたらしい。
 連環画の描きかたの本があった。1958年版は連環画描きの当時の大家とされた人がかいたもので、地道に素材集めから絵の描きかたまで説明してあった。復活してまもなくの1972年版はどうも違う人達がつくったようだが、1958年のものと基本的におなじだ。しかし、「無産階級の英雄」は理想的かつ普遍性があるものでなければならないとか、そういう説明がつけたしてある。絵の例も工場とかそういう革命の舞台になりそうなものばかりになっていた。
 74年以前の本の扱いはどうも雑であるようで、連環画雑誌の冊子はホッチチスでまとめてあったり、大きな版の連環画名場面集は折れまがっていた。まぁしかたない。見れるだけでよしとしよう。最初、コンピュータ画面で請求したとき、この番号は不正ですみたいなことをいわれたので、文革の本は見れないようにしてあるのかとおもったが、そうではなく、「74年以前の中文書籍」を選択しなければならないだけだった。
 水滸伝批判の時代には『投降派宋江』『李逵反投降宋江』『掲投降派宋江』なんて連環画もあったようだ。

 日本とロシアとデザイン関係の本が置いてある部屋があった。館内の簡単な全フロアの案内板にはロシア図書室としか書いてなかったりするが、ほとんど日本の本しか置いてない。結構専門的な本がおおかった。
 新聞を見にいったら、英語とかといっしょに日本のもあったが、日経と朝日だけが22日まであって、毎日とかは12日くらいまでしかなかった。なんでだろう。雑誌コーナーには東方学報とか史学雑誌とかもあった。

 今、中国の古代史学会では、「疑古」と「釋古」派の争いがホットな話題らしい。要するに「中国の古い歴史書の古代史なんてうそっぱち」派と「古代史はそのまま正しい」派の争いだ。実はそんな単純なものではなく、全然要していないのだが、最近はやりの釋古派から見るとそう見えるのがミソだ。夏商周断代工程もその流れらしい。争いというか、博物館の展示レベルでは釋古派が幅をきかせている。学会誌で論争の場を設けてもらっているのが意外だった。
 まぁ、日本でいうと、「新しい歴史」みたいなののもっときついのがたくさん居るようなかんじだな。まぁ中国の学会なんてそんなもんだ。
 その文では、「日本では釋古から疑古になり、また釋古にもどった」云々と書いてある。日本で日本書紀の記述がある程度信用できるとして利用しているのって全然主流じゃないとおもうのだが、最近はまた変っているのだろうか。神武天皇以下の天皇の系譜は年数を修正すれば使えるものになるという人たちがいるのは知っているが。

 昔大学の図書館で見た連環画のシリーズは1979-1983にかけて作成された故事成語シリーズだった。大学入ってまもなくのまだ物覚えのよいころに見たので、かなりの絵をおぼえていた。

 前バスのなかでみた扇動映画って香港映画か。しかもブルースリーの師匠という設定か。葉問 - 維基百科,自由的百科全書 しかしここに書いてある経歴とあの映画の内容とどう結びつくんだ?
 ブログを見てまわったが、どうもみんなの見ているものとバスの中で見たものとはオチがちがうような気がするのだが。中国国内向けに扇動映画としてオチを変えたバージョンがあるのだろうか。


2009/03/22 日

 上海古藉の容與堂本影印本と、昨日の上海図書館の容與堂本残本の記憶とくらべると、上海図書館のは李卓吾を排除している。版心には水滸伝とあるだけだが、李卓吾云々を削除しただけ。巻頭には水滸伝とだけあるがこれは彫り直したのだろうか。巻末の評語はなになに曰のなになにのところを削っただけ。影印本と違うところはほかにもあり、眉評に「真忠義」なんてのがあるがこれはあとから嵌めこんだものだろう。李卓吾の死後の版だなこりゃ。
 さて馬幼垣とか高島さんがどう書いているのかまったくおぼえていないので、なんとも言いようがない。簡単に閲覧できるところからすると、たいして大事にされていない本なんだろうとおもう。

 梁山県志を読んできた。梁山県、米軍地図には街がのっていないので、戦後の水滸伝を持ちあげた時代につくられたんだろうとおもっていたけどすこし違った。この一帯は周囲の県の県境が交錯するところで、辺境になるので、共産党が根拠地に選んだらしい。東平県の東平湖の西にある昆山を中心として昆山県というのを設定し、そのなかに梁山も含まれていたが、実際には梁山のあたりは東平県の汪兆銘政府が支配していたようだ。
 その昆山県が中華人民共和国成立後、梁山県と改称し、県の組織も数年で今の位置に落ちついたとか。というわけで、梁山県志の冒頭には、我が県は共和国と同齢で云々と書いてある。しかしこの梁山県志、東平県志以上に面白かった。辺境の土地だったので、無法地帯に近い状態になっていたようだ。そして東平県みたいな歴史や文物がないので、そういうことに積極的に触れている。会道門と総称してある道教系の諸宗教集団や、土匪なんかがうじゃうじゃいて、共産党はそういう連中とも戦っていたらしい。まぁ、それこそ国民党や汪兆銘政権からみてまさしく共匪という状態だったわけだな。最初の昆山抗日民主政府は県組織が一箇所にとどまっていなかったというが、ようするにそういう匪賊に近い状態でうろうろしていたということなんだろう。1941年には会道門の一つに襲撃され、政府をのっとられかけている。その一方で、梁山のちかくで、日本軍の一隊を殲滅し、勝利が喧伝されたこともあったらしい。

 匪賊の規模として、大杆(数十人から数百人)、小杆(二三十人)、小礚叭叭(kēpāpā)(三人や五人)という分類がされている。その集団は外地とのつながりがあり、すぐに散らばって消えたり、集まったりできるという。
 活動形態というのが紹介してあっておもしろかった。

 梁山泊だが、梁山は崇禎帝が水滸伝禁止令を出したときに梁山にあった遺構を破壊したらしい。その後、清初に盗賊がたてこもって清の軍隊に討伐もされている。その後、ここに軍隊が駐留するようになったという。
 民国になるとさっそく盗賊300人がたてこもって周囲の地主から金や食料を徴収したとか。民国6年(1917)に討伐されたときには800人、戦馬40匹、銃600余の規模になっていたそうだ。

 草葺きから瓦葺きへの変化なんてのも書いてあった。
草葺瓦葺
194977%23%
196617%83%
19852%98%
1993-100%
どうりでどいつもこいつも瓦葺きなわけだ。

 それから違う地方志を一冊。あと盛世才の本を一冊読んだが、これは実際に会った人の証言をまとめたものであるらしい。最初の人のものは、盛世才は恩知らずで云々というものだった。読んでいるうちに漢字に飽きてきてどうでもよくなったので、外に出て蒸しパンを食べ、開架のところで絵を見ていた。
 連環画についての本が数冊あったのでながめた。連環画は1949年以降隆盛し、文革の時期の変質期をはさんで二つの黄金期があったが、1985年以降は衰退してしまったらしい。これも本によっていろいろで、広東の人が書いた本は1985年以降の衰退についてはあんまり触れず、連環画の描写が優れていることを言挙げし、日本の漫画の進出を「七七事変」(盧溝橋事件)にたとえたりして、あんまり反省がない。ちがう本は1985年以降衰退したとし、その原因として、所詮は子供向けのものであるとして正当な評価を受けられず描き手の意欲が喪失し、参加する人がいなくなったこと、画風が爛熟し、描き手の自意識過剰が反映しだしたこと、また50,60年代のような真剣さがなくなったりしたこと、などをあげている。
 文革の時期の評価が高くないが、実際としては文革の時期も黄金期だったんだろう。今は文革の時期のことはなんでも悪い評価の対象になっているというだけなんだろう。共産党の宣伝教化装置として機能し、それが機能しなくなったと同時に古く感じられるようになって、受けなくなったということなんだろう。今は収集の対象となってひっぱりだこだ。

 「油絵」の本が結構あった。西洋画ではなく油絵。どうみても西洋流に書いているのだが、書いている対象が中国っぽかったらそれで中国であるらしい。なんでもかんでも中国中国言っているのできもちわるい。まぁ今はそういう風に中国を唱えないといけないというだけなのかもしれない。
 国画もしくは中国現代画の本は一々中国中国いっていないし、見ていてもおもしろいのでよかった。実際には中国オリジンなことにかかわっていない人ほど中国中国と唱えないといけない時代なのかもしれない。


2009/03/21 土

 上海図書館。
 古藉部屋に行ったら簡単に入れた。カード分類をめくるのもひさしぶりだが、カードのつくりかたも日本と大差ない。水滸伝の残本を見てきた。51回から55回までしかなかったので、嘉靖残本といわれるものと勘違いしたが、よくよく見たら容與堂本の残本だった。そういうのはたぶん貴重書部屋に収められているんだろう。行ってない。
 民国の本は近代図書部屋がある。カード目録が置いてあるところまでは見にいった。中共になってからの本はだいたい閉架になっていて、コンピュータで検索して見るようになっている。開架書がたくさんある点以外はかなり国会図書館に似ているので、国会図書館か、国会図書館が真似したところを真似したか、どっちかだ。そういうと、ヨーロッパに行ったけど大英図書館もフランス国立図書館も行かなかったなぁ。何しにいったんだろう。
 カードをつくるところなどの壁に「knowledge is power」というような言葉が各言語で埋めこんである。国会図書館に「知識は自由にする」とかいうのが掲げてあるので、それを真似したのだろうか。国会図書館のはどっかヨーロッパとかラテン文献あたりに出典があるもので、見るたびにくさいなぁとおもうのだが、ああいうの中国人は好きなんだろう。
 中共になってからの本は閲覧室で読むのだが、その閲覧室は自習する人たちで埋まっている。まぁ中国だからしかたないか。

 東平だが、州城には1980年代まで東平県があったらしい。正確にはそのあたりの単位は人民公社に分解されていて、そこから郷鎮などの区分が復活するときに正式に東平県の中心が今の東平県の位置に移ったようだ。しかし、それまでに県のいろんな機能は今の東平県の中心のところに移動してしまっていたようだ。最初にいろんな企業がそこに倉庫や卸しを移動させ、ついで工場などができ、次第に東平県の工業商業の中心に成長していったそうだ。しかし文革中の事だからか、なぜそうなったのか明確には書いてない。1958年の大洪水というのが東平湖志では特筆されていたので、なにか関係あるかもしれない。西暦1000年から東平の中心は現在の州城鎮だったようだ。
 ここは抗日拠点のひとつだったようで、1945年の5月に解放されたそうだ。8月を待たずにそうなったところがあったのはしらなかった。汪兆銘政権のことを日偽と書いているので、日本と紛らわしい。日本はこんな地方にまで日本人顧問を置いていたようだ。あれだな、共産党の指導員が各組織に配置されているようなもんだったんだな。
 古代の大野沢→梁山泊→北五湖→東平湖への流れが地図でわかりやすく書いてあった。黄河の流れの変化によって大野沢が埋まり、湖水が北上して梁山泊を中心とする湖沼群となるが、元末の賈魯の治水事業によって梁山泊周辺への水がとまり、以降縮小傾向になって東平湖にまでいたるらしい。その証拠として、東平県内の自然村の80パーセントは明初に起源を持つそうだ。  そういうことで、1989年にできた東平県志はよくできた本だった。民国初の東平県志はあんまりおもしろい本でもなかったが、冒頭の地図に梁山がのっていた。なぜか城壁で囲んだ印が描かれていて、梁山寨と書いてあった。謎だ。明日は梁山県志でも見てみよう。


2009/03/20 金

 松江に行ってきた。あんまりおもしろくなかったのでそのまま帰ってきた。あとは寝ていた。
 明日は上海図書館に行こう。

 松江まで地下鉄9号で行ける。松江新城は松江のはずれなので、市バスで中心まで行く。松江駅から上海南駅まで列車にのってみたら3.5元だった。

 州城镇1.5亿元建设宋文化一条街
 中国の観光資源開発はこういう形でおこなわれるらしい。こうして趣のある街がつぶされていくわけか。まぁしかたないといえばしかたない。


2009/03/19 木

 パスポートが帰ってくるのが26日ときたもんだ。

 上海博物館。
 路線としては、南京博物院とおなじようだ。青銅器室、陶器室、磁器室、書画室などなど。しかしこっちの方がものがよくて幅広い。選りすぐりで特徴的なものが置いてあるあたりは大英博物館に通じるところがある。まぁ説明文は比べようがないけど。場所がないし、時代が漢魏唐宋元明清式なのはいつ見ても腹が立つ。
 青銅器室で、青銅器時代が夏(二里頭文化)の後期からというのは実物が置いてあるからいいけど、説明では青銅器時代の開始が紀元前21世紀から、つまり夏の始めからということになっている。なんか変なインチキを見た感じだ。他には南方の異民族の青銅器が置いてあった。
 二里頭が夏だと断定されるようになったのは夏商周断代工程の成果であるらしい。
 しかしあれだな。どうせ一週間いるからまた来るだろとかおもいながら見ているとあんまりよくない。
 書画室はおもしろかったな。ほとんど宋以後しかなかったけど、まぁよかろ。清末のものがおもしろかった。現代中国画へそのままつながるのがよくわかる。少数民族室は閉っていた。コイン室で金や元の紙幣の印刷原版があった。あと、イランから中央アジア・インドにかけての紀元前後からモンゴルのころまでのコインが大量に並べてあったのは珍しいのではなかろうか。

 なんかつかれた。


2009/03/18 水

 太湖。蘇州駅から69路で太湖の中心にある島まで行ける。5元。しかし二時間かかる。着いてそのまま戻るバスに乗った。帰りは寝てた。

 上海。蘇州から上海への列車は常州から蘇州へ行く列車とおなじT781次で、同じ軟座で、同じ価格だった。しかもおなじように遅れてきた。
 なんでそんなに遅れるのか不思議だったが、今日わかった。和諧号が同じ線路を走っているようで、それを先に行かせるために待っているのだ。蘇州駅で和諧号が四本横を通りすぎるのを眺めていた。
 いそいで建設をすすめている影で、この特快のように割を食っている人たちはたくさんいるんだろうな。

 上海の公安局では、一時間ほど待ったあげく、宿の宿泊登記をとってこいといわれた。もう五時まえなので、明日また来いということだった。
 三月四日北京入国なので、十五日目というと今日のはずなのだが、公安の人も宿の人も昨日の宿の人も明日まで大丈夫だという。よくわからないがいいならいいや。

 前回とまったところにまたとまった。ユースホステル。窓のない4人ドミトリー。40元。外人がいっぱい。二年前の中国に行ったりしていたころの日記を読むと頭が悪いことをいっぱい書いているように見える。
 上海は変化が激しいな。

 DIRECTOR'S WATCHING No.47:恐慌下中国経済の根本問題

 うしろのドイツ人がライディーンを流している。


2009/03/17 火

 蘇州。ビザを買いにいったら、一日100ドルがどうこうと言われ、上海に行けと言われたので上海で買うことにする。
 泰興から常州に行き、常州で切符を買ったら、軟座二等が22元だったのでそれで蘇州まできた。ちなみにバスは38元が正規で、32元くらいで乗れるらしい。要するに特快軟座二等よりも高いということだ。切符を買ってから常州の街のなかにでかい塔があるのがみえたが、切符買っちゃったのでそのまま蘇州まで。
 蘇州では上述のようなことだったので、ダラダラ滞在する予定を変更し、さっさと蘇州博物館にいってみた。美術館だった。建物は現代の先進国の最近のものと大差ない。太平天国の秀王府というのも併設されていた。革命記念物をつぶさずに再利用というところか。太平天国の歴史展示もあって、革命色をがんばってぬぐっているけど、ときどきのこっているのがご愛嬌だ。他には清台の会所の戯台があった。

 しかしこのへんの人は本当に唾を垂らす。随地吐痰というのはこの辺の人の習慣なのか。華北満洲ではカーッペッは見るが、この辺の人みたいに自分の足元に垂らしたりはしないし、この辺の人より見る頻度もすくない。

 蘇州は雰囲気がいいのでここでだらだらビザの発行を待つのがよかったなぁ。上海みたいなとこで待つのはいやだなぁ。


2009/03/16 月

 揚州。なんかいいとこだな。

 揚州博物館というのがあったが、月曜やすみだった。彫版印刷博物館というのも併設されている。見たかったが、まぁいいや。

 普哈丁墓というのがあった。サイイドの墓らしい。行ってみたら、巡礼が墓の前にシートを広げて集団でおまいりしていた。元代のアラビア文字の墓碑とかがあった。しかし、徽州ダルガチと書いてある人の墓碑のまえに「教育家」という説明がついているのは解せない。園内に観月亭というのがあったが、新月を観測するためのものとちゃんと書いてあった。

 その近くに東門跡があり、揚州の城壁建築を主題にした博物館があった。無料だが電気がついていないので隅のほうが暗い。それで揚州の街のだいたいの歴史がおさえられた。唐城というのがあり、それが呉王夫差以来の都市のあったところらしいので行ってみた。後代の揚州とはちがって、丘になっている。痩西湖もすぐちかく。だが、まぁそんなもんで切りあげた。

 その後、バイオリンの生産量世界一となっている泰興市渓橋鎮に行ってみた。
 行っただけ。戻ってくる途中で日が暮れたので、泰興市のバスターミナル前の宿にとまってみたのだが、ここが25元とものすごく安いのに無線LANがある。だいたい、このへんはいろんな小工業の中心地になっているらしく、店がやたらたくさんあり、活気が今までと全然違う。リヤカータクシーやバイクタクシーの客引きがうざい。バスの客引きも頻繁で、渓橋鎮に行くバスに乗ったときは、バスターミナルでたところでしばらく客引きしていて、グズグズしていた他のバスから客をさらっていった。


2009/03/15 日

 風呂屋は無事36元で出ることができた。部屋の管理しているやつが勝手に小姐つれてくるだけなんだな。ということで、風呂屋にとまるのはかなりいいとおもった。

 南京博物院。
 歴史展示があるとおもったら、やっていない。これで相当がっかりした。南京なんかどうでもよくなった。
 美術展示というか、宝物展の方は磁器陶器青銅器漆器とか。窯とか展示してあったな。あと、揚州八怪。

 あと一応中山陵の前までいったけど、50だか60だか80だかわすれたけどそれくらいの額が書いてあったので、入らなかった。風呂屋にもう一泊するつもりだったけど、やめて、次行くことにした。

 鎮江。これも駅に行って漫然と切符を買ったら、20元で、和諧号の無座だった。高いのかなぁとおもっていたが、鎮江について、バスの駅に行ったら、南京からのバスの値段が26元だったのを16元に値下げすると掲示してある。和諧号の無座はバスより安いのか。
 鎮江で市バスにのってフラフラしていたが、長江を見たあと、バスのなかでそのバスの経路図を見ていたら、なぜかそのバスと違う路線の経路が掲示してあって、それが渡口行きらしい。ということで、降りてそれにのってみた。
 降りてすぐ、揚州いきのバスが待っていて、客をつかまえていたので、のった。4元。乗るとすぐ、長江に向って出発。車の乗る渡船にすぐ乗ってすぐ出発。
 あとからしらべると対岸が瓜洲鎮であったようだ。おぅ。

 揚州。ユースホステルに行ってみたが、無線LANがない。二泊するつもりだったが、一泊にした。服を洗濯した。中国人と相部屋。おれ金持ちと相部屋だと落ち着かないんよな。明日さっさと出よう。
 さすがユースホステル、2006年の地図があった。むーん。揚州博物館があるのか。


2009/03/14 土

 安徽省博物館。
 サイトでうちはすごいと自賛していたので、かなり期待していたが、ちょっと期待していたものとはちがった。青銅器精品展と磁器精品展があり、磁器の方はとくに珍しいものが多かった。商周から明清まで、全時期にわたって満遍なく展示してあり、明清のものがすくないのがいい。あと、磁器の欠片がならべて展示してあり、これは何代の何窯と書いてあるのはなかなか壮観だった。さすが磁器の産地中国。青銅器は山東のものにくらべると、つくりがごつくなる。あと、戦国時代の通行証があった。そのころから牌と言ってたんだな。
 あと、20世紀初頭にパリに留学していた女性画家の展示をやっていた。帰国後、南京で芸術大学の先生をしていたが、日本の入関後、パリに行ったきりになって帰ってこれなかったらしい。年譜を見ていると、進軍があったからパリに逃げたのか、パリに行っているうちに日本軍が侵攻してきて帰るに帰れなくなったのか、よくわからない。まあいいや。
 その絵だが、その時代の人らしい絵で、そんなにおもしろいもんでもない。愛国画家ということだが、絵だけみてるとなぜそうなのかわからん。彩墨というのがあって、中国画のできそこないみたいなのをかいていた。この時代の西洋画家の画力はマンガレベルなので、そういう意味ではなかなか親近感がわく。

 南京。合肥の駅で切符を買ったときに予想の二倍くらいだったのでやけに高いなぁとおもったら、和諧号だった。高いはずだ。

 着いてから南京博物院に行ったが、時間がおそくて建物のなかに入れなかった。しかし、美術と歴史の二つあることがわかった。ここはいかがなものか。
 そこから近いところに宿をさがしてみたが、50元60元とかしか見あたらないので、駅のちかくまで戻った。風呂に宿のついているところがあった。36元と言っていたが、次々小姐をつれてくるので、かたはしから断わっているのだが、本当に36元でここから出れるんだろうか。なんか付加費がつきそうな気がする。ちなみに部屋ではなく、みんなといっしょにゴロ寝する形式だと16元ですむらしい。

 日本軍が兵隊に配布した中国観光案内、昔古本市で買ったのがあるのでそれをもってきたらよかったなぁ。あと、支那地名事典つーのもな。

 幽霊計画というドラマ。チャンネル切りかえたときには赤い星のついた帽子をかぶった人が尋問している場面だったので、珍しく日本人のでてこない近代ドラマをやっているなとおもったら、日本人がやっている茶道社とかいうのがでてきて、どうもそれが事件の黒幕らしい。日本人を悪役にしている番組をいくつも作ってよく飽きないなぁと感心する。
 とおもったら、重慶の放送局の制作だった。これ、昔こういうドラマがあって、それをリメイクしているんじゃなかろうか。

 どこに行っても日記をアップできない。winscpが起動すらしない。なんか怪しいプロセスは片端から殺すようになっているんだろう。ぷららはftpできなくなったので、windowsのデフォルトの機能でアップする方法がない。むーん。まぁそういう入口をつくっといたらよかったか。


2009/03/13 金

 鳳陽。中都跡まで歩いた。随分破壊された城壁がのこっているだけ。しかし中都に鳳陽府が移動して、それまでの城は旧城として存在していたはずだが、今はその旧城の方に鳳陽の街があって、府城街なんてのがあり、中都の方は農村になっている。米軍地図の段階でも旧城と鳳陽が並んでいたから、中共になってから放棄破壊されたのだろうか。

 鳳陽のネットカフェは安くて日本語フォントが入ってた。
 蚌埠で両替しといた。中国銀行の受付のおねーちゃんがニコニコしててかわいかった。これで三万円目。十日で二万弱つかったことになるが、移動しまくっているのでこんなもんだろう。一箇所にじっとしていたらもっと安くあがる。あれだな、温泉にこもるよりは中国の田舎にこもった方が安いな。
 合肥まで列車で移動。てきとうに招待所にとまる。40元。

 徐州でひとつおどろいたのが、駅で切符を買って待っている人たちが自分の足もとに痰をおとすことだ。随地吐痰とはいうけれど、そういう人はたいてい自分から離れたところに吐くのだが、徐州の駅では足元にポタリというかんじで垂らす。そもそも痰を吐く人が今までよりも多い。北の方だと乾燥してほこりっぽいので、痰がでるようになるのはたしかだが。
 合肥までくると現地人の言葉がわからんようになる。なまっているのか、方言区が違うのか、どっちかわからん。大名でふらふら歩いていたときも、年いった人の言葉はわかりづらく、若い人はわかりやすかった。テレビの威力なんだろうな。
 風景的には畑の緑がまぶしかったくらいか。雰囲気がちょっとちがう。


2009/03/12 木

 くせー!
 蚌埠ではじめて客引きの言いなりになってみたら、ものすごく臭い部屋に案内されてしまった。最初はそんなに臭いとはおもわなかったが、じわじわと臭さが効いてくる。
 しつこい客引きがいるということは、臭い客もかまわず泊めるということだわな。失敗した。もう客引きなんか信用しない。てゆうか、23時過ぎについて40元もとるところは蹴るべきだったか。

 州城の街角で東平→銀山のバスにのり、商老庄のはずれの国道で降りる。6元。そこで梁山行きのバスをつかまえる。4元。

 梁山泊風景区。62元。正直高すぎる。しかも2元は保険だと。
 とは言いつつも言われるなりに払ってのぼってきた。予想以上に要害っぽくて満足した。日本でいうなら戦国時代の山城がありそうなところだ。各所にしょぼい記念物がたっているけどまぁたいしたことない。しょぼい像は80年代の浙江の美大の学生のグループ制作らしい。しょぼいはずだ。
 東を望むと、緑のなかに色のちがうすじが南北に通っている。あれがたぶん大運河なんだろう。水滸伝は大運河ぞいの地名がおおいな。
 ところで、登ってると雨が降ってきた。日頃の行いが悪いせいだろう。今日はその後ずーっと降ってた。それで靴に水がしみてつめたい。熱がでてきたような気もする。
 降りてどうするか考えて、とりあえず済寧にいってみた。梁山から頻繁にバスがでている。行ってみたら雨で、見る気がしない。とりあえず徐州にいってみた。徐州についたら日がくれたが、熱があってなにか戻しそうになった。やなかんじなので、もっと動くことにして、列車で蚌埠に来たというわけだ。さすがに動きすぎて23時すぎてしまった。

 最后的王爷って日本人がでてくるので20年代とか30年代が舞台だとおもっていたら、辛亥革命のころが舞台なのか。

 日記書いてたら臭いになれてしまった。
 ところで、蚌埠に来たのは明の中都、鳳陽府に行くためだが、大運河沿いの楚州揚州コースとどっちにするか迷った。まぁ合肥に行って省級博物館巡りをつづけるというのと、梁山泊風景区の人に、おまえは安徽の人間かと聞かれたので、こっちにした。
 徐州に入るあたりで道路ぞいの風景にすこし変化があった。水路にかかっている橋がアーチで欄干までついている。二階建てがあたりまえになる。家に庭園がついていて、丸い入口がある。江蘇省にはいっただけで、こんなにちがうのな。すごいな。
 安徽省はどうなのか夜だったのでわからない。まぁ明日存分に見るだろう。


2009/03/11 水

 朝飯を晩飯食ったとこで食ってみた。餃子みたいなのがあったのでとりあえず粥とかといっしょに食べてみたら、これがまた餃子に近い。餃子とちがうのは皮が饅頭系なところだけで、あとは焼いた感じとかニラとニンニク臭い餡とかまで一緒だった。ギョーザは山東方言という説があるということを聞いたことあるけど、本当にギョーザが山東方言ならそのとおりなんだろう。経路としては、山東 -> 大連 -> 日本とかじゃないか。もしくは青島 -> 日本か。

 山東省博物館。無料。
 山東は恐竜がよくでるらしく、化石展示が多かった。まぁそれはいいとして、歴史展示は先史、商周、漢魏、と陶磁器、明代の船くらい。
 先史は大汶口とか龍山とかよく聞く名前が多い。大汶口は玉をありがたがる文化で、大きくて薄いのが特徴だとか。龍山の蛋殻陶は見物。頭蓋骨に穴をあけるのがさも珍しいことのように展示してあったけど、ヨーロッパの先史でも同じものを見るので、当時大陸で普遍的に行われていたんだろう。
 商周でおもしろかったのは、東夷の国だ。山東は東夷の国が多く、斉や魯はそれらを併呑していったそうだ。山西の晋とおなじだな。東夷は鳥を尊んだとかで、鳥の形をした玉なんかも展示してあった。
 漢魏は墓からの出土品の人形とか家の模型とかか。
 説明は遺跡毎になっていてくわしい。ただ、何年度10大考古学発見の一つとかいうのばかりなので、そういうのだけ選んでいる可能性はある。唐宋以降の展示がないのが不思議だ。珍品陳列館の性質を残しているんだろうか。
 明の漕船というのがあった。記憶によると(メモしてない)1957年、梁山県の宋金故河道を発掘してみつけたという。洪武5年とか10年の銘がはいった鉄銃(短くて細い大砲)とかがでてきたので、明初のものであることがわかったとか。船がまるまる置いてある。しかし、発掘した時期といい、場所といい、水滸伝を持ちあげる風潮が始まったころに水滸伝の証拠を見付けようとしてでてきたものとしかおもえない。
 あと、絵の展示があったのでそれも見た。現代山東の画家の絵を一堂にあつめたものらしい。斉魯文化がどうこうとかいうタイトルがついているのは、そういうことを言っているえらい人がどっかにいるんだろう。現代中国画の発展がうかがえた。やっぱり、西洋画にくらべておもしろい。

 済南市博物館。無料。
 こっちは係員もすくなく、参観客もすくなく、楽に見ることができた。だいたい山東省博物館といっしょで、ローカル色がつよい程度か。宋代の仏像とかビラの印刷銅板とかが珍しいか。日本軍が国民党の北伐を邪魔した済南事件のときに、日本軍兵士が、破壊した門の跡からひらった門の木製飾りをもらった新聞記者が戦後寄贈したというのが置いてあった。北斉の陳三墓銘とか。なにげに博物館の前に太平天国の大砲が置いてあった。

 済南は泉が有名で、そのためにここに都市が発達したのだが、今は公園になっている。バスで通ったときに、918記念館とおなじように開いた本のかたちをしたモニュメントがあったので、見てみた。済南惨案とあって、1928年5月3日、侵華日本軍が突然済南を襲撃し、外交官を殺害し、居民6000人を殺害したと書いてあり、時あたかも世界は反ファシスト戦争で云々と書いてある。
 済南事件は日本が蒋介石ひきいる国民党の北伐を邪魔した事件で、内戦に干渉するなというので民国輿論の非難を浴びたのだが、その国民党による中華民国統一事業のことは一つも書いてない。この文面だと中国侵略中の日本軍がたまたま済南にやってきて、いきなり人殺しをしたようにしか受けとれない。まぁ、中国の歴史教育なんてこんなもんだ。
 このモニュメントは1995年につくられたそうだ。

 済南から州城。29元。新湖行きのバスにのる。
 州城についたら日が暮れてまっくらだった。街灯がほとんどない街の雰囲気はひさしぶりだ。目の前にあった宿にとまったらなんと10元だった。
 この州城が昔の東平府のはずだが、読史方輿紀要とか中国歴史地図集をみても洪水でどうこうなったというのが書いてない。米軍地図を見ると、宿のおやじにいわれた小地名からの距離からみてこの州城の位置に東平の街がある。須城というのが今東平があるところらへんに小集落として存在している。読史方輿紀要には須城廃県というのが今の州治として書かれているが、これはつまり明代以降の県を持たない州で、東平州のことだ。宿にあった地図を見ると、州城のまわりに池があり、西門などのそれっぽい地名があつまっている。うーむ。戦後の洪水でどうにかなったのだろうか。まぁあとで調べるしかないか。


2009/03/10 火

 北京大名府があったところまで行ってみた。
 結局歩いてしまった。なにもなかった。有名な石碑が二つあるのだが、二つとも道のそばに移動してあった。狄仁傑の碑の方は見れたが、五礼なんとかの方は謎の庭園のなかにあって見れなかった。鍵がしてあった。その前には塀で囲った中に最近つくったとおもわれる楼閣が一棟あった。なんかほんとうに中途半端に観光開発してある。
 しかし碑だが、保存状態がひどい。おおかた文革のときにしでかしたんだろう。
 四方の門のあとにも村があり、そのうちの一つは城壁の上にあるので城上とよばれているらしいのだが、東西南北のどれがそれか調べていなかったので、行くのをあきらめた。そもそも西の城壁のあとがわからなかった。おそらく道路脇なんだろうが。

 聊城。
 大名から毎日朝八時に直通がでているが、それに間にあわない場合、館陶まで行ってそこから行く。館陶は河北省の山東省への出口にあたる。どうも各地から館陶に集まり、そこから山東側へ行くようだ。大名からは一時間に一本でているはず。(館陶からは一時間に一本あった)。7元。館陶から聊城へも頻繁に出ている。20分に一本ということらしい。17元。
 聊城は昔の東昌府で、おおきな湖にかこまれた昔の城跡がのこっている。といっても昔の建物で残っているのは少ない。城壁もない。古い街の中心に台があり、楼閣が乗っているものが残っている。その周りは例によってハリボテ風味の古装建築でかこまれている。この聊城は夏が観光シーズンらしい。湖は遊泳場としてつかうようだ。
 今米軍地図を見てみると、城壁はのっているが、そのまわりの水面はない。さて。

 まぁ、ざっと通ってみてあまりに観光地しているので、ほかに山西商人の会館や鉄塔などがあるのだが、見ずに済南に行くことにした。これは30元から41元までバスのレベルがいろいろあるがそれぞれ30分に一本でている。
 そういう30分や20分に一本というバスは満員になるのを待たずにでるのですこぶる快適だ。長治-邯鄲間が一番快適で、大型バスに乗客が6人だけだった。済南行きもミニバスにそれくらいだった。

 京杭大運河、それらしきところにあった川はちゃんと護岸してあった。他はしてない。黄河の渡河は船でつくった橋だった。

 済南。长途汽车总站。ここから梁山行きも東平行きも朝から夕方まで30分に一本出ているらしい。それだけ調べてちかくの招待所に泊まった。40元。安さにこだわらないと快適だな。いや十分安いけど。
 ここは表に国営と書いてあった。服務員の居る招待所。ここも雰囲気がよい。昨日のところといい、ここといい、昔ながらの国営っぽいところはいいな。

 すぐ近くにカウンター形式の金券を買ってものを食べるところがあった。小豆粥やカボチャ粥があったので驚いた。その国営招待所の人におしえられたので、おなじく国営なのだろう。メニューも水餃子とか焼餃子とか包子とか定番のものばかり。ということは小豆粥カボチャ粥も定番なのだろう。
 韓国で小豆粥カボチャ粥を見て、韓国もすごいなぁとおもったけど、なんだ山東料理か。

 しかし抗日ドラマ次から次へと新しいのがでてくるな。戦争ドラマは全て抗日という勢い。最近のは国民党となかよくするのが多いな。台湾を意識しているんだろう。まぁ、そういう読み方だと日本を敵視しているということになるが。そういうメッセージも送ってしまっていることに気付いているのだろうか。
 邯鄲行きのバスのなかで見た抗日映画はひどかった。武術の達人が空手と戦う系。言わばブルースリー系だが、この映画の敵は中国に攻めて来た日本軍だ。日本軍の偉い人が空手の達人で、武術の達人を呼びつけて一日ごとに交流試合みたいなのをやるわけだが、いけすかない日本の軍官が敗北した中国側をささいなことで銃殺してしまい、そこから達人が怒って報復合戦になってしまうわけだ。達人が空手十人を相手にしてボコボコ、それも執拗なパンチでぐちゃぐちゃにしたり。最後に空手の達人をこれも執拗なパンチでぐちゃぐちゃにするのだが、その場面で中国側の「中国中国」の大歓声。クライマックスですな。そこへ例のいけすかない日本の軍官がでてきて、武術の達人を銃殺。中国側がなだれこんできて乱闘になり、皆殺しになったのを暗示するようなシーンで終わり。こんな憎悪をかきたてるだけの扇動映画がこの21世紀に制作されるとはおもわなかった。
 しかしこの映画、扇動映画や暴力映画としてよくできている他には陳腐な素材を集めているだけで、いいところはあんまりない。どれだけ受けたんだろう。


2009/03/09 月

 邯鄲。趙王城に歩いていってみたが、道にまよって、通りすがりのおっさんのバイクで近いところまで連れていってもらった。
 なんもないな。延々と畑になっている。城壁のあとと、ひとつ大きな丘があるくらいか。しかし広い。大都市だったのか大城塞だったのか。
 南の方にきれいにつくった城門らしきものがあって、最初は寺かなにかかとおもったが、それが趙王城の展示館であるらしかった。しかしなんか遺跡の放置され具合にくらべると異物のようにみえたので、そっちの方には行かなかった。
 一番大きい丘に旗が十本くらい立っていた。登ってみたら、謎の仏教系の宗教施設らしきものがまさしく建設中だった。煉瓦を手でつんでいた。大丈夫なのかあれ。てくてく歩いて来たのとは違う方向につづいている道を行くと、大きな道にでたが、そこにも旗が立っていた。順路ということなのだろう。
 畑にバキュームカーが来て、そのまま糞尿をばらまいていたので臭かった。あれも発酵させなくていいのだろうか。してるものなのか。もっとも、その丘の風上だったので、いやがらせでやっているのかもしれない。

 大名。邯鄲の汽車站からバスが頻繁に出ている。15元。乗車券に書いてある時間とは関係なしにバスに乗れる。ひととおり席に人が座ったら出発するようだ。ぎゅうぎゅう詰めにはしない。
 大名の街には旧城門がのこっている。城壁もそれなりにのこっているようだ。汽車站から歩いてすぐ北門があり、その通りはハリボテチックに古めかしく装っている。開封もそんな感じだったので、おそらく同じ時期に開発したんだろう。
 とおもったけど後でしらべたところによると、2007年ごろから整備をやりだしたらしい。そして、昔の北京大名府を発掘したり、大名の街を十分整備して、観光資源に開発するつもりらしい。大名の東西の通りには拆マークがあちこちにつけてある。東西は道を広げて大通りにでもするんだろう。住んでる方も大変だな。
 そんな感じだが要するにまだ開発が十分すすんでいないので古い街の感じがのこっていていい。浙江の杭州の南の梅城もこんな感じだった。規模も似ている。ただ、梅城の方が開発されていないし開発されそうもないので、「古い雰囲気がのこっているのに活気がそれなりにある街」がすきな人は行ってみたらいいとおもう。
 南北の通りは北が賑やかで南が寂れている。街の中心が汽車站のあたりに移動したということだろう。イスラムがたくさんいる。城内の商店もイスラムが多いが、南門外はイスラム商店街になっている。このあたり回族が多いところであるらしい。キリスト教徒もいる。1921年に建てられたゴシック建築っぽい教会がある。そんなのがある割には目につかないのは回族の店が多いだけということだろうか。
 これとくらべるとやっぱり平遥はすごい。

 昔の北京大名府は洪水でつかえなくなったので、今の場所に移動したのだが、米軍地図に現代の大名の南のあたりに Old city と書いてあり、行ってみたら「旧治」村があるところには、北京大名府はない。現代の街の東の方にそれがあるらしい。旧治の方まで歩いていったけど、特に何もなかった。行っても、昔日本軍がここで虐殺した、みたいなことを言われてあんまおもしろくないので行かない方がいい。
 昨日は読史方輿紀要を見ている途中で寝てしまったが、今見たらちゃんと書いてあるな。新しい街は古い街の西八里につくったと。そして旧治の方にあったのは大名県らしい。大名県と大名府が別々に存在していたようだ。ときどき大名府の城内にもどったりしている。元城県が大名府の城内にあって、大名県が外にあったのか。なんでそんなことになったんだろう。

 馬陵道ってこんなとこにあったのか。漠然と深山渓谷なイメージがあった。こんな平原がつづいているところで待ち伏せされるとはおもってなかったんだろうな。


2009/03/08 日

 35歳になり申した。
 35になってまだフラフラ旅行なんかしているようなダメ人間です。
 まぁどうなったっていいです。

 平遥。
 朝になってから平遥の古城に行った。古城のいりぐちがわからず言われた方向へ適当に歩いていたら、左の方に城壁がみえる。小さい城門があったのではいってみたら古い街がそこにあった。
 まーしかし古い街なみだけなら他の街にもあるな。城郭が相当完全な形でのこっているのがここのすごいところなんだろう。バスの路線に書いてあった大南門のことが頭にあったが、遊覧車の連中にも大南門と頻繁に声をかけられていたのでよけい気になり、また南の方にあるいて城壁をくぐりぬけ、大南門のほうにいったら、こっちには望楼と甕城のある立派な城門があった。しかし、門前が公園のように整備してあって、あんまりおもしろくない。しかもチケットが要るようだったので、ちいさい通用門みたいなところにもどって入りなおし、大南門のほうにいった。どうもこの城の大通りは観光ゾーンになっているらしい。土産物屋なんかがたくさんある。それがいやになってさっさと出ることにした。城壁は十分見た。

 長治のほうにバスで行き、壺関の方にいっても見るものなさそうなので、行かずに邯鄲まで出た。すっかり夜になってから着いた。
 これで太行山を二回こえたことになる。こっちの長治と太原の間のあたりは八路軍の本拠地があったところらしいが、素通りした。行っといた方がよかったかもしれん。北京の北の方みたいに急峻なこともなく、なだらかに荒れ山がつづいていた。

 平遥から長治にいくとき、バスの車掌にうまくのせられて途中の東観汽車站(東観バスターミナル)というところで降ろされたら、十字路があるだけで何もない。さっそくあやしい車に声をかけられたが無視してしばらく離れたところにあるキオスクみたいなもののおっさんに聞いたら、いっぱい通るから待てという。十字路の方にバスがとまったのでいってみたら違った。しかしなんかあやしいのが多すぎる。途中まで行くバスが強引に乗せようとしたら、オレも長治に行くとかいうのがでてくるが、結局乗らないとそいつも乗らない。あげくのはては行き先もなく、客ものせていないバスがきて、乗せようとする。そのあやしい連中も乗ろうとするが、もうなんかあやしいのが多すぎて、キオスクの方に逃げた。そしたらしばらくしてさっきのバスが来て上着の腕をつかんで乗せようとするので、また逃げた。それであきらめてどっかに行ったが、ボーっと道端に立ってバスを待っているとキオスクの方から音がする。キオスクの方にいくと、おっさんに「ドロボウがいるからうろちょろするな」とおこられた。結局そこで一時間半近くバスを待った。バスに乗るとおっさんはキオスクを閉じて手を振って自転車に乗ってどっかに行った。なんと、待っててくれたのだ。

 邯鄲はバスターミナルの招待所。30元。貼ってある地図によると趙王城はそこからさほど遠くないようだ。大名まで行くバスも日中頻繁にでている。次の計画が立った。

 米軍地図で梁山泊のあたりを見てはじめて知ったが、戦後のころそこに梁山県は存在しない。東平とか鄆城には都市があり、ご丁寧に walled と城壁の存在まで示してある。この米軍地図は日本軍の地図を下敷にして戦後すぐにつくったものなので、現地測量は行なわれている。それを写真で修正したらしい。梁山県というのは中共誕生後、水滸伝が持ちあげられた時勢にのってできた都市なんだろうか。
 あと、今日通ったところを見ていたら、鉄道のあとらしいものがあったところに「廃棄された鉄道」のマークがあっておどろいた。


2009/03/07 土

 太原。山西省民俗博物館。
 北京で買ったポケットサイズの中国地図帳についていた太原の地図を参考にして博物館に行ってみたが、そこにあったのは「愛国教育基地」の彭真記念館だった。昔の中学らしい。彭真はたしか文革のときに北京市長で、紅衛兵に酷い目にあわされたひとだな。まぁ今の指導層は文革の被害者だからそういうのが持ちあげられるのは当然のことだ。いまの政治状況がいいからといっていつまでもいいとはかぎらない。
 しかたなしにいろいろとうろつきまわって、結局駅前にもどってネットでしらべたら文廟に山西省博物館があるという。行ってみたら、民俗博物館になっていた。2003年に博物館が移転したとか。
 ついでなのでみてみたら、おまけみたいに絵画展と工芸展があり、それに比べて大聖殿の孔子の展示の金のかけようが光っていた。

 民俗博物館で場所を聞いて、山西省の博物館に行ってきた。
 山西博物院。
 汾河のほとりにある。新築の雰囲気がまだのこっているデザイン先行のビルヂング。公共施設っぽい。内部の雰囲気は遼寧省博物館とおなじなので、なにか規格でもあるのだろうか。ただで入れるが、人数制限をしているようだ。午前中まよいすぎて、入ったのがちょうど13時になったところ。小学生が列をなして続々とやってきている。遠足かなにからしい。その波がおちついてからダラダラを展示を見はじめた。
 山西南部が最も開発がすすんでいて、堯の都に比定されている遺跡なんかもある。太原のある中部は夷狄のすむところ、方国だったらしい。で、のちのち春秋時代に晋がそういうのを併呑していって最初に覇をとなえた国になったと。

 堯の都に比定されている遺跡の後期文化層に、ストーンサークルみたいな土でつくった環状施設があり、それが秋分などに対応しているから観象台と名付けられているものがある。でも、その図面を見ていると、ちょっと無理があるようにおもう。ただの宗教施設じゃなかろうか。
 その文化は紀元前2500年くらいからということになっている。エジプトは古王国で、ピラミッドみたいな巨大構築物をバカバカつくってたころだな。ちなみにヨーロッパの巨石文化はそれより1000年くらい古い。
 それが、夏に比定されている文化に発展したのが紀元前21世紀らしい。それは紀元前16世紀になって、商にとってかわられ、中心も黄河の南、河南にうつる。商から青銅器文化が始まる。
 近東からの波を直接受けていたヨーロッパにくらべて青銅器時代の開始がおそいんよな。あたりまえだけど。ヨーロッパでは新石器時代は農耕とセットになっていて、近東から農耕がやってきた、それが磨製石器(斧)もつれてきたから新石器時代ということになっていて、社会変化が革新的だった時代ということになっている。農耕のせいで身分とか貧富の差ができるようになり、文字などの今につながる文化が発達するようになったから、そこから歴史の記述が始まることが多い。日本で稲作の開始がどうこうというのもそういう問題意識を輸入しているからというのがわかった。
 中国の展示を見てるとあんまりそういうところに意識がない。古いからすごいとか、工芸が精密だからすごいとかそういうところを追求しているようにみえる。まぁつまり、まだ学説の発展の余地があるということだから、そう考えればうらやましい話だな。

 山西省が輝いていたのは五胡十六国とか五代とか、北方民族が南下してきた時代。北は草原につながっているし、南は長安方面の中原中枢に直結していて、通路になる。だから、北方民族であるモンゴルが新しい中華帝国の形をつくって首都が北京に移動してからは山西の重要度がそんなに高くなくなる。五代のころまでは山西を制するものが中国を制するみたいな言いかたをされていたものよ。まぁ、つまり中国が異民族に蹂躙されていた時代ということなんだけど。
 ところで、置いてある遺物にはおもしろいものがあったけど、紹介されている歴史の内容にはそんなに目新しくなかった。杉さまを知らなければそれなりに新知識が多かったかも。異民族に重点を置いた展示はやってなかった。たとえば、劉淵が五胡十六国の幕開けを飾ったと触れるだけで、実際のところはどうだったのか、そういう展示はない。北朝の都が盛唐の長安のように西域から商人があつまってくるところで、遺物からわかる西からの影響が予想以上だった、と強調しているくらいか。まーしかし、そもそも仏教自体がむこうからの輸入品で、僧もむこうから来ているのだから、それくらいは予想つきそうなもんだが、漢字で書いてあるとあんまりそういう風におもえないようだ。
 イラン風の浮き彫りのある墓があった。

 あとは明清の山西商人の展示か。国家と結びついた山西商人の活動がよく展示されている。清後期の金融を牛耳り、銀行一歩手前のところまで行きながらなぜ銀行になれなかったのか、という問題意識は大変よいとおもう。
 戯曲の展示があった。金代の墓が山西南部にたくさんあり、その墓から戯曲関係のものが多数みつかっている。
 建築の展示があったのだが、それで感心したのは、山西にのこる建築物の模型がずらーっとならんでいるところ。博物館なんかは模型とか模造品をならべておけばそれで十分だとおもうのだが、それを実際にやっている。

 博物院を17時に追いだされたので、平遥に行くことにした。山西商人の展示のところで紹介されていた。駅に行ってみると20時の鉄道がある。平遥まで一時間あまり。15元。昨日晩飯を食べたところでホイコーロー飯を食べた。
 隣の席のおねーさんが美容会社の講師かなにからしい。
 まぁそのへんの人と適当に筆談とか話とかして時間をすごした。降りてすぐ目の前にある旅館にはいったら20元だった。夜遅くに来てみるもんだ。


2009/03/06 金

 石家庄。河北省博物館。ただで入れたのはいいが、改築中で展示物がほとんどない。河北省の遺跡旧跡を紹介するパネル展をやっていた。あと現代画家の作品展とか、去年の地震のパネル展とか。
 それならばと、石家庄市博物館に行ってみたら、歴史文物展示は閉まっていた。ここは一階に書画骨董の店なんかがあってそっち関連とおもわれる展示があった。商売に熱心のようだ。しかたないので次に行くことにした。

 昨日、読史方輿紀要をみてたら石家庄のあたりは常山郡があったところで、山西と華北平原をつなぐ重要な回廊であったみたいなことが書いてある。河北省博物館のパネル展でも、井陘関がよく保存されているという。せっかくなので、太原まで行ってみることにした。行く途中に見えるからそれでいいかという算段。
 でもバスは高速道路に乗ったのであんま見えなかった。山西省にはいったところで娘子関のあたりの間近を通った。それくらいか。太原にはいることには日がくれた。これが太行山か。
 まぁ、太原がカーブルで娘子関とか井陘関がカイバル峠で、石家庄がペシャーワルみたいな関係か。いちおう、通りづらそうな太行山のあたりも通ってみるつもりだ。

 バスに乗ったとき、物売りのおばちゃんがいて、乗車券のつづりを売りつけようとしていた。闇だ。

 石家庄で地道に梁山泊方面に行くつもりだったので、当座のためにもう一万円両替してみたら、679元だった。レートの変動が激しいな。また700台にもどったりするのか?

 テレビで中国兄弟连という抗日ドラマの第一回をやっている。内容は日本軍に対し、国民党と共産党がともに戦うみたいな話。


2009/03/05 木

 北京で両替。中国銀行にいったら最初670元といわれて、おもわず両替をためらったが、どこまわってもそんな感じだったのでとりあえず一万円両替した。
 ふむ。二月以降ユーロと日本円がおなじように落ちていたので気づかなかった。まぁ670なら昔と変わらんのでしかたないとはおもう。700元越えしてるときに旅行しといたらよかったか。
 順調に落ちているのがポンドで、ユーロも弱さを見せていて、強さを堅持しているのが中国元ということだな。
 今CCTV4で中国焦点2009というのをやっているが、そのタイトルが「内需拡大で成長を保つ」で、言っていることのほとんどは听不懂なわけだが、消費券とか発行して内需を拡大することを検討しているらしい。となりの日本では定額給付金なんかやってるしな。
 中国のこういう番組はかなりまともなのでNHKでも字幕つきで流したらいいとおもう。

 北京で靴を買う。靴というかカンフーシューズというか。日本で買ったのがなんとたったの三ヶ月で駄目になった。底が両方とも破れたうえ、その上面まで破れてきた。一番の原因はイギリスの泥のなかを長時間歩いたことだとおもう。まぁ、それだけ過酷な扱いを受けていたのかもしれないが、今までもっと長くもったので、靴の品質がわるかったのかもしれない。
 とりあえずカバンを買ったスーパーまで歩いて16元くらいの靴を買った。底のゴムが剥げそうだが、240円くらいとおもえば一ヶ月ももてばいいということだ。

 12月末に日本へ荷物を送った郵便局からまた荷物を送った。リュックのなかのいらない本やら地図やら入場券やら博物館の案内やらいろいろおくった。5.550kgで183元した。すっかり軽くなったので、荷物を担いで一日歩いたりできそうだ。

 つーことで、そのまま北京西站まで行って石家庄行きの鉄道に乗った。86元で、高いとおもったがそれもそのはず、和諧号だった。三時間せずについた。駅前の招待所に順番に入っていったらどれも高いか、日本人はだめというとこばかりだった。道の向いにあった、大きな建物の三階にあるところに行ってみたら、50元で泊めてくれた。押金50元。まぁ他んとこも似たような値段ばっかりだったのでそんなもんだろう。受付の人が「安くないよ」と念を押していたのが不思議だった。

 テレビで「チベットの農奴」という番組をやっている。チベット暴動からそろそろ一年ということで作ったのだろう。NHKとかの歴史番組とおんなじ作りで、語りの部分には字幕がつかず、人がでてきてしゃべってるとこにだけ字幕がつくので、全部わからない。チベット侵攻のことも扱っていた。なんかアメリカが黒い手をのばしてきたと言っているようだがよくわからん。途中までダライラマとよろしくやっていた画面がでている。人民に君臨する僧侶・貴族社会を残しておくと社会変革にはならないというのはそのとおりだろう。まぁそれだけで全部正当化しているようだ。
 抗日戦争を強調するのとおなじだな。

 韓国ウォンの暴落は輸出で飯を食っている韓国にとってはいい機会だったようだ。韓国は日本ほど人口がないから、国内市場にはそんなに期待できない。ということは、レートが悪い方がよいわけで、去年韓国政府がウォン防衛しようとしてワロス曲線で金をバラまいていたのは本当にムダなことだったことになる。まぁ、一部で言われているようにムダではなくて意図的な汚職とかならなんとも言えないが。
 日本からいいニュースがでてこないのは日本円にあんまり強くなってほしくないという面もあるのだろう。


2009/03/04 水

 北京。
 やっぱり小銭は両替できなかった。がっかり。

 北京駅ちかくの旅館にとまる。40元。やっぱり原則として日本人はこういうところにとまれないらしい。でもたったの3軒目でとめてくれた。
 はー。疲れたな。これからどうするか考えよう。

 本屋に行ったら新しい水滸伝本があった。こういうの続々と出てキリがないんだろうな。図解とか図説がめずらしいか。
 北京の新華書店の図書大厦はやっぱり充実している。

 ネット屋に行ったが、sshが塞がれていたので更新できなかった。その他、見れないサイトがいろいろあった。統制国家にきた感じだ。

 声調を何度もただされる。

 宿に昔日本語を習ったという人が居て、ひっぱりだされる。東北出身で、82年に習ったというから、朝鮮族かもしれん。ちょっと古い日本語だった。


2009/03/03 火

 さて。パリ出発の日だ。CDGには電気のつかえる机がゴロゴロしているらしい。
 毎日近くのモンマルトルの丘の上にのぼっていたが今日でおわかれだな。観光客だらけでにぎやかなところだった。

 CDGの無線LANは30分6ユーロ一時間10ユーロ二時間15ユーロで、24時間が30ユーロらしい。ぼったくりだ。

 空港のチェックインカウンターで、チケット見せろとか言われるのでおかしいとは思いながら、ロンドンでの領収書を見せたら、片道で中国に入るのはダメだとか言われた。しょうがないので日本円の十数万の札束を見せたらなんとかなった。そんなに見すぼらしいのか。ハサミとかナイフとかを封筒で別送というような気の効いたことはしてくれないらしい。腹立ったのでハサミとナイフを投げつけた。しかえしされるのかな。だれが隣にすわるのだろうか。
 ユーロをつかいきる努力をせず、まだ30ユーロ弱あまっている。半分は小銭だ。北京で両替できなさそうな気がしてきた。大丈夫か。


2009/03/02 月

 いいかげんネットを捜しにいくか。

 結局マクドナルドでネットしている。
 青年海外協力隊でウズベキスタンに要請がでてるな。しかもフェルガナか。いいな。

 ここしばらく缶詰とかたらふく食って水も飲んでいたのでどうも満腹感が絶えない。そんなこと言いながら、鶏の丸焼き(4.5ユーロ)を食べたが、もうそれで何も食べる気がしない。明日の朝飯のためのヨーグルトだけ買っておくことにした。
 しかしおやつのチョコレートはボリボリ食べれるよ。ぶくぶく太る人がでてくるはずだ。チョコレートを吟味していると、まるまるとしたおねえさんがチョコレート売り場に寄ってくるので、それを見て買うのをやめたことがある。

 フランス語で3格4格の代名詞が動詞の前に出てくるのが謎だとおもったが、その処理は日本語に近いとおもえばいいのか。

 フランス人ってアラブ人みたいな顔の人もいるので、見た目のアラブ系との境目があんまりない。でもフランスでイスラムというと黒人が多いんだろうな。
 宿のちかくにモスクがある。
 しかし、パリだけでフランスを代表させるのは危険なことだ。パリ以外のフランスも見ないといけないとおもう。
 ケルトを強調するものはあんまり見かけないな。フランスはフランス革命の存在が大きすぎて、他の歴史的事件の解釈とかが軽くなってしまい、そういうのを期待していた向きとしてはおもしろくない。

 東方の三博士って、その場面には人数が書かれていないのか。贈り物が三つだから三人と決められたらしい。

 プロテスタントの発生がヨーロッパの歴史の重要な転回点とするなら、フランスは新教を戦争で抑えこんだために、フランス革命という形でカトリックと対決することになったといえる。革命で国王をギロチンに送ったくせにその直後にナポレオンを迎えている。フランス自体は中央集権が合っているんだろう。
 スペインとイタリアはファシスト政権がそれになるのだろうか。


2009/03/01 日

 夜中に夢を見て、気がついたら右腕の注射するところを圧迫してしびれていたので目がさめた。寝ているあいだに左手で右腕の脇の下とか肘の内側とかを押さえてしびれさせていることがたまにあるけどなにか意味があるんだろうか。

 世界大百科事典のフランス音楽の項目を見ていると、フランス語の文章を直訳したようなくどさを感じる。外国のことをやっていると対象言語に脳を侵されてしまうのだろうな。ただ、内容までフランス万歳しているのでほんとうにどっかの事典を直訳しただけかもしれん。
 フランス語は全然読めないが、英語なんかでもフランス語からの借用語が多いので、単語だけならわかるようなのがおおい。特に博物館の説明みたいに専門用語の成分がおおいのはそうだ。ルーブルやオルセーみたいに観光客の多いところは各言語で書かれた説明のプラスチック板が置いてあることがあるので、直訳調をたのしむことができる。とにかく無駄な装飾や思わせぶりな口調が多くてくどい。フランスの現代思想とかいうのもこういうくどい文章を書く素地から生まれてきたんだろうな。まぁあんまり近寄りたくはないんだが、それでもフランス語は読めないといけないかなーとおもうようになってきた。
 日本語の現代文章語は、漢文調と英文翻訳調が基本になっているとおもう。

 カルナヴァル博物館。
 パリ市の博物館ということだが、16世紀以降の展示が主だった。先史からカロリング朝くらいまでの遺物もすこし展示してある。
 しかし、フランス革命とかしたところのくせに社会史的な展示があんまりない。絵とか家具調度ばかり並んでいる。まぁ絵でそういうのを代表させている面もある。
 バスチーユ牢獄の模型が何個もあった。フランス革命後を描いたイラストのなかにバスチーユ牢獄の模型を担いでパレードしているような場面を描いたものがあったのでそういう使い方をしていたものらしい。小さいものは土産ものか。
 ナポレオンの敗退とか普仏戦争とかあんまり触れてない。第一次世界大戦もさらりと流してある。すげーな。

 音楽博物館。
 常設展は三月四日以降再開らしい。だめだこりゃ。

 時間が余ったのでセルニュスキ博物館に行ってみた。
 カルナヴァルにあったパンフにはセルニュスキはイタリアの1848年革命の失敗のあとフランスに亡命し、普仏戦争のころ、印象派のパトロンと一緒にアジア旅行して中国朝鮮日本東南アジアのものを収集したらしい。ちなみに中国語版の解説にだけ、欧州のアジア博物館の序列第五と書いてあった。中国人は序列がついていないとおちつかないらしい。
 まぁそんなに重要ならと行ってみたが、ほとんど中国のもので、範囲も仰韶文化から遼代まで。ひとつだけ、日本のものとして東京の目黒大仏が置いてあった。まぁタダだった。
 現代中国のものとかはここでだけ展示会なんかをひらくらしい。ちょうどそういう展示やってて、入口に中国系っぽい係員がいた。おもしろそうだったけどパスした。

 フランス史博物館。
 ここは午後二時から開く。フランス史博物館とおもって行ってみたら、国立公文書館だった。だから通史なんかやってるわけもなく、公文書でたどる歴史みたいなのやっていた。まぁ、それなりにおもしろかった。

 時間が余ったので、すぐ近くのポンピドゥー文化センターに行ってみた。ここはオルセー以降の現代美術を扱う。行ってみたら長蛇の列だったのであきらめた。疲れたので帰った。

 鶏の丸焼きの半分が2.8ユーロ。一個だと5ユーロ程度。ドネルケバブが4.5ユーロもするように、軽食はおしなべて高いのに、鶏の丸焼きが安いのが謎だ。もっと早く気付けばよかった。
 所持金を勘定すれば、小銭だけで33ユーロくらいもある。2ユーロ玉があるので思っていたよりも多かった。50ユーロ弱か。つかいきれるかな。あまった分が中国元になればいいのだが、小銭はうけつけないとか言われそうだ。


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