つれづれ

2011/04-06
2011/06/30 木

 今の宿の標高はgoogle地図様によると3278m。中国天気網によると香格里拉の今日の気温の予想は9度から22度。いやぁ快適快適。
 しかしこの宿水道がないので手も洗えないからマンゴーが食べれない。

 今日も今日とて外出する気がない。まぁ明日が建党90周年の記念日らしいので移動はそのあとにしたいというのもあるが、それよりも水道が満足につかえないのにここに居座るのはちょっとまずいな。広場に長屋式の棟が4棟くらい並んでいる宿で、放置感が非常に気持ちいいのだが。水だけが問題だ。
 他にも問題がある。この周辺の飯屋の値段が若干高めだということだ。うーむ。これは宿を移動しても解決できない。→ この町全体に高い。市場で食ってもすこし高めだ。

 芒康の町の公安も厳しいらしい。まぁ四川からラサ方面の道と雲南から青海への道が交わるところだから当然といえば当然か。
 まぁ無理して西蔵自治区に入らずとも、旧西康省の東部である四川省のチベット部分に入っていけばよいのは確かで、それが普通のコースだ。うーむ。
 四川省のチベット部分の理塘というところはラサよりも400m高く世界でも高いところにある都市の一つらしい(Wikipedia情報)。うーむ。行く気になればそこから昌都の方へも行けるな...

 午前中に長征博物館に行ってみると軍服みたいなのを来た連中が来てテレビカメラみたいなのまで来ていたので入りづらく、州博物館に行ってみた。展示室一つだけだったがまぁ金にならないからしかたないだろう。考古展示の後はかなり時代がとび、おきまりの茶馬古道から仏像とかになる。そしてチベット・ナシ・リスの民族展示でしめ。よくあるチベット密教のマントラだけではなく、ボン教のタンカとかもあった。
 出たころにはもうひとつの展示室が開いていたので入ってみたら、小さい子供が大量にいた。宣教師が撮った古写真のパネル展をやっていたが、なぜか常には開いていないらしい。その子供たちが引率されて見学しにきていたおかげでみれた。しかも出ていったらすぐ閉まった。なんでだろうか。
 その後長征博物館に行ってすこしすると、まだ11:35くらいなのに受付嬢がきてもう昼で閉めるからさっさとでてけみたいなことを言われる。まぁ中国人のやることだからしかたない。ということで一度帰って飯を食ったりしたあと午後また来た。すると軍服みたいなのを来た連中があとからゾロゾロやってきてうまってしまった。肩をみると武警と書いてあったので武装警察の面々が建党90周年ということで党の歴史教育でつれてこられたんだろうか。
 まあそれはいいとして、ここ中甸(香格里拉の前の名前)は賀龍とかがいた第二・六軍団が休憩したところらしい。賀龍の書いた「興盛番族」の旗があった。雲南省博物館の展示でも似たようなものをみたので写真をさがしたら「扶助番族獨立解放」というものでここではなかったがまぁ四川のチベットの方だった。同じ軍団なのであちこちにこういう旗を置いていったんだろう。独立解放www まぁ、口だけキレイなこと言ってあとでやっぱりできませんでしたってのはよくあることですね。
 50年代から60年代始めにかけて叛乱が三回あったらしいが「自分勝手」とか「歴史に逆らう」とかいうふうに紹介されている。和平談判の文書とか置いてあるけど、その後文革のどさくさにまぎれて殺されたりしたんじゃなかろうか。
 文物調査を最近やったらしく、博物館になっている寺の周りの壁でパネル展やってたが、それをみていると摩崖石刻とかいろいろ見つかったらしい。まだまだみつかってないものがあるんだろうな。

 ちかくの亀山公園は丘で、もともと大仏殿があったが文革のときに壊され、最近再建されたものがある。その横にシャングリラに改名してからつくった巨大マニ筒があってクルクルまわっていた。今日のぼってみて、巨大マニ筒は人が回していることがわかった。武警のみなさんが博物館をみたあとこの亀山公園にのぼってうじゃうじゃしていたが、一部が巨大マニ筒にとりついて走ってグルグル回していたのでものすごい音をたてていた。

 明日建党90周年ということで、CCTV1で文芸晩会やってておもしろい。

 高いところいいな。下界に降りたくなくなってきた。


2011/06/29 水

 まぁよく知らん形式についてはもっと調べてからなにか言った方がいいな(汗
 しかし当時は史書の注を集めた字書でもあったんだろうか。もしくは史書の注が字書の代わりになってたんだろうか。禊とかで検索してもそれっぽいのがひっかかる。暮春(三月)もそれと関係ありそう。もっとも儒仏道から出題されたとかいう話だからなんかあるようでないようなものは宗教系に範囲を広げたらみつかるのかもしれんけどテキストがないから今無理だな。

 ちょっとコンピュータにしがみついてしまったので今日は大理から移動する。

 香格里拉到着。途中長江上流の沿線を走り、そこからチベット高原の端っこまでのぼって到着。さすがにここまでくると景色も乾燥地帯のそれに変わってくる。
 チベットの家って要塞みたいだからわかりやすいが、あれは昔からああなんだろうか。途中何軒か工事中の建物があって骨組がよくみえたが、中にはかなり太い柱をつかっているものがある。あんなに太い木材がこのへんにあるわけないが、どうやって調達したものか。
 もっと下の方にあった白族の家をみていると、木造の家を煉瓦で囲ったものがあるようにみえるが、あれは消防法かなにかで決められたんだろうか。

 香格里拉ではバスターミナルのちかくの宿。20元。施設はまぁこんなもんだが、水がない。やばくなってきたな。
 いちおう古城というところまで歩いてみた。州博物館と長征博物館がそこにあったが、時間もおそくやっていなかった。州博物館の方の二階は開いていたが、そこはツアー客向けのチベット医療で金をもうけるコーナーになっていたようで、チベット医療の経典みたいなものをそれっぽく並べてあるだけだった。
 寺らしきものがそのへんにもあったがどこまで再建されたものなのかわからない。

 ここからチベット東部の昌都まで355元だとか。乗ってみるか。しかし途中で追い返される可能性もある。素直に四川西部のチベットに北上するべきか。
 昌都については公安が厳しいという情報しかないな...

 大理に行った人は麗江に行くのが普通みたいだし当初はそのつもりだったが観光地化しているという情報しか聞かないので行かなかった。しかし博物館だけ行くということにしてもよかったかもしれない。


2011/06/28 火

太陽と惑星は今まで考えられていたのとは異なる過程で形成されている可能性(NASA研究):カラパイア


2011/06/27 月

 ▽ツイッターは民主化を支えない : 47NEWS
 クックック
 最後の一文って扇動装置としては役に立つということだよな。

 下関までまた行ってバスターミナルの場所を確認してきたが、やっぱり町としては下関の方が活気があっておもしろい。帰りに雨降ってきたが、大理までもどってきても激しく降りつづけている。

 夜になっても雨はおなじ調子で降りつづき、ついに10分ほど停電した。

 菅家文草、国会図書館近代ライブラリにはなかったけど早稲田古典籍にはあった。


2011/06/26 日

 夏季の計画停電の影響と空調(エアコン)節電対策の効果(速報) - 産総研
 サマータイムwww。むしろ会社にずっといてくれた方がいいらしい。

 ワラノート:「大正大震災大火災」(大正12年刊)って本を買ってきたのでうp

 やばい。chromium でゆうちょダイレクトにログインしたら合言葉を要求してきた。そんなもん登録してないのに。firefox でやりなおしたらそれもなくちゃんとログインできた。chromium 怖すぎる。そういうネットの金まわりは全部firefoxつかうことにする。

 「放射能を抜く食べ方」は意味がない  WEDGE

 今日も昨日とおなじ市場の中の飯屋に昼飯食いにいったらそこの人と話になった。どうも武術やってる人と知り合いらしい。李連傑強いとか言ったら、あれは型の演武がキレイなだけ、ジャッキーチェンがつよいとか言いだした。うーん。まぁそれはそれとして、その武術やっている知り合いは、大理西門外の飲むところで武警(武装警察)七人に喧嘩を売られたけど数分で全員倒したらしい。


2011/06/25 土

 なるほど朝方の空気は涼しい。中国は涼しくていいな....というのはまちがいで、雲南が高地だから過ごしやすいだけ。華中華南は普通に最低気温が20度を越えている。

 朝方荷物を担いで客桟を出て、大理州博物館。
 荷物をいれるロッカーが小さく、リュックが入らないが預ってくれない。しかたないので中身を出して別々にして入れたらなんとかなった。
 展示は陶磁器・青銅器・大理国・大理の人物・白族という構成。中国との接触で鉄器が入ってくるというのは時期的に日本とおなじだなぁとおもったりする。日本と違うのはそれまで青銅器全盛だったことか。
 大理国のしゃちほこみたいなのがあったが、造形技術がひどかった。まぁたしかにはるか上に置くものだから大雑把につくっても問題ないといえば問題ない。仏像がいっぱいあったがあんまり詳しく見ていない。大理国の仏教は密教ということだったが日本も天台真言と密教もあったので切り方によっては密教と大雑把に言われそうでもある。
 大理の人物については大理国の王とかを中心の柱に配置し、あとは明以降の漢族的文化の人物を羅列し、近代部分は共産党の功労者を配置するという構成。
 白族の民俗についてはあんまり期待していなかったが、やっぱり専門の展示までくると違う。三合院というのがあり、昆明の民族博物館でも見たが、ここにはその三合院とやらの木造バージョンがあった。なるほどこれに漢族のレンガ造四合院の技術をくみあわせれば三合院になるな。どっちが先か後かはわからない。あと、民族博物館で紹介されていた馬幇も白族のもので、清末のころ白族は商人として成功し経済的に発達していたと結構重要なことが書いてあった。

 その後大理古城に行く。8路のバスで終点の西門まで行き、そこから適当に南に宿を探してみるが、西洋人の観光地化していてあんまりおもしろくない。ユースホステルがありそこはドミトリー20元と調べがついていたがもどって今度は北へ探してみる。地図をみるとその辺りに農貿市場とか超市とかあったので生活臭があり安い宿もあるだろうと期待したのだ。とりあえず最初にあった宿で聞いてみたら30元からと言われたので次に行こうとしたところ、いくらだったら泊まると聞かれていつも泊まっている値段を言うと下げてくれた。今は閑散期で客があんまり来ないらしい。しかも三つベッドがある広い部屋にしてくれた。博愛旅社。

 その後大理古城をひたすら歩きまわる。大麻草だが結構生えていた。たぶんユースホステルとかあるあたりはすでに刈りとられてないんだろうが、そこから離れたあたりならちょろちょろ生えていた。ちょっとむしって食べてみたところ、切れたあたりから生ぐさい匂いがしていたが、味は普通に草っぽい苦さだった。その後の経緯からすると、ちょっとくらいなら全然効かないらしい。
 大理古城の中には大理市博物館があった。こっちの展示は時代順に遺物が並べてある標準的なものだったがすこし物はすくない。二階に陶俑の展示があった。
 碑林エリアがあったがここには大理国時代から元明清と大量の石碑があった。ありすぎて雑然と積んであってそのせいで壊れたのとかあった。梵字石碑とかなかなか珍しいものもかなりあった。

 大理の町だが、南の方は土産物屋街に改造されているが、北の方は住居としての町がのこされている。よく探せば古い建物もわりとある。しかし古い町としては会澤の方が雰囲気がのこっていてよいとおもう。会澤の町も改造されているが、改造されていないところもかなり残されたままだし、改造されたところも土産物屋街ではないところがよい。今の気温的にもあんまり差がない。会澤にもうすこしいてもよかったな。
 しかし大理の南の方は土産物屋街はそこしか行けない構造になっている。土産物街の東に軍事拠点があり、そこには近づけず町も通りぬけできないようになっている。さらに東には池がかなり大きな面積をしめている。おかげで探検できる範囲がせまくなった。
 ここが軍事拠点として機能しているのは、雲南西部の要だからだろう。

 去年とおなじ計画が始動。中国からやるのは無謀かもしれないがやってみる。なんとかなるだろう。


2011/06/24 金

 次のパスポートはIC旅券とやらにしてみようとおもうが、海外で作る場合、IC旅券作成機がないところでないとできないらしい。中国周辺の大使館でそれがないのは、キルギス・カザフのアルマティ・タジキスタン・トルクメニスタンとある。つまりウズベキスタンなら作れるということか。

 景洪 → 大理(下関) 210+4元
 朝8:30にでて夜の23:30に着くというひさしぶりの長距離寝台バス。途中飯休憩が2回。そんなにかかるとおもってなかったので昼は朝買ったマンゴーでしのいだが、夕方はさすがに腹が減り、ボッタくり飯屋で飯をくった。
 途中バスがトイレ休憩したところの向かいに「クツォン人」の店があった。どこがどうクツォン人なのかよくわからなかった。
 景洪も朝方雨が降ったおかげで気温がかなり下がっていた。暑かったけど。大理までくると夜の空気はさすがに冷たく感じる。感じるけど半袖シャツで問題ないあたりまだまだ気温も高いんだな。

 大理に着いたのがそんな真夜中なのに、バスターミナルのまわりは新しい町並みで宿というものがまったく見当たらず、しかたなしに駅があるという西の方へいくと駅のあたりも再開発されたのか宿とか飯屋がみあたらず、しかたなくどんどん西の方へ行って中の方に入り客桟20元をようやくみつける。道行く人から部屋の中に手がのばせる状態でベッドは窓際にありベッドと窓の距離は10cmくらいという素敵な部屋だ。こんな時間だから20元でみつかっただけでよしとしておく。荷物はベッドのかげに並べておいて運を天にまかせて寝るしかない。

 ルアンナムタにいたとき、真昼の太陽が北から照っていて、南側に影ができていたが、夏至だったことに今ごろ気付いた。


2011/06/23 木

 ルアンナムタからボーテン、モンラーと経由して景洪までやってきた。大理行きのバスは明朝。前泊まった安宿が泊めてくれず、その辺にあるのは少し高めだったのであきらめ、ユースホステルの方向に行ったところ、そのすぐ近くに安宿があったのでそこにした。20元。
 二月にこのあたり来たときもモンラーはそんなに暑く感じていなかったが、やはりモンラーのあたり若干涼しい。まぁ比較の問題だが、景洪やルアンナムタよりも涼しいのは間違いない。まぁ高いから涼しいということなんだろう。

 暑い。。。しかしこの暑いのも明日大理に出発すればおさらばだ。おさらばのはず。おさらばになってほしい。
 ひさしぶりにネットに接したがどんどん時間をすわれてしまう。おそろしいものだ。。
 しかもディエンビエンフーがなぜ府なのかについてわかるようなこともなかった。そもそも本当に府なのだろうか。

 1886年に構想されたバンコクから中国への鉄道の計画図というのがペリーカスタネダにあったが、それによると中国の国境が思茅になっている。清仏戦争の直後だからそのあたりの地理はそんなにおかしくないはずだがやはり計画図は計画図というだけなんだろうか。
 ディエンビエンフーで検索すると同名の何の参考にもならない漫画のことばかりひっかかる。


2011/06/22 水

 今日はルアンナムタの西の方にある仏塔とアカ族の村というところまで歩いてみた。行ってもなんということないところだった。ただ、今日はなぜか帯状の雲が空を横切ってちょうどいいぐあいに日をさえぎりつづけてくれたのでそんなに暑くなかった。これなら自転車借りてもよかった。
 帰って寝てたらその雲が雨雲にかわり雷雨になった。そういうことで今日はそれほど暑くはなかったが暑いのは暑い。

 毎日マンゴーをキロで買ったり生ジュースをのんだり豆乳を飲んだりしたら金も順調になくなってきたので明日ボーテンから中国入りする。今ボーテンまで行くバス代の25000kipしか金がない。50万kipも案外早くなくなるもんだ。一応明日の朝飯の分のマンゴーはある。

 夜市のすぐ側なのでそこでかかっている音楽がよくきこえるが、演歌みたいなのからポップスまですこし前の日本のようなメロディーが多い。しかもアップテンポというか激しいのはなく、全体にまったりした曲ばかりだ。

 ベトナムからラオスまで少数民族多めの地帯を通ったが、もう普通すぎてそんなに気にならなくなった。しかしアカ族と言われてもどれがどれか全然わからない。博物館行ってるけど真面目に見ていないのがモロバレだ。

 明日からは人間砂漠の中国に逆もどりか。いいのかわるいのか。そもそもこういうブラブラ系を続けるのか定着系にするのか決めかねている。いずれにせよ中国は行ったことないところがまだまだあるので、ブラブラ系でも目標を設定してあちこち見てまわることはできる。


2011/06/21 火

 暑い。

 朝方、ルアンナムタの北にある寺と博物館に行った。両方とも5000kip取る。寺の方は寄付としてとるようだ。寺といっても大した設備もなく、立地的にも丘の上で田舎の神社に来たような感じ。キンピカの仏塔の中に入れるが、とくにおもしろくもない仏像がある。仏像の前におみくじがあり、筒のなかの木の棒を抜いてその番号の紙を取るというあたりがまた神社っぽさを醸しだしていた。博物館は一室しかなく、民族展示とか銅壺とか革命関係とかいろいろ混っていた。中国の方から来た集団がありその人たちの経典というのがあったが道教系のまじないの本だった。

 博物館も見たしすることもなく、自転車を借りて動きまわる気もなく、道を歩いていたら日本人を二人みつけた。一人は自転車でタイのチェンマイから大理まで帰る途中だという。太いドレッドヘア(要するにサドゥー型)であんまりにもわかりやすすぎる格好をしていたが、手の日焼けが火傷みたいになっていた。大理に帰ったらその自転車でチベットに潜入するらしい。そのために今から訓練しているらしい。テントで泊まってシャワーつかえるところを探しているそうだ。
 もう一人も濃い人で、手に持つような無地の大きいバッグを背中に担いでいた。この人は今の宿にいつも泊まっているので今回は違うところを開拓するつもりで宿さがししていたらしい。その後来なかったので、違うところの開拓に成功したんだろう。この人によると、この宿はトイレ無し3万有りが4万ということで、3万なのは通常価格であるらしい。旅行会社のにーちゃんの言うことはアテにならないということだ。たぶん探せばそれなりの値段の宿もあるんだろう。まぁでも今から他のとこ探す気もしない。
 ドレッドヘアの方はその後市場へ飯を探しにいったときに再会したが、宿はみつかったらしい。大理情報をすこしもらった。

 他にも昼から夕方までレストランでネットしている人やレンタサイクルにのっている人で日本人っぽい人をみかけたが、こちらは日本人かどうかわからない。先の二人は目をギラギラさせて小汚い格好で修行者のようなことをしているので日本人だとおもって声かけてみたらそうだった。ラオスに来てから日本人に頻繁に出会うが、街の規模と交通手段と観光ポイントが限られていたら自然と旅行者と出会うようになる。中国だと上海を出てから中国を出るまで日本人とは会わなかった。旅行者が居なさそうなところを旅行した上にユースホステルにも寄らなかったからだが。昆明でユースホステルに泊まっていたらだれかには会っていただろう。

 米軍地図をみていると、国境の街ボーテンは標高1000mにあとすこしくらいのところにあるらしい。国境が峠だからそのすぐ手前ということでそれくらい高くなる。ルアンナムタよりは涼しそうだ。ここにいるよりもボーテンに行った方がいいか。ムアンクアとかディエンビエンフーは意外と涼しかったからよかったがここは暑い。もう暑いのがイヤになってきた。


2011/06/20 月

 ウドムサイ → ルアンナムタ 40000kip 一日三本
 ウドムサイから中国へ行く道が工事中で、しかも全面通行止めにしてやっているらしく、通るのにかなり待たされる。ルアンナムタ行きも中国への道を通るので一時間くらい遅れた。
 しかもルアンナムタのバスターミナルが新しくかなり遠いところに移動したようで、バスターミナルから歩いてみたら途中ルアンナムタまで8kmという道標があった。しかたないのでそのまま歩いたら、6kmくらい歩いたところでバイクのにーちゃんに乗せてもらった。仕事に行く途中だという話だったが、タダで乗せたつもりではなかったようで、その仕事場というのが旅行会社だった。まぁしかしこっちがトレッキングとかカヌーとかに全然興味をしめさなかったので話にならない。しかもタダで安い宿を教えてくれた。4万kipというのであまり期待せずに行ってみたら3万kipだったのでそこにしておいた。お礼のつもりでにーちゃんのところへ生ジュースをもっていったらコンピュータでいろいろ見せてくれた。具体的には女体盛りのAV(カリビアンコム)を見せられて、何と言っているのか翻訳させられたりした。
 AVをみながら、日本のこういう女性も男に貢いでいるにちがいない、ラオスの女性も体を売って好きな男に貢いでいる、おれの彼女もそうしている、と本当かいなというような話も聞いた。あと日本の女が海外のこういうところの男には股がゆるいというよく聞く話も聞かされた。いいなぁ。
 google Earthをいじっていたので、うちの田舎をみせてやって、ラオスと大差ないだろと言ったら納得していた。

 宿だが、帰ってきてから調べたら、ロンプラにのってた。まぁそこにある説明通りだった。旅行会社のにーちゃんによると今はオフシーズンらしく、3万kipになったのもそのせいらしい。気になるのはマルクスエンゲルスレーニンスターリンの写真が貼ってあったことだ。
 近くに市場があったので餅米とおかずと豆乳を買って帰ってきたら雨が降ってきた。うーむ。まぁ雨ばっかり降ってたら観光客あんまり来ないわな。

 ルアンナムタに数日いて、ここから中国へ直通のバスで入り、さらに景洪から大理まで一気にバスで行くことにする。


2011/06/19 日

 ムアンクア → ウドムサイ 35000kip 一日三本
 ウドンサイで宿さがしするが、どこもかしこも五万kip。統一価格でもあるのか。バスターミナルの目の前の一軒だけが四万なのでそこにした。昨日酒のんだせいか疲れがはげしい。あと暑い。ムアンクアよりこっちの方が暑いのでかなり後悔している。
 金が尽きかけているのでまた100元(1250円くらい)を両替しようとおもったが、今の暑さだとすぐ中国に行ってしまいそうなので、思いきって50万kip(5000円くらい)をATMで引きだした。これがそれなりに減るまでラオスにいることになる。しかし物価が意外と高いので、これもすぐなくなるかもしれない。そういうと前来たときも宿代が高いとおもったのだった。物価についてはたぶんタイに行ったあとだからそんなに高いと感じなかったんだろう。物価だけでいうと ラオス > 中国 > ベトナム という感じになりそう。まぁラオスでボられている可能性もなくはないが。

 博物館があったけどやってなかった。  あと、前来た時に泊まった中国宿は安くなかったので泊まらなかった。

 ここから中国のモンラーと景洪まで行くバスがでているが、モンラー55000kipに対し、景洪13000kip。モンラーから景洪が40元であることを考えると、モンラーを中継した方が安い。あとポンサリまで行くバスがあるが9時間かかる。ルアンパバンが5時間なのに。これが道路の差なんだろうか。


2011/06/18 土

 早朝出発のバスでラオスへ。
 ラオス国境越えはスムーズすぎた。何も検査されない。手持ちの20万ドンをどこで両替するかだが、ベトナム側にあった飯屋に入ってみたらレートがわるかった(ドン:キープ=3:1)。ラオス側の飯屋でやってみても悪かったがベトナムの方よりマシだった(10000 -> 3600)のでそこで替えた。
 しかしその後、ラオス側でバス休憩したところでもベトナムの通貨普通につかえていたので無理して国境で替えなくてもよかったようにおもう。
 ラオス国境では合計9000キープとられた。土曜ということで4000余計にとられた。ちなみにラオスのキープはだいたい日本円の1/100なので9000キープは90円だ。

 ムアンクア着。渡船で川をわたる。適当に宿さがしして、おっさんにつれていかれた3万キープのところに泊まる。吊り橋を渡った向かいにあって川にはりだしており眺めがよい。渡船のところまでもどると、日本人らしい二人組に声をかけられる。どうも今日中にディエンビエンフーに行きたいらしいが時間的に無理だろう。その後その二人は別にすすめたわけではないが、宿に帰ったら同じ宿に泊まっていた。ここだけは二人でも3万キープだということらしい。
 この宿はフランス人が多かった。宿の晩飯(有料)をみんなで食べる形式だったが、酒をおもいきりのまされて酔いつぶれた。きつかった。

 ムアンクアにも、ムアンクアに来る途中バス休憩でとまったところにもゲストハウスがたくさんあった。もうラオス中にバックパッカー系の観光客があふれているということなんだろう。
 しかしラオスのこのあたり、山の中の谷あいの集落という感じで、うちの田舎の風景とよく似ている。建物はもちろん違うが、戦後くらいなら雰囲気もかなり似ていただろう。あんまり外国に来ている感じがしない。


2011/06/17 金

 朝のうちに博物館にいく。チケット売り場に人がいなかったので、ズンズン展示館の方に入っていったが、そっちでもチケットを要求されなかった。一応入口に人がいたが、来る途中で買ったバナナの葉でつつんだ餅米のおにぎりが手の中にあるのを見ると何も言わなかった。
 展示の説明はベトナム語とフランス語がメインで、写真にはそれに加えて英語もある。屋外展示の飛行機が撤去されて一箇所に積みあげてあった。ということで、展示の説明の方では全体像がわからず、これは何部隊がどうのこうのという細かい説明を読んだところでそれがどういう意味があるのか把握できず展示の方ではよくわからなかった。
 敷地内にもうひとつ展示室があり、そっちには考古資料(石器・銅鼓など)とか少数民族資料が展示してある。黒タイ族という日本語名は英語直訳なんだろうか。
 水車があったけど貧弱な構造だった。あれだとそんなに強い力が出せないとおもうが、何につかっていたんだろうか。

 ロンリープラネットのベトナム(2007)の地図だと博物館と司令部跡の間には橋がなく、遠回りする必要があったが、今は橋がかかっていて、バスターミナル方面から博物館方面まで広い道が新設されている。昔の道は一車線で狭かったのでバスとか通りづらかっただろう。
 司令部跡とか戦車とか、ザっと見れた。司令部跡は外から丸見え。説明が読めないのなら中に入るまでもないとおもって入らなかった。それにロンプラには復元と書いてあった。コンクリートの塹壕も復元なんだろうか。

 それで朝の9時前には見るものは見たので寝た。朝の涼しいうちに見るという作戦は成功した。昼ごろには日差しがキツくなって暑くなった。
 市場へ飯を食いにいったついでに勝利の像っぽいものが立っている丘の上にのぼったら、ディエンビエンフーの盆地の様子がよくわかった。街があるのはごく狭い範囲で、あとは田んぼだらけ。よくこんなとこに陣地を構築したもんだ。雨季になると陣地が水びたしになって悲惨だったらしいがそりゃそうだろう。くわえてフランスは戦争の初期にフランス人兵士が悲惨な目にあうのでフランス人を派兵するのが禁止され、かわりに傭兵やドイツイタリアなどの兵士をつかうことになった中でのディエンビエンフーの作戦らしい。ディエンビエンフーの戦いについてはベトナムがフランスを負かした戦いみたいに聞いていたが、実際は負けるべくして負けた戦いみたいだ。しかもフランスがおっぱじめたくせに早々に逃げだしてケツもちをアメリカにやらせたという状況で、ディエンビエンフーについてもニクソンが口を出していたと Wikipedia に書いてあった。(Wikipediaは河口にいたときに見た)
 どうでもいいがなぜディエンビエン「フー」なのだろうか。このフーは府だから、軍事拠点という意味で府とつけたんだろうか。今ネットにつながらないのでこれ以上わからん。

 阮朝の明命14年(1833年)に作られた皇越地輿誌の目次をシコシコつくってみた。当時の行政区分は鎮ー府/州ー県/州のようだ。州が府県にバラけているのは明の制度を踏襲したからか。ディエンビエンフーのあたりはたぶん西安州に入るとおもうが、どこなのかよくわからない。近くにあるライチョウ(莱州)が西安州の管内にあるのでそう判断した。このあたりは西安州・嘉興府・興化府三つまとめて興化としてあり、「内地」とは別の蛮族がはびこる土地ということになっている。「平時でも従わず、有事のときにはすぐ反乱する」みたいに書いてある。ベトナムの王朝側が諸勢力の調停者として臨む代りに租税おさめて内地に攻めてこないでねということでなんとか落とし所をつけたようだ。租税のあたりは虫がよすぎるが実際に取りたてていたんだろうか。
 この本ではタインホア(タンホア)が地霊人傑、甲於天下と絶賛されているが、ガイドブックでは全然紹介されない。ロンプラは項目すら立てていない。歴史的には重要な所だがあんまり有名ではないからだろうか。もしくは戦争でそういうものが破壊されてしまったんだろうか。


2011/06/16 木

 暑すぎるのでディエンビエンフー行くのはやめようかとおもったがやっぱり行くことにした。気がかわらないうちに銀行で元をおろして道端で両替して出入国管理所に突入することにする。これでしばらくネットから隔離されるだろう。

 300元を両替して939000ドン手にいれた。安いのか高いのか... ATMで引き出した方がよかったのかもしれない。

 ラオカイ-ライチャウ 80000ドン
 ライチャウ-ディエンビエン 120000ドン
 宿 バスターミナルの真向かい 120000ドン(最初は150000ドンと言われた)

 ラオカイから山にグングンのぼるとどんどん涼しくなってくる。サパとかあのへんは涼しかった。ディエンビエンフーまでのルートでは高いところが二箇所あり、上がると涼しくなり、下がると暑くなるという感じだった。
 風景で中国側と違うのは、土地利用のしかたがヌルいことだ。中国はこんなとこまで使うのかというくらい徹底的に開発してあってどこみても畑みたいな感じだったが、ベトナムはそこまで行っていない。風景的にも日本っぽかった。日本にあるようなガードレールもある。あと少数民族のみなさんがそれぞれそれらしい格好をしていた。子供とかでもそういう服装していた。
 ラオカイからずーっと進むと日本みたいな風景から熱帯ぽい風景に変わってくる。まぁ中国側もそのへんはおなじだった。
 ひさしぶりにホタルをみた。
 工事中のところが多く、何回も止まった。そういうところで車が立ち往生していることがあったが、そのときすぐにベトナム人がたかって押して救いだしていた。なんでも他人事の中国人にはマネできないことだろう。ベトナムに来ると中国は人間砂漠だったんだなぁと感じることが多々ある。

 さすがにディエンビエンフーまでくるのは時間がかかり、夜の8時すぎについた。真っ暗。宿をさがすがどこも150000ドンと言われるばかり。むー。最初に声かけたところに後でまた行ったら120000まで下がったので便利だしとまる。後で調べたら前回来たときもハノイのユースホステルがそれくらいだった。まぁ中国が安すぎるので比較しない方がいいんだろう。と言っても、この宿、隣の飯屋と経営がおなじだが、隣の飯屋の上にも宿があり、そっちにはベトナム人が泊まっている。たぶんこっちは高い方で、外人は高い方にしか泊めてくれないんだろう。


2011/06/15 水

 ディエンビエンフーからラオスへ抜ける道はこのあたりを回遊する人たちにとっては結構メジャーであるようでネットに情報がたくさんころがっている。ラオス側の道が未舗装なので雨季になると通れないこともありそのときは運休になるらしい。うーん。

 まぁディエンビエンフーにいくと何にしてもラオスを経由してシーサンパンナに入ることになるがうーん。
 ここから戻るとすれば、昆明にまっすぐ行くよりは蒙自(紅河州博物館がある)玉渓を経由し昆明はすっとばして楚雄方面に行くというルートになるか。

 雨が降ってまいりました。ザーザー降り。雨季だからあたりまえか。まぁ扇風機にあたりながらもう一泊して決めよう。河口起義記念館と砲台跡があるらしいので雨がやんだら見にいくことにする。
 雨のおかげで気温がすこし下がって気持ちいい。

 視力が0.3から1.5に回復 / オルソケラトロジー – ロケットニュース24(β)
 なんとかトロジーってあやしいのばかりだが、まぁレーシックよりはいいんじゃなかろうか。

 記念館は開いてなかった。砲台がありそうなところは工事していた。

 雨のせいで水道がでなくなった。タオルが納豆臭を放ちはじめた。もう捨てるしかないな。
 日本手拭いも臭くなってから随分使っていたけど、中国でもうこれはダメだろうとおもうようになって捨てた。手拭いも所詮そんなもんかとおもっていたが、やはりタオルの方が臭くなるのが早い。使ったあとのよごれをちゃんと落としていないからだろう。手拭いの方が保水力に乏しいので、よごれものこりにくく臭くなりにくい、という事実を再確認しただけだった。

 在中国日本国大使館 - パスポート関係手続き時の必要書類等のご案内
 8月中頃に北京に行ったときにこの方法でパスポートを更新すればパスポートの残存期限でどうこうと悩むこともない。パスポートの記載事項に変更はないので戸籍謄本も必要ない。1230元で15000円程度。

 屏辺苗族自治州民族志を見ると、屏辺の苗族も湖南から貴州を経てここにたどりついたらしい。時期については無可考としながらも、1800年ごろにここに来たという伝承をもつ家族のことを紹介しており、河口のヤオ族とおなじころに移動したんだろう。

 【コラム】パニックをあおって、PVを稼ぎまくる方法 - AMOKNの日記

 雲南東南部からベトナム北西部にかけてクツォン人という狩猟民が分布しているらしいが、その文化面には農耕的要素が強く、もともと農耕していた人たちが深山に追いやられてそういう生活をするようになったのかもしれない(資料不足のため断定できない)という説があった。

 暑い。蒸し暑い。虫が鳴くのはいいことだが暑いのでたまらん。この先ベトナムに突入すると、中国にもどってシーサンパンナから北上するまでこれくらいの温度帯で推移することになる。やっぱ無理だ。蒙自までもどれば最低気温が20度前後、すくなくとも25度以下になり、寝苦しいこともない。この先数ヶ月とか数年とか暮すわけではないのだから、そこまでがんばって暑いのに適応する必要もない。ディエンビエンフーまで行くのはやめ明日国境越えたらすこし見てまわってもどり、蒙自まで行くことにする。


2011/06/14 火

 今日は河口まで行くのを目標にする。
 最近マンゴーを毎日食うようにしたら、確実に体調がよくなってきた。湿気た気候のせいかもしれんがよくわからん。

 河口まで来た。蒸し暑い。馬関→河口は30分おきで最終13:30。河口に夕方すこし前についたので、国境こえてしまってもよかったが、時間的に微妙なのでやめた。バスターミナルの裏口のあたりにあった宿20元。20元で期待してなかったが、お湯のでるシャワーがある。
 しかしとにかく蒸し暑い。河口にもうすこしいようという気にならない。ベトナムも同じ暑さだろうからこのまま国境越えてまたすぐもどってきて昆明方面にまっすぐ戻ってもよいくらい。
 街の中にいたおばちゃんの両替に値段だけ聞いたら1元3150ドンと悪くなかった。ディエンビエンフー行くくらいなら300元くらい替えておけば十分だろう。

 河口で店に入るとなんかしらんニコニコしていてあんまり中国らしくない。外国のようだ。国境だからか。

 河口県志(河口ヤオ族自治県志)を読むと、馬援が昆明方面からハノイまでの道を開いたが、そのときは河口を経由したとある。天保国境がメインになったのは宋以降か?
 河口の市街地を形成したのは黒旗軍が駐留してからとある。
 日本軍がベトナムに進駐したとき、河口の対岸まで駐屯していたが、中国側は線路を破壊して河口を孤立させる作戦にでたという。日本軍がフランス軍を襲撃したとき、河口に駐屯していた国民党軍は日本軍に襲撃されたと勘違いし、逃げたと書いてある。結局日本軍はここを越えて雲南に攻めこまなかったようだ。
 ここのヤオ族は乾隆嘉慶のころに湖南から広東広西と経てここまで移動してきたという。一番古いのはタイ族で紅河の洪水につきあいきれなくなって西へ移動し、その次に荘族が来たということらしい。ヤオ族は山の中で暮すので、そういう農耕系とは住みわけでき、結局人口で一番多くなったということか。その他の農耕をする民族は荘族漢族の地主の元で小作人として暮していたらしい。

 北京で久々に炸裂した麻生太郎「文化担当特使」に民主党外交は学べ  | 現代ビジネス
 今さら何言ってんだ。おまえらには民主党がお似合いだ。贅沢言うな。


2011/06/13 月

 奠邊府(ディエンビエンフー)
 どうせベトナム入るなら、タインホアまで足のばすのもいいかも。しかし暑そうだな。

 文山から麻栗坡を経て天保国境のある船頭へ。文山→麻栗坡 バス22+1元。麻栗坡→船頭 乗合ワゴン15元。行ったがやっぱり日本人は通れないといわれたのでそのまま麻栗坡にもどってきた。そこから河口まで行こうかとおもったが、まず馬関に行くバスが朝しかない。とりあえず近くの宿に泊まった。30元。表の方にいったら他にも宿があったが、川沿いに中の方へいったところにあった宿にした。
 今からおもうと文山と朝栗坡の間に興街というところがあり、そこが乗り換えターミナルになっていて、馬関の方へ行くバスもあったようにおもう。文山まで行くのはアホらしいとおもったからやめたが、興街を経由したら難なく行けたか。
 そういうと麻栗坡までいくバスに途中からバックパック系のリュックかついだ中国人がのりこんできていたが、麻栗坡の手前の身分証チェックのとき、日本人だとわかると英語でペラペラ話しかけてきた。どうも英語が使いたくてたまらなかったらしい。有名な蘭のコレクター(自称)で、このあたりは蘭の宝庫だそうだ。まぁ霧がかかるくらい湿気たところは中国にはあんまりないだろう。あと、漢字の発音について中国語のtが日本とベトナムではdになるとか上海あたりの発音が日本に渡ったんだろうとかうれしそうに話していたが、それについて中古漢語がどうこうという話をしてもよくわかっていないようだった。まぁマニアだけに思いこみがはげしいんだろう。
 天気が悪いせいか、あんまり気温も上がらずそれなりに気持ちよく過ごせる。これは地形のせいか雨季のせいか?

 ちょっと昼寝してから、夕方出歩いて「大王岩壁画」の入口をみつける。集落の外れの山の上にあるというのが神社っぽく、階段がまっすぐ上にのびているあたりも神社っぽい感じだった。しかもこのあたりは湿気ているので、山の中に植物がいっぱい生えていてますます日本の山の中をおもいおこさせる。
 しかし階段の側に下から上までゴミがいっぱい落ちたままになっているところだけは中国ぽかった。
 肝心の壁画だが、あんまり残っていないようにみえた。


2011/06/12 日

 朝のニュースで静岡のお茶のことやってる。

 そういえば震災があったときも雲南省に来てたな。なんか不思議な気分になった。

 昆明は出て文山まできてみた。昆明から途中までは河口行きとおなじなので、昔通ったことがある。ちゃんとおぼえていた。
 途中から西に向かうが、ゆるい谷をこえると平らなところが広がる。南の紅河方面とはえらい違いだ。しかしここまでくると暑い。
 文山の街は周りに低いけどとんがった山がならんでいて、なにか居心地がよい。街の空気ものんびりしている。旧市街の商店街がすこしのこっているが、他のところとちがって二階部分も生きている。生きているが、都市計画に沿ってバリバリ壊されているようだ。もったいない。まぁ州の中心だから共産党の都市計画の魔の手はのがれられないということだろう。
 着いたのは文山の中心にあるバスターミナルだが、これから南方面に行くので、城南バスターミナルに移動してその辺の宿でとまった。20元。昆明の宿もベッドが二人分で相当広かったがここも広い。しかしシャワーがない。まぁいいや。
 おばあさんとかが少数民族的服を着て歩いている。しかしそのへんの店員に美人が多すぎる。
 農民姿で歩いた文山~雲南をゆく1990 (8) (雲南省) - フォートラベル
 これなんか見ると20年くらいまえは若者も少数民族的服装をしていたことがわかる。
 明日は河口との間にある馬関に行く。今日も明日もただの移動だな。

 宮脇千絵「民族衣装の既製服化」
 これみるとやっぱり既製服であるらしい。しかも昔は麻でつくっていたらしい。昆明の民族博物館には糸車とかはあったが、植物から繊維を取る器具の展示はなかった。日本の山奥の民俗資料館なんかにいくと、麻を蒸して繊維をとりやすくする装置が展示してあることがある。工程的にはおなじとおもうので、そういう装置の展示どっかにないかな。まぁないだろうとおもうけど。

 文山県の西の方に天保口岸(天保国境)があるらしい。日本人が通れるという情報がないが行ってみるか。
 天保口岸_百度百科
 これによると、その天保国境が古来ハノイへの通り道だったということになっている。
 探访中越边境:天保口岸_08图游天下_大渝网_腾讯网
 しかも交通の大道であったので、中越国境紛争の主戦場となり、国境の往来が阻害されたとある。しかし友誼関の方が大きかったんじゃないかという気もするが、たぶん雲南方面から下る道はここがメインだったという意味なんだろう。
 小青山というのがベトナム側にあり、それがこのあたりのピークになっていて、ベトナムの側から大砲を撃ちこみ放題だったという。で、一番近い高地を一週間守って戦死した人がいて、のちにその高地にその人の名前がつけられているとか。今行くとヤバいかもしれんなwww

 DPZ:新しい大阪駅がスゴすぎてゲームのよう
 京都駅のマネやんけ


2011/06/11 土

 朝からCCTV6で「綏遠之光」という映画やっている。

 昆明市公交车站点【菊花村】,图吧昆明市公交点地图
 こんな便利なものがあるとは... 今ごろ知ってもなぁ。→ 実際にはない路線もあって使えない。

 李宗仁らの広西派の残党の鐘祖培が解放後反乱をおこして鎮圧されているが桂林の近くか。まぁしかし北伐で功績があったのに昇進されなかったからスネて田舎に帰っておいて解放後になって反乱するとはまた目のない人だ。

 昆明近郊の呉貢まで行ってきた。まぁなんということないところだった。すこし古い町並みがのこっていた。ついでに民族大学の方向に行ったが特におもしろいものもなかった。しかしものすごくでかい大学の街を建設しているということはわかる。日本の大学なんか村にみえるくらいでかい。午後は例によって雨。雨季か。

 正直言ってあんまり動きたくないなぁ。ディエンビエンフーまで行くのはやめて、国境越えてくるだけにするかなぁ。
 もっというと、これから8月まであんまり動きたくないなぁ。雨季の雲南から満州に一気に行ってどっかでじっとするかなぁ。
 いかんな。雨のせいか。ここに10日もいるのに。

 亮剣おもしろいなぁ。

 私が知っているリビア

 Japan tsunami and earthquake: Pictures of recovery 3 months later | Mail Online

 民族博物館には彝文字による前漢代の王のハンコなるものがあったが、ロロ文字 - Wikipedia によると15世紀ごろからということになっている。あのハンコは何だ? まぁ「中華民族」のたてまえのためにだれかが偽造した、もしくは無理にこじつけたということなんだろうか。
 凉山イ族の奴隷制度
 をみると、黒イと白イの下に漢人奴隷がいたらしい。白イが奴隷かとおもっていたが、これを見るかぎりでは中共が勝手に奴隷としただけで、どっちかというと武士と百姓みたいな関係だったんだろう。そういう社会関係を無視して、ウンコ発展段階論を適当にあてためたために奴隷の下に奴隷がいるという謎の構造になっているんだろう。そして中国の少数民族のことだけに誰もその辺を検討しないからそのままになっていると。漢人奴隷だけは本物の奴隷だな。さらって来てるというんだから。

 ラオカイにATMがあるのかという事を調べるためにネット上の旅日記を探していたら、たまたまインドのクトゥブミナールを見にいったという記事をみつけたが、今は250ルピーもとられるのか。高いなぁ。


2011/06/10 金

 気象庁 | 平成23年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
 今年の梅雨は短いそうで。しかも東北南部はまだ梅雨に入っていない。福島の原発がチェルノブイリと大きく違うところは雨が多いところだろうが、梅雨がみじかいと減る量も少ない。

 中国に入ってから今までの旅カレンダーを書いてみた。旅カレンダーというのは月は無視して週毎に日を書き、日の下に行ったところ、日の間に泊まったところを書いてみて、どういう移動をしたか一目でわかるようにしたもので、今まではしつこくつくっていたけど、今回紙の日記を書いていないので書いていなかった。だいたいネットで晒している日記は細かいことまで書かないので後からみてどうだったかわからなくなることもある。そういう意味では毎日紙でその日のことを思いだせるだけ思いだして書きだしているほうがあとからみておもいだせるし体調が悪くなったときの原因を特定しやすい。だいたいメシとか無理がそのままストレートに体調に反映しているもんだ。
 それはそれとして、旅カレンダーと日記はまた別で、日記を書く脇で旅カレンダーを書くと把握しやすくなる。だいたい激しく移動しているときは近視眼になりがちで、どんどん移動しようとする。もう37なのでそれやっているとすぐ体調がわるくなるようになってきたのはあきらかで、今回も台児荘微山島と動きまわったあたりで体調が崩れている。その後はそんなに激しく移動していないが、昆明まで来たあたりでまたすこし風邪みたいになった。もっとも昆明を素通りして西に行ったほうがよかったかもしれない。そもそも本を読むとかいう目的は全然達成できていない。口だけの目的は早々に放棄するべきだったか。
 そういう意味ではUSB棒が使えなくなるベトナムとかラオスに行ってしばらくネット断ちするのも手かもしれないが、蒸し暑いんよな。まぁ平野部まで降りなければそこまで暑くないにしても暑いのは暑い。

 鉄道博物館に行ってみたら、6/6からしばらく閉館とのこと。別館の車両館は開いているということで行ってみた。事前にネットで行った人の記録をみていて別館に日本の機関車があるのは知っていたので、まぁそれだけみれたらよかった。大陸で使うために1000mゲージに改造して華北鉄道華中鉄道に送ったという話だから、鉄道遊撃隊が襲っていたのもこの機関車なのだろう。わりと機関室狭かった。
 ミシェランの機関車があるということだったので見てみたが、本当に車輪がゴムでできていた。しかも運転室や客席の出来がかなりよい。フランス人1920年代にこんなもん作ってたのか...
 他の客車は木製の硬いものばかりで、まぁ二等三等車両だったんだろう。ミャンマーで走っていた車両が2004年にここに寄贈されたというので展示してある。ドイツ製の旅行車両とかいうのはすこしよい出来だったがやはり木造席だ。まぁしかしこういう木造の席の車両ってすぐ横のベトナムに行ったら今でも走っているんだが。しかももともとこの鉄道博物館のある昆明北駅はもともとフランスがハノイ昆明間に敷設した線路の一部だ。

 その後バスにのって西の果てにある海源寺まで行ってみたけど雨が激しく降ってきたので行かず雨がやむまでバスに乗りつづけた。

 「太行山上」という映画やってる。平型関の戦いやってるが、八路軍が日本の正規軍とすごい戦闘をやっている。 ....史実的には後方の軽装備で少数の輜重部隊を襲って局地的な戦闘で勝ったかたちにしたはずなんだが。しかも国民党が助けてくれないみたいな話になってるし。なにがなんだか。
 板垣師団を殲滅したことになっているwww
 しかも日本の戦略がフビライに倣って山西四川と進むことになっていて、平型関の勝利がそれを抑えたことになっている。日本にそんな戦略があったら北京から戦争しかけてこないだろ。
 さらに国民党側の守っていた娘子関がおちたから共産党の活躍も無駄になったみたいな話になっている。ひどいなぁ。カゲでコソコソする程度の兵力しかないくせに。
 まぁ共産党が人の功績をとって自分のものとするのはあたりまえのことだからしかたあるまい。抗日とか口先で煽りながら実は根拠地作るのに一生懸命だったなんて本当の事は言えんよな。
 あと薄一波が全然無名の人のふりして無駄にでてくる。

 中国ビザの期限は12/3なので11月まで。あと6,7,8,9,10,11と5ヶ月半。ここからカシュガルまで行きキルギスにいってタジキスタンも行ってとすると7月なんかすぐ潰れるから該方面に行くとしてもタジキスタンまでは行けない。となると、ほとんどビザの90日期限の更新のために行くだけになる。たしかに7月8月、キルギスタジキスタンの山岳部に行くには絶好の季節だが、8月後半に内蒙古に行く話があるのでそんなに日数を使えない。そして9月はパキスタンだ。やはり、中央アジア方面には冬に行くしかないんだろう。そもそも前回中央アジアに行ったときは真冬の一番寒い時期に行った。そういう運命だとおもうことにする。
 まぁパキスタンの後はビザを使い切るまでカシュガルに居るというのがいいだろう。そしてカザフからキルギスとか行ってみるか。しかしそれ前行ったルートの逆ルートだな...まぁそのとき考えよう。カシュガルに二ヶ月ほどいたらなにか思いつくだろう。
 ではこれからどうするかだが。やはり暑いのを我慢してすこしベトナム・ラオスに行くのがよかろう。そして戻ってきて北上してチベット文化圏を通って成都。その後寧夏陝西山西ときて満洲入りかな。

 あ、いや、10月すぎるとパスポートの残存期間が6ヶ月切るんだった.....
 海外でパスポートを新しく作ることができるらしい。


2011/06/09 木

 うーむ今日も暑い。

 今日はネットでブラブラしていたらそれだけで時間が過ぎた。一応昼飯を食いに外にでたとき、ついでに周辺で気になっていた小さな道にはいったらそこは工場の敷地で、職員向け食堂があった。安そうだったので夕方行ってたべてみたらなかなかよかった。

 CCTV14(少児)の子供向け番組で集英社学習漫画ベートーベン(中国語版)をそのまま紹介して番組内のコーナーにしているのがあった。ほとんど本の宣伝のようだった。

 中国の海軍が沖縄越えて公海上で海軍大演習をやったということでうれしそうです。

 右目のあたりに鈍痛がある。というか昆明に来てから風邪のような感じになって以来漠然と痛かったが右目のあたりに集中しているような気がする。鈍痛だけにスッキリしない。まぁ歯のへんも鈍痛なので神経系の関係で右目のそのあたりまで過敏になっているんじゃないかとおもうが。


2011/06/08 水

 今ちょうど高考で、ニュースも高考のことだらけ。

 もうそろそろ東北も梅雨に入る。どんだけ放射線量が減るんだろう。

 余命3年か?日本共産党が危ない  JBpress
 政治不信の果ての恐ろしさ JAPANなニュース - goo ニュース

 最近はsshプロキシのために Firefox ばかりつかっていたが、Chromium もsocksプロキシに対応したとのことなので、ためしてみたら設定はコマンドラインからオプションを指定。(Linux版)。でも一応つかえた。sshプロキシを立てるのもコマンドラインでやってるので見るときにはそれでちょうどいいということだろうか。Firefox前よりは軽くなったけど使っているあいだにやっぱり重くなってくる。Chromiumはやっぱり軽いなぁ。

 ベトナムルートはよくよく考えると暑いからダメだ。

 「血染的风采」って80年代の中越国境紛争の小競り合いで負傷した兵の歌らしい。

 ちょっと雲南省博物館に行ってみたら、ここも無料になっていた。前来たときと二階の展示は変わってなかったが、3階が変わっていて、民俗展示になっていた。といっても昨日民族博物館に行ってきたところで、似たような展示があっちにもあったので、そんなに見るものもなかった。ただモノはこっちの方がいいものがそろっているかな。あと、展示方法が相当最新式になっていた。2階の展示は滇国の青銅器の展示だったが今改めて見ると北方騎馬民族がここまで攻めてきた、みたいな感じにみえなくもない。まぁしかしここは、青銅器のフタの上にかなり生活の様子をあらわした人形群がのったものがたくさんのこっているので、かなり昔の生活の様子がわかる。二回目だから写真はいいかとおもって一枚もとってないけど前回も飽きてきてあんまり撮ってなかったような気もする。
 一階にたぶん共産党建党90周年連動企画とおもわれる企画展示があった。勲章とか賞状が並べてあっておもしろかったので全部写真にとってきた。初期の勲章は学校の工作の時間に作ったような手作り臭の漂うものだったがだんだん立派になってくる。意外におもったのが、北朝鮮からもらった朝鮮戦争の勲章がやたらきれいにのこっていることだ。角の立ち方もはっきりしている。昔日本だっただけでここまで違うのか。中国の勲章自体もその後どんどんよくなってくるが、それは経年劣化していないからかもしれない。

 昆明に来てからの風邪みたいな賞状は軽くなってきた気がするが、やたら疲れが出ていて眠い。今日も博物館から帰ってきたら寝てた。

 CCTV14(少児)で小学生参加番組みたいのがあったがそれに中国の「まいんちゃん」みたいなのが参加していてズルイとおもった。まぁしかし中国だからにしても、みんな小学生のわりに堂々としてるなぁ。
 7月1日の特番「妈妈教我一支歌」のCMが流れているが、紅歌をやる番組らしい。

 今、福島で何が起きている?何故起きたのか? これからどうなる? : 失敗学会
 復興への道のり : 失敗学会
 こんなのあるのに今まで気づかんかった。

 沧州:武术进学校实现市区全覆盖
 滄州で武術というとあれですな。

 元寮生が山東省で学校の先生してるな。


2011/06/07 火

 共同購入みたいな形で蠍を買い、実際には農家に養殖させ毒の採取もやってもらって蠍の毒を手にいれるというのがあるらしい。テレビのCMでやってた。
 蠍の次は百足か。

 民族博物館。
 駅からバスで一本でいける。一元。一階と二階部分があり、一階部分の展示は最近改装したとこらしく、やたらきれいで展示方法もガラスを多用してみやすくしていた。雲南には26の民族がいるという。しかし部門別一列横並び式で、一つ一つの民族がどうかということには重点が置かれていなかった。たとえば衣服のコーナーだと服がずらりとならび、宗教の服になると宗教者の服がずらりとならび、飾り物だと飾り物がずらりとならんでいた。まぁかなり似ているのは事実だが、物を並べているだけだった。ただこの方式でおもしろかったのは、いわゆる民族衣装以前の木の皮から作った布とかそういうのが最初に来ていることだった。この辺の少数民族の衣装はどうみても満州族の旗服のデザインをとりいれているので、その前がどうなのかというのは気になるところだ。もっとも漢代の銅鼓の上の飾りで布を織っているものがあり、それとおなじスタイルで今でも織っている人達がいるから、木の皮みたいなのを着ていた時代はそんなに長くないのかもしれない。
 文献を並べているところがあったが、どうみても漢族の占いとか風水とかの本にしかみえないものが少数民族の宗教の本みたいにして並べてあった。これは故意なのか。あと中庭みたいにしてあるのはいいが、そこにも古い本の実物を並べている。直接日光が入るところに古い本を並べてしまう神経がわからない。(ので改善要求しといた)
 あとは砂糖キビ搾り機とか油搾り機とかか。
 なぜか徐州の漢代の画像石の拓本なんかがならべてあるのが不思議だった。中華民族として覚えとけということだろうか。
 それはいいとして漢のころの堂琅王の銅印というのがあったが、イ族の文字というのが使われていた。本物なんだろうか。すごいな。
 しかし今デジカメで撮った写真をみなおしていると、どうもあんまりやる気がなかったらしく、全体にボケ気味で細かい字がよく読めない。しかも膨大だなぁとおもっていたものも、今ファイルをパラパラとみているとそんなに多くない。写真はとりすぎても結局整理できず死蔵してしまうが、かといってそんなに頭が上等ではないので撮らないと残らない。うーむ。

 歯が痛い。今度は右の門歯だ。棗荘のあたりから痛くなったのは左下だが、はれたりしたけど結局膿が左下の歯茎から出て収束した。しかし門歯の右は前から抜けてもおかしくないような状態で推移しており、若干歯がのびてきたことから歯がそろそろ抜けるかもしれないとはおもっていた。しかしこんなに急に痛くなるとは。昆明に来てから微妙に風邪をひいていて頭が痛かったがこれは右門歯のせいかもしれん。

 中国ベトナム国境は河口-ラオカイだが、ラオカイからディエンビエンフーまで直通のバスがあるらしい。ディエンビエンフーからラオス国境はすぐそこらしい。うーむ。昆明から河口まで一気に行くバスがあり7時間くらいで行けるらしいので行こうとおもえばすぐだな。普通に楚雄大理と行くか、ベトナムラオスまわってみてからまた中国にもどって勐海から大理の茶馬古道コースで北上するか。


2011/06/06 月

 うーむ。こいつら日本のアニメは流さないくせにアメリカのアニメはじゃんじゃん流すんだな。

 サマータイム 企業などが導入 NHK
 東京都庁 サマータイムを導入 NHK
 それサマータイムって言っていいの?日本でのやり方としてはそれでいいとおもうが。
 昔の朝廷みたいに日の登るころから働くことにしたら午後の時間なんかいっぱいできるとおもう。

 雲南も雲南モンロー主義とか唱えていたのか。そりゃ中国のサイトだけみていたらでてくるわけないな。

 国际大营救、なぜか共産党がでてきて、あたりまえだが一番いい役まわりだ。

GDPが香港を超越~中国一裕福な街:エクスプロア上海

 昆明から先、楚雄大理麗江とよくあるルートを通ってから雲南のチベットエリアに突入し、四川のチベットエリアに行って成都にもどろうかなとおもってたけど、そのままチベット自治区に突入してもいいかなとおもってきた。
 まぁベトナムに一回行ってラオスに抜けてまた中国に戻ってくるというルートもいいけど雨季はあんまり。そもそもラオス国境と昆明の間は今年一回行っている。しかしどこでビザの3ヶ月期限をリセットするかという問題がある。少し早いといえば早い。

 我的兄弟叫顺溜という抗日ドラマがあるがこれは八路軍ではなく、新四軍を題材にあつかっている。新四軍は共産党の江南進出部隊で、国民党の地盤を荒しにいくのが主目的だが、このドラマでは他の抗日ドラマの八路軍とおなじように皇協軍+日本軍の組み合わせと戦っていて、日本軍と戦う為の部隊だとか言ってた。この先国民党と戦ったりすることあるんだろうか。


2011/06/05 日

 奇幻龙宝というアニメを見るともなく流していたらいきなり実物のジャッキーチェンがでてきてアニメをみているお子ちゃま向けに「正義は勝つ」とかほざいていた。どういうことなのかみていると、そもそもこのアニメの主人公が成龙...つまりジャッキーチェンだということらしい。しかもこれ舞台が封神演義で紂王とか聞太師とかでてくる。

 今日とりあえず昆明駅に行ってバス停でバスの行き先をみていたら、官渡古鎮というのがあったので行ってみた。古鎮と名前があるのであんまり期待せずに行ったらその期待にたがわず中華テーマパークになっていた。しかしここは1987年に古鎮に指定されているらしいからそのころはいい感じにボロい町並であったんだろう。
 町の真ん中に古そうなパゴダがあった。なにか字が書いてあったような四角い窪みがあるが何があったんだろうか。その横にある寺の名前が「官渡少林寺」と名前が変っていた。ほかの「古寺」にも少林寺の手がのびているようだった。

 端午節ということであちこち人出が多いが粽子売ってるのはそのためなんだろうか。

 解放大西南というドラマをみていたら、毛沢東は画面に出てこず裏から指令を出し、周恩来が実際の指揮を取っているような感じになっている。
 どうも昆明が真っ先に裏切ったので蒋介石の戦略が崩壊し、蒋介石も台湾に逃げるしかなくなったということらしい。
 で、そのとき昆明で裏切った盧漢について百度百科でみたら、もともと昭通の彝族で龍雲とつるんでいたが事業に失敗し四川へ出奔してブラブラしていたが、辛亥革命で四川に来た雲南軍に入り、軍閥人生が始まったらしい。唐継堯が雲南のボスだったが、孫文がソ連とつるむと言いだしたのに反対していたのを龍雲らが造反して追いだし、それから龍雲が雲南軍閥のボスとして長期にわたって雲南を治めた。しかし抗日戦争勝利後、蒋介石によって龍雲の追いおとしがおこなわれ、部下だった盧漢が代りに雲南のボスになった。で、内戦で共産党が国民党側を押している間に拘留されてた龍雲が逃げだし、雲南起義(裏切り)を宣言。蒋介石の大西南戦略に支障があるのでいろいろ懐柔したけど結局盧漢が裏切って蒋介石は四川の成都から逃げだすことになったと。
 まぁしかし淮海会戦で蒋介石直系の精鋭のかなりが潰されてしまったからその時点で蒋介石の負けは確定していたんだろう。で、敵だったこともある広西軍閥や雲南軍閥に頼るようになるしかなかった時点で戦略は破綻していたんだろう。
 最後に四川に残った胡宗南が海南島に行った間に残された四川の部隊も起義してしまい、胡宗南がもどって西昌でがんばっていたがここも1950年3月に包囲されて胡宗南が台湾へ逃亡し、陥落したそうだ。

 このドラマの中で、蒋介石が教会でキリストにむかって大陸から追いだされたことを悲しんでいるけど蒋介石ってそういう扱いなのか。


2011/06/04 土

 民主党:田中元外相 菅政権の指導力発揮「無理」 - 毎日jp
 単純にスタッフ不足だろ。

 化学者が「福島原発の汚染水を浄化できる粉末を開発」 - jp.WSJ.com

 朝からCCTV小児チャンネルでアメリカの3Dアニメやってるけどおもしろい。赛车总动员というタイトルだが、レースカー(主人公)が移動中にトレーラーから落とされてルート66に迷いこみ西部の田舎で困らされるという内容でどローカルな感じがいい。
 Cars(2006)だそうだ。

 今日は「蒋介石とモスクワの恩恩怨怨」を読んでしまおうとおもうけどなかなか辛い。まだまだかかる。ノートなんか取りながら読むせいだ。

 茶番が終わっての戦評 : 切込隊長

 復興基本法案成立へ、自公の主張ほぼ「丸のみ」 : 読売新聞

 千度以上示す核物質、3月12日に検出していた : 読売新聞
 隠したと言わずして何と言おう。

 馅は中身という意味でよく使われてますね。

 蒋介石が孫文の代理でモスクワを訪問したときの蒋介石とコミンテルンのモンゴルに対する意見の相違が書いてあった。コミンテルンがモンゴル人は独立したがっているとかモンゴル人は中国人を恐れていると言うのに対し、蒋介石が中国はモンゴル人の主人だから恐れる必要はない、ソ連の軍隊がいるからそう言うのだと主張したらしい。

 国民党って共産党にソ連が肩入れしないという条件で一度はモンゴルの独立を認めてるのか。違約したから無効ということでモンゴルは中華民国の領土と主張しつづけたということか。


2011/06/03 金

 手とり足とり「敵」を育て上げて日本半導体は自滅した : JBpress

 前も書いたけど自民党は震災で協力を申しこまれたのをいいことに政権にもぐりこんで政権をのっとるべきだった。政治でもなんでも技術はやることによって向上する。野党で文句ばっかりつけてると文句の達人(つまり人間のクズ)になってしまう。

 今日とりあえず省図書館に行ってみたら午前中は「政治学習」でやってないとのこと。バス停でバスの行き先を眺めていると滇池の方に行くバスがあったので乗ってみたらその終点にあった公園は入園料20元もとるところだったのであきらめて「西站」に行ってみた。なにかバスターミナルがあるのかとおもったけどこういう昆明各方面のバスターミナルはさらに郊外へ移転してしまった後のようで、その郊外のバスターミナルに行くバスしか出てなかった。しかしその近くに市場があり、その近くに宿と飯屋があった。ここの方が東站の近くの菊花村よりいいかもしれない。宿は包月歓迎と書いてあったので長期滞在しやすそうだった。あと市場があるおかげでバスターミナルが移転した後も流動人口が減っていないのか、もともと市場の流動人口が目当てだったのか、なかなか栄えていた。
 この西バスターミナル跡らしきところに滇緬公路ゼロキロ点の記念碑があった。1937年から一年で作ったというから相当なもんだが、こんなとこまでそれをふさぎにきた日本軍も相当なもんだが無駄なことをしたもんだ。

 その後省図書館に行ったが、いい植物図鑑はなかった。北京でとれる薬用植物の図鑑はあった。あと、写真ではなくペン画であらわした図鑑はあったが詳細かつ大部でとても全部見れるものではなかった。湖北省だけのペン画の図鑑があったがそれらしいものはみつからなかった。あきらめて外国語図書室にいってみたら日本語コーナーがあった。なぜか北朝鮮出版のチョソン史みたいなのがあった。パラパラとみただけだが、高麗の時代に北部の女真族を追いだして新しく役所を設置したと誇らしげに書いてある。他のところには侵略を受けた受けたとしきりに書いてあるがそういうのは気にしないんだろう。

 そういうと朝図書館をあきらめてブラブラしていたとき、近くの科技館の外にガラスケースの展示があり、雲南の撫仙湖の底にメソポタミア文明より古い文明の痕跡があるとかうれしそうに書いてた。スメル語のことを古中国語と書いていたりしておもしろかった。

 その後抗戦勝利紀念堂というのをみつけた。中には入れなかったが、その前に塔があり、地下に愛国教育展示があってその中で小学生が愛国教育を受けていた。こっそり入って一通りみた。しかし雲南の抗戦勝利紀念堂というからには国民党が作ったものだろう。なぜだろうとおもっていたが、その塔自体は雲南人民英雄紀念碑で、1995年につくったものらしい。
 近くに旧市街があった。今まで何回か昆明には来ているのにこういう中心地に来てなかったので気付かなかった。

 あと不思議だったのは、昆明の人民中路は1998年に戦前(1935)からの武成路という名前から変更したらしい。なんでわざわざ。

 昆明植物園あるやんけ


2011/06/02 木

 今日は昆明に行ってしばらく停留するか。とおもったけど雨降ってるな。

 誰も伝えない被災地の「マスコミ不信」:JBpress

 菅が第2次補正予算通さないまま国会を閉じようとしたので不信任案がでてきたということなら、会期延長となった今となってはいちおう目的は達成していることになる。

 中東TODAY: NO・1976「サウジアラビア政府の苦しい決定」

 雨やんだので昆明に来てみた。せっかく北バスターミナルに来てみたのに周りに宿がなく、またユースホステルのある小西門あたりに行くバスもなく、とりあえず菊花村に行って奥の方のこじんまりした宿20元。
 その後外に出たらはげしく雨。そこから動けず、やんでから市図書館に行ってみた。河南のあたりから四川まででよくみた豆の正体を知りたかったが植物図鑑がなかった。うーむ。

 自民党は結局民主党内の派閥争いにいいようにつかわれただけ

 省図書館がユースホステルの近くにあるらしい。うーむ。


2011/06/01 水

 房総半島で方位磁石の南北が逆転する怪奇現象“磁気異常”が多発:カラパイア

 百度地図がAPI公開してたので例によって全画面地図をつくった。google地図で中国鯖を使用するようにしたものも作ってたけどこれよりも使われている地図がいい。まぁgoogle地図よりyahoo地図(日本)の方が細かい地図がよいようなもんなんだろう。捜狗地図も百度地図と地図のよさでは同じくらいだが、APIがない。

 民主・川内博史衆院科技委員長インタビュー:時事ドットコム

 会泽もこじんまりしていいところなのでもうすこしダラダラして成都で買った本を読破して古本屋に売りつけたいところだが、四川南部からこの辺まで部屋にシャワーなしでも共同シャワーつかえるのに、今の宿はシャワーないし宿替えするの面倒だし移動することにする。昆明か曲靖か。まぁ曲靖にいくか。

 曲靖、バスターミナルと駅のすぐ近くに宿がなかった(ちょっと離れたところにある)ので荷物をもったまま南門のところまでバスで行ってみた。すると南門の近くにボロい宿街があったので適当に泊まる。20元。しかしシャワーなし。むむむ。
 「段氏与三十七部会盟碑」「爨宝子碑」を見にいったけどそれがある中学の門で「看不到」とか言われて追いかえされた。しかたないのでブラブラ歩いたら古い商店街があったのでこれはよかった。南門の宿は今の繁華街とその古い商店街とがすぐ近くなので結構よい。相場も安そうだし。

 今日はよくある手口を二つ見た。
 一つ目は札をごまかすやりかた。曲靖のバスターミナルの出口の飯屋で飯くって勘定したあと、ついでに豆乳を買うと、おやじが100元札をくずしてやるとか言いだした。で、200元出せとかいう。まぁ額を向こうが指定してくるのがおかしいのだが、おとなしくだしてみると、案の定10元ごまかしていた。で、普通にその場で数えなおして10元足りないことを示すと、おやじも数えだしたが、数えてる途中で札を持っている人差し指をこっそり動かしていた。でまぁとりあえず補充してくれたが、すこし離れてもう一度数えなおすと50元足りないwww まぁその場で言わなかったから無理かとおもいつつ50mと離れていなかったのですぐ戻ってみると、豆乳の箱の上に50元置いてあった。バレたのをみてすぐ置いたのだろう。まぁとりあえず返ってきたからよしとする。
 二つ目はスリだが道具を使っていた。古い商店街で日も暮れそうなころ、ウレウレのマンゴーを500g4元(1kg100円)で売っていたのでそのリヤカーに人がたかっていた。うまそうだったので袋をもらってマンゴー狩りをしていると、ポケットにひっかかる感触があるので見てみたらデカいピンセットみたいなものがつっこまれていた。むこうはしばらくしてばれたのに気付くとすぐひっこめたが、こういうときおもしろいのは、ばれたのが明らかなのにそこにつっ立ったまま知らんぷりすることだ。しばらく見ていると、知らんぷりをしたまま去っていった。
 実は自貢でもバスの入口に殺到しているときにポケットに指をつっこまれている。気付いてポケットを押さえると、そのスリはしばらく知らんぷりをしていたが、「混んでるから次のバスに乗ろう」とかわざわざ言って去っていった。
 まぁサイフもパンパンでズボンから盛りあがっているのがよくわかるからついついスリもつっこみたくなるんだろう。しかしピチピチなので簡単には取れない。中国的にはスキを与える方が悪いので財布が見えるところに置かないようにすべきなのだがまぁいいや。

 重慶のチャンネルで「我们是共产主义接班人」という演し物をやっている。演員は全員子供で、中共らしい歌を歌ったりマスゲームみたいなのをやって共産党を称えたりしている。まぁ習近平後(つまり次世代の後)を狙った権力闘争の一環でこういうことをやらされているとおもうと中国の小中学生も大変だなぁとおもうけど、政治の奴隷たる中国人に生まれたからにはしかたのないことだ。

 会澤から曲靖へのバスは高速道路経由で、東川に若干入って東川を出たあとはだいたいなだらかな高原部となっていた。会澤と東川はそれぞれ険しい山で囲まれているが、そこをこえるとそこまできっちり地形的に別れていない高原部になるということだろう。東川は銅の産地で、会澤が栄えたのは東川の銅のおかげなので行ってみようかなとおもったけど行かなかった。曲靖行かずに東川行ってもよかったらよかったなと思っているが、これから行く気もない。


2011/05/31 火

 見事に雨。

 中国の畑は斜面をその傾きのまま利用していることが多いが雨が少ないところでないとできないことだ。日本の畑は平地でも湿気を防ぐために畝を作るくらいなので、棚をつくらず斜面のまま畑を作ると雨で流れたり崩れたりしてしまう。

 今月いっぱいUSBモバイル端子でネットしてみたけど結局容量制限にひっかからなかった。後半は地方誌なんかを気にせずダウンロードしまくってみたけど変わらない。実は無制限なんだろうか。もしくは一日映画を見まくるとかしないかぎり大丈夫なのだろうか。

 手持ちの二十四史のテキストデータが中国の文字コードのままなうえにファイルが壊れていたり最後まで無かったりしたので、雨のついでに新しく探してUTF8に変換した。そして熊本を検索した。

 今月は大まかにいって3000元くらいつかった。だいたい10日おきに1000元づつひきだしている。日本円でいうと37000円あまり。日本で生活するのよりも断然安い。これで旅行せず安いところにとどまると意外と高い移動費がなくなるのでもっと安くなる。

 中東TODAY: NO・1973「弁護士ムバーラク大統領の資産は1億ドル」
 中東TODAY: NO・1974「トルコ軍がシリア領内に安全地帯設定構想」

 磁力抵抗「ゼロ」の発電機 草津の男性が発明 : 京都新聞


2011/05/30 月

 シリンホトってどまんなかか。うーむ。

 ロシアもイギリスも垂れ流し、中国はチベットに | 川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」

 会泽红色文化展览馆。10元
 昨日行った時は遅かったので入れなかった。昨日なら休日価格で5元だったのに。
 入ったところの正面に毛沢東の絵が置いてあるようなところだった。とにかく毛沢東グッズがいっぱい置いてある。一応党員教育の場らしく、長征とか共産党の起義とか建国後の運動のものとかいろいろ置いてあっておもしろい。中でもおもしろいのが文革グッズで、毛沢東を中心に江青と林彪が囲み「热烈庆祝文化大革命胜利万岁」とか書いてある壁掛け絨毯とか当時発行された各種バッジとかが並べてあった。文革発動のころの文書や紅衛兵の腕章なんかまで現物がそのまま置いてある。世界革命と位置づけていることが伺えるものがあったり、下放の指示が書いてある鏡があったり。
 中共中央の指示文書で、解放軍の武器をうばって指揮官を殺傷しろとか線路道路を破壊して旅客の財物を奪い危険に晒せとか、銀行商店を襲撃して国家の財産を奪えとか出してたことがあったというのがすごい。理屈としては革命組織に敵が潜りこんでいるからぶっつぶせということだが、蒋介石が国共分裂のときにやったような事を想定していたのかもしれない。
 軍人からの資料も多く、対越自衛反撃戦(中越戦争)関係も充実していた。雲南軍区も中越戦争に参加してたんだろう。あと珍しいものとしては解放軍の軍票があった。というかここの資料は軍人さんが中心に運営しているようにもみえる。
 一言も日本人と言ってないのになぜか日本人とバレていた。しかしここには抗日戦争関係の資料がまったくなかった。ここの人は文革世代で抗日戦争には興味ないんだろう。

 あと江西会館とかいろいろみたけどそんなにおもしろいものでもなかった。そういうものは解放後めしあげられて別の用途に使われていたのを最近になって観光資源として作りなおしていることが多く、江西会館は文物系の役所があったからそんなに破壊されていないので修復しやすかっただけで、ほかのもので修復しづらい状態のものは放置されている。

 午後は雨がパラパラ降ってきたので帰って寝てた。

 そういうと江西会館にあった石碑の文章が気になった。乾隆31年のもので関羽の廟に財神殿をたてたみたいな他愛もない内容だが、終始「神」と書いてある。財神のことだろといわれたらそれまでだが、神は衆妙の□□にして万物の□(結構破壊されてて読めない)とか冒頭から書いてあったので最初はキリスト教かなにかかとおもってしまった。

 暴雨蓝色预警なるものがこの雲南東北部一帯に出たらしい。明日も雨か。


2011/05/29 日

 大関だが、米軍地図をみると峰ではなくて谷の縁だった。峰は高くて険しすぎる。

 民国初期につくられた昭通志稿をみていると、地名のところに「初改土時人民漢少夷多故寨名大半夷語其後屡遭兵焚四境之人逃散死亡夷民則淘汰無幾今試問其寨名多有不知其処者」(改土帰流の頃(18世紀初)は漢人がすくなく少数民族が多かった。そのため寨名の大半は少数民族の言葉であった。その後兵難に何度もあい、あたりの人は逃亡するか死亡して少数民族は淘汰され殆どいなくなった。今になってその寨名の由来を尋ねてみても知らぬ者が多い。)とかサラリと書いてある。
 宋元明といちおう帰附していたけどしょっちゅう反乱していたしそもそも道も険しいので、中央から雲南方面へ行くときは昭通を通らず貴州を通ったとか。そこが雲南への主要街道になったのは改土帰流以後だとか。

 大関 → 昭通 ミニバス18元。大関のあたりはまだ険しい谷だったが、峠をこえるといきなり緩やかな丘がひろがる広い場所にでた。林もほとんどのこっていないくらいあちこち耕されまくっている。これは反対側もおなじで、昭通のあたりだけが平らな別天地になっている。なるほど独立しやすいはずだ。
 昭通自体はそんなに大きい町ではなかった。博物館は準備中でまだやってないのはわかっていたので、ザーっと歩いただけ。しかしこの町は古装街率が高すぎる。とおもったら「旧城改造開発指揮部」の看板がかかっているところをみつけた。やっぱり改造だと認識しているらしい。裏の方に若干改造されていない古い町がのこっていた。
 この町は回族率が高く、なかなか立派なモスクもあった。「漢族」とか書いた札をわざわざ出している飯屋があるくらい。
 馬車がアスファルトの上をあたりまえのように闊歩しているのが目についた。

 昭通 → 会澤(会沢、会泽) バス55元。
 宿20元。あとでグルっとまわったときにもっと安いところをみつけたけど移動する元気もない。ここは旧市街がかなり長い。そのおかげで、一応改造された古装街部分もあるけれど、全部はおよばず、裏の方はそのままのこっている。そしてそれなりに古い建物には「重点民居」のプレートをつけて保護するようにしてるようだ。かなりよい。
 さすがに毛主席がどうこうというような標語はのこっていない。痕跡が若干あったくらい。「毛主席語録」と書いたところがあったがその下にあったはずの標語部分は消えて違うことが書いてある。たぶんそれが残っているか残っていないかはどれだけその町が放置されているかという標識になる。今まで見たなかでたくさんあったのは建水だけ。富順には一部のこっていたがまぁここと同じ。まぁあるところにはあるんだろう。
 南が高く、北が低い斜面になっていて、南に新市街、その下に古い町のメインの通りがあり、一部古装街になっているが、それなりに古いままのところもある。その下(北)に古い町があり、道だけは石で舗装しなおしてあるが、建物の改造は少ない。その下は新しい大きな道で、それで町がおわっている。東西に長く伸びた形なので、結構歩くことになる。ここは昭通とちがって町の開発と古い物の保護のバランスがかなりよい。地級都市とかではないから開発目標みたいなのがないということか。もしくは単純に金がないのか。

 豆沙関で無理して関所やぶりまがいのことをしたとき、荷物を担いで登っていったのに、なぜかスタミナ不足を感じなかった。これは豆花飯ばかり食ったのが効いているのか、休憩のしかたがよいのか。今日も散々歩いたが、意外と元気だ。この一ヶ月でスタミナがついたと解釈してよいのか、食事に気をつければよいだけということなのか。

 中国の天気予報では今日から重慶方面を中心に天気が崩れるとのことで、雲南東北端のこのあたりもその影響を受けるとのことだったが、雨のあの字の気配もなかった。重慶方面、つまり長江上流で雨というのは、長江流域で続いている旱魃がなんとかなってほしいという中国気象局の願望が多分に含まれている予報だったんだろうか。

 うーむ。内蒙古も行けなくなったりして。


2011/05/28 土

 結局豆花飯ばっかり食ってる。暑いせいか。

 ディー・エヌ・エー南場さん「起業した頃」:日経ウーマン

 豆沙関(石門関)。
 宜賓から塩津まで鈍行で9元。塩津から豆沙まで乗合ワゴンで10元。川沿いに列車が走るが、絶壁の連続で人の住む余地もあまりない。畑も普通に段々畑。
 豆沙鎮は豆沙古鎮という名前がついていたので、改造済みだということはわかっていたが、ここのは改造というより新造だった。まぁ古鎮に期待してもしかたない。さっさと石門関の方に行くと五尺道風景区になっていて入るのに60元かかる。うううーむ。もう見るからに改造されたところなのにそんなに金を払わなければならないのか。すこし入ったが追いかえされたので、古道の方ではなく、岩山の上の方にのぼっていく階段を登ってみた。
 石門関、石門という名に恥じず、二つの大きな断崖絶壁が向いあってそそり立っており、その間に川がながれていて本当に人の通れる所がほとんどない。階段はその一方の断崖絶壁の縁にそって上へ上へとあるのだが、大文字山くらいの高さはあった。荷物を担いでのぼるのはつらかったが、まぁしかたなしにのぼっていくと、とりあえず一番高いところにたどりついた。ちなみに山自体はもっと高く、仰ぎ見るくらい高いところにあるのであんなところまではのぼれない。高いところから断崖絶壁の方へ水平に窪みが掘ってある。断崖絶壁の向こうからその窪みを通して水を通しているのだ。なんとか歩けるので歩いていった。
 まぁ歩いて向こうまでいっておしまいというだけの話だが、その後乗合ワゴンがなかなかこないので大関の方へ歩いていったが全然こない。向こうから来るのは来るのでそのうち来るはずだがこない。結局2時間くらい歩いてようやくつかまえ、大関まで行った。しかしもう遅かったので昭通まで行くバスがない。あるらしいがなかなか来ない。まだ暗くなる前だったので宿さがしして適当に泊まった。20元。

 富順とか宜賓のあたりに幼児を担ぐための竹籠がある。その籠は底が二段になっており、子供が座ったり立ったりできる。上はラッパ状に広がっていて、子供が真ん中におさまる。外から見ると下が細い。底が細く途中から広くなっているので、置くのには都合悪そうだが、物を担ぐという点では重心が高く保たれるのでよい。幼児のいる家庭に一つあったら便利だとおもう。

 大関の町は峰ぞいにあり、雲南の南東部の棚田で有名なあたりとおなじような風景になる。全体このあたりは谷が深くて険しいので峰沿いしか大きな町がつくれない。そのあたりも雲南南東部と似ている。

 携帯の写真に「ファインモード」というのがあったのでそれにしてみた。画像のファイルサイズが二倍くらいになったが、あんまり差がわからない。所詮携帯のカメラ、レンズの解像度自体に問題があり、ファインモードとやらにしても大差ないのかも。

 隣りの奴が抗日ドラマを大音量で流しっぱなしにしていてうるさい。


2011/05/27 金

 今日は宜宾にいく。

 原発集中の若狭湾、400年前に津波被害 :日本経済新聞
 若狭湾の津波 関電が調査検討 NHKニュース
 考古学的な証拠とかないのかな。

 宜宾(宜賓)まできた。暑い。
 宿は西バスターミナル近くの聚星旅館というのにした。20元。底値30元っぽいが、20元でみつかりそうな雰囲気がある。

 宜賓はもともと三江合流点にあったが、唐末の洪水で城が岷江の北に移り、さらに南宋末、モンゴルとの戦争に備えて東の山の上に移ったが、攻めおとされてまたもとの三江合流点に戻ったという。ということでその山まで行ってみたが、のこっているという城壁は最近「重建」したというものだった。もともとなにか土塁でもあったのかもしれないがこれではなにがなんだかよくわからない。だいたい当時の城壁は開封のような重要拠点をのぞいてほとんど土塁なので、磚あるいは石のようなもので積みあげてある城壁があるわけがない。その山にはもうひとつ古城門のあとというのがあったけど行ったがよくわからなかった。たしかに土塁のようなものがあるが山の一部となっている。なによりそこまで行く道で削られているのがなんとも。ここにも城門を新しく作るつもりだったんだろうか。
 東山には他に白塔というものがある。明代のものらしい。遠くからみる分にはよさげ。近づくと最近修復したらしい下手な浮き彫り...風にコンクリートを塗ったものがある。ちかくに東山寺というのがあった。「斎飯5元」と書いてあったので、食べてみたら漬物が山盛りで出てきた。ひさしぶりの野菜か。

 富順の虎頭城も石で積んである城壁がどれだけ南宋のころのものかはわからない。まぁしかし積んである石はみな四角く切り揃えてあってそこは日本とは違った。

 その後博物館とやらに行ってみたが、そもそもなかった。真武山の道教の建物の中にあったようで、昔はたぶんその建物をつかっていたのが、今は道教の活動を再開してその場所がないということかもしれない。柵があって半分閉まっているところがあったのでそこの番をしている人に聞いたらそもそも事務室がないとのことだった。
 そこも山の中であるきまわって疲れた。あとは町のなかを市バスでブラブラしてみたが、大観楼というのが中心にあったので降りてみた。宜賓市志の写真には大観楼の下の壁部分に「伟大的毛泽东思想万岁」と書いてあったようだが、さすがに今はなくなっていた。その近くに古い建物があったが下に店が入っていて入れない。その建物の隣のビルとの間の側に「宜賓商會」と書いてあったが、まぁこれは利用しすぎて公開できないということだろう。その南側の通りに古い町が若干保存されており、さらに南側には滇南館というのがあって、ここは整理されて公開されていたが中が古物商屋になっていた。自貢にも同じような扱いをうけている古廟があったので、このあたりの共産党のやりかたなんだろう。その通りは改造された古装街になっていた。北側は滇南館をはじめ、もともと並んでいた古い建物の壁を白くぬり、柱を赤く塗ってそれっぽくしたもの。南側には似たような装いのコンクリートの建物をたて、こっちにはカラオケ屋など夜系の怪しい業種が入っていた。古装街にするのはいいとして、そういうのを入れるのはどういうつもりなんだろう。

 富順には明らかに昔廟かなにかだった建物を違う用途に使い、今もそのままというところが何箇所かあったが、ここ宜賓には、なんか共産党が過ちをみとめてもとの道教の持ち主に返したところがあった。たぶん解放後いろいろあった中で死なず文革の後まで生きのこったか否かというところじゃなかろうか。いわゆる解放後に道教徒を殺したり、匪賊を殺したりしているのも市志に書いてある。

 宜賓も明末、南明が張献忠側から奪い返したときに大虐殺し、清の治下になったときには全然人が住んでなかったと書いてある。富順と記述や経緯がまるきり同じだ。

 ここも天然ガスが引いてあるらしく、シャワー浴び放題とかおっさんが言ってた。富順の宿も同じだった。富順はいちおう自貢市の範囲内だから、自貢の天然ガスが来ていてもおかしくないが、ここまで来ているのか。もしくは他にも天然ガス田があるのか。
 長江中下流は旱魃らしいが、ここは上流なので水も使い放題だ。しかし旱魃の原因である暑さはここも同じで、暑すぎる。まぁ昆明の高原まで行けばそんなに暑くなくなるのでもうすこしの辛抱だ。

 このあたり宋代には少数民族地区だったのだが、明末清初の混乱の中の大虐殺の後は移民が入ってきてほとんど少数民族がいなくなっている。南明による虐殺というのは少数民族を狙ったものだったのかもしれない。まぁもっとも成都からこの辺に入ってきたらあきらかに美人が増えてきたので、漢民族に同化された少数民族も多いのかもしれない。日本人からみて違和感のない美人は少数民族だという先入観が自分にはある。しかしいわゆる少数民族がみんなそうかといえばそうでもない。
 宜賓は雲南貴州方面に対する戦略的拠点であったようだ。

 打掉土霸有田分 - 红色摇篮というドラマのオープニングではこれを連呼している。大丈夫か。


2011/05/26 木

 虎頭城。
 富順の東のバスターミナルの前の乗合ワゴンで10元。一時間半くらい。
 大城郷の中でおろされたが、東の方に歩くとすぐ日本の中世の山城のような地形が見えた。それが虎頭城だった。しかしそのときはどこから取りついたらよいかわからず通りこし、川の方に下りかけて、その山塊の周りが崖らしいことを確認してから適当に近づいた。その方向から歩いて登れそうだったので、崖の下からテクテクあるいていくと石積みのあるところのてっぺんまで登れた。崖をみる限りではその方向から登るのは無理そうだったが、土の勾配からそのあたりに道がある気配がしたので草をかきわけつつも歩いていったらいけたわけだ。そのあたりは人民によってすこしの隙間も耕されており、その道らしきものも、畑のための道だった。城の中は平らなところがあったが、そこは耕されていた。しかも人が住んでいた。当時の構造物のあとらしき石積みにも人が住んでおり、近づくと犬が吠えてうるさかったり、おばはん連中がでてきて、城のことを聞くと向こうだとか言っていた。まぁ、城跡だとか言われて家をとりあげられるのがいやなんだろう。
 しかしここは、今の中国では珍しく放置されている城でなかなかよかった。人民が跡地を大いに活用しているのは中国だからしかたない。日本の中世の山城のように細長い台地状になっており、その両端が高くなっている。中間は窪地になっていて池があった。かなり立派な井戸が二個あったが当時からのものなのだろうか。しかしその下にも池のような跡があり、立派な石積みの凹みなどがあったので当時の水利施設は使えるところは使いよくわからないところは放置してあるのだろう。城壁と城門がのこっていた。城門はささやかなものだがアーチになっている。登った方の反対側の先端は見事な崖になっており、周囲を一望できた。
 まぁしかし富順県志によると明清代も砦としてつかわれ補修されていたそうだから、この城門や城壁も南宋の物ではないのかもしれない。まぁそれはそれとして、放置され具合がなかなかいい感じだった。残念ながらここが2009年に文物として再注目されたらしく城門の前に文物指定の石碑がたてられ、どっかのアホが2008年と2009年にどうでもいい石碑を城壁に埋めこんでいる。今後も放置されたままにしてほしいものだ。

 虎頭城の下の池ではあひるを飼っている。

 その後通りがかったバスにのって卢州(盧州)まで行ってみた。10元。途中、古そうなコンクリートの道路標識をみかけたが、それに英語で "BETWEEN .." と書いてあった。なにしろ通りがかりの一瞬のことなのでよくわからんかったが盧州と富順の間とか書いてあったように見えた。英語が珍しい。重慶から遠くないのであるいは米軍がつくったものか。
 盧州では適当に飯を食ってまた富順行きのバスにのった。盧州名物という笹でつつんだ餅のようなものがあった。餅は茶色く甘い。米?の粒々がみえる。四角くしてある。まぁ、ラオスあたりにもありそうな餅なので、少数民族のものが盧州にきてそういうものになったのか。
 行きは北まわりだが、帰りは南まわりになるようにバスにのった。南の方が高いところを走る。しかしバスのなかでやってたDVDが意外とおもしろかったのでそっちを見てしまい外をあんまり見れなかった。盧州側にも人口抑制をアピールする壁絵が道路脇に立っていたが、自貢の壁絵の方がイラストとしてのレベルが高い。

 ニュースで金正日訪中のことやってる。


2011/05/25 水

 朝になったら豆花飯屋ひらいていた。午後開けるほど人口がないということか。

 豆花飯だが、百度っていると(中国様のネット制限でググるのに支障があるので百度る)富順の他に重慶の洛蹟というところの豆花飯がひっかかる。洛蹟は三峡ダム蓄水175m線のあたりにあるそうで、移転させられたらしい。重慶方面では洛蹟豆花とか河水豆花という名前で食べられているそうだ。重慶に行ったときにたしかに豆腐だけ売っているところがあったので食べたことがある。古くは安い食べ物で苦力がよく食べるものであったらしい。
 もっと調べると河水豆花という名前でそのあたりの水系のあちこちでつくられているようだ。洛蹟と共通するところは港として栄えた点か。
 富順の豆花飯は民国のころ、客が飯屋で豆腐料理を早く食べたいあまりに厨房に入って、搾る前の豆腐を食べたのが始まりという伝説があるらしい。現代の食べ物の起源としては歴史悠久とかいわれても実際はそのころという事はよくあるが、ただそれだと製塩の歴史に比べてあまりに短かいといわざるをえない。

 ということでもう一日ここにいて豆花飯屋が閉まる前に豆花飯でも食いまくることにする。

 さすがに最近豆腐ばかり食ってるので三軒もまわったら飽きてきた。

 富順県志をおとして読んでみたが、ここの塩井がみつかったのは晋代ということになっている。長らく四川の塩生産一位でかつ少数民族地区だったが、明初大量に移民がはいってきて人口でも最多の県となったという。嘉靖年間に塩井が枯渇し、自貢の方に新しく塩井を掘ってそちらに塩生産は移動したそうな。そのころが繁栄のピークだったようで、その後その富をねらって明朝が富順王を設置したので人口が減ったという。明末に張献忠が来たときはそれほど被害がなかったが、南明がここを奪ったときに、盗賊地区とみなして略奪したという。それからは南明の軍閥や盗賊のあらそう土地となり、また旱魃などもあって、順治六年に清の軍隊が来たときには全県で数十家しかのこっていなかったという。
 張献忠の大虐殺というものの真相っていろいろ言う人がいるけどこんなもんかもしれん。
 あと大躍進で人口が77万弱から68万余りに減ったとか普通に書いてあるな。
 文廟があるが、さすがに文革のときどうなったかとか書いてない。その代わりというか日本軍の爆撃受けた事は書いてある。
 南宋が元に対抗するために富順県治を移した城跡があるらしい。南西46kmとか書いてある。うーむ。観光開発されてないなら見る価値はあるだろう。

 中国で放射線量測定したらおもしろいだろうなぁ。間違いなく日本より高いし。

 夜はやっぱり豆花飯やってない。

 富順県志によると、陳建民の故郷は富順県の李橋郷にあるそうで、1983年に墓掃除に来たそうだ。


2011/05/24 火

 富順県まできた。

 最初に仙市古鎮というのに行った。自貢から2.5元。古鎮というふうに名前がついているところはたぶん全部改造整備済みなんだろう。キレイにつくりなおしてある。ただここはそんなに人がこないせいか、生活臭がかなりあったし古材を結構つかいまわしていた。
 しかしこの程度なら自貢にもあったし、わざわざ古鎮として整備することもないとおもうのだが、中国中でやってるからしかたない。観光資源としての開発という面も大きいんだろうが、文革のときに四旧とかいっていろいろぶっこわした共産党としては、それを補うために中華のイメージを整備する必要があってこういうテーマパーク的なものをあちこちにつくっているんだろう。

 仙市から富順まで行くバスを待ったが全然来ない。1時間くらい待っても来ないので腹たって途中の瓦市というところまでいくバスに乗ったが、その先がわからず、とりあえず歩いてみた。向こうから富順→自貢のバスは何台もみているのに、自貢→富順のバスが全然来ない。
 それはそれとして、畑にうえてある植物で、あちこちに植えてあるから穀物らしいが、稲科っぽくない謎の植物が前から気になっていたが、それを間近で見る機会がやってきた。やっぱりよくわからない。たぶん雑穀なんだとおもうが、茎が太すぎて棒のようにみえる。畑にあるものももう収穫がすんでいて実がついているものがない。高梁(コーリャン)の実の部分がついたままのものもみた。それも近い。あと、ヒエキビアワ系の種がはいった植物もみた。豆科のような鞘のなかに種が入っていた。これの姿も近い。まぁどれかなんだろう。
 いやしかし豆科と稲科は違うので結局何が何かわからん。今度図書館に行って図鑑でも見るか。

 人民公社と書いた建物がのこっていたのを見た。

 結局乗合ワゴンをつかまえて富順まで行ったらよくわからないところに降ろされて、散々歩いて、文廟の近くに安い宿をみつけた。文人旅館25元。
 あとからわかったが、バスターミナルが二つあり、西の果てのほうのバスターミナルの近くに15元と外に出している宿があったがまぁしかたあるまい。
 富順には豆花飯を食べに来た。成都で豆花飯を掲げているところのなかには富順を前につけているところがあった。つまり豆花飯の発祥の地ということだ。しかし最初乗合ワゴンにおろされたところの近くに豆花飯屋をみつけた以外に開いているところをみつけられなかった。昔豆花飯屋だったところはあった。宿のおばさんに聞くと、あると言われたので明日にでも見にいく。
 それはいいとして富順、昔の中国の雰囲気がのこっていてよい。単純に古い建物がのこっていて、人民のみなさんが昼間っから一生懸命暇潰しをしているだけだが。
 川に近いところに古い建物がまとめてのこっていた。どうもスラムというか下町というか、そういう雰囲気を醸しだしていて、古い建物をまとめてぶっこわして新しい建物を建てたくなる気持ちもわかるような気がした。


2011/05/23 月

 塩業歴史博物館。20元
 そんなに詳しく歴史を紹介しているわけではないが、四川での井戸掘り採塩を模型を交えてわかりやすく紹介してある。上総掘りみたいに竹をつかって掘る方法も紹介してあったけど、よくよく見ると道光年間からと書いてあった。たぶん上総掘りが伝わったんだろう。(かなり同時期なので微妙)それはともかく、清後期〜民国の技術では1kmあまり掘れたらしい。
 中国の昔の塩のとりかたはどんなものでもまず濃い塩水をつくるところから始まるようで、岩塩とかでも水を流しこんで塩水をつくるから、塩水をつくったあとは海水を煮つめたのと大差ない方法になる。
 最新の製塩法として、真空製塩というのが紹介してあったが、これも原理的には塩水を煮つめている。ただ説明がおかしくて、密封して加熱するとか書いてあったが、正確には気圧を下げて沸点を下げ、どんどん水蒸気を吸いとって塩にすると書くべきだろう。

 燊海井。20元。
 塩業歴史博物館を出てから、地図にあった大公井というのをさがしにいったが見つからず、たどりついたバス停に観光案内地図があり、そこにこの井戸のことが書いてあったので行ってみた。
 20元するので微妙におもい、一度は入るのをやめて帰ろうとしていたが、バスがんすぐにこなかったし、心にひっかかるものがあったので入ってみたらすごかった。どうせ昔、塩とってた跡がみれるんだろうとおもっていたら、そんななまぬるいものではなかった。井戸掘りの設備がのこっている。井戸といってもボーリングみたいな細い穴で、そこに細いパイプをつっこんで塩水を採取するというのが民国までに発達した四川の採塩方法の最終形態なわけだが、そのパイプが濡れていた。団体が来たときに塩水取りの実演でもするのかなとおもっていたら、そんななまぬるいものでもなかった。奥の大きな建物にはいると、塩を煮つめる鍋があって、おっさんがそこで塩をすくっていた。つまり製塩工場が現役のままのこっていたのだ。
 濃い塩水を煮つめると塩がういてくる。それをすくってザルに溜める。あるていどたまったらそのかたまったものを上の部屋にうつす。上の部屋で臼で塩の粒をそろえ、袋に詰めていく。その全工程が井戸の横にそろっていた。

 自貢には、塩の生産地らしいという情報だけで来たわけだが、製塩風景をみれるとはおもってなかったのでよかった。今回相当行きあたりバッタリな旅行なわけだが、そんなに悪くない旅行になっているとおもう。
 自貢も木造の古い建物が結構のこっていてよい。成都からここまでの列車からはそういう古い建物の残っているエリアが結構目についた。まぁ開発がそんなに進んでいないということだろう。とはいってもこの自貢は、毛沢東の三線開発方針で、化学工業が盛んになっているという。もともとここは塩の生産で人があつまっていて大きな町であったようだ。

 昨日、キルギスとかタジキスタンを9月の後にまわそうかとか考えたけど、よくよく考えるとカシュガルからキルギスへ越える峠も冬になると閉まってしまうので、10月だと相当寒いことになる。やはり行くなら夏の間に行くべきなんだろう。
 成都からウルムチまで列車でたったの150元程度らしい。もっとも硬座で三日がかりだが、寝台にしても300元あまりだ。まぁネットで調べる時刻と現実の時刻表は結構違うことがあるのでもうこの列車もなくなっているかもしれないが、こんだけ安いとそれで一気に行ってもいいかなとおもったり。

 四库提要著录丛书っていってもどうせ今まで出版された影印本を再利用しただけのもんだろう。そんなもんで一セット2100万円(元値でも96万元=1200万円程度)っていくらなんでもボッタクリだから、予約があつまらず、企画倒れでおわるんじゃなかろうか。
 とおもったらようやく去年の12月に最初の100冊が出たという情報がみつかった。本当かなぁ。カマシてるだけじゃなかろうか。適当に集めてきた電子データで本のデータだけはできていて、カモから注文がきたら刷るだけだったりして。


2011/05/22 日

 マレーシア人中国人と話していてやはりもうすこし口語を鍛錬する必要があるとおもったので、どっかで鍛錬するべきだろう。カシュガルからキルギス・タジキスタンというルートは、パキスタン行き(9月)の後にまわすか。
 ということで、とりあえず昆明まで降りて6月になってからチベット外縁を北上するという輪を描くことにする。
 となるとあと考えられる経路としては、西寧まで北上してから寧夏陝西西夏の旅とか山西山東横断の旅とか満州東部高句麗の旅とかか。で、八月になってから内蒙古突入で、それが終了してから南疆を横断してカシュガルからパキスタン入りとかか。
 ビザ的には、雲南からちょっと国境を越えておき、八月にまたモンゴルにすこし顔を出しておき、という風にすれば90日間縛りをクリアできる。
 とはいいつつもそんだけ移動したらどっかで鍛錬とかいうことにはならないので雲南でダラダラするというのもまたひとつの手ではある。

 菅は責任とろうとしないくせにいろいろ指図するのがタチがわるい。まぁ無責任に人の批判ばかりしていた連中を責任ある地位につけたやつ(国民様)の自業自得なわけでいい気味だ。

 自貢(自贡)まできた。成都市内の切符売り場で切符を買ったが、成都東駅というのがどこにあるのかわからず、宿のねーちゃんにおしえてもらったとおりにバスでいったら間にあわない遠いところにあった。そこではじめて「改签」をした。無料で同じ目的地までの別の列車の切符に替えれるというもの。しかも最初買った列車は41元で、替えた方が23元だったので、なぜか得した。
 それはいいのだが、成都東駅はおそらく新しく成都のターミナルとするべく作っているらしく、建物がやたらでかく、まるで空港のようだったが、よくよく考えると上海南もあんな感じなので、それをイメージしているということだろうか。ここの荷物検査ではじめてハサミをとられたのでとりあえず嫌なところだというイメージがついた。飛行機でハサミとられるのもアホらしいのに列車でハサミなんかとってアホか。

 列車自体は久し振りの古い車両で、席は平べったく座席の下になんらの機器もなくスカスカだった。昔座席の下に新聞敷いて寝てたけど、最近の車両の席は豪華になって座席の下になにやら物体があり、人間が潜れる隙間がない。これならたしかにいくらでも寝れる。

 成都からすぐ山のなかに入っていったのでびっくりした。成都のすぐ近くまで山なのか。あとは貴州省と大差ないようなのどかな風景がつづく。達州から成都までは豊かに開かれた農村という感じがあったが、こっちは山村という感じだ。まぁ貴州と山続きなので似たような感じなのも無理はないが。
 ただ地図でみると、そんなに山があるようにみえない。平地のようにみえても平地でないということか。

 自貢も25元の部屋をさがすのに少し手間がかかった。


2011/05/21 土

 今日ちょっと広漢まで行こうかとおもったけど雨降ってるからやめる。

 金正恩派と金永春派の闘争説 | 北京のランダム・ウォーカー | 講談社

 三星堆の博物館だが、80元もするらしい。博物館の値段は高くして敷居をあげたらいいというのは前からおもっているけど実際にこんなに高いと本当に入る気がしない。日本円にして1000円か... やっぱり無料がいいっス!

 四川博物院にあった漢の画像磚のなかに闕を描いたものがあり、鳳闕というのはその上に鳳凰の像を置いたものだという。今にいたるまで石像の闕の実物が残っているところが数カ所あり、その本来の形である双闕の形態でのこっているのも一箇所あるらしい。画像磚のなかにはその双闕の間にさらに門状のものを置き、その上に鳳凰を置いてあるものもある。こういうのが鳥居のルーツかもしれんなぁとすこしおもった。

 王建墓。20元。墓がそのまま展示してあるけどちょっとものが少ないかも。博物館をたてる予定はあるらしい。棺の台の浮き彫りに当時の楽団の構成がしのべるのが重要な資料だと書いてあるけどみてみると、草笛なんかも入っている。葉っぱを唇に当ててならすあれ。うーん。墓室の奥に本人の像があるのが珍しいらしい。

 今日は同室のマレーシア人と中国人とダラダラして一日つぶした感じだ。これからしばらく雲南まで南下してからチベットの外縁をぐるっとまわりながら北上し、青海まで行くのもいいかもとすこしおもった。


2011/05/20 金

 成都から四川省の西北部を通って直接西寧に行こうかとおもっていたが、外人は途中で追い返される可能性があるらしい。
 その途中にある高原は今最低気温0度最高気温18度らしい。いいなぁ。

 忘れないうちに書いておくと、安康で店の女の子に硬貨を渡したら露骨に嫌がられたので紙幣に替えた。達州のバスで車掌のおばちゃんに硬貨わたしたら「硬币……」とものすごく珍しいものを見たようにしていた。ということで、硬貨が通用していないだけではなく信用されていない地域もまだあるということだ。成都は紙幣社会だった。

 成都周辺に各種専題博物館があるので、こまかい事はそっちにまかせ、四川博物院はあんなかんじにしたのかもしれない。

 昨日買った本だが、冒頭に「蒋介石はソ連の後ろ盾で国民党内での足場を固めた」みたいなことが書いてあったのをみてだいたいわかった気になってあんまり読んでない。それより宿替えしてみたけど、あんま大差なかった。

 やっぱりここ最近このあたりの気温はかなり高めであるらしい。

 次行こうとおもっているのは若尔盖(チベット名:ゾルゲ)だが、広漢の三星堆博物館に行くのもいいかもしれない。
 んー?四川のチベット方面よりもチベット本体行けるかも?

 結局いろいろ調べるだけで時間が過ぎていった。5/23が「关于和平解放西藏办法的协议」とやらの調印から60周年ということでそれまでは厳しいらしい。チベット降伏60周年ということだな。まぁもうすこし成都周辺でブラブラして様子見した方がいいということか。


2011/05/19 木

 四川博物院。
 成都市の博物館は今新しいのを建てている最中らしく、やってそうにないので、四川博物院だけがたよりだ。といいつつも行ってみたらかなりガッカリした。出土品を美術品のようにあつかった展示で、歴史教育をしようという気がまるでない。別に中華思想全開でいいから歴史展示をやってもらいたかった。内容的にも他の地方なら方国文化とかいっておらが国的にうれしそうに紹介してそうなところ、先住民の巴蜀文化という感じで紹介されてるのでそういう説明をするつもりがハナからないのだろう。
 青銅器陶器とかいうふうに分けて置いてあるのは結局そっちの方が中国人に受けがいいんだろうか。
 といいつつ書画ゾーンに元代のかなりいい絵があったのでそれはよかった。ひさしぶりに書画をみた気がする。書画の見方をすっかり忘れていた。あぁ。かなり惰性で旅行しつつあるな。

 豆花飯というメニューがメジャーであるらしく、あちこちで食べられる。「豆花飯」とわざわざ大書してあったりもする。要するに豆腐にタレをつけて食べるだけだが、うまい。歯の関係もあってひたすら豆花飯ばっかりくってたら汗がいっぱいでてくる体になってしまった。まぁそれだけ暑いということだが。
 タレだが、いろいろまじっているけどおそらくマーボー豆腐につかうようなものをまぜて炒めずそのまま小皿にいれたようなモノだとおもえばよい。日本のマーボー豆腐の調味料とはちがって甘くない。

 古本屋で杨奎松『毛泽东与莫斯科的恩恩怨怨』『蒋介石与莫斯科的恩恩怨怨』という本をみつけたので買ってきた。これ読みきるまで成都にいるという手もあるが、なんか団体さんが来るらしいので移動するかもしれん。
 今日博物館行く前に四川の西北方面にいくバスターミナルに行ってみたら、遠くまで行くのは6:30とかだ。しかも市バスでは早すぎていけないので、タクシーでいくか、そのバスターミナルの近くで泊まるか、ということになる。どうしよっかなー。

 杨奎松って中国社会科学院近代史研究所みたいなところにいたり中共党史研究会常務理事だったりするのにこんな本書けたりすんのな。文革で冷や飯くわされた世代は強いということか。


2011/05/18 水

 成都行きの切符を買ったけど、11:57発なのでそれまで宿で寝てネットでもする。

○日本だって戦時中は「発送電」と「配電」を分離していたのです。そしたらどうなったか。発送電を担った「特殊法人日本発送電」は図体ばかり大きくて、まともな電力供給は出来なかった。9つの配電会社は、全国統一料金なものだからろくな経営努力をせず、ニッパツ様にすがりつくことばかり考えていた。戦時中にしょっちゅう停電が起きたのは、あながち資源不足のせいだけではなかったのであります。
○日本の組織の常として、「ここはお前に任せるから、キチンとしておけよ」と命じると、それこそ担当範囲では完璧な仕事をしてくれるものです。しかし「ここはお前がやれ、あそこから先はアイツに任せるから」と言うと、「ウチはここまでしかできません」「それはあっちの責任です」と言って、たちまち責任のなすりあいが始まってしまう。だからこそ1951年の電気事業再編成で、地域独占にして、発送配電一体経営にして、その代わり電力会社に供給義務を負わせたのです。

かんべえの不規則発言(5/16)

 実際の刀による斬り合いは… 実際はどうだったのでしょうか? - Yahoo!知恵袋

 村西とおるの日記 5/15

 成都まできた。上海以来の省都。ひさしぶりにユースホステルに泊まってみた。35元。たっぷり湯がつかえる!
 駅前とかの宿は高かったのでユースホステル泊もやむをえず。


2011/05/17 火

 そろそろ漫然と旅行するのがイヤになってきた。何しゃべってんのかわからんと言われないようにまたどっか学校にでも入ったほうがいいのか。
 これから先のルートは南疆を通ってカシュガルからキルギスに入りタジキスタンを目指すというつもりだったが、この中国の版図の中心あたりでそういう学校に行くという手もある。しかしビザの関係で8月までに一回どこか外国に出ないといけないのは確かだ。うーむ。
 日本にいても全然話さない方なので、中国で自分一人でブラブラしてるだけならなおさら話さない。それで中国語の能力が向上するはずがないのだ。

 それはそれとして中国での携帯、どっかにあるはずだがまだ探していない。そのまま放置しているが支障ない。

 達州まできた。万源からバスでおりてきた。山の景色は堪能できた。この先もう成都まで一気にいこうとおもったけどいい列車もないのでとりあえず宿とった。20元。この町はでかい。東四川の経済の中心らしい。

 开心超人という中国アニメやってたけどこれはおもしろい。絵的にも見れるレベル。

 腫れてきた。困ったなぁ。

 暑い。明日の成都は35度まで上がるらしい。とはいってもここも暑いので行く。この先のルートでいうと、青海のあたりが一番涼しいようだ。ぐむむ。


2011/05/16 月

 さてこれから西にいくか南に下がるかだが。鉄道で成都まで行ってもどる場合どっちかを通るしかないわけだから気にしてもしかたないな。下がろう。

 万源まで来てみたけど暑いし、町も小さいのでグルっとまわってたいして見るものもないことがわかった。すぐ移動したいが、駅前の25元の宿に入ってしまって返金してくれないので泊まることにする。安康にもうすこしいてもよかったか。
 四川に入ったら大開発がなされているようで、敷設中の鉄道とかあった。この万源も改造されているようだが、そんなに新しい改造でもないので順次壊してたてなおしてしているだけだろうか。すくなくとも江蘇省の北のような計画都市ではなく、既存の中国の町っぽくなっているだけだった。計画都市といえば、川向いにマンションをバンバンたてていてそれがニュータウンっぽいといえばぽいが、こんな山のなかの誰がそこに住めるような収入をもてるんだろう。
 まぁしかし中国の旧市街みたいなところはそれなりに清潔で住みよければいいが、そうでないことも多い。よいのも悪いのも全部ぶっこわして新しいのを作るというのは中国らしいといえば中国らしいが。

 万源に来たのはここの土壌がセレンを豊富に含んでいると百度百科に書いてあったからだが、来たところでそれがわかるわけでもなし。まぁ水飲んでたら幾分は摂取されるんだろうか。

 万源保衛戦戦史陳列館。
 この四川省の辺境にあった共産党の根拠地を国民党が掃討しようとしたがそれを挫折させた戦いを記念して作られたもの。ここの勝利で、共産党の「長征」の延安への道が開かれたということで、重要であるようだ。まぁしかし漫然と見ていたので、一貫して徐向前だけが顕彰され、張国燾の影が薄いことに気付けなかった。一箇所張国燾の名前がでてきたときに、徐向前より前に並んでいたのに気付くべきだった。張国燾は後に毛沢東との党内抗争に破れ、国民党側に鞍替えしている。なんで張国燾が毛沢東と競りあうような重要な位置にいたのかわかった。この勝利がなければそもそも共産党の「長征」軍は殲滅されていたんだろう。
 ここには根拠地をつくったときにあちこちに置いた紅軍の標語を刻んだ石が展示されている。その石は碑文などを転用したもので、共産党らしいといえばらしい。まぁどうせこのとき破壊されなくても、文革のとき破壊されただろうから、こういう形で逆に保存されたのかもしれない。標語は「遊撃戦を拡大しよう!」「赤区を鞏固にしよう!」「帝国主義打倒!」「劉湘・楊森は売国賊で帝国主義の犬!白色官兵のみんな、いっしょに帝国主義を倒そう!」といったもの。「工農専制!」とか書いてあるのはおもしろい。
 当時の宣伝資料がそのまま展示されていて楽しかった。そのころの宣伝資料では、「東三省を占領した日本帝国主義」と「チベットを占領して四川へ進みつつあるイギリス帝国主義」を主敵として挙げている。もちろん「中華ソビエト共和国」の言うことだけに、モンゴルのことには一言もふれていない。なるほど、蒋介石が台湾に逃げてからもモンゴルは中華民国のものと主張してたのは共産党に対する嫌がらせだったんだろう。
 これがその後の世界情勢の変化によって主敵がファシストかつ帝国主義の日本だけということになるわけでなかなか味わい深い。

 というわけで、あきらかに歴史の古い漢中にいかず、漫然と山中の万源にきてみたけれど、予期しない収穫があってよかった。

 張国燾のことを調べると、毛沢東の紅軍と合流したあと、北上する毛沢東に対し、西康への南下を主張したとある。その理由として、毛沢東は北上して抗日するつもりだったのに対し、張国燾は南下して勢力を保存し、紅軍の領導権を握るためという説明がされているが、当時の紅軍の日本帝国主義イギリス帝国主義という大勢認識からすると、張国燾はイギリス帝国主義の進行方向へ入りこもうということで、寧ろきちんと抗英しているのではなかろうか。そして毛沢東の北上が抗日にならないのは地図をみればわかる。
 このころってコミンテルン中央からの事細かい指示があったりしたのか。知らんことばかりだな。

 中国1921という共産党建党90周年番組やってる。第一次世界大戦の話をやってるが、日本が兵隊を出して青島を占領したとかそういう話は全然なく、中華民国も参戦して勝ったんだから青島は中国にもどってくるよな、という話にいきなりなっている。当然青島を横取りした日本むかつく、という話に直結するだろう。さすが中共様のつくった宣伝番組だ。

 わすれてた。万源で城管と人民が摩擦おこしているところみた。


2011/05/15 日

 地図をみただけでここまで来たわけだが、《安康地区志》大事记 をみていると、秦が漢中郡を設置し、ここ安康に治所を設置したとありそのまま劉邦の漢中王につづいているように書いてある。歴史地図集をみるかぎりでは秦の漢中郡は今の漢中市にあり、前漢になってからここ安康に移動したようになっている。
 その後、北周のころの569年に台地から南岸の盆地に移したらしい。当然ながらそれ以後洪水の被害をうけるようになるのだが、このころには湿地の開発ができるようになってそっちの人口が増えるようになったということだろうか。漢水沿岸の諸都市をみていると、歴史地図上では漢代の都市の反対側に今の都市があるのはそういうことなんだろう。日本でも、古代の道は山の峰沿いで、谷沿いではないことが多いが、このあたりでもまだそのころまで高いところに主に人が住んでいて低湿地を利用できていなかったころのなごりがあったんだろうか。

 田舎っぽいと書いたけど、ひなびているのは駅が町の中心の川向かいの離れたところにあるからで、町の中心のあたりまでいけば普通の中国の小さめの町だった。

 安康歴史博物館。
 南北朝の際、比較的辺鄙だったので人が逃げこみそのころが一番栄えたと書いてあった。唐宋以後は寂れ、宋金戦争や元末の戦乱の舞台となり、明代には禁山に組みいれられてしまったとのこと。清中葉以降大量の移民が入って再開発されたとある。ということは、秦漢のころでも辺地気味の土地だったが、それなりに中心に近かった土地が明のころまでには本当の僻地になり、清中葉以降の人口爆発で人が入ってきたということになるのか。
 新石器時代の人面を模した土器のようなものがあったけど、それが黒人の顔っぽい形をしていた。まぁもっとも骨格肉付きだけなら黒人の顔みたいな人は日本にも中国にもいるが。
 殷周の青銅器はやっぱりそのころの中心に近いだけあって、僻地だった淮河流域とはくらべもんにならんくらい精巧だった。
 この博物館には共産党の偉いさんが故郷に寄付したコレクションというのがあってそれをおさめるための新館がたっていてそっちのほうが大きい。しかしコレクションだけあって、切手とか貨幣とかそんなのだった。三元紙幣の実物を見れた。

 安康の中をぐるぐるまわったら、城門とか旧市街みたいなところが残っているところをみつけた。この町も全部壊して新しいのを建てる式の開発をしているらしい。もっともこの町、何度も洪水にあっているようなので、そもそもそういうもの自体あんまり残っていないのかもしれない。その残っているところも少し高いところにあった。
 民国のころにつくられた図書館というのがあったが、近づいてみるとレンガの線が絵の具で書いてあった。どこまで本物なのかわからない。こういう形の修復風建築も他のところにあった。

 塔があったので近づいてみたらモスクだった。清真古寺と書いてある。ここは元代からある由緒ある建物らしい。とおもっていたが、中にあった修築記念の石碑を読んでみると、何度も洪水にあってそのたび建てなおされているらしい。しかも連続しているわけではなく、明の万暦年間に洪水で破壊されてからは再建されず康煕年間にこのあたりと目星をつけて再建されている。この洪水は清とか明とかそういう昔だけの話ではなく、最近では1983年にあり、そのとき塔や礼拝所も破壊され、その石碑はその再建を記念してつくられたようだ。横には同治光緒など清末の再建時の石碑が並んでいたが、同治年間の石碑は兵火で破壊されたのを再建したと書いてあった。

 他にはカトリックの教会の塔もあったがそれを見にいこうとしたにもかかわらず途中で忘れてしまったのでまぁそんなにみたくもないということだろう。しかし教会ほんとにあちこちにあるな。今回南通から出発して見た町全部にあった。


2011/05/14 土

 商丘深夜発襄樊早朝着のはずが順調に遅れて10時ごろ到着。なぜか宿をとらず、とりあえず襄城までバスで行ってみた。襄樊博物館に行ってみるとサンダルだと入れないと言われる。靴買ってこいと。そこまで言われて入る気はしない。行きとは違う方向のバスで駅まで戻った。市バスを駆使して襄城の堀と城壁は四方から見たのでもういいか。地図と相談して安康まで来てみる。この列車がまた遅れ、着いたら日が暮れるところだった。

 商丘からの列車は無座で指定の車両がギューギュー混みだったが、食堂車の横まで行ってみたらガラガラだったのでタラップでずっと座ってた。商丘からどうやって襄樊まで行くのかとおもったら、洛陽まで行ってそこから南下するというコースだった。明るくなったのも洛陽のあたりからで、そこまでいくとヤオトンとかあるような状態になってた。建物が古い。洛陽から南は大雑把に言うとゆるやかな高地になっていて、高地を降りたところに襄樊があるという位置になる。しかし河南省は地方に金がまわっていないのか、無理に建て替えをすすめていないのか、古風な建物が多くのこっていた。湖北省に入ると建物の質が変わって現代風になる。
 襄樊の町はバスの路線もわかりやすく、旅行者には親切な町だとおもわれるが、なにぶん博物館がお高くとまっていたのでもう次にいくことにした。
 襄樊から安康だが、襄樊の西にある大きな町の十堰にいくともう建物がすくなくなり、田舎の雰囲気がプンプンしてきた。発達しているとかしていないではなく、田舎。いい感じになってきました。しかも十堰から西はトンネルの中を通ってる時間の方が長いくらいトンネルが多い。このあたりまでくると湖南省の山の方とおなじような建物がたっていて、土家族のエリアのようにもみえる。漢江上流がこんな状態とは意外だった。しかも岸は切りたっていて、道を通すにも通せないようなところに無理矢理道をつくっている状態だった。たしかにこんなんだと軍隊を通すのも難しいだろう。
 安康までくると田舎町臭がプンプンしていい。山はいい。


2011/05/13 金

 歯が痛いのも収束に向かいつつある。
 今日は商丘行って河南省突入だ。このあたり江蘇山東安徽河南といりくんでいるが、省境越えただけでガラリと雰囲気がかわる。経済レベルや気風の差が如実にでていておもしろい。山東省に入るとバスの座席に番号がなくなり、乞食が大量に現れ、ピチピチに太ったおっさんがいるようになる。安徽省に入ると急に貧しくなり、ちょっと前の中国にもどった気分になれるが、山東省のような華北的な事象はおこらない。河南省はどんなもんか。

 商丘行きのバスのなかでこそ泥をみた。後の方に席をとって前の方に順番に移動していくやりかたの泥棒だ。最後部座席のひとつ前の席に座っていたが、途中から乗ってきた小太り二人組が後ろにやってきて、そいつらが汗くさく窓をあけたら文句をつけられたのでやな連中だとおもっていた。バスもかなり進んだところで自分はバスの外を見るのにいそがしかったが、二人組が動きだした。ちなみに二人組の一人の汗くさいやつは隣りにすわっていた。前の席に移動してその一つ前の寝ている客の荷物をとろうとしたり、もっと前に移動してなにやら必死にやっていた。せっかくなので携帯でムービーをとっていたら、二人組の一人が気付いてなんか怒ってきた。ひとしきり何か言ってしょぼいナイフのようなものを取りだしたりしてなんか言ったあと降りていった。ひさしぶりにああいうの見たなぁ。さすが河南省。なんか言っていたと書いたけどまぁ罵っていただけだ。
 しかし棗荘や徐州のあたりから、バスの切符係のオネーさんが「泥棒がいるから寝たらあかん」とか言ってたのはあれのせいなんだろうな。

 商丘でバスターミナル近くの小汚い通りにはいって最初の宿が20元だったのでとりあえず入ってみたらなんか臭い。扉のカギも錠前式で、その金具のネジが露出しているのでカギをあけずともドライバーがあれば入れるようになっている。まぁいいかとおもって入ったが戻ってきてこれを書いていると鼠が通っていった。臭いのは鼠の小便臭のようだ。

 商丘の古城をみにいった。宋の南京があったところだ。まぁそのころのものがしのべるものがあるわけでもなく、城壁はのこっていたが、古城として開発しているようで、メインの通りは倣古風に作りなおされてあまり風情もない。脇に入れば民国ころっぽい建物もすこしはのこっている。まぁこんなもんかとおもって宿までもどったが12時だ。うーん。宿とる必要なかったな。
 襄樊まで一気にいくことにして鉄道の切符をとった。真夜中の0時すぎ発。しかし無座。とりあえずこの宿でそれまで寝ることにする。

 回族多いな。


2011/05/12 木

 徐州の町は駅から近いところに古いものがそろっていて便利だった。

 これから砀山にいく。

 菅直人が出す要請とかいうのは中国共産党でいうところの指導みたいなもんかな。日本も法治を捨てて人治に移行していくんだね。ククク
 というか原発のときもそうだが、法律つくったり直接命令だしたりすればいいのになんで間接的に要請するのか。一番偉いんだから責任持てよ。

 砀山まできた。小さい町だ。バスターミナルの中に荷物あずけるところもないので宿にとりあえず入って荷物を置いてみたものの、数時間でグルっとまわってしまった。徐州同様しっかりしたカトリック教会がのこっている。城のまわりの堀ものこっていて満々と水をたたえているが、城壁はきれいになくなっているし、城内のたてものも共和国以後につくられたものばかりのようだ。小さな町なので東西南北の十字の目抜き通り以外に太い道を作る余地がない。城外にもカトリック教会のような塔があったが、あれはミナレットであったようだ。あとで駅にいってみたらその二つが案内写真にのっていたのでそれが二大古建築ということだろう。芒砀山まで行くには永城行きにのるしかないが、それが一日数本しかない。まぁそんなに行きたいわけでもなし、いいか。荷物を預けていたらこのまま河南省に突入して商丘にいくところだが、部屋をとってしまったので寝てくらすことにする。
 徐州郊外の九里山もバスからちょっとみただけでおわってしまった。まぁ低い山だった。

 柳絮だらけで常に顔がかゆく目をほそめないといけない状態だった。

 砀山のあたりがなぜ安徽省なのか、地図をみてもわからず来てもわからなかったが、どうも1950年代に洪澤湖の西側と交換で徐州から安徽省へ渡されたらしい。たしかに洪澤湖の南側にも不自然に突出した安徽省がある。

 どうも歯がいたいが無視して晩飯たべた。どうにもならなくなったら医者にいくがもう相当歯がボロボロなので高くつくだろうな。相当というのは自分で口のなかを見ても「うわ....」と言葉を失うほどひどい。歯医者の宣伝に使えるくらい。
 立派ででかい歯をしているうえに顎もしっかりしていたので、小学校の先生からみると前歯で噛んでいるように見え、「奥歯」で噛めと注意をうける → よくわからないので下顎をうしろにずらして噛むようにする → 歯にかかる荷重が偏る → それで歯の形がきまりもとにもどそうとしてももどせない(以後荷重が極端にかかるところが悪くなりやすくなる) → 親もふたりとも歯がわるいので当然虫歯菌とともだち → 頻繁に虫歯になる → なる度に治す → 旅行で奥歯とかがボロボロになる → 東京で歯医者関係のシステムに関係していたとき、治してもらったら奥歯を全部金属におきかえられる → その後仕事が忙しく歯医者に行くひまもない。→ 仕事やめてから歯槽膿漏で歯が抜ける病気になる(このあたりから歯の状態がひどくなる) → 近所の歯医者にいったらヤブで神経抜きまくられたり変な修理をうける → 違う歯医者に行って抗生物質をもらい歯が抜けかけていたところはなんとか止まったが、結局抜けてしまう → 京都に戻って仕事するとまた忙しい上に辺鄙なところだったので歯医者に行けない → やめてからは国保もはらわず歯医者に行かない → 歯が急に悪くなるがやがて小康状態になり気にしないの繰り返しですこしづつ歯がわるくなる → 今に至る。
 どうせすぐに総入れ歯。


2011/05/11 水

 日本のベンチャー企業に見られる3つの類型 - よそ行きの妄想

 文部科学省及び米国ODEによる航空機モニタリングの結果(PDF)
 こういう測定は三月中にやることだとおもうけど何してたのか。

 今日の徐州はすずしく雨もふってなさそうなので博物館でも見にいってくる。

 やっぱり4月分の金はもともと払うつもりなかったんだな。昨日催促したらなぜか朝一に振りこまれていた。催促したから慌てて振りこんだんだな。

 殺人ユッケ事件について遅ればせながらクダまくよ | C.I.L

 徐州博物館。整理中らしく秦以前とか見れなかった。メインは漢代の墓からの出土品。あとお決まりの陶磁器とか。んー。徐州周辺は山が多いので石材の利用が多いとのことで石のオブジェクトがいろいろあったけどキレイに仕上してあるものから雑に作ってあるものまであった。やぱり墓に収めるものは今博物館に並べてあるような精巧を極めたものばかりではなくて、形だけつくっとくようなもんも多かったんだろうな。

 その後、动慢博物馆(アニメ博物館)まで行ってみたが休みの日でもないのに閉まっていた。しかも開いていたら入館料として30元とるらしい。施設としては図書館に併設されている。活動していないようでもないようだが。

 淮海战役烈士纪念馆(淮海戦役烈士紀念館)。
 新館と旧館があり、旧館の方をのぞいてみると、どまんなかに毛沢東の像があり背後に「人民的勝利」とでかく書いてあったが他にものが置いてあるようすもなく閉まっていた。新館をみた。
 淮海戦役は国共内戦の行き先を決定した大会戦だが、最終的に国民党側は55.5万人死んだと書いてあったのでとにかくすごい会戦だったんだろうが、内容をみると国民党側が右往左往して各個撃破されているというなんともなさけない戦いだった。一階の展示は戦闘などの推移で、共産党のいう「自衛反撃戦」とやらの説明からはじまっている。まぁ細かいのはさておき、あちこちにガスマスクをしている写真があるのが気になった。あと、包囲されて補給を断たれ飢え死にしかけて木の皮まではいで食べた軍隊もあったようだ。国民党側がアメリカの援助をもらっていることを各所で強調しているが、ソ連のことは一言も書いてない。
 二階はこういうのではめずらしく、補給や後方の展示があった。人民がメイン展示となっている。毛沢東が補給を確実にするように指示し、あちこちの人民が衣服や食料をがんばってとどけたりしたらしい。傷病兵の世話を熱心にしたことの表現で、自分の使っている食器でそれを受けて表彰されたとか書いてあった。

 その横に国防教育館があったので入ってみた。国防と書いてあるが、内容は抗日がメイン。徐州会戦のことを国共合作と書いているのは前もみた。徐州会戦後、おきまりの日本軍の悪行があり、その後共産党がどうやって根拠地をつくっていったか書いてあっておわり。徐州会戦メインの展示室があったのでどんなこと書いているのかわくわくして見たら、台児荘の展示とおなじことが書いてあった。まぁつまり徐州会戦自体ではなく、台児荘がメインで、しかも共産党の指導があって台児荘で勝ったみたいに書いてある。わっざわざそのために周恩来と国民政府側の副参謀長の会談の人形まで置いてあった。李宗仁の人形もあったが、実際には台児荘の駅標の横に立った写真がのこされているのに、徐州と書いた駅標の横に立っていた。かわいそうに。共産党はなんでも横取りだな。しかし李宗仁は共産党のために文革直前に中国に帰国したりしているからまぁしかたないな。
 あとは武器などが置いてあった。射撃ルームがあったが、実際に銃が撃てるようでもなかったので試さなかった。

 なんか歯が急に悪くなった。棗荘のあたりで暑さのあまりアイスクリームをむさぼっていたせいか。

 おっと。この鯖に接続できなくなった。さすが中国様。sshでいろいろしていると、封鎖されるということか。pingすら通らない。まぁネットに耽溺する時間が減るのでよいだろう。
 ひとねむりしたら通るようになっていた。しかしさっきは珍しく快調だったGmailがまた不調になっている。よくわからんな。


2011/05/10 火

 パキスタンはアフガニスタンとインドに分割されたらちょうどいいとおもう。

 CCTVのニュースではリビアからの現地レポートを毎日やっている。

 夢。助手席に座っているとブレーキ踏んでも止まらない系の事故がおこり、おもわず声をあげるがそれは夢だったという夢をみた。悪夢系の夢は初めてみる。しかも夢の中の夢。

 浜岡原発 天才菅直人 : 小幡 績 :アゴラ
 「ヒゲの隊長」と菅首相の杜撰な対応を語る| 猪瀬直樹 |日経BPネット

 これから素直に徐州に行くことにする。その後商丘、すこし長距離移動して襄樊か。その後ボチボチ移動するか一気に移動するかして成都まで行く。途中休憩するかもしれん。
 徐州までくると駅とバスターミナルが近くにあってよい感じで宿があったので適当にさがして25元のところに入った。すると激しく雨が降ってきたので飯だけくってひきかえしてきた。

 徐州にアニメ博物館があるらしい。

 やっと時代劇をみつけた。三国の新しい方。なかなか金もかかっていてカッコいい。官渡の戦いのあたりだ。戦車戦やってるが、歩兵で戦車をやぶるいろんな手をだしていておもしろい。
 というかみなさん鐙をしっかり踏んでますね。もうすこし後のはずなのに。

 パキスタンに中国から入る人の日記があったが、おちついてよく見たら日本で出発の数日前にパキスタンビザとってた。ダメだオレ。

 インパール作戦に中国軍の記述がないのは当然で、中国軍はインパール作戦方面と違うところで戦っていたようだ。


2011/05/09 月

 昨日いった東駅が昔の棗荘駅でよかったようだ。

 奇怪なビンラディン掃討作戦、「ジェロニモ」で崩壊に向かう米国の戦略:日経ビジネスオンライン

 今日は朝から腹の具合がわるかった。そして天気予報とちがって朝から暑く、晴れていた。
 とりあえず枣庄の博物館に行ってみた。建物も展示も古い上に一階しか開いていない。銅鏡がならんでいるのをみて逆に新鮮な感じを受けた。そっちはともかく、もう一つの展示室に小邾国王墓群の展示があった。枣庄のあたりは小邾の範囲内ということになっているらしい。この墓の発見で小邾国のことについていろいろわかったと書いてあった。
 その後、安陽故城というのに行ってみようとしたが行きかたがよくわからずとりあえず滕州に行ってみた。

 滕州博物館。自分が行ってはじめて開いたくらいで最初は門番不親切だなとおもっていたが、中に入ってみてそれもそのはずとわかった。二階と四階だけ開けてくれたが展示が展示として機能してないくらい展示物がすくない。こっちには滕国の遺跡とかあるからそれなりにモノがあるだろうとおもっていったら薛国のものだけ展示してある。これなら枣庄の博物館の方がまだマシだった。というわけでがっくりしながら帰途についた。帰りは薛城の方を通って帰ってみたが、途中にあるはずの薛国の跡地を車窓から確認できなかった。まぁ今日は腹の具合もわるく、無理矢理うごいている感じだったので出かけずに寝てたらよかったかもしれない。滕州博物館がしょぼすぎるということがわかったのでよしとする。

 何回もトイレにかけこんでいるがあのアンモニア臭のきついトイレには慣れない。はやく腹回復してほしい。しかし全部が全部汚なすぎるトイレでもないこともわかった。タイルの使用が中国でも普及しますように。

 BRTというのが枣庄にも採用されている。Bus Rapid Transit の略称らしい。地下鉄のような乗り換えし放題のシステムをバスで実現するもので、本来はバス専用のレーンをつくって他の車が中にはいれないようにするべきなんだろうが、ここでは他のレーンとのあいだに線が引いてあるだけだから中国でそこに人や車が入ってこない訳がなく、あんまり高速とは言えない状態になっている。しかし安い。薛城から枣庄まで一時間かかるが、普通の市バスだと4元とるところをたったの2元でいける。ということで昨日も今日もつかった。
 中国各地で実験的に採用されているが、北京のものは専用レーンを用意できず普通の市バスと大差ない遅さで批判されている一方、杭州のBRTは専用レーンをきっちりつくっているのでこっちは成功例というこおになっているようだ。昆明でも建設中ということで、昆明のあの混雑は地下鉄ではなくこれのせいだとわかった。

 まぁしかし滕州も計画都市化しつつあって歩いていくのが大変だった。中国の最近の都市計画は車社会の到来を前提にしているようで、バスと徒歩でなんとかするにはすこしきつい。

 ここに来てから「何言っているのかわからない」と言われたりそういう反応をされたりする確率が急にあがった。普通語が外国語の地域から一方言の地域にはいったからだろうか。とにかくしゃべるのがつかいものにならないのは問題だ。

 中国の行政区分も合併されて大規模化しているが、枣庄市の面積は4563平方kmでこれは山梨より大きく京都より小さいくらいであって日本の都道府県とおなじくらいの規模だ。


2011/05/08 日

 今日は結局雨ふらず、午後になると結構暑かった。

 朝まず駅をさがしにいくが、枣庄东站(棗荘東駅)というのをみつける。ということは中興公司のあたりにあった建物が旧駅なんだろうか。
 その後、とりあえず薛城(戦争のころの臨城)まで行く市バスにのったら4元した。そら遠いからそうだわな。しかしどこでおりたらよいかわからず最後まで乗ったままでいると最後のあたりで鉄道遊撃隊公園みたいなのをみつける。
 鉄道遊撃隊紀念園という公園だった。2005年鉄道遊撃隊のドラマをつくったときにこの公園内につくったセットをそのままのこしてあり、そのセットは抗日ドラマ映画村みたいな使われ方をしているとのこと。でも着々と展示施設に改造されていたので映画村としてもつかえなくなってきたのかもしれない。ざっと見てまわったが、各種荷車があつめてあるところがおもしろかった。しかし車輪を発明した人が実在していることになっているのはいいとして、遺跡にある溝を、その人が車輪を実験した跡とか書いているのは中国の田舎の展示っぽくていい。

 その後薛城の中心まで歩いていこうとしてバスターミナルをみつける。滕州までいって滕州博物館にいこうかとおもったが、微山島まで行けるようなのでとりあえず乗ってみたら道の途中でおろされた。4元。とりあえず歩いてみたら1キロくらいでフェリーのりばについた。フェリーは行きだけ2元。帰りは金をとられなかった。
 微山島の町のなかに入ると、昔の観光案内がのこっていた。今の観光コースは車で直接きてグルグルまわるのが前提になっているが、昔は歩いていくのが普通だったらしく、その案内にあるとおり歩いていけば鉄道遊撃隊紀念園につくらしい。島の長径が3.6kmということなので知れたものだ。ついてみたら入園料を20元とるらしく迷ったが、一応展示館が二つあるようなので入ってみた。
 内容は実際の遊撃隊のことをパネルで簡単に紹介したもので、まぁ入らなくてもよかった。


2011/05/07 土

 朝、邳州博物館に8時すぎに行ってみたら警備員が9時とかいう。9時にいってみると土日は休みだということが判明。なんで最初から言わないのか。

 台児荘(台儿庄)。ミニバスで15元。
 バスターミナルに荷物あずけるところがないし周辺にもそういうところがないのでしぶしぶ荷物をかついでいく。
 台児荘戦史陳列館。なんで革命烈士の塔があるのかなとおもっていたら、それもそのはず、共産党が国民党をやぶったことを記念するものだった。1951年につくったとある。
 またとぼとぼ歩いていくと台児荘古城というのがあったけど、ここは入場料100元(値引きして70元)とか書いてあったので諦めた。どうせテーマパーク化したものだろ。(あの葡萄はすっぱい)
 ようやく台児荘大戦紀念館をみつけたので入った。戦闘の内容はどうでもよく、この戦闘に関して共産党をどうからめているかに興味があったが、「国共合作の成果」としてあった。さすが大盗賊、なんでも横取りですね。
 その後李宗仁史料館。10元。台児荘駅を復元したものらしい。李宗仁は文革直前にアメリカから中国に戻ったので、当時の中国の面子を立て、よい扱いをうけたようだ。台児荘のことを中共が早めに扱うようになったのもそのせいだろう。

 台児荘から棗荘まで8元。どこにいくのか心配していたが、ちゃんと市中区にいった。バスターミナルちかくの宿20元。その後とりあえず駅の方向まで歩いたけどみつけられず、そのかわりに中興公司をみつけた。暑いなかを歩きまわったので疲れた。

 モノ考えるのもダルい感じがつづいているのは暑いせいだろうか。この日記もただの日記になっていて、考えるところがない。


2011/05/06 金

 朝から宿遷(宿迁)に移動。
 バスターミナルのあるあたり新市街っぽく歩くだけ無駄に感じたのでとりあえず博物館までバイクタクシーにのった。4元。
 ワンフロアだけだったが、ここには漢代の地方の国王の墓があった。
 淮安もここもそうだが、このあたりはもともと徐とか淮とかいう東夷がおり、のちに楚の中心が近くにきたが、項羽とか劉邦がこのあたりから出たせいで、漢のころにはこのへんが楚ということになっていた。ということで漢代の遺物がやたら多い。その後この地域にとって重要なのが大運河である。淮安は淮河と南流黄河と大運河が交わるところであったがこっちは大運河の経由地のひとつで、やっぱり重要度は若干おちる。
 そういうと南流黄河によってこの地域は水害に悩まされることとなったらしいが、歴史地図をみると、海岸線も黄河が南流したころから発達しだして、もともと塩城とか東台は宋代まで海岸線にあったのに今は内陸になってしまっている。よほど大量の土砂をこの地域にもたらしたんだろう。

 博物館のあと、旧市街をさがしに市バスで走ったが、大通りは大改造されていてその影があまりみえない。とはいえ道からすこし奥にはいると、旧市街があるところはすこしは保存されている。開発がはじまる前はボロっちい街がふつうにのこったよくある小汚い街だったんだろう。

 その後バスで邳州。バスターミナルちかくの旅社20元。バスターミナルのすぐ近くに博物館があったがすこし遅かったので閉まっていた。街をぐるぐる歩きまわって疲れた。夜市があった。金曜のせいか。とにかく今日は暑かった。

 中国遠征軍というのが今はやりの抗日ドラマらしく、宿のおやじがわざわざ部屋にはいってきてテレビのチャンネルをそこにあわせてくれる。なんかへんなこと言ってきたら、ここで血を流しているのは国民党だが今どこで何をしているんだとか意地悪な質問をしてやるつもりだったが、そこまでしつこく聞いてこなかった。ただでシャワーつかわせてくれたりして基本的にいい人だった。

 ちなみに宿遷は項羽の出身地ということで、バスターミナル近くのロータリーになっている交差点に項羽らしき像があった。

 石とかコンクリートのあるところの放射線量が高いのは石とかコンクリートが発する放射線があるせいで高いからだろう。都内であちこち測った印象でいうと石があると線量の数値が安定しなかった。あんなものがあちこちにあるところで年間1mSv以下とか言うのは、測ったことのない人がなんらかの方法でだれかが測定した平均値だけ見てひねりだした机上の空論だとおもう。あと、ラドンのように地面から出ているものは地震のせいでよく出ているとかいうのもあるんじゃなかろうか。放射能のホコリが降ってきたとして、それが溜るのはやはり土だろうから、砂利とかコンクリよりも土の線量が高いところは要注意ということだろう。


2011/05/05 木

 中パ国境は越えられるしビザもとれるようでよかった。しかしインドパキスタン国境を越えづらいとなると、アジア横断のルートは中国から中央アジアを通るというシルクロードルートになる。インドパキスタンイランというルートは中央アジアが通りづらかった時代の代替品だったわけで、自分よりすこし上の「シルクロード」世代には垂涎ものの時代がやってきたということか。もっとも欧米人にとってすればイランアフガニスタンパキスタンインドというルートが理想的なので(アレクサンドロスルート+近現代の夢の地インド)彼らにとっては旅行しづらい状態がつづくのだろう。

 この先のルートとしては、山東南部 → 四川 → 青海 → 南疆 → カシュガルというのが考えられる。鉄道の時刻をみていると、北京ーウルムチがたったの二日(朝出発翌日夜着)で移動できる状態になっているらしい。すごい時代になってきたものだ。

 淮安市博物館。歩いていけるところにあったので、宿に荷物を置いてみにいく。
 戦国や漢代の墓からの出土品が大きな部分をしめていた。戦国時代の墓からでた木製の馬車の復元品が展示室の外に置いてあり、すごい工芸技術だとおもったが、中にあった出土品の実物を見たらこんなもんかとおもうようなものだった。まぁ漆がハゲてるからそうおもったのか。
 墓がまるまる置いてあったが、大木をそのままつかった木棺があった。中国にもあんなに太い木があった時代があったようだ。(戦国時代)
 楚州と淮安市の中心部のあたりの区別があんまりしてないのですこしとまどう。洪沢湖の向かいの泗州というのが康煕帝のころ水没してそのままというのは知らんかった。黄河がながれこむころまではこのあたり清水だったらしい。

 楚州区へ移動。市バスでたったの2元。さんざん歩いて中心に近いところにあるボロい街の中にあった旅館に入る。20元。外人は初めてらしい。公安の旅客登記ソフトがwebアプリだった。代わりに入力してやった。
 その後、街の端にあった城壁跡という土塁を歩いたり、博物館で見た河下鎮を見にいったりした。河下古鎮はわざわざテーマパーク的な再開発がされていた。こぎたないものを徹底的に排除しようとしていて残念なことだ。

 宿に帰ったら宿のおやじが帰っていて、興味津々で話しかけてきて、夜遅くまでつきまとわれたので日記とかつけれなかった。これは6日になってから書いている。

 そうそう。楚州の街のなかで目についたのが仲介だった。不動産の仲介と結婚の仲介。


2011/05/04 水

 例の実況の人はたまたま近所に住んでただけということか。名前があんまりネタすぎる。

 USB棒、ネットに接続するまで何度も切れたりするがどうもハード的におかしいっぽい。

 南通から東台(东台)。バスで30元。途中中学校の門が凱旋門になっているのをみた。
 東台は昼飯食ったあとバスターミナルから中心街までぐるっとまわっただけで次に行ったが、今からおもうといい感じに小さい街だったのでここで泊まってもよかったとおもう。うろちょろしていると横をサイクルリキシャーがついてくるうっとおしいところだった。全体に活気があんまりない。建物が立派なわりに仕事がすくないんだろう。街の中心にロッテマート(韓国資本のスーパー)などが聳えたつような街だった。

 ミニバスで白駒。8元。町というか集落の真ん中でおろされたが、その横の通りの名前が水滸街。まともな研究者からは無視されている施耐庵の墓があるところだ。といってもなにかあるかわからず来た。バイクタクシーのにいちゃんがヒマなのかしつこくからんでくるので施耐庵の墓はどこにあるか聞いてみたらよくわかっていないらしい。無視してとりあえず西の方にあるき、本屋に入って聞いてみるとその通りをずんずん歩けばなにかあるという。(今の会話力ではその程度しかわからない)
 行ってみたら施耐庵記念館というのがあった。しかし大々的に改装中で、中にはいっても見るものはあまりなかった。百八人の壁画くらいか。記念館の対面の壁の裏に「第五才子書」とか書いていて、素人臭がただようが水滸伝だからその程度でいいのかもしれない。
 記念館の横は運河の交差点になっていて、それを観にいく価値はあるとおもう。

 白駒から塩城(盐城)。通りがかりのバスをつかまえて12元。壮大なバスターミナルに壮大な鉄道の駅。しかしその二つを結ぶ地下道は水につかっていて使えないという素敵仕様。このあたり運河が縦横に走っており、駅のすぐ横にも水路があるくらいなので地下水位が高いんだろう。
 あんまり駅前が整備されていて人気がないので長居する気になれなかった。この次行こうとしていたのは淮安市楚州区だが、バスターミナルの路線図を眺めていると楚州と淮安は別になっている。駅にいって切符をしらべてみたらすぐ出る淮安行きがあったのでつい乗ってみてしまったが、看板で小汚い街が隠してあるようだったのでその裏を見にいけばよかったか。淮安行きが軟座しかないというので乗ってみたのだが、車両の端の席でトイレから強烈なアンモニア臭がするというひどい席だった。これならまだ素直にバスで楚州行きにのるか、塩城の街のなかを探検していたらよかった。
 塩城から淮安まで31元。列車は19時くらいに着くはずが、どんどん遅れて20時前。着いてみるとここも壮麗な駅だったが街から遠く人気がない。この路線はそういう路線なのか、それとも動車組(中国の新幹線)が通るのを期待しているのか。

 市バスがほとんど18時台でおわるというありさまで、駅前に宿もすこしあるがあまりに寂しく中心まで歩くことにした。市バスの中にひとつ夜でも走っているという路線があるがその番号がかくしてある。歩いてしばらく、市バスが向かい側をはしっていたので、本当に夜間バスがあったと知り、その先のバス停で待つと乗れた。そしてバスターミナルでおりたら閉まっていて、客引きにつかまってそのおばちゃんのいいなりになって20元の安宿に泊まった。


2011/05/03 火

 あいかわらずGmailの接続がよくない。日本に帰る前には中国のネット制限が厳しくなって使いづらい状態になっていたのを今更ながらおもいだした。中国にいながらネット越しの仕事をするのは現状だと無理だ。
 sshトンネルの具合が到着のころよりはよい。単純に五一のせいでネットが混雑していただけなんだろうか。

 バスターミナルの横に自転車を貸すところがあったので借りてみた。8元(押金200元)。旧城の堀をめぐったあげく、南通市博物苑についた。ここは南通の近代化に貢献したおっさんが自ら一般大衆のために作った博物館らしい。そのおっさんのおかげで南通は西洋資本のたすけを借りずに近代化した町となったという。中にはそのころ(1905)からある展示館と最近つくった博物館がおなじ敷地内にあった。
 古い博物館的な展示物を新しい博物館的に見せるやりかたが凝っていた。ホルマリンづけを新しいガラスの展示ケースに違和感ないように並べたり、植物標本を木の枠のあるガラスの中にいれて古い展示ケースの雰囲気をわざと残しつつ新しい展示に組かえたり。日本だとああいう方向に凝ることはないとおもう。
 展示の中で方輿勝覧のコピーをそのまま展示していたけど、僻地だったので住民の気風が純朴で、役人の仕事が楽とかそんなことが書いてあった。今も微妙に僻地なのがあわれをさそう。もともと崇明島も南通の管内だったそうだ。長江河口の北側は南通であったということらしい。五代の周代に江南への足掛かりということで「通州」となづけられてずっときていたが、民国になってから北京の近くの通州とまぎらわしいというので南通となったという。
 あとは製塩とか木綿とかの展示があったり民俗文化の展示があったりというくらいか。さすが中国一古い近代式博物館を誇るだけあって、過不足ない展示だった。二階になぜか魯迅の読書生活とかいう変なパネル展があった。

 四月末でクビになったところで問題が発生してメールがいっぱいきていたが、前から原因は指摘していたので、ネットの具合がいいことにsshトンネルでそのとおりやったらすぐ直った。ほんま、IT業界の底辺のレベルはものすごく低いでーww

 成都まで一気に行こうかなぁ。

 なるほど、アフガニスタンから出動したから一度アフガニスタンに戻ったということか。


2011/05/02 月

 中東TODAY: NO・1955「ハマース政治局がダマスカスからドーハへ移転」

 天安門孔子像3カ月で撤去の謎+ - MSN産経
 残念。せっかく北京まで現代中国の奇怪な物体を見物しにいくつもりだったのに。

 見れないサイトがあちこちにでてきて、中国に来た実感がわいてきた。
 Gmailがみづらくメールの返事するのも一苦労なので、金にならない仕事の返事もできない。

 さてこれからどこいくかな。

 結局長江の向こう側の南通まで来てみた。上海駅北の長距離バスターミナルから。65元。バス自体はかなりいいバスだった。
 バスターミナル周辺の宿はどこも日本人おことわりだったが、根気強く捜してすこし離れたところに25元の安宿をみつけた。安宿の割に小綺麗だった。とりあえずそのまま市内にでていったが、地下鉄の工事をしているらしくて渋滞がひどかった。
 文廟で骨董市やってたので、入って古銭をみていたら、銀貨を売っている人が銀貨を耳の側で鳴らせてみせた。銀貨どうしで叩いて銀貨の真贋をみきわめるシーンというのをテレビなんかで見たことあったけど、それを実地に聞いたのは初めてだ。澄んだよい音がしていたので好んで叩く人もいたとおもう。それくらいいい音だった。
 安宿の登記ソフトの入力を老板のかわりにやってあげた。これをやるのは今までで二回目だな。ここの漢字入力IMEはタブレットで字を書いたら画面いっぱいにその筆跡が表示され、字が入力されるというものだった。今までで一番わかりやすい漢字の入力方法だとおもった。

 迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち | 現代ビジネス [講談社]
 福島原発事故最大のアンタッチャブル…電源喪失は津波が原因ではなかった - アルファファモザイク

 作戦約40分間の末ビンラディン容疑者を殺害「正義を達成」 (CNN.co.jp)- Yahoo!ニュース
 再送:ビンラディン容疑者の遺体、海で水葬=米紙報道 (ロイター) - Yahoo!ニュース
 アフガニスタンに送って海で水葬って意味がわからん。(なぜアフガニスタンを経由するのという意味で)

 苏岩岛


2011/05/01 日

 すこし船が速すぎるようにおもう。そして昨日HDDの大移動をしている最中に電気を切られ、まだ大部屋の電気がつかないのでその作業は中断したままになる。どうしたものか。

 船でいっしょだった青年をユースホステルまで連れていくことになり、とりあえず一泊するつもりで藍山外灘にいってみたらいっぱいだという。メーデーだからそりゃそうか。相談していたらドミトリー希望の外人がツインに泊まることになって同室の人間をさがしているとのこと。渡りに船とはこのことで、とりあえず連れてきた青年は泊まることになり、自分もどうするか考えていたがやはりその運には乗るべきだとおもって泊まることにした。ツインに三人。二人が120元はらって自分が床に寝て60元。
 それで結局その青年をつれて上海を案内したような形になった。外灘 → 豫園周辺 → 上海旧城内 → 漕安市場 → 古北のあたり → 徐家匯 → その東北のあたり という感じでグルグルまわって疲れた。こういう案内をすると、自分が外から眺めるようなところしかまわらないということがよくわかる。まぁしかし一人なら入らないような飯屋にもはいれたのでよしとしよう。


2011/04/30 土

 今日は波が高く船酔いで死屍累々。
 風が強く、その風に煽られた波しぶきで船外はびちょびちょ。

 波にゆられるせいで、ノートパソコンの画面をじっとみつめると酔うのでなにもできない。


2011/04/29 金

 昨日の夜梅田のマクドナルドでネットをしていると、隣のサラリーマンがその無線LANのことについて聞いてきたので受け答えしていたらそのにーちゃんの部屋にとめてもらえることになった。大阪すごい!
 ということで朝になってまた梅田にもどってきてネット。

 順調にいけば今日の船で大阪を発ってあさって五月一日に上海につく。中国も五一で移動するのは難しいかもしれんな。
 今日 apt-get upgrade するのはむずかしかったか。11.04が正式リリースされたせいで鯖がおもい。たぶんこういう時と不安定な環境でやるべきことじゃないんだろうな。でも中国でできることだろうか。

 蘇州号乗船。今日は100人程度でそこそこの乗船具合らしい。昼も夜も食堂のメニューがそれなりにあった。したがって昼も夜もごはん50円+汁50円の組み合わせで食べられることになる。閑散期だと昼飯は選べないことが多くそれを見込んでコンビニでレンジごはんと納豆を買ったのだが、レンジごはんをつかう場面がなくなってしまった。


2011/04/28 木

 烏丸五条のマクドナルドであれこれ検討したあげく、阪急沿線を見てまわることにした。その後、午前一時に二階から追いだされ、四条河原町の店のまえで野宿し、朝の五時になってから阪急で東向日まで行って向日市文化資料館の前の潰れた生協の駐車場にはいりこんで資料館の開館時間まで寝て待った。

 向日市文化資料館。無料。向日市の中心である向日町のあるところは亀岡方面と京都を区切る山塊が半島状につきでたところの先端にあたり、これがまた古代から開けたところであったらしい。なかには先土器以後の各時代にわたって遺物を出しつづけているところもあった。古墳がつくられる時代になるとその最初期からその半島状のところに古墳が続々つくられるようになったそうな。
 展示のメインは長岡京なので、長岡京すなわち古代、古代すなわち奴隷制、奴隷制すなわち民草は圧政に苦しむといううんこ公式がそのままのこった解説となっている。まぁしかしつらいとか苦しいとか認知できそうにないことをさも当然かのように書けるもんだ。生活がくるしいから地方の反乱が続発したとか、収奪が激しいから人口が半減したとか、その程度の証拠でもあげて書いてもらいたいもんだ。そんな証拠があったらの話だけどな。
 長岡京の中心部長岡宮はその半島状のでっぱりの東側にある。で、その半島状のところには古墳がのこされたままだから、長岡宮の風景は大王陵でもない古墳をながめるものになっていたんだろう。古墳が発生した畿内でも最初期の古墳がここにあるので、この地にいた勢力は大和政権の初期から中枢近くにいたことになる。最初期というのがどれくらい最初期かというと、ある古墳は箸墓古墳の1/3の規格でつくられたというくらい古いらしい。その古墳にも登ってきたけど、長岡宮からよく見える位置にあった。もっとも古墳が全部のこされたというわけでもなく中には区画にかぶるので整地されてしまったものもあったようだ。
 遺棄された長岡京は田圃になり、集落が集村になるとかそういうよくある変化のあとその丘に向日町が成立して今にいたると。そもそも半島状のさきっちょだから、交通の目印になりやすく、西国街道の通過点となっていたので、戦国末に向日町が成立する前から町場があったんだろう。ということを今回行ってみるまで認識してなかった。しかし長岡京、南に山崎の橋があり、地形があんがい狭いところなので交通が集中するようになっていて、地図だけで見る分にはなかなか熱い都市だ。

 雨にふられて図書館や天文館で本よんだりするということがあったので、向日市の中心で三時ころまで時間をすごすことになった。その後、大山崎まで行った。ここにも歴史資料館がある。200円。
 山崎が交通の要衝になったのは長岡京がつくられたのと関係があるみたいに書いてあるが、それに先行して行基が橋をかけているから、契機としてはそっちの方が重要だったんじゃなかろうか。まぁ地形的に要衝なんだから何が重要とか言うこともないけど。まぁ長岡京平安京の存在が山崎の重要性を高めたのはまちがいない。展示はそういうことと、土佐日記のころ・離宮河陽宮・石清水の油売りのことと、天王山の戦いあたりのことが中心だった。そして自治都市が江戸時代も神領という形で継続したと書いてあった。
 昔ここに離宮があったが、その後、いつのまにか離宮八幡宮となっている。どうも石清水八幡の分社がここにあり、江戸時代に本社と分社で石清水の名前についての争論があった結果離宮八幡宮と名前を替えた、みたいな説明を展示の解説のおっさんがしたがいまいちわからなかった。おっさんはただの地元のボランティアの好事家ではっきりわかって説明しているようではないらしい。
 油祖 離宮八幡宮
 これみたら詳しく書いてあるな。まず製油を始めたところであると。そして石清水の元宮という扱いだったと。
 まぁたぶん支配関係については、石清水の威光で油の専売をしていたのだから室町時代のころは問題なかったんだろう。江戸時代になって山崎が離宮八幡宮の支配地と再定義され、専売の裏付けもなくなって直接の利益関係がなくなってから、石清水の呼称問題がおこったんだろう。
 大山崎油座 - Wikipedia
 これによるとそもそも離宮八幡宮自体がそんな古いものではないらしい。やっぱり離宮八幡宮の由来について不思議におもった人がいたということですこし安心した。エゴマ油の専売については足利将軍家との癒着で獲得したものらしい。

 山崎荘の東の黒門跡というのをみたらもう五時もまわったので梅田のマクドナルドでネット。

 エゴマ - Wikipedia
 これによるとエゴマによる製油は縄文のころ既にあった痕跡があるそうな。エゴマ油は中世末期、菜種油にその地位を追われたとあるが、菜種油 - Wikipediaにはそういうことが書いてない。

 しかしあれだな。大浴場があって個室で1000円台という宿が大阪にはあるから、サウナとか行ってみたってしかたないんよな。

 いいやもう野宿で。


2011/04/27 水

 京都着。

 郵便物がない可能性大。困った。
 うーむ。ゆうちょ銀行のゆうちょダイレクトにログインできないのは結局お客様番号というのが民営化以降にできて、それでログインしないといけないからということのようだ。まぎらわしいな。とりあえず総桁数を記号番号とおなじにしないでほしい。

 四条河原町の阪急百貨店跡にマルイが入っていた。ついに東京様が中心まで進出してきたか。
 四条通りに四条通無線LANみたいなのが入っていたので使っているけどときどきネットが詰まる。

 29日蘇州号にのるとして、今日明日とどこかで夜をしのがなければならぬ。まぁ寝袋もあるし野宿か。もう今日中に大阪にのりこんでどっかで時間をすごすか。天気予報だと明日の朝まで弱い雨ということだったが、リアルタイムレーダーで雨量の分布をみていると、ドバーと降ってそのうちやむようなスタイルの雨が来るようにみえる。

 大阪レンタサイクルナビ > 駅名一覧で探す
 何気に大阪のレンタサイクル整備されているな。

 マクドナルドにいるのにBBモバイルが入らず、四条通りの無線LANをつかっているが、とにかくすぐ止まってしばらく使えなくなるので、これからの事を調べるのが何もはかどらない。ぐぬぬ。

 烏丸五条にきたら普通だった。客層も仕事してる人が多い。最初からこっちに来てたらよかった。

 山形の源泉に異変アリ…自噴停止や水位低下 : 読売新聞

 中国で買った布鞋もついに底が破れてきて雨で水が染みてきた。捨てて新しいの買わんとなぁ。

 蘇州号の出るあたりには「なにわの海の時空館」と「大阪南港野鳥園」があるらしい。民博で一日ブラブラするのとこっちにいくのとどっちがいいだろう。明日はどっちにしても晴れるだろうし。

 明日一日堺見物でいいような気がしてきた。
 堺にいくなら、
 サウナ&温泉プール コパーナ(翌昼まで2200円)
 スパワールド世界の大温泉(翌朝まで2000円)
 が距離的にいいかな。今晩どうせ雨だしバスでつかれてるし。晴れてたらどっか公園で野宿するんだが。といってもこれを決めるのが十分遅かったので今日中に堺あたりまで行けないような気もする。

 ぐずぐずしているうちに今日中に堺まで行けなさそうな感じになってきたが、同時に雨も峠を越したようで、野宿できるかもしれん。

 映画「阪急電車」公開記念1日乗車券
 普通に阪急阪神一日乗車券を買っても1200円らしい。


2011/04/26 火

 UR賃貸住宅 関東エリア| 特別募集住宅

 nawa-pass

 今日の夜行バスで京都にいこうとおもっているがつい昼寝してしまうのー。快適なネットのある間にubuntu11.04を使えるレベルにしておこうと夜も寝る間を惜しんでごそごそしているとこういう無駄なことになる。つくづくアップグレードですましておけばよかった。
 そんなことをしているあいだに去年の秋にハローワークで登録した中国系人材派遣会社から電話があったのでとりあえず去年の10月につくった履歴書送っといた。大連で営業とか。

 京都行きのバス、今日割で3000円。安いなぁ。

 昨日今日と寝てると左膝の痛みもなくなってきた。

 バスの出発が深夜だからといって森田邸で待機してなくてもいいかもなぁ。
 この寝袋どうしよう。野宿なんか日本でしかやんないぞ。
 とりあえず持っていって誰かにあげたらいいか。

 vmware Playerが死ぬ。ためしにゼロからXPをインストールしてみたけどやっぱり死ぬ。うぅーん。

 そういうと昨日の話で、タイの製造業も(あのへんでは)強くて中国に工場をもっていたりするというのが意外だった。過去の話になりつつあるのか、今でもそうなのかいまいちよくわからんかったが。

 今は中国ビザがあるし時間を気にせず中国に滞在できるよい期間なんよな。まぁもっともパスポートがあと一年で切れるので、パスポートの残存期間が足枷になってくる。
 中国入国に必要なパスポートの残存期間は6ヶ月と書いてあるところもあるけど中国大使館にそれ書いてない。うーむ。
 → やはり何も書いてないから特に問題ないようだ。ということで、秋以降は中国で、それまでは行けるうちに行けるとこ行っといたらいいんだろう。

 携帯を繋げてもubuntu11.04すぐに認識しない。なぜかしばらくしてから認識する。前はすぐ認識してたのに。なにか入れ足りないのか、それともベータ版はこんなもんなのか。

○話を元に戻して、データは大切にすべきだと思います。その意味で、先週発表された「3月貿易統計」は有意義であったと思います。「貿易収支は1965億円」ということで、メディアの扱いは「貿易収支は前年同期比で▲78.9%!」という悲観ムードでしたが、私的には「な~んだ、赤字じゃなかったんだ」と拍子抜けしましたな。その程度で済むのなら、全然オッケーじゃありませんか。

○ご参考までに、リーマンショック後の数値をご紹介しましょう。2008年後半の貿易収支(通関統計)は、9月が+910億円、10月が▲752億円、11月が▲2275億円、12月が▲3222億円、そして翌年1月は▲9560億円!!!だったのです。文字通り、地獄の淵を覗き込むような経験だったのですが、不思議なことに2年半たつと皆、忘れてしまっているのですね。そして、「3/11震災の被害はリーマンショックをはるかに超える」と大真面目に言ってたりします。

かんべえの不規則発言 4/26

 ボロギル峠にCIAの基地ができてトレッキングのパーミッションもでなくなったとか。(2009ガーディアン情報)


2011/04/25 月

 土曜、ubuntu11.04にすなおにアップグレードすればよいのにHDDの整理のつもりでクリーンインストールしかけ、日曜はひらしょーのガイガーカウンターを借りてあちこちで測定してたので環境を復活させる時間もなく、今朝あれこれやってたけど寝てしまう。

 4/24日曜のガイガーカウンター一件。
 朝の九時前にひらしょーん家にいってガイガーカウンターを借りる。そのときは家の中だと半分くらいの数値になるとのこと。ガス灯のランタンのマントルというものの線量が高いらしいと言うので一緒にホームセンターに行ってみつけだして測ってみたところ、そのガイガーカウンターの計測範囲いっぱいの9.99μSv/hという数値がでた。マントルというのはランタンの中にいれてあぶらせて光らせるものらしいが、これが全て線量が高いというわけではなく、たくさん棚にならんでいたもののうちある商品の線量が特に高かった。一つ一つの線量はそんなに高くないのかもしれないがそのときは線量が高いだけで興奮していたのでそこまでしらべようとしていなかった。あと、すこし離れるとすぐ数値が下るので興醒めだった。ホームセンターの中であと高かったのは石くらい。花崗岩が高いと聞いていたので石売り場で測ってみたら0.2μSv程度だった。糀谷の駅前にあった座るための石も0.2程度で、これだけ質量のあるものでもその程度ということは先がおもいやられた。
 蒲田 → 新橋 → 豊洲 → 新木場 → 東京 → 皇居前 → 上野 → 上野公園 → 松戸 → 日暮里 → 見沼代親水公園 → 日暮里 → 赤羽 → 新宿 → 春日 → 王子 → 蒲田 という感じでまわったけど、結論から言うとみんなだいたい0.08-0.15くらいで大して数値もでなかった。例外的に高かったのが松戸で、松戸は江戸川を越えて列車が町のなかにはいるととたんに0.2を越えるようになった。あと、赤羽の東口の通りもなぜか高かった。
 石造物があると高くなるらしい。皇居前にいったら0.1-0.4とどうも数値が安定しなかった。皇居前の石垣の前にあった花崗岩のかたまりのベンチがいい感じに高く、0.6くらいは出していた。やはり質量があるとちがうということか。赤羽も駅前中花崗岩で敷いてあり、0.1後半から0.2くらいはあった。洋服の青山のビルは赤い石で飾ってあったがこれを測ってみたら0.35くらいだった。またひらしょーの家から蒲田に行く途中にあった区民センターのようなものも石でできていてやはりその周囲は0.2くらい行っていた。
 地下は高いと聞くが、それは岩盤剥き出しになっていないとダメなんだろう。大深度地下を走っている大江戸線で測ったら0.04-0.05で、測った中では一番低かった。ちなみに東京メトロはもうすこし高く、0.06-0.08だった。
 地形の効果はあきらかにあり、都庁のビル街にいってみたら0.17程度とたいして数値も出ず期待はずれだったが、その間の一段低いところを走る通りに降りてみたら、0.2を越える数値がでていた。谷の底になるので塵がたまっているということなのだろうか。
 この数値は小型のガイガーカウンターが出した値なのでまぁ絶対値としてではなくだいたいの目安としてみるべきものだろう。ただ相対的な傾向はとらえることができる。

 ubuntu11.04 だが、わざわざクリーンインストールなどしなくても普通にアップグレードですましておけばよかった。そんな大差ない。

 今日は中国の翻訳やってる人と会ってきたが、その人がいっしょにメコン経済の研究やってるバリバリできそうな若い人をつれてきた。なんというかオレなんかと会って時間の浪費しているのが申しわけない感じだった。

 土曜に ubuntu を11.04にアップグレードしようとし、ついでにHDDの整理をしようとしてからあんまり寝てなかったので今日は昼でかけた以外、森田邸で留守番しながら寝ていた。うぅーむ。
 ubuntu11.04起動が前より遅い。あとfirefox4速い。

 Asad abad - Arandu


2011/04/23 土

 結局日付がかわってからネットのできる森田邸にいく。
 中央アジアかなぁ。中パ国境でアライバルのパキスタンビザがとれるかどうかは今一部で注目の的だから5月になれば結果がわかる。

 from Ishkashim to Sarhad by horse - Lonely Planet travel forum
 当然のように馬が移動の選択肢にあがるのか..

 XバンドMPレーダ雨量情報  地域選択

 首都圏地盤に力、南関東のM7級誘発も…東大研 : 読売新聞

 ロンプラの掲示板でもアフガニスタンの情報あんまりないな。

 キルギス国際大学付属 国際教育センター
 こういうのがあるがどんなもんか。

 天気予報では一日中降水確率70%とかだったので、ダラダラと雨が降りつづく日本的な雨だとおもっていたのだが、実際にはスコール的な雨になっているのでそんな気にすることもなかったか。

 各種一日乗車券
都区内パス730円通年JR都内(蒲田・西大井・西荻窪・浮間舟渡・赤羽・金町・小岩・葛西臨海公園で囲まれる範囲内)
東京フリーきっぷフリーエリア1580円通年上記JR都内に加え、都営・メトロ・都電・舎人ライナー・都バス
ホリデーパス2300円土日祝その他JR東京圏(久里浜・平塚・大月・武蔵五日市・奥多摩・高麗川・川越・熊谷・小山・土浦・成田・成東・茂原・木更津で囲まれる範囲内)
東京メトロ都営地下鉄共通一日乗車券1000円通年メトロと都営
 とはいっても台東区のレンタサイクル一日200円三日300円で最強か。

 タジキスタンのビザはビシュケクですぐ取れる。
 ビシュケクでのウズベキスタンビザは相変わらずめんどくさいらしい。イランビザは日本人が勢いでいっぱい来たので取らせてくれないらしい。
 アフガニスタンのビザはタジキスタンのワハン回廊の近くkhorugで取るのが楽チンらしい。そしてその近くの国境ishkashimはいつでも通してくれるらしい。(有名なテルメズとかは通してくれないらしい)もっとも入っても違う出口まで行くのは大変らしい。

 googleの検索結果が最近急にわるくなったような気がする

 順当に考えて最速最安の渡中手段は4/29の蘇州号か。問題は地震をおそれて帰国する中国人でコミコミじゃないかということだな。中国人が多いことは問題ではないがコミコミだったら問題だ。

 郵貯のクレジットカード申しこんでいたらなんと審査通っていたらしい。大丈夫か。郵貯のクレジットカードには海外ATM使用料がない。そのかわり一年に1000円くらいとられるらしいが海外ATM使用料がないからそれで十分だ。スルガ銀行のVISAデビットカードは、ショッピングの場合ただのデビットカードですむが、海外キャッシングするときの海外ATM使用料の他の手数料が3%に上がったのでセゾンカードに対する優位性がなくなった。郵貯のクレジットカードは金利もセゾンカードにくらべて理論植上は安いし海外ATM使用料がない。あとは実際に引き出してみて、実際の利率がどれくらいになるか、どんな制限が付与されているか、が問題になる。海外キャッシングの枠がすこし心配だ。しかしこうしてクレジットカードを増やしていくのはどうなんだろう。

 これからHDDを整理する。
 ファイルありすぎ。


2011/04/22 金

 「もはやすべての行きがかりをなげうって、入閣するほかない」:日経ビジネスオンライン

 さて昨日の事だが。
 成田から歩いて「房総のむら」。区域へ歩いて到達したところの一番最初にある学習院初等科の建物に近寄ると、なにかのロケをしていた。この房総のむら、映画村のような使われ方もしているらしい。知事つながりか。その後、園内にあった民家の中にもそういう人がいっぱいいて邪魔だった。
 この房総のむらは風土記の丘のそばにあり、風土記の丘というのはだいたい古墳群があるところにつくられることが多いのだが、ここも例にもれず100からの古墳があり特に終末期古墳が多いところに特徴があるらしい。この近くに龍角寺というのがあって、今はほとんどのこっていないが、古代寺院があり、山田寺とおなじ規格の瓦を用いていることがわかっているという。これは龍女伝説がつたえる年代よりも古く、中世になって附会された起源よりも実際の方が古いという珍しいことになっている。そんな古い寺があったのも終末期古墳が多かったのと関係あるんだろう。
 岩屋古墳とか風土記の丘資料館とかを朝のうち見て房総のむらの中の民家とかをザーっと見たあと、龍角寺にいき、その後ダラダラと安食まで歩いた。安食駅のあるあたりは栄町で、大正とか昭和前半の匂いがするネーミングだが、意外なことに昭和30年の町村合併でつけた名前らしい。ここから印旛沼の水路をこえて西側へ渡るところの手前に神社があってこれが子宝祈願のお堂も併設しており、チンコの木像があったりした。
 安食から次の小林まで歩いたが、交通量が多くて狭い道を延々と歩くことになり、相当つかれた。ここから電車にのって都内に帰ってしまったが、今からおもうとこの次の木下は木下河岸でそれなりに見所もあるはずなので野宿していってもよかったかもしれんがまぁ自転車もなく広いところをさまようのは疲れるということだ。

 ということで昨日は江藤邸にとめてもらった。おっさん二人なので気楽だがネットがない。しばらくいてもいいといわれているがどうしようか。
 そういうと昨日の夜は地震があったそうだが、結局寝不足でさっさと寝たので全然気付かなかった。残念なことだ。

 江藤邸から中山道まで出てそこから巣鴨まで歩いてマクドナルド。まず自転車を借りにいくのがよさそうな気がする。

 国内の神代文字・ペトログリフ資料

 河野太郎 | 救済されるべきは東電ではない

 国立国会図書館様所蔵の地図資料に対する保存修復処置事例

 DPZ:流し素麺の聖地・唐船峡巡礼

 かなりどうでもいいけど左足のひざが最近痛い。なぜかわからない。自転車のせいか?

 <検証・大震災>不信洗った、ヘリ放水 原発から白煙…政権「世界に見放される」 :毎日新聞
 よくこんなタイコ持ち記事書けるな。

 昨日房総のむらへ行く途中の石像に三つ股にしてなにか仏教系の呪文が書いてあったものが置いてあってなにかとおもっていたが、房総のむらの野外展示で安産祈願のものだとわかった。
 あと写真みかえしていておもいだしたけど、香取神宮の宝物殿に明治六年四月の神社の掲示があって、その板のなかに英語も併記してあったのが珍しかった。

 板橋にあった中山道ぞいの解説の看板にこんなのがあった。

 板ばしと 聞イてむかひハ 二人りへり
旅送り、旅迎いの余録は女郎を買うことで、それを楽しみに遠路をいとわずやって来るわけだが、板橋の飯盛じゃぁ、御免蒙るという意。
 板橋へ 着てしたたか 汁をくひ
中山道を旅してやっと板橋へ着いた。塩辛い田舎の味噌汁には閉口したが、さすがに板橋は江戸のうち、汁の味も江戸風であるのが有難い。板橋は江戸では格落ちだが、それでも街道筋の宿場にくらべればまだましといったところであろうか。
 この看板に川柳はこの二つしかない。なんでこんなに自虐的なものしか選ばなかったんだろう。

 民社協会 - 電力総連

 明日雨か....

 HDDの容量が99%になっている。整理しないとなぁ。

 結局今日は中山道を東大の前まで歩いてそこから上野へ降りて稲荷町のマクドナルドへ行くということになってしまった。今晩はどうしようか。とりあえず江藤邸いくか。遠いなぁ。

 朝日新聞社:地球観測衛星「だいち」電源喪失 宇宙航空機構が発表

 ストレス耐性がある人ほどゆっくり動いて見える不思議な画像 :教えて君.net

 キルギスってビザなしで二ヶ月もいられるのか。

 リアルタイムレーダーでみるとどでかい雨のかたまりが関西方面にあるな。これが明日関東まで来るのか。うーむ。
 うーむ稲荷町のマクドナルドって0時に閉店するのか。出るか。


2011/04/21 木

 無事作業終了。うーむ。野宿できそうなのに1000円払ってネットカフェで泊まれるようなお大尽にいつからなったのか。あと、マクドナルド、24時間営業と書いてあるところは客席を完全に締めだしていなかった。ネットカフェでいつサーバの移設が終わるのかイライラしながら待つよりは、がっつり野宿して5時くらいにマクドナルドに入ってサッとやったらよかったか。冬ならともかく。


2011/04/20 水

 うーむむむ。今日香取方面へ出発しようとおもってたけど、サーバの移動が今晩あるということになったから明日の朝はネットにつないでいる状態でないといけないが、香取方面って泊まれるネットカフェがないらしいんだな。どうするべきか。
 マクドナルドがあるからいいか。
 ということで出発しよう。

 佐原へいくと、やはりレンタサイクルは一日300円だった。それはしかたないとして、二日借りるのは無理だった。うむむ。これなら普通に台東区で三日レンタルとかして遠征したほうがマシだった。
 しかたないのでまずは千葉県立博物館大利根分館へ。佐原から利根川をわたったところに大きな水門があり、近寄ってみたらレンガ造の閘門みたいなのがあったがこれは横利根川の河口で、その閘門だったようだ。
 適当に大利根分館へつくと、その横にあった水生植物園は地震でダメになったらしく、今でも閉園していた。そしてその駐車場に仮設風呂があった。佐原の町中も瓦がくずれたところがおおく、屋根にブルーシートかかっているところが目立っていた。ここも被災地か。
 大利根分館の入口にも段差ができていたが、分館自体は節電気味で営業していた。展示物でおもしろかったのは石枕か。全国の出土例の半分が千葉県らしく、さらに特にこのあたりに多いらしい。
 他には歴史展示ではないが、外来種の亀とかすっぽんとかブルーギルとかの水槽があっておもしろかった。すっぽんとか外来種のでかい亀とかは近付くと寄ってくるのな。噛まれたりしそうだ。あと、水槽から跳び出たりするので絶対に手を出すな(要約)と書いてあるくらい元気だという外来種もあった。
 あとは大栄にあったという松子城が典型的な中世山城だったそうだが今は開発で消えてしまったとか。開発ってなんだとおもったが、どうも成田空港建設のときにここの土をつかったらしい。→ 松子城 余湖
 もったいない話だ。

 次は香取神宮だが、地図をみると東からぐるっと輪を描くのはできないようなので、しかたなしにもとに戻って閘門の横を通って佐原の市内へ。市内を走ると液状化の被害がかなりあったけど、あとで明治のころの地図をみると、そのあたりは言わば新市街で、昔は利根川の遊水池であったところを利根川の整備で陸地になったところであるようだ。佐原の古い町並みがあるあたりこそが昔から町があったところだった。でもそのあたりの古い建物は結構瓦が落ちていた。
 古い町は適当にザっと見て、自転車で香取神宮へ。うーん。まぁこんなもんか。ちいさい宝物館があり、雑然といろんなものがならんでいたが、中に鉄板が二枚宝扱いで展示してあったのは朝鮮の伽耶の鉄が輸入されてたころの鉄板なんだろう。
 香取神宮の裏のあたりには茶屋とかがあって展望台みたいなのがあったが、桜の枝が伸びすぎていて、あまり見晴しはよくなかった。昔は霞ヶ浦方面を見晴せたんだろうか。
 今迅速測図をみると、旧参道といわれていたものがたしかにメインの通りになっている。そのメインの通りは奥の宮と本殿エリアの間だけで、そこから南北に道が出ていたようだ。

 あと伊能忠敬記念館をみてきた。旧家もあったけどこっちは被災したらしく公開していなかった。
 伊能忠敬は測量のとき、時間を測るのに振り子時計をつかっていたらしい。経度を正確に測るためには正確な時計が必要だが、どうも振り子時計では役不足だったようだ。経度は何で測っていたのか不思議だったのだが、結局経度での補正はできなかったということなんだろう。大日本図も経度方向にゆがんでいると書いてあった。

 さてレンタサイクルを返すためがんばって観光したらみるものはみれた。そこで鹿島神宮にいってみることにした。
 鹿島神宮についたころには日がおちてあとは暗くなるだけ。まぁ本殿とかに興味はなく、要石をみにいった。香取神宮にある要石がこれと対だというのだが、たぶんこっちが最初にあって、香取神宮にあったのは後付けだろう。
 あと、御手洗池というのがあったが、古代のころは海がここまできていて、直接ここから神社に入っていたらしい。そういうことが駅前の案内に書いてあったのでもう必要な情報は得たような気分になっていた。
 駅から神宮までの短い道のりでも震災の被害があちこちにのこっていた。といっても主に液状化なんだが。水道とかガスとか大丈夫なんだろうか。

 鹿島にはあと城跡とか郡家跡とかあるのだが、もうなんとなく満足した気分になってしまった。とりあえず駅にもどって時間をみたらあと10分くらいで列車が出て、その次は二時間後になる。ということで列車にのって成田まで来てしまった。
 とにかく明日未明にサーバにログインしていろいろ確認したりうごかしたりしないといけないが、それをやる環境が必要だ。マクドナルドで十分かとおもってたけど、店によっては深夜帯に客席を使わせないようにするところもある。鹿島方面はあんまりにその選択肢が少かったので成田まできたというのもあるが、ここまできたら東京方面までもどっても大差ないがどうしたもんか。ううーむ。

 そういうと江戸時代の佐原の繁栄については伊能忠敬記念館が詳しかったが、地図だけみると、佐原が繁栄したのって土浦方面の霞ヶ浦と利根川の合流点が佐原だったからじゃなかろうか。

 前知恵というのもあんまりよくないもので、両神宮についていろいろ偉そうなこと書いてあるのを現地で見ても、どうせ藤原氏の権力でいろいろやった結果だろとかおもってしまう。


2011/04/19 火

 森田邸っす。

 10年以上の長寿命を実現する大容量蓄電モジュール「LIM1001」 - GIGAZINE

 米国が原発80キロ避難にこだわった理由  WEDGE

 武田邦彦 (中部大学): 原発 緊急情報(55) 3ステップ(その2)
 たしかに今の状況なら放置しとくよりはとっとと除染したほうがいいよな。

 うーむ朝で雨おさまったな。これなら洗濯せずに香取方面行けばよかったか。

 鹿島香取が神宮だったのは藤原氏と関係があるらしい。中臣氏自体が鹿島の神官だったという話がある。
 星神香々背男

 結局今日は昼寝してしまいだったか。

 やっぱり光はダウンロードが速いなぁ。


2011/04/18 月

 ククク。別の人がサーバをいじったときに今動いているサービスのデータベースをまるごと消してしまった。まぁ Ruby on Rails なんかを仕事につかおうという人だからよっぽどおっちょこちょいなんだろう。ただ昨日の昼から今朝の7時前まで長時間ログインしっぱなしだったので、あるいはしでかしたことに自分でも気付いていたのかもしれんがそれは知らん。とりあえず復旧しといた。

 「日本を反面教師に」中国は冷徹に評価:日経ビジネスオンライン

 東京にいるのは事故関係で東北行き同行がなくなって待機状態になったのもあるが、その一方で、次の巨大地震が起こるならそれを体験したいので待ちかまえているというのもある。東京で巨大地震が起きたら神経の弱い東京人がキーキーさわいでそれはそれは見物だろう。とはいいつつこういう中途半端な宙ぶらりんな状態で野宿をつづけるのはよろしくない。野宿をつづけるにしてもどっか拠点を持つ方がいいに決まっている。ではそれなりの金をはらってそういう拠点を確保するべきか。うーむ。

 今晩の真夜中から明日の朝にかけて雨がふりそうだが。
 香取市のレンタサイクルが無料なので今から行ってもよさげ。二日借りれるか電話してみたら相談次第ということだったのでいけそうだ。香取まで行って鹿島とかあのあたりを自転車でまわるのはよさそうだ。ただ明日午前の天気は雨っぽい。どうしようかな。
 雨を機会に一度森田邸にひきあげて上から下まで全部洗濯するというのもよさそうだが打診して返事がある前に香取のレンタサイクルをみつけてしまった。

 基本的に千葉県は月曜休館みたいだから今日行く意味ないな。
 そして被災地になるのか。

 千葉県立博物館大利根分館 月曜休館 1000-1630 200円
 伊能忠敬記念館 月曜休館 0900-1630 500円
 香取神宮鹿島神宮に地震鎮めの要石というのがあるらしい。
 潮来風土記の里
 潮来の郷土資料展示室は図書館の二階
 鹿嶋市大野潮騒はまなす公園郷土資料館 月曜休館 0900-1630 300円 (ちょっと遠い)
 神栖市歴史民俗資料館 月曜休館 0900-1600 無料

 神栖の息栖神社は鹿島香取とならぶ神社だそうだ。

 香取市山田の観光情報 -山倉の鮭祭り- 香取市商工観光課
 こんなところに遡上した鮭を祭る祭があるらしい。

 サマータイム制は論外 坂村健 - 毎日jp

 DPZ:うどん餃子は本当に高槻名物か

 日本人が気づかない世界の深刻な食糧事情 ――柴田明夫・丸紅経済研究所代表に聞く|ダイヤモンド・オンライン
 ここでは2000年以降の実需の増大と旱魃のふたつがあげられているが、旱魃についてはすでにアフガニスタンで先がけておこっており、ペシャワール会のおっさんとかがこれから旱魃が広がると警告していた。大勢としてその流れがイスラム圏で革命さわぎをおこしているのなら、タリバン運動はその先駆ということになる。

 世界の言語はすべてアフリカから始まったらしい : ギズモード・ジャパン
 混沌から秩序へということですか。

 暇人\(^o^)/速報 : 津波から逃げ遅れた宮城県名取市民だけど質問ある?

 マレー版日本旅行案内の日本語例
 I am very grad to see you. : Yoku o ide nasaimashida.
 Have you any beer? : Boiiru ha, arimasu ka?
 I suppose you haven't bedsteads, have you? : Nedai wa, arimasumai,ne?
 It is dreadfully hot. : Atsukute, shi-yō ga nai.
 Please open the paper slides. : Shōji uo akete kudasai.
 Bring some cold water. : Mizu motte koi.
 When will it be ready? : Itsudekimasu ka?
 As soon as it is ready. : Deki shidai.
 Give me a glass of water. : Mizu uo ippai.
 Please give me some more. : Motto kudasai.
 I am hungry. : O naka ga sukimashida.
 I want something to eat. : Nani ka tabetai.
 Please get it ready quickly. : O shitaku uo hayaku dōka.
 I want to get shaved. Is there a barber here?: Hige wo sotte moraitai ga, koko ni tokoya ga arimasu ka?
 There is. : Gozaimasu ( more polite than Arimasu)
 Then send for him. Sonnara yonde koi.
 Please to accept this small sum as tea-money : Kore wa, sukoshi desu ga, -- o chadai desu.
 It is time to start. : Jikan ni narimashita
 It is so nasty I can't eat it. : Mazukute taberaremasen.
 We will engage the whole (car, boat, etc.). : Kai-kiri ni itashimashō.

 うむむ。ミシガン大学か。


2011/04/17 日

 携帯の電池が切れた。そのままでもいいかとおもったが同時にカメラもつかえなくなることに気付き、充電することにした。

 小田原城内で野宿したが快適だった。
 箱根湯本まで行ってみたけど、大衆浴場が町内150円町外650円とかいう法外な値段だったので入らなかった。
 早雲寺で北条五代の墓というものをみてきた。
 郷土資料館に行ってきたが、その展示によるとロシアのマトリョーシカというのは、箱根の木工細工を真似したものだという。実際に、マトリョーシカ誕生100年を記念してロシアの方から箱根に記念品が送られたとか。
 幕末のころの温泉場の写真があったけどそれをみていると茅葺きの家が普通に多かった。温泉宿の屋根も茅葺きだった。
 江戸時代には箱根七湯といって奥の方は開かれておらず、中には地獄などとよばれて硫黄取りしか近寄らないところもあったそうだ。
 箱根の温泉街を登っていくのが東海道だとおもっていったが、この東海道は明治以降の国道としての東海道で、江戸時代の東海道は箱根湯本から温泉街の方をとおらずまっすぐ芦ノ湖南岸の箱根宿までのぼっていくルート取りだったらしい。

 その後、箱根湯本から新宿まで通しで買ったら安くなるかなぁとおもって買ってみたがちっとも安くなっていなかった。買う前に気付けというところだが。そして結局稲荷町のマクドナルドで充電とネットをするということになる。何をしているんだろうか。
 どうせ同じ値段なら小田原でまた降りてなにかしてた方がよかったんじゃなかろうかとおもわれる。

 野宿生活の副作用、寝不足がでてきた。眠い。

 国際放射線防護委員会によると自然界から受ける放射線の世界平均が年間2.4ミリシーベルトらしい。1ミリシーベルトという基準はそれに加えてということらしい。しかもレントゲンなど医療行為による被曝はこの計算から除外するらしい。世界平均ということはそれより多いところも少ないところもあり、1ミリシーベルトを越える幅をもっているはずだ。日本みたいにもともと低いところならともかく、もともと高いところはどうなるんだろう。

 静かに立ち去った米軍 « maclalala2

 原発推進学者が次々懺悔 「国民に深く陳謝する」 : J-CASTニュース

 箱根の郷土資料館の展示によると、明治のころの日本のガイドブックで一番メジャーなのはマレー版日本旅行案内だという。9版まで出版されていたらしい。それくらいの時代のものならネットに落ちているだろうとおもってさがしたら、internet Archiveに落ちてた。でも説明の版とファイルの版がちがうのでまとめてみた。
A handbook for travellers in Japan : John Murray

第八版が二つあるのは別々の図書館に所蔵され別々に電子化されたからで他の意味はない。

 ついに東北本線仙台まで全通したか。

 そういうと昨日よんたいさんのお供で小田原にいったとき、よんたいさんが昼飯高そうなところに入ろうとすると高いと文句を言い、安そうなところをわざわざ選んで入ると揚げ物ばかりと文句を言ったりしてタイ駐在の憂さばらしの邪魔をしていたので、もしよんたいさんが一身上の都合でブログをやめておらずつづけていたなら、ブログでひどく罵倒されそうな感じだったが、よんたいさんと駅でわかれてから小田原をブラブラしていたら「あじのたたき 880円」とかそういう昼飯を売っているところがあった。しかもそこは城へ行くときに一度通っていたところだった。昼飯さがすときにそういうのにぶちあたっていたらよかったのだがまぁ仕方ない。あとでわかったが、そもそも小田原の繁華街から微妙にハズれたところばかり歩いていたしなぁ。


2011/04/16 土

 上野公園の大通りで野宿しても花見の季節だから誰も怒りにこない。いい季節だ。

 朝、よんたいさんと合流して小田原へ。
 小田原の城下と城内をみてまわっただけで時間がつぶれたので、大阪へ急ぐよんたいさんとわかれ、その後郷土文化館を見た。そこの展示にあった幕末の小田原地図に台場があったので、その跡を探しに海岸の方まで行ったがみつけられなかった。あとで地図をみて照合したところによると、現代の地図からみてこれかなぁとおもったところがそれであったらしいが、現地でみたらそれっぽくなかったので素通りしてしまった。たぶん台場の跡とかいう表示もないんだろう。
 日がくれてから城山というところへのぼってみた。その端の方に戦国末につくられた北条氏の総堀があるということで、行ったわけだが、月あかりのもととはいえ林に覆われて真っ暗だったのでよくわからなかった。
 小田原の駅前にはマクドナルドがなく、マクドナルドがあるところまで行くのもおっくうなので、駅構内の観光案内所近くにBBモバイルのポイントがあるのを幸い、構内に座ってこれを書いている。終わったら小田原城周辺で寝るつもりだ。


2011/04/15 金

 なぜ政府は現場が活動しやすいように手を打たないのか JBpress

 国分寺から豪徳寺のあたりまで二時間でいくのはきつそうだ。→ 一時間半でついた。

 なるほどうまい話というのはなかなかないものだ。
 豪徳寺のあたりまで自転車でシコシコ行ってみたが、大家と退去予定者の不信が極度に高まって、女の不毛な争い状態になっており、その間に立ってなんとかするというのはむずかしそうな状況だったのでやめてきた。あぁおそろしいおそろしい。というかああいうののはひとつひとつ地道に潰していけば解決できるんだろうが、大家もなんか変なこと言ってきてたのでそこまでやる気がおこらなかった。
 しかも、都立中央図書館にいってみたら閉まっていたので、結局上野まできて自転車を返却し、稲荷町のマクドナルドでネット。徒労だった。これなら昨日の時点で世田谷のただ物件はあきらめ、自転車を返して西の方へ行き、今日タイ現地法人社長殿とどっか遊びにいったらよかった。

 意外と奥深い。アメリカでかつて栄えたソーラー発電が廃れた理由 : ギズモード・ジャパン

 玉川岩盤力の数値についてご紹介します

 頭をあらわずにいると脂が腐って臭くなるという現象が自分にもおこることを遂に確認した。たぶん脂汗が昔にくらべて増えてきているんだろう。今までこういうのはあんまりなかったんだが。

 中東TODAY: NO・1949「英仏にあせりか?米は今後リビアでどう動く?」

103 :@(沖縄県):2011/04/14(木) 10:04:00.53 ID:EQmTuUaI0

トンキンやダ埼玉のように自前で電力も用意できない所があるから地方が原発の犠牲になるんだよな。

1日あたりの生産電力量
■沖縄県 1616万キロワット
■千葉県 1550万キロワット
■神奈川県 1000万キロワット
■茨城県 660万キロワット
■栃木県 280万キロワット
■群馬県 240万キロワット
■東京都 220万キロワット  ←クズ 地方への依存度98%
■山梨県  110万キロワット
■埼玉県  なし(水力5万キロワット) ←ゴミ たかりの名人

 東京など渡航延期解除=80キロ圏内退避は継続―米 :時事通信

 池田信夫 : 東電をどう処理するか

 佐藤正久: 本日の外交防衛委員会、震災対処について聞く

 DPZ:男は黙って巨石パーク


2011/04/14 木

 ノートパソコンの電池だが、今日は普通につかえる。どこか接触がわるく、充電池の機能が全部つかえたりつかえなかったりするんだろう。たぶん本体のACアダプタの差し込みの周囲のどこかだろう。

 昨日ルームシェアの掲示板みたいなのみてたら、4月末まで、退去する人の管理をする代わりにただで住んでていい、みたいな条件のところをみつけたのでためしにメールしてみたらトントン拍子に話がすすんで管理することになってしまった。東北行きのことをこれっぽっちも考慮にいれてないが、社長から連絡ないのでまぁいいだろう。

 今日は国分寺まで来た。あらためて地図でみると遠いな。よんたいさんと共にアジナー邸投宿。無論自分だけ別行動で自転車できたのはいうまでもない。アジナーさんとこの子供をはじめてみたけど2歳にもなるとここまで大きくなるのな。最初に吉祥寺で集合したとき、笠原さんをひさしぶりに見たけどすごい変化でおどろいた。まぁしかしみんな一国一城の主に進化していっててすごいなぁ。


2011/04/13 水

 今朝は冷えたなぁ。まぁ明日の朝は暖かいらしいから大丈夫だろう。

 そんでオレはどうしたらいいんだ。東京にいるその尻がわからんからとりあえず野宿生活に突入してみたけどあるいは東京にいなくてもいいのか。

 【放射能漏れ】「原子力発電所の清掃」などの求人に申し込み殺到 勤務3時間、時給1万円 - MSN産経
 おれもやりたかった

 台東区のレンタサイクルの自転車を借りた。3日以内に返すコースで300円だが、実質4日後となる。
 それで南千住の安宿街をみてきた。あんなに広がってるとはおもわんかった。まぁでもだいたいどこでも一泊2200円が多い。奥にはいると1000円台が増える。中には一泊1000円というところもあったけどたぶんベッドあたりなんだろう。高いなぁ。

 -月に咆える-  あの「広告」は本当なのか。

 Togetter - 「かなり厳しい話」

 与野党から首相批判噴出…1か月過ぎてレベル7 : 読売新聞
 まぁ東日本がダメになるとか言ってたくせに今頃出してくんなということですね。

 ただちに健康に影響が出るものではない。だが...
 一般人の放射能に対するイメージってこんなもんなんだろう。

 第四世代原発

 常磐線ってもういわきまで全通してるのか。すごいな。

 NHK水野解説員 出番を減らされていた事実が発覚:ハム速

 直線しきい値無し仮説
 ホルミシス仮説
 どっちが正しいのか検証できるチャンスだな!

 連環画 鉄道遊撃隊(10)をやっつけた。がんばったら一日でできる程度の仕事なんよね。
 これで日本軍の小林隊長がつぶやく言葉として「兵敗如山倒」というのがある。これ何か典拠のある言葉かとおもって検索したらそれらしいのがみあたらないが、現代中国語の中では套語として浸透しているようだ。似たような言葉として「賊敗如山倒」というのが清史稿にでてくる。あるいは民国の軍閥時期になにかでつかわれて有名になった言葉か、蒋介石の国民党の負けっぷりを形容する言葉として使われたか、もしくはこの鉄道遊撃隊のここ自体が現代中国語の文脈での典拠なのか。

 野宿生活は早起き必至なので早寝しないといけないのに今日もまた24時前まで無駄にがんばってしまった。日が沈んだら寝て登ったら起きる程度に長く寝れば、地べたに寝ていても疲れがのこらない。


2011/04/12 火

 昨日は雨ふったので江藤さんとこ泊めてもらった。週末までは雨にならないみたいだし今日は風が強いから昨日の湿気も飛んで週末まで野宿でいけるだろう。というか東北行きがどうなるのかまだよくわからん。そもそも今はどういう状態で社長から金をしぼりとっているのか不明でもある。
 五月以降の二ヶ月ほど、ボラバイトするのも手だ。ボラバイトというのは態のいい契約奴隷だが、まぁ物好きにはよさそう。これから農繁期なので、おもしろい仕事もあるだろう。ちなみに賃金水準も現状と大差ないというのがまたたまらん。

 まぁしかし今年の内に別の地域で本震がおこったりしたらおもしろいな。東海地震とか東海東南海南海連動地震とか。福島の原発みたいに東京までとどく可能性のないことでも東京まで来る!みたいな感じでピーピーさわいでいたので、実際に東京までとどく可能性のある浜岡原発がどえらいことになったら東京人のパニックは相当なもんだろう。今からたのしみだ。

 ウクライナを見よ、 原発事故でも農業は揺るがない|食の安全|JBpress

 パキスタンビザの取得は確かに難しそうだが、フンジェラブ越えのスストでのアライバルビザは中央政府関係なしに発給しているっぽいから、とれるかとれないかは行ってみないとわからない状態なんだろう。たぶん普通の場合とは違い、通常にビザをとっていくよりそれにたよった方が入りやすくなってしまっているんではなかろうか。

 巨大風車による環境破壊: 日本に巨大風車はいらない
 福島には原発が必要だった - 夢の中ではうまく歌える

 菅政権、震災のドサクサの中で「ネット規制強化法案」を閣議決定 - NEWSCATCH
 週刊ポストの馬鹿記事に釣られる奴多数、っていうか孫正義まで釣られてカーニボー: 切込隊長

 そういうと今朝ひさしぶりに乗る満員列車を堪能しようとおもってわざわざ山手線にのったらどっかで停車しているときに車内でビュワービュワーとでも形容するような音があちこちからなったがあれは携帯の地震警報らしく電車が揺れていた。でもみんな慣れっこになったのか全然平静だったので、もっと警報を鳴らすレベルを上げたほうがいいんじゃなかろうか。

 秋葉原と稲荷町のマクドナルドをはしごするさまは以前に逆戻りしただけか。そして上野公園で野宿。安直すぎる。
 しかしもう日も暮れたからさっさと寝に行ってもいいな。
 とか何とか言いながら連環画 鉄道遊撃隊(9)をアップした。次の10集でおわりか。


2011/04/11 月

 三重県知事になった人が36歳であることに注目したい。

 「都知事―権力と都政」より、石原都政三期十二年を振り返る | Kousyoublog

 【大震災特別連載】官邸機能せず(中) - MSN産経

 薩藩史研究会(代表大久保利謙)編 『重野博士史学論文集』 下巻 - 書籍之海 漂流記

 昨日は野宿したくて上野公園で野宿したが、花見客がいっぱいで野宿しにくいかとおもいきや、いっぱいなので警備もいいかげんでとても野宿しやすかった。社長に前わたされたきたない寝袋をその後なんとかキレイにして今回初使用してみたが、やっぱり夏用だから若干寒く、結局防寒シートの助けを借りた。

 事故だが、今日お菓子を持っていっていろいろ探ったところ、物損ということになりそうだ。保険適用の鍵もなんとかなりそう。
 首が痛いと言ってたおじさんだが、本当に痛かったようだがあれは前の事故の後遺症で、今はなんともないらしい。救急車を呼ぼうとしなかったのは無駄に出費を増やさないための心遣いだったということだろう。まぁその場で無駄に勘繰ったりせずやるべきことを淡々とやったのは結局よかった。
 ちなみにお菓子は駅についてから適当に1000円程度で買った。いちおう万人受けするカステラを買おうとおもっていたが、駅の改札の横に餡の種類が多いベビーカステラみたいなものを売っていたので、33個1000円余りというのを買った。まぁ会社に持っていくのにはちょうどよかった。

 従来のスーパーコンピューターの1000倍以上の速度で演算可能な「1分子コンピューター」につながる技術が登場 - GIGAZINE
 1分子コンピューター内の情報書き換えに成功|分子科学研究所

 レンタサイクル 台東区ホームページ
 そういうと前回東京にいたころに自転車をこれで借りるということを考えていたことがあったなぁ。しばらく乗るならこれが安い。でもこのことをすぐ忘れてしまうという..

学問は僧侶と詩人がするもの、商人の息子は市場に座るべき
学び過ぎると乞食になるぞ、年長者の言うことを聞きなさい
これでインディア 2011年3月8日「ヒンディー語最初の自伝」

 DPZ:米を麦芽で発酵させたうまい飲み物

 このノートパソコンの充電池、復活したとおもったけど、どうも容量がものすごく減っているだけのようだ。だからすぐ放電してしまうと。東京にいるあいだに新しいのを買っておくべきか。電源まわりが微妙なので一度分解して半田付けしなおした方がいいのかもしれん。

 雨か。うーむ。


2011/04/10 日

 今朝早起きして SigmaDP1 でパチパチ写真とってきて今新小岩のマクドナルドでみてるけどやっぱり携帯より画質いいな。レンズの大きさが違うんだからあたりまえか。しかし隅の方まで綺麗にうつっているようにみえる。みるからにレンズが特殊だしなぁ。社長がこんなんいらんといえば自分で使うまでだ。

 中東TODAY: NO・1942「サウジアラビは強硬過ぎないか・アメリカとの溝」

 さて自分が責任を感じてあの世へ逃亡することなど絶対なく、あったとしても、逃亡を口実にして海外に行くだけだ。そもそも今回そんな大事ではない。あとするべき事は保険屋の現場検証だ。それがすめばあとは無職の自由が待っている。
 とおもったけどどうも東北行きがうしろにズレて、なりゆき次第で行くことになるみたい。うーむ。なかなか無職の自由にもどれないな....

 蘇州号 大阪発上海行 4/15,22,29 20000(半額で乗れる)
 新鑑真号 神戸発上海行 4/12,19,26 22000
 燕京号 神戸発 4/15,22 22000
 下関-青島 オリエントフェリー 4/13,16,20,23,27,30 15000
 春秋航空 茨城空港発上海行 今からなら4/15に15000の席がのこっている模様、6000円の席は5月になってから。

 SigmaDP1で物欲が刺激され、社長にひきわたしたあと、秋葉原のヨドバシカメラへ見にいった。デジカメで気になったのがカシオの EX-H30 で、旅用を標榜してたくさん写真をとれることを売りにしている。1000枚とれると豪語している。あと、スキャナの ScanSnap S1100 も気になった。あれだけ小さければリュックに入りそうだ。
 s1100 って Sane-epjitsu が対象ドライバらしいが、Testers needed! になってるな...
 どうせ windowsでつかわないのだから、本体とUSBコードだけのバラで一万以下とかで売ってないかな。
 秋葉原だとそこそこつかえるレッツノートの中古が2万円くらいで買える。今つかってるこれの後継機種が6万くらいで買える。むーん。

 気仙沼 井戸から基準超のヒ素 NHKニュース

 社説:進撃するカッザーフィー、足を取られる革命家たち

 そういうと今朝新小岩の駅前で、自転車の整理かなにかの役目の老人たちに、小泉政権が悪い、私腹を肥やして云々と言っている老人がいて、選挙期間中ってすごいなぁとおもった。

 太陽電池は中国からもんのすごく安いのが入ってくるので相当状況が変わるだろう。成田に取りにいったのはそれだ。

 そういうと企画倒れの人からは連絡がない。きっと企画倒れだったんだろう。


2011/04/09 土

 東京暑い。
 朝から仕事で新小岩まできた。マクドナルドでネット中

 そういうと昨日国会図書館行ったついでに近代ライブラリの館内公開分を見た。要するに館内公開のCDとかデータベースとおなじように閲覧できるようになっている。IEでみるのでふつうのパソコンでみるのと大差ない。.....見づらかった。でももう電子化戦後まで進んでるな。吉川幸次郎の水滸伝も途中まで公開されてた。

 さて、今日は交通事故をおこしてきた。
 成田までレンタカーで荷物をとりにいったがその帰り、市川の交差点で運転を交代しようといわれ、とりあえずギアをパーキングにいれようとしたが、そのとき、バックにいれてしまい、しかもしばらくそれに気付かず、気付いたときに慌ててアクセルを踏んでしまうという醜態で、うしろにいたゴミ回収車に追突してしまった。あんまりにも間抜けだが事故をおこすときというのはそういうものなんだろうな。
 被害はレンタカーのハイエースのリアガラスが全部割れ、ゴミ回収車の前がすこしおかしくなり、修理の必要がでた。そしてゴミ回収車の運転手が、首がいたいという。

 社長はようやくこれでクビにする気になったようで、うまくクビにする方法を模索しだしている。まぁこっちとしては明日から契約打ち切りと言われてもかまわないとおもっていたので大歓迎だが、詳細は明日決めるという事だ。めでたくクビになるだろう。まぁしかしもともと東北の件が終わればクビにするつもりだったんじゃないかとおもわないでもない。それはそれとして、首が痛いという運転手がらみで謎の金が発生しそうでこわい。その首が痛い件については月曜に医者に行くと言っているのでそれ待ちだが、まちがいなくなにか異常を申しでてくるだろう。従って人身事故となり、罰金や減点が発生する。最悪の事態としてはレンタカーの保険の適用外になり、全部自分の責任となる可能性だ。まぁそうなった場合、貯金もまだ数十万つくっただけなので、それだけではカバーしきれない状態となり、国外逃亡とかあの世へ逃亡とかするかもしれない。
 まぁ社長は社長で仕事みたいなもので呼んでいるのに最初のうちは関係ないとおもっていたようだから、もっと重大な過失をおかして責任をおしつけられる前に逃亡できてよかったんだろう。

 それはそれとして、秋葉原でデジカメ買ってきてといわれたので、SigmaのDP-1を買ってきた。明日渡すまでにちょっといじってみる。
 → 夜だとあんまりわからん。

 河野太郎 | 各国は困惑している


2011/04/08 金

 昨日は江藤さんのところでデータのバックアップをしてそのついでに泊めてもらった。

 国会図書館で少年チャンピオンののこりとゲッサン一年分を読んできた。
 弱虫ペダルもちょうどいいところまで読めた。しかし御堂筋あれだけやりたい放題やってて限界とか言っちゃうのはどうなんだろう。この後は脱落するのかそれとも友情パワーみたいので復活するのか。
 ゲッサン、やっぱりアサギロはおもしろいな。
 月の蛇もついでに斜め読みした。あいかわらず水滸伝を裏返しにしてるくせに水滸伝によっかかった構成で微妙だ。梁山泊を悪党にするならするで、梁山泊のキャラクターの設定しなおしをしたらいいのに、なんか水滸伝そのままというのが多い。そのうえ過去のストーリーまで水滸伝そのままになってきた。知っている人でないとたのしめないが、知っているとよけいにムカツクという悪循環になっているような。知ってる人があきれるくらいに改変した方がいい。

 そういうと昨日は江藤邸でデータの移動中に地震があって、縦揺れのあとの横揺れがすごかった。周期の長くて弱いのが長くつづく感じで、フェリーの揺れのようだった。

 福島原発 1号機 / 福島原発原子炉の状態 原子炉の放射線量
 うーん?

 ときわ台から国会図書館に行くとき、まず板橋まででてそこから大塚 → 護国寺 → 神田川 → 麹町 というコースで行ってみた。板橋から大塚へいくので迷いかけた。
 それで迅速測図で明治初期の状態をたしかめると、意外なことに大塚村がない。池袋から小石川へ抜ける春日通りの元になったとおもわれる道はある。また王子の方から中山道を横切り、巣鴨をとおって春日通りに合流する道もある。その他は細い点線であらわされるような道しかない。
 板橋駅のあたりも何もない。駅前に近藤勇の墓みたいなものがあったが、今調べてみたらあのあたりに板橋刑場というのがあってそこで首切られたとのことだった。なるほど何もないのもうなづける。


2011/04/07 木

 円安で株価が上昇しなくなった : アゴラ - ライブドアブログ

 昨日交換にもらったファイル群の補充をした。あと頼まれた変換も昨日のうちにした。えーとメールがこないな。。

 google地図に距離を計算する関数が追加されてたので距離計算をそれに置きかえた。微妙におかしかったのが直った。福島第一原発の30km圏描いてみたら若干広めを提示されておかしいとはおもってたけどやっぱりおかしかったんだ。

 LGの冷蔵庫、停電しても72時間は冷却状態を保つとかすごくないか。


2011/04/06 水

 台湾から義援金100億円、どう受け止めるか:日経ビジネスオンライン
 本当の危機だからこそ必要だった英語でのコミュニケーション:日経ビジネスオンライン

 インドを席巻する韓国勢を破ったソニー:日経ビジネスオンライン

 昨日社長が寝袋をくれたが、夏用で、しかもいざ使ってみようとすると草まみれだった。きっとゴミ捨て場で拾ったものなんだろう。あいかわらずデタラメだ。まぁデタラメだからおれを雇えるわけだが。

 昨日は江藤氏のときわ台の新居にあそびにいったら泊めてもらったが、最初は仕事で自転車で新宿まで行ったついでに代々木のマクドで待ってたらもう帰ったのでうちまで来てくれとのことだったので、驚かすために自転車ということは連絡せずときわ台まで行ってみた。地図をみるとどうも代々木新宿大久保下落合椎名町と西側を北上する道をずーっとたどってときわ台まで行けるようだった。でまぁ途中数カ所で迷いつつも方向をみうしなわずその道らしいところを通ってたどりつけた。
 迅速測図をみるとこの道は神田川によって規定されたものであるようだ。つまり新宿から神田川妙正寺川の交わるところの落合まで行く道と、その北にある谷端川によってつくられた峰をまっすぐ通って上板橋まで行く道、上板橋から石神井川を渡って高台の方へのぼっていく道がたまたままっすぐに近い形をとっていたというだけの事であるようだ。実際道に迷いかけたところは石神井川や神田川の周辺だった。

 気付いたら待ち合わせの時間に寝坊していた。

 ファイルをコピーするだけで数時間かかった。


2011/04/05 火

 まぁ自転車つかれ+高速バスつかれは昨日でだいたいとれたとみてよかろう。昨日から早く目がさめるようになったし。年とったなぁ。

 旅行中にノートパソコンの充電池がダメになっていたが、東京にもどってからしばらくしたら復活した。接点のあたりに焦げたあとがあるので、中ではなにか変なことになっているようであるがどうなのかわからん。ACアダプタのさしこみ口がグラグラしてときどき落ちることがあるので、そのあたりになにか不良があるんだろう。分解してハンダづけしたらなおる程度の事だとおもうが、ときどき変なにおいがするのでやるなら早くやらんとまた充電池が一時的にダメになるんじゃなかろうか。

 今東京でブラブラしているのは東北輪行でつかれたというのもあるが、一応待機状態であったりもする。これからの予定は4/10-17東北らしい。どうなることやら。いやいや、待機とかじゃないので仕事してくれとか言われそうな気もするな。それ以前に森田邸にいさせてもらえるのをいいことにダラダラいつづけるのもよくない気がするな。

 「災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか」レベッカ・ソルニット著 | Kousyoublog

 炉心溶融してしまった福島原発の現状と今後| 大前研一 | (日経BP)

 日本からの資金流出が途絶える可能性 世界経済と金融市場に大きな変化? JBpress

 なかなかクビにならんな。しかもしばらく東北へ遠流みたいな感じになるみたい。そういう事ならやってもいい。


2011/04/04 月

 福島原発に助け船、中国「三一重工」どんな会社?:日経ビジネスオンライン

 鉄道遊撃隊8公開。

 たのまれて細かい日記を書いたけどありゃ企画倒れにおわるな。

 ひらしょーの娘を見に行ったらもう歩いていた。すごいなー

 国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム をみたら去年の夏のあいだに戦前の陸軍撮影の航空写真も追加されてた。おもしろい。
 蒲田駅からひらしょー邸の前に到る一本道だが、明治初期の迅速測図によると、そのころ既にあった。当時は蒲田駅がまだなく、交通のメインは東海道(今の国道15号)だったので、そこに街道町があり、街道町から今の糀谷駅の北側踏切までの形はよく保存されている。しかしそこから東に行く道はまだなく、糀谷駅の南側から東へクネクネとたどる道があった。この道も今も保存されている。そんな形になったのは、単純にそこに水路があり、それをたどるとそういう形になったからであるようだ。北側踏切から東に真っ直ぐのびる道はなかったが、そこに集落があり、家の間を縫ってクネクネと東へのびる道はあった。街道町から西には東側とおなじ角度を保って真っ直ぐのびる道がたどれるが、当時東海道線はあっても蒲田駅はなかったことから、蒲田駅が道の目標になることはなく、Y字型に別れた西側の、餃子屋を経て蒲田駅へ真っ直ぐのびる道はあとからつくられたものだった。蒲田駅からみると若干遠まわりになる東側の道の方が古い道だった。
 1936年の航空写真でもY字路から蒲田駅へ真っ直ぐのびる道は見られず、1944年でも見られないが、1947年の航空写真だとあらわれるうえに、戦災でもうけたのか、Y字のすきまに白い空間がある。空襲被害を抑えるための疎開地だったのか、新規路線の跡なのか。


2011/04/03 日

 かばん修理中。

 文章書いたら自分の写真も必要らしい。

 今ごろyoutubeの映像みてるけどすごいな。

 昨日の夜聞いたおもしろい話。
  被災地の避難所への補給は自治体よりも自衛隊がきっちりやっていて、現地では自衛隊様々らしい。自治体には手段もノウハウも人員もないらしい。自衛隊の方がどこになにが不足しているかという情報をきっちり把握しているらしい。
  避難所での女性や子供への強姦というかそういうのはおこるものらしい。しかも犯人はボランティアにまぎれてやってくることもあるらしい。しかもそういうことはみんな警戒している夜よりも昼間に起こることが多いらしい。そこで携帯用の防犯ベルを送る運動をしている人がいるが各所に働きかけて用意した一万個のうち、その人自身で2000個とか買ったらしい。

 原発がどんなものか知ってほしい


2011/04/02 土

 原発30km圏の年寄にとっては住みつづけてガンになる確率よりも、避難所に住みつづけて肺炎なりなんなりの病気になる確率の方が高いだろう。

 作文疲れる。


2011/04/01 金

 結局池袋から旧街道ぞいに歩いたらあまりにキレイに森田邸に到着したのでおどろいた。そして旧街道は興味ぶかいものがいろいろあった。池袋の森なる公園があるのをみつけた。板橋に入って中山道になると縁切り榎とか板橋の由来となった板橋とか由緒ありげなものがある。川口方面への分岐であるはずのところの商店街も分岐も含めてよく保存され、道の狭さがなかなかいい。最後川に近いところで90度にカーブするが、それはおそらく土手の跡だろうとおもって迅速測図で確認したらまさしくその通り土手だった。土手と荒川の間に小豆澤村があり、そこへの道であるらしい。たぶん荒川の渡河点の一つだったんだろう。川口への道は土手ぞいではなく、分岐と土手の中間にあり、確かにいまもそこに県道が通っていた。その道は川口-赤羽-上板橋といく街道であったようだ。

 飯舘村ってどぶろく特区だったのか。

 民主幹部が大連立打診「谷垣総理」案も  MBSニュース
 エイプリルフールwww

 なんなんすかこれ?東京電力(9501)ストップ安売り注文4000万株が1株残らず誰かに引け買いされた件 : 市況かぶ全力2階建
 東京電力(9501)4000万株先生が、相場を操る力を見せ付けて芸術的な引け値 : 市況かぶ全力2階建

 どうも元寮生の松山幸二が去年の夏ごろ死んでたらしい。昨日飯おごってもらったときに話題がでたので思いだして携帯に電話してみたらつながらず、昔松山の実家に遊びにいったときの番号がアドレス帳に残っていたので実家に電話したら父親がでて、去年の夏に亡くなったとのこと。松山の父親によると、去年の夏ごろ実家のある取手市内で身元不明状態でみつかったそうだ。どういう死に方したのかまでは聞きだせなかった。うーむ。今日うちの親に電話してみたらどうも今年年賀状出したのが返ってきていたらしいので本当なんだろう。
 去年の二月ころに統合失調症みたいなかんじでこっちに仕事をおしつけて逃亡し、三月ころに若干復活したような気配だったが、そのときカラオケをおごるといってよびだされておごらされたのでむかつき以後連絡をとらなかった。その後夏になって死んでいるということから、そのまま状況がよくならず、貯金も尽きたので故郷のあたりに行って野垂れ死んだということだろうか。うーん。実家がどのあたりにあったのか随分前なのでおもいだせない。
 まぁ自分から仕事を断っていってしまいあげく窮死してしまうその末路をみると他人事ではないように思う。自分にはこういう末路が用意されているのかもしれない。まぁもっともそういう死に方をしたんだろうというのはただの妄想なので、もっと違う死に方をしたのかもしれない。