つれづれ

2011/07-09
2011/09/29 木 スカルドゥ

 あーもうやる気ない。天気は今日もものすごくよいが、どうせ今日も飛行機こないだろう。やる気ないので写真の整理をひたすらしている。全然おわらない。といってもディレクトリに期間と場所を付けて写真を移動するだけの作業なので、その作業すらやる気がないのがわかる。まぁしかしどんなに写真とったって後から使わないなら意味ないしな。

 中央アジアに行くとか言ってたけどまずパスポートの有効残存期間の問題がある。中国はギリギリまで問題ないみたいだが、他の国はわからない。パスポートが切れるのが来年4月5日なので、その6ヶ月前はこの10月5日。6ヶ月で入れてくれない国が多いので、そもそもキルギスに入れないかもしれない。キルギスに入れてもタジキスタンとかウズベキスタンのビザがもらえないかもしれない。さらにはどこかの国境越えで追いかえされるかもしれない。うーむ。特にウズベキスタンみたいな国に行くときは役人に因縁つけられにくいようにしたほうがいいので、こういう落ち度をのこしておくのはよくない。
 とはいいつつ、漫然と人生を消費していた自分の将来がこれから明るくなる可能性はほとんどないので、そもそも金銭的に外国旅行に出かけることができなくなるだろう。今回をのがすとタジキスタンなどにも一生行けなくなる可能性が高い。そうおもうと無理しても行った方がいいか。
 ルート的には、キルギス → ウズベキスタンのフェルガナ盆地 → タジキスタン → ビザがとれたらアフガニスタン北部 → ウズベキスタンでパスポート更新 → キルギス → 中国 というのが理想的だが、タシュケントからバンコクあたりに飛んでパスポートの更新するのもいいかもな。もしくはいっそのことアフガン北部を経由してヘラートからイランに抜けるとかもいい。そしてバンコクに飛んで、そこからまた中国へ向かうと。しかしそういうパスポートの状態でイランに行くとかタイに飛ぶとかかなり夢物語もいいところなので、陸路もしくは空路で中国ということになるんだろうか。
 そもそもキルギスに入れない場合は、中国ビザの有効期限が12月3日なので、それまでに北京に行ってパスポートの更新をするということになる。そういうしょぼいオチになりそうな気もする。
 中国ビザも捨てて、イスラマバードでパスポートの更新をしてしまうという手がある。その場合、パスポート更新と新パスポートのためのパキスタンビザの取得のためにさらに半月くらいはいなければならない。ううーむ。まぁパキスタンの事だからビザの再取得しなくても「オー!ジャパニ!ノープレボレム」とか言って出してくれそうな気がするが...

 ユーロが崩壊するという話だが、なにか影響あるのかな。むしろ短期的にはまた日本円が強くなって海外旅行しやすくなるだけのような気が...
 とはいっても日本円は投資資金の逃げ場になっているだけだから、今度は日本円が乱高下することになるんだろうな。もっとも日本的には製造業が死滅する前に円が弱くなる方がありがたいわけで、どっちに転んでもいいのか。

 めでたく飛行機が飛んだので激流さんと合流できた。よかったよかった。飯をおごってもらった。


2011/09/28 水 スカルドゥ

 いい天気だな。

 このへんの人は中国人だとおもうと「ヤフシー」とウイグル語を言ってくることが多いので、中国人というとウイグル人という時代が長かったんだろう。

 スカルドゥのあたりにチベットの残滓があるのが意外だったけど地形図をよくよくみるとスリナガルの盆地の周りをまわるようにインダス河が流れており、インドにあるチベットであるラダックの下流にスカルドゥがあるので、特に意外でもなかった。

 こんなにいい天気なのにフラントがキャンセルされるとは。あー。そもそもフンザのあたりでダラダラせずにまっすぐバスでラホール方面めがけて降りてたらよかったな。
 まぁしかし。今となっては中国様の国慶節期間に近づきすぎているので、しばらくパキスタンでブラブラするしかないわけで。ぐぬぬ...

 へー。貿易黒字を発電のための燃料の輸入がかきけしてしまったのか。

 ネットがおそすぎる...


2011/09/27 火 スカルドゥ

 国会図書館からおとした印度撮影帖(1904)を見ると、ヤルカンド → タシュクルガン → ミンタカ峠 → パスー → フンザ → グルミット → ギルギット → スリナガル というルートとなっている。フンザは今と景色がかわらなかった。ダルバールホテルのあたりからラカポシの方とバルティット城の方を撮影している。グルミットはフンザの南となっているが、北のまちがいだろう。

 金に困って日本に帰ったら農業のバイトしようかなぁ。まぁそっちでも37のおっさんなんかいらんと言われそうではある。あ、そのころには38か..

 9時ごろサッパラ湖に向けて出発した。着いたのは11時すぎだった。サッパラ湖はみるからに堰き止め湖だが、今はダムができていて、水力発電をしているらしい。登るときも降りるときもすこしだけ車にのせてもらったが、降りるときに乗せてくれたダンプにのってたおっさんによると、4つ発電所をつくる計画があり、ふたつは完成してのこりふたつが準備中だという。このあたりの発電所は中国が作っているらしい。ダンプにのったときは「チャイナ、フレンドフレンド」とか頻りに言ってたが、日本人だとわかるとなんか微妙な空気になった。
 仏像があるらしいがどこにあるのかよくわからなかった。地形的にそういうのが残りそうな崖のある一帯は一目瞭然なので、その辺りをがんばってみていたがそれらしいのがみあたらなかった。帰ってから宿のおやじに道を聞くと、やっぱりその崖のあたりに行くようだ。うーむ。

 なんかフンザで何回か会った人がなぜかパキスタン人につれられてこの宿に来た。他に部屋がなかったので、一日だけこのダブルのもうひとつのベッドをつかうことになった。それでわかった事は、ダブルをひとりで使うと200Rsで、ふたりだと300Rs。100Rsにはならなかったか..


2011/09/26 月 スカルドゥ

 「小説」だがあ行とか海外とかいうディレクトリにわかれていたが、かなりいいかげんに並んでいるので全部ひとつのディレクトリにまとめた。どうせ大量すぎて一覧できないのだからいっしょだ。まぁこうしてしまうとファイルをみるのにファイルマネージャみたいなのでみている人は困るのかもしれない。

 40Rsの方に来たけどネットが遅すぎる... pingの結果が帰ってくるのに5秒かかってる。

 パキスタンから中央アジアに直接行こうとしたが200ドルくらいで飛んでくれるのがないようなのでこれから先は普通にKKHを通ってカシュガルまでもどりそこからキルギスに国際バスで入るというルートになるとおもう。その前に一度ラホールまで降りてラホール博物館をみにいくとおもう。10月1日が中国の国慶節で、その前後は国境が閉まるという話を聞いているがどこまで本当かわからない。フンザでいっしょのドミでダラダラしていたヒゲの人はその国慶節前にキルギスに入ると言っていた。順調に行っていればもうカシュガルに着いて二日ほどたっているはずだがどうしているんだろう。どうせまた中央アジアのどこかで会うだろうということで、連絡先とか名前とか一切聞いてなかったが、よくよく考えれば役に立つ情報源にできるはずだった。

 サッパラ湖というのがあるらしく、この宿のおやじがしきりに行け行けと勧める。チベットの仏像があるらしいのでそれを見にいくといったらサッパラ湖に行く途中にあるから明日サッタラ湖に行くついでに行けという。
 ソ連製地図をみるとたしかにスカルドゥの南の山の中に湖があり Сатпура と書いてあるのでこれのことだろう。
 スカルドゥ周辺にゴンバxxという地名が二つほどあるけどこれはなんだろう。ゴンパのことなら寺院があったことになる。

 さてネット屋のにーちゃんの家にいくというのでスカルドゥの南の方をブラブラ歩いた。古い通りだろうとおもっていたところは昔のメインのバザールだったらしい。今いるカシミールインは昔の通りと今のメインの通りがまじわるところにあるので位置的にはかなりよいのだろう。今持ってるソ連地図は都市をみるには若干縮尺が大きいが、通りとかの状態はその通りだった。バザールがあるところから降りてしばらく行くと、石がゴロゴロしているところがあり、そこは本来サッパラ湖からの川が流れているところだという。たしかに橋もある。そして親戚のところを転々として、家なんかをながめたら日がくれて暗くなってしまった。にーちゃんとしては泊めるつもりだったらしいが、着く前に暗くなったので帰ることにした。今から考えると、貧乏とかなんとかそういうことをよく口にしていたので、おそらく家がボロいので明るいうちに見せたくなくて遠まわりしたんだろう。悪いことしたかな。最初の話では家を通ってグルっと一周してバザールにもどるという事だったからまぁいいだろう。

 帰ってからジュースを買いにいったら中国人が来た。あいつらパキスタンの店の中でもツバ吐くんだな。中国に数ヶ月もいてそれくらいのことには慣れているはずなのにギョっとしてしまった。


2011/09/25 日 スカルドゥ

 フンザでもらった「小説」は日本の出版社がテキストファイルの形態で販売したものがかなり含まれている。日本の出版社の場合、ハードカバー → 文庫本 というサイクルがあるが、文庫本でも売れなくなった本をテキストファイルにして売っているんだろうか。
 文庫本をスキャンしてとりこんだ画像ファイルもある。そういうのをすこし読んでみたらかなり読みやすかった。縦書きの本に慣れた体には縦書きがよいらしい。ただ、残念ながら小説なのであんまり読み進める気がしない。このテキストファイル群の中には小説でないのもまじっているのでやっぱりそういうのに目がいく。
 ls -R した結果が2万行ぐらいあるので少くとも1万5千タイトルくらいはある。ただ、同じファイルがちょっと名前を変えて何個もあることがあるのでその半分くらいと見積もって7千5百タイトルくらいか。そのほとんどが小説ということで、よくもまぁこんなに大量のヒマつぶしの材料を生産したもんだ。
 今はネットで大量にヒマつぶしの材料が生産されているから昔よりも簡単にヒマつぶしできるのはまちがいない。
 それはそれとして、文庫をテキスト化したものは、商品のはずなのに、OCRで読ませたままで校正をしていない、もしくは校正漏れしているものがある。やっぱりそんなに売れなくなった文庫の再利用だからそこまで金や手間をかけていられないということだろうか。

 うーむ100ルピー札10枚くらいあったはずなのにあと1枚しかない。使ったんだろうか。もしくはこの財布に金が消える仕組みでもあるんだろうか。スストで500元両替して6000ルピーあまり手にいれ、23日にギルギットのATMで5000ルピー手にいれたが、今6000ルピーあまりしか残ってない。この10日間で5000ルピーもつかったか?やっぱりおかしいな。
 大雑把に費用を計算すると、
 ススト → フンザ で500程度
 フンザ で2300程度
 フンザ → ギルギット が250程度
 ギルギット で700程度
 キルギット → スカルドゥと昨日で1000弱
 うーむ。5000ルピー弱にはなりそう。若干ボラれ気味なあたりやヨーグルトやミネラルウォーターみたいなのをドカドカ買ったりインターネットの費用なんかもあったりして一日平均500ルピーくらいは使っているということか。
 中国だと一日平均100元くらいは使っていたからそれからすると4割程度におさまっている。まぁよかろう。

 中国人宿だけあって、中国人の部屋から耳なれた中国ポップ(モンゴル族)が聞こえてくる。

 パキスタンから直接キルギスに行く飛行機が安かったらいいなぁとおもって調べてみたけど、そんな辺鄙なラインが安くなるわけないよな。パキスタンでウズベキスタンのビザがとれてタシュケントに直接行くとしてもやっぱり高そうだ。
 ちなみにビシュケク行きはカラチ発の方が安い。

 メインでない通りの方にネット屋をみつけた。こっちの方が安く、一時間40Rs。
 その後、60Rsの方にいったらなんかしらん明日その人の家にあそびにいくことになった。ネットやるだけなら40Rsの方でいいんだが。

 この20日にラバニが暗殺されてたのか。

 中国人に何してるのか聞いてみたら宝石の売買だといってどでかい水晶をみせてくれた。なるほど。たしかに銭のためならこんなところまで来るだろう。

 ちなみに蘭州あたりから続いていた下痢は、フンザで一日寝つづけてからよくなった。

 USBHDDの中にある去年一昨年の写真をみていて、東京あたりをうろうろしていたのはあのあたりを見物する目的だったとおもいだした。


2011/09/24 土

 ギルギット → スカルドゥ 大型ワゴン(Mashabrum Tours) 500Rs
 スズキ(乗合幌付き軽トラ)がすぐに来なかったのでついついバスターミナルまで歩いてしまった。結構遠かった。スカルドゥ行きをさがしたらワゴンが何台もあったがどれも500Rs。NATCOのバスがあるかもとおもっていたが、なんかみつからない。事前の予想は450Rsくらいだったがワゴンの値段もそんなに差がない。とりあえずワゴンにするが、何台もあるのでどれがいいのかわからん。8時に出るといってたところにしたら、人数もそろっていないのに8時定時に出た。すごいぞ Mashabrum Tours。
 ギルギットを出てからずっと未舗装道路だったが、KKHからスカルドゥの方へ分岐する道へ降りたらとたんに道がよくなった。KKHは舗装道路だったのを全部めくって未舗装にした感じなので、一気に舗装するつもりなんだろうか。スカルドゥ方面は谷がずっとつづき、人間が生活できる空間がすくない。スカルドゥに来てようやく広い場所に出る。6-7時間かかるといわれてたけどそのとおりだった。

 スカルドゥに着き、ワゴンから降りてしばらく歩いたところにあったカラコルムインという宿に入ってみたらシャワーつきダブルが200Rsだったのでとりあえずそこにした。あとで知ったが中国人宿だった。中国人宿といっても旅行者ではなくよくわからん人たちが住んでいる。フンジェラーブ越えとススト-湖間までいっしょだった中国人もなぜかそこにいた。
 一人部屋200Rsという基準はすこし高めの値段かもしれない。ギルギットでもスカルドゥでもほとんど吟味せずに泊まれた。しかし200Rs、人民元にすると16元とかそんなのだ。安い。
 飯屋とかでもボラれている雰囲気が濃厚なんだが、安すぎてどれくらいボラれているのかまだわからない。

 ネット屋をみつけたがなぜか今日は接続できないとのこと。うーむ。一時間60Rs。パキスタン北部は停電したりよくわからない理由で接続できなかったりする。
 ネット屋のにーちゃんが日本語独学しているとかいうことだったのでしばらくつきあった。

 ギルギットやここでときどきホメイニとナスルラーがはいったポスターをみかけることがある。ペルシア語をやってる人というのも会うことがある。シーア派だからか。シーア派でもすこし違うはずなんだが。


2011/09/23 金

 液晶のドット欠けは今なぜか直っている方向にある。液晶が格子状のところに充填されていて、隙間ができたら四方から埋まるようになっているんだろうか。そもそもなぜ隙間ができたのかよくわからないが、ディスプレイの表面には明らかな傷がみあたらない。ベッドから落とした衝撃で一時的に偏っただけなんだろうか。そんなら放置すれば治るのでいいが、裏に傷があって液晶漏れしてるとかいうことになるともっとひどくなる。パキスタン北部の悪路を行ったり来たりしているうちに偏りがなおるかもしれない。なるべくカバンにいれて持ち歩くことにする。

 フンザでしいれた情報によるとパキスタンのビザ延長はギルギットが簡単で、即日でくれるらしい。イスラマバードだと普通の旅行者でも数日だか一週間だか拘束されるそうな。ということもビザの更新すると知っていれば連絡したのにな。

 ギルギットにあるという日本人宿(ニューツーリストイン、ニューツーリストコテージ)が今もあるのかどうか見に行ってみたら、宿はやめて寄宿舎かなにかになっていた。本は今も置いてあって、見たかったらみれる。漫画が半分以上だった。こういうのは遺跡みたいなもんだ。
 その近くにあるチナールバーグもどこから入ったらいいのかよくわからず結局そのあたりをグルグルあるいただけだった。

 日がおちるとともに街中停電したので、ネット屋に行けない。まぁいいか。

 夜になるとノートパソコンのディスプレイの中心のドット欠けが消えた。やや左のドット欠けも一時に比べるとかなり消えつつある。自己修復機能までそなえているのかレッツノート.....


2011/09/22 木

 昨日は一日動けず寝てしまいだった。一昨日出発できなかったために結局二日潰してしまったので今日はチラースに近づけるだけ近づく。

 一昨日、データの救出とかしたら小説つめあわせデータみたいなのをもらった。ほとんどのデータはテキストで、著者名タイトル.txt みたいな感じで並んでいる。データだが、一応「あ・か行」とか「海外」とか分類してあるが、どうも漢字は音読みしているらしく、横溝正史とかあるのかさがしてみたら「あ・か行」の方に入ってた。著者名もかならずしも正確ではなく、小説の冒頭に引用した詩の作者が著者名になっていることもある。

 今日一日でチラースまで行こうとしたが、ギルギットまでしかいけなかった。適当な宿に入ってみたら一人で200ルピーだったので泊まる。たぶん外人いないなこの宿。

 激流さんのビザの具合が悪く、28日まで下界にとどまらなければならないらしいことがわかった。しかも実は20日の夜にそういう連絡をくれていたのに、一日動けず寝ていたせいで気付かず、今日ギルギットのネット屋に来てようやくわかった。

 KKH沿いをよくみてみるとところどころ大麻草が生えていた。ふーむ。日本で豆を畑や田んぼの畦にうえるように、このあたりでは畦に大麻草をうえることがあるようだ。種を食用にする点はおなじか。


2011/09/20 火

 液晶のドット欠けの筋が昨日より成長していて、最大幅4ドット、そして長さが画面中央から下まで伸びてしまっている。面ではなくて筋だからまだなんとかなるがこの先どんどん成長するかもしれない。この4年間乱暴なあつかいに耐えてくれたわけだが、一番弱いところがやられてしまったわけだ。
 今ドット欠けの最先端のところを爪でおさえてみたら、その分ドット欠けが伸びた。こりゃどんどん伸びていくな。新しいノートパソコンを買うという選択肢もある。このレッツノートは左手を置くあたりの角が壊れて中身が見えているので、他の部分に波及しないともかぎらない。ただ電池はまだ元気だしCPUの性能的にもまだまだ十分つかえるので、下手に数万の安いノートを買うと逆に性能が落ちる事もある。
 液晶の交換というのがたぶん現実的なんだろう。ついでに高解像度のものに交換できたらうれしいができるかどうか。それに交換するなら、最近の液晶の大量生産地である中国の南京あたりでやった方がいいんだろうが、そうすると中央アジアまで行くのを捨てることになる。うーむ。まぁもうしばらくはこのままで様子をみるしかない。最悪液晶が死んでしまってもモニタを借りればなんとかなる。

 レッツノートの裏をみたらネジが四ヶ所なくなっていた。

 フンザ(カリーマーバード)唯一のネット屋のモデムはテーブルタップの接触がわるいためによく切れる。フンザ好きの人は日本からまともなテーブルタップを持参して寄付してほしい。それだけで接続不良がかなりよくなる。もっと言うとコンセントもつけなおした方がいい。


2011/09/19 月

 ノートパソコンをベッドから落としたせいか、液晶の中央と中央やや左に筋状のドット落ちが発生してしまった。

 タコ挙げの人が車をチャーターして氷河を見にいくということだったが、どうせなら同宿の人もいっしょにというありがたい申し出にのっかり、乗用車の後部座席に4人のりこんで氷河見物してきた。
 氷河自体にはあたりの山から崩れてきた石のかけらがふりかかっていて、緑っぽくなっていた。近くでエメラルドとかルビーとかとれるらしい。
 その氷河の近くの村に某草がいっぱい生えていたが、そのあたりの人は冬の寒いとき、種をスープにいれて食べるらしい。体がよく暖まるとかなんとか。


2011/09/18 日

 今日来た日本人は、11日間の休暇をとってフンザに来たが、中国経由でフンザに来て帰る計画なのでフンザ自体には二泊しかできないらしい。しかしそういうきわどい計画をたてる人だけに、ここでタコ挙げの写真をとって年賀状にのせるというおもしろい計画をもってきていた。

 やはり軍事政権の方がよいとおもっている人たちも多いようだ。


2011/09/17 土

 フンザは田舎でいいが、ここがクローズアップされるのはカラコルムハイウェイが通っているために中国方面へ行くときの必経の道だということも大きいだろう。

 中国の布鞋は都合二回あらったので繊維がのびたせいかかなり歩きにくくなった。歩きづらいだけではなく、確実に走れない。

 ネット屋が全然開かないが、宿のコンピュータが昼の短い間だけ動いていたので一応連絡だけしといた。

 この宿日本人と韓国人ばかりいるが、実のところ韓国人宿らしい。もともと日本人宿のコショーサンゲストハウスというのがあり、その半分を使ってカリーマーバードインを開いたが、コショーサンの方のオーナーのコショーさんはもともと凄腕コックなので今のように客が少なくなると、コックとして働いた方が稼ぎがいい。ということでコショーサンの方は閉めてしまってカリーマーバードインだけやっている状態らしい。

 宿の対面にダルバールホテルとかいう金持ち向けのホテルがあり、日本人の団体観光客が来ていたので、その団体向けにフンザの小さな楽団(数人)が来て音楽を流していた。ツアーではセットになっているらしいが、それに下の安宿に泊まっているのが来て見物してもいいらしい。ということでもぐりこんでついでに踊ってきた。なかなか楽しかった。


2011/09/16 金

 フンザ方面に行くべく6時に道にでたが間違ったワゴンに乗って待機してしまい、最初の乗合ワゴンをのがしてしまう。しかも雨がずっと降っている。なぜか何回か待っているワゴンを乗りかえたあげく、ようやく7時ごろでて9時ごろアッタバード湖についた。ワゴンは200ルピーと言われたが気にせず150ルピーだした。しかし最初の船は出たあとだったので、その後延々12時まで雨のなか待ちつづけることになる。
 アッタバード湖だが、狭く険しい峡谷が堰き止められてできたものなので、道のつけようがない。だから中国のテレビで見たのはおそらく中国側のカラクリ湖の近くの堰き止め湖のことだろう。12時に船が来て二時間かけて湖を渡った。雨の中だったがなかなか絶景でよかった。問題のダムだが、峡谷の狭いところが崩れて大量に巨大な石がつまっている状態なので、そうそう簡単にどかすことができない。当分あのままではなかろうか。船は100ルピー、これも事前調査の通り何も言わずそのまま出した。

 雨が降りつづいていたのでダムの構成体である石の上につもっていたやわらかい土がぐちょぐちょの泥になっていた。登ろうとすると足元が悪すぎる。例の布鞋が一度洗って以来ゆるゆるになっていたが、それに加えて船の中が雨でビショビショで荷物をずっと担いでいたこと、さらにスクリューを回すエンジンが船の横についていて、たまたまその二つのエンジンの間に立っていたために轟音が直接耳にきて耳がかなり遠くなっていたことが加わり、まともに歩けない状態になってしまっていた。フラフラになりながら歩くが途中で鞋がぬげてしまう。あきらめて裸足になるとかなり歩きやすくはなったが逆にもっとすべることになる。船から降りたのが最後の方だったうえ、そんな状態になってしまい、ダムの途中にある停車場らしきところに着いたころにはほとんど人がいなくなっていた。幌付き軽トラみたいなのが待っていたようだが、客をどんどん乗せてさっさと行ってしまったようだ。その停車場らしきところにいたパキスタン人がこっちの泥んこ姿をみて笑いものにするので癪にさわり、車を待たずに歩いていくことにして、とりあえずダムを越え、ずんずんフンザの方へ歩いていった。
 雨は降りつづいていたが、ダムですべったりころんだりしているあいだにあがり、ダムから降りて道にでたころには晴れかかっていた。そのまま延々とフンザまで歩くつもりだったが、一時間くらい歩いたところで荷台に細い木を積み若いのが数人乗った車がとまり、タダでのせてやるといってくれたのでありがたく乗せてもらった。

 その車はバザールではなく、安宿地帯で降ろしてくれた。さてバザールの方へ行こうとしたところ、道をいく人にどこへいくのかたずねられる。まぁどろんこの人間が歩いているわけだから怪しかったんだろう。安ーい宿を探していると言うと「カリーマーバードイン」に行けといわれた。行ってみたら日本人と韓国人しかいない宿だったがドミトリーで150ルピーといわれたので泊まることにした。とにかく泥まみれかつ裸足で歩いていると怪しまれるようなのであまりうろつきたくなかったというのもある。ちなみに宿を教えられた後、その方向に歩いていくと日本人に出会ったがその人はフンザインというところに泊まっているらしかった。

 宿にいた日本人に話を聞くと、一発で国境を通れたのは幸運であったらしい。しばらく前までパキスタン側のビザのシールが足りず、タシュクルガンで二週間ほども待ちぼうけをくらわされていた人たちがいたらしい。目の前でビザは三人までと言われ追いかえされた人までいたとか。ビザのシールがやけにチャチいなとはおもっていたが、そういうことだったのか。外人が少ないときを狙って行ったのはやはりよかったのかもしれない。

 湖で船待ちをしていたとき、ヒマだったので以後の日程について検討していた。そもそもこのパキスタン行きは激流さんの予定にのっかったものだ。そしてチラース集合にしようかという話になっていたけど、せっかくならラホールのラホール博物館をみてみようかとすこし色気がでてきたわけだ。しかしラサに行ったり青海で追いかえされたり、ウルムチに行くのにやたら時間がかかったりしたせいで、そういう余裕もかなりなくなってしまった。まぁラホール博物館に行くだけならできそうだが、北パキスタンから下の平野に降りるには24時間くらいのバスに乗る必要があり、あまりキツキツの予定を立てるべきではないので、やはり予定どおりチラースで合流するのがよさそう。
 珍しく一週間くらい前に予定を確定させたのでさっさと連絡するべくインターネットに接続したいが、フンザ唯一のネットカフェなるところが客を入れていない。停電で云々と言っているが、なにか他に原因があってやっていないようにみえる。

 しょうがないのでどろんこになったズボンからなにから全部洗濯した。まぁズボンは洗いたかったのでちょうどよかった。


2011/09/15 木

 天気悪いなぁとおもっていたが、インドのあたりが全部天気悪いみたいだ。
 昨日の夜気分が悪くなったが全部下から出したら楽になった。おととい水のみまくったのがよくなかったのか。

 国境は10:30に開いてバスのチケットを買い、出国手続をしてバスでパキスタンめがけて出発する方式。
 パキスタン。カラコルムハイウェイはやっぱり景色よかったが、天気が悪く、上の方は雲がかかったままだった。パキスタン側は道路を修復中だったがあちこちの工事現場で中国人をみかけた。国立公園ではやはり8ドル相当の「入園料」とられた。56元。途中でカシュガルに戻る国際バスをみかけたが、寝台バスだったので、カシュガルから寝て来たほうがよほどよかった。なるほど戻ってすぐ出発するから土曜なのか。
 パキスタン側の入国手続でわかったが、中国ではポリオ大発生中らしい。たしかに駅の前で白衣を来た人が子供連れにアメを配る机を出していたが、それを狙ったものなんだろう。そんなら遠慮せずにもらっておけばよかった。

 外人少ないのを狙ってバスに乗らず勝手にここまで来たわけだが、バスで集約されるので結局外人と一緒に行動をともにすることになり、外国人が数人なので必然的に仲良くなり、宿までいっしょに泊まっていたりする。自転車のりのドイツ人だ。もう一人アイリッシュのニュージーランド人がいたが、今日中にギルギットまで行くとかいってどっかいってしまった。まぁしかし信念の人だったからなんとかして行っているのかもしれない。ビザ代に足りなかった130元を出してあげたらあとで21ドルになって戻ってきた。パキスタンルピーを仲介して変換したのでよいのかわるいのかわからない。ドルか...
 スストからパキスタン方面に出ているバスはない。アッタバード湖は結局通行できないようで、ボートにのりかえないといけないらしい。でも自転車なら行けるとか言っていたので実際どうなっているのかよくわからない。
 聞いた話では、中国は通したいがアメリカは通したくないとかなんとか。しかしそういう話だとKKHというもの自体についての話になりそうなので、具体的に道が通っているのかどうかよくわからない。パキスタン側は全面にわたって崩壊していて修復するのも大変だが、中国側もそれなりに被害はでていたようにみえる。カラクリ湖のとなりに湖があったが、そこは湖のなかに土手をつくって車を通していた。この湖はおそらく堰き止め湖だろう。カラクリ湖が濁っていたのはその湖を作った崩壊の影響ではなかろうか。もっとも中国はそれを利用してあたらしい道をつけている。


2011/09/14 水

 もう1000元おろしとくか。

 カシュガルに来たのにカシュガルらしいものをほとんど食ってないが、どうせ中国に戻ってきたときはまたここへくるのだからいいだろう。

 カシュガル → タシュクルガン 乗合タクシー 120元
 バスだと63元のところ、あるかないかよくわからなかったのでタシュクルガン県事務所の跡地の前からでている乗合タクシーにのった。最初は100元といわれたが、降りるときに人数そろわなかったから120元といわれた。うぅーむ。
 ちなみにカシュガル発ススト行きは270元で、タシュクルガンの出入国管理所からスストに行くバスは225元。昼すぎについて出入国管理所に行ったら誰もいなかったが、その辺りの人に聞いたら明日朝バスがあると言ってたので本当にあるんだろう。しかしカシュガルから通しで乗った方が割りがいい。
 親子づれがカラス国境からタジキスタンに入ろうとして失敗していた。第三国人は入れないらしい。おかげでカラス国境を見ることができた。

 タシュクルガンの宿は国境前の宿にした。というか他のところをグルっとまわったところ、どこも60とか80とか平気で言ってくる。まぁとてもじゃないが泊まれない。国境前にあったところは5人部屋で30元ということだが、今のところ誰もいない。これから来るんだろうか。
 ウイグル語使いでいっぱいになった。

 石頭城にいってみた。どこにあるのかよくわからなかったので市場の方にあった造成中の道を歩いていったら石頭城の北の方にでた。でたというよりは丘があったので登ってみたら見えたというところか。その丘は石頭城に面しているので必ずそこにも要塞があったはずだが、若干の城壁っぽいものの残骸があるだけでなにもない。石頭城とはよくいったもので、その丘も石頭城のあるほうの丘も石ころだらけだった。その城の搦手の方の構造はわりとよくのこっている。まぁどこが搦手で大手かよくわからんが。低湿地に面しているが台地とその低湿地の脇を街道が通っていたとすればその搦手みたいにみえるところが大手だったのかもしれない。
 といってものこっていてよくわかるのは土壁くらいで、あとはとにかく石ころだらけ。城壁が二重にあったようにみえるというくらいか。その低湿地につきだしている台地は他にも何箇所かある。石頭城のあるところはその中でも低い方なので、ここが選ばれた理由がよくわからない。他に比べて孤立していたんだろうか。

 とりあえずラグマン食った。

 振込成功を確認。これでしばらく安心してカードをつかえる。


2011/09/13 火

 カシュガル着。ユースホステルに行く。35元。ヒゲの毛唐が多い。
 時間があったのでチニワクに行ってみたら70元とかいわれた。カシュガルは小さい町なので歩いてまわれたが、ここも都市計画に沿った開発がおこなわれていて、だいぶ大きくなっていた。

 ススト行きのバスは国際バスターミナルから出るが、時間を尋ねると土曜の12時とか言ってた。土曜....
 出入国管理所があるタシュクルガンまで行けばいいのだが、カシュガルから行くには許可証がいるらしい。また許可証か... まぁ無視して路線バスに乗るという手があるが、青海から新疆に行こうとしたときのように途中で捕まって送りかえされるおそれもある。土曜の17日出発だと18日夜にススト着となり、時間的にはちょうどいいくらいではあるが。
 ということで今日は昼前についたものの市内をグルグルまわりまくっただけの一日だった。しかも水をとにかくやたら飲んだ。腹の具合の方は鉄道にのってから屁ばかりでまくり。

 今メインにしているゆうちょ銀行の口座の金が10万円になっていたので、スルガ銀行ネットバンクの口座からゆうちょ銀行の口座に金を移動させてみた。はじめてのことなのでちゃんとできるのかこわい。まぁ名前がちがっていたら振込手数料の210円だけ取られて返金されるらしいので最悪の事態は回避されそうだが、金が補充できないと日本に帰って手で金を移動させるしかない。ゆうちょ銀行の口座の番号はそのまま使えるわけではなく、ネットでつかうときは違う番号になるし、振込のときもなんかわけのわからん番号になる。だからその番号をまちがえる可能性がたかい。


2011/09/12 月

 朝ケチって宿の近くから一本で行けるけど駅にはつかないバスで駅に向かいバスから降りて駅まで歩いていたら、駅の近くにタクシーやバスがつまっていて結果的によかったかもしれない。駅に入るのに検査やチェックがいくつもあって面倒だった。寝台は一番上なので景色が全然見えない。カシュガルに着くのは明日の昼ごろ。

 土曜に行った新疆ウイグル自治区博物館の感想でも書く。
 通史、古代服飾展、ミイラ展、「新疆は中国の一部」展などあったが、全体に中国との関係を強調するものばかり展示してある。たとえばペルシアの貨幣なんかくさるほど出土しているはずなのに、ほとんど展示されていない。「新疆は中国の一部」展はそれを凝縮させたもので、子供をここにつれてきてそういう教育を施す展示じゃないかとおもう。出土した論語の抄本を書いたのが12才の子供ということでその人形をわざわざこしらえてこのころから中国の文化を学んでいたとかうれしそうに書いてあるがそんなんなら日本になんぼでもありそうだ。
 あと清の時代に新疆へ逃げてきた部族のことをとりあげて「祖国に帰ってきた云々...」みたいなこと書いてあるのも気持わるい。逆に清から逃げていった人たちもいるだろうにwww
 漢がこの土地を開いたみたいな展示のされかたをしているが、その前に匈奴の支配下にあったことから考えると、その当時から漢人は人のものをほしがる習性があって、匈奴のもっていたものをうばいとろうとしただけじゃなかろうか。だいたい唐の時代にタリム盆地をおさえたのも同じで突厥がよわったスキにとったものだ。もっと西のサマルカンドあたりまで行政組織っぽいものを置けたのもササン朝が倒れた混乱に乗じた短期間だけだ。
 全体に中国との関係よりも、北方の草原との関係の方が深いことがわかる。この地域の国意識とか民族意識が20世紀ごろまでにはあんまりはっきりしなくなっていたのは、遊牧政権の王権を頂く期間が長かったためではなかろうか。
 乾燥した気候のおかげで他の地域ではのこりそうにないものがのこっている。三角帽子とかおもしろい。服飾展の方にあった紀元前の女性の高い帽子なんかは、モンゴルの女性がかぶっていた高い帽子との関連があるのではないかとおもってしまう。遊牧とか騎馬とかは農耕に先行した文化ではなく、農耕による蓄積が先行し、その周辺に発生したものだということになっているが、その発生期の中央アジアの女性の風俗として筒状の高い帽子を被るのが普通だったということなら、13世紀のモンゴル人はその古俗を残していたことになりいろいろとおもしろい。
 あと中国で銅鏡がはやるより前の銅鏡みたいなのがあった。銅鏡も中国が輸入したものだろうか。

 南疆鉄道の沿線でも3Gの電波通ってるところがある。中国はこういうところすごいな。さすがに通ってないところの方が多いけど。

 Indo-European のことをドイツ語では Indo-Germnanic というらしい。

 【CEDEC 2011】イスラム世界とゲーム、課題と対策法は (インサイド)


2011/09/11 日

 「「メルトダウン防げた」専門家チーム分析」 News i

 「日本のゲームが持つ問題点」や「開発における日本とアメリカの明確な違い」 - GIGAZINE

 ユースホステルに来たので鞋を洗ってみたらさすが乾燥した気候のおかげで朝までにははける程度に乾いていたが、右足の鞋の布が納豆臭くなった。手で適当に洗ったので、汚水が切れてなかったんだろう。明日カシュガルに行くつもりなので、次はカシュガルで洗う。
 二日つづけて布団で寝たらようやく疲れもとれてきた。でも明日はまた硬座なんだな。
 しかし蘭州からの下痢がまだ治らない。もうこれが常態ということでいいかという気もしてきた。こころあたりはいっぱいあるが、一番あやしいのは常温で売っているヨーグルトだ。

 DPZ:俺の製麺機は力強いんだぜ!

ワシが入社した頃の上司のFさんが教えてくれた貴重な法則に、「仕事は忙しい人に頼め」がある。忙しい人は時間がないから、こちらが頼んだ用件を片手間にやってくれることになる。それでも、暇な人が時間をかけてやったときよりも、仕事のクオリティは高い。暇な人というのは、理由があるから暇なのであって、そんな人には仕事をさせちゃいけないのである。
かんべえの不規則発言 2011/09/11

 毛沢民故居
 毛沢東の弟で新疆に派遣され、盛世才に殺された毛沢民を記念した施設。部屋を再現したところと、展示棟がふたつある。ひとつは毛沢東一族が革命で死んだことがあつかわれ、もうひとつは毛沢民の事績を専門に紹介している。毛沢民だが、共産党の財政担当だったようで、盛世才の元に来たときには銀行をつくったりしていた。盛世才はソ連とつるもうとして中共をひきいれたけど、ソ連にのっとられそうだったので毛沢民なんかも殺して蒋介石と手をむすんだわけだが、そのなりゆきから言えば愛国人士あつかいされそうなのに、毛沢東の弟を殺したばっかりに大陸では大罪人として扱われている人だ。
 ネットで探したところによると、盛世才の別荘なるものが一応残されており、公開はされていないが2007年には金をかけて修復までしているらしい。 → 西山寻访盛世才住所 - 新疆天山网
 まぁそれはそれとして、毛沢民は経済屋だけに革命烈士っぽくない写真ばかりのこされていた。当時の紙幣も展示されていたけど、ウイグル文字も併記されていた。それをみるかぎりでは、単位がなぜかダラーとなっていた。

 カシュガル行きの列車の寝台を買った。駅にいって普通に明日朝のカシュガル行きと言うと、空調付きの快速の硬座を提示するがそれが191元。しかし9時発のホータン行きが空調無しの人民列車で、それだとカシュガル行きが100元以下で買えるはずだが売ってくれない。そこで残席の電光掲示板が一巡するのを辛抱強く待ってながめていたら、硬座は売りきれていたが寝台が残っている。値段表が掲示してあったのでそれを眺めていると、ホータン行きの人民列車の寝台は一番安い上段で185元。しかも人民列車も快速も時間は大してかわらない。なら寝台を買うかということで買った。バスターミナルに行ってバスを買うという手もあったがそれで一日以上移動するのは下痢気味のおなかにやさしくない。

 ハミ→ウルムチの列車でウルムチが予想以上に高原であることを知った。いままでウルムチは何回か来ているけど、今回はチベット高原とモンゴル高原を見てきているので、ウルムチのあたりもそのあたりと同様に草原のひろがる高原であるということがよくわかった。
 ウルムチの駅前も随分変わってしまってもう土地感とか全然ない。初めてきた時はあんまり寒くて駅前にいたカシュガル行きの寝台バスに飛び乗っていた。今回も途中にあるクチャとかアクスとか行こうかなとおもってたけど結局すっとばしてカシュガルに行くことにしてしまった。


2011/09/10 土

 ここしばらくの無理矢理な移動で疲れすぎているようで、なんか神経が休まってくれない。

 「妻の話」を円満に早く終わらせる方法 | パパラボ

 ウルムチで亚欧博览会というのがあり、そのための警戒であるらしいんだが、これ自体は9/1-9/5ということだった。もうすこし早く知っておけば西寧にもう数泊していたのに。無駄なあがきだったか。ただ、9/5を過ぎた昨日一昨日でもウルムチ方面への移動は制限されていたし、武装警察もあちこちにうじゃうじゃいるので、相当過ぎないと平常移動できないのかもしれない。まぁなんとかここまで来たので、パキスタン方面への移動がみえてきた。

 中国のユースホステルのサイトに「日本語(準備中)」の文字が.. → 翌日消えていた。

 宿には鍵がなかったのでそのまま荷物をかついで出て、新疆博物館に行ったあと、正規のユースホステルに行ってみたら結局中国人だらけのドミに放りこまれた。しょうがない。


2011/09/09 金

 昨日は柳園で夕方まで時間をつぶしてからハミ行きに乗った。駅にはいるときの荷物検査で今まで没収されなかった十徳ナイフが没収されてしまった。文句を言ったら、没収係の駅員の女の子が、新疆は少数民族が多すぎるからとか、すぐ問題を起こすとかなんとか言ってた。駅の前にテントをはってる警官になんでか聞いても何もないとか言ってたが、まぁそういうことなんだろう。
 ハミに着いたのが夜の12時くらいで、ウルムチ行きを買ってみたらすぐ買えた。9日の朝9:14発の慢車。快速とか特快は駅の切符残には表示されない。
 宿をさがすが、安いところは外人おことわりばかりだった。駅前にもどったら、駅前の広場の横で寝ている人たちがいたので、その間に入って野宿セットをつかって野宿する。まさか中国で野宿するとはおもっていなかった。防寒シートが日本で野宿していたときより有効だったのは乾燥している気候だからか。
 ということでこれからウルムチ行きにのることにする。

 ハミ → ウルムチ 硬座 33元
 人民列車だが、車内販売が一切なくて困った。
 ウルムチに着いたら日がくれるところだった。とりあえず飯を食ったらもう暗くなっていた。適当に宿さがししてみるが、外人おことわりばかり。街の中へさまよいでたが、全然安宿がみつからず、今よくわからん公園で休憩している。もうすぐ24時(北京時間)か...

 昨日の24時をまわったあたりにようやく麦田ユースホステルをみつけるが、8人部屋で40元。しかもこんな時間に到着したとおもわれる中国人の女の子たちがロビーで部屋に入れるのをまっている。事前調査によると正規加盟のところも一番安くて40元だから、しかたないのか。日本人と言うとようやく部屋があると言ってくれたが、最初は「なんだこのおっさん」みたいな感じだったし、自分も正直なところ相当おっさん化してきて、中国人の若者だらけのユースホステルは敬遠したいところもあり、どうせなら正規の方に行こうと、また歩きだした。
 するとしばらく歩いたところに旅社をみつける。とりあえず聞いてみたら、個室が40元。シャワーつきで50元。しかも登記せずに泊めてくれるらしい。せっかくなのでシャワーつきにした。洗濯もしてすっぱだかで寝た。とにかく疲れた。


2011/09/08 木

 ゴルムド → 西寧 硬座 106元
 西寧 → 張掖 バス 62.3元
 張掖 → 高台 バス 14.5元
 高台 → 駱駝城 乗合ワゴン 4元?
 高台 → 高台駅 市バス 3元
 高台 → 嘉峪関 硬座無座 10元
 嘉峪関 → 瓜州 新空調硬座無座 42元
 瓜州 → 柳園 乗合ワゴン 13元
 ゴルムドで降りてから変なことばかりだ。

 9/5
 夜行で西寧に着く。博物館に行くが休み。西寧は駅が西寧西に移動していて、西寧駅は工事中。西寧駅の前にバスターミナルがあってそっちは稼働している。バスターミナルに行って張掖行きを買うと夕方発深夜着。そのあたりをブラブラして時間をつぶす。バスターミナルから遠くないところに馬歩芳公館というのがあったので入る。30元。あまり詳しい説明とかはない。紅軍西路軍を壊滅させたとかそういうことは書いてなかった。荒廃した状態だったのを修復させたという展示もあった。この屋敷の中を歩いていると、1978年ごろに武装警察などが石に鉄かなにかで落書きしたあとをみつける。たぶんここはそういう人たちの駐屯地としても使われていたんだろう。民族博物館の展示もそのままのこっていた。
 バスターミナルの向かいのあたりにチベット語専門の本屋がたくさんあったので、一冊チベット文字の本を買う。
 バスに乗ると横がやたらなれなれしいチベット人だったが、チベット文字の表をみせても全然読めないのであまり相手しないことにする。しかもやたらポケットのあたりに手をもってくるのでスリっぽい。夜の11時ごろになり、峠の警察にバスがとめられ、途中でひろった客で定員越えているのがバレる。そのときに携帯がなくなっているのに気付き、探していると隣りのチベット人が「あった」とかいってカバンのあたりから出してきた。スリであることを確信して、財布とかを全部カバンにしまい、簡単に取られないようにして寝る。張掖に着くと、バスターミナルに着く前、寝ている間にさっさと降りていた。夕方発深夜着だからスりやすいんだろう。結局途中バスが警察に止められたことが自分にとってはいいことになった。あれがなかったら携帯はなくなっていたにちがいない。

 9/6
 張掖に着いてから宿を探すが、もう深夜の2時なので開いているところは個室40元とかだ。この期に及んでも20元のポリシーを曲げずにさがすが全然みつからない。ネットカフェがあったので入ってみたら朝の8時までで12元というのでそこで朝まで寝る。
 しかし張掖の町並みはあまり中国らしくなく一気に都会っぽくなった。張掖の再開発は画一的にごっそりやる方式ではないのか、日本や韓国台湾にある雑然とした都会さがある。もっとも夜景だからそう見えたのかもしれない。
 張掖で大仏寺、白塔、木塔の横を歩いて眺める。塔はともかく、大仏寺はなかなか古そうだったが例のごとく入場料が高かったので入らなかった。この寺も昔は博物館として利用されていたが、最近の観光化の波をうけて、博物館を別につくり、寺は観光地として金を徴収する方式に変更したようだ。ネットカフェで調べた様子だとこの寺の中に博物館があるはずだったが、今はなく、大仏寺の近くに博物館などの文化施設を入れる新施設の用地として囲ってあるところがあった。

 高台まで行く。高台には紅軍西路軍記念館というのがあるからだ。そもそも張掖まで行ったのも博物館で紅軍西征軍のことをみるためだった。まぁ馬家に追いかけられ最終的に高台で撃滅されたのだが、一応今の張掖市の範囲内なので博物館があればそのことが紹介されているはずだ。
 高台は小さい街だったが、記念館はバスターミナルのすぐ近くにあった。
 記念館は最近の博物館らしい感じになっていた。こういう感じで普通の博物館を作ってくれたらいいんだが、やっぱり「紅色」の方がいろんな援助をうけやすいんだろう。ここも追悼施設の体裁になっていた。本来この施設は昼休みがあるようだが、だれも記念館の中にいないかわりにその昼休みでも開きっぱなしになっていた。
 ここの展示では中央の指示を受けた上での行動だったとしつこく書いてある。あやまった張国燾路線をすすんだみたいなことは書いてない。ネット上ではそういう風に昔評価されていたみたいなことも書いてあるが張国燾がいたころのことと混同していたのだろうか。紅軍の負け戦だったから紹介されなかったことも大きいんだろう。

 近くの駱駝城に北涼の城あとがあるということなので行ってみた。高台南バスターミナルから駱駝城行きの乗合ワゴンがでている。行ったがそのへんの人に聞いても知らないとか「何言ってるのかわからない」とか言って無視される。歩きまわって結局みつからなかったので帰ることにして駱駝城郷の中心にもどってうろうろしていると、新興住宅の説明を党幹部にしていたような場面にでくわした。そのお偉いさん方はさっさと帰っていったが、そこにたてかけてあった説明用のパネルに駱駝城の地図があったので、のこっていた人に聞いてみると、駱駝城郷の中心から離れた西灘村にあるとのこと。もう疲れたのであきらめて高台にもどり、駅へ向かった。

 駅につくと、新疆方面行きはすでに定員超過状態であるとのこと。この駅は各停と若干の快速しかとまらないので、とりあえず嘉峪関まで行く慢車にのってみることにした。

 嘉峪関駅に着くと、切符売り場のあたりには新疆へ行きたいけど切符が買えない人がたくさんいた。転売屋がウルムチ行きを持っていたが、寝台で結構高い。今からおもうとそれでも買っておけばよかったが、買わなかった。とりあえず寝てから次の行動を考えようとおもって歩ける範囲にある宿をさがしてみたけど外人おことわりばかり。ネット屋も夜間は営業していない。高台なら小さな駅なので定員超過でも切符を買えたかもしれず、後悔しながら、とりあえず敦煌方面の瓜州行きを買う。敦煌は幹線から外れたところにあったのでなんとか買えた。翌日朝の5時前発。

 9/7
 駅の待合室で朝まで待つも、結局2時間おくれで出発する。瓜州に着き、とりあえず街の中心まで行こうとして歩いてみるが遠い。途中で市バスをみつけるが、駅から戻ってくるバスは満員で乗れない。結局3kmくらいあるところを荷物をせおって歩く。博物館にまず行ってみたが、昼休み直前ということで10分程度しか見れなかった。瓜州から柳園までバスターミナルからでている乗合ワゴンで行く。
 柳園に着くと、駅前はやたら厳重な警戒を敷いている。切符売り場に入るとやはり新疆方面に行きたいけど切符が買えない人ばかり。切符売りのネーチャンも全然売ってくれない。まぁないんだからしかたないが、柳園発ハミ行きの無座すら売ってくれない。バスターミナルはバスターミナルで、売り場に人がおらず、何時間かあとになってようやく売り場に人が来たが、新疆方面行きは「渋滞」でバスがないという。
 あきらかに新疆方面へ人が入るのを制限している。たぶんテロかなにかを警戒しているんだろう。柳園発ハミ行きだが、さすがにローカル路線なので、明日発のは座席が余っていた。とりあえずそれを買う。しかし夜の6時発深夜着。知らない土地に深夜着とかおそろしいことになるがまぁ他に手段がないかしかたない。とりあえず柳園で宿をさがすがどこも個室40元からになる。相当歩いてようやく20元のところをみつけたのでそこに泊まる。

 足がくさくなってきた。鞋から全部一回きれいに洗ってかわかさないといけない。


2011/09/04 日

 9/3 ラサ → ゴルムド 143元
 もう一泊してもよかったかなぁとおもいつつ、駅に行って切符を買う。すると昼発。昼過ぎに出るということは真夜中に着くということでなかなか厳しい旅になる。
 とおもっていたが、列車で隣りになった人が上海の大学生の女の子で、どうも日本語をすこし勉強したことがあるらしく、途中からは延々と話をしたのでヒマにはならなかった。成都行きのキップが買えず、成都行きの列車でゴルムド行きをとりあえず買って乗ったらしい。車内で補票して成都行きの席を確保していた。その前に西寧まで行って青海湖を見に行きましょうとか言ってたけど断わってゴルムドで降りたが、青海湖を見に行く方向で話を進めたらよかったなぁと今はおもっている。
 行きは寝ていてよく見なかった青蔵鉄道最高点だが、帰りも適当に見ていたのにいつのまにか過ぎていた。この辺りが一番高いんだろうなというところはあった。たぶん逆側になにかあったんだろう。

 ゴルムドに深夜の2時に到着。駅前の右側に宿みたいなのがたくさんあったので聞いてまわってみると個室30-40元というところ。あきらめて左側にまわってみると、こっちにはわりと立派な招待所がある。高いだろうとおもいながら聞いてみたら、4人部屋15元というのがあった。この時間だからどうせ寝るだけだしとおもって入ったところ、ひろい部屋に小ぎれいなベッドが四つならんでいてしかも誰もいない。昔の中国のホテルの雰囲気が十分にあってよかった。その後朝までの間にもう一人入ってきてた。

 9/4 ゴルムド(格尔木)→ 花土沟 マイクロバス 102元
 朝の八時に駅の向かいのバスターミナル(汽车站)が開くと聞いていたので、その時間に行ってみた。敦煌行きが100元前後。南疆方面へ接続する花土沟行きが102元で朝10時半と12時の二本でている。他は西寧行きとか。
 さて、なんだかんだ言いつつもラサへ行ったのだからついでに南疆も行ってみようということで、10時半発花土沟行きにのってみたが、やはり列車の中で寝てないのがひびいて何回か寝た。
 青海の西の方は草原と砂漠がまじった状態だった。しかしそのルートの途中に身分証のチェックポイントがあった。車がたくさん並んでいる間に皆バスから下りてうろうろしていたのでとりあえず道におりて車の列の写真を撮ったところ、ちょうどその向かいの飯屋で飯を食ってた解放軍の連中に目をつけられてしまった。おそらくそれがなかったら何事もなく通過できていたとおもうが、そのためにしつこく調べられることになり、身分証チェックの人たちがわざわざ公安局外事課の人に電話し、外国人が花土沟に行くには許可証が必要だという事実があきらかになってしまった。
 その過程で「もう花土沟なんか行かない、許可証を取るようなめんどくさいことはしたくないしこのバス代が無駄になった」とか子供のような言い分でゴネたところ、「このままだと中国の印象が悪くなる」とかいう理由で本来戻らないバス代をバスの運転手に払わさせ、警察の人が反対側の車をつかまえて、タダで公安局まで行けるようにしてくれた。民間をタダでフル活用ですね!強権的でいいですね!
 さて一応ゴネたので気をつかってくれたのか、そもそも青海は親切なのか、本来日曜で休みの公安局の人が出勤して、すぐに許可証を出せる態勢で待っていた。しかし、花木沟は行かずに敦煌に行くと言うと、敦煌へ行く途中の大柴旦も許可証が必要だという。許可証はどっちも50元。
 金銭的には十分見合う額だが、花土沟へ行くバスはもうないから一泊必要だし、敦煌行きの夜行は一日おきなので今日あるかどうかわからない。もうどうでもよくなってきて鉄道でまた蘭州方面へ逆戻りして西寧に行くことにした。

 そういうわけで今はゴルムド駅の待合室で日記を書いている。ゴルムドのあたりはなんかゆるい感じがするのにこういう目にあったのは運がわるいとしか言いようがない。やはり女の子の誘いは受けるものだということだろうか。
 解放軍の連中はいいものを食ってたので残ってたのをすこし食べた上、持ち帰り用パックにすこし詰めた。そういう行動のおかげかしらんが、その場の雰囲気が尋問モードから急にどうでもいいモードになった。えらい人が下の若いもんにご馳走していたところだったようで、だから必要以上にがんばったのだろうな。その後、とりあえずパスポートでも見ようということになったようだが、そこにいた連中をゾロゾロひきつれて行ったので今度はチェックポイントが手をぬかない状態になって、外人の場合どうしたらいいのかわざわざ確認してこういうことになったんだろう。何にせよ重なるときは重なるものだ。


2011/09/02 金

 西蔵博物館。
 一階の半分が共産党のチベット支配自画自賛展示。のこりが通史と文物。
 細石器がこんなとこまできていた。インダス河上流のあたりの文化は絶対その下流の影響を受けているはずだが、そういうことにはふれるわけがない。しかしここの考古展示は出土場所が明示してあり、年代も100年単位くらいで細かく書いてあってなかなかよい。ソンツェンガンポの前の時代は早期金属時代ということになっているが、その期間は紀元前1000年から6世紀という長すぎる時代になっている。この時期、インダス河上流のあたりにひとつの中心があったようで、この時期の出土品は多い。ただインダス河上流あたりからの出土品がその前の時代にはなぜかない。ないことないはずなので展示してないだけか、そもそも発掘がすすんでいないのか。有史時代に入ると、中国との繋がりをしめす政治的文物だけ展示してあった。それに比べれば考古学はあんまり色がついていないのでおもしろい。
 グゲからの出土品として武器類が展示してあった。
 文化エリアは文字・書籍・仮面・仏像・タンカみたいな感じ。仏像もよくよくみればカシミール仏とかネパール仏とか書いてあり、それなりに類型を示す意図があるようなないような。タンカの歴史がおおざっぱにわかったくらいか。今のようなスタイルはそんなに古いものではないようだ。
 チベットなのに元明清玉器展とか明清陶磁器展とかあった。そんなもんもってくんなよ。

 セラ寺とか大召寺とかポタラ宮とか切符売り場まで行ってみたが、どれも高いので入らなかった。

 宿の主の意外な本業を知る。夜は宿の主の歓待をうけ、ツァンパまでよばれた。ということで日記を書く時間がおくれて眠いのでまともに書けない。

 チベット文字の発音だが、ラサの人の発音はやはり発音表の発音に近い。甘粛のチベット人の発音はまたすこし違った。


2011/09/01 木

 ラサ到着。
 蘭州 → ラサ 硬座 248元
 昨日発覚した重大な事実は、おととい買った切符はおととい出発のものだった。31日の朝に気付いてあわてて駅に行って改签(手数料だけで同じ路線の他の列車に変えてもらうこと)をしようとしたが、列車が出発した直後でないとダメと言われた。そもそもシステム的には終わった切符になっているので駅員が勝手になんとかするのも無理そうだった。
 ラサ方面行きの列車は待合室が別になっている。入口も普通の入口とは別になっているが、中でつながっている。普通の方から入ったのでラサ行き入口の方にはどんなチェックが待っているのかわからない。
 首尾よく列車にのっていたが、西寧をこえたあたりで健康かどうか確認する証明書みたいなのを書かされる。要するに高山病で死んでも自己責任ですということにするわけだが、ここに名前国籍住所なんてのを書かねばならない。これがきっかけでチベット入境証が無いことまでばれ、チベットの手前のゴルムドでつまみだされることがあるそうだ。え?どう書いたのかって?
 それはさておき、その後、もうなにもないだろうとおもっていたら、身分証チェックがきた。ここで観念して、素直にパスポートを出したわけだが、パラパラと見ただけだった。
 夜もなにごともなく、朝になってようやくチベット高原中央部の様子がみえてきた。草原だな。以上。
 草原は四川のチベットの方でもみたし、内蒙古でもみたし、とくに目新しいものでもなかったりするけど、このあたりは湿地が多いし険しい山もあるしヤクや羊もたくさんいるので変化が多くておもしろい。地形的にはタリム盆地周辺と似た感じだった。
 青海のモンゴル人もいるあたりの草原はかなりよかった。よかったからモンゴル人がとったんだろうな。
 ラサの近くの谷になると麦の畑がでてくるが、その畑の不定形ぶりがなかなかすごかった。

 ラサについてから宿さがしが一苦労だった。そもそも駅が最近できたものだから、駅周辺に安宿街があるわけない。あるきまわったあげく、街中でノートパソコンをひろげてようやくポタラ宮東側の旧市街地にあつまっていることがわかる。ラサの街自体はそんなに大きくないので荷物を担いで歩きまわっても平気だったが、警察や軍隊がうようよしているのでつかまったら面倒だ。見掛けだけなら中国人そのものなので、警察とかがなんか質問してきそうになったら安宿はどこにあるとか質問してなんとか切りぬけた。
 そして旧市街の方がやばい。兵隊さんが隊列組んで行進してるし、二人一組背中合せで360度みはっている監視ポイントがこれでもかというくらいある。路地の入口に詰所があるのはその路地はチベット色が濃いということなんだろう。
 もう普通の安宿をさがすのがめんどくさくなってきたので有名な安宿に行ってみたらパーミッションがないやつは泊まれませんとのこと。やばい。そしてその旧市街の安宿をさがすと外人は泊まれませんとのこと。うーむ。
 詳細は書かないがとりあえず泊まれるところをみつけた。30元。5人部屋だ。ふー。

 青蔵鉄道沿線の家をみているとあんまり特徴がなかったので、チベットでも西の方はちがうのかとおもっていたけど、ラサの旧市街の中の方にいくと、四川のチベットの方でもみかけた要塞的な民家があった。うーむ。どこまで昔のものがのこっているのかよくわからん。
 沿線をボーっとみていると、丘の上などに廃墟みたいなものがあることがあるけど、そのうちのいくらかは中共に征服されてから破壊されたチベット仏教系の建築物なんだろうとおもう。

 おととい食べたスイカか晩飯かどっちかのせいで昨日から腹の具合がわるく、車内でもトイレに何回も行った。


2011/08/31 水

 今回報道された急性白血病と福島原発作業の因果関係は? - NATROMの日記
 だいたい、死んだ人って原発の中に入って水かけたりしてた人じゃないだろう。業務内容は現場に出入りする人の線量を測定する事らしいから現場の中ではむしろ線量の低いところで作業しているはず。

 さて重大な事実が発覚したが、もうしようがないのであきらめる。


2011/08/30 火

 そういうとフフホトでみかけた歌う乞食をここでもみかけた。巡回してるんだろうか。

 鳩と菅の在任期間を足したら二年で平均して一年のペースで変わってるのはかわらんのよな。
 しかも不信任案をくらってそこで絶命するところ、菅がウソで鳩をくるめこんで無理矢理のばした3ヶ月だわな。

 駅の裏に険しい山があり、緑化の成果かしらないが緑で覆われているが、ところどころ地肌がみえていてその色が赤い。こういうのが紅山なのかとおもっていたら、そのとおり紅山だった。

 甘粛省博物館
 展示は大きく分類して、彩陶・シルクロード・仏教・化石・革命展示になる。シルクロード展示が通史になるがこの地方に過去存在していた政権のことについてはあまり詳しく触れていない。
 化石展示は適当に流したが化石自体は豊富にあった。それもかなり状態のいいものが展示してあった。植物とか魚とか。あれはどうやって化石になったのだろうか。
 そういうと甘粛が海底になった時期もあったようだが、そのときの海というのはどこからどうつながっていたのかちゃんとみていなかったのでわからなかった。
 彩陶をみていると、器形はほとんどおなじで表面の塗装だけ違えてある。縄文土器なんかとは凝るところが違う。
 革命展示のところは、陝甘寧辺区が一部甘粛にかかっているということでそれ関係に重点が置かれていた。紅軍東征西征のことも紹介されていた。馬家軍が紅軍の西征軍を潰したこともいちおうは紹介されている。その馬家軍自体のことについてはほとんど触れられていないが、それは西夏なんかもおなじなので、そういう扱いなのだろう。ここでみるとわかるが、毛沢東の中央はこの陝甘寧辺区にやってきて、もともとのここの指導者を東征軍、四川の張国燾の残部を西征軍として送り出し、軍閥にぶつけて潰したということのようだ。無論展示にそんな事は書いてないが、どうしてどうなったかということはさりげなく触れてある。

 蘭州市博物館
 明代の粛王の邸宅跡に存在した寺を利用した状態のままのこっている。こういう形態は他のところだと、その寺自体を観光資源として再生させていることが多い。展示は文物展示と絵画。文物は甘粛省博物館をみたら見る必要ないんじゃないかとおもうような展示。絵画の方は清代の人中心だった。現代の画家の人物画が大量に展示してあったが、この人の描く絵は目がほとんど同じで、なんというか日本の時代劇漫画にありそうな目だ。人物画も小説的人物が多く、歴史上の美女や水滸伝や紅楼夢なんてのがあった。当然かきわけできているようで全部同じに見える。八仙と竹林八賢なんてのもあったが違うようにみえなかった。「現代四大画家の一人」ということになっていたが本当だろうか。もっともその後、博物館の表にあった文物商店にかけてあった絵をみればやはり格がおちる。博物館が集めるだけの価値はあるということか。

 CCTVのニュースによるとカラコルムハイウェイのススト・フンザ間にできたダム湖(アッタバード湖)にようやく車が通れるようになったとのこと。映像ではダム湖の中に(!)むりやり作った道があり、一部路面まで越水しながらもトラックや車が通っていた。しかもその越水した道の横に事故車両もあった。映像で伺えるところでは、ダム湖のダムを一部削って排水できるようにしているみたいだった。
 → これは後で誤解だとわかった。アッタバード湖ではなく、中国側にできた堰き止め湖のことだったようだ。
 そういうと最近のCCTVでは犯罪者の顔とかにモザイクがかかるようになっている。

 この宿は本来40元のところを今は人が少ないので25元にまけてくれているらしい。それでキレイなのか。トイレは外の公衆トイレだけどな。

 明日はちょっと挑戦の日になる。さて。
 しかしウルムチ方面の列車も明後日から急に空席が減る。これは新学期だから移動がもっと増えるということなのか、夏の増発増車両が終わりということなのか。


2011/08/29 月

 昨日とりあえず大同から太原まで行ってみた。鉄道で30元。Kなのになぜか無印よりも安い。人民列車のようだが、そもそも席の指定が最初からないようだった。しかし途中から学生が大量に席指定の切符をもって乗ってきた。どうも学生特権らしい。それで立ちっぱなし。太原駅には昼すぎ着いた。ウルムチ行きはその日の分はなく、次の日の分の無座があるという。駅じの電光掲示板を眺めていると、蘭州行きが19時半くらいにある。これも人民列車のようだ。山西南部を漫遊するのとさっさと西の方に行くのとすこし迷ったが、もうかなり心が西の方にあるので、とりあえず買ってみた。85元。しかもこれ、大同始発だが、ただの硬座。翌日の16時すぎに着くという長時間の列車で、硬座は500くらい用意してあるらしいがすでに売り切れて無座しかなかった。ものすごい混雑が予想される。
 ということで乗ったら西安まで連結部で立ちっぱなしだったが、本を読んでたら平気だった。西安でガラガラになったので席に移動して、ノートパソコンにUSB棒を挿してネットにつないでみたら繋がった。ということで初めて列車の上から更新している。

 太原で鉄道の時間待ちの間に100元充値した。これでパキスタン行って帰ってくるまでもつだろう。

 正統思想のない歴史的ベトナム - 書籍之海 漂流記

 蘭州。10年前に来たときと駅前の印象がちがう。駅前に蘭州ラーメンの屋台がいっぱいあったはずだが、今は全然ない。
 駅前には東西ともに安宿エリアがあるがすこし高かった。さすが省都。駅の東の安宿エリアから線路をくぐる道をこえた駅の裏側にも安宿街があり、そちらはすこしやすく個室30元からあった。おそらく20元とかあるはずだが、全部まわってもみつからない。駅裏の西の方にいってようやく25元というところをみつけた。受付してた宿の娘が美人だったので、25元でもいいことにした。宿は綺麗だったが、トイレは外。つまり夜はまたペットボトルのお世話になる。もしくは膀胱の限界に挑戦するか。

 西安までの立ちっぱなしのときに、中国でもこういうことあるのかということがあった。


2011/08/28 日

 ついにモバイルUSB棒の余額が10元を切った。つまり100Mほどしかデータをやりとりできない。そろそろ金を入れないと使えなくなる。まぁネットがうかつに使えない方がいいのかもしれないが。
 ここで150元ほどつっこむと3Gまで使えるようになるらしい。約3ヶ月分か。

 今日は大同を出る。どうもおちつかない。

 最近のこの日記は読むにたえない。漫然と書きすぎている。内容があれば長くても読めるが、どうでもいいことを長々と書いているしな。


2011/08/27 土

 藤沼ダム決壊事故について(5/20)

 今、大同の気温は10度台の後半を中心に推移していてとてもすごしやすい。

 ついに8月1日からの通信量が1Gを越え、定額から従量制に移行したようだ。8月1日に宝鶏で100元購入してからだから、控えめに使っていれば1ヶ月で100元ということだろう。あと、会社の通信パックが継続していないことも確定した。まぁ働いてもいないんだから使えていた方がおかしいのでこれでいいんだが、あの一年間使い放題という一年パックはどういうパックだったのだろう。
 あと、携帯はそんなに使っていないんだから、借りるだけにして買わなければよかった。携帯の本体まで買うのは荷物を増やすだけの無駄な出費だった。

 この宿前来たときより確実に怪しくなってるな。

 昨日ATMでカードを吸いこまれたけど受付のおばさんにたのんでなんとかなった。月末なのでまだ金はあるけど先に引きだそうとしたのだ。金を引き出したあと、カードがでてくるはずのところ、少しだけ顔を出してそのまま。あわててつまんで出そうとしたけど及ばず、吸いこまれてしまった。まぁ銀行開いている時間でよかった。

 膀胱容量は8歳児で250ml程度、成人で600ml程度あるらしいが、個人差が大きいらしい。なんでこんなことを書くかというと、この宿はそとの公衆トイレをつかうしかないのだが、夜から朝にかけて入口に鍵かけるので、早朝急をつげるときにはどうしようもなく、前回もペットボトルにしたからだ。しかも今回わかったのは、昼間でも鍵をかけていることがある。ということで今回も空のペットボトルに何回かしたが、容量的には500mlのペットボトルの半分くらいしかない。しかもその量に差はあんまりない。どうも頻尿気味だとおもっていたが、それは膀胱の容量が小さいからなんだろう。しかも小学校のころから頻尿には気付いていたので、おそらくそのころから他人がするような我慢をしなかったために膀胱容量が増えなかったんだろう。

 ウルムチまでまっすぐ行くとすると、大同 → 太原 → ウルムチ というルートで、明日でたら明後日の夕方に着く。


2011/08/26 金

 大同博物館。
 やっと入れたが今度は写真禁止だった。うーむ。
 博物館自体はかなりよくできているし展示品もみておもしろいものがおおい。展示室は4つあり、通史・北魏の都平城・東西交易・陶磁器の四つ。北魏の石造物は精巧でよくできている。副葬品のゲルの模型があったが、円形のものは今あるのと大差のない外見をしている。ただ、もうひとつ、テントと家の中間みたいな形のものもあった。これは見たことない。まぁ陶器でつくったミニチュアなのでどっちも細かいところはよくわからない。
 東西交易のところこそ写真で撮りたかったが警備員がぴったりついてくるのでこっそり撮るのもできない。しかしフラッシュ禁止ならわかるんだがなんでカメラ禁止なのか。まぁサンダル禁止なくらいだからしかたないか。
 朝鮮の方との交易もあったと最初に書いてあったけど展示物のなかにはなかった。

 このボロ宿、つれこみ宿っぽい。しかし前回来たときは不思議なくらい近所の人らしい人がたくさんいたが、昨日も今日も人が少ない。前回と今回、どっちが普通の状態なのだろうか。
 前泊まった布団が臭い部屋は鍵がかかっているので誰か連泊しているものとみえる。だれも受付していない状態なので、夕方までいてだまって出ていっても問題なさそう。だれも受付していないのにどうして客が時々くるのかよくわからないが、一回来たことがあると、どこで管理しているかわかるからだろう。とか書いていたら掃除に来たので今日の分の宿泊費とられた。

 さてこれでチベット自治区以外の中国の省級地区は訪問したことになる。
 これから先だが、あと三週間あまりでパキスタンに入国するのだが、どうしてもカシュガルから行くのでカシュガルが目的地になる。カシュガルまでたどりつくのに、金のことを優先して、硬座でできるだけ安くまっすぐ行くという方向と、これまでのように博物館と地形をながめながらちんたらちんたら行くという二つの道がある。チンタラチンタラ行くにも、チベット突入とか南疆経由とか、北疆を地道にまわるとかいろいろ手がある。だいたい観光の目標としている博物館だが、十年くらい前に行って以来行っていないところもあるので、今回再訪してもいいかもしれない。まぁ大同でダラダラしながらすこし考える。

 宝鶏 → アクスという長距離列車がある。しかも普快なので硬座でも160元だ。二泊三日になるが。カシュガル方面に行く列車でウルムチ以外から出発するのはこれと西安 → コルラしかない。こっちは快速なので硬座で296元になる。これならアクス行きで硬臥に乗った方がいい。

 [書評]決断できない日本(ケビン・メア): 極東ブログ


2011/08/25 木

 ということで大同にまたやってきた。

 フフホト → 大同 硬座 19元
 この列車は特別遅いもので、他の列車がだいたい3時間くらいかけるところを7時間余かけて移動する。途中一時間くらい停車していた。
 まぁしかしフフホトから大同までなだらかに草原がつづいていて、谷状になったりはするけどとくに大きな段差がない。途中から烽火台が目につくようになる。フフホトから北の武川まであがるところは険しい崖になっているがあれが一番激しい段差なんだろうか。
 北魏の武川鎮の鮮卑軍閥が隋唐の中心になったとはいうけれど、その武川はモンゴル高原の入口になっている。その武川の下にあるフフホトは黄河へ流れこむ川がつくる肥沃な土地の端にあり、その肥沃な土地が北魏の最初の拠点ということらしい。こうみると武川鎮に配置された鮮卑貴族の重要さがわかる。
 モンゴル高原から華北平原までなだらかに連続しているとはいうけれど、やはり北京周辺から太行山はそれなりに険しい。ということで山西をずーっと下っていくのが楽なんだろう。読史方輿紀要の山西のところに、山西は北方からの入口で、ここからまっすぐ西安方面まで入れるみたいなこと書いてあったけど、まぁそういうことなんだろう。大同にまたやってくるのはどうかとおもってたけどまぁわるくなかったな。
 着いたら7時前で日がくれそうだったので前泊まったボロ宿に直行。20元。

 チベット突入とかめんどくさいことをやらずに一気にカシュガルまで行くのもいいなとおもいつついろいろ調べる。まぁ夏休みがおわる9月になってから行くのがいいだろうけど。


2011/08/24 水

 大熊さんは草原で散々歩かされたのにこりたのか、フフホトに戻ってからは朝飯晩飯以外は別行動であった。まぁそもそも先に博物館に行った時点でいっしょに見物する物がなくなったといえなくもない。ということで今日もすこし出歩いたあと昼過ぎに宿にもどってきてしらべもの。

 フフホトの近くに北魏の雲中の跡があるらしい。ということでいろいろ調べてみたけどうーむ。トクト博物館というのがあるが行くべきかどうか。
 内蒙古博物院はでかかったが、こういう情報が全然反映されていない。だからつかみどころがなかったのかもしれない。
 その雲中古城にしても、趙がつくったということばかり強調されて、北魏のことはないがしろにされている。うーむ。
 といっても、雲中古城については、今日町のなかに貼りだしてあった新聞をみていたら紹介されていたのではじめて知っただけなんだが。

 鞋も買ったのでこれから大同に戻って博物館に入りなおすつもりだが、ついでに雲岡石窟も行ってみようとおもってしらべてみると、150元もするらしい。雲岡までは市内から市バスを二回のりついだら行けるらしい。うぅむ。150元か。5年くらい前は60元くらいだったようで、それくらいなら財布の紐をゆるめて払ってもいいのだが150元はありえなさすぎる額だ。日本円にして2000円前後とかどんな観光地か。

 京都府へのCs137降下量の経年変化 - 勝川俊雄

 大熊さんを見送る。

 カシュガル・ホータン間の線路は六月末には開通していたようだ。他にも、ウルムチより北の方に線路がのびている。

 2011年08月24日の記事 | シルクロード日誌
 これをみると、中パ国境が閉まっていると書いてあるようだ。
 他に情報がない。確実に8月中に通った人の記録がネット上で見あたらない。一つあったがそれは過去の旅行の記録を書きつけているようだった。
 まぁしかし国境は閉まっているのに経済的な通行はゆるされていると書いてあるのが意味不明なのでこの記事はあまり信用しないほうがいいのかもしれない。


2011/08/23 火

 21日フフホトに到着した大熊さんと合流し、その日のうちにゲゲンタラ草原に行ってきた。シラムレン草原のもうすこし奥になる。
 景区自体はただで、各種設備もそれぞれバラバラに金払えばいいという仕組みだったが、宿が高すぎたので、周辺にある私営ゲルに泊まってきた。

 フフホト → 乌兰花(烏蘭花) バス 30元
 乌兰花 → 格根塔拉草原旅游点 (ゲゲンタラ草原に設けられた観光用景区) 二連行きのバスをつかまえて15元。路線バスなら10元。
 自分があまりケチケチするので大熊さんには迷惑をかけたかもしれないが、まぁ道路からすこし(直線距離で2kmくらい?)離れたところで泊まることができた。ゲゲンタラ草原の旅游点にある施設には周辺の牧場がもっている馬が集まり、遊びに来た人に対して乗り場からその景区の奥にある観光ポイントまで馬に乗って行って帰ってくるという遊びができる。一つの観光ポイントまで行くのに100元。傲包とか牧民の家とかあるが、どれも観光用に作られたものである。まぁ馬に乗るのが目的なのでそのへんはどうでもよかった。他には駱駝にも乗れる。あと四輪バギーとかパラグライダーとかもあった。射的もあった。射的は6矢10元で、なかなかおもしろかったので何回かやった。私営ゲルは観光客相手の商売なので、飯も宿も高い。宿はともかく飯がとにかく高かったので、22日はそこで食わず景区の小売店でいろいろ買ってなんとかしのいだ。私営ゲルにも馬がいるが、これは景区に出す馬だった。つまり景区にも馬を出し、自前でゲルも経営し、という形である。21日直接歩いて行ってそこにたどりついたときには、乗馬用の馬が二頭つながれていて、近くをぐるぐるまわるなら100元で何時間乗ってもいいという話だったが、そうそううまい話があるわけがなく、22日には馬を世話している人が乗馬用を残さずに馬をひきつれて出勤してしまった。結局馬にのったのは、その出勤前にそのへんグルリとまわるの100元と、景区の観光ポイント一つ分100元だけだった。やっぱり100元というのは高い。
 おっさん二人でブラブラ来たのでどういう関係だとしつこく聞かれた。そんなにあやしいんだろうか。

 サンダルで歩きまわったので22日の夕方ついにサンダルの左足の鼻緒がもげてしまった。このサンダルは延安で買ったものなので、一ヶ月あまりでこわれたことになる。しかたないので、フフホトに帰ってきてから駅前の卸問屋に行って布鞋を買ってきた。15元。

 莜面
 莜面鱼鱼
 莜面窝窝
 ハダカエンバクという麦の一種をつかった麺らしい。むちゃくちゃうまかった。


2011/08/20 土

 午前中はネットしてて、午後市バスにのってちょっと出てまわった。

 フフホト発の草原ツアーだが、どうもどこの旅行社に頼んでもおなじところになるらしい。そして体験談によるとこの季節はなににせよ物価が高く、馬にのるのとかも規定では一時間50元なのに250元とかとられるらしい。オプションとされているのがその乗馬と羊の丸焼きだが、半分強制でしかも高いらしい。
 しかもシラムレン草原はここ数年乾燥していて砂漠っぽい顔をのぞかせており、青々とした草を期待しているとがっかりするそうだ。
 宿のおやじ情報では召河というところにいけば馬に乗れるらしいが、その召河がシラムレン草原のことであり、ツアーでいくのもそこらしい。今は中国様による観光開発で、いわば草原村みたいな感じの観光拠点になっているようだ。だからツアーの内容には馬に乗って牧民訪問をするとか相撲を見るとかあるが、まぁ全部アトラクションみたいなものであるようだ。
 これなら直接個人でバスで行っても似たような体験ができるのではなかろうか。その場合、人数があることによって割安になるもの(宿代とか羊の丸焼き代とか)の恩恵はうけられないが、ガイドがわけわからん値段を強制してくるのだけは防げるし高かったらやめるということも選べる。
 といっても一人で行くわけではないので明日の朝大熊さんが着いたら決める。

 昨日は眠くなって内蒙古博物院のことを書ききれず今になって書いたけどどうでもよくなってきた。まだ疲れているんだろうか。
 午後に市バスに乗ってあちこち行ってみたつもりだが、バスにのって座るとすぐ眠ってしまうので行ったつもりにもなっていない。しかも行ったところに何もなかったりしたのでますます何もしていない感にとらわれる。やっぱり疲れがとれてないんだとおもう。
 駅前でシャツを買った。20元。日本で買った100円ショップのシャツがやぶれてきていいかげんあたらしいのにしなければならないところだった。承徳のスーパーで買ったシャツ(特売12元)とあわせて二つになったので、ボロボロのシャツは捨てた。とにかく肩のところに穴があいて洗濯するたびにその穴が大きくなり、縫いあわせたりしていたので、もう捨てたっていいだろう。しかしもっと安いのがあるとおもっていたがみつからなかったので残念だ。

 DPZ:35年前のガイドブックに載っている店巡り


2011/08/19 金

 内蒙古博物院に行って携帯で写真とりまくっていたら電池の表示が1になった。(フル充電で3)昨日充電したのにもう電池が切れそうになるのかとおもったが、そもそも今日一日で撮った写真が925枚もある。どっちかというとこんなに撮ってもまだ電池切れにならないと言った方がよさそうだ。
 8月17日からの詳細を例によってここに書こうかとおもったが、博物館二つ分を書くと大変な量になりそうなので、17日18日それぞれのところに書いといた。

 朝、宿の元締めみたいなおばはんが「警察が来るからとりあえずでていけ」みたいなことを言うが、とりあえず出るのか荷物を担いででていくのかよくわからない。荷物をまとめてでていったら、その元締めみたいなおばはんが下にいたので、荷物を置いておいていいのかということを聞くととりあえず20元はらったら保護してやるみたいなことを言う。このおばはんは売春宿のおばはんなので、警察が来たときどうしたらいいかは熟知しているはずだ。とはいってもそこまで困っているわけでもないし、なんか恩着せがましいし、昨日は夜中にもやってきて小姐小姐とうるさかったので、他の宿にひっこすことにした。
 おもてのもうすこしにぎやかなところに行ってシャワーもインターネットもできる宿というのがあるビルにのぼっていったところ、表に書いてある5階に到達するまえの3階に宿があった。とりあえずそこで聞いてみたら20元の部屋がある。昨日とはちがい窓際だ。20元。また考えなしにそこにきめた。シャワーとかないことがわかったので、素直に4階や5階の宿に最初に行けばよかったが、しかし設備がしっかりしていると身分証チェックもきびしい可能性もある。何がよいかはわからない。

 その宿の向かいに立派なホテルがあり、その中に旅行社があることに気付いたのでそこで草原ツアーをしらべてみた。大熊さんと合流してなんでもいいから草原に行くことになっているが、ツテがあるわけないから結局旅行会社にたよるしかない。ということで先乗りして探すことになったのだが、その旅行社で内容を聞いてみると一般的な二日旅行はここでいいようにおもった。さて町のなかをブラブラしながら他の旅行会社をさがしてみるかとおもいつつ、昨日バス移動の途中で確認した内蒙古博物院に行ってしまった。そして予想以上に時間がかかり、閉館直前までいた。

 内蒙古博物院。
 博物「院」であるからかなり格上の博物館だ。内容は総合博物館で自然の展示もいっぱいあった。切符を受けとる形式だが、そこの前に警備員がいて、サンダルを指して何か言っていた。実際何を言っているのかよく聞こえなかったので気にせずに切符受けとるところにいくと、身分証を見せたりすることなく、またサンダルのことを云々されずに切符をくれた。入口では実際切符のチェックもしていなかったとおもう。そのかわりペットボトルだけは厳しく、もっていた水を置いていく羽目になった。
 入口のあるフロアは自然、その上が普通の通史で、一番上は遊牧系展示という構成だった。自然エリアで一番の目玉はたぶん化石なんだろう。骨を組みたてたものから、恐竜の卵や桂化木などまでいろいろあったがそんなに写真はとってない。内蒙古の自然を紹介した展示室があり、そのなかで内蒙古の森林面積は中国全体の一割程度を占め、中国の中でも一番森林面積が大きいらしい。草原はおもったとおり一番多いらしいが、森林まで多いとは。まぁ無駄にデカいからかもしれないが。あと、昔ながらの植物標本が展示に利用されていた。
 あとロケットの展示があった。建国後、ソ連と袂を分かったあとに毛沢東が弾道ミサイルをつくれといいだして、内蒙古の西の果てのあたりの遊牧民を強制移住させてロケット研究基地をつくったらしい。ということでその技術が最近の有人宇宙飛行に到達するまでを扱っていた。
 自然フロアの端の特別展示で「クビライの世界」というのをやっていた。元の逸品をあつめてきて並べてあるものらしいが、2009年西安出土という墓の陶俑がよくできていておもしろかった。あとめずらしいのは金箔の十字架か。

 他のフロアが歴史展示になるが、通史より先に一番上のフロアから見てしまった。いちおう地図にその展示の名前は書いてあるが、「草原日出」「風雲騎士」みたいな意味のない言葉が並んでいるので具体的に何がなになのかよくわからなかった。こういう連想ゲームはやめてほしいのだが文化的にそういう連想ゲームが重要な位置を占める中国だからしかたない。
 「草原日出」は陶器の時代までの遺物を文化面社会面の紹介を中心にして展示したもの。「風雲騎士」は匈奴鮮卑契丹蒙古の馬具や騎兵の武器を紹介したもの。技術的な進歩が具体的に紹介してある。各時代の馬具を馬の人形に着せているのがわかりやすい。「草原服飾」は匈奴時代からの服装を出土品を中心に紹介している。匈奴王の墓からでた被り物とか服が展示してあるのがすごかった。鮮卑のものもある。あとモンゴルの帽子の実物とか。モンゴルのスカート状の服にはタックがはいっていた。
 なぜか雲南の服飾の展示もあったがとばした。「草原華章」は文字とか絵を紹介しているもの。鮮卑の嘎仙洞の文字の模造品とかあった。「古道遺珍」は草原のシルクロードの展示ということだが、そのわりには肝心の東西交流のものよりも中原の文物の影響を示すものの展示が多かった。どういうつもりなんだろうか。

 通史フロア。紅山文化とかさかえていたけど気候の変化で農耕から遊牧に変化したみたいなことが書いてあった。まぁよくよく考えてみれば縄文海進と同じ時代に同じような現象が他の地域にあってもおかしくないわけだ。紀元前1000年頃が寒冷のピークでこのころに遊牧への転換を完成させ騎馬の技術がうまれたと紹介されていた。まぁしかし気候の寒冷化によって騎馬民族が誕生し、その後気候が寒冷化する毎に南下していると考えたらなかなかおもしろいな。
 あとはいろいろ展示してあったけど書きたいこともないのでそれくらいにしとく。革命展示もあったが内蒙古には革命老区があったようだ。
 あぁそうそう。金のお札の銅板があった。

 中東TODAY: NO・2063「中東情勢はエネルギー・ルートに影響を受ける」
 中東TODAY: NO・2064「リビアの内戦・幾つかの真実」


2011/08/18 木

 14時間ものあいだ立ったり座ったりを繰りかえしたあと、昼過ぎにフフホト東駅についた。フフホト東駅は成都東のような新駅で、無駄にでかい。ここからとりあえずフフホト駅の方まで行こうとおもうが、直通のバスがない。まぁそう言わずに貼ってある系統図をじっくり見てとりあえず乗ってしまえばよかったのだが、頭の悪いことに歩いて出ていくルートを選んだ。駅のまわりは工事中で何もない。橋をわたったところのバス停に貼ってあるバスの路線地図をみて駅に近い「新華広場」までいくことにした。しかしそこまでいくならフフホト東駅から出ているバスでも行けたので、無駄に歩いたことになる。
 駅の西南あたりに安宿街があった。客引きのおばはんについていったら売春宿につれていかれた。まぁなんでも泊まれたらよい。20元。どうもやはり日本人は安宿に泊まれないらしくそのことは念を押された。おばはんが小姐小姐とうるさいのでとりあえず出て飯を食い、そのあたりを探検してだいたいの様子を掴んでから夕方もどった。とはいっても疲れがむちゃくちゃのこっているので、なにかじっくりすることはできず、日記は書けなかった。そのまま寝る。

 そうそう。この宿の小姐はたった一人で、次から次へとくる客をどんどんこなしていた。あの人一日で何人相手してるんだろうか。十とかそういう甘い数ではないのはたしかだ。


2011/08/17 水

 遼上京博物館。
 役所の向かいにあり、4階までありかなり立派だが展示室の電気は自分でつける方式。あんまり人がこないんだろう。
 一階のフロアの中心に遺跡のジオラマがあり、昨日行ったもりあがったところが日月宮で、上京の中心地だと知った。この林東鎮は上京の城内を避けるように町を建設したらしい。といっても最近作ったらしい道がみごとに横断しているが。この林東鎮ができたころ、この遺跡は何と呼ばれていたんだろう。遼中京は元にもつかわれ明初に放棄されたから大明城とよばれていたらしい。だから塔も大明塔と呼ばれていた。
 二階は概説的展示。銀碇がたくさんあった。草原のシルクロードの起点とかいうことになっていて、高麗や西夏の銅銭も展示してあった。他に服とか家具類とか、副葬品とはいえこんだけ出てきているからすごいもんだ。手袋なんかあった。しかし遼のレンガは筋を入れるのが規格なんだろうか。三階は宗教とか遼以後のこととか。ここにも銀のマスクと帽子などがある。耶律阿保機の墓のある祖州がこの近くにあり、かなりいい感じでのこっていて、今着々と発掘が進められているらしい。その発掘の様子が上空からの写真で示されていてわかりやすかった。これが時代か。キーホルダーみたいな小さな男の子の像もある。なんなんだろうこれ。やはり銅鐸があるのが気になる。遼では火葬してその骨を木の人形の中におさめるのが普通だったらしい。そういうと火葬の説明で、未開社会は火葬、文明の進んだ中原は土葬みたいな書きかたしてあった。仏教の影響にきまってるだろ。アホか。
 四階には墓の壁画を臨模したものと木室が展示してあった。木室というのは小屋型のものと、八角形のゲル状の木郭。千年くらい前のものなのに松脂の匂いがプンプンしているのは保存状態がよかったからか、保存処理の薬品のせいか。
 ほかに巴林左旗の歴史という展示室があったが公開してなかった。
 裏の駐輪場に石造物が展示してある。中に「明堂」と書いた石碑があったが、説明のパネルによると金代にはあちこちの町に明堂という場所があったという。ほぅ...
 その駐輪場には何枚かパネルがあったが、どうも昔満洲国時代には「林東史蹟保存館」というのがあったらしい。石造物のなかにはそこに展示されていたものが日本降伏後民間に流出したものもあるようだ。

 さて遼上京博物館も無事見終ったのでこれからフフホトに行こうとおもうが、どうしたもんか。どうせ時間いっぱいあるから重い荷物を担ぎながら上京の遺跡を横切って歩いていくか。

 ここからフフホトまで行くバスは200元以上する上朝にしかないようなので、とりあえず駅まで歩いた。途中遼上京遺跡を横切っていったが、馬が放牧されていて一心不乱に草をはんでいる。なにか落ちてないかとおもいながら道を歩いたが、そもそも草原状になっているところにできた道はみんなとおっているから草が生えていないだけのところだ。それだけ交通量があるということは何かねうちのあるものがのこっている可能性はないということだ。陶片はときどきみるが、そもそもビール瓶のカケラもよくみるので、最近の瀬戸物なんかと区別つかないだろう。白磁か?とかおもいながら歩くのもアホらしいので気にしないことにした。駅までの道はかなりわかりやすかった。途中ガソリンスタンドで一度道をたずねただけで着いた。駅に入ってみると、フフホト行きは真夜中の23時半発で、切符は列車出発の一時間前からしか売りださない方式らしいことがわかったので、とりあえず駅からみえる「南塔」まで歩いてみた。南塔も遼の仏塔だが、近づいてみると仏像とかがなくなっているうえ、落書きがいっぱいしてある。周りに柵があるが半分壊れてなくなっているので入りほうだいだ。雲行きがあやしかったが、南塔で涼んでいると雨が降ってきた。降ってくるかもしれんとはおもっていたが、このまわりには雨宿りしやすいところがないので、結局この塔の風下に隠れるのが一番よいということで、折り畳み傘でなんとかした。そしてそれでなんとかなった。
 雨がやんだころ、おっさんと若い男女のよくわからん組がやってきたので少し言葉をかわした。たぶんちょっと学のある人たちなのだろう。満洲国時代にはこのへんに日本人は三人しかいなかったとかそういう話をしていた。まぁしかし内蒙古で「中国」がどうこうという話をするとモンゴル人はどうなのという話になるんだが、おっさんが中国中国と言っていたところに女性がその辺の矛盾を言いだしたらしく、その話題はそこで終わった。そういうことを言えるから学のある人たちなのかとおもったが、今からおもえばやはり家族だから言いたいように言えたということなのかもしれない。彼らはまた下りていったが道々植物をみながら下りていった。

 傘も乾いてきたのでまたボーっとしていたが、また違う連中がのぼってきたしもう夕方も近いので下りて駅で列車を待った。列車にそなえて横になって寝ていた。さて一時間前くらいになって切符売り場にいくと「定員超過のため切符は売りません」と書いてある。しかしあとからあとから客がやってきてみんな並んでいる。この人たちも切符をもっていないはずなので、ここは中国人のやり方にしたがい、列の近くで待っていると時間になって検札もなしにプラットホームへ入れた。列車にのぼるとやはり定員超過だけあって席はいっぱいで通路に立っている人があふれている状態。しかたないので乗った車両の真ん中あたりで立っていた。その後14時間ほど立ったりその場で座ったりを繰りかえすことになる。なにかの刑罰を受けているようだった。

 そういうと車窓の外に風力発電の風車みたいなものがあったが、全然回っていないところもあった。このあたり見事な草原だったが、草原と砂漠って紙一重のようにおもった。というのも南塔のあたりは見事な草原だが、南塔の横にわずかな水量の川があり、その河原は砂だらけ。ちょっと気候がかわればこのへんはすぐに砂漠になるんだろう。


2011/08/16 火

 関東軍は朝鮮銀行に通貨を発行させて軍資金を賄っていた。 - 株式日記と経済展望
 フジテレビ&韓流問題の周辺にある課題に関する雑感: やまもといちろうBLOG(ブログ)

 中国のビザがマルチビザとれなくなるという話だが本当だろうか。

 中東TODAY: NO・2061「PKKのNO2をイランが逮捕というニュース」

 イギリス暴動の裏にある鬱屈と絶望について

 赤峰博物館。
 37路のバスが博物館のうしろに行くが、36路とか35路とかでも近くを通る。
 石器や化石から清代の文物までひととおりそろっている博物館だった。残念ながら紅色展示はなかったがそらないわな。
 紅山文化は「中華文明でもっとも早い文化」ということになっているらしい。まぁそれはともかく、戦国秦漢のころになると中原の青銅器を真似た陶器がでてくる。青銅器そのものではないところがなんともあわれをそそる。陶器なので細工も大雑把になる。その前は青銅器もつくっていたのに。だんだん落ちぶれていく感じだ。
 鮮卑のあたりの展示物がなく、一気に契丹へ。契丹の展示室は当時の繊維や木製構造物がたくさん展示してあってなかなかよかった。貨幣のところに遼の銀錠や砕銀があった。ある墓からの出土品として夫婦の冠と銀のマスクが展示してあったが、冠は男女逆ではなかろうか。遼人の木彫りの人形はなかなか味がある。あと、キーホルダーみたいなちいさい子供の人形みたいなのがあったが、小便小僧スタイルになっている。四川の富順の孔廟の屋根のてっぺんの飾りのなかにチンコまるだしの子供の像があるというので謎みたいにされていたが、当時はこういうの流行っていたんだろうか。
 金代になるとこのあたりは中心から辺境になったということになっている。あとはモンゴル化、清代のモンゴルという感じの展示。文物豊富だった。

 赤峰 → 林东(林東) バス79元
 博物館から北にあるいて35路か36路にのるとバスターミナルまで一気にいける。しかし鉄道からバスにかわると一気に交通費があがるな。
 さていままでは草原的な地形を大々的に畑にしてあるところばっかりだったが、このバスでシラムレン河のあたりまでいくと完全に草原になった。空が広くてきもちいい。

 林東についててきとうに20元の宿をさがして泊まった。バスターミナルの近くに宿が密集しているところがありそこに泊まったが、逆の方向に歩いていってもよかったかもしれない。遼上京博物館はバスからみつけていたので行ってみたら明日の8時半にひらくとのこと。
 林東からフフホトまで一気にいけるが、真夜中に出るらしい。バスターミナルから駅まで、列車の時間にあわせて市バスがでている。うーむ。しかし真夜中出発だと出発の時間まで時間があまるな。

 遼上京跡は町のすぐ側なので行ってみた。城壁の跡があり、城壁の中がわには草原がひろがっているが何もない。南の山に南塔がみえる。行ったときはちょうど城壁の一部で発掘調査していた。


2011/08/15 月

 朝起きたら激しい雨。外の遺跡を見に行くには向いてない日だ。

 大明塔までは寧城の駅前から3路のバスで行ける。雨降ってるので大明塔だけにしようかとおもったが、大明塔自体が遼中京博物館の敷地にあった。月曜なので博物館は休みだったが、建物自体は開いていた。塔も見放題。しかし雨が激しいので折り畳み傘ではなかなかきびしい。
 城壁を見にいったが、城壁が風化した土は粘土のようになっていて、サンダルの裏に土がどんどんついて歩けない。しょうがないので裸足で城壁にのぼったりした。しかし雨でどろどろなのでときどきすべる。すべって尻餅をつき尻に土がついてしまった。そのまま帰ろうかとおもったが、雨が降っているのを幸い、ズボンをぬいで水溜りで泥だけおとした。まぁそこだけ濡れてしまったがどうせ乾くので問題ない。
 帰りのバスを待っていたら、車が声をかけてきた。寧城からここまで4元だったが、車で寧城まで5元でいくというので乗った。まぁ白タクか。

 まぁしかし日本人とか言ってたら、他に乗ってた女の客が降り際に「花姑娘」の話題を言いすてるように言っていった。愛国教育心底うざい。

 天義 → 赤峰 硬座 9元
 天義駅は昼前から午後の2時まで閉まっている。乗る人はたくさんで、買った切符も車両の指定すらない無座だったがなんとか座れた。
 赤峰までの道中からみえるレンガ積みの農家はあんまり中国っぽくみえず、なんかロシアとかのような雰囲気があるが、どこがそうおもわせるのか。レンガは赤レンガだがそこは関係ない。屋根がはりだしているあたりが中国らしくなく、集落の中を通る道の広さがそんな感じなのか。

 赤峰ではてきとうに20元の宿にとまったが、さがせばもっと安いところもありそうだった。

 そういうと、朝陽の北塔博物館に展示してあった遼代の墓のうきぼりに「大聖那吒太子」とか書いてあった。こないだ北京で飯くったときせっかく西遊記研究者と同席したわけだから、西夏の猿伝説のことでも聞いてみたらよかったかもしれん。ナタは遼で発達した話で孫悟空は西夏で発達した話だったりして。


2011/08/14 日

 朝陽にもう一泊しようかとおもったが、なんか宿の人が全然いないのでとりあえず荷物をかついで外に出る。南塔の方に歩いてみたらなかなかかっこいい塔がみえた。これは遼代らしい。南塔の南に建設中の博物館がある。朝陽博物館の開館は10月を目処としているらしいというのは昨日の夜ネットでしらべていてわかった。もうすこし早めにしらべてわかっていたら朝陽に来なかったかもしれない...
 南塔の近くに寺がありこれがなかなか雰囲気よかった。団体の参拝客がちょうど来ていたからかもしれない。境内には石碑とかもたくさんあったが、なかに康徳四年の石碑があった。満州国時代のものだ。この寺の建物がなかなか古い雰囲気をのこしたままなのは、文革のとき、軍隊の駐屯地となっていたために、破壊されなかったという。とはいっても博物館や倉庫などに転用されていたらしいので全然というわけにもいかないんだろう。満洲文字が刻んである石碑なんかはもう風化している。しかしこの寺、昔はチベット仏教の寺だったらしいが今は漢人の僧みたいなのしかいない。

 その寺から北上すると関帝廟がある。これが朝陽県博物館であるらしい。らしいといってもおそらく昔は博物館として利用されていたけど今は関帝廟の機能が復活しているんだろう、文物っぽいものが境内に放置されて結構壊れていた。遼代の石碑とか墓碑銘とかが無造作に置いてある。朝陽博物館ができたらちゃんと収められるんだろうか。2004年に建てられた碑の一部がもう風化しているのがおもしろかった。あと、境内にあるいろんな像の前にクッキーみたいなものがいっぱいお供えしてあったが、それを回収している人がいた。まぁ回収というか食べながら集めているというか。
 遼代の各種文物の他でおもしろいものは、日本軍の「伊藤討伐隊忠死之處」という石碑だろうか。無造作に立てかけてあったので裏を無理に見ると、昭和八年のものらしい。日本の石碑はやっぱり雰囲気が全然違う。
 しかしこの博物館、遼代の文物は放置なのに関帝廟関係の建物には囲いがしてあったりする。まぁそういうぞんざいな扱いは中国らしいといえば中国らしいが、単純に移行中なんだろうか。

 次に北塔。北塔は塔の基部に仏像のレリーフなどがある。北塔博物館というのがあり、朝陽博物館ができれば南塔のそれに対し、北塔の北塔博物館という配置になるんだろう。南塔と北塔のまわりはそれぞれ公園になっており、その間に倣古街を配置という観光的開発が行われていた。たぶん旧市街みたいになっていたのを強制排除して周りの集合住宅におしやったんだろう。しかし倣古街は化石屋と土産物屋とKTVとかになっており、あんまりよい雰囲気でもないようにおもう。そもそも飯食うところがなくて困った。

 北塔博物館は北塔地下とあわせて60元もするが、朝陽まできて博物館にはいらないのも癪なので入ってみた。
 北塔はそもそも三燕時代の宮殿跡地に、燕の血を引く北魏の皇太后が木製の塔をつくったのが始まりらしい。のちに唐代にたてなおされ、遼になってさらに大きくしたと。しかしここに来て三燕の宮殿の礎石とされるものが見れるとはおもっていなかった。ここの目玉は仏舎利らしく、特別な展示室までつくってある。このせいで博物館が50元なのかとおもうと腹がたつ。
 北塔地下は基礎が見れるようになっている。宮殿礎石がいっぱいあった。

 朝陽 → 天義 硬座10元
 だんだん高原にのぼっている感じがある。
 着いたら夜ではげしい雨だった。さびしい町だろうとおもっていたが、行ってみたら意外とさかえていて客がうじゃうじゃいて駅前には宿がいっぱいある。内蒙古最初の町だからだろうか。どこにいっても単間30元だったのでしらみつぶしにさがしたら20元のところがあった。テレビなし、部屋に鍵なし。まぁどうでもいいのでそこにした。暑い。
 天義は寧城にある駅名で、遼の中京の遺跡がある。明日見にいくつもりだが、博物館はどうせ月曜休館だろうとおもうと気がおもい。

 コミケに出した漫画は2冊しか売れなかったそうで、やっぱり雑すぎたから出さなかったほうがよかったということだろうか。


2011/08/13 土

 ユースホステルが満室なのでしかたなしに朝6時に起きる。とりあえず北京駅に行って承徳行きを買ってみたら買えたので、蒸し暑い北京には別れをつげることにする。
 北京 → 承徳 41元
 無座で乗ったけど一応座れた。よくわからん。シートが結構いいのが高い理由なんだろうか。

 昨日王府井の本屋に行っていろいろみていたとき、『蒋介石与莫斯科的恩恩怨怨』が棚にならんでいたけど人民出版社出版で著:邢和明となっていた。本文はおなじで、こっちの方が注が充実しており、引用されている文章の出典が明記されている。だから蒋介石本はこっちが本物で、持っている本はこれをコピーして名前を勝手に変えたものなんだろう。そして毛沢東の方は棚に並んでいなかった。おおっぴらに出版できない方と蒋介石の本を抱き合わせにして売るためにこういうしくみにしたんだろうか。

 承徳まで行ってみたけど、すぐ接続する列車がなかった。調査ミスだ。そもそも接続時間が30分くらいしかないという時点であきらめるべきではあった。結局夕方に出る列車に乗る。39元。これは実は北京発丹東行きなので、わざわざ承徳で降りなくてもよかった。承徳ではとりあえず熱河行宮の門前まで行ってみたけど、今は120元になっていた。昔行っといてよかった。
 承徳から朝陽行きの列車の中でめずらしく他の客と話をした。なんかしらんがおばさんが朝陽の案内をしてやるといって携帯の番号を教えてくれた。うぅむ。どうも歯磨き粉とかの健康商品の外販をしているらしい。その絡みじゃなかろうか。他に大学生二人。おかげでわりとたのしく朝陽までこれたが、夜の12時をまわって日付がかわっている。しかし駅前に客引きがいっぱいいて、宿には困らずとりあえず20元のところに泊まった。しかもシャワーがあった。
 朝陽も暑い。ここまで暑いなら大同方面に行ったらよかったか。あっちは涼しいしなぁ。


2011/08/12 金

 日記のスタイルとしてその日のことをその日のところに書かないのはあとから使いづらいのはまちがいない。

 昨日の夜、水滸伝同志の大熊さんと合流して内蒙古の件のことを決めた。先にフフホトにのりこんで旅行社かなにか草原に行く手段をみつける。といっても大熊さんの参加する学会とやらが終わるのが19日あたりでその後なにやかやで大熊さんのフフホト到着目標が21日になったので、あと一週間くらいは時間がある。
 今の北京は日本並みに蒸し暑いので早々に脱出したい。

 北京以後は 錦州 → 朝陽 → 赤峰 → ケシクタン草原 → ウランチャプ(集寧) → フフホトかな。集寧から大同にもう一回行ってもいいような気もする。

 宣化の博物館の写真をみかえしていておもいだしたこと。
 漢代のものとして「海貝」なるものが展示してあった。日本のように南の海の貝を宝物あつかいしていたんだろうか。
 あと、こういう博物館としてはめずらしく、大躍進時期の動員の写真が展示してあった。

 北京にある国家博物館と首都博物館は最近新しく作りなおされたものなので見に行くべきなのだがまだ疲れた気分があるのともう12時なので全部はどうせみれないだろうとあきらめモード。もう一泊したらいいのか?。うーん。

 王府井の本屋街を見て歩いた。ついでに土産物屋で紅軍カバンを買った。20元。今までの100円ショップで買ったカバンは捨てることにしたが、この紅軍カバンは底がしっかりしていないのですぐに破れるだろう。

 大熊さんと合流して携帯を受けとり、さらに大熊さんらと飯を食う。帰りに携帯屋をみつけたので、携帯のカードを買いついでに中古の携帯も買った。150元。まぁしかし新しいのをあわてて買うよりは、大熊さんのお古をそのまま持っていてもよかったかもしれない。そもそも上海で買ったものがみつからないのが問題なんだが。

 この宿明日は満室だそうだ。うーむ。明日国家博物館を見るためには、明日の夜お風呂とかに泊まるしかないんだろうか。とりあえず早朝北京駅にいってみるか。承徳行きにのれたら夕方にはのりついで朝陽まで行けるはずだ。とはいっても今の元気の具合だと明日朝おきれるかどうか自信がない。


2011/08/11 木

 はーつかれた。ネットカフェで泊まったらあんまりよく眠れない席にあたって大変だった。

 DPZ:あの水のない川は何だ

 さて日記の体裁として、その日付のことをその日付のところに書くのと、書いた日のところに書くのとふたとおりあり、後者はあんまり多くないとおもうが今まで主に後者のスタイルでやってきたので後者のスタイルで書く。

 8/9
 宣化博物館
 ひさしぶりにまともな博物館をみれて感激。まぁ大同はもっと充実しているんだろうが、サンダルで追いだされたのでしかたない。次行くときは布鞋を買っていく。
 張家口へは西門のあたりから行けるので、その方向へいくバスにのっていてみつけたので降りる。共産党がここにつくった政府の建物を利用しているらしく、どっかの旅館の壁に貼ってあった地図ではそっちの記念館みたいに書いてあったのできづかなかった。となりに教会があって天主堂という字が貼ってある。まちがいなく他の事に転用していたのを最近になって元にもどしたんだろう。
 遼の墓の展示とかあった。燕が戦国時代の後期にこのへんから遼西まで征服したということが書いてあったんだが、大同からこのあたりが中原勢力に押さえていたのは案外短かい期間だな。しかもすぐ朔北とかなんとか言ったりするような事態になるし。燕雲十六州とか言うけれど、燕はともかく雲の方は北方系の天地だわな。

 宣化 → 張家口 乗合ワゴン 7元
 西門のほうからバスがでているのでそっちはもっと安いのかもしれない。あとで気付いたが、宣化の中心からも張家口の方にバスがでていた。展覧館というのが張家口のほうにあるもののことだった。
 乗合ワゴンは平門というところにつく。そこから南にいくと張家口の旧市街があり、展覧館があり、駅があり、ずーっと南に南駅がある。博物館というのがあったがこれには入れなかった。午後開くということで午後行ってみたけど開いていなかった。たぶん中身もしょぼいんだろう。宣化にくらべてやるきのなさが尋常ではない。
 旧市街を歩きまわってきづいたことは、文革のころの宣伝標語が黄色のペンキで書いてある。ほとんどは湮滅しかけでよくよめないが、まぁわかるものはわかる。
 宿をさがしまわってさんざん歩いたがなかなか安いところがなく、南駅の方にいくと、安いところがあったが、外人おことわりが徹底していてどこにも泊まれない。風呂に「大庁过夜」とあったので聞いてみたら朝まで30元でいれるとのこと。とりあえずひさしぶりの風呂に一時間半くらいつかりながらCCTV13のニュースをみつづけ、大庁に移ると小姐の勧誘を断わりつつ大画面でながされる「中国地」を見ながら寝る。ここしばらく歩きすぎて疲れているので小姐がいろいろ言ってきてもなんともおもわないからちょうどよかった。

 8/10
 張家口 → 北京西 硬座 14元
 張家口から北京西だが、途中の風景が断崖絶壁でおもしろかった。前承徳から北京の方に行ったときも台地から平地へものすごい段差のあるところをバスで降りた。北京の周辺ってあこまで険しいのな。
 北京西駅について安宿を探すがなかなか20元でいいのがない。通りすぎてしまったので、つぎは北京駅の周辺に行ってみたが、昔とめてもらったあたりをさがしたところ、再開発でなくなっていた。そしてとりあえず宿地帯をみつけたが、高いところだと平気で100元台の値段を提示してくる。そして外人おことわりは徹底している。いいかげん疲れたのでとりあえず駅前の朝鮮飯屋で朝鮮の冷麺を食い、北京駅から前門のあたりまであるいたが、なかなかみつからない。その辺にある外人向けゲストハウスみたいなので値段を聞いたらドミトリーで70元とかいう。夏料金とかほざいていた。ユースホステルもみつけたが、予約がないと泊めさせてくれないとのこと。
 こっちのなりが仕事をさがしている人民にしかみえない事も宿探しに影響しているのかもしれないが、とにかく北京西駅にもどって、少々高くてもいいから泊めてくれるところがあるかどうか聞いてみたが全滅。さて、泊めてくれないということを前提にしたほうがよさそうだということに気付いたのが夜の10時すぎ。あーつかれた。結局西駅の前のネットカフェで夜を過ごした。25元の席しかのこっていなかった。
 そして、今日の行動を反省してネットカフェでhostelworld経由でユースホステルを予約する。一泊50元に手数料として12元程度とられている....

 北京は蒸し暑い。今までそれなりに乾燥していただけに、この湿度には耐えられない。厳しすぎる。

 8/11
 北京西駅からユースホステルに移動。順調に移動できる。さてその後、ちょっと買い物に行こうとして昔行ったことのあるスーパーまで行こうとしたが、まず北の方に行ったら、そのあたりにあったスーパーが潰れていた。バスで東の方に移動しようとしたところ寝すごしてしまい、そのまま北京を一周する。さらに東の方へ行くバスにのるがそれらしいのがみつからない。しかたないので西瓜でも買って食ったあともどってきた。これだけで日が暮れてしまった。


2011/08/10 水

 北京に来たが宿が高い上にやっぱり泊めてくれない。しかもハイシーズンで外人向けゲストハウスも値上げしている。うーむ。泊めてくれるところがまだみつからないのでもうあきらめている。
 荷物預けて昼間はどっか行って夜になって引きだしてどうにかするというパターンでいくか。
 しょうがないのでhostelworld.comで探したらそれなりにあるな。もう19時まわってるから遅いけど...


2011/08/09 火

 民主党内閣で最低の支持率 東北ではわずか6・3% | 共同通信社

 今日どうするかな。北京に行くか張家口に行くか。

 張家口に行ったが宣化にひきつづき、泊まるところを探すのに四苦八苦した。おちついてネットに接続できるところに行けばまた書く。10日中には北京へ。


2011/08/08 月

 よっぱらいが廊下で寝ていてうんうんうるさい。とりあえずひきずってうちの部屋の直近から遠ざけたがそれでもうるさい。あと2メートルほどひきずれば連中の部屋にほうりこめてその部屋の戸も閉めておけるのだが、ゲロまみれだし狭いしひっぱりづらい。そのせいで目がさめてトイレにいきたくなったが、この宿公衆便所にいかないといけないのに入口に南京錠かけてある。まだ3時前か...あーつらい。
 今度はその目の前の部屋の人がでてきてよっぱらいの部屋までおしこんだようだ。そしてよっぱらいの同行者に説教かなにかしている。なにぶん寝息も聞こえるようなベニヤの壁の宿なのでよくきこえる。

 下痢気味なので大同でもう一泊してもよかったが、布団がくさかったので、とりあえず移動することにした。
 大同 → 宣化 新空調硬座 33元
 切符を買ったのはいいが、江西省の方まで走る列車らしく、北京行きの人の他にそういう人までいるということでむちゃくちゃ混んでいた。しかも無座の切符なので立ちつづけになる。つらかった。
 そして宣化でおりると今度は宿がみつからない。あるがすべて外人は渉外宿に行けと断わられるのだ。日が暮れるまでうろついていいかげんつかれたのでもう泊まらずに北京に移動しようかとおもいきや、なんとか20元で登記せずに泊めてくれるところをみつける。そして今度は風呂を探して夜の町を歩きまわるがみつからない。地下道の先にあるということだが、その地下道がみつからず、21時もまわってしまったので結局帰って手足と頭を水道で洗ってさっさと寝た。とにかくつかれた。

 そもそも大同でも外人おことわりだったのかもしれない。ますます闇に近い宿を選ばなければならないということか。


2011/08/07 日

 応県行きのバスは8時出発だった。ということで切符を買って宿にもどって横になってPC。

 空気で議論するネットのひとたち - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

 山阴(山陰)バスターミナル → 応県 マイクロバス15元。金額的にそんなに高くない。やはり朔州からバスでまっすぐ応県に行っておけばよかった。
 応県についてとりあえず木塔の方まで歩く。木塔はさすが古い木のおもむきがあってなかなか見応えがあった。といっても門の中に入るには60元必要だったので、あきらめてまわりをブラブラまわって見た。しかし歪んでいるな。あれいつ崩れてもおかしくないんじゃなかろうか。
 共産党が応県を攻めたとき、防衛側は木塔の三層目に機関銃を備えつけて応戦したらしい。応県はとくに抵抗が頑強だったそうだが、そういう跡をうかがえるようなものはなにもなかった。まぁ木塔に近づいたらなにかあるのかもしれんが。

 応県 → 大同 バス25+2(高速代)元
 もう平原なんだが、開拓されつくしておらずときどき草原っぽいのが残っている。このあたり開発されるの意外と遅かったんだろうか。それはともかく変化に乏しかったので寝てしまった。しかしスピーカの直下で非常にうるさかった。
 大同に着いてとりあえず30路の市バスにのって駅までいく。その途中で博物館発見。まだ昼なので午後行くことにして、とりあえず宿探しを開始。その結果わかったことは、駅の南側にある安宿街は日本人泊めてくれないところか、売春窟だった。売春窟も普通に宿として営業しているようで、20元の部屋をみつけたがなんか客引きの態度が強硬だったのでなにかハメられるかもしれんとおもってやめた。駅の北側の安宿をあたるが、数が少ないのですぐに全部まわれた。しかし最安で30元だったのであきらめ、南の方でとばしたところを次は虱つぶしにいこうかとおもったが、その時点ですでに時間をつかいすぎてしまっていたので、先にとりあえず博物館に行く。明日月曜なので月曜休館を避けるためだ。来たのとおなじ30路で行き、博物館に着いたが、サンダル禁止らしく追いかえされてしまった。しかたないのでとりあえず布鞋でも買おうとおもってその辺をさがしてみるがショッピングセンターとかがあつまったちょっと高めの繁華街なので20元弱の安いのがみつからない。大同博物館はサンダルでおいかえしたりするくせに16時にしまるので、もう入れない時間になってしまった。
 ここでもう博物館はあきらめ、とりあえず荷物を担いだまま市内の方へ進んでみる。なにか寺があり、整備されすぎた空間があったが、その北側に旅館と書いてある看板がみえたので行ってみたら20元の部屋があった。若干臭い。この旅館、旧市街の残骸のボロい建物をつかっているので、なかなかよい。
 とりあえず荷物を置き、旧市街を歩いてみる。歩いてみると行っても、さきほど書いた寺みたいなものに改造する「再開発」がすすんでおり、壊れたのと新しく作ったものとまだ壊されていないものがある程度かたまりながら入りまじっている。
 ここの再開発は完全に壊して全然違う町並みを作るものであるらしい。で、門だけは再利用するようだ。しかしこういう新造旧市街の建物って、実際には町にならんでいなさそうな建物を横に並べているのでいかがなものかとおもう。しかもだいたい土産物屋街とかだし。
 しかし今日は散々歩きまわって疲れた。さぁ明日どうしようかな。


2011/08/06 土

 今日はうまくいかなかった日だ。
 神池 → 朔州 鉄道3.5元
 朔州 → 岱岳 新空調10元
 神池から朔州へは寧武を通る。通るなら昨日寧武までバスで行ってもよかった。寧武には寧武関があり、その関係の復元構造物とおもわれる城があった。このあたり分水嶺なのでなかなか眺めがよい。朔州へ降りると平原になった。
 朔州に行くまではうまくいったが朔州で困った。博物館に行こうとしたが、場所がわからない。適当にバスに乗って文化中心というところで降りてみたが、やはりわからない。防災用の地図があちこちにあってそれをよくよくみると市博物館というのが書いてある。しかしその辺の警官やおっさんに聞いてみると違うところを指す。示しあわせたように同じところを言うので行ってみたが、大衆なんとか館というのがあった。やっている様子がないし、壁に歌舞とか書いてあるので無形文化財っぽい。その公園でアイスクリームを買って聞いてみたら昔はそこに博物館があったとのこと。しかたないので地図の市博物館まで歩いてみた。遠い。バスがあったら乗るのだが、ない。しかも開いていなかった。どうも文化施設を集めた公園を作ったみたいなんだが、機能していないようだ。「まだ」なのか「もう」なのかはわからないが、看板がすこし古くなっていた。
 朔州なんかとばしたらよかった。駅までもどると、岱岳まで行く昼の列車がおわっていた。次の列車は19時。うーむ。バスで直接応県にいくのがいいんだろうが、とりあえず成行きまかせで切符を買って日が暮れるまで待った。
 岱岳までは一駅。40分くらいで着いた。着いたがもう8時。バスターミナルの場所がわからないが市バスの1路の行き先の中にバスターミナル(汽车站)と書いてある。さてその方向に歩いて途方に暮れたところで座っているとおっさんが話しかけてきた。そのおっさんからの情報で、バスターミナルは新市街(新城)にあること、応県に行くバスは一日二台しかないことを知る。そのおっさんがそういうことを言ったココロは、駅の近くの宿にとまれということだったが、とりあえずバスターミナルまで歩くことを選択した。おっさんは宿の人で宿に引くためにそういうことを言ったんだろう。バスがないのはまだしも一日に二台しかないというのがおかしい。
 途中、道々人に聞きながらバスターミナルまで着いたらあたりまえだがもう閉まっている。宿をさがさねばならないが選択肢が少ない。バスターミナルの横の宿はパスポートをみせたら拒否された。結局数すくない中で一番安い30元のところに泊まった。うむむむ。いままで20元でうまくいっていたのにここに来て30元とは... しかもその宿のネーチャンは30元は安いだろと誇らしげだった。まぁ20元というのは供給過剰なところでないとなりたたない価格なのかもしれない。


2011/08/05 金

 涼しいなー。

 フォールアウトからの人体内セシウム(40年の歴史) (09-01-04-11) - ATOMICA -

 9時の列車に遅れてしまったが、そのままバスなどで移動すればいいものの、涼しのでもう一泊することにした。
 午前中町の中を歩きまわったあと、午後丘の上に登って涼んで一日終了。神池の町には城壁が一部残っている。あと旧政府というのがあった。近くの壁に昔の標語のなごりがあったがよくよめなかった。あと1950年代とおもわれる看板らしいものがあった。
 神池の由来の西海という高原湿地がある。神池県政府のサイトには、清のころ人民が西海を干拓していたのを地方官がすべて買いとって保護したという美談が書いてあったが、今の西海にはどまんなかに舗装した道路が通してあり、その道から町の方は半分くらい埋めたてられて家が建っている。まぁ中国らしい。

 ここから先だが、朔州大同宣化と北京に近づき、時間があれば朝陽に行く。その後内蒙古。

 山東衛視で新水滸伝やってるけどこんなに話いじってるのか。
 98版水滸伝の武松関係の三集だけぬきだして武松という番組にしてるのがあった。最初は同じ役者でそういう番組をつくったのかとおもっていた。

 旅メモ:2人の世界旅
 このサイトの人、ちょうどこの7月に中国からパキスタン入りしている。しかも前すこし検討していた、タジキスタンからアフガニスタン入りする方法も試していて、行くとしたらかなり役に立つ。
 特にありがたい情報:

 明日は朔州に行き、応県に泊まる予定。


2011/08/04 木

 楡林 → 神木 新空調硬座 17元
 神木 → 神木北 乗合タクシー 15元
 神木北 → 神池 客快 14元
 6時に起きて7路のバスで楡林駅へ。順調に切符を買い、順調に席について神木へ。楡林からしばらくいくと、土漠になる。鎮北台の北に行っても砂漠をみれなかったのは、台地沿いに移動していたから土漠を見れなかっただけで、台地から離れればよいだけのことだった。長城はその台地の端にある。台地の端沿いには他にときどき烽火台もみえる。ただの台地だったのが、神木のあたりに近づくにつれ谷が深くなり峡谷みたいになった。
 神木駅を出たところで乗合タクシーにつかまったが、最初20元と言っていたがすぐ15元になったので事前調査とおなじ額なので乗った。もっとも神木駅からまっすぐ神木北駅に行ったのは自分だけで、他の人は店塔の町で降りた。店塔から神木北駅までも結構な距離があった。
 神木北で二三時間待って神木北ー大同の列車にのる。切符は車内で買う。
 神木北から府谷で黄河を渡ると、だんだん草原っぽくなってきて、神池のあたりまでくると普通に草原になっていた。神池は天気予報での気温が低かったので行ってみた。確かにすこし涼しい気がした。
 神木北からの神朔鉄道が止まる神池の駅は神池南だった。一日に一往復しないらしいので、次大同方面に乗るとしたら明日の夕方になる。駅の前にも宿らしいものがなにもない。岢嵐の方に行く線路があるはずなので、そっちの駅が北か西の方にあるはずと予想し、すこし歩いたら神池駅をみつけた。そっちが町の中心につながっていた。ということですこし歩いて20元の宿をみつけた。しかしまた窓無しの部屋だ。うぅむ。

 神朔鉄道は本当に石炭運輸路線で、一日一往復しか客車がないのに、貨物列車は何本もすれちがった。あちこちに石炭を貯めとく場所があり、山になっていた。


2011/08/03 水

 今日は普通に観光する日だ。

 宿がえしてみた。バスターミナルの南西に安宿街がある。真南にはその安宿街からすこし隔離された安宿街っぽいものがあるがこれは売春窟だ。しかしバスターミナルの南側一帯の道路に面してマンションがたてられていて、その存在に気付かなかった。たぶん安宿街はあのマンションがあったところにもあったんだろうが、なぜそれをぶっつぶしたんだろうか。まぁ見苦しいから潰したということだろうが、そのために安宿街に行きにくくなっている。
 それはそれとして、宿替えしたら、窓のない部屋15元になった。蒸し暑いかもしれん。

 郵便局に行って荷物を送ったが、受付の人が中国人らしく慣れてないことをさせられると怒る。僻地から日本に荷物を送らない方がいいということだな。結局小包ということになって結構金かかった。北京とか上海のような大都市でやったらよかったか。

 鎮北台というのを見にいったが入場料がかかるようなので遠くから眺めただけにした。長城の一部であるようだ。あとで時間があまったので3路のバスで鎮北台の北にいったけどまだ砂漠っぽくないのでひきかえした。

 楡林展覧館に行ってとりあえず漢画像石博物館というのをみた。そこに画像石の分布というのがあったが、結構地域が限定されている。河南のあたりに全然出ていないのが不思議だ。意外と画像石というのは地方で盛んだったんだろうか。
 米脂の李自成行宮に無造作に展示されていたものがここではかなり大事に展示してある。馬車の種類がこまかくかきわけてあったりしてみているだけでおもしろかった。
 で、展覧館だが、開いていないということだった。がっくりした。

 あとは楡林の城壁の東側を見に行ったくらいか。東側の城門はそのままのこっていた。城壁の側に城隍廟というのがあったが、再建中のようだ。たぶん別の用途に使っていたのを、再び元にもどそうというのだろう。ほかにも財神の廟があり、こっちはそういうものとして稼働しているようだった。
 楡林の城壁はだいたいいい感じにのこっている。修復もそこそこにしてあるのがいい。ただ南側は盛大に建造中なので、土の城壁から磚づくりの城壁になるだろう。
 磚もみていると簡単に風化するようだ。できが不均一だから弱いのがとけて、それで隙間ができたりするというのもあるだろう。あと地震などで傾いたりもしているんだろう。西の城壁はそういうどこかおかしくなった城壁がそのままのこっていてなかなかよい。

 まぁしかし楡林の鐘楼はしみじみいいな。


2011/08/02 火

 どうしても、もやもやして一歩が踏み出せない君へ: やまもといちろう

 日本だと一番暑いのは八月上旬の今ごろだが、中国の華北で一番暑いのはいつごろだろう。満洲行くのはやめてここから北京 → 内蒙古 → 新疆 → パキスタンというコースにするか。余裕があればラサ突入を試みるのもいいかも。

 今日は製本で終わった。結局コピーで作った。コピー一枚5角なので日本の5円コピーに比べれば高くついたが前回より一枚紙がすくないので金の点から言うとそんなもんか。あと、B4の紙がないのでA5の本になったがまぁ別段問題ないので去年もA5にしたらよかったか。コピー屋は大学の近くに行ってやってみたが、慣れた方はコピー機が悪く、慣れてない方はコピー機がよいのだが、中国は普通店の人がコピー機を操作するので慣れた方でやるしかなかった。まぁそんなよいコピー機を使うような絵でもないのでよいだろう。いそいでやって郵便局で送って博物館も行くつもりだったが、もう5時前なので両方とも明日行く。

 いやーしかし楡林の鐘楼はいつみてもホレボレするような立派さだな。カコイイ。

 包頭 - 神木 - 神池 - 河北省の黄骅港へと繋ぐ線路は石炭を輸出するための線路であるらしい。神朔線は朔州に行くのが目的ではなかったということか。


2011/08/01 月

 USB棒だが、実はWindowsの方に挿すと接続ソフトが入って中国聯通(10010)からのテキストメッセージというのが入る。いちいち今回の接続で何Mダウンロードして余額はいくらだと教えてくれる便利なものだ。ということでwmwareでゴニュゴニュしてから確認してみると、11日に100元充値したが、受付のオネーチャンの説明と違い、10月13日まで有効だった。なんだ。使い切るつもりで必死にダウンロードする必要なかったか。それから謎なのが、7月13日以降の余額が減っていない。去年の10月24日にこの棒を買ったときには一年分として(社長が)金はらったはずなんだが、それと関係があるのか無いのか。一体一年分というのは一年でこれだけの額なのか、一ヶ月分が12個あるものなのか。13日以降は「本次本档套餐外扣费0.00元」となっており、その前はその額が何元と表示され余額から引かれているので、それから推測すると、一年分の料金は生きていて一年分というのは一ヶ月分が12個で、なぜか13日がその期間の開始となっており、今後12日までは使えないが13日になると次の一ヶ月分が使えるようになるんだろう。そして中国聯通でお金を入れると、その一年分の補充として扱われ、本来なら一ヶ月しかつかえないものが、一年分の期間の最後まで使えるということか。
 テキストメッセージは最大50件までしか保存してくれないようで、7月24日以降の分が消えている。その24日もしくは25日あたりと、接続できなくなった29日ごろのメッセージがあるとよりはっきりするんだが、たぶんこの推測で当ってるだろう。まぁ復活させたかったら中国聯通に行って金を入れたらいいんだからいいか。

 今日は米脂を出て大同方面向けて出発する。どっかで印刷しないと。

 朝のうちに李自成行宮に行った。行宮ということだが、やっぱり空間的には廟だろうこれ。中には李自成記念館と米脂婆姨の展示が入っていて、廟的なものは撤去されている。李自成の方の額は姚雪垠が書いてた。婆姨の方は共産党関係で活躍した米脂の女性の紹介。あと漢代の墓の画像石もあった。

 米脂 → 佳県 マイクロバス25元
 米脂から佳県の道は山をけずって新しく作った道のようで、道中あまりおもしろいこともなかった。標語の類も「万岁」くらいしかみなかった。黄土高原の谷は黄河に近づくにつれてだんだん深くなり、人間も住みづらいようで、「扶貧」みたいな文字をよくみる。
 佳県は珍しく峰に町のあるところで、城壁が完全にのこっていれば立派な要塞にみえたところだろう。今は一部のこっているが建物と一体化している部分が多い。黄河の方は整備しなおしてあって、黄河の眺めはなかなかよかった。バスは佳県の市場についたのだが、楡林行きと米脂行きしかない。さてそこで臨県行きはないかと聞けばよかったが聞かずにふらふらあるきまわって黄河をみたり旧市街の古い建物をみたり城壁を眺めたりしながら、旧城の北にある汽车站と書いてあるところに行ってみたが、太原とかそういう長距離のバスしかない。太原行きにのって途中でおりれば臨県に行けるがもっと頻繁に出ているものだとおもっていたのでがっくりした。で、ここで黄河を渡らずに楡林行きのバスにのった。

 佳県 → 楡林 バス30元
 このバスにのっている間に寝てしまったが、米脂→佳県よりも早く着いた。楡林のあたりは谷がなく平坦だったが、地図の上では砂漠がはじまっている様子なのに砂漠は見えない。最近の雨で緑になっている可能性もある。楡林からどんどん先の大同方面に行こうかとおもったが、展覧館という名前の博物館もあるし、旧市街もあるのでとりあえず二泊くらいすることにした。旧市街の中心の通りはすっかり再造されているが、通りにあった楼閣系の建物はそのままのこされている。鐘楼があったがこれが西洋式だった。こんなとこにあるとはおもわんかった。他には棟札がある楼閣があって一番古いのは嘉慶年間だった。城壁のあたりは整備がすすんでいて、そのうち新しく作りなおされた城壁になってしまうだろうがまぁしかたない。
 歩きながら旧市街のなかの宿をあたってみたけどみんな高かった。結局バスターミナルの近くまでもどるしかなかった。2人部屋40元の部屋を20元で泊まる。とりあえず二泊分払っておいた。

 ついでに楡林で中国聯通に100元払った。これで当分ネットできるはずだ。

 ネットできたが、中国聯通からのメッセージが不可解だ。これを見るかぎりでは、宝鶏の中国聯通のねーちゃんが言ってたのに近い。つまり、80元が最小のセットというやつだ。しかしこれは楡林の中国聯通に100元のカードがなくて、30元二枚と20元二枚で代用したからかもしれない。まぁどっちにしてもよくわからないが、今は80元1Gセット20元余りという状態らしい。しかしその80元セットの期限が11月12日とあるから、一年セットに追加されたということだろうか。まぁ8月13日になったらまたなにかわかるだろう。とにかくかなりお得なのはたしかだ。


2011/07/31 日

 前もってたデジカメのCaplioG3の写真を見かえしていると、よくとれているときは今の携帯よりはっきりくっきりとれてるが、よくボケているのがよくない。2003年ごろに買って、ボケだしたのにきづいたのはイランに行ったときだから2006年にはボケだしていたことになる。その後2009年に落として壊すまでよくも撮ったりというところだが、2007年にHDDを壊して写真とかファイルとか全部消してしまったので今のこっている最古の写真は人にあげてた2006年のイランだけだ。
 携帯ももうすこしはっきりしてくれたらいいんだが、所詮は携帯のおまけ、レンズが大きくできないのでしかたない。

 いちおう一通りできた。まぁネットさえなければ何でもはかどるということか。


2011/07/30 土

 朝から曇りで小雨が降っており山が見えない。雲の中ということだろうか。今日ちょっと移動してみようかとおもったけどやめた。しかしネットがないと天気情報もわからんな。

 陝西電視台のテレホンショッピングで伝国金玉璽なるものを売っている。19800元とお買い得www

 だいぶ進んだ。やっぱり乗ってくると前にかいた部分が雑にみえてくるんよな。まぁ今回は下書きしてないのでゆがんでてもそれなりにみえるからいいや。さて今晩どこまで進むかな。


2011/07/29 金

 夜に降りだした雨が朝になってもまだずーっと降りつづいている。黄土高原のなかの土地でこれはきついだろうなぁ。しかし本当にずーっと降っているので朝飯食いに行きづらい。いつも豆腐と粥を食ってる屋台やってるんだろうか。

 爱问共享では「新疆」とか「维吾尔」とかで検索できないようになっていたが、「毛泽东」でも検索できなかった。ちなみに「西藏」は問題ない。

 中国でもドラマの西遊記は古い方がいいな

 毎朝豆腐脳食っているが、他のところとちがい、豆腐を茶碗に流して固めてある。楡林の方では豆腐は明代ごろにでき榆林豆腐として有名になったということだが、外地の豆腐とちがってやわらかなのが特徴だという。臨県志には、陝西の方から明代に豆腐の製法がつたわったと書いてあった。楡林豆腐の特徴は、他のところとちがって乳酸菌発酵をつかっていることだ。にがりとかではなく、豆腐をつくったときに出た水を発酵させたものを凝固剤にしているらしい。写真でみるかぎりでは楡林豆腐は豆腐の形をしているので、ここで食ってる豆腐脳は楡林豆腐ではないような気がするが、それはそれとして、明の武宗が楡林に来たときには毎日食ってたという。

 さてUSB棒がまた金切れになって接続できなくなったので、しばらくネットにはつなげないことにする。今日は作業も進んだし。8月になると接続できるかもしれないがどうなるだろう。
 なんで金切れになったかというと、金切れになるようにダウンロードしまくっていたからだ。毛沢東選集とか。「遊撃戦」で検索してでてきたもので古そうなのを片端から落とすとか。これで8月になったらまたできるようになるのか、はたまたできないのか、それが気になる。
 ちなみに28日にどれくらい落したか計算してみたら962Mだった。他にも落としたけど削除したとか、途中で切れたのでやりなおしたとかあったし、ネットに接続できなくなるまで普通のページもみていたので、1Gあまりを消費したことになる。まぁダウンロードせず普通にインターネットしてたら問題ないということだな。


2011/07/28 木

 大手メーカーの特許戦略はぬる過ぎる JBpress

 しつこく耳にする曲のひとつの套马杆は「36首紅歌」に選ばれた曲らしい。なぜこれが紅歌なのかよくわからないが、重慶あたりではその36曲をメディアでくりかえし流すよう指示を出したという。

 サムスンの技術特化目標の一つが太陽光発電システムということなので、孫正義はサムスンのセールスマンとして、日本政府をハメて太陽電池を買わせようとしているとおもったほうがいいんじゃないかとおもったが、ググってみたらそういうことを言ってる人はいっぱいいるな。

 「優秀だと思った新人がなぜ……」大学時代の経験を読み解く法| ダイヤモンド


2011/07/27 水

 今日は朝から宿の便所をつまらせてしまった。紙を流したせいだ。まぁ自分でどうこうすることはなくほっとけばいいんだが、なんか悪い気がしたので詰まりを通すものを買いにいってみたら、柄と吸盤だけの簡単な構造のものはなくて、吸盤にポンプがついているものがあった。12元。自転車のポンプのようなものが吸盤につながっていて、手で吸ったり出したりする。なかなか強力ですぐ通った。

 昨日の夜停電したので作業がはかどった。といってもまだ下書き以前の状態だったりするが。

 ベルギーはもはや国ではない  JBpress
 中国が“世界の工場”でなくなる日  WEDGE

 DPZ:うちの炊飯器と人んちの炊飯器を比べる

 前回の進捗状況はどんなもんだったかと過去の日記をみてみたら、去年よりはマシだったが、中国から日本へ送る時間を考えるとマシとか言えない状況ではある。去年のこのころ相馬の野馬追に行こうとしていたのに歯が痛くなって行くのをあきらめていた。去年が実質最後の野馬追いだったわけで、歯が痛くても行っておけばよかった。


2011/07/26 火

 中東TODAY: NO・2038「リビア戦争の口実はイラクより酷いでたらめ」

 【友愛】官邸に籠城する反日極左ゲリラ壊滅の切り札は「党首舛添:新党友愛」で政権交代:Birth of Blues
 首相が電撃訪朝を検討 中井氏が北高官と数回接触 - MSN産経
 しかしこういう情報が事前に漏れてる段階でダメだろう。

 050plusを導入したらiPod touchがiPhone化した件 - APPPS!!by神アプリ解説:(´・ω・`)
 これはすごい

 マーターフェイといってリヤカーで売っているのが小米つまり粟の粥だとわかった。
 毎朝同じとこで豆腐脳と粥食ってるが、昨日値引きしてくれたのは単純に計算違いだったようだ。

 バスの中とか街中で頻繁に耳にして気になっていた歌手は乌兰托娅のようだ。そして「かわいい...」と聞こえていたのは「套馬的」らしい。しかしこうして聞くとあんまりなんともおもわんから不思議だな。やっぱりバスの中で聞くのがいいのか。

 劉皇后って実は真宗が健在のころから全部政治上の判断やってたんじゃないの。
 日本だったらカカア天下の大河ドラマのいい題材になりそうな気がする。


2011/07/25 月

 【現実】私は元ホームレスをしておりました【リアル】 : えっ!?またここのサイト? (2chコピペサイト)

 うーむ。しかし今の作業次第では米脂にズーっといることになりそうな気配が.... この宿はおばあさん二人で管理しているので、小さいくせに全然干渉してこないのがいい。これで部屋に鼠の小便臭がなければ完璧だが。あと宿の受付は店にもなっているので、アイスクリームとかほしいとおもったらすぐに買いにいける。昼間は30度台にいくらしく、暑いのは暑いが、朝は20度台を切るくらいまで下がるのでどうということもない。もっともこの先大同あたりまでこういう温度帯なので、すこしづつ移動しながら作業をすすめるのがよいかもしれんがそれだとすすまないというおそれがwww

 どうでもいいけど、サムスンは中国企業の追い上げをくらい、技術特化の目標の一つとして太陽光発電システムを挙げているらしい。なるほどなるほど。

 福知山線の事故のときは、JR西日本の新快速の過密さとかそういうとこまで話題になったけど、中国の事故は雷のせいで押し通して終わりだろう。
 高铁运营_高铁运行_中国高速铁路运营动态_高铁网
 これみてると、北京上海の高速鉄道は雷とかで頻繁に遅延を出しているようだ。棗荘にある変電所に雷がおちて列車が停止とかwww

 中国のテレビを流しているとテレホンショッピングがしつこい。「日本魔依裤」とかいうパンツを売っていたが、はいてるだけで体重が減り殺菌されとかそんなすごいものがあるらしい。というかあきらかに詐欺なんだが。なんかそんなものばかり売ってる。あと病院の宣伝も多い。

 圪の字だが、臨県志によると低い入声で読むらしい。入声といっても、末尾の子音は閉鎖音という形に退化しているらしい。頻繁に使う言葉で、名詞の前につけたりするが意味がなかったりするらしい。まぁ頻用する機能的な言葉ということか。
 米脂県志どっかにころがってないかなぁ。


2011/07/24 日

 動車組の衝突事故のあった路線は昔はなかったところなので、動車組専用路線だ。福建を通る沿岸線のような重要な線路がなぜなかったかというと、台湾に面しているから、軍事的な理由で今までひかれなかった。最近急造した専用路線だから試験とかいいかげんだったんだろうか。中国の鉄道が時間どおりに運行しないのはよくあることで、むしろ最近は珍しく時間を守っている方だとおもっていた。追突した車両(D301)は北京発だが、北京から杭州までは例の高速鉄道が走っているので、おそらく高速鉄道が時間を守れるように、そのダイヤの乱れを動車組が停車するなどして吸収していたんだろう。他の路線なら動車組が優先的に通してもらえるものだが、北京杭州間は高速鉄道が優先的だったために、動車組がワリを食って優先的に遅れていたに違いない。動車組だけの専用路線に入ったから辻褄をあわせるために急いでいて今回の事故になったんだろうか。まぁしかし高速鉄道がどれだけダイヤ乱れていたかとかそういう報道がなされることはないんだろうな。

 米脂から先だが、楡林ー神木ー朔州の鉄道コースの他にここから西の佳県ー臨県ー苛嵐ー朔州というバスコースもいいかも。どっかに抗日標語のこってないかなぁ。バスコースといっても苛嵐ー朔州は鉄道だ。

 午前中雨だったので部屋にこもって作業していた。すこし昼寝したらいい天気になってた。

 G(高鉄)とD(動車)がかならずしも高速鉄道と動車組を示しているわけでもないらしい。今回事故のあった路線はGとDしか走っていない(事故区間の杭州福州間はDだけ)なので、高速鉄道専用路線であり、Gが快速Dが各停(こだま)程度の意味しかないようだ。

 今CCTV1で番組宣伝がいっぱいされている抗日ドラマの中国地だが、史実的には、王一族が頑強に抵抗していたらしい。ドラマでは趙とかいうのが主人公になっているが、これはおなじ朝陽出身でのちに東北聯軍なんかで活躍した人のことを無理矢理くっつけるためにそうしたものであるようだ。まぁこれなら朝陽に行っても大丈夫かな。といってももう七月も末なので急がないと行ってるヒマがなくなるのだが。むーん。
 当時朝陽は熱河に属していたらしい。満州国の範囲外か。なんだ。北票炭田をうばうために日本軍が来るという設定みたいだ。
 これ見る人いるのかな。ちょっと説教くさすぎる。まぁ中国人はヒマつぶしに何でも見るだろうからある程度は見るんだろうが。

 [書籍]性格のパワー 世界最先端の心理学研究でここまで解明された(村上宣寛): 極東ブログ
 幸福感のかなりの部分は遺伝で決まるというようなことが書いてあるらしい。


2011/07/23 土

 前回かいたものをみたけど白いな。たしかに100円くらいかもしれん。

 米脂の旧市街の通りをだいたい全部まわった。なかなか味があっておもしろい。石積みの家とか塀が結構普通にある。昔の標語の類はだいたい消してあったので残念。ここから西に行くバスについては、バスターミナルに行くよりは南門のあたりに行くとよいことがわかった。南門は壊されて、そこからすぐの中央の広場に乗りこめるようにしてあったようだが、今それを復活させるべく工事している。正直言ってこの細ながく小さな町には南門あっても邪魔なだけなんだが、なんで作るんだろう。
 清真寺もあった。城壁みたいな形にしてあるが、尖塔とあいまって童話のお城みたいになっているのがおもしろい。


2011/07/22 金

 米脂の李自成行宮に行ってみたが20元とるという。うーむ。入らずに行宮のまわりをグルっと回ってみると行宮の下にヤオトン長屋みたいなのがつくってあり「毛主席万岁」とか書いてあったり、「1957」と書いた石がはめこんであったりした。今は人が住んでいないようだ。行宮のうしろの方にもつづいていて、そっちはまだ人が住んでいた。
 行宮だが、外からながめる分にはとにかく小さい。もともとなんかの廟だったものに李自成の伝説が付会されたものじゃないかとおもわないでもない。

 西夏がこの辺も押さえているのが不思議だったが、そもそもこのあたりが発祥地なので、不思議でもなんでもなかった。

 神木北駅というのがあり、これが朔州と神木を結んでいるのだが、ネットの時刻表検索サービスでさがしてもみつからない。神木北と朔州を結ぶ神朔線は国鉄ではなく神朔鉄路公司というのがやっており、だから国鉄の時刻表をもとにしているネットの時刻表検索サービスではみつからないという話だが、本当だろうか。

 陝北秧歌の秧歌というのは当て字で、実際何の字を当てるべきなのかわからないものであるらしい。

 この辺の地名に圪台とか圪垯というのが多いが元々何語なんだろう。

 旧市街があってなかなか雰囲気がよい。

 お金を儲ける事に遠慮してしまいます。自分でもおかしいと思っているのですが... - Yahoo!知恵袋


2011/07/21 木

 つぶやきかさこ : サラリーマンは自営の気持ちがわからない

 松本前復興大臣を惜しむ声:日経ビジネスオンライン

 延安から米脂まで鉄道で移動した。13元。バスだと56元。
 この列車各駅停車なので安い。しかも出発が15時半すぎと中途半端な時間だ。それをみこんで早めに行って、待ち時間で作業した。駅とかだと他に何もできないので作業ははかどる。残念ながら車内はコミコミで座れなかったので毛沢東本を読んでいた。
 米脂に着くころに雷雨がやってきて、しばらく駅から出れなかったがすぐやんだ。駅のまわりになにもないので町の方まで歩く。稲妻が空に走っていてなかなか壮観だった。町に入ると停電している。かまわずそのへんの宿にあたってみたら、25元を20元にしてくれるところがあったので泊まった。しかしシャワーは別料金の5元だった。

 米脂は美人の郷ということになっているらしいが、それは延安に共産党がいたころ、米脂から延安にでてきていた娘とくっつくことが多かったかららしい。今は美人の郷でもないということだが、しかしこの陝北の辺は南の方とはまたちがった美人が多いようにおもう。おまえ女をみたら誰でも美人とおもうんじゃないかというような核心を突くことはよしてもらいたい。


2011/07/20 水

 ホンダ創業者本田宗一郎の長男が刑務所に入るまで | 現代ビジネス [講談社]

 DPZ:放流ダムのみつけかた

 南泥湾にいってきた。バス13元。帰りは乗合ワゴン12元。
 レンガ積みの結構古い建物がのこっているが、壁に書かれた標語は消えかけていた。展覧館の展示によるとここはもともと中継地として栄えていたらしいが、清代の回漢衝突によって人口が消え、寂れた荒地になっていたとのこと。おもしろかったのはそれくらいか。毛沢東が視察に来たときに泊まったところが「住居」ということになっていた。消えかけている壁の標語を撮っていると、おっさんが話しかけてきてベラベラしゃべってくるが、ききとれぬ。古い建物がどこにあるかとかの説明をしてくれたようではあった。
 ここは戦時中に大生産運動をやったところとして有名で、整風運動とともに、のちの大躍進+反右闘争につながる。戦時中国民党と日本軍から封鎖をくらった非常時にやってたことを、戦後ソ連と縁切ったからといって全国的にやったわけだ。

 もう20日だからさっさと実作業にかからねば。といいつつ米脂にも行ってみようかなとおもっている。
 間にあうかなぁ。

 中国生活で腹のあたりにボリュームがついてきた。今の体重どれくらいだろう。


2011/07/19 火

 ここでしばらくいてもいいような気がしてきた。中国の天気予報をみるかぎりでは、延安は最低気温が20度を切っている。実際昼間は暑いが夜冷えるので過ごしやすい。この陝西北部山西北部のあたりはこんな感じだ。満洲方面は河北平原並で最低気温は20度をこえる。満洲方面の山の方にいくと延安なみになる。西蔵青海方面に行けばもっと下がるが、まぁチベット高原は例外だろう。

 回教から見た中国(中公新書)-張承志 著 - トーキング・マイノリティ
 この本読んだことあるような気がするがすっかり忘れているので読んでないことにしよう。陝西省の回族人口がやたら少ないのはやはり同治の乱の鎮圧過程に原因があるようだ。
 第一章 回民・回族史
 これは学生のレポートみたいで内容は本のまとめだ。この見解では元代に回族の分布ができ、それが基本となったということで、雲南省の回族は清代に移住したものでもないらしい。そーか。うむむ。

 中国教育というチャンネルがあるが、いつみてもドラマやっていて教育チャンネルらしいところがない。むしろCCTV7(軍事・農業)の方がそれっぽい。

 「老子」「老郷」など、抗日ドラマとかでしか見かけない言葉を実際に耳にする。あれは陝北方言だったのか。


2011/07/18 月

 延安は西安発チチハル行きが通ってるんよな。一発で満洲入りするのもいいかもしれんとおもった。

 延安革命記念館。
 ここのメイン展示は毛沢東がここに来てから建国までの通史になる。あとその前にこのあたりに根拠地をつくっていた現地党員のことや、中共をささえた人民のことを扱ったところや毛沢東思想の展示もある。現物らしい資料が豊富に展示してあっていっぱい写真とってきた。兵士たちに配布した「口号」とかがあってそれがいちばんわかりやすい。胡宗南軍の暗号を解読したものとかもあった。写真とったのはいいけどよくみえないのが多い。
 この地域の年貢率が1937年ごろは1%あまりだったのに、1941年になると急にふえて1割を越えるようになる。整風運動というのはその方面からの不満を言わせないために必要なことだったんだろう。もっとも展示のなかの新聞には、「借糧買糧運動」みたいな記事があり、目標に足りないので各県がんばれみたいなことが書いてあるから、もっととられていたとおもわれる。まぁ中国の年貢はもともとそんなに高くないので、余地はあったのはたしかだが。
 「スターリンは人民の友達」という文章をスターリンの誕生日に毛沢東が新聞に発表しているのでスターリンの誕生日が12月21日らしいと知った。米軍が延安に来て記者が天皇に書いた絵葉書の文面なんてのもあった。
 前みかけた「为人民服务」と書いてある紅軍の肩掛け鞄がほしいとおもっていたら土産物売り場にあった。値段を聞いたら35元。うーむ。今あるバッグはキャンドゥで買った100円のもので、すこし破れてきているので新しいのにしたいとおもっていたが、しかし肩掛け鞄はすこし小さかったのでとりあえず買わなかった。

 さてこれから八月上旬までにやらねばならないものがきた。あんまり悠長にもしてられないな。

 午後も雨ふっていたが夜また激しく降ってきた。両方とも雷雨。


2011/07/17 日

 昨日は遅く着いたせいか眠すぎてすぐ寝た。最近強制終了みたいな感じで寝てしまうことが多いのはいいことなんだろう。今日は延安に行く。
 ところでこの呉起、朝はよく冷える。放射冷却か。気持ちいい。

 杨奎松『蒋介石与莫斯科的恩恩怨怨』をようやく通読した。後記をみると他に五人ほどこの本に参加しているらしい。2009年に中華党史出版社というところからでているが、これ自体はもっと前にでているものらしいし、本の中身をみるとOCRで誤読されたままの字なんかがそのままにされている。本の素性はあやしいがおもしろかった。
 この本は蒋介石が台湾に逃げたあとに書いた「蘇俄在中国」(中国におけるソ連)というものへの反論みたいな形になっているらしい。らしいというのは元のものをみつけられなかったので、どれだけ反論になっているのかわからないから。といってもこの本を読むかぎり、反論っぽいところは下衆の勘繰りみたいなものが多い。この本のいいところは原資料の文章を引用しまくっているところで、ところどころ何が出典か明示しないまま利用しているところもある。
 蒋介石は原理的な中華民族思想の持ち主で、ソ連も結局外敵だとおもっていただけなんだろうが、中共の立場からはそこまですっきりと言えないようで、だから下衆の勘繰りのような解釈もでてくるということだろう。まぁしかし蒋介石も中国人的な感覚では理解できないような発言を平気でするのはたしかで、たとえば日本軍の武勇を褒めたりしたことをネットでは見かける。蒋介石がソ連から帰ってからソ連を褒めるような発言ばかりして「赤い将軍」扱いされたりしたのもそれと同じことだろう。
 国共分裂で蒋介石がソ連追いだしに成功したあと、中ソ間でおこった中東路事件は知らなかった。なにかで読んでいてもその重要性に気づかず記憶に落ちていたということだろう。張作霖爆殺以降満洲国成立以前の張学良時代のことなので日本語の本にはあまりでてこないのかもしれない。Wikipediaの中東路事件の項目を見れば共産党の根拠地建設や馮玉祥の動きなどとも連動しており、ソ連対蒋介石という構図がより一層明確に見えてくるのだが、それを言ってしまうと赤い人たちには困ったことになるし、そもそもその後満州国建国に至り、中東路事件の発端となった中東路とソ連の矛盾を日本がすべて持っていったので日本国内では触れられにくかったんだろうか。この本でも日本がソ連の免罪符になっている。
 中東路事件については日本を軽視した蒋介石の失策みたいなことになっているが、現地軍が勝手にやらかしてバカな国民がそれを支持し政府も後追いで認めるような日本は計算できないだろう。日本のことを度外視すれば、蒋介石はこれによって国内のソ連派の炙り出しに成功し、西安事件までに共産党以外をすべて無力化させ、共産党も風前の灯であった。蒋介石が言うようにまさしく安内攘外の「安内」を進行させていたわけだ。
 満洲国建国がソ連の虎の尾を踏む行為だったことは書いてある。ソ連の方針は中国をけしかけて日本と戦わせることであったが、それも遠まわしに書いてある。そもそも満洲部分は帝政ロシアのときに沿海州をとったとりのこしみたいなもので、日露戦争がなければなんらかの手段でロシア領になっていたところだしシベリア鉄道も横断しているからそこが反共勢力の基地となるのは忌むべきことだったんだろう。
 中華民族思想の持ち主である蒋介石からしても、満洲国建国は容認できないことだったが、そもそも蒋介石からすればモンゴル人民共和国の存在自体容認できないことなので、できれば日ソを戦わせたかったようだ。もっともソ連はその手にのらず中共に日本帝国主義の侵略を宣伝させたし、日本もソ連に向かわず清帝国の後継国家である中国の解体に向かってきたので、日本は自らソ連の罠にはまっていったかのようでもある。
 西安事件で毛沢東が蒋介石を殺していれば中国が日本ドイツと連合する恐れがあったとソ連がみていたのはおもしろい。
 ええと他にも書きたいことはあるがとりあえずこれまでとしておく。この本でおもしろかったのは前半、蒋介石がいかにソ連を出しぬいたかというところと、後半、スターリンが極東においていかにソ連の手をよごさずに利益を獲得していったかというところだ。

 呉起 → 延安 バス43元
 結局銀川から直接バスで延安に行くのよりも高くついたがまぁしかたない。途中通った志丹というところは昔保安という名前で、西安事件があったとき中共中央はそこにあった。川が黄土をえぐって溝みたいになっているのがおもしろいが、その壁面にときどき標語が書いてあるのがみえる。まぁしかしバスから睨んでいる限りではそんなに古そうなのはなかった。「学大寨..」があったようななかったような。アーチの水道橋の側面にそれが書いてあるのは認識した。ところでこのアーチの水道橋、他のところでもときどき見かけるのだが、その先につながっていなかったりして生きていないこともある。あれはなんなんだろうか。
 延安についてバスターミナルのまわりをまわり、ようやく20元の宿をみつけた。ここも売春屋がまわりに多い。うぅむ。

 革命記念館に行ってきたが一時間くらいすると館内の客の最後尾になり追い出しにかかられたのでさっさと出た。また明日見にいく。


2011/07/16 土

 銀川 → 塩池 バス35元
 朝駅にいってみたら人でいっぱいだった。鉄道で移動するつもりだったけどそもそも夏休みの土曜の朝ということで無理だったんだろう。バスターミナルに行って切符を買う。
 銀川から黄河を渡るとすぐ土漠のつづく状態になる。銀川の方なんか湿地がまだあるくらいなのに大きな違いだ。いい感じに風化している長城がみえる。このあたり工場をあつめているようで、長城を工場の塀に転用している地帯があった。有効利用というのだろうか。当然出入口のところは切ってある。
 塩池についたのは3時前だった。よくわからないのでバスでくるくるまわると、城壁がいいかんじにのこっている。当然風化しているが、まだ人ののぼれるようになっているところもあった。歩いてまわったあと、博物館がある方向がわかったのが4時まえ。やはりバスが通っていない。ここにある博物館は革命関係のもので、そのなかに毛沢民記念館というのがあるらしいのだが、歩いていったらすぐ追いだされる時間なので行くだけ無駄だろう。ということで、ここで寧夏に別れをつげ、陝西省に入ることにする。

 塩池 → 定辺 バス10元
 定辺 → 呉起 バス35元
 塩池から定辺に行くがなにもない。駅もあるはずだが掲示もない。塩池には「駅5km」の交通表示があったのに。地図と相談して長城線から別れて南の延安方面にある呉起に行ってみる。定辺に行くとき南になだらかな山がみえていたが、それを越えていくことになった。定辺のあたりまでくると草がボウボウに生えている状態だが、山の方にいってもおなじだった。黄土高原だが草がある。単純にそういう季節なのか。山を越えていくとヤオトンがちょくちょく見えるようになる。ヤオトンを放棄してその前に似たような形の家をつくってあるところもある。レンガなりコンクリの箱よりも、台地の方が熱容量が大きいので温度変化が少ないはずだが、最近は外に住むように指導でもされているんだろうか。
 呉起についたら8時すぎだったがまだ宵の口の暗さだった。呉起は谷ぞいの町で建設の余地があんまりないはずだが、バスターミナルがあるのは新城の方だった。すぐ近くに安い宿がなく、歩いてもっと賑やかな方に行ってみたら安宿がいっぱいあるところがあった。20元のところを見つけて泊まる。


2011/07/15 金

 承天寺塔 3元。
 宿の地図にあった博物館を目指してバスから降りて歩いたら見えた。よくある磚積みの塔だが、てっぺんの形状がなんというか砲弾型でなかなかおもしろい。教会の塔にもみえる。しかし風化がみられないのでそんなに古いものではなさそうだ。中の説明の石碑を読んだら、西夏のころにつくられたが、地震で崩壊して明や清のころに再建されているとのこと。
 塔の裏に明清か民国のころっぽい塀があったが、出入口のところについている浮き彫りの人物がこわれている。これはこわれたのか破壊されたのか。
 昔はここに博物館があったようだが、今は新しいところに移動したようだ。ということで受付で行き方を聞いて17路のバスで新しい博物館へ行ってみた。

 寧夏博物館。
 新しい建物だが展示室が数室しまっていた。入場券をもらうところがない。どうせ無料だからこれでいいやということか。便所がものすごくきれいだった。
 一階の右側の展示は閉まっていた。左側は賀蘭山の岩絵が主題で、ついでに石器とかも置いてあった。詩経に岩絵のことが書いてあるというのだが、そのときは読まず今写真でみてみたら細かすぎてみえない。水経注にもある。
 二階の展示は「通史」と共産党の歴史だった。旧石器新石器と結構豊富だった。新石器のところに「人類最初の地上居住形式 ーー 窰洞は寧夏の海原に始まる」と書いてあったが、人類最初は言いすぎにしても、中国では早期に居住が始まったということか。漢代の副葬品の家なんかもやたら細かくできている。唐以前の中国の文化は華北の乾燥地帯の文化が中心だったからこのあたりも辺境と言うほどではなかったのだろうか。
 シルクロード展示があったが、その展示物の多くは固原博物館のものの複製品だった。そのころのこのあたりの中心は固原の原州と呉忠の霊州だったらしい。ソグド人について「その祖先は祁連山の北の昭武鎮で、その祖先のことを忘れないために(示不忘本)中国の史籍では昭武九姓と称した」と書いてあった。あいかわらずきもい。霊州については重鎮だったという説明がされている。銀川の方が開発しやすそうだったが、湿地を開発する技術が発達してなかったんだろうか。
 西夏の首都が銀川のあたりに置かれてからこの辺の中心は銀川に移ったらしい。西夏の展示はまぁいろいろ置いてあるが、その中で気になったのが、河北保定でみつかったという明代の石幢で、弘治15年に彫られたらしいが、表面に西夏文字でお経が彫ってある。明代にもつかわれていた証拠だと書いてあるが、どういうことなんだろう。あと、密教系の仏画とかマンダラとかもあったがあれはチベット人がもってきたものだろうか、それとも西夏人がつかっていたものなんだろうか。チベットで仏教が蔓延したのはそれほど古いことでもないだけに気になる。
 固原の南に安西王府あとがあったようだ。うむむ。あとは元以降に回族が形成されてこの辺の人口の主役になったみたいに書いてある。
 共産党の展示だが、初期の共産党組織、長征で通過、紅軍西征、建国時の寧夏の四つの内容に分かれる。長征の部分の資料のなかに「革命歌本」という当時の共産党がつくった歌の本があり、9曲しか無いなかに「擁護楚維埃」とか「擁護第三国際」とかあって、コミンテルン中国支部の色彩が濃かった当時の様子がみてとれる。家屋の使用証を書き写したものがあるが、よく見ると使用証ではなく、豪紳地主の家を没収したという没収証であった。ここの展示は進軍図が充実していておもしろい。どこに進出してどういう事があったかということが吹き出しみたいにして書いてある。寧夏には最初の少数民族自治県が成立したから重要であるらしい。  三階には回族の展示があった。回族の人口分布があったが、寧夏・甘粛の次に人口が多いのは河南だった。そのあいだの陝西は意外にも少なく15位で他のところと大差ない。なんでだろう。写本の展示があったが、明代のコーランの写本が一番古いらしい。
 鳳凰琴というのがあったが、バイオリンを模した平らな共鳴箱の上に大正琴のようなボタンと弦がついている。バイオリンの形状であることからおそらくは輸入品なんだろうが、大正琴というのはそのアイデアの元になるものが西洋にあったんだろうか。
 あとなんでかしらん山西博物院の出張展示があった。とにかく多かったので疲れた。ひととおり見たあと帰って寝た。

 最近屋台の涼面ばかりくってるせいか、昨日桃を買って食べたせいか、腹を下している。そして暑い。暑いのに宿にシャワーとかないので、夕方銭湯に行ってきた。さっぱりした。

 もう学校の休みに突入しているのか、博物館に子供がいっぱいいた。これから先の移動がおもいやられる。
 一応長城の内側に沿って東に移動するつもりだが、延安とか行くかもしれん。まぁ一気に北京に移動して満洲入りするのも手だ。


2011/07/14 木

 海原 → 西安 市バス401路 3元
 西安の先に老城というのがありそこで降りると西安州城跡のどまんなかに降ろしてもらえるようだが、その手前で降りた。城壁だけのこっている。城内の西側に村があり、城内は全部畑になっている。城壁がのこっているといってもかなり風化している。磚なんかは農民がはぎとってしまってすこしちらばっているだけ。崩壊しつつもなんとか歩ける程度にはのこっているので1/4くらい歩いた。とにかく城内城外ともに畑になっているので城壁の上しか歩くところがない。
 天都山はよくみえたが荷物をかついで歩いていくのもしんどかったのでやめて、さっさと海原に戻った。

 海原 → 銀川 バス75元
 同心というところまで行こうかとおもったが、銀川に行くバスがまもなく出るところだったのでそれにした。少し高いが途中の道はだいたいまっすぐであり、人口密度の低さもあって4時間あまりで着いた。ものすごく速い。途中川にたどりつくまでは乾燥した風景でそれなりにおもしろかったが、その後は土漠かトウモロコシの畑で変化に乏しく景色もあまり見なかった。途中黄河を越えたとき、黄河の色が赤っぽく見えた。
 銀川についてからとりあえず1路の市バスで駅にいき、そのへんの宿をさがして20元のところをみつけて泊まった。というか駅の向かいの通りにある市場の周辺にある宿は売春窟になっているところが多い。しかし腹が急を告げていて、あまり吟味する時間もなく、その辺ひととおりまわっても30元以上するか埋まっているかどっちかだったので、市場の外にあるところに泊まった。トイレにはいったあと、駅のまわりをあらためてさがしてみると、駅の右手の方にまともな宿があつまっているところをみつけた。20元のところもあった。最初の選択をあやまったか。

 枸杞の実を道端で干しているところが多い。寧夏は貧困地域が多いので、商品作物として枸杞を大量生産しているらしい。なるほど、それで日本でも枸杞がやたら安く買えるわけだ。
 しかし銀川でかすぎる。駅と旧市街地の間はちょっと歩きたくないくらいの距離がある。

 そういうと、海原のあたりは地割れ的地形が多かったが、あれが全て侵食によるものというわけではなく、1920年の海原大地震によるものもあるらしい。西安州の城壁もその地震の痕跡の史跡としても登録されているようだった。しかしその被害が大きかった北側は見にいっていない。


2011/07/13 水

 平涼 → 固原 普客7元。
 六盤山に寄ろうかとおもってたけど結局やめた。

 固原博物館。
 やっぱり博物館は行くべきだわ。平涼も朝のあいだに行っといたらよかった。
 辺境だとはおもっていても、やはり春秋戦国のころでも十分中心に近いところなので青銅器もいっぱいある。意外というか当然というか、北魏とか北周のものが多かった。シルクロードを主題にした展示があるくらいなので、そのころから唐が最盛期なんだろうか。その後の展示物はすくない。明のころなんかは長城防衛戦の重要拠点だったはずだが。
 ギリシア神話の神が画像につかわれている金銀壷が展示してあって、「ペルシア鎏金銀壷」と紹介されているが、ペルシアでいいんだろうか。
 シルクロードの図みたいなのがあるが、当時の道は西安から宝鶏・蘭州をとおって武威に抜ける道と西安から固原を通って武威に抜ける道があったらしい。まぁシルクロードといっても都市間の交易がずーっと繋がってそこまでのびていただけで、整備された全線ルートがあったわけではないからどうでもいいんだが。
 共産党関係の展示で「隠形将軍韓練成」というのがあった。蒋介石の側近だったが共産党のスパイということで、共産党のために戦争の邪魔をしたり情報をよこながししたりしていたらしい。邪魔したのがバレそうになって共産党の方に逃げたそうだ。しかもこの人、台湾をとりもどしたときのための要員として大事にされ、文革のときも無事に過せたそうだ。
 興味深いのは韓の死後数年たった1989年12月に息子が骨灰をわざわざ散骨したことで、一応夫人の死後20年の節目ということになっているが、時期が時期だけに、共産党政権がコケた時に墓を暴かれないようにそんなことしたんじゃなかろうかと勘ぐってしまう。

 固原 → 海原 バス25元。
 地図でみると海原の治所が昔あった海城から鉄道沿線に移動しているので、また乗りかえないといけないかとおもったら海城の方にいった。途中の風景はもうイランか中央アジアかというような景色がつづく。そういうと固原のバスターミナルも新疆方面行きだけは特別に大きく紙がはりだしてあったし、平涼で切符を買うために並んでいたときも、多くの人がハミやウルムチ方面の切符を買っていた。気候的にも人間的にも行きやすいんだろう。
 このあたり草原地形だが開墾されまくっている。草原的な丘が段々畑になっていたり。そういうと、固原の北に長城があったはずだがそのときうたたねしていて見すごしてしまった。
 海原のバスターミナルはもう閉まっていたので行き先調査とかせずにとりあえず一番近くの宿に泊まった。15元。飯食いに海原の中心の方にいったら大きな飯屋が安くてうまかった。といっても食ったのは干面だが。麺の茹で汁がついてきていた。たまにある。

 辛いものがそれほど辛くなく十分食べれる。
 バスの座席番号があってもみんな気にせず好きなところに座っている。
 汗をかいてもすぐ乾く。
 スイカが甘い。

 やっぱり乾燥しているところは暑くてもベタベタしないし不快感があんまりないしいいな。といってもこのあたり高地なので下界に比べると涼しいのだが。


2011/07/12 火

 さて水滸伝で言うところの渭州までやってきた。

 朝発の宝鶏 → 平涼 普客15元。チンタラチンタラと6時間かけてきた。ますます乾燥地帯にやってきた感じだが、途中の黄土高原がどこもかしこも緑に覆われている。これが中国の緑化運動の成果だろうか。それとも単に季節的なものか地域的なものか。
 平涼についたあと、六盤山に行く方法がみつからず、東バスターミナルや西ターミナルの間を右往左往して時間を浪費してしまう。とりあえず東バスターミナルの近くの宿が20元だったので泊まったが、そのころには夕方にさしかっていて、博物館に行ったら閉まっていた。いや、博物館は火曜休みだったので、どっちにしても開いてないんだが。

 宿にもどってきたら、おやじの他におやじの子供らしい青年がいたが、なんかこいつが自分の行動を不審におもっているのか、中庭で足あらってたり歯をみがいていたりしたらいちいち出てきて確認しにくる。今までこういう扱いをうけたのはこの20前後程度の人間しかいない。これが反日教育の成果か。

 そういうと博物館は宝塔公園というところのなかにあったが、この宝塔というのに近づいてみるとやたら精巧にできている。公園に入ると、明代と書いてある。一気にどうでもよくなった。


2011/07/11 月

 西安にいくか宝鶏にいくかすこしまよったが宝鶏にした。おそらくバスが褒斜道を通るだろうという読みだったが、途中の太白まで褒斜道を通ったあと、太白から陳倉に出ず、宝鶏までまっすぐ行く新道を通った。そして工事中だった。
 → 今になってソ連製地形図をみてるとやはりあれ褒斜道だったのかもしれん。

 バスターミナルから駅にバスで移動。宝鶏から平涼方面に行く普客が明日の朝でるということなのでそれにした。宿は適当に駅の近くにいっぱいあるところのひとつにしたが、ほとんど探す労力をかけなかったので20元では階段の横の狭い部屋しかなかった。しかも階段の下が部屋につながっているが、そこから自由に出入りできる構造になっている。まぁ気にしないことにする。

 普安のあたりから北中国の雰囲気がでてきていたが、ここまでくると確実に北中国だ。ほこりっぽいし、緑は乾いているし、ヨーグルトも普通に売ってる。

 青銅器博物館というのがあるらしいので行ってみたが、中華石鼓園というところに移動していた。しかも月曜休みだった。ぐぬぬ。周の発祥の地なのに。

 中国聯通に行って、ネットできない件を解決してきた。金がなくなっていたらしい。ただどこまで金がなくなっていたのかよくわからない。一応一年分の期間は過ぎていないので、今月分がなくなっただけだとはおもう。とりあえず金を入れたらこのとおりつかえるようになった。一ヶ月100元か... 高いけどしかたないとおもったときは日本円で考えてごまかすことにしている。

 抗日ドラマ花ざかりだなぁ。

 今日ひさしぶりに金をおろしたが、レシートをよくよく見ると、1000元おろしたはずなのに、2500元となっている。JPバンクカードのWebにログインしてみるとまだ今日の分の利用が記録されていない。うぅーむ。まぁ明日どうなってるかだな。


2011/07/10 日

 USB棒のリミットに到達したらしい。ネットに接続できない。最近調子にのって中国の本をダウンロードしまくっていたのでその報いがきたようだ。まぁ、もともと仕事用にもらったものなので、使えてた方がおかしいんだろう。これでネットに耽溺する時間がなくなるのでよいことだ。しかし交通情報・観光情報・天気情報が手に入りづらくなるのはつらいな。

 南スーダンのことを中国は普通に報道してるな。分離独立をどう考えているんだろう。今の中国は経済的に好調だから普通に考えて分離独立するやつなんかいないということだろうか。

 漢中博物館。
 8時ごろに行ったら開館を待っている人が結構いた。これは期待できるかとおもったがそんなことはなかった。日曜だから人がいただけなのか、西安に来たついでにこっちに来る人が多いということなんだろうか。
 古漢台というものを利用して博物館にしているが、本来は南側が正面なのに、北側を正面にしているのでなんかもったいない構造だ。褒斜桟道が展示のメインになっている。桟道というと蜀の桟道とかあるけど、ここが最初だったんだろう。石碑なんかも漢代からのものがのこっている。模型があり、桟道と一口に言うがそのいろんなパターンがわかりやすく説明してあった。
 石碑の中に「漢中石門 日本之師」と書いてあるのがあったが本気で意味がわからない。しかもこれ1985年の碑なのにここにおさめてある。
 あとは革命関係の展示か。あ、道教関係の展示があり、張魯の五斗米道なんかが紹介してあったが、その展示によると、張魯の娘の廟があるらしい。なんでそんなもんがあるんだろう。道教の一派の天師道がその法統の正統性を主張するためにまつったんだろうか。
 周の幽王の褒似の褒はこの褒らしい。

 漢中の市内には結構ボロい町がのこっているが、再開発の対象になっているようだ。土壁木造の家をそこそこみることができる。というわけで博物館をみたあとは市内をグルグルあるきまわった。
 陝南珍稀植物園というのがあったので行ってみたけど広い敷地内に何の説明もなくひたすら植物が植えてあり、あるいてまわるだけで疲れた。ただ、ここに入ると急に気温がさがった。さすが林になっているだけのことはある。

 市内にはバスターミナルが三個所あるのがわかった。植物園近くの新橋にある高速バスターミナル、中央公園の側にある旅游バスターミナル、駅の近くにある中央バスターミナル。それぞれ得意範囲がすこしちがうので要注意だ。

 曇り空のおかげで暑くない。


2011/07/09 土

 チベット人の家にとめてもらってたときはツァンパというのばかりくってた。慣れるとあれもしみじみうまいもので、昨日はツァンパを食べたくてしかたなかった。

 広元には紅軍碑林というのが則天武后の寺の境内にあったようだが、それが紅軍文化園というのにうつされたらしい。うーむ。
 ということで紅軍文化園まで行ってみたら山の上にあり、そこに行くだけで大変だった。無料。展示の内容は普通で、張国燾ひきいる紅四方面軍がつくった根拠地のことが淡々と書いてあったが、そのあと宣伝部署のことが書いてあった。この展示で紅軍宣伝石碑に書いてある「丁一」とか「甲」とかの意味がわかった。どこの部隊がやったかわかるための符丁らしい。ここに展示してある石碑はたしかに量が多いが、万源みたいに国民党側がのこした石碑があったりはしない。あと、字が削ってあるのもあった。「ソヴィエト」とか「窮人」とか「紅四方面」とかが削ってあったりした。どれもこれもわからないでもないが推測できるような理由で削られたのかどうかはわからない。「反対帝国主義進攻蘇聯」と書いてあるのがあったりするあたり、コミンテルン中国支部はちがうなぁと感心した。
 山の上なので眺めはよかった。ここはバスでのりつけて愛国教育をうけさせるための設備なんだろう。

 則天武后の寺はふもとまで近づいただけ。あとは列車から石窟を見たくらいか。

 広元から漢中まで。列車30元。
 漢中の駅はあたらしく改造中で、本来の南口からはでられず新しく作られている北口からでることになった。つまり不便なところだ。1路の市バスで南の町の中心へいったらすぐ駅前の安宿街みたいなところへ突入したので降り、その安宿街と違う方向へ歩き適当に20元の宿に泊まる。

 自分は民主党が政権を取ったときからクズクズと言いつづけているのでもう飽きて、クズ政党をよろこんで選んだクズ国民はその報いをうけたらいいとか思っていたりするが、それはさておき、なんで民主党は菅を助けないんだろうかという問いがあるべきだとおもう。まぁ今までの経緯からして内部の組織化がされていない烏合の衆の組織でしかもおそろしいことに今もそのままのようだから内部協力ができないんだろうとはおもう。菅の個人的資質の問題もあるにしても、それ以前にそういうことだろう。
 なんで菅は地震直後に他のことをさしおいてまだ何もあきらかになっていない福島第一へ出かけたのか、とか謎なことは多いがまぁ民主党自体謎人物だらけだから、なんでとかいう問いを立てること自体アホらしい。
 政党内部の組織化といっても要するに言いたいことの言いっぱなしではなく、派閥なり勉強会なりつくって内部で討論とかして合意形成とかリーダーシップの訓練をしたらいいというだけのことだ。それは自民党がしてたこととおなじというかもしれないが、悪いところがあるならそれを踏み台にして改良すればいいだけのことだ。三本の矢の故事を出すまでもないが、とにかく個人でバラバラなのが一番最低だ。


2011/07/08 金

 人さし指と比べて薬指が長いほどペニスが大きい傾向が明らかに - GIGAZINE
 イケメンは薬指が長いことが明らかに - GIGAZINE
 指は人間の末端の一つだからその長さが他の末端の長さと関連しているというのはありえなくもない。けど鼻がでかいとチンコでかいというのとおなじ話じゃなかろうか。

 昆明から南に移動してからは旅行の方針たててもすぐ変えるから立てたことを書かない方がましかもしれん。
 しかし大きな方針として西にいくはずが、それを放棄して八月まで中国でブラブラすることにしたんだからその枠にはおさまっている。まぁ中央アジア方面に未練があるので青海に抜けるルートを立ててみたりするんだろう。とはいっても、七月下旬から八月上旬にかけてするべきことが決まり八月下旬に内蒙古行くということになっているのだから、もうそんなに余裕もない。
 さて今日はチベット人にわかれをつげて剣門関方面に進んでみる。

 成都の昭覚寺バスターミナルにいき普安行きを買う。のりつぎのりつぎで行かないといけないとおもっていたけど一発で普安まで行けた。普安鎮はすこしまえまで剣閣県の役所があったところで、剣州は昔からここだった。今は高速沿いのほうに役所が移っているので最近の開発からとりのこされているだろうとおもって行ってみたらその通り、すこし前の中国っぽい建物ばかりだった。しかも旧市街がすこしのこっていた。ただ、あちこち修復中で道路も掘り返されている。鼓楼があったがそれも修復中らしくブルーシートをかぶっていた。
 ここに泊まるつもりだったが一発で行けたので時間がまだ早い。スイカを買って剣門まで移動。7.5元。スイカは500g8角で買ったものは4元だった。剣門への道は尾根道だった。古い道をそのままつかっているんだろうか。
 剣門関についたら100元とか言われたのでそこには入らずに横の自動車道を通って降りてみた。普安の方から行くとたいしたことない谷にみえるが、トンネルを抜けて反対側に行くと高低差が大きいおかげで雄大にみえる。スイカを食べながら降りた。
 しかし思ってたより崖区間が短かった。1〜2キロ程度か。

 剣門関の下から下寺(剣閣県の 治所がうつったところ)まで乗合ワゴンで5元。下寺から広元までバス15元。駅までいって近くで20元の宿をみつけて泊まる。しかしこのあたり宿が高い。20元のところも、かなり奥の方で、客がすくないために三人部屋をベット一人分の料金でつかわせてもらっている。そのかわりテレビがない。まぁ20元が普通にみつかる地域の方が少ないのかもしれない。あ、でも普安ならありそうだったな。


2011/07/07 木

 今とめてもらっているところは成都の民族大学のちかくで、チベット人街のあるところだ。マンションの一室の中の部屋を貸してチベット人向けの旅館にしているらしい。

 暑い... 今日は順調に晴れている。
 やっぱりバスで移動しつづけたら疲れたまるな。

 チベット文字の発音の実際のところがよくわからん。ここで実際に字を見せて発音してもらったものは文法書的説明とかWikipediaの説明とかと違う。ཀ་ཁ་ག་で ཁ་と ག་が同じ音だという説明が多いのに、ここで聞いたら ཀ་ と ག་ がおなじガのような濁音(有声音)に発音していた。声調が違うというのはその通りだった。
 もっともその声調とやらもなんか違う説明がされていた。カム方言ということなんだろうか。


2011/07/06 水

 いまのところ成都は曇のおかげでそんなに暑くない。チベット高原のあたりは10度から20度程度で、下界は20度から30度という話だから死ぬんじゃないかとおもったが、なんとか行けそうだ。
 ちょっとした観光地はもう学生が殺到しているころなんだろうか。やばいなぁ。

 まだ半分も読めてないのだが、一応蒋介石本の感想。
 蒋介石は昔っから戦争が下手くそで、北伐中も淮海会戦のようなことをやって各個撃破されてやばくなったことがあったようだ。結局国共分裂までの北伐ではソ連から来た顧問に指揮してもらったとか。
 そんなのなのにどうして蒋介石が権力を握ったかというと、孫文の代理としてソ連を訪問した縁で、ソ連が積極的に後ろ盾になってくれたからだが、蒋介石自体は訪問したときの感触でソ連を信用しておらず利用するだけ利用したということが書いてある。この本はやはり共産党員が書いたものだから中共がソ連と蒋介石の間でなんともいえない状況におちいったことに記述の重点があったりするので結構重要な事が後の方にこっそり書いてあったりするんだが、ソ連も国民党を助ける裏で中共をつかって乗っとる気マンマンだったわけだから蒋介石はよくもまぁこんなに危ない橋を渡りきったものだ。
 まだ先まで読んでないけど、蒋介石が最後まで泳ぎきれなかったのは、結局アメリカがそんなに介入的ではなかったからだろう。アメリカはソ連の宣伝のせいで帝国主義とかなんとか言われるけど、アメリカの介入は結構限定的なことが多く、それで失敗することも多い。帝国体制そのものだったソ連とか中国が他の国に対して帝国主義と言うのはおもしろい。ちょっと前まで日本にいいようにやられてた中国のために日本をボコボコにしてやったとたん、中国がソ連の手下にのっとられ、チベットとか西の方まで回復したのを見て当時のアメリカ人はどうおもったんだろう。

 まぁしかし前回成都に来たときから一ヶ月半くらいで輪を書いてみたわけだが、ちょっと無駄な行程だった気がする。

 理塘の町でひからびた細ながいものの入った包みをもった人のまわりに人がたかっていたが、あれは冬虫夏草を売買しているところだったのか。

 冬虫夏草には5種類あるらしい。まず蔵草、青草、塘草でこれはそれぞれチベットのウーツァン・アムド・カムの三大地方を指すようだ。これはそれぞれどれということもなく良いらしい。ついで新龍草で、その三大地方の中間くらいにあたり、よいのから悪いのまであるらしい。新龍は理塘の北にある地名。最後に漢源草でこれは形は大きく姿も立派だが薬効はない。しかも漢人の土地にある。漢源は四川省雅安市にある地名。今中国や日本にでている冬虫夏草の多くは漢源草らしい。チベット人はつかわない、ということはチベット医学ではつかわないということなんだろうが、たぶん中医ではそこまで気にしないんだろう。で、漢方でも気にしないと。チベット人的にはそこを売りにしたいらしいが、漢方とか中医で普通には使わないけど高い珍薬なんてイメージだけで売っているものだから、売りにはならないだろう。
 もっともチベット人の言う分類もどこまで通用するものかわからない。みるからに四川のチベット地方でしか通用しなさそうな分類だ。


2011/07/05 火

 康定 → 成都 121元。
 今日も曇。朝5時半くらいにバスターミナルに行ってみたら甘孜方面は売り切れだった。まぁあたりまえだ。そこで一気に成都まで行くことにした。6時発。成都までの道は快調そのものだったが、一時間くらい走ったところで止まった。崖崩れで全面通行止めらしい。ということでそこで延々10時間くらい止まっていた。することもなかったので蒋介石の本を読んでいたがやはりそれくらいでは読みおわらない。
 通れるようになると祝うかのように雨と雷。しかし一日分の車がその地点で止められていたわけで、その流量がその先の峠まで続くわけだから、いろんなところですぐに詰まる。しかもこの区間も理塘康定間ほどではないにしても結構工事中のところが多い。成都についたのは25時くらいだった。バスでいっしょだったチベット人が家に泊めてくれるというので泊まった。

 そんなわけで、チベット高原と成都の盆地がどう接続しているのかよく見れなかった。


2011/07/04 月

 理塘 → 康定 86元。
 今日も曇。朝6時にバスターミナルにいってみたら康定行きのバスにのれたので行ってみた。郷城 → 理塘のような道を予想していたら大違いで、拡幅のために全面工事中らしく、3/4くらいは舗装がなくなって泥の道になっていたり、無造作に石が放りだしてあったりしてえらく難渋した。途中雅江というところでは狭い道の脇の建物を壊していたのだが、そのガレキが道路に広がっていて、ひどい渋滞をおこしていた。
 まぁしかし夜になる前にはついた。そこから宿さがしだが、バスターミナル前の宿はみな50元とかなんとかふっかけてくる。というのも学校が試験とか休みに突入してしまっているらしい。うーむ。観光地康定ということか。
 結局町の中の方まで歩いても30元が底だった。しかたないので30元で泊まった。ユースホステルには近寄る気にならなかった。

 しかしここまで来ると、ここからまた甘孜の方まで行くよりはもういっそのこと成都方面に出てそこから北上するというコースでいいか、という気になってきた。とにかく康定は観光地っぽくないのに観光地プライスなので早々に立ちさりたい。理塘の宿さがしをもうすこし慎重にやって数日いたらよかったがもう出てしまったので戻らない。それに、昆明からここまでたどってきた道のりは景色もよいし少数民族がいっぱいで旅行の黄金ルートといえるようなところだ。だからこれから夏休みになって学生とかがいっぱい来るんだろう。こわいこわい。


2011/07/03 日

 5時半ごろ早起きしてバスターミナルに行ったら、理塘を通って康定にいくバスが二台いたが売り切れということで乗れない。結局昨日話のあった乗合ワゴンで理塘まで行った。途中高原湿地など広がっていた。天気は昨日とおなじく曇りで、高原湿地のあたりは半分雲の中。
 理塘についたのは11時くらいか。シャングリラ→郷城よりは速い。単純に舗装されているかいないかの差だとおもう。理塘はたしかに草原の中の町で、はずれに遊牧民を定住させるための建物とかあったりしたくらいだが、ここもそのうち漢人がうじゃうじゃ来て町が広がるんだろう。町のなかはチベット人だらけだが漢人もそこそこうろうろしている。公安がレッカー車でうろちょろして道にとまっている車に注意しているのがうるさい。

 宿はバスターミナルからすこし歩いたところにあった招待所。20元。バスターミナルの目の前の旅社は表に旅行者よせの英語とか書いてあって敬遠したがあとで値段だけ聞いてみたら20元だった。

 ちょっと高いところに登ったら息が切れる。さすが標高4000m級。
 それはいいとして雨が降ってきてやる気がなくなる。

 ここから甘孜に行くバスはないようだ。成都方面の康定が86元、6:30。西蔵自治区に近い巴塘が63元、16:00。うーむ。

 ここにしばらくいるつもりだったが方針を変えて明日康定まで行ってみる。


2011/07/02 土

 これからの予定。
 ここ → 郷城 → 理塘 → 甘孜 → (昌都) → 玉樹 → 西寧 かな。問題は金がつづくかどうか。このへん昌都以外ATMがなさそうで、金につまると先を急ぐか康定方面に降りるかしないといけなくなる。うーん。まぁいけるだろう。

 郷城着。ここに来るまでの道は未舗装道路だったがそれなりの広さを保っていたので最近作ったんだろう。地図と対照しても微妙に違っていた。出発のときから曇りでたぶん眺めよくないんだろうなぁとおもっていたが、ある高度より上に雲がかかっているだけで、わりと眺めはよかった。雲南省と四川省の境目のあたりに高山が屏風のようにならんでいた。一部中パ国境越えを彷彿とさせるような険しい谷もあったが一部だけだった。チベット高原には既に上がっているので高低差もそれほど稼げないということだろう。
 ここから理塘に行くバスは明日も明後日もない。他にも理塘に行く人はいた。当然のように乗合ワゴンを持ちかけてくる人がいたが、結構いた白人が早起きできないとかいって去ったので話も消えた。他に坊主とチベット人らしいのも明日理塘にいくというので、乗合ワゴンの話をもちかけていた人の宿につれていかれた。なるほど、宿の人が客引きのダシに乗合ワゴンをつかっているんだろう。しかし、20元でテレビなしの部屋だったので、一人で違うところをさがした。20元テレビつき。

 ここにある寺をちょっと見にいって帰ってきたら宿のおやじがいない。部屋の鍵をもらっていないので入れない。一時間くらいしたら帰ってきたが今度は鍵があかない。いっしょに来ていたおやじの友達らしいのがゴリゴリやってたら鍵がこわれてしまった。結局ドライバーでこじあけることになり、今度は中から鍵をかけれないようになったが、ついつい癖で中の鍵をしめてしまう。今日は閉め出しを喰らう日らしい。おやじがまた帰ってくるまで待ちぼうけ。

 郷城県のあるところはシャンバラ鎮というこれまた恥ずかしい名前になっている。地図をみると雲南省のシャングリラの他にも四川の側にシャングリラという名前をつけているところがある。まぁ観光が金になるというので地名を変えているんだろう。もともと漢語地名とチベット語地名は違うので別にどうでもいいといえばいいのだが。

 ネットにつながらんな。雲南省は端々まで3Gが普及しているけど四川省はちがうということか。
 宿のおやじによると朝の5時半に理塘行きの乗合ワゴンがあり、一台400元で一人あたりだと55元とからしいんだが、バスターミナルの客引きの話だと一台600元で九人のれば一人あたり86元とか言ってた。バスの値段が70元らしいので、おやじの情報は古いとおもうがまぁ朝早起きしてみよう。


2011/07/01 金

 やたら屁がでて快便だ。前イランにいったときやたら快便だったのも飯のせいというよりは高度のせいなんだろう。高山病にならないためには水をたくさんのめばよいということだが、それを真にうけたせいで昨日は頻尿状態だった。無理してのむこともない。

122:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/07/01(金) 06:43:58.35 ID:jU5hJc4U0

にちゃんねる→チラシの裏の落書き
ついったー→馬鹿発見器
みくしぃ→犯罪体験レポート
ふぇいすぶっく→密室会議・共犯者集め

うまく棲み分けできて良かったね。

 松贊林寺まで行ってみたが、80元(1000円くらい)とか言われたので歩いて帰ってきた。

 この宿は乞食の拠点となっているようだ。朝とか夜にガラガラする音がするなぁとはおもっていたが、あれが中国でよくみる台車の乞食の台車の音だった。街の中でみかけた普通の乞食をここでもみて、なんか変だなぁとはおもっていた。他にも脚の無い人や手話で会話する人達とか、社会的にあまりいい扱いをうけていない人達のふきだまりになっているような感じだ。

 人格に問題あるから海外青年協力隊で落とされたんですよね。今もこんな中国の奥地でブラブラしている時点でJICAの目が確かだったことがわかります。

 地震が日本経済に及ぼした影響はその実大したことないらしい。リーマンショックのときの方が大変だったことが数字で示されている。

 四川方面に北上する。明朝の郷城行きのバスの切符を買った。85+3元。

 そもそも南都賦に「暮春之禊」とあるのか。