つれづれ

2011/10-12
2011/12/31 土 西寧

 青唐城跡と南山拱北を見にいってきた。二時間弱外にでていただけなのに手がこごえた。やっぱり装備がすくなすぎるか。
 青唐城跡は跡といっても土塁の城壁の一部がのこっているだけ。南山の拱北は文革のときにこわされて、その後再建されたものなのでどうでもいいといえばどうでもいいが、せっかくあるので見にいった。南山一帯は公園になっていたが、やはりこんだけ寒いので閉まっていた。一応入るだけは入れた。しかしそもそも拱北自体も閉まっていて中にはいれなかった。とはいっても拱北のすぐ裏が頂上で、展望台があり、そこから丸見えだった。
 一応ここは元代に来た人を祀っていて、元末壊されたのを明初に再建したという伝説がついているらしい。

 拱北はなんだろうとか言ってたけどようするにゴンバドのことだよな。アラビア語の音訳とか書いてあったけど、どうかんがえてもペルシア語経由してるわな。

 洪水玄武岩 - Wikipedia

 レコンを中心としたチベット・アムド史

 臨夏回族自治州志の軍事のところに、中共成立後の叛乱が書いてあったがその中に道教系の宗教団体が集まって「抗共滅回」をとなえて「反革命武装暴動」をおこそうとしたというのがあった。こんな回族が多いところでもそんなことできるのかと感心した。


2011/12/30 金 西寧

 大阪の労連って本当に凄いな: やまもといちろう
 橋下の暴走とかなんとか言う人に権力握らせたら暴走するんだろうなぁ。

 後藤朝太郎って1945年の8月9日に交通事故で死んでるのか。Wikipediaには「右翼に暗殺されたともいわれる」とあるが、どういうことなんだ?

 2010博物館リストによるとゴルムドにも博物館あったようだ

 そういうと春節は1月23日らしい。意外と早い。やばいな。

 回族の教派は教主のために拱北という墓をつくって祭るらしい。マザールみたいなもんかとおもったらそう書いてあった。拱北はアラビア語の Gubba の音訳で、意味は「円屋頂建築」「金頂」ということだがよくわからん。ドームのことか?
 قبة のことのようで、ドームで合ってるようだ。

 藏传佛教和伊斯兰教融合的文化--正君
 循化にはこんなのがあるらしい。

 臨夏が回族の聖地という話(『西北支那』)についていろいろ調べてみたが、19世紀の回民蜂起のときに河州は左宗棠に投降し、のちの回民処分のときに河州周辺に集められたらしい。河州を率いていたのがフフィー派で、フフィー派の開祖の墓が河州にある。そのせいじゃないかとおもうんだがよくわからん。

 東郷(トンシャン)族というのがいるらしいが、臨夏回族自治州志の民族のところによると、サルト人の後裔みたいなことが書いてある。その一方で言語はモンゴル語系だという。実際に中央アジア方面の地名が村についていたり、モンゴル語で職種をしめす地名がついていたりするらしい。うむむ。
 というか自称サルタなのか。

 中国伊斯兰苏菲学术论坛
 こんなもんみつけた。


2011/12/29 木 西寧

 剥得快という乾燥果物や種の店の栗が500g(一斤)8元の開店セールをやめ、500g16元になってしまった。市場の近くなので他にも栗を店頭で炒って売っているところはたくさんある。しかしやはり剥得快の方がうまい。うーむ。まぁ栗に期待しなければいいだけなんだが。

 西安から来たという人がいて、汉文武德というユースが15元だという。しかしネットでちょろっとしらべると50元とか書いてある。本当に15元なんだろうか。
 西安汉文武德国际青年旅舍
 サイトには50元と書いてあるが、そこからホステルワールドを経由して予約できるようで、そこの価格をみると一番安いベッドは混合ドミ6人部屋15元だった。西安から来た人が外人もたくさん居ると言っていたが、ホステルワールドにリンクしてあったらいっぱい来るだろう。しかし15元か... 西寧より西安でダラダラしてたほうがよかったかな。

 2010年度全国博物馆名录が発表されてたようなのでダウンロードした。というか2011年もおわりごろになって2010年度のリストを発表するのはどうなんだろう。

 始動する日韓グリッド接続構想 アジア電力網の試金石  :日本経済新聞
 韓国の原発でつくった電気を日本に売りつける計画が進行中なんですねわかります。釜山あたりに原発いっぱいつくってるのもそのためですねわかります。

 マイクロSDカードをさがしに適当に町のなかを歩いたら携帯屋しかみあたらなかった。携帯屋のブースがいっぱい入っているビルに入ってひとつひとつ聞いていったところ、一番大きい容量のもので16Gが130元だった。目標は32Gを160元(約2000円)だったので買わなかった。たぶんちゃんとさがせば電脳街あるんだろうけど西安で買うことにする。それよりも、東芝のメーカー品のUSBHDD1TBが1600元弱(約2万円)で売ってた。これ買った方がいいのかもしれない。
 価格コムに情報がなかったのでさがしたら東芝の直販サイトで売ってた。16000円弱。うーむ。
 淘宝で適当に見てみるとマイクロSDカード16G130元というのはわるくない値段っぽい。一方で32Gも200元以下で買えそう。80元で売ってるところもあるがこれ本当だろうか。まぁそれよりは1TBのUSBHDDが1000元以下で買えそう。まぁそのへんは西安に期待というところか。

 タリーカのことを門宦というらしいがその使いかたをみると、そのタリーカの中で権力が集中し、特殊な世襲制度が形成されたその一門のことをそれと言うらしい。中国語での説明をみていると普通にタリーカと言うのに相当するのは学堂だとおもうんだが。
 それは名付けの問題だからいいとして、そういう集中のしかたが封建的で中国特色だとか書いてあったりするけど、中央アジア方面から来たものではなかろうか。

 なんかそっち関係のこと調べようとしたらWikipediaが充実しすぎていてこわい。


2011/12/28 水 西寧

 昨日の夜、客がいっぱいきて彼らにまじってトランプゲームをした。たぶん人狼とかいうのと似たようなゲームだとおもう。まず法官を決め、その人が場をとりしきる。警察が二人、殺手が二人、トランプのカードをくばってそれを決める。(赤のA二枚が殺手、赤のK二枚が警察、黒の数字が平民とか)。まず夜となりみんな目をつぶる。法官が殺手に目をあけさせ、誰を殺すか決める。一人だけ殺せる。目をつむらせたあと、次に警察に目をあけさせ、誰が疑わしいか決める。一人だけ。法官は殺手であるかないかだけ表示する。その後、朝となり皆目を覚ます。殺されることになった人はその場で遺言をのこし、退場。その後、皆順番に適当に意見をのべた後、誰が疑わしいか投票する。その時票を集めた人は遺言をのこして退場。その後また夜となり、というのを繰りかえす。殺手を二人殺すと警察の勝ち。平民がみんな死ぬか警察が二人とも死ぬかすると殺手の勝ち。
 言葉の問題があって誰が殺手で警察か推測するのが難しかったが、最後まで残ったときに殺手に加担して平民や警察を投票して殺してしまったりしたのは、やはり自分の推測能力に問題があるうえに付和雷同するだけの自分に問題があるとおもわれる。

 なんだかんだ言って某全集全部落としてしまった。またHDDの容量が...
 USBHDDが一つこわれてしまってから、いろいろHDDの異音について調べてみたら、前から調子の悪かった一番最初のUSBHDDがときどき出している音が壊れたHDDの音とおなじだということに気付いた。それからこわくてあんまりHDDにさわれていない。中国の商品管理の杜撰さからして中国で買うのはメモリカード以外にありえないんだが西寧ではどれくらいで売っているんだろうか。

 西寧の城東区志を通読したけど最近のことばかりであんまりおもしろいことなかった。馬歩芳のお膝もとだっただけに共産党の話もほとんどない。昔のこともないうえに民国時代の記述も薄いわけでおもしろいわけがない。チベット人がもともと住んでいたのに西の方に移住したのは元代らしい。

 これでインディア 2011年12月6日(火) デリーのザンジール・マータム
 スンニー派もやるのか。

 政経ch - 【政治】民主党よ、教訓をありがとう(茨城県・無職・68歳)
 もう死ぬだけの人間は気楽でいいな。

 臨夏の西に臨洮というところがあり、こっちの方が歴史が古そうで、長城なんかもあるらしい。狄道という名前で三国時代の蜀と魏の争いの舞台にもなっている。始皇帝の長城はここが起点になっているとか読史方輿紀要に書いてあるけど本当だろうか。唐には吐蕃と唐の境目になっていたようで吐蕃を破った記事が引用してある。岷県の方にはいかずに臨夏の方に降りて臨洮、隴西と行った方がよさそうだ。

 読史方輿紀要には西の方のことは全部陝西の範囲にはいっている。河西回廊からタリム盆地という順番でペルシアとかまで及んだあとインドになりそのあとにチベット関係がくる。しかも河州(臨夏)の西南にあったという衛がいきなりでてくる。なんでそんな順番にしたのかよくわからない。

 嘉靖年間の河州志をみたら最初の方に黄河流域の地図があって、その中に崑崙山がある。実際の地図とあわせてみると、東崑崙山脈とよばれるあたりがそれらしく、聖なる山とされるマチェンカンリなんかがそれっぽい。で、いろいろと調べてみた。
 今崑崙山脈とされるのはタリム盆地の南側を走る山で、それが延々とチベットの中までつづいてその黄河流域あたりの東崑崙山脈とよばれるところまでつづいている。そしてその中でもゴルムドの南にあるのが崑崙山とされているらしい。もともと黄河が流れ出るのが崑崙山ということになっていて、それがタリム盆地の南側まで延伸されたということなんだろう。マチェンカンリには積石山という別名がなぜかあるらしい。
 チベット高原から河州のあるあたりに黄河がながれおちるところにも積石という地名があり、積石山とか積石関とかいうのがある。河州という名前がついているのは黄河が由来であるらしい。たぶん昔(といっても相当昔だが)の地理知識だとこのあんまりはっきりしない積石山が黄河の源で、崑崙山だったんじゃなかろうか。


2011/12/27 火 西寧

 早朝の五時から、インドポップを大音量で流している車がある。ひさしぶりだな。

 西寧に回族がいる理由について、西寧の城東区志の大事記には、

 元 至元十年(1273年)
 元世祖令留驻青海探马赤军(后世称"回回军")等"随地入社"。为今城东地区回族繁衍的开始。
 明 洪武三年(1370年)
 大将邓愈攻占河湟后,明太祖下令将南京及附近地区的色目人子孙及部分汉民徙至青海东部屯田。其中部分人即为今城东区世居者所承认的先祖。
 とある。さらに、人口の項には、青唐のころにホータンなどの戦争捕虜、モンゴルの「西域親軍」が来たことにつづけて、
..继之是明太祖,明成祖,明神宗下令移民实边,从南京,陕西等地移来不少回汉群众。
とある。

 上海の会社の社長がソーラー関係の仕事をそれなりにやっているようなので、南疆で撮った太陽電池をつかった電波塔の写真(沙漠以外の数少ない被写体の一つ)を送ったら、gmailでチャットをいどんできた。そのやりとりでおもったのだが、自分は人を不愉快にするような言いかたをわざわざしているような気がする。とにかく素直じゃない。

○要するに交付国債は、いよいよこの国が危ないぞというときに繰り出す、大蔵省もとい財務省の必殺変化球みたいなものなのであります。それを今回は、基礎年金財源の国庫負担分2.6兆円の穴埋めに使ってきた。その結果として、一般会計の歳出額が当初予定より減り、新規国債発行額が44兆円以下に抑えることが出来る。とは言っても、今の政権で消費税増税のスケジュールが見えてくるとは考えにくいので、所詮は画餅に帰するのではないか、との呼び声は絶えない。
かんべえの不規則発言 (12/26)

 「日本沈没」を取り消します 韓国紙、震災紙面を変更 - 47NEWS
 さすが韓国、過去の歴史を書きかえるとはwww

 3次元プリンタ、この1年 - Tech-On!
 昔、九州国立博物館の奥で見せてもらったときはすげーものがあるなぁとおもったけどもう10万円台で買えるものまであるらしい。

 今朝バリカンで頭を刈ったが、なんかうしろの方の一部分がツルツルしている。こんなところまでハゲてきたか。タリム盆地を通るとハゲが進行するんだろうか。単純に刈り方が悪くて虎刈りになっている可能性もある。まぁどっちでも大差ない。

 西寧では1938年以降「抗日三字経」を農民教育の教材としてつかっていたということだが。

 ここのユースホステルで年を越すとおもわれている。まぁ年を越してもいいような気もする。


2011/12/26 月 西寧

p32 五馬聯盟は馬姓を名乘る五名の回族實力者の聯盟を意味するが、現實にかゝる横斷的な聯盟が出來てゐるわけではない。宗教的に團結し、共同の利害に對して一致した行動に出づるであろうといふ漢民族の豫感、危惧が生み出したいはゞ幻影であり、疑心暗鬼である。
 上海靖亜学会、朝日新聞社『西北支那』1945

 ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル - Wikipedia
 毛沢東のことを「極東に躍るブリュッヘル」と紹介していた本があったので検索したらこんなのがでてきた。

 中東TODAY: NO・2177「カタールがサウジアラビア政権打倒に動く?」

 vol番号は書誌情報の「ページの本文をみる」のところで既に与えられているので、このページをまず読みこむようにすれば快適にダウンロードできるはずだが書きなおすの面倒くさいなぁ。

 臨夏州博物館は12月から2月の間閉館するのか?
 臨夏はその昔は河州というところであったらしい。『西北支那』に回族の聖地と書いてあったが実際にムスリムが多くモスクがやたらあるらしい。臨夏の市志と州志はみつかったのでボチボチ読む。

 むむむ。宮崎市定全集が全巻アップされているな....
 しかもこれ文学部の図書館のものをスキャンしたものだ。日本の論文を盛んにアップロードしているこの人は吉田に留学していた人か。

 『西北支那』の説くところによると、新疆が半独立政策をとったため、中継貿易で栄えていた甘粛あたりは経済的にいきづまってしまったが、日本との戦争の中で軍事的には重要な位置を占めるようになったので、いわゆる軍閥の搾取がひどいことになってしまったらしい。そのため阿片栽培のメッカになってしまったとか。無論地方誌にそういう背景は書いてなく、軍閥がひどかったとしか書いてない。


2011/12/25 日 西寧

 一応明日まで金は払ってあるので、今日も机にすわって黙々とダウンロード。

 スペイン人に教えてもらった、誰にでも出来る美味しいパエリアの作り方 | 地中海ブログ

 これからの予定
 大方針 西寧から蘭州の南の方を迂回して天水へ抜ける。その後宝鶏、西安。
  西寧 → 循化 → 同仁 → 夏河 → 合作 → 岷県 → 天水 → 宝鶏 → 西安
 西安からは南と北の二つの案があり決めかねる。
  南案 寧西線沿いに東へ向かい、適当なところで福建方面に入り、泉州から広東まで沿岸を下る。
  北案 山西の南部、保定方面と通って北京。
 大目標として、西安と北京の博物館があるが、今は寒いので南に行くとちょうどいい季節だろうというのがあり、迷いながら決断を先延ばししている。

 まぁもうさっさと切りあげて日本に帰ってパスポートを捨ててもいいようにもおもう。どうせ人生先がないし海外に行けるような蓄えができる機会もないだろう。とはおもいつつもまだ40前なので仕事をえらばなければなんでもあり、結婚とかさえしなければそもそも金をあんまりつかわないので早かれ遅かれ金はたまり、ちょっと海外に行くくらいの金はできるんだろう。やけくそになるにはまだ早いということか。ただ田舎に帰って田舎社会のルーチンにとりこまれると余暇の時間がなくなってしまうということは考えられる。

p20 程度の差こそあれ、青海は新疆と同じやうに、外部からの勸察者を勸迎しない。内部の實相が外に洩れるのを防ぐためで、西寧から僅か五十里しか離れてゐない蘭州においてさへ、青海は神秘の國である。青海に關する印象は非常に惡い。外來者の生命は十人のうち六、七人までは保障出來ないといはれてゐるほどである。
p52 哈密オアシスに入ると、農家は破壊され、果樹園は荒れ果てて、涼しい日陰をつくつてゐた白楊や楊柳の並木は殆ど切り倒されてゐる。回教徒の叛亂の際金樹仁の政府軍が加えた復讐の跡□。オアシスは地上から消えて沙漠がその領域を擴めたのである。
p69 サルトとは古いトルコ語で「商人」を意味したが、後にはタジクと同意語でペルシヤ系回教文化に属するものを指すこととなつた。トルコ人は征服者でサルト人は被征服者を意味する。ウズベクとイラン族中のタジクとの雜種族である。
p89 纏頭は支那人に較べると怠惰である「その主な仕事は、日向で物を食べたり、坐つたりしてゐることのやうに見えた。」(タイクマン)
p121 北京から新疆に行くには二つの隊商路があつた。一つは外蒙を通り、阿爾泰山脈の南麓に沿ふ道であるが、外蒙の國境閉鎖により再早や支那からは利用出來なくなつた。もう一つの道は内蒙古を通り、黒ゴビを橫斷して哈密に出るもので、厚和または包頭から哈密までゴビの全域を一千マイルにわたつて橫切らねばならないから非常に困難な道ではあるが、外蒙を過る第一の道が閉鎖されてからは、この道によるほかはなくなつた。この隊商路は百靈廟を出てから哈密に着くまで殆ど外蒙國境に沿うてゐる。
 上海靖亜学会、朝日新聞社『西北支那』1945
 この本、前半は写真だらけでおもしろい。
 ウルムチにはロシア人街があったらしい。
2011/12/24 土 西寧

 維新寮

 寒流 (影集) - 维基百科,自由的百科全书
 うーむ。「陝西でアヘンを植えていた」とか「長春の大虐殺」とか、そういう中共批判のネタがここに圧縮されているような...

 朝日新聞社(12/8):小松原師団長はソ連のスパイ?=ノモンハン事件で新説
 こんなニュースがあったのか。

 于闐美術の発見 | 西域文明の発見
 ここにはソグドはゾロアスター教とか書いてあるが、タジキスタンの博物館とかでみたかぎりでは、仏教に加えてインドとペルシア系とかの信仰がまじった状態で、ホータンの状態とあんまりかわらない。

 東洋文庫のとこからヤルカンド報告書の画像を落とした。連番だから落としやすい。こっちの方が写真がよくみえる。でもカラーの方は解像度が低くて本文すら読みづらいのでやめた。

 岷县志落ちてないな...

 百度につながらない。プロキシかまして日本からみるとよく見える。謎だ。


2011/12/23 金 西寧

 オランダ人は今日タール寺に行ってからラサ行きの列車に乗るらしい。タール寺って、中国語の音訳だったのな。

 オランダ人をバス停まで送った。これでドミが一人になるかとおもったら中国人が二人はいってきた。外人ドミじゃなかったわけだ。

 空白のシルクロード:青海の道 | 貴重書で綴るシルクロード
 ここに吐蕃人の墓がたくさんみつかったとされている烏蘭のあたりは吐谷渾の本拠地がおかれたりしたところ。

 吐谷渾から慕容鮮卑


2011/12/22 木 西寧

 中国行きの船からミサイル69発 NHKニュース
 「花火」www 中国がコピーしようとしていたのか。北朝鮮がらみか。アメリカがどっかの勢力に武器を売りつけようとしていたのか。
 【速報】 金正男がマカオの自宅から消え平壌へ向かった模様 : 妹はVIPPER

 宇宙が3次元で誕生する仕組み、解明へ | KEK
 宇宙が3次元になった仕組みを説明 NHKニュース
 のこりの6つの次元とかいうアイデアから新しいオカルトが生まれそうだな。

 小さなクモに大きすぎる脳 (ナショナルジオグラフィック) - Yahoo!
 山岳氷河の融解、予想以上の速度で進行 (ナショナルジオグラフィック) - Yahoo!

 このユースホステルのネットは中国国内のサイト(例えば百度)などであってもつながりにくくなったりする。そのわりにプロキシをつかったアクセスは快適で、一度プロキシに接続さえすれば、twitterのようにこまかいファイルを大量によみこむサイトでも普通にみれる。たぶんDNSサーバへのアクセスがおかしいんだとおもう。

 戦前外務省情報部の中国共産党資料をつくっていたのは波多野乾一という人で、一人でこれをつくっていたようだ。時事通信の北京駐在員を長くつとめたあとで外務省に関係したらしい。京劇もすきだったようで京劇200年史みたいな本も書いているそうだ。麻雀連盟の重鎮だったり、戦後産経新聞に長く記事を書いたりしたので有名であるらしい。
 国会図書館のOPACで普通に検索したらいっぱいでてきた。『赤色支那の究明』(1941)とか『中国共産党史』(1961)が有名であるらしい。まぁ外務省の嘱託で1930年代に機密の中国共産党資料を書いてるような人だから並の人ではないんだろう。生没年1890-1963で最初の本が1918年の支那政党史稿だから筋金入りの中国通だ。
 ただ近代デジタルライブラリではこの人の他の本は公開されていない。著作権が切れていないからだろう。

 国会って National Diet なのか...


2011/12/21 水 西寧

 集団としてのオグズとウズベクになんらかの関連があるというのではなくて、単純にたまたまオグズもウズベクのウズも名前の元になった言葉は同じ自称の言葉だったんじゃなかろうかというだけの話でござる。

 朝日新聞社:電気代549万円自腹 図書館職員、中部電と勝手に契約
 この年でこれってどういうことなんだろう。

 DNAを介さずに100世代以上に渡って遺伝する獲得形質 - 蝉コロン

 近代ライブラリにある外務省情報部の中国共産党に関する年間報告がやたら分量が多くておどろいた。1933年のものは1000ページ弱もあってなかなかダウンロードできない。しかもこれ書いたのは嘱託だったりする。

 李生华「土族绝非吐谷浑后裔」(青海社会科学2004,No4)


2011/12/20 火 西寧

 gh音は現代トルコ語では母音の長音となって消滅している音である。オグズの表記のバリエーションのなかにUzがあるのをみて、あるいはそういう変化をして東南トルコ語系のウズ(ウズベキスタンのウズ)になり、一方はオグズとして固有名詞化したのかとおもった次第。

 青海省博物館
 西寧市博物館
 前回は月曜休館で入れなかった青海省博物館だが今回はちゃんと入れた。建物は博物館としてつかわれるよりも、場所貸しで収益を挙げているらしく、展示スペースがみるからに少なくなっていた。通常展の通史のほかはチベットの絨毯とかタンカの展示で、たぶんこれから売りつけるための販売場なんかも作るんだろう。
 吐谷渾も漠然としか知らなかったがようやくなんとなくわかった。鮮卑の一派が南北朝のころに青海に別天地をつくったが、甘粛方面に混乱があったため、吐谷渾治下の青海が東西交通の別ルートとして栄えたらしい。隋の煬帝の遠征で弱まったということになっているが、それよりは甘粛方面の動静の影響の方が大きいのではなかろうか。
 西寧市博物館も近くにあった。これは南涼時代の台の遺構があるというので見にいったらその麓にあったのだが、南涼のことなどをくわしくあつかっていた。しかし文物は漢以前の土器ばかりで南涼などの紹介は文字だけ。青海省博物館の方なんかは南涼のことはすっとばしていた。
 南涼の台の遺構なるものはピラミッド状のかなり大きい(高さ100m?)土盛りで、それしかなく、なにがなにかわからない。
 西寧市博物館には他に漢代の墓なるものがそのまま展示してあった。説明によるとこのへんには攪乱装というのがあり、死者を一度棺にいれて葬ったあと、しばらくしてから墓をひらき、死体をグチャグチャにするんだとか。

 ということを帰ってから書いていたら、ラサに行くというオランダ人がユースにやってきてなぜかわりと話があってダラダラしていたのでちゃんと書けず。


2011/12/19 月 西寧

 青海省博物館は月曜休館だと前回来たときの日記に書いていた。前回とおなじか..
 カシュガルから西寧までの大移動でやはり体がだいぶ疲れた。またここでしばらく休養か。昨日の向かいの席のやつの風邪がうつったのか、喉にすこし違和感がある。まぁ寝てたら治るだろう。昨日洗濯したのが朝にはもう乾いていた。乾燥してるな。

 午後から旧西寧駅の方にいって市場とかをぐるぐるみてまわった。警備員がよく着ている黒い上着が100元から200元くらい、あの緑の長大衣は結構高く、安くて300元からだった。10年以上前ウルムチ駅前の店で売っていたのは100元だったが。
 新華書店で西寧の地図をみてたら、西寧は「在建」と書いてあった。改築中らしい。

 循化的撒拉族 - chenning1989a的日志 - 网易博客
 青海の東の端にある循化にサラール族の自治県があるらしい。ここの県志が2001年にでているらしいが、ネット上に落ちていない。ので、いろいろさがしていたらこの日記をみつけた。ここにいうところでは、サマルカンドにいた西トルコ語系の部族がモンゴルにくみこまれてここに駐屯したのが起源だろうということになっている。アゼリと近いらしいが本当か。最初に紹介されている「突厥乌古斯部撒鲁尔」というのは、デデ・コルクトの書にでてくるサルル・カザンのことなんだろう。

 オグズ - Wikipedia
 ウズベキスタンのウズとオグズって同じ語源なんだろうか。

 金正日が死んだということでやっぱりこれから満洲方面に行くのがおもしろいんだろう。しかしあっちは寒い。うーむ。

 しかしこのユースホステル、ネットがものすごく速い。やはりカシュガルから二千キロほど東に来ただけのことはある。

 天気情報によると、西寧は今朝-15℃まで下ったようだが、全然実感がない。もっとも朝ちょっとヨーグルトを買いにいっただけでその後しばらく寝ていて午後出かけたころには零度以上になっていたようだから、あまりわからないのもあたりまえか。


2011/12/18 日 (チャルクリク(若羌) →) ゴルムド(格尔木) → 西寧

 カシュガルから西寧まで、アフガンからカシュガルまでの大移動再演というところか。今回は宿には泊まっていたが、延々と座席。固定した姿勢をとり続けたせいか腰がだるい。なんか適当に運動してたら腰に皺寄せ来ることもなかったんだろう。

 12/17
 チャルクリク(若羌) → ゴルムド(格尔木) バス 280元
 朝バスターミナルに行ってもう一回省境の依呑布拉克までの切符について確認しようとすると、昨日チェルチェンから乗ってきたバスの車掌がたまたま窓口の前の椅子に座っていて、どこにいくのか聞いてきた。青海というと、切符を売っていない方の窓口を指して、ゴルムド行きの切符を売っているという。その窓口で聞いてみると、チャルクリク発が280元でコルラ発が230元、10時半になったら切符の状況がわかるとかなんとか。そこで携帯の番号と人数だけ書きのこした人間だけで30人を越えている。切符が決まったら連絡するということであるらしい。他にすることもないので窓口の前で待っていたが、バスの出発時間などが決まってもなかなか切符を売りださず、結局13時ごろになってようやく切符を売りだした。14時発。280元のやつしかなかった。あとでバスの行き先のところをみると、「省际包车」と書いてあったので扱いとしてはバスチャーターの体裁をとり、人数がそろったら出発ということなんだろう。
 結構高いから寝台かと誤解していたが座席だった。タリム盆地の端からチベット高地へのぼるところはなかなか奇景になっていた。岩石ではなく、土だからそういうおもしろいことになるんだろう。まぁしかし青海に入るととたんに霧がでて、日もくれたので何もすることがなくなった。霧の方はやがてなんとかなったが、日がくれてはどうしようもない。ただ、景色の方も砂漠/土漠になっていたので見えなくてもよかったんだろう。ゴルムドのある盆地にもう入ったということか。

 12/18
 ゴルムド着の時間は他の乗客たちが朝の2時とか3時とか言っていたが、結局4時ごろに着いた。バスターミナルの前。駅は向かいにある。ラサ発はラサ到着出発が昼間になるように調整されているはずなのでそれを気にしながら切符売り場にいくと、中にはいれたが窓口が稼働していなかった。しかも時間を見ると、真夜中にラサ発が通り、その集団の最後が3時前で、もう通りすぎている。その後、朝にゴルムド発西寧行きが二本あるらしいが、どうもそのうち一本は稼働していないようで、8:20の慢車があった。窓口にちょっと人がでてきたので窓口の前にあつまっていた他の客が聞くと、8時から切符をうりだすとのこと。待つしかない。連れの人はゴルムドを夜に出る列車で一気に上海に行くことを選択した。これで連れの人とやっとわかれることができる。やっぱり旅行の目的が違う人間と旅行するのはよくないな。ポロっとホータンの博物館行けなくて後悔しているみたいなことを言ってしまったりしているので、たぶん連れの人の方もあんまり気分よくなかっただろう。
 切符売り場を何回かチェックすると、7時半くらいには人がいっぱい並んでいたが、窓口に人がでてきて、8:20発の慢車だけは切符を売ると言いだしたのですぐ買った。45元。安い。それをもって待合室にもどると、連れの人も携帯で知り合いにたのんで中国鉄道部のサイトで上海行きの切符をしらべてもらっているところだった。余っていたようだがたぶん残席少なかったんだろう、すぐに窓口に並びにいくというのでそこで別れた。

 ゴルムド(格尔木) → 西寧西 硬座(慢車) 45元
 まぁこの区間は一回来ているし景色もあんまり変化がないのでかなりの時間寝ていた。途中の大ループなんかをそれと意識して見たくらいか。しかし向かいの席の若者の片方が咳のでる風邪にかかっているらしく、やたら咳をする。しかも中国人だからまったく躊躇せずこっちに向かって延々と咳をする。その連れは最初咳をしていなかったが、西寧につくころには咳をしていた。こっちまでうつされそうだな...
 青海湖の終わるあたりで日がおちて、西寧西についたころには真っ暗になっていたが、今回は列車の中から駅前をみていたら市バスのターミナルが駅を出て右手にあるのがわかったので、市バスにすぐ乗れた。それで事前に調べていたユースホステルにまっすぐ行った。今回なぜか個室の安宿さがしをする気がおこらなかった。

 ユースホステルにいくとすぐに日本人だとバレる。宿の管理のおばさんがしきりにビザのことを気にしていたので、滞在期限が切れかけか切れた日本人でも来てなにか問題おこしていたんだろう。ここは押金がなく、泊まるつもりの分の金を事前に払う方式だった。
 腹へっていたので干拌をちがう店で一皿づつ食ったが、結構高く感じてしまう。まぁでも中国の物価ってこんなもんだったかもな。
 シャワーあびて洗濯したらもう夜もおそくなってしまった。この宿、今は客が少ないせいか、夜も早く、洗濯も申し訳なくおもいながらやっていた。一応無線LANの暗号は聞いていたが、無線LAN自体がやたらあってどれがこの宿のものかわからない上に片端から暗号いれてもつながらない。まぁ明日聞くことにする。


2011/12/16 金 チェルチェン(且末) → チャルクリク(若羌)

 チェルチェン(且末) → チャルクリク(若羌) バス(快客) 61元
 バスターミナル一帯が停電で、開くのが9時からとなった。バスのチケットはすぐ買えた。昨日より小さいバスだったがこれは快客という分類になるらしい。ここ数日の暖かさはなく、寒い。バスの窓が凍てつくくらい。何もないところを走るのでわりと早くつくだろうとおもっていたら、10時にでて14時半くらいについた。ちょうど新疆時間の飯時。チャルクリクはこれから楼蘭で売ろうとしているらしく、若羌という名前よりも楼蘭を冠したものが目につく。とりあえずバスターミナルで時刻をみると、敦煌行きはなく、青海方面は省境の依呑布拉克にバスが朝10時にでているらしい。切符はそこで売らず、明日バスの中で売るとのこと。快客という分類なのでまたマイクロバスなんだろう。95.5元らしい。とりあえずバスターミナルの建物にはいっているウイグル料理屋で鳥ラグマンを食い、宿さがし。バスターミナルの敷地内にある招待所と賓館は十分安かったが外人はダメらしい。すこし探した結果、その横にある銀海賓館と楼蘭賓館しか外人をうけいれないとのことだったのでバスターミナルの横にあって楼蘭賓館よりは安そうな銀海賓館にはいる。ダブル100元。高い。必死に探せばもっと安いのがあるんだろうが、今は連れがいるうえに寒いのであんまり出歩きたくないし、建前上はそうなんだろうからまぁしかたない。
 宿が決まったので連れの人は宿に放置しておいてとりあえず博物館をみにいった。のんきに飯をくっている間にも博物館を見にいけるかどうかで心の中はあせっていた。とにかく移動しているのに博物館すら見ていないので、自分の旅行の目的が達成できていないことが大いに不満だった。
 バスターミナルから博物館の間は新市街のようで、中国人ばかり。博物館の前に無駄に大きな広場がありその横に楼蘭賓館があるのでここを中心にして開発しようという腹なんだろう。

 若羌楼蘭博物館
 地下に遺跡からの出土品などが雑然と展示してあるが、いちおう全部に時代がいつか明示してある。といっても西漢とか晋みたいな断代だが。ミイラが数体。子供中心でヒゲのおっさんとかもある。小河遺跡の青銅器時代の遺物が特に目につくが、ウルムチの博物館にもあったような... ウルムチの博物館のフェルトの帽子などがあんまりキレイだったので、複製品かと疑っていたが、ここに展示してある帽子も未使用の新品みたいにキレイな表面をしていたのでそれでよいようだ。
 ここは写真禁止と表に看板がでていた。午前と午後の数時間しか開いていないようだったが着いたときちょうど午後の開館時間だった。午後は16時から18時(北京時間)の二時間。係の人がだれもいなかったのでとりあえず写真をとっていたら、大概とりおわったところでおっさんがとんできていきなり携帯をとりあげておっさんのポケットにいれた。おまえは写真を撮りすぎだと怒っている。まぁその通りなのだがその場はとりあえず返してくれた。その後おとなしくしていたが、最後に若羌の鉱産物の展示のところで地図がおもしろかったので撮ろうとしたら、まだ撮っていないのに雑用係のおっさんが来て携帯をとりあげておなじようにポケットにつっこんだうえ、返してほしかったら金をはらえとか言ってどっかにいった。まぁしかたないので携帯をあきらめるかどうか考えていたが、あんまりヤケクソになってもしかたないのでもどって携帯はどこかと受付のあたりで聞いてみると知らない模様。結局横の小部屋に雑用係がもちこんでいた。そのおっさんは中にはいれといっていたが、中に入ったら金を要求されるのは目にみえているので、知らんぷりをして外から「写真消し終ったアルカ」みたいな感じで話していたら最終的に返してくれた。最初に注意しにきたおっさんもそこにいたが、簡単な英語を話せるし金の要求もせず、写真を消せという真っ当な要求しかしなかったのでまぁまともな人なんだろう。まぁしかし彼らは日本の携帯をいじって写真を消したりするだけの能力はなかったらしく、一枚も消してなかった。その場で消せみたいなことも言われたが、雑用係は金の要求ができなかったらもうどうでもよいらしくあんまり追求してこなかったのでそのまま出た。
 まぁ本当に写真とられたくなかったらその場で写真が消えたのを確認できるまで写真の抹消を要求すればよいだけなので、それができてない時点でなんかおかしいんだろう。
 それはそれとして、漢晋時代として細石器が展示してあった。ううーむ。

 博物館にあった立体地図によると、タリム盆地のロプノール南方一帯は「野駱駝保護区」みたいなところになっていて、道路ですらその北の山の裏を通っている。チャルクリクから敦煌に行く道はその山脈の裏を通ることになる。まぁ核実験場があったからそんなことになっているんだとおもうんだが。

 明日は花土沟に到達できるだろうか。


2011/12/15 木 ホータン(和田) → チェルチェン(且末)

 ホータン → チェルチェン(且末) バス 100.5元
 happyhotelやはり朝もなんかパスポートをすぐ返してくれなかった。交通賓館の方にしたらよかったと後悔。
 今日も移動。風景も砂漠でおなじ。このあたりの道のまわりの方が砂漠の度合いが強いというくらいか。まぁ今日の方が風景的にはおもしろかった。
 8時間といわれたが10時間くらいかかった。途中で肉とか積んでたし長距離だからブレも大きくなるのだろう。チェルチェンに着いたら日が暮れた。交通賓館に泊まる。2人で60元。チャルクリクにいくバスは明日の10時(北京時間)らしい。すぐ近くの飯屋に行ったら焼き肉しかなかったので、しばらく歩いてラグマンを食う。宿周辺は着いたときから停電していた。

 まぁこれ、東へ行くだけの移動と考えればこんなもんかもしれない。しかし南疆観光という点でいうと、肝心の博物館をみれていないのでその点で後悔をしている。


2011/12/14 水 ヤルカンド → ホータン

 ヤルカンド → ホータン バス 45元
 ヤルカンドのバザールなどを朝のあいだにちらっとながめてバス(北京時間12時発)でホータンへ。ヤルカンドのバスターミナル発ホータン行きは一日一本しかない。12時発だが荷物をつんだりして一時間くらいおくれた。しかし道の状況がよく、ホータンには早めの18時(新疆時間の16時)についたが、東バスターミナルをさがすのに手間どり、帰りにバザールをみにいったときには日がくれてしまう。
 宿だが、交通賓館ではシャワーなしで100元、happyhotelではシャワーありで100元といわれ、happyhotelのほうにしたが、部屋の鍵がなかったりトイレ兼シャワーの電気がつかなかったりして、どうせ100元はらうなら交通賓館でよかったなと後悔する。まぁしかしこの地域、一人で旅したら宿さがしだけで相当面倒くさいことになりそうだ。二人でよかったのだが、しかしこの同行者、東の方へ早く行きたいという希望があり、明日の朝の且末行きを買ってしまったのでついにホータンの博物館をあきらめることになった。うーむむ

 今日もいい天気でよかった。これで寒かったら目もあてられない。
 且末行きは朝の11時だけで、8時間でつくという。旅行人の情報だと13時間なので相当速くなったことになる。


2011/12/13 火 カシュガル → メルケト → ヤルカンド

 カシュガル → メルケト バス 30元
 メルケト → ヤルカンド バス 14元
 朝10時(新疆時間8時)ごろに宿をでる。昨日よりあたたかい。しかし寒さが記憶にのこり、この寒さの中あるきまわりたくなかったので一気にヤルカンドに行けないかとおもって駅にいってみたが、列車の時間にちかすぎて切符が買えない。しかたないので南バスターミナルまで行ってメルケト行きにのる。メルキトまでの道で砂漠みたいなところは一部だけだった。そこでトイレ休憩もあった。
 メルケトに行ってみたけど中国の町になっていておもしろそうなところがあんまりない。時間も結構あったので飯くってグルっと一回りしてからヤルカンド行きにのった。カシュガル→メルケトは約3時間30元。メルケト→ヤルカンドは約1時間14元。ヤルカンドはヤルカンド賓館しか外国人は泊まれずしかも高いと聞いていたが、バスターミナルの横の交通賓館で泊まれた。2人で90元。日もくれたので他の宿も探さずに新市街と旧市街の境目まで歩いていって飯だけくって帰ってきた。

 夜中に目がさめたので日記を書く。今日はカシュガルに居たときのような寒さがなくて観光するにはよい一日だった。最初にヤルカンド行きの列車でもたもたしてなければもっと時間をつかえたとはおもう。ヤルカンドは駅と町の間が四、五キロ離れていてしかも市バスが走っていないらしい。もっともそれは交通賓館で聞いた情報なので本当かどうかわからないが、飯をくいにいったときにバス停の行き先をチェックしたかぎりでは駅まで行くバスはなかった。うーむ。


2011/12/12 月 カシュガル

 明日出発することにした。

 また下痢か.... 腹の調子もよくなったとてラグマン食ったらこの結果か...

 鳥ラグマンをくってきたついでに旧英国領事館をのぞきにいったら、レストランになっていた。あんなんだったっけ。

 裕固族 - 维基百科
 ユグル族というのがいて、古代ウイグルのいきのこりらしいが、そのユグル族のうちトルコ系の言語をはなす者の言語はトルコ語の北東語群のハカス語やショル語に近いということになっているらしい。

 天山山脈の天山というのはTengri-Taghの直訳なんだろうとおもって調べてみたら、漢代に天山といえばハミの北にある山のことを指していたらしい。匈奴がこの山を神聖視していたので、がんばってそこまで勢力をのばした結果が河西回廊というわけか。すごい執念だな。
 西突厥がこのあたりにいて唐が支配下においたとき、天山を天山と言ったりしたようだが、それは結局Tengri-Taghなんだろうか。
 しかしその後、明ごろまで天山といえばやはりハミの北の山であるらしい。やはり勢力範囲にないと名前がつけられないんだろう。

 青海に行こうとおもっているが、あんまり寒いので若羌から敦煌の方に迂回するかもしれない。バスがあれば。やっぱり今の装備で氷点下十度以下はきびしい。
 今なぜかウルムチ方面から東に行く鉄道の切符がとりづらくなっているらしい。上海方面まで行くつもりなのになぜかカシュガルまで来た日本人がいて、中国鉄道部のサイトで実際に調べてみたら全然取れない。中国本部からウルムチまで来た時のことをおもいだしてモデルコースを提案したが、どうもそれですら二日後くらいでないと取れないようだ。そろそろ出発しようとおもっていたのでいっしょに南疆をまわることになった。ということであるいは西安まで一気に行くかもしれない。


2011/12/11 日 カシュガル

 Sultan Said Khan - Wikipedia
 むちゃくちゃわかりやすくまとめてある。

 カシュガルにチニバグホテルというのがあり、イギリス領事館の場所ににたてられたもので裏には領事館の建物が保存してある(はず)。チニバグというのは china-bagh ということのようだが、これが最初清の駐屯地があったところではなかろうか。

 エイティガールの向かいのビルの地下に ihlas というスーパーが入っているが、これはトルコ系のようだ。


2011/12/10 土 カシュガル

 もうアフガン疲れも体調も全復したものとみなす。

 カシュガルのエスキシャフル(古城)とエンギシャフル(新城)をみにいってきた。エスキシャフルのありそうなところあたりは団地を今まさに作っているところで、あんまり真面目に探さなかったというのもあるが、それらしいものがみつからなかった。エスキシャフルは今のカシュガルの旧市街(コフナシャフル:旧城)の前にあった市街地のあとで、19世紀後半には廃墟としてのこっていたところだ。エンギシャフルは今の疏勒県のことで、もともとはカシュガルの西にあった清の軍隊の駐屯地が叛乱のときにこわされたので新しく拠点としてつかえる土地をえらんでつくったものであるらしい。行ってみたら、中心部にでかく塀で囲った所があり、表札もないが警備が厳重だった。たぶん今もカシュガルをおさえる役目をしているんだろう。旧市街らしいものはなにもなく、中国の町的な町だった。
 イギリスのカシュガル派遣団のレポートに各地方の地誌がのっていてようやくそのカシュガルのあたりまで読んだところだが、ホータンやヤルカンドは、ヤークーブベク政権が入ってきたときの戦争のために荒廃してしまったらしい。ヤルカンドなどはカシュガルよりも町の規模は大きかったと書いてあった。また、フェルガナ盆地方面からの入植者がかなりいた他、バダフシャンやアフガニスタンやカシミールあたりからの住人もいたらしい。あと、フェルガナ盆地から来た人達は「イスラム的な統治」をしていたらしく、清のころの方が良くも悪くも自由だった、みたいな書き方がされている。
 アクスの古名がアルダビルとか書いてあるけど本当だろうか。
 クチャのホジャたちは清の支配を覆すのに重要な役割をはたしたが、ヤークーブベク政権の支配を確実にするため滅ぼされた、みたいなことが書いてある。こうしてみるとヤークーブベク政権が短命だったのは左宗棠ががんばったからというだけでもなさそう。

 どうでもいいが、wild pig と再三書いてあることから、19世紀のイギリスには猪がいなかったんだろうということがわかる。


2011/12/09 金 カシュガル

 昨日一日ろくにものもくわずに寝てくらしたら、下痢もなにも出なくなったので今日は普通に飯食うことにする。

 昨日国会図書館の近代ライブラリをひさしぶりにみたら昭和のファイルが増えていたのでCSVをながめていたところ、中国共産党についての同時代の本が結構あったので一冊おとしてみた。このあたりのはpdfのDBの巻号が00010から始まっているようで、スクリプトでうまくおとせなかった。原因がわからずにRefererをかますとかいろいろやったが結局巻号の問題とわかってそこをむりに書きかえたりして落としたが、今朝よくよくみたら一応そういう場合にも対応できるようにスクリプトを作っていたことをすっかりわすれていた。
 そういうと、HDDがこわれたせいで、国会図書館とか早稲田古典籍から落とした本も消えてしまったんだなぁとおもいだし、またガッカリさせられた。

 昨日一日本格的に寝ていたおかげかなんか体調いい。

 弱めたポリオウイルスを飲ませるのと偽薬をのませるホメオパシーはちょっとちがうとおもう。日本でも弱めたポリオウイルスをのませる予防法はおこなわれてそれは生ワクチンといわれている。まぁ考え方は似てなくもないので、だから医療系なのにホメオパシーに騙される人がいるんだとおもうが。

 昼飯は食わなかったが晩飯は食いたくなって色満賓館の近くにあるパキスタン料理屋でダルを食ってきた。18元もとられた。
 そこにいたパキスタン人と話をしたが、ギルギットバダフシャン政府と新疆自治区政府のとりきめで、ギルギットバダフシャンの人間にだけ、ボーダーパスというものを発行しているそうだ。それは新疆のみ行けるらしい。しかもギルギットバダフシャン政府の範囲だけなので、イスラマバードから飛行機で行くとかできないらしい。
 あと、フンジェラーブの国境は年末まで開いているそうだ。で、新年から四月まで閉じていると。

 土木学会附属土木図書館 デジタルアーカイブス
 「デジタルアーカイブ」でググったらこんなのみつけた。戦前の土木関係名著100選(しかもpdfで公開)とか土木絵葉書(橋梁・トンネル・ダムみたいな分類で配列)とか変なものがたくさんあっておもしろい。


2011/12/08 木 カシュガル

 ワラノート:戦前の本に載ってた「恋愛成功の心得」を淡々と貼っていく

 うーむ。下痢が黒いのは出血しているのか、チョコレートのくいすぎか。
 胃か十二指腸からの出血の可能性もありか... 十二指腸潰瘍とかだったら困るな。ただ昨日一昨日はチョコレートも大量に買ってきて食っていたのでとりあえずチョコ断ちをするか。

 血が酸とまじると黒くなるものであるらしい。だから黒い血がまじっている場合、胃の周辺で出血していると。ガン系の場合は素人療法では何もしようがないが、ただの出血の場合は普通にケガしているのとおなじだから絶食などが有効だとか。発熱とか気分がわるいとか他の症状がないのでとりあえず絶食の方向で。

 poehali.orgがついに地図のサンプル提供を停止することになったようで、アクセスが集中しているのか、ほしい部分の地図がおとせない。

 クレジットカードでどれだけ金をおろしたか確認してみると、中央アジアでは言うほど金をつかっていない。10月使用分11月使用分それぞれ4万弱程度の請求しかないので、3000元程度しか使っていないことになる。移動費や宿代が高くても小さい範囲でうごきまわっているのでそんなにかからないということか。しかもドルとか余ったし。どうしようこのドル。
 20ドル(おおまかに1000キルギスソム=100ソモニ=1000アフガニ=50000ウズベクスム)とかでビビっていたけど今のレートだと130元とかそんなもんなんよな。うーむ。中国なら普通にちょっとした都市間のバスの移動でそれくらいかかることもあるわけで。

 ということで今日はスーパーに大瓶のジュースを買いにいった以外は寝てくらしていたが、上段のアメリカ人も夕方まで寝ていた。彼がなぜ寝ていたのかは知らない。


2011/12/07 水 カシュガル

 東北地方太平洋沖地震 発生地点・規模・時刻分布図(2011/10/15) - YouTube

 【速報】Googleにお前らの年齢、性別、趣味がバレバレ!!!
 みてみた。

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 年齢とか性別はなかった。

 11.04 - /tmp directory doesnt show flash(streaming) youtube videos in firefox 4, why? - Ask Ubuntu - Stack Exchange
 file /proc/*/fd/* 2>/dev/null | grep Flash
 あいかわらず /tmp にflashファイルが保存されているが、そのファイルはdeletedということになって普通にlsしても見えないということで、/proc/にあるリンクからナニすればナニできる。

 メリット勲章 - Wikipedia
 こうメンバーを一覧するとやっぱり日露戦争後の叙勲は異例すぎる。

 ボツになった「テレビ産業壊滅の真相」記事 凋落の兆しは2004年からあった

 @nifty:デイリーポータルZ:ベトナムの格闘技・ボビナムって何だ?
 うーんこれ起源はどこになるんだろう。1945というのがまたあやしい。もっと古いと空手とかムエタイみたいに明清の中国武術起源というのが普通になるのだが。まぁ伝統武術とか書いてあるから、中国武術みたいなのが伝わってたんだろうか。あとベトナムの北部なのか中部なのか南部なのか。

 ロプ湖を探検したら狭いトンネルを通りぬけて一つ目の人の国にたどりつき、最終的に中国人につかまり22年かかって故郷にもどってきたとかいう話がのってるな..

 そういうと、パキスタンに入ったときに、中国でポリオが流行しているとかでポリオワクチンなるものを飲まされたことがあったが、そもそもポリオの常在国とされるのがインドパキスタンアフガニスタンとナイジェリアで、南アジアでは特にパシュトゥン人がいるあたりがその地域になっているらしい。おまえの国に多いんやないか!しかも経口で飲まされるワクチンは、弱めたポリオウイルスそのものらしく、それによってポリオに感染することもあるらしい。おい! ということは、新疆で流行ってるとかいうポリオは普通に考えてパキスタンからもちこまれたものに違いない。

 なんか昨日からひどい下痢になっている。なぜか今回の旅行では新疆にいるときは腹の具合がよくならない。どういうことか。外見がどうみても中国人だからウイグル料理の飯屋にはいると影で変なものまぜられたりしていたりするんだろうかとおもわなくもない。


2011/12/06 火 カシュガル

 農家の平均年齢はなぜ70歳近辺なのか? - ロストテクノロジ研究会

 雪の中風呂をもとめて町のなかに出たが風呂はみつからず、足が濡れてグチョグチョになった。布鞋の底が割れているからすぐ水がしみる。

 カラコルム峠ってインダス川の支流のシヨク川の最上流部とヤルカンド川の最上流部を区切る峠なのか。
 カラコルム峠よりも、レーのすぐ側にあるレーからシヨク川水系に越える峠の方が高い。
 Karakoram pass - India Travel Forum | IndiaMike.com
 これによるとカラコルム峠にインド側から行くには軍のパーミットをとらないといけないそうだ。

 Lob は楼蘭のことだろうが Katak ってどこのことか。


2011/12/05 月 カシュガル

 やっぱり昨日までは元気がなかったようで、今朝になってようやく早起きできた。

 終末期の人工栄養補給、中止可能に…学会指針案 : 読売新聞
 いいことですな。

 米脂県志新中国版、今ごろになって手にいれたが、米脂県は蒙古国時代に始めて設置されたらしい。
 同治年間には、回民起義軍なるものが関中から米脂のあたりまで進軍してきていたらしい。

 カシュガルの初雪。

 炎上で儲ける中国版フリーミアム「炒作」=大根アニキの逆転劇 | KINBRICKS NOW
 北京の不動産価格が半値になった?!誤訳が生み出すトンデモ中国崩壊論 | KINBRICKS NOW

 「食べて応援」は幻想だ|農家の婿のブログ
 「疲弊する地方経済」の象徴である農協巡りで見た不良債権: やまもといちろう

 カシュガルにいたパンジャブ人カシュミール人アフガン人による連隊の命令言語が英語というのはなかなかおもしろいことで。
 あと中国人の軍隊もいたということなんだが、どういう軍隊なんだろう。八旗なんだろうか。


2011/12/04 日 カシュガル

 请诸位断断照片里的这户人家的阶级成分 - 国学数典论坛

 石油を韓国で備蓄するとかバカすぎる。

 たかが中国のビザのためにアフガニスタンを5日できりあげてバカだおれとかおもったがそもそもウズベキスタンのビザ自体そんなに長くなく、どっちにしても切りあげざるをえなかったわけで、最初の計画がそうだったんだからしかたないといえばしかたない。タジキスタンだけにしておけば帰りにウズベキスタンももうすこし見れてよかったんだろう。ただのつめこみすぎか。
 しかしアフガニスタンのせいかどうかしらないがハードディスクがこわれたのは痛い。システムの総入れかえとかしたくてもできなくなった。それにそのHDDにいれてたデータが死んでしまっている。あれからあのHDDに通電していないが、音からして物理的に壊れているのは確実だ。中国で2.5インチのHDDを買うのも手だが、中国はモノの扱いが粗雑なので売っている製品でも壊れやすいおそれがある。SSDもまだそんなに安くない。うーむ。

 ついにこの部屋に一人となった。カシュガルのユースホステルもガラガラだ。

 陸前高田市「浸水域に市街地作ります」 教訓全く生かされない事に 働くモノニュース
 大人口を受けいれられるのは平野だし、三陸地方で平野部は貴重だろうから町から離れたくないならしかたない。山陰地方の人口が少ないのは平野が少ないから。中国山脈から海岸線までみっちり山なので、鳥取市周辺とか出雲平野は貴重な存在。

 今ごろ知ったが、この12/1にヤルカンドで地震があったらしいが建物は倒れたが死人はでていないとのこと。

 わりと近くの市場のまわりのナン屋は特殊なナンを売っているところが多く、クッキー状のナンやパイ状のナンがあった。というわけでヤグナン ..クッキー状のナンも簡単にみつかった。

 グーグル地図の航空写真でロプノールのあたりをみると、謎の大プールがあるような具合になっているがあれはなんだろう。核実験場は軍事機密だから変な画像で隠しているんだろうか。

 ヤルカンドカシュガル派遣隊の報告を読んでたら、スコットランドのバグパイプを披露する場面というのがでてきた。どうも例の服装でやっているようなので、あんなとこまでその道具と服装をもってきているということであるらしい。

 この後のルートとしては南彊→青海の、前に失敗したルートを逆から再挑戦というところだろうか。

 北千住駅 徒歩15分 鍵付個室 テレビ完備・LAN有り - ルームシェアジャパン
 この間取りは!押上で住んでたところに似ている.. 日割というのもおなじ。初期費用がないのはちがうな。近いところなので、押上の業者のやりかたを真似したのではなかろうか。


2011/12/03 土 カシュガル

 昨日寝て暮したのは休養のためだが、今日寝て暮すのに意味はない。

 グーグルのブラウザがなぜか簡体字が表示されようになったままいつまでたってもなおらないので中国サイトをときどき見る身としては腹だたしい。ubuntuのデフォルトのfirefoxも8になってわりと表示がはやくなってきたので、firefoxにもどることにした。まぁあとは出したままにしてたらいつのまにかものすごく重くなる症状が改善されているかどうかだな。

 ロクサネはロシャネということだが、そんならアレクサンドロスはアレシャンドロスなんだろうか。


2011/12/02 金 カシュガル

 昨日一日寝て暮したけど今日も寝て暮す。

 すぐ近くにある公安局に行って、あと90日くらい中国にいれるということを確認してきた。

 auの携帯について調べてみた。次は G'zOneIS11CA にしようかとおもってるので、どれくらいつかえるのかとかそういうことだ。でもauってiphoneも使えるようになってるのな。携帯の課金もスマホ用のネットし放題課金体系があって、月に6000円弱とかとられるらしい。iphone 用の課金体系と大差ないので iphone でもいいような気もしてきた。まぁまだまだ先の話なのでまだ様子見。いちおう IS11CA は耐水耐衝撃をうたっているのでそれだけでも値打ちはある。しかしネット代って高いな...
 今使っているE03CAの充電池は裏から飛びでているほどでかく、そのおかげで写真とりまくっても問題なく使えているのだが、最近の携帯の電池はそれとおなじくらいの容量があるらしい。技術の進歩ってすごいなぁ。
 あと、IS11CA はGSMに対応しているらしいが、SIMカードが挿せるわけではないらしい。海外向けサービスがあって、海外でも囲いこんでがっつりもうけようという腹のようだ。まぁそらそうか。

 地球の歩き方にカシュガルにヤグナンというナンがあってバターと卵をつかっていて甘いとか書いてあるらしい。本当にそんなもんあるのか? (→ その後みつけた)


2011/12/01 木 カシュガル

 テルメズから大移動してカシュガルまで来た。途中タシュケントで博物館をみようかとおもっていたけど月曜休館にぶつかったのですっとばしてオシュに向かい、オシュで博物館をみようとしたがちょうどカシュガルに向かう日本人二人とあったのでオシュにはとどまらずにカシュガルに向かって今にいたる。疲れた。詳細はこれから書く。

 11/27
 テルメズ → タシュケント バス 26000スム
 バスは朝の八時のはずなのに九時くらいに出発するが、テルメズのある平原から山へさしかかったところの検問でしばらく停止。やがて同じ道をひきかえしだす。雪で峠越えが警察に許可されないということであるらしい。隣にすわってた人がしばらくしきりに携帯で話をしていたが、飛行機での移動なんかも検討している模様。携帯での話が終わったみたいなのでいろいろ聞いてみると、鉄道で行くと40000スムくらいでいけるらしい。鉄道はトゥルクメニスタンをとおるとおもっていたが、通らないとのこと。
 バスがバスターミナルにもどり、きっちり払い戻しをうける。ロシア語もろくにわからない外人ということで、いろいろ親切にしてもらった。その札束をもって鉄道の駅へ。

 テルメズ → タシュケント 鉄道 座席 22000スム
 駅に行ってみたら寝台はないが座席があるとのこと。しかも22000スム。今日の午後2時発で翌6時ごろ到着だという。そこまで鉄道が使えるとはおもっていなかった。受付嬢の対応も親切だった。
 列車に入ってみるとどこからみても寝台っぽい。寝台なのかと誤解したが、一番上の段は荷物置き場で、中段下段の二つを三人で使うという形だった。どうもアフガニスタンの影響で怪しい人間が多いようにみえるのだが、一部は気にしすぎだったとおもう。本当に怪しいのもいたが。結局外人は客だからということで、中段に寝かせてもらった。

 11/28
 タシュケントの駅についたのが5時すぎ。雪が降りつもって外に出るのもおっくうだ。しかも腹の具合が悪く、トイレをさがすのに難儀した。この日は月曜で、タシュケントにある博物館の多くは休み。要するに来た意味がなくなった。駅でフェルガナ盆地方面に行く車がどこから出るのか聞いたら、事前に調べていたバザールの名前を言ってくれる人もいたが、英語つかいのねーちゃんがでてきて、駅のちかくからアンディジャンやフェルガナ行きの乗合タクシーがでていると教えてくれた。

 タシュケント → アンディジャン 乗合タクシー 50000スム
 フェルガナ盆地方面行きの乗合タクシー乗り場にいくと、フェルガナ行きもアンディジャン行きも50000スムである。フェルガナに行ってアポなしで人とあうというのもすこし考えていたが、金に違いがないし、アフガン帰りがフェルガナ盆地に滞留したりするとまた国境の役人にあらぬ疑いをかけられて嫌なおもいをするので、早朝にタシュケントについたのを幸い、一気にオシュまで行くことにした。
 なかなか人があつまらず、6時くらいにタクシーにのったのに、出発したのは8時ごろ。運転手は屈強そうだが眠たそうで、眠気解消のためにいろいろやっているのがわかる。まぁそれはともかく、雪の峠を越えて、フェルガナ盆地に降り、ナマンガン方面を通ってアンディジャンに到着したのが二時すぎ。ここで、もう10000スムで国境まで行くといわれたがことわった。

 アンディジャン → ホジャバード マルシュルートカ 1000スム
 ホジャバード → ドストリックの国境 マルシュルートカ 2000スム
 アンディジャンのエンギ(新)バザールのマルシュルートカ乗り場に行くとこれからすぐホジャバード行きがでるところだった。あっというまにホジャバードに着き、ホジャバードではドストリック行きの乗り場まで数百メートルをローカルのマルシュルートカにタダでのせてもらった。そしてこっちもすぐに出発。このマルシュルートカがドストリックのバスターミナルではなく、国境まで行ってくれたわけだが、そのかわり1000スム余計にとられた。今からおもうと、バスターミナルで降りて両替してからもう1000スム払って国境に行くようにすればよかった。なんとなれば国境の前で中にはいるまで随分待たされたからだ。

 ここの国境の門番はツーリスト優先とか知らず、普通に並ばされる。そして延々2時間さむい中を待たされた。しかも横からどんどん割り込みがはいる。しかもスリみたいな奴もいた。なんで番号で管理しないのかわからないがしてないんだからしかたない。
 中に入っても税関の前に人がたかっていて、少しづつしか入れない。外で二時間待たされたのが響いて万事休すの感があり、もうどうでもいいやとおもって防寒シートにくるまってガタガタ震えていたら、ようやく警備の人が中にいれてくれた。
 中に入ったらようやくツーリスト優先でやってくれたが、日がくれたうえに時々ブレーカが落ちるので時々真っ暗になる。荷物チェックのときに電気がおちて嫌な感じだった。荷物チェックのときに金入れを優先的にみたりしていたが、もはや気にしないことにした。
 ゲート前で散々待たされたので、キルギス側に行くころには真っ暗だった。キルギス側はチェックもないも同然で、ハンコをおして暗い中にでておしまいだった。出るとマルシュルートカがいそうな気配はないが、タクシーの運転手がうざい。そういうときはさっさと離れるクセがあるのでどんどんオシュ方面まで歩いた。オシュまで一時間あまり歩けば着く。途中警察に道を聞いたらパスポートをとりあげられたりしていやな思いをしたが、まぁそれはどうでもいい。
 オシュに到着したがバザールのあたりは真っ暗で両替してくれそうな気配もない。しかたないのでなんとかオシュゲストハウスまで行ってみたら日本人が二人いた。しかし彼らは西に行くのではなく、自分とおなじくカシュガル方面へ行くのであった。
 しかもカシュガル方面へ出発するのは明日で、途中サリタシュで一泊するとかいう。どうもロンプラにのっている"Super friendly"な宿が気になるらしい。一人でいくよりもグループになって行った方がいいのは確実だが、そうするとオシュの博物館を見れない。しかし行くなら国境まで一気に行きたい...とかなんとか考えていたが、ついていくことにした。彼らのキルギスソムをつかいあとで中国元で返済すればキルギスソムを必要以上にもたなくて済む。

 11/29
 オシュ → グリチャ 車 150ソム
 グリチャ → ソフィクルガン 車 150ソム
 ソフィクルガン → サリタシュ トラックの荷台 タダ
 さて翌朝、とりあえず残ったウズベクスムをキルギスソムに両替してみて、悪いレートにガッカリしたあと、オシュゲストハウスを出てバザールのサリタシュ行き乗合タクシーのりばにいく。この日は今までの悪天候とはうってかわって天気もよくそこまで寒くない。
 行ってみたのはいいが、タクシーの運転手はみな一人1500ソムとかふざけた値段を言ってくる。三人で4500ソム、約100ドル。下がっても一人1000ソムだった。しばらくほかを探してみたがふっかけてくるのばかり。しかし中にグリチャに行くという車が150ソムとか言っているのがあった。そのときもう一人が一台3000ソムで交渉をまとめてきたところだったが、ここで強硬に150ソムのグリチャ行きにのるのを主張。自分からすればサリタシュに泊まるのも国境までまっすぐ行かない点でおなじだから一人でもグリチャ行きにのることを主張して無理矢理こっちにした。
 グリチャまではゆるやかな丘陵状の谷をのぼっていく。グリチャに着いて町への入口のロータリーにおろされ、そこで新しい車をみつけろといわれたが、天気がよいので他の二人の不満もあんまり感じられない。しかしサリタシュ行きがすぐにみつからない。ソフィクルガンとかいうところまで行くという車があった。どこだそれは? 他にソフィクルガンまでなら乗せてやるという車があったので、とりあえずそれに乗ることにした。150ソム。若者の車だった。自分の予想では、ソフィクルガンは寒村でこのグリチャの町に買い物にでかけてきたのではないかというものだったがだいたいそれで当っていた。ノートパソコンをひらいてソ連軍事地図をみると、グリチャから峡谷に入り、サリタシュまで登っていく。サリタシュの手前で3600メートル級の峠を越え、それと大差ない高原にある村がサリタシュということになる。その峡谷のちょうど中間にあるのがソフィクルガンだった。
 道路標識ではソプクルガンと書いてあったので、ソフィクルガンというのはロシア語表記なのだろう。その寒村のガソリンスタンドの近くでとまったが、どうもこの若者たち、次の車をさがしてくれるらしい。しかしなかなかみつからない。彼らはしきりにこの車はしょぼくて行けないという。3600メートル級の峠はそんなにすごいところなのか?
 結局次の車はみつからず、そのソフィクルガンの南にあるレストランにつれていってここで飯くっていたらトラックが来てのせてくれるとかなんとかいう。まぁしかたないので飯をくってから外にでたらちょうどトラックがそのレストランの前にはいってきて、自動車整備屋の前に止まった。かけよってサリタシュまでのせてくれ、荷台でもいいからというと、快諾。しかし寒いぞといわれる。
 荷台にのり、運転席にのっていた三人の防寒具を貸してもらって荷台にのる。荷台にはフェルトのようなものが半分積んであって、前半分があいていた。観光トラックだとはしゃいでいた。しかしそこからどんどん高度をあげていくにしたがって、雪がふえ、路面が凍結していく。寒いというのが並の寒さではないとわかったのはかなり上に来てからだった。3600メートル級の峠は伊達ではなく、雪と氷の世界だった。ながめはよかったが、非常に寒い。
 サリタシュに降りたときにはガチガチに体が冷えていた。サリタシュも3000m以上はありそうな感じで、一面雪にうもれている。売店でちょっと物を買ってどこに宿があるのか聞くと、あっちのアンテナのあるところだという。他数人に聞いてもそうだったのでそのアイダゲストハウスというのにいってみた。
 そうすると一泊二食こみで500ソムとか言われた。他の一人が交渉して450まで下がるがそれにしても高い。高いんだが、体があんまり冷えたので抗弁する気にもなれずそれでおちついた。電熱線剥き出しの自家製ストーブのようなものがあってそれが暖かい。宿代が高いのは電熱線の電気代のせいだろうということにして自分達を納得させることにした。

 11/30
 サリタシュ → イルケシュタム トラック タダ(他の二人がのったトラックは二人で500ソム、飯代も200ソム余計に払わされていた)
 さてトラックヒッチだが、朝からトラックの走る気配がない。しかしここでダラダラしていてもしかたないので、時間を決めてガソリンスタンドまで行ったところ、ガソリンスタンドに着いたとたんにトラックが来る。二人は前にのった。そのとき値段交渉をしていた。自分は別れてその後続のトラックにのった。この二台は組で、おそらく親子なんだとおもうが、その若者の方もトラック代500ソムだと言ってきた。そこで金がないというとそれで沙汰やみになった。実際「キルギスソムにかぎれば」のこり20ソムしかのこっていないんだからしかたない。
 サリタシュからイルケシュタムまでは高原状の地形がつづき、しかも一面雪で単調だった。イルケシュタムに着いたら12時をまわっていて昼休み。ということで運転手二人と三人は飯屋にはいったわけだが、こっちは金がないと言った建前上何か食うわけにはいかない。最後の20ソムで買ったクッキーを食った。まぁ茶とナンののこりはくわせてもらった。

 キルギス側国境だが、イミグレにたどりつく前にいろいろ呼びとめられた。どうも因縁をつけて金をせびりとろうとしているようだったがしつこくないので難なくかわせる。出国印をおしてもらい、またトラックにのって中国側へ。中国側の手前にトラックがつまっており、そこでサリタシュからの運転手とわかれて、中国側のチェックポストで登録をすませたあと、三台のトラックに分乗して中国側のイミグレに到着。
 中国側だが、明らかにまだこの仕事に慣れていない若者たちが仕事していて、どうでもいいことを質問したりしていた。まぁしかし総じて印象はよかった。英語を話す人がいてつききりでいてくれたので、中国語でなんとかするという技を出すこともなかった。荷物チェックも全然たいしたことなかった。

 イルケシュタム → カシュガル トラック 三人で200元
 イルケシュタムの中国側に出ると、みるからに小汚なかった。ゴミに対する感覚が違うからにちがいない。それはともかく他の二人がその辺の商店で両替したあと、カシュガル行きの車をさがしたがみつからない。どうも乗合タクシーがないっぽい。そうこうしていると、中国側国境前の警備している人がトラックに声をかけてくれた。金の話になったので三人で200元と言うと最終的にそれでおちついて乗ることになった。
 しかしこのトラックの運転手、結構疲れていたようで、安全運転で行ったあげく、途中で30分ほど寝ていた。結局カシュガルの近くについたのが北京時間の2時をすぎていて、カシュガルの町の中にトラックが入れなくなっていたらしい。そこで朝まで寝て翌朝カシュガルに行こうということになった。
 運転席に運転手の他二人が座り、後部座席の半分を荷物が占めのこりの半分に一人がなんとかおちつくという態勢で、順繰りにうしろに入り、最後に自分がうしろに入ってそのまま疲れがでて寝てしまい、以後ずーっと自分が寝ていたが、のこりの二人は寝づらい座席で寝ることになってしまい相当不満がたまってしまったようだった。その後、北京時間の4時すぎになってその辺をはしっているタクシーをつかまえ、金を運転手が出すからそれに乗っていけということになった。そんならもっと早くしてほしかったがしかたない。そしてなんとかユースホステルに辿りつき、ベッドにありついた。

 さてカシュガルに着いてみると、なぜか例の漫画描きの埼玉人と再会してしまった。どうもパキスタンがあきらめられずビシュケクとカシュガルを往復したりしていたらしい。

 【画像あり】日本の都道府県を同じ位のGDPを持つ国で示した地図が面白い | うましかニュース

 google地図のカシュガルのあたり、家一軒一軒がわかるくらいこまかい航空写真がのってた。昔は地図ですらろくに表示されていなかったので、隔世の感がある。


2011/11/26 土 テルメズ

 昨日の雨が雪に変わって寒い。

 タシュケント行きの夜行バスがあるとおもっていたが、なかった。バスターミナルに行ってみると、タシュケント行きは朝8時発のみで、前日に切符を買う必要があるという。26000スム。たぶん防衛上の理由でそうなったんだろう。直通の乗合タクシーは100,000スム。さすがにここで40ドル相当の金をはらってタシュケントまで行くつもりはない。そういう訳で明日のバスの券を買い、もう一泊して骨休みすることにした。とはいえ、バスだと朝八時発で夜八時着なんだわな... また夜到着か。さすがにタシュケントは大丈夫だとおもいたいが。

 テルメズ考古学博物館 5000スム + カメラ5000スム
 テルメズの考古学博物館だが、切符の係のおっさんが汚い。まず最初金を払ったとき、切符をくれなかった。さらに、カメラ代として金をはらわされたが、切符を要求したら普通の券を二枚くれただけだった。つまりカメラ代というのはおっさんが余計に懐にいれるために要求しているものだった。最初は電気もつけてくれなかったので、そんなところから要求しなければならなかったが、展示ケースの中にも電灯があるのにそこに明かりがなく、床の反射でケースが白かった。二階をみていると、途中で電気が消えて、午後2時にまたこいという。この町の他のところは停電していなかったので、わざと消したのは明白だ。バスのチケットがあるつもりで一回チェックアウトしたり、バスのチケットを買いにいったり、両替をためしたりといろいろしてから、二時前にいくと普通に電気がついている。途中で下にいってトイレにいったらトイレ代5000とかほざいているので何言っているのかわからないふりをして無視した。上で写真とっていると、3時くらいに上に来て、なぜフラッシュたかないんだとか言ったり、3時20分に閉めるからさっさとでてけみたいなことを言う。フラッシュを使えと勧めてくる時点で展示物のことなど一つも考えていないことがわかる。カメラ代の券でちょっと腹立っていたので、そのおっさんの写真をとったらそれからおとなしくなった。3時20分くらいに一階にいったときには他の人が一階の展示の展示ケースの中の電気もつけてくれた。おっさんの指示なのは明白だ。
 さてそれはそれとして、予想していたよりも画像とか像とかが少かった。壷だらけだったわけだが、高坏の形がおもしろかった。せかされたせいで、後半はあんまり写真とれていないが、イスラム以前はだいたいとれたのでよしとしよう。でも床の反射でよくわからんのよな。壷だらけだからいいか。遺物自体はかんなり綺麗だった。

 USBHDDがひとつこわれていた。カブールでクソ検査されたときにこわれたのか、なにかのはずみにこわれたのか。まぁ簡単にこわれるものだというものの、今までなんともなかったので、カブールでのウンコ検査のときに、それが何かわからず叩いたりしたにちがいない。中国HDDと私用HDDは大丈夫で、中国以外HDDが壊れていた。つまり地図とか言語関係とかがはいっていたHDDが異音をたててしまうようになった。通電すると一応回りだすのだが、ギャギャギャーンみたいな音をすぐたてるようになってしまう。物理的にこわれたっぽい。地図とか中国系でいっぱい落としてとりあえずそこにつっこんでいたものが消えてしまった。なんとかしてとりあえず読めるようにならんのだろうか。

 テレビでインド映画の「ロボット」やってたのでずっとつけてる。長いな。ロシア語吹替え。吹替えというか、映画の音はそのままで、吹替えが上から被せてある。しかしそれでも内容がわかりやすいので問題ない。博物館から帰って最初みてたのはソ連映画だった。ロシア語のチャンネルばかり。
 実のところ昨日書いてた日記がおわらなかったので今日も書いてた。長すぎだわな。しかし移動距離が長いとこういうことになる。


2011/11/25 金 (マザリシャリフ → カブール → ) マザリシャリフ → テルメズ

 テルメズのホテルラムズまでもどってきた。アフガンのボロ宿で10ドルとられたことを考えるとこれだけ設備がととのっていて10ドルというのはすばらしい。カブールまで行ったわけだが、カブールなんかまでいかずに北部でブラブラしてたらよかったとおもう。特にカブールの新市街に行ったのは失敗だった。あんなところ行くもんじゃない。
 通貨のアフガニだが、口頭ではルピーとかダラーと言う。最初はからかわれているのかとおもったが、すぐにそういうもんなんだとわかった。だいたいアフガニなんて言われてもアフガニスタン人とかアフガン関係の物のことと混乱するしそうなるんだろう。なんか字数がおおいのでここではafgと書くことにする。

 11/22
 マザリシャリフ → カーブル バス 500afg
 カブール市内中心へ タクシー 150afg
 カブールへ行くことにし、宿をとりあえず出て東へむかう。来しなにここがカブール行きのバスターミナルだと言われたところまで行くつもりだったが結構遠く、時間がかかってしまった。後知恵でいうと、ここは乗合タクシーで20afgで行けるところだった。カブール行きのバスターミナルにはバスがとまっていて、人が満員になり次第出発する。無駄に歩いたので10時くらいの出発となってしまった。8時間くらいかかるはずだから、着くのは日が沈んでからになる。カブールに暗くなってからか....とわかっていて乗ってしまった自分は頭がおかしいんだろう。
 その日は前日の好天から打ってかわって山が霞んでみえないような、空がガスっている感じの天気だった。マザリシャリフから東に荒野をずーっといくとタシュクルガンの町がありそこから山へ入っていく。タシュクルガンの町はドーム型の泥でできた建物が多く、行ったらおもしろそうだった。城らしきものもあった。その辺りザクロの産地であるようで、ザクロを赤い袋につめて赤く飾った露店がたくさんならんでいた。
 タシュクルガンの狭い地峡から山へ入っていくと、そこから草原状のなだらかな山地になっていた。なっていたのだが、だんだん霧がかかってよくみえなかった。よくみえなかったので寝てしまいますますなにがなにやらという状態になった。サマンガンとかいつ通ったのかおぼえていない。ポレフムリの長いバザールで渋滞になり、そこから本格的に山のなかにはいっていく。
 しかしサラン峠だが、特に険しいこともなく、広い谷がここまで延々とつづいている。狭かったのはタシュクルガンの地峡くらい。雪さえなんとかすれば大軍の移動も可能っぽかった。サラン峠をこえたあたりで日が暮れてきた。カブールについたら真っ暗になっているだろうとおもったが、バスターミナルについたら飯屋で泊まれるだろうと高をくくっていた。しかし夜に到着した報いは明らかな形であらわれる。バスはいろんな所で客をおろしたが、最後に着いたのはよくわからないまっくらなロータリーだった。
 あとでわかったことだが、バスターミナル的な場所があり、そこには予想どおり飯屋があって泊まることができた。しかしこのときそこに着いた方がよかったかどうかはわからない。そのことはカーブルからの帰りのくだりで書く。とにかく真っ暗なところで降ろされ途方にくれたのだが、同時におりた乗客たちがタクシーをつかまえて安宿に送れといってくれた。150afgもするらしいが背に腹は変えられない。そしてつれられたところがこれまたよくわからない市街地であった。真っ暗でいかにも危険である。さらに一応宿の前に送ってくれたみたいだが、その宿自体が3000afgとかするし、タクシーの運ちゃんは200afgを要求する。最初に安宿を紹介したけどこっちのほうが安全だと言って連れてきたんだからその分余計によこせということらしい。無視して150afgおしつけて降り、とりあえず最初に紹介言ってくれた宿の方へ歩いていったが、最初の角にいた警察に道をたずねてみた。
 さーて、この警官だが、近づくとまずパスポートを要求する。そしてこっちが後生大事に持っていた孔雀の羽をつまんで捨てたのだった。おぉ。パスポートを確認すると、背中に背負っているリュックの方ではなく、肩から下げている紅軍カバンの方のチェックを要求する。そしてザっとみたあげく、100円ショップで買った白葉書の束を奪い、言ってよしの合図をしたのだった。要するに札束のようにみえたものを奪ったのである。
 とにかくなんとかそれをとりかえしたわけだが、それはいろいろゴネた結果、白い紙の束だとわかったからにすぎない。これでカブールの警察を信用できなくなった。さて、一応安い宿はどこだと聞くと来た方向を指ししめすので、戻ってみたが、さっきの高そうな宿の前にいたガードのような連中は打ってかわって受けいれない。ケチな外人はおことわりということだろう。しかし親切な人がひとりいて、すぐちかくにゲストハウスがある、と教えてくれた。
 その宿、ユーロゲストハウスだが、一番安いのが50ドルであった。無理なので、安い宿はどこにある、と聞くとザルネガルのあたりにあるという。そこまで歩いていくなら右へ、というのだがその方向はますます寂しい通りである。タクシーにのるなら戻れという。しかし50ドルは払えないので、もどり、さっきの強盗警官のいる角を強盗警官に近づかないようにしながら曲がり、最初に安宿だとタクシーの運ちゃんが言ってたところに行ってみた。少しは店のならぶ通りで、歩くのも心強い。
 そこは40ドル相当であった。もうすこし下がりそうだが、10ドルくらいまでは下がらない。しかたないのでそこもあきらめ、安い宿はどこにあるときくと、さらに右になんとかホテルというのがあって安いという。行ってみたが、どっからみても安宿ではない。角までいくと検問があって警官のようなのがいる。ここはどこなのか聞いても要領をえない。

 困ったわけだが、そこで助け舟を出してくれたのが、その検問所の横にあった飯屋であった。おっさんがいて、この飯屋の奥の台所に泊まっていけ、100afgでいい、前にも日本人が泊まって行ったというのである。しかしそのおっさんは助け舟を出してくれたのはいいものの、そのまま去っていってしまった。さてその後店番にのこった者の一人が孔雀みたいな目をしたやつだが、こいつがとんでもないやつだった。
 その後とりあえず飯をくい、警察みたいな人のすこし偉そうなのが来て数時間いた。まぁうさんくさいのが泊まるからとりあえずしばらくチェックにきたわけだ。下働きみたいなのがもう仕事も終りだというので飯をくってテレビをみだした。どうも中世の魔女を主題にした英語のドラマのようだ。まぁこっちは何も言うことはないのだが、その間に店番のやつが裏の方でリュックをひっくりかえしていたのである。それがわかったとき、警察に言われたからやったと言っていたが、まずリュックの下に孔雀の羽を敷いたまま物を出したりしていたので孔雀の羽がむちゃくちゃになった。そして出した荷物はリュックのなかにムチャクチャにして入れなおしていた。わかったときに全部出して調べなおしたが、未開封のものが全部開けてある。石鹸とか、人にもらったよくわからない朝鮮人参ペーストとか。みつけたときにはイヤホンとかを手にしていたので、他にも何か盗ろうとしてないか調べてみたら、ポケットの中からボールペンとか朝鮮アメとか、すぐにはわかりそうにないものがつっこまれていた。
 要するにチェックをするような資格のないものにチェックをさせたので、好奇心が先にたち、物取りまでしたということであった。そのチェックがはじまった前に、トイレがどこにあるのか聞いて行ったのが疑惑をさそい、警察の偉いさんからチェックをしろと言われたのかもしれない。とにかく腹がたったわけだが泊めてもらう方であるうえに今から追いだされたらさらに困る。そこは再三行ったり来たりしていた近所の店の若いの数人がきて一応間に立ってくれた。彼らはまともな人間である。孔雀の羽はともかく、リュックの中の整理ができたと前向きに考えることにした。
 その騒ぎがあってとりあえず今晩の支払いを先に清算しようということで、宿代100afgにくわえて飯代200afgをとられたがそこはしかたがない。おっさんは飯代に120以上払うなと注意してくれたが、そんなことは言ってもしかたない。金がないので近所の店の若いのに10ドル両替してもらった。しかしその後、その店番のやつがうざい。とにかくものをくれものをくれと言う。その焦点がUSBハードディスクに定まってきて、うざいので、そういうことを言いだしたらそいつの頬をつねってもう一回言ってみろと言うことにした。もう子供の躾状態である。
 とりあえず寝ることにしたが、今度はそいつがテレビをつけて大音量でサッカーをみだした。どうもテレビをみながらこっちも同時に監視しているような感じである。しかしこっちからすると監視されているというよりはリュックの中身をねらわれているようにしかみえない。がたがた言ってもしかたないので、奥の台所で寝た。一時になったら店をしめるとか言ってたのに、一眠りした二時過ぎになってもまだテレビをみている。うるさい上に安心できないのでどうも寝ることができない。しかたないので電源のある店のカウンターに行って携帯でとった写真の整理をしようとしたが、そのときになって携帯のUSBコネクタを紛失しているのに気付いた。これはいつも紅軍カバンの筆入れの中に入れているので、チェックでなくなったものではない。しかたがない。下働きの若いのも寝ているんだからテレビを消せ、こっちにきて写真でもみろという風に誘った。それで博物館の写真を延々と見せたのだがすぐに飽きたらしく、セックスムービーはないのかとか音楽はないのかとかいろいろ聞いてきた。ないねー。結局それで店をしめる気になったらしく、あちこち閉めていったが、トイレに行くところまで鍵をかけていった。そのときは嫌がらせだとおもっていたが、あとでその意味がわかる。
 さて、トイレに行けなくなると、頻尿の自分としては大変こまることになる。特に今日は茶を結構のまされた。朝になって結構冷えてきたし。まぁしょうがないので洗面台で何回か放尿した。
 店がしまると、この店に外人がいることがわかって襲撃されたりするんじゃないかと変な妄想しながら朝まで寝ていた。奥の台所に通じるカーテンは開けたままである。店の向うの道に車がとまっているのがみえる。今からおもうと監視していたんだとおもう。

 11/23 カブール
 朝になると昨日の親切なおっさんが店をあけ朝のしこみをやりにきた。昨日はちょうどそのおっさんが仕事を終えて帰るときに際会したわけだ。とりあえず奥から店の中にうつる。親切なおっさんはあっちの方にいくと外人がどうこうと言ってくれるわけだがやはりよくわからない。店の中で所在なくリュックの修理などをしていた。おっさんや下働きの人は自分など放置して店の準備に一生懸命である。あいかわらず現在地がどこかわからなかったのだが、隣の薬屋の英語できるやつが出勤してきたので、チキンストリートというのがどこにあるか、と聞いてようやく現在地がわかった。まぁ昨日からチキンストリートを聞いてたわけだが、チキンストリートというのは英語の旅行者の文化の中での通り名なわけで、ローカルの人はそんなの言われてもわからんようだった。
 その店の場所は内務省のすぐ横で、カブールでも警戒厳重な場所の一つであった。そら裏のトイレに出る鍵もしめるわ。場所がわかり、さてその内務省の前を通ってチキンストリートにいこうとすると、例の検問で再度荷物のチェックである。昨日の夜検問所にいたやつがきて、荷物をぐちゃぐちゃにされたりした事も知っていたので、一回全チェックしているからいいのでは、みたいなことを言ってくれたが、その朝チェックしていた係のやつは聞かない。というわけで全チェックで時間がかかる。その内務省の前の狭いところを出るときもまたチェック。どこに行くんだみたいなことをまた聞かれる。
 なんとか検問がいっぱいあるところを通りぬけ、チキンストリートに入ってみて安宿を聞くと、一応名前を言われるが、そこへ来た男がゲストハウスへ案内してやるというのでてっきりそのゲストハウスだとおもって着いていくとチキンストリートから外れてどっかよくわからないところへいく。値段を聞くと30ドルだとかいう。冗談じゃない。またチキンストリートにもどって宿さがしを継続すると、通りの中ほどにまた警官がいた。こいつがまたわかりやすい。金入れにまっすぐ手をやってそれをとろうとする。抵抗すると、パスポートをポケットにつっこんで行ってよしの合図。パスポートと大声でわめいてなんとかとりもどした。
 あぁもうこのチキンストリートも戻りたくなくなってきた。その先がチキンストリートが違うストリート名にかわる交差点で、ゲストハウスが一つあったが30ドルとか言う。はぁ。その先の違う通りに入っていくと、英語を話す人が話しかけてきた。まぁ飯でも食おうみたいなことを言ってくれたわけだが、この時点でもうカブール新市街中心部に安心して滞在できなくなってきた。外人が昔あつまっていた通りの真ん中にいる警官が物を盗ろうとするわけだから安心なんかできない。しかしまたその一方で、カブールは危ないところだという意識もあった。とにかくあれこれ見物するのはやめてカブール博物館だけ行ってマザリシャリフにもどろうと、そういう算段になった。
 英語を話す人はアメリカの情報機関の人だった。組織名は書かない。他にもパキスタンの情報機関がいたりするらしい。CIDだとか。で、あなたは日本の何なんだと水をさそってくるが、別に情報機関でもなんでもなくツーリストで、警官が物を盗ろうとするのでカブールはもういやになったから博物館だけみてとっとと去りたいがとりあえず今は安宿をさがしている旨つたえると、自分の飯を調達してから道をもどって、一応チェックした安宿の並びにあった宿を紹介してくれた。しかしそこも30ドルでどんなに下げても20ドル相当(1000afg)。とにかく背負っているリュックが邪魔だしそれが疑惑をよぶようなので、とりあえずそれだけ置いて博物館行って帰ってきてそのままマザリシャリフ行きをさがすから安くしてくれと言っても聞いてくれない。交渉しているうちに、アホらしくなってきた。

 どうせ向こうはこっちの足元をみて、金を搾りとろうとしているだけなのだ。とにかく博物館が開いている時間がどんどん過ぎていく。そっちの方が大事だ。ということで、交渉はうちきってさっさと博物館のある方へ歩くことにした。
 歩いてわかったのは、その新市街エリアを出ると、全然チェックされないことだ。ヒゲでハゲの中国人かウズベク人かよくわからないのが汚いリュックと緑色の肩掛けカバンを持って歩いていても、誰何すらされない。ザルナガルらしきところまで歩き、その角でタクシー待ちかなにかしていた白いヒゲのいかにも信心深そうなおっさんに、博物館まで行きたいがどうしたらいいのか、と聞いてみると、乗合タクシーをつかまえてくれて、20afgと値段まで言ってくれた。あ、安い。それで路線をもつ乗合タクシーがカブールにあることがわかった。運ちゃんも親切で、博物館の角でちゃんとおろしてくれ、あれが博物館だ、とおしえてくれた。あぁアフガニスタン。

 カブール博物館 200afgだったっけ (今チケットを探してみたがみつからない)
 カブール博物館に入るときにも荷物検査があるが、物取りみたいなのはなかった。一人でぶらぶらしている奴がやばいだろう。
 切符のおばさんは英語ができて、写真とり放題だった。ノーフラッシュとは言われたが。一応順番にならんでいるようであんまり順番がない。仏像や、仏教でもない女神の像なんてものもあった。ここの係員は親切で、一箇所光をおとしている新収蔵品展示みたいなところがあったが、こっちが一々写真を撮っていると明かりをつけてくれたりした。
 そういう像以外にもガズナ周辺のガズナ朝の物とか、ヌーリスタンの木像とかいろいろおもしろいものがあったんだが、これでも展示してない物がおおいらしい。
 さて写真も撮りまくってこれから帰るころかというころ、下のフロアに新しい客があらわれていた。どうも日本人がまじっているグループで、よくわからない。そのスーツ姿とかをみて、ああいうのが外人として狙われ、新市街に逃げこんでいるんだろうなぁとおもった。

 さて、博物館をみおわり、歩いて道をもどった。ここからは客がすくないので、20afgで帰れないだろうとおもったわけだ。道々写真とったがあんまり文句もいわれない。一度、学校の前でモスクの写真をとったら、ちょうど下校時間の生徒連中があつまってきて、何写真とってんだみたいな雰囲気になってやばかったが、さっさと逃げだした。やっぱりああいう原理原則を硬直的に適用する原理主義ってのは子供がひっかかりやすいんだろう。タジキスタンのマドラサでもそんな感じだったし。
 相当歩いて、城壁のちかくの角までくると車の流量もふえて乗合タクシーも客をいっぱいのせていたので、サっと乗った。そしたらザルナガルからすこし離れたところにおろされた。さっさと20afg払ったわけだが、「この外人値段を知ってるぞ」みたいなことを言って客から外人は50afgとか冗談をいわれた。まぁしかしそういう、外人からはたくさんとってやろうという意識がアフガニスタンでは相当普通にあるもんだという感触がある。まぁしかしその一方で、これからマザリシャリフにいくんだがみたいな事をいうと、わざわざ紙に行きかたを書いてくれた。しかし、その方法はあるところまでタクシーで200afgでいってそこからバスで300afgとかいうものだったのでそれにはしたがわず、とりあえずザルナガルまで歩いてもどった。そのとき旧市街がどこにあるのか知った。もっと早く知っていれば。リュックを背負って歩いていたって何もいわれない。警察やその辺の人に道を聞いても、なぜか「マザリシャリフ」が通じず、「マザリシャリーフ」とか言ってもわけわからんからどっかいけみたいな振りをされるばかりであった。
 ザルナガルの角まで行くと、そこにパークホテルというのがあった。これがロンプラにのっていた安宿か、とちょっと感慨深かったが、ここは今は外人をうけいれないらしい。ここからマザリシャリフ行きのバスが出るところまで一直線に行けるはずなので、とりあえずそのパークホテルの下に入っているネット屋でネットをした。ノートパソコンをつなげることができたので日記の更新がひさしぶりにできた。一時間60afg。

 ザルナガル → サライショマール バス 10afg
 サライショマールの飯屋 一泊晩飯込み 130afg (多分飯代だけで一泊分の金とられていない)
 さてネットを一時間ほどやるともう辺りは暗くなっている。うーむまた暗くなってからの移動か、とおもわなくもなかったが、夜中に出発するバスがあれば明日の朝にマザリシャリフに着くことができる。パークホテルで聞いたらとりあえずバスターミナルに行けとのこと。その辺の人に聞いたら、すぐ近くのホテルが外人を受けいれるのでそこで泊まって朝一のバスにのればよいみたいなことを言われたのでとりあえず行ってみたらここも一泊30ドル。しかたないのでとりあえず現金がまた乏しくなっていたので20ドル両替し、ザルナガルの角は南向きだけに制限されていたので、北向きレーンがある角までいってそのへんの人に聞くとタクシーで500とかなんとか言われる。困っていたら、あのバスにのってサライショマールまでいけばいいと教えてくれた。
 「あのバス」はまさしくサライショマールまで行くバスだった。人でいっぱいだったが、かなり四角くなっているリュックをかついでいるので運転席の横に案内された。料金の回収のときにはとなりに最初から座っていたヌーリスタンの人に10afgとおしえてもらってそのまま払ったが、あとで後ろの方から「日本人からどんだけ取ったんだ」みたいな声がでる。運転手は「ムスリムだから10afgでいいんだ」と言ってくれたのでムスリムじゃないとかなんとかそういう話題には一切ふれないことにした。
 サライショマールに着くと、となりのヌーリスタン人がバスのチケット売り場に案内してくれ、その横のレストランに泊まって翌朝5時くらいのバスにのればよいと言ってくれたのだが、そのときまだ今晩中に出発して翌朝到着することに未練のあった自分は最終的にそれを蹴ってしまった。そのとき自称警察とかいうのが数人でてきて、いろいろ言ったあげく、あっちにいけばこれから出る車があると言いだしたのである。他にも、レストランではなくてうちにとまってけという自称学生というのがでてきていたが、結局レストランに案内しようとしていたから、あれは本当だったのかもしれない。自称警察にうかうかとのったのは、新市街でアメリカの情報組織に出あい、私服でも普通なのかとおもったが、今からおもうとあれは情報組織だったから私服だったわけで、普通の警察が私服でうろうろしているわけがない。
 そのニセポリスについていくと、いきなりよこから車がでてきて、これからマザリシャリフに行くと言いだした。それに乗っていたのが部下をもっているコマンダーだから安心して乗れとか言ってくる。その時点で非常に怪しかったが、しぶっていると、マザリシャリフまで1200kmあるから明日の朝に着くとか寝言を言いだしたので、これはやばいとおもいさっさと離れ、レストランの方向へ歩きだした。するとそのコマンダーとか言われていた奴がおいかけてくる。なんだかんだと言ってくるんだが無視して歩いていると銃をもった軍人らしいのがでてきた。
 軍人らしいのと警官らしいのと他数人があらわれて、いろいろと誰何されたあげく、最終的には今あんまり金がないので高い宿にはとまれないというこっちの主張がとおってとりあえずレストランに泊まることになった。宿の方でもしぶった顔だったが、主人のような人が最終的には受けいれてくれ、番台の真横に泊めてくれた。レストランというのは要するに長い座敷があってそこで飯もくい、夜には横になって寝るというところで、そういう形式があるはずだとおもっていたがやっとみつけることができた。そもそもマザリシャリフでとまったパミールホテルもそういうレストランが本職だった。
 問題はその「コマンダー」がついてきて知り合い面していろいろ騒いで口をはさむことだ。アフガニスタンでおもしろいのは、警察とか軍人とかが勢揃いしていてもこういうのをどうにかしようとしない。せいぜいこいつに注意しろと注意してくれるだけだ。なんというかアフガニスタンの自由さみたいなものを感じた。いちおう宿の主人もこいつは怪しいとおもってくれたようで、飯をくっているときもこっちが散々無視かつ敵視したのも気にせず目の前に居座っていたのを、後では別のところに移動させていた。今からおもうとあれは隣に寝ようとしていたようである。
 さて「コマンダー」がどっかに案内されたが、番台の横だけあってなかなか寝る雰囲気にはならない。もう座りながら半分寝ていたら、毛布がきてとりあえず寝とけといわれた。わかりやすいことに隣のジイサンとの間に無理矢理割りこんできたデカいのがいた。せっかく安心して寝れるとおもったのに、また臨戦態勢で寝るのか、とうんざりした。
 とはいってもその隣の奴の側に隙間がないように毛布を餃子の皮のようにまき、紅軍カバンを抱いて寝るだけである。リュックは番台の横の隙間にはまっている。いちおう番台の横なので、敵もそんなに目立った動きはできない。つらいのは寝返りがうちづらいことだ。夜中も3時くらいを過ぎ、番台の人も寝てしまったころになって敵にうごきがあったが、こっちに手を挿しこむ隙間がないからどうしようもない。動きがあってこっちも半分目がさめ、横になって敵の動静をうかがっていたが、敵は簡単で、足でこっちが寝ているかどうか確かめてくるので足でさわってきたら蹴り、手がのびてきたら肘でつけばよい。それも飽きてきたらアグラをかいて毛布をまいて寝ることにした。タジキスタンのホルグで野宿したときのスタイルである。

 11/24 カブール → マザリシャリフ
 カブール → マザリシャリフ バス 500afg
 さて、4時くらいになるとクンドゥズタハールマザルのバスの時間になったから起きろみたいな声を見張りの人があげた。よくわからんかったので聞いてみると、マザリシャリフ行きも出るという。チケットなくても乗って金はらえばよいとのこと。行ってみたらまだ来ていなかったが、結局4時半くらいにバスが来て、乗ることができた。隣は家族連れ、これは幸先よいとおもっていたが、なかなか出発せず、寝てしまった。
 6時くらいに目がさめて気付いたら前の座席にいた人が変わっており、例の「コマンダー」が知らぬ顔して座っていた。そのときさすがに胸がどきどきした。うしろのおっさんもときどきこっちのことを覗いていたような気もするし、隣の家族連れ以外みな一味に囲まれているような気がしてくる。そのときさすがにヤバいとおもった。しかしもう席に座って切符は買ってしまいどうしようもない。
 しかしさすがにそのままだとやばいので、家族連れが不思議な顔をしているのも気にせず荷物をまとめてとりあえず降り、レストランのトイレにもどって小便しておちついてからもどって切符の払いもどしをしてもらうことにした。もうこれから出るといわれたが、それも聞かずにいると、切符をちぎって払いもどしに応じてくれた。六時にもなるとあたりも明るくなり、気がつけばほかにもマザリシャリフ行きのバスが客引きをしている。あんまり慌ててしまって、降りたバスからすぐ見えるバスに乗ってしまった。降りたバスは銃をかついだ軍人っぽい人がなんか止めたりしていたけど、結局そのまま走っていった。乗りかえたバスはベンツバスだったが、なかなか人がいっぱいにならず、一時間くらいは客引きして、8時前に出発した。
 さてサラン峠を逆に通っていくと、寒いなとはおもっていたが、トンネルのあたりは吹雪いていた。サマンガンのあたりはやはり霧がでていたが、行きのときよりは薄かった。このまま雨もなく無事にマザリシャリフにつくのかとおもっていたが、マザリシャリフにちかづくと雨が降っていた。これは面倒だとはおもっていたが、昨日の「コマンダー」一味の手のこんだやりかたといい、今朝「コマンダー」が前の席に座っていたことといい、どうにも安心できなかったので、こんなに激しい雨だと逆に追跡もしづらいのがいい。
 マザリシャリフについたら5時前くらいだった。土砂降りの雨。どうも最初から席にすわっていた人間以外信用できなくなっていたので隣の若いのがどうにも信用できない。しかもいっしょに行こうみたいな感じでいる。しかしそこで前の席に座っていたヒゲの信心深そうなおっさんがこれまた助けてくれたのだった。
 おっさんについていってタクシーにのり、相場よりは高いがそれなりの50afgをはらってマザリシャリフの中心に着いたときは、助かった心地がした。しかもおっさんは握手した手をにぎったまま、マザリシャリフの廟の敷地までつれていってくれた。おっさんは廟の前までいくと、そのまま廟に参拝するようで、そこで別れた。そしてまっすぐパミールホテルに行くと、どうも部屋がないようで、レストランの方に荷物を置けと言ってくれたのだった。

 これでパミールホテル用にとっていた500afg(10ドル相当)を全額消費せずにすみ、両替せずに飯を食うことができる。雨だったのでそれから一歩も外にでなかったが、一つわかったことがあった。前泊まったときもいた人たちがいたが、かれらの中に手の癖がわるい奴がいることだ。さりげなくポケットをさわり、どこにものがあるか確認しようとしている。もうスリの行動がなんとなくわかってきたので、気付いたらさりげなくポケットをおさえたり手を置いたりするようになった。そして、その手癖の悪い人の仲間がそれに気付いて、彼をなるべく自分の周りから遠ざけ、間にわりこんだりしてこっちを守ろうとしてくれていることもわかった。
 「コマンダー」みたいに手のこんだのはともかく、このへんの普通のスリは、中国の小説にでてくるような愛嬌のある存在だとおもった方がいいのかもしれない。こっちとしては強盗にさえであわなければ全然問題ない。そういう意味では、公権力を利用して財布に手をつっこもうとしてくるやつは強盗みたいなもんだとしかおもえない。
 パミールホテルでは飯代120afg、宿代130afgとられた。飯代もいれて安くあがったことに感謝したい。寝るときには、手癖の悪いやつが近くに寝ようと努力していた。ここでもサライショマールの飯屋での方法を応用して完全防備で寝たら、となりで寝る筈の店の奴も寝ていなかったが、まず問題なかった。寝具もいいものをくれたので、外は雪になっていたのに暑かったくらいだ。
 ちなみに前いたときにもいてしきりに声をかけてくれた人はホモだということがわかった。仲良くしつつも気をぬかずにアラビア語で話しかけてきたりしていた強面の人はたぶん警察とか軍隊関係で、宿に常駐して怪しい人間をチェックしているんだろう。もしくはあの宿自体軍隊関係なのかもしれない。マスードの軍隊で兵隊していたみたいなことを言う人もいた。あのおやじもただものではないんだろう。そういう意味でも他のカネカネうるさい宿よりも安心できる宿だと言える。

 11/25 マザリシャリフ → テルメズ
 中心 → ハイタラン行きタクシー乗り場 乗合タクシー 20afg
 マザリシャリフ → ハイタラン 乗合タクシー 160afg
 朝絵葉書でも出そうとおもっていたが、金曜(イスラム教の休日)で郵便局は休みだった。
 さて、パミールホテルでは自分を部屋にいれてもう一泊させたかったようで、しきりにバルフに行けといってくれたが、朝から雪で、それがかわって雨になったような天気で、まったく観光向けではない。それに12月の2日までにカシュガルに入りたいのであんまりブラブラしてもいられない。予定ではバルフは昨日の朝マザリシャリフについていたら行くという計画でいたので、バルフ行きはあきらめてテルメズにいくことにした。
 しかし宿でぐずぐずしていたせいで、ハイタラン行きの乗合タクシーがいた角にはなにもいない。その辺の人に聞いてみると、カブール行きのバスが出るところにハイタラン行きの乗合タクシーがでるところもあるという。ハイタランまで120afgだとか。まぁどうこう言ってもしかたないので20afgでそれにのり、カブール行きバスのりばをすぎると、あそこだと言っておろされた。ちょうど人がいっぱいになって出るところだったのでそれに乗りこむ。160afg。マザリシャリフから来たときはボられたのかとおもったが、同じ額だったので160afgが相場であるらしい。
 ハイタランではのこったアフガニをソムに両替しようとしたが、直接ソムに両替しようとするとレートがあんまりよくない。10ドルとソムにしたらそれなりのレートでできた。ドルが媒介通貨か。
 少額のアフガニを全部オレンジにして、それを食べながら国境を越えた。アフガン側ではろくに検査もなく登記するだけだった。アフガン側にいたトラックが乗せてくれたので橋を渡るのもラクだった。
 まぁ問題はウズベキスタン側の税関で、税関申告書を書きなおさせられたり、荷物を長ーい時間かけてジックリと検査したり、うっとおしかった。まぁアフガニスタンから変なのが来るのを阻止したいのはわかるが、こっちが散々嫌味を言ったので、それに応じて長くなっているようでもあった。まぁでもうっとおしい相手にご機嫌とりするほど人間できていない。なぜドルが100ドルちょいしかないのか、とか言われて、ウズベキスタンの国境の役人は汚い事で有名で金を取りあげたりするから現金を少額におさえているのだ、とか言ってやった。そういうつもりでドルを押さえているんだからしかたない。やはりここでも荷物を散々検査したあとで別室に連れていて、隠しもっているドルやユーロを出せとか言ってた。ジックリ検査したくせに、おわってから片付けていると今度はさっさと出ていけとうるさいからどうしようもない。そのせいでか孔雀の羽を忘れていってしまった。

 国境 → テルメズ市内 作業員の通勤バス タダ
 そこからバザールまでマルシュルートカで500ソム
 さてジックリ検査されたので時間がおそくなり5時前くらいになった。タクシーがうっとしかったが、無視して国境前の検問まで2kmの道を歩くうちに、作業員数人が帰るところに合流する。国境でうっとおしい役人に会ったところだったので、かなり心はずんだ。その人らについていって検問を越えると、テルメズから国境までおくろうとしてくれたけど、トラックがそろわず他のトラックにのせてくれた人がいた。これからタシュケントに行くから一緒にいこうとか言ってくれたけどまぁとりあえずテルメズにいくことにした。
 検問の先の分岐点の角で待っているとバスが来た。それでテルメズ市内のどこかに送られたわけだが、金を払っている様子もなく要求もされなかったので、通勤バスなんだろう。降りたところからしばらく歩いたが、雨が降っていたので結局マルシュルートカにのった。バザールでおりてホテルラムズへ。前回置き忘れていたものが残してあった。すばらしい。
 そして服を全部洗濯した。頭も刈ってヒゲも剃った。
 日本人の人もまだいた。協力隊とは違うルートで政府から民間に委託され、それでウズベキスタン専門で出向しているということがわかった。だからときにはJICAの仕事をすることもあるという。なかなか。


2011/11/21 月 テルメズ → マザリシャリフ

 タジキスタンの試練はウズベキスタンとアフガンの宿代の高さにビビらないための試練となった。

 テルメズのホテルラムズを出て、とりあえず国境の方に行く。タクシーはムチャクチャな値段をふっかけてくるので、とりあえず東の方に歩いていった。警察に聞くと国境はグラニッツァというらしい。昨日とおなじだった。まぁしかし10キロからあるはずなのでとりあえず通りかかった15番のマルシュルートカをとめて聞いてみたら、客が「2・1のマルシュルートカ」と言うが、運転手がとりあえず乗れという。ロシア語でなにか言っているが手振りからすると乗り換えたらいけるみたいなので、乗ってみた。するとトラックがとまっている所でおろしてくれ、トラックの運転手に交渉までしてくれた。
 さて例によってトラックに乗るとトラブルがおこるのか、そのトラック隊列の一台が来ないらしく、出発できない。その隊列の運転手はみんな兄弟で、乗せてくれた運転手には女が三人いて、とかそういうどうでもいいことまで知ってしまった。トラックのナンバーがドイツなので、そのことを聞いてみたところ、荷物自体はアメリカからで、バルト三国からロシアを抜け、ここまで来たそうだ。まぁしかし二時間くらいたっても揃わない。運転手の人もさすがにこらえられなくなったのか、違うトラックをつかまえてのせてくれた。
 という次第で結構な距離をトラックでのりこえ、ウズベキスタン国境までやってきた。アフガン側が川のむこうに見えるが、砂漠のようなものがみえる。まずトラックなどが止められる検問でおろされ、そこから2km歩く。ウズベク側のイミグレには、こんなところでも英語を話せる若い女性が配置されていた。ドルやユーロの大金をもってさえいなければウズベキスタンの国境は快適なものだろう。恒例の荷物チェックでは、荷物を一通り見たあと、荷物はそのままにしてから別室につれていかれ、身につけているドルかユーロを出せとか言われたが、荷物の方にあるというとすぐ解放された。関税申告書にある以上のドルやユーロの現金をかくしていたら取りあげるということだろう。まぁカードをなるべくつかい、現金をおさえる戦略をとっていればあんまり関係ない。まぁでもウズベキスタンの長期旅行はあんまりできないな。
 ウズベク側は軍事上重要な拠点ということで、何重にも検問があり、そのたびに話をさせられたが、アフガン側はらくちんだった。国境の手続きもどっかの検問で名前を登記する程度の手続きしかなかった。しかも係官の部屋に入って話しながらパスポートを渡すという緩いものだった。
 ウズベク側からアフガン側の間にある橋を越すためのタクシーがあるみたいだが、もちろん無視して歩いていった。そしたらスーツを着て箱状の荷物を手で引いたような人も二人歩いていた。その二人は商人かなにかで何度も越えているようだった。その総勢三人でアフガン国境に入ったから余計に緩く感じたのかもしれない。
 アフガン側のハイラタンで一人がわかれ、のこりの一人にマザリシャリフまでつれていってもらった。乗合タクシーだが、120アフガニと聞いていたが、乗るときに交渉しているのを聞いたら150アフガニで、降りたときには160アフガニとられた。この、アフガニスタンではちょっと余計に取られるというのはこれからついてまわるんだろう。だいたい飯の値段があるようでなく、金持ち系からは大目にとられる。ハイラタンの町でタクシーにのる前に飯をくったが、150アフガニとられた。

 ハイラタンの町で20ドル両替したが、950アフガニになった。1ドル48アフガニ弱というのが相場であるらしい。ウズベク側の国境側のトラックの運転手に聞いてまわったときもそうだった。
 アフガニスタンにはいったときの印象はパキスタンに似ているというもの。急に気候がよくなって暑いくらいになったのも影響しているが、商店の様子やシャルワールカミースを着ている感じがおんなじだ。アム川南岸はかなり奥まで砂漠で、なんもなかった。国境になったのもわからなくはない。しかしこれ、バクトリアとかいってたころからこんなに砂漠だったんだろうか。ソ連軍事地図をみると、南の山脈から流れでている川がつくる扇の中心にバルフがあり、その川はアム川にながれこむ前に砂漠の中へ消えている。よくよくみると、テルメズの南岸が谷状になっており、そっちに扇状になっている川のなかにそっちに流れる川もあってあとすこしのところで消えている。たぶんバルフからその川ぞいにテルメズまでいく道が昔の道で、扇状地の西に新しい運河をつくってそっちにも水を引いたところ、本流の水量が減って川が途中で消えてしまったというところだろうか。

 マザリシャリフに着いたのが16時。アフガン時間の15時半ごろ。宿をさがして廟のまわりをぐるっとまわったが、外人おことわりのところが多く、なんか狭いところに入ってパミールホテルというのをみつけたが、ベッドがふたつ置いてある部屋だけの部屋で500アフガニ(10ドル強)。テルメズのラムズホテルで10ドル払ったのと比べたらなんという差だろうか。
 その後、記憶にたよりながらロンプラアフガンにのっていたアモホテルというのにいったら部屋がないとことわられ、アリアホテルというのにいったら、ちょうどフィンランド人が個室に入るところで挨拶したが、宿の人に三人部屋を案内され、一ベッド500アフガニを三人分払って1500アフガニだとかほざく。そしてフィンランド人も最初はそこに泊まっていたとか言う。あんまりにも足元をみた商売でいやになり、とりあえずパミールホテルにもどってあやまり、おとなしく500アフガニをはらうことにした。
 パミールホテルはレストランをやっていた。アフガンの飯屋はお座敷形式で、座敷の上に座り、その真ん中に敷いたシートの上に皿をならべて食べる。そのホテルにとまっている客とかが一斉に会して食うのでなかなか見物だった。みんな意外と写真にとられたがっている。夕方そこにはいったときからずーっと座っている若者連中がいたが、これからイランへ出稼ぎにいくところであるらしい。

 さて飯もくって部屋にもどったら、部屋に内側からの鍵がない。なんとかしてくれといってもしてくれなかったので、しかたなしにベッドをうごかしてベッドで戸をおさえることにした。そういう宿なのに、飯代として150アフガニとられ、ハイラタンで両替した20ドルはほとんどなくなった。他の客からは70とっていたのだが。

 この部屋、一番奥にあるので、トイレとまちがえて来る人があり、結構頻繁にドアノブをひねられる。こわい。
 カブールまでバスで500アフガニくらいで行けるらしいんだが、行っていいものかどうか迷う。行けばATMがあるのでドルが減らないようにすることができるし、カブール博物館を見ることができる。

 マザリシャリフまでいっしょに来た人だが、ハイラタンのレストランのお座敷でシャルワールカミースに着替えていた。アリアホテルに居たフィンランド人もシャルワールカミースをきこんでいた。まぁ面倒を避けるためにはそういう心遣いをするべきなんだろう。

 マザリシャリフ正直暑いのだが、裏通りの方は泥まみれのところが残っているところをみるとこのあたりもちょっと前は雨が降りつづいて寒かったんだろう。


2011/11/20 日 ドシャンベ → テルメズ

 朝は霧がかかっていて見通しわるかった。それが午後になると快晴になり暑かった。

 朝、ホテルファルハングで一騒ぎしたあと、ATMで100ドルと100ソモニおろし、ひさしぶりに書いてみた絵葉書を出してからまたホテルファルハングにもどって一騒ぎしたので、出発がかなりおくれた。一騒ぎしたのは、朝になったらドルを返すとか意思表示してたのに、勝手にドルを両替していたため。だいたい夜中にドルは受けとらないみたいなことを言っていたのにそんなことになってなんか腹がたった。戻ってきたらその本人が帰宅していなかったので、これからウズベキスタンに行くんだからさっさとドル返せとゴネまくった。そしたらおばはん連中が強硬だったが男衆がなんとかしてくれた。ふー。

 ドシャンベのマルシュ8番の終点 → レガル マルシュ 5ソモニ
 レガル → 国境 乗合タクシー 5ソモニ
 国境 → デナウ 乗合タクシー 7000ソム (相場は6000ソムらしい)
 デナウ ダマスでバスターミナルまで移動 500ソム
 デナウ → テルメズ ミニバス 8000ソム
 ドシャンベでマルシュルートカ8番にのるとその終点から西方向の乗り物があつまっているところにいくということだったが、乗ってたマルシュルートカはその駐車場を越すと8番のカードをおろして違う行き先に変えてたので、あわてておりた。ちなみにはじめて市内交通のマルシュルートカに乗ったので値段がわからなかったが、1ソモニでいけたのでトロリーバスばっかり乗らずにマルシュルートカにも乗っておけばよかった。
 レガルに着いて国境行きをさがす。乗ってきたマルシュルートカの運転手はなんかあっちの方向指して国境行きのタクシーとかなんとか言っていたが、バザールの横のドシャンベ行きがたまっているところの奥から国境行きがでていた。「グラニッツア」みたいな名前だった。それを教えてくれたおっさんは5-3ソモニと言っていたが、12時すぎの昼どきで客がいないときに外人がきたので、運転手連中がいろいろうるさい。ちょうど腹も減っていたのでバザールの中に行ったらなかなかいい感じに飯屋がならんでいる一角があった。ショルパとポロウの大鍋ののったカマドが各店の前にそなえつけてあるがそういう店が10くらいあつまってその一角に並んでいた。ザラーっとみて真ん中のあんまり商売っ気のオーラが感じられないところを選択。オシュ(ポロウ)を食べたらお茶も飲んだのに5ソモニですんだ。安い。店のおやじが客に話していたところでは、どうもその町のどっかに外人が来て写真とっていったらあとで雑誌に載っていたらしい。ためしに帰りにおやじの写真とったら「これでタイムズに載る」みたいな冗談を飛ばしていた。なかなかおもしろかった。ここはウズベク語が優勢な街だった。
 飯くってから国境行きタクシーの溜り場にいくと飯時をすこし過ぎて客もあつまっていたようで、いっぱいまであと一人の乗合タクシーに5ソモニで乗れた。
 国境だが、タジク側では出国係の若い奴がダラダラと話しかけてきていつまでたっても通してくれない。他に仕事が来たらこっちは放りだしてそっちを優先する。外人とか、なんか特別な書類仕事が必要な案件だけが彼の仕事らしく、ヒマそうだった。あんまり長いのでローカルを相手にしている方のおっさんが若い奴に注意してくれたのでなんとか解放してくれた。ウズベク側だが、こっちは入国スタンプをおしてもらうまではスイスイだった。しかしやはり税関で面倒があった。税関の前に行くと今まで先に行ってた人たちがたまっていて、税関申告書を書いたりしている。やはりというかなんというか、ウズベク側が全然仕事をしていない。男と女のラインに分かれているようだが、女ラインは動いているのに男ラインの方の係はあっちいったりこっちいったりして全然仕事していなかった。ツーリストということで例のごとく特別扱いでそのラインをすっとばせた。税関申告書は一回書いているので簡単だった。荷物チェック係がうっとおしかったが、こっちの荷物の中身をみるとすぐやる気をなくすようだ。しかし一応別室みたいなところに通されたが、そこの係が「金をここに並べろ」とか言いだす。ハァ?みたいな顔をしたら、すぐに話の先をかえて、薬物はないかヘロインはないかとか言いだした。それでろくに検査もせずに解放してくれたので金をなんとか搾りとるのが目的だったんだろう。そして面倒くさそうな相手にはかかわらないんだろう。そういうと女ラインにならんでいたおばちゃんに英語がよくできる人がいて、その人が通訳みたいなことをしてくれたが、その役得でラインをすっとばしていた。
 両替の人がたくさんいたが、レートがあんまりよくない。タジク側とウズベク側の中間のところにいた人のレートがそんなに悪くなく、1ソモニ=500ソムで両替してくれた。
 タジク側とウズベク側で時間がかかったがなんとか3時半くらいには出れた。出るとタクシーがたまっていて、やっぱりふっかけてくる。英語つかいのおばちゃんが言ってたのだが、テルメズまで乗合タクシーで25000ソム(10ドルくらい)だという。それが50ドルとか言ってくる。相手にしてられないのでとりあえず歩いていった。運ちゃんの中にデナウまでいったらバスがあるのでおれのデナウ行くにのれと言う人がいて、わりとしつこかった。10000ソム(4ドル)とか言ってくるのでどうしようか迷いその辺の道端で座っていた人に相場を聞くと6000であるらしい。結局助手席にのってたおっさんが、おれも7000払ってんだみたいなことを言いだしたのでその値段で乗ることにした。
 デナウに到着すると他の乗客のおばちゃんといっしょにテルメズ方面のバスのりばへいくダマスに乗り換えた。500ソム。乗り場につくとそのダマスのおっさんがこれでテルメズ行こうとか言いだしたり、タクシーの運ちゃんが集まってきてうざかったりしたが、おばちゃんがさっさと自分の行く方向のワゴンに乗りかえていたのでその横にあったテルメズ行きのミニバス(大型ワゴンみたいな感じ)にのることができた。これが意外と速く、16時半くらいに出たのが18時半くらいにはテルメズに着いていた。英語のおばちゃんが4時間とか言ってたのでもっとかかるもんだと覚悟していたのに。

 ミニバスの中にいた学生連中も、ミニバスの運転手の人もホテルメロディアンが安いという。そこに行く気になっていたが、そこまで行く安い手段がなかなかみつからない。あるところで聞くと、あこのタクシーなら500で行ってくれると言ってたのでその方向にいって適当に聞いてたら、8番のマルシュルートカの運転手の人がいきなり英語で話しかけてきた。
 その運ちゃんは、メロディアンは外人には高くて50000ソムだがおれがもっと安い20000ソムのところを紹介してやると言いだす。それで乗ったのだが、その運ちゃんとにかく飯を食いにいって話をしようという。俺はつかれてるから飯よりもまずホテルに行きたいといっても、どうしても会食したいらしい。運賃はタダ。とりあえず先にホテルに行って、それからということになった。30分後またくるとか行ってその運ちゃんは去っていった。
 結局そのホテルに25000ソムで泊まれたが設備がよくお湯も熱いのが出るしドシャンベのクソホテルにくらべると数倍いい。ホルグドシャンベの60ドルタクシーを経験した後だと金銭感覚がだいぶ違うようになった。あとドルも十分(といっても200ドル余りだが)用意したので余裕がある。ちょろっとシャワーを浴び洗濯とかしてから、運ちゃんが来るのを待っていたが、いつまでたってもこない。このホテルの人はロシア語つかいとウズベク語つかいしかいないので、なんとかそのことを説明しようとしたができない。そうすると、上に日本人がいると言いだした。どうも会いにくる「ともだち」のことをその日本人と勘違いして言ってくれたようだが、まぁせっかくなのでそれにのっかって会いにいってみた。そしたらヒゲの日本人がいた。灌漑関係の仕事で来ているそうだ。その人によるとここは安いしフロントの感じがいいのでここにしたという。実際感じが無茶苦茶いい。
 そしてここはバザールからそんなに遠くないところのようで、バスが到着したのもバザールの前。歩きまわる必要もなかったようだ。


2011/11/19 土 ホルグ → ドシャンベ

 さてもう19日か。これから先移動だらけになる。気合をいれて12月3日までにカシュガルへ戻れるようにしないと、中国ビザが切れてしまう。まぁ切れたって入国するだけならできるから最悪の問題はないが。

 朝、ドシャンベ行きの車たまり場に行くと、ドシャンベ行きのランドクルーザーは300ソモニ。60ドルか..... 相変わらず朝から雨。モスクワに行くという大学生がいて、その人に聞いても300-200であるらしい。どうするか決めあぐねたが、ドルで払えばいけるのでとりあえず乗ることにした。そのとき、なんか調子のいい運転手を選んでしまった。そのとき何時くらいに着くのかとか全然聞かなかった。
 いざ乗ってみると後部座席のうしろでしかも二人座席に三人並んだ真ん中。そういうとイスタラフシャンから乗ったときもそんな感じだったが、あのときは値段に差がついてたしなぁ...
 しかしその隣りに座った奴がなんかおかしい。警察の身分証らしきものをわざわざ見せてくる。昨日ニセポリスみたいなやつも似たようなものをみせてたなぁ... イスタラフシャンのときは兵隊で、やっぱり軍人証とかいろいろみせてきていた。金を出して勘定しているが、300ソモニちょいしかない。最初は払う分を勘定しているのかとおもったが、出して勘定して懐にしまっただけで、300ちょうどではない。暑いから上着を脱ごうとか言ってくる。イスタラフシャンのときの兵隊も調子いいやつだったが、そこまではしなかった。イスタラフシャンのときは席が狭かったこともあったが、ビッチリくっついてきていたので安定感があり乗り心地はかなりよかった。今回はねらったかのように、片方が席を広くとると、片方が狭くとり、なんというか席におちつかない。イスタラフシャンでもらった孔雀の羽を後生大事に手にもったりしていると、それはどうしたとか聞くのはいいが、捨ててしまえとか手振りで言ってくる。うーむ。今までにない反応だな... 今からおもうと、人のことを大事にしていない証拠であった。なにげなくポケットのあたりに手を置いてきたりする。大事なものは上着のポケットのチャックつきのところに入っているのでどうでもいいのだが、気味がわるい。
 他にもカメラを出して撮れとか言ったり、携帯をみたがったりしていたが、そういう疑惑が確信に変わったのは、夜になってから晩飯食ったところで、運転手がいきなり金を払えと言ってきたことだ。そのとき車の影にかくれて金を出したつもりだったが、なんかあやしいなとおもっていた奴がよく見えるところに移動していた。物盗りだ。しかも運転手もグルだ。
 しかし車は速かった。朝の10時くらいに出て、夜の1時すぎに着くんだから、三日がかりでホルグまで来たのが嘘のようだ。まぁそれを考えれば、夕方くらいに出るのに乗っていれば朝についたはずだった。しかしどっちにしても夜間を越すので、そのあたり、車内でのスリの危険は十分にある。
 あやしいやつであるが、夜になると手を出してきた。まぁ手を出してきてもこっちは物理的に簡単に取れそうなところに大事なものが入っていないのでなかなかとられようがない。しかし、片方だけではなく、両方だった。ただ、右側のはそんなに積極的ではなかったから、まぁ補助的な役割だったんだろう。
 そのときはドシャンベに着いたときのことを考えるとお先まっくらという感じだったが、前の普通の客に聞くと、この車は空港に行くのだという。空港に行けば宿もあるし、そこから8番のマルシュルートカに乗った終点からウズベキスタン方面に行く車が出ているという。なら問題ない。

 しかし、車がついたのはよくわからないところであった。タクシーが数台たまっている。さて荷物を全部そろえてから途方に暮れた。日付がかわってもう一時をまわっている。あやしい二人は車がむかえに来てさっさとどっかに行ってしまった。前の客はマジメそうなタクシーをどっかから呼んでそのまま空港へ行ってしまった。タクシーの運ちゃん相手に時間をつぶそうかとおもったが、とりあえずホテルファルハングに行ってみた。夜なので20ソモニもとられた。ファルハングに行くと、おばはんが60ソモニと行ってくる。空港に行くか、宿に行くならスタジアムにしたらよかったとおもったが、来てしまったものはしかたない。20ドルを抵当に取られ、60ソモニ(12ドル相当)もするけど水すら出ない部屋の布団にもぐってこれを書いている。
 今日だけで80ドル弱つかってしまったことになる。車を値切ることに精を出していれば半額くらいで朝に着くはずであった。なぜかドシャンベが全然寒くないので、野宿もしようとおもえばできた。ただ、スリに挟まれた原因として昨日のニセポリスでターゲットになっている可能性があったので、車がとまったところから歩いてどっかに行くのは途中でさらわれる危険があった。だからタクシーはやむをえない。一番よかったのは空港に行くことだろうが、それをせずに宿に行ってしまった。日付もかわっているドシャンベでどっかの宿に行くという事自体が愚かな行動だった。しかも中途半端なところに行ったので、ターゲットになっている可能性から逃れられない。さらにいえば、明日ウズベキスタンに行くというルートまで知られているので、待ち伏せされる可能性もある。今日のスリと昨日のニセポリスは別々で、しかも一回失敗したらすぐあきらめるというのがありえそうで一番ありがたいが、まぁ今は最悪の方向で考えたい(ビビってます)。
 今日乗った車はもう一台と組でドシャンベまで来ていたのに、もう一台が乗った車が停まったところまで合流しに来たときは客をどこかで降ろしてきていた。おそらく空港に直接行ってちゃんと降ろしたんだろう。あぁもうあやしすぎてこまる。

 ホルグ方面の地元の人はとても人がいいのだが、やはりああいう山奥に金をもった旅行者がうろうろしていると変なのも湧いてくるということだろう。アフガニスタン側のイシュカシムから奥のあたりは阿片の一大生産地であるらしいし。

 しかもホテルファルハングは60ソモニもする部屋のくせに水もでないときたもんだ。呪いたい。


2011/11/18 金 ホルグ

 朝になってわかったが、パミールロッジの敷地内で野宿していた。ドクターなんとかの家はパミールロッジの敷地内らしい。モスクもある。そして、温シャワーは昼まで待たないといけないらしいこともわかった。やはり人の親切は素直に受けておくべきであったか。パミールロッジの建物自体はしっかりできててこんなに豪華でいいのという感じだが、シーズンオフなのでドミトリーがなく、8ドルとかいわれた。7ドルにまけてくれたが、雪のせいで電気がない。やっぱり15ソモニの宿にしとけばよかった。

 アフガニスタン大使館に行ってみたら簡単にビザがとれた。即日。51ドル。30ドルくらいのはずが上がっているのは、それだけやばくなっているということか。しかし銀行に金を振り込む形式だった。ドルなんて普段もっていないので銀行の中で金入れの中からドルを出すという愚劣なことをしたら、帰り、ニセ警察に車のなかにおしこまれそうになって悲惨だった。たぶん銀行の中で現金持っている奴をみつける係がいて、そいつと連携していたんだろう。四人がかりで車におしこめられそうになって一時はどうなることかとおもった。まぁ昨日の荷物おろしが筋トレになったのか、押しこみきることができなかったのと、散々わめいたので人があつまってきてなんとかなった。押す係と引く係がいたな。今日はもう出歩かない。博物館も行くつもりだったけど行かない。しかしビザ代は30ドルくらいだとおもっていたが、51ドルになったのでドルキャッシュの残金が200ドルを切ってしまった。ビザ関係の手続きが終わったら銀行で50ドルくらいおろしとこうかとおもったけど、それもしない。

 雪と雨が降ったりやんだり。そういう湿気た雪だからみごとなボタン雪。道も水たまりだらけで鞋がぐちょぐちょだ。この鞋は中国の布鞋に毛がはえたようなもので、基本的に布鞋なので、上から水をかぶるとモロに浸水する。この宿には電気ストーブがあるのでなんとかなっているが。
 宿の人によると、こんなに雨が降るのははじめてらしい。うーむ。これ、タジキスタンだけではなくて、アフガニスタン側も降っているということだ。ううーむ。バダフシャン側から入ったら円を描くような感じでカーブルからマザリシャリフを通ってウズベキスタンに抜けれるのでできたらいいなとおもっていたが、雪で進めない状態になっていたらやばい。こちらからカブール方面へ行く道はどれも3000-4000m級の峠になる。うーむ。
 ロンプラアフガニスタン2007のpdfによると、イシュカシムの国境は月曜から木曜までしか開いていないとか書いてある。そもそも無理か。今日はじっくり寝て明日ドシャンベかクリャーブ行きにでも乗ろう。トラックにのれたらトラックの方が座りごこちも眺めもいいので最高だが、つかまえるために道で長時間自分の姿を暴露させるのはまずい。あのニセポリスの一党は銀行の中で金入れを出してたことを知っており、その中身が実は200ドル程度しか無いことは知らないだろうからまだターゲットになっているはずだ。
 まぁマザリシャリフとウズベキスタンだけなら200ドルでも十分足りるだろう。

 ニセポリスの一党が恐いとかなんとか言いながら空腹には勝てず、バザールまで飯食いにいってきた。バザールの周辺から車がでているのだが、夕方に行ったので運転手とか車とかいなかった。警察の服装した人にドシャンベまで今どれくらいするのか聞いてみると、350ソモニとか言う。50ソモニ10ドルで大雑把に計算しても70ドルで無茶苦茶高い。飛行機の値段じゃないかとおもうくらいだ。たしかにクリャーブまでの道はKKHなみにひどいのではあるが。まぁ事故ったりしてその分の相互扶助的なにかが働いているんじゃなかろうか。来るときもなんだかよくわからない理由で横転していたランドクルーザーがあったくらいだし。
 ロンプラみると200とか書いてあるからそれくらいになってる可能性あるなぁ。それにしても高い。ここしばらくの悪天候で飛行機のフライトもなくなったせいだろうか。
 その後ネット屋に行った。若干遅かったが、一時間3ソモニだった。イスタラフシャンとかでもそうだったしタジキスタンの相場としてはそれくらいなんだろう。
 博物館も行ったらよかったな。

 温シャワーというか温水がでる蛇口があるだけだったが洗濯もできるし言うことはない。といいつつ、乾かないとおもったので襟とか袖とかだけ洗濯した。


2011/11/17 木 カライフムのあたり → ホルグ

 なんとかホルグまできたが、また最悪の選択をして雪をながめながら朝を待とうとしている。バカすぎる。

 11/16 クリャーブでホルグ行きをさがすとソモニバザールにいけといわれるが、タクシーしかない。もうソモニもかなり減っているのでここは交通費をおさえたいところだ。バスターミナルとかミニバスとかないのかと聞くと、「シュロービー」とかいわれるのでその方向にとりあえず歩いていった。遠いとは言われていたが、本当に遠かった。歩いている途中で、映画俳優だったというおじいさんと道連れになり、そのおじいさんが地元の人の車をつかまえてくれたのでタダでいけた。
 シュロービーにあるアフトボクザル(バスの駅)というのは検問所のことだった。クリャーブとアフガン国境のあいだの峠にある。そこでトラックをつかまえてもらうというのがかなり普通におこなわれているらしく、詳しいことを聞かれもしないまま、ホルグに行くというトラックにのせてもらった。ただそれがつかまるまでのあいだ、ヒマそうな兵士があきらかに興味本位の荷物検査をした。どうということもない。のるときに検問所の人が運賃のことを言いだして100ソモニでのせてもらえることになった。その検問所の次にある検問所ではなぜかしつこく質問された。
 乗ったトラックはカマズというソ連トラックだが、かなりガタが来ているらしく、猛烈に遅い。下りでエンジンブレーキをめいっぱいつかって降りる。幸先悪いとおもった。乗っていた二人ともパミール人らしい。運転してない方がしきりに話しかけてきて、ロシアがパミールを分割したとか、タジク人は好きじゃないとかいろいろ言っておもしろかった。
 アフガニスタンとタジキスタンの国境の川だが、結構流量がある。風景はパキスタンのKKHに似ている。険しいので交通量はそんなに多くなかったんじゃなかろうか。アフガニスタン側には歩道が延々とつづいていた。クリャーブの先の峠をおりたところからしばらくは相当な悪路で、4WDとかランドクルーザーでないとスイスイとはいけないだろう。
 夕方頃通行止めで数時間止められた。いつごろホルグにつくのか運転している人たちにもわからない。日がくれてからとりあえず運転席のうしろのベッドに寝かされたので途中の検問でのチェックがなかった。カライフムの先のあたりでトラックをとめて寝たが、自分一人だけ飯屋の中で寝た。まぁ野宿よりはすこしマシという程度の寒さだった。

 17日の朝になって出発する。さすがに今日の明るいうちにホルグに着くのかとおもっていたが、問題発生。トラックのエンジンの管が壊れたらしい。一度狭いところで立ち往生して、他のドライバーにたすけてもらってなんとか応急的につながり、出発したものの、再度停車。今度は運転手じゃない方がその管をつなげる作業をしてみたが、うまくいかない。さらに後輪に異常があるのがみつかった。停車したところはアスファルトから外れた土なのだが、油圧ジャッキであげようとする。当然メリこんであがらない。その状態で昼がすぎた。もうダメだとおもった。
 このへんでは中国製トラックが快適にとばしていて、中国製トラックの性能の評判は上々だが、その中国製トラックが止まってくれた。中国製というだけで、中国人ではない。その人がひきとってホルグまでおくってくれることになった。どうもここまでで散々金がないと言っていたので100ソモニとるつもりがなかったらしい。金のことはなにもいわれなかった。これで日がくれるまでに着くかとおもったら、また中国製トラックにも問題発生。やはりエンジンの管のジョイントがこわれたらしい。ただそれはジョイントを交換してなんとかなった。しかし日が暮れるまでには着かなさそうだとおもっていたら、今度はタンクにはいっているガソリンみたいなものがなくなったという。予備のタンクがあるので、そこからサイホンの原理で容器にくみだして入れればいいらしいが、サイホンの原理でつかうホースがない。万事休す。そのまま日が暮れた。暗くなり、雨がふってきたところで通りがかったトラックがホースとバケツを貸してくれた。さてその汲み出しの手伝いをしたが、そのせいで左手の袖に派手にかかってしまう。とりあえず移して動けるようになり、貸してくれたトラックが停まっている飯屋の前にいって今度は予備のタンクを空にする作業。それで右手の袖もかかってしまう。もう石油くさくてたまらない。
 さてその後はなんとか無事にホルグについたが、そこで荷物のつみおろしを手伝うことになった。これが大変な汚れ作業で、上着とズボンが相当汚れてしまった。ここでトラックとわかれ、荷物関係の人たちに安宿につれていってもらった。15ソモニ。しかし今日一日で大変汚れてしまい、とにかく上着を洗いたい。その安宿ではもう時間がすぎているので洗いものをすることはできないという。とりあえず寝て明日したらということだった。実際積み卸し作業のせいでもう23時をすぎていた。
 雪まじりの雨が降っていたがそのとき止んでいた。そこで、ロンプラにのっている6ドルの宿のパミールロッジに行ってみるといってその安宿をあとにした。これが最悪の選択だった。適当に道をくだると川沿いの道にでたが、そこがどこかよくわからない。困っているところへ車がきて中からあんちゃんがでてきて誰何された。ちなみにこの人は悪い人とかではなく、ロンプラの地図をみせたらなんとかその近くまで送ってくれた。
 さてそこでまた雪がふりだしたのである。大きな野犬が徘徊していたが、まぁそんなに恐いものではない。適当に道をのぼっていくと、なんとかロンプラの地図どおりのところにきたが、それらしきところがない。ずーっと通りすぎ、寄宿舎らしきところで警備員に聞いて、結局もどったのだが、6ドルの宿のパミールロッジがどれか特定できない。地図のあるところにはドクターなんとかというインド人らしき名前の看板がかかっている。門もひらいていて中にはいれる。そのあたりをぐるぐるさがしたがやはりよくわからない。ロンプラの記述どおりならそのドクターなんとかの家がそれらしい。廃業して他の人のものになったのかもしれない。しかしとにかく雪がじゃんじゃん降りだしたのでそこから動けない。ドクターなんとかの家の軒先で雪が積もるのをみながら、寒さしのぎに日記を書いている。だいたいこんな夜中につかえるシャワーなんかないだろう。本当にバカな選択をした。というか真夜中に宿探しをするという事自体がナメすぎている行為なのだが。


2011/11/16 水 クリャーブ → カライフムのあたり

 天気あんまりよくないなぁ。


2011/11/15 火 ドシャンベ → クリャーブ

 昨日の雨で靴の中がまだ乾かず、朝から必死に靴の中敷を出してあおいでいた。なんとか右足の方は回復したが、左足の方が湿っているので新聞紙をつっこんでの出発となった。

 考古学博物館 15ソモニ
 さて日曜あきらめたところだが、あきらめて再度来てよかった。タジキスタン各地の有名な遺跡からの出土品がここに集めてある。英語での説明もありわかりやすい。中央アジア最大という寝た仏像があったが博物館の一室まるまるつかっていれてあって、見たときはおもわず声がでてしまった。あとからテレビかなにかが撮影に来ていた。ところどころ日本語での説明もあり、日本が金を出しているらしい。パンジケントやらからの壁画もはがして持ってきてあった。そういうと壁画の画風が中国に似ているが、これはどっちからの影響なんだろう。北朝なんかは中央アジアの影響をモロにうけている。北朝のころの騎兵の絵とかはこれとよく似ている。モンゴル以降とおなじように、絵画の上では常に中国の影響を受けていたのか、音楽は中央アジアからの輸入品であったように、絵画も流れてきていたのか。まぁしかし他の造形をみてもそこまで緻密精巧ではない。緻密精巧な方がいいとおもってしまい、そういいうものを作ろうとするのが極東の人間なのかもしれないが。
 イラン系の他にインド系の物語の影響がおおきいのも意外だった。まぁクシャン朝以降仏教がはびこっていたからそれとおなじ流れでインド系の豊富な物語がながれこんできていたのか。そもそもシャーナーメ、マハーバーラタなどという風にインドイランで集大成される前は境目がそんなになかったのか。
 あと貝貨がたくさんあるのも気になった。それも10世紀ごろまで普通にある。まぁ装飾品としてつかわれていたということだろうが、相当普遍的なことだったんだろうか。
 とにかくこの博物館は見ておどろくようなものが多かった。中央アジアすごい。
 あと写真取り放題で、博物館員も親切だった。帰りに、裏でとれたものだといって柿までくれた。

 ベフザード国立博物館 20ソモニ
 さて考古学博物館をみたあとこっちに20ソモニつかうのは気がひけたが、ここまで来たからにはとおもい、バザールで飯を食ってから入った。
 古い総合博物館で、歴史部分は人類の歴史から始まっている。考古学博物館にもあったが何十万年前の石器なんてのは日本にはまずありえないのでなんというかすごいなぁ。
 ソグド人の次にはたしかにサーマーン朝がクローズアップされていた。職人の展示がおもしろかった。一番上の階の半分が革命関係の展示だったが、その端の展示室は入口にシーツがかけてあって入れないようにしてあった。ボハラを中心にした地図みたいなのが残っていたのでロシアに征服される頃関係の展示だったのかもしれない。革命関係はやっぱりポスターがおもしろい。壁画もなかなかいい味だしていた。

 グルミンジ博物館 5ソモニ
 楽器関係の博物館ということで行ってみた。どうも地元の音楽関係の人が集まるところらしく、たまたまそれで来てたっぽい人が案内してくれた。まぁしかしそそくさとした案内だった。楽器自体はタジキスタンというよりも世界中の楽器があつめてあるところで、予想とは違っていた。タジキスタン関係の楽器はパミール関係が多い。缶に棒を挿して弦をはっただけの擦弦楽器があったがちゃんと音はでていた。まぁ共鳴箱は共鳴さえすればいいのでなんでもいいんだろう。それで弾いた音楽とおなじものをバイオリンでも弾いてくれたが、バイオリンも同じようにやはり膝の上に置いて横向けにして弾いていた。まぁバイオリンみたいに顎に挟んで演奏する方が特殊なのはまちがいない。

 ひととおり博物館もみたので、今日の内にクリャーブに行くことにした。どうせ一泊しても金が減ることだしとおもったが、これがすこし高くついた。明日出発にしたらクリャーブの宿代は必要なかったかもしれない。
 もう夕方、日の暮れようというころで普段ならこんなときに出発しないが、今日はしてしまった。サハワットバザールの近くからタクシーがでている。そもそも長距離バスターミナルがあのとおり改装中なのでどこからバスがでているのかわからない。クルガンテッパに行くミニバスがサハワットから出ているようだが、夕方なので終わったといわれた。で、タクシーだが、50ソモニといわれたのを40ソモニにまけて出発。3時間程度ということだったが、途中連れのタクシーがパンクしたりしてすこし時間がかかり、着いたのは22時過ぎだった。安い宿ということでおろされたのがホテルクリャーブ(クローブ)だが、50ソモニといわれる。もうひとつハトロンというのもあったがみるからに高そうで、その通り140ソモニといわれた。他に宿はないということがわかったのでしかたなく50ソモニのところに泊まってみたら、豪華な部屋をつかわされた。これは絶対もっと安いランクの部屋があるはずだが、夜中で足元をみられたんだろう。くやしいがしかたない。まぁこの旅行中で一番高い宿ということになった。
 問題は残りのソモニがかなり減ってきていることだ。さてホルグまで無事いけるのかどうか。


2011/11/14 月 ドシャンベ

 しかし12月1日ごろにカシュガルにもどる予定にしているのであまりゆっくりもできない。そもそもアフガニスタンに入れるかどうかもまだわからない。ドシャンベでビザがとれたらいいなと甘いことを考えていたが、どうも難しそうだ。そのためにホルグまで行くわけだが、ホルグ方面は川ぞいに登っていくだけだから、ドシャンベの北の峠よりはましだろう。バスがあれば安くつく。

 雨..

 今日はオヴィールに行ってゴルノバダフシャン入境許可証をとってきた。オヴィールはロンリープラネットにあるとおり、ミルゾトゥルスンゾダ5にある。入口のにある書類作成所で申請書をつくってもらう。書類作成料10ソモニ。たぶんこの値段は適当に取っているとおもうがよくわからない。他の人も額は違うが払っていた。その後奥の窓口に行くと、いろいろ確認したうえで、その書類の上に何ソモニはらうか書いて Amorat Bank に振込に行けといわれる。指定の額は15ソモニ。ミルゾトゥルソンゾダを北西へ行くとつきあたりの三叉路の北西側に大学のビルがあり、その一回に Amorat Bank が入っている。ヒマそうな窓口に「バダフシャン」と言いながら書類をみせると振込係の窓口を指さされる。そこに持っていって申請の書類を渡すと勝手に振込指定書まで書いてやってくれる。手数料なし。15ソモニ払う。領収書をもらうので、それを持ってオヴィールにもどり、おなじ窓口に提出すると許可証をつくってくれる。パスポートより一回り小さい紙。
 ビシュケクでとると15ドルとられるところだった。今みると「行くところ」にいろいろと書いてあるのだがキリルの筆記体で書いてあるので読みづらい。アフガンに行く上で重要なホルグとイシュカシムは書いてあるようなのでまぁ問題なかろう。

 しかし雨だったので行動に制限があった。かなり激しい雨で一日降ってた。昨日暑かったからその暖気がもたらした雨だろう。しかも宿に大量の学生がやってきたので、部屋をおいだされてしまった。雨の中に放り出されるのかとおもったが、対応がなんか厳しくないので、ソファーでいいから寝かせてくれと懇願したら、ソファーのある控え室みたいなところに泊まらせてくれた。ありがたい。
 本格的に追いだされたらもうドシャンベはあきらめて南の方に移動するつもりで、その前にドルだけ用意しようとATMを順番に巡り、ルダキ大通りでようやくドルを出せるATMをみつけた。200ドルだしたら20ドル札が7枚と10ドル札が6枚でてきた。100ドルが二枚でてきたら困るなぁとおもっていたのでありがたい。
 ホルグでアフガンビザ取得に失敗したら、車をチャーターしてキルギスまで行くという手もある。200ドルで足りるかどうかわからんが、まぁ行けるだろう。しかし今は雪なのであんまりよい考えではない。素直に西にもどりウズベキスタンに入ってサマルカンドタシュケントと行くべきだろう。そしてフェルガナ盆地にまた突入するわけだ。そう考えるとなんか面倒くさいな。

 この詰所みたいなところは相部屋のくせに30ソモニだった。値段を聞いていないのに「20じゃない。30だ」と言ってたところからすると、20ソモニで泊めてやるつもりのところがなにかの理由で30ソモニにしたものとおもわれる。相部屋相手のやつがなんか明日いっしょにクローブ行こうとか言いだしたからとりっぱぐれないようにちょっと値上げしたんだろうか。ソファーで6ドル..... まぁいっか。他に選択肢ないし。


2011/11/13 日 (イスタラフシャン) → ドシャンベ

 12日にもペンジケント行きをさがしたが、どうも高い。200ソモニといわれる。ドシャンベ行きも200ソモニ。40ドル相当ということで、むちゃくちゃ高い。11日にドシャンベ行きにしなかったのはその理由だが、ペンジケント行きは人が少ないので200ソモニから下がらない。どうも外人料金でダブルプライスされているわけではなく、ローカルもそれくらいとられているらしい。昔は60-70ソモニ(夏料金)だったらしく、おじーちゃんみたいな人に聞けば200は高いと言う。また別の人に聞いても、昔はこうだったけど、今はどーのこーの(聞きとれない)といってとりあえず昔に比べて高くなっているらしい。まぁペンジケントはとばしてドシャンベに直で行くことにした。とりあえず値段の安いのを探したら後部の荷物置き場で160ソモニ。そこに三人並んでギチギチで出発した。席が狭いから足がつらいだけで、他はギチギチなので逆に問題ない。両側から体温で暖められて暑いくらいか。
 ドシャンベ行きは午後の3時出発。イスタラフシャンとドシャンベの間には二つ峠があり、南の方はトンネルがあってスイスイだが、問題は北の方だった。そもそもが林道みたいな感じの道のところに、雪が積って大変なことになっていた。当然のように一方通行で、たしかに昨日(11日)は出発できない。峠のてっぺんには逆方向の車が放置されてたり、順方向の車があちこちで止まっていたりする。雪が見えだしたあたりではチェーンをつけるのに慣れていない人たちがわざわざタイヤをはずして付けていたりしていた。下界は日がでだして暑いなぁというくらいでも上は吹雪いたりしていた。
 しかし距離自体はそんなにあるわけではなく、峠のてっぺんの数キロに数時間かかっただけで、あとはスイスイと流れ、ドシャンベに着いたのが夜中の2時前だった。もうすこし峠で難渋してくれてたらよかったんだが、そういうわけにもいかず、夜のドシャンベを歩いた。

 ロンリープラネットによると駅前のホテルポイタフトが10ドル程度らしいんだが、行ってみたら20ドルとか言われた。高すぎる... あてにしていたバザールだが、都市の区画のなかにうもれた閉鎖型であたりに宿のある気配もない。しかたないので駅にいってみたら開いていたので駅で夜明けを待った。
 朝になってからホテルファルハングを見にいくと側にあるサーカスで中国の雑技団が公演するらしい。ファルハングに泊まれたらサーカスみにいけるなとおもっていたが、それ以前の問題で、ファルハングは中国のサーカスのために部屋がなくなっていた。旅行人ノートにあった長距離バスターミナルの宿だが、バスターミナル自体が改装中で宿もなくなっていた。バスターミナルの近くのバザールのなかで、ある宿の名前を言われたが、警察に聞きまくったりして歩いたりした結果、それは病院のことだとわかった。からかわれたんだろう。最終的に親切な警察のおっさんにおしえてもらったところに行った。ハイヤットホテルの向い側にあるサッカースタジウムが宿になっていた。最初10ドルといわれたが、なんとか40ソモニまで下げてもらった。ボっているのかどうかわからない。サッカースタジアムなので、入口にはこのあいだの日本タジキスタン戦のなごりである「日本サポーター入口」みたいな張り紙がのこっていた。
 ちなみにそこをおしえてくれた警察のおっさんはその宿のことを"СПОРТ"と書いてくれたが、旅行人ノートによるとファルハングの通称がそれであるという。どっちかが混乱しているんだろう。

 そんな感じで午前中はつぶれ、博物館も午後2時までということで、そんなに安くもなかったので今日は行かなかった。アフガニスタン大使館をさがしてみたけどみつからず、バザールの周辺で再度宿さがししてみたがみつからず。今日は成果無しか。インターネットも一時間4ソモニとそんなに安くなかった。ノートパソコンつなげれるところをみつけれず、一時間だけやってきた。宿でおとなしく昼寝してたらよかったか。
 今日は昼間やたら暑く、来ているものを脱ぐしかなかった。まぁ寒すぎるよりはマシか。

 寝ることになった大部屋のとなりの部屋にここの従業員が住んでいるが、主にこの辺の掃除をやって月に250ソモニ(50ドルくらい)もらっているとか。どうも賄い寝床付きでの手取りということなので実質はもっと行くはずだが、あんまり安いので日本でどれくらいとか言いづらくて言っていない。1990年生まれでもう嫁さんもいるとか...
 この従業員もクリャーブ出身だった。イスタラフシャンの宿にゴロゴロしてたのもクリャーブ出身だった。出稼ぎが多いんだろうか。


2011/11/11 金 イスタラフシャン

 昨日はエロDVDの鑑賞会になったが眠かったのでさっさと寝た。

 ペンジケントに行く気マンマンで車をつかまえに行ったが今日は出ないらしい。というわけで午前中は車待ちで時間がつぶれた。

 中国人にみえるやつがいると、ニーホーと声をかけて親指を立てるのが流行っている。ニホンと言っているように聞こえなくもないが你好といってるつもりなんだろう。親指を立てるのはなんでだろう。確かに中国で頻用される表現なのでそういうコマーシャルでも流れてるんだろうか。それはともかく、子供もおっさんも声をかけまくってくるのでコミュニケーションの入口には困らない。
 子供で露骨に金くれとかいうやつがいるのがおもしろい。外人にタカってるのか、普通に大人が子供に金をやる習慣があるのか。

 日没後と朝の数時間しか電気が来ない。

 この日も相部屋の奴に飯おごってもらったうえ、客が来てウオッカのまされた。思ったほど酔いつぶれなくてよかった。もっとも飯をおごってもらっているわけではなくて、この宿が飯つきなのかもしれないがよくわからない。


2011/11/10 木 ホジャンド → イスタラフシャン

 ホジャンド → イスタラフシャン ミニバス 8ソモニ
 タジキスタンは常にボったくられるという話だったがそんな気配ない。ただ昔よりも値段が上がっているのは確かのようで、この路線も宿では5ソモニと聞いていたが、全員8ソモニとられてた。

 ミニバスで着いたのがバザールの向い側だった。適当にバザールの方に行くと宿があるようだ。中の飯屋でジャガイモとよくわからん穀物(たぶん高梁)の煮物をたべてからバザールの横にあった宿に入る。ドミ15ソモニ。...安いな。タジキスタンは宿が高いと聞いていたが、バザールの横にある商人宿みたいなのを選んでいけば問題ないのではなかろうか。ただここでもパスポートをあずける仕組みだった。
 バザールの中の飯屋はレーニンやスターリンの額をかかげているようなところで旅行者が珍しいのか歓迎された。宿もそういう雰囲気が充満していた。タジキスタンいいところだなぁ。
 さてロンリープラネットに載っている観光名所を全部回ってみることにしたが、旧市街の方に行くと子供が道案内してくれる。写真とったらよろこぶし、なんかおもしろいぞ。そして旧市街がなかなか雰囲気があってよい。
 マドラサに行ったら、そこは活動していて、勉強している若者がいた。写真をとろうとすると、イスラムではダメだといい、ホダーフェスというと注意されたりしてなかなかおもしろかった。
 最後に四つドームのあるちいさなお堂にいくと、そこの管理人がなんでかしらんがものすごいよろこびようで、孔雀の羽を一本と、砂糖とナンをくれた。韓国人は結構くるらしいが日本人は全然来ないらしい。まぁ旅行人ですら扱いが小さいしなぁ。
 宿に帰ったら帰ったで、相部屋のやつが大はしゃぎでなかなかおもしろかった。
 この部屋においてあるテレビはスイッチをおしまくらないとつかないらしい。たぶん通電させてどこかをあたためないと動かないんだろう。サッカーの日本タジキスタン戦は明日の昼間あるそうだから、ドシャンベは明後日以降だな。


2011/11/09 水 ホジャンド

 今日も雪で寒い。しかも停電がよくある。この建物だけかとおもえば市場の方も停電してたりするからそうでもないらしい。

 寒いからといってとじこもっていてもしかたないのでシル川とそのちかくにある城壁、博物館を見に行った。
 城壁は一部だけのこっている状態。城の内部は軍隊がつかっていて入れないようだ。城壁の横に城壁の復元した一帯があり、そのなかに博物館らしきものがあったが開いていない。その辺に書いてある字を意味もわからず読んでいたら(字をみてわからなくても音にしたら意味がわかることがある)、管理している人が出てきて開けてくれた。ホジャンドの城の歴史をパネルで紹介している。この城のあたりが一番古いところで、ここを中心に街が発展していったらしい。シル川が曲がるところの内側にあるので、交通の要衝だったんだろう。出土品の土器や磁器などが無造作に箱の中に置いてあった。1986年におこなわれたホジャンド2500年祭の写真もあった。しかしこの博物館はもう公開していないようで、管理人が3ソモニよこせというのでビレット(チケット)をくれとしつこくいってたらあきらめた。まぁしかしアンディジャンとちがい、好意であけてくれてるしそんなに法外でもないので払ってもいいんだが。
 その復元城壁沿いに南へいくとソグド州歴史博物館があった。

 ソグド州歴史博物館 6ソモニ
 地階と一階があり、地階は人類誕生のあたりから古代ペルシア帝国のあたりまで「アーリア人」の歴史を象徴的に紹介するもの。一階は普通に「タジク人」の歴史を紹介するものだった。英語の説明も多くわかりやすい。ペンジケントの近くにあるサラズム遺跡から普通にはじめている。こういうのでクシャン朝の支配を紹介しているのがなんかめずらしかった。その辺に仏教遺物も置いてあって、あーそういうことかとおもわなくもなかった。その後、エフタル、ソグド人とあって絵画史料がでてきてなかなか賑やかになってきた。写真で当時のコインを紹介しているが、ペンジケントの貨幣は中国風に四角い穴のあいた貨幣だったらしい。で、イスラムの征服、サーマーン朝などと順につづくわけだが、カラハン朝やティムールを持ちあげているのが違和感あった。特にティムールについては、博物館のど真ん中に銅像をたてて特別扱いしてあった。最後のあたりにはヤークーブベクの写真も飾ってあった。あとはまぁロシア革命関係と大祖国戦争の展示があり、最後に現代のタジキスタンの指導者の展示があっておしまい。ティムール像の前にはハジ・ユースフ・ミールファヨゾフなる人物がつくった地球儀の模造品が展示してあった。模造品といってもプラスチックでピカピカしているが。字はペルシア語で、中央アジアのあたりにはトゥーラーンとデカく書いてあり、コーカンド・ボハラ・サマルカンド・バダフシャンとその字のまわりをならんでいるからロシアに併合されるすこし前だろう。

 博物館をでてしばらく大通りでないところへはいっていったら、黒い綿入れを着て、火をたいている人たちがいた。なぜかお茶などをよばれたのでなんとか話をしてみるとどうも葬式の服装であるらしい。お茶をもってきたあたりに棺のようなものがあった。
 今日の外出はそれくらいで、その後はさっさと帰り、バザールの周りでラグマン食って寝た。なんとかウズベキスタン通過のあたりを書けた。まぁしかしあんなに書かずに箇条書きでまとめるくらいにしといたらよかったかもしれない。

 単純に寒いのは服が足りないからで、風を通さないような上着を一枚買えばそれで足りるのだが、それすらせずに寒い寒いと言っているのが最近のおっくうさを物語る。タジキスタンのあたりはますます歴史的遺物が多く、地道に回ったらおもしろいんだろうが。
 明日出発するとして、あんまり早く行くとドシャンベのサッカー日本タジキスタン戦にぶちあたってしまう。それで困るのは宿が埋まっていることだ。やっぱりペンジケントとかに行ってソグド人の遺跡をみたりするべきなんだろうか。


2011/11/08 火 ホジャンド

 雪だ。タジキスタン到着のはじめての朝が雪というのはなかなかよい。昨日までの移動はなかなか辛かった。特にウズベキスタンに入ってからは泊まるつもりだったのに泊まれず自滅的に悲惨な選択をしてしまった。疲れたので今日は布団の中で休憩しながら日記でも書く。
 あんまり長文になったので昨日までの分は昨日の項目をたてて別にしておくことにした。
 寝て書いて寝て書いてしてもなかなか終わらない。昨日は一人だけだったが、今日はおっさんと相部屋になった。なんとか会話を試みるが、ボソボソと口をあまり開けずに話すうえに早口でよくききとれない。ドライバーで、ドシャンベから来たが雪で2日半かかったということだろうか。しかもさっさと寝てしまったので昨日の日記が書きおわらない...

 タジク語ではkaをカと言うらしい。ペルシア語のようにキャと言ったりしないらしい。

 ATMだが、スーパーの中にあるATMで無事タジキスタンの金をひきだすことができた。ドルも引きだせるようだが、それは首都のドシャンベでやる。


2011/11/07 月 (11/5 ビシュケク → 11/6 オシュ → アンディジャン → マルギラン → )フェルガナ → コーカン → ホジャンド

 11/05-06
 ビシュケク → オシュ 乗合軽自動車 1000ソム
 5日の昼すぎに宿をでる。カシュガルからここまでいっしょにきた日本人と結局いっしょに行くことになった。彼はカザフスタンまわりの予定だったが、ウズベキスタンのビザの期間指定をちゃんとしていなかったようで、もうウズベキスタンビザがスタートしてしまっている。本来イランのビザでさらに待つはずが、イランビザがなぜか簡単にとれてしまい、ウズベクのビザがそんなことになってしまったため、無料といえども通過するだけのカザフビザをとるために時間をつぶすことはできない。ということでオシュ経由で一気にタシュケントまで行くということだった。
 車をさがして西バスターミナルに一回行ってみたりしたが、車がすくなく高かったのでオシュバザールに行ってさがすことにした。あちこち聞いてまわってさまよった結果、オシュバザールの西南の方にある駐車場が乗合タクシーの集合しているところであった。トロリーバスの降り場に近かったのでトロリーバスで来ればよかった。運ちゃんがたかってきて1500からのスタートだが、最終的に1000で行くといった軽自動車に乗った。ランドクルーザー全盛の乗合タクシーの中で軽自動車というのが珍しかったからだ。さぞかし燃費もよいだろう。最初は軽に四人つめようとしていたようだが、あとでつかまえた二人が一回乗ってみたものの降りたのでやっぱりキルギス人にとっても軽自動車の後部座席に三人詰められるのはきついんだろう。30代女性が一人助手席にのって18時前に出発とあいなった。
 途中の山越えでは吹雪いていた。まぁ山といっても3000mくらいの高山だから下界と気候が全然変わっていても不思議ではない。ガソリン代に注目していたが、やはり軽なのでガソリンタンクが小さく、3回も給油していた。1500ソムくらいだが出発時にはガソリンが1/4くらいだったのでまぁ1000ソムくらいがガソリンに消えたということだろう。2000ソムくらい(四千円弱)が儲けか。しかも途中の国立公園の通行料が5ドルではない少額だった。なにか書類をみせていたが車種のせいだろうか。行きの家族が全然金もっておらず警察に何度もつかまっていろいろ金をうしない最終的に全然儲けにもなっていないことにくらべるとうまく稼いでいるとおもう。ちなみに二回目の給油のとき、500ソム分入れてくれと言っていたが、実際にタンクに入ったのは300ソム分だった。おつりをもらったようにみえなかったが、ちゃんともらっていたんだろうか。三回目も500ソムと言ってそれだけしか給油してなかった。
 なぜか車の中でよく寝れなかった。助手席の女性はほとんどずーっと運転手としゃべっていた。32らしいが6人子供がいるらしい。しょっちゅう電話がかかってきて到着をせかされているようだった。一方こちらはなるべく遅めに着いてほしかった。ビシュケクに来るときとおなじくらい時間がかかるとおもっていたが、そんなことはなかった。ビシュケク発だと険しいところが最初に来て、その後は全体になだらかな下りになるので早く着くということだろうか。

 11/06
 オシュ → 国境 マルシュルートカ(乗合ワゴン) 8ソム
 到着したのは朝の5時ごろ。実勢時間に近いウズベキスタン時間だと朝の4時で要するに真っ暗だ。朝からナンを焼いているところの前で時間をつぶしたが、なかなか夜もあけない。寒さをしのげるチャイ屋のようなのがないか探してみたけどそもそも街全体まっくらで、あかりが着いているのはなんか怪しい空気を出しているところだけだ。気温はビシュケクよりも暖かかったが4度台より上か下かとかその程度の差だろう。
 国境につながっているレーニン通りに移動して夜があけるのを待っていたが車とか通る様子もない。明けてくるとその通りの奥の方で市みたいのがひらきだして車が通れるところなのかかなりあやしくなってくる。いちおうタクシーは集まってきていたが、5キロ程度のところを乗るつもりもない。まぁ一人だったら歩くところだが、連れの彼はものすごくでかい荷物をもっているのでそれはできない。
 ちなみに「一人だったら歩くのに」とかいうのをパキスタンで激流さんにもらしてしまい、そんなら歩きましょうと言われたことがあった。要するに愚痴っても相手を不快にするだけで、提案すればよいだけなのだが一人旅が長く好き勝手に無茶な行動をしているとそういう感覚がなくなるんだろう。
 それはともかくレーニン通りぞいの市場がひらきだし、軽食屋がひらいたのでそこでコーヒーをのんだ。おばちゃんにマルシュルートカの番号をおしえてもらい、レーニン通りの角までもどって乗った。

 国境
 国境ではノートに番号をつけて記帳していき、番号にしたがってその順番で入れてもらうということをしていた。ウズベキスタン側の出入国手続きが遅いのでそういう形で混みすぎないように整理しているらしい。100番目とかだったがしばらくすると「ツーリスト」ということで順番をとばして入れてもらえた。ちなみにこのへんでは何してるんだといわれてたとき「ツーリスト」と答えておけば相手はなんとなく納得する。
 キルギス側の国境はスムーズだった。なんか一人ブラブラしているやつがいて、500ソムよこせとかなんとか言ってくるが無視したらそれ以上言ってこない。ちなみにイミグレを出てからそいつがついてきて、ダバイダバイとか言ってもどってくるよう身振りしていたがどうせろくな事は言ってこないので無視した。
 ウズベキスタン側では例の関税申告書を書かねばならなかった。それを書いて係官に修正と確認をしてもらい登録の係官が登録するという手順のようだが、所持外貨とか電気製品とか書かないといけないので面倒くさい上に記入と違っていたら没収されたりすることもあるのでまちがっても少なめに書いたりしてはいけない。さらに中央アジアの国境はワイロを取ったり金をくすねたり因縁つけて没収したりすることがあるのでなるべく因縁をつけられないようにしたほうがいい。キルギスでドルをATMから調達しようかとおもったが結局することにこだわらずできなかった理由のひとつはそこにあり、その時点で47ドルしかもっていなかった。
 ただ、ウズベキスタンのその係の人たちは「ツーリスト」に対しては印象よくふるまおうとしているようだった。英語のわかる若い人が配置され、やはり順番をとばして手続きがおこなわれた。21世紀になってから採用された若い人はまだソ連時代の悪習に染まっていないから率先的に入れ替えがおこなわれたということなんだろう。観光業で外貨をかせごうというのに国境の税関の評判がわるいというのはよいことではない事がやっとわかってきたんだろうか。しかしこっち側にもブラブラして仕事をしているようでもない人間がいて、あとをついてきたりしていた。
 税関申告書と実際に所持している外貨などの照合や荷物検査はなかったが、細かいところまで書かされた。連れの日本人の方など持っていた二十ヶ国あまりの少額外貨を全部書かされた。注意するべきは出国の方だろう。この後通ることになるコーカンホジャンド間のイミグレはわるくないらしいが。

 国境 → バスターミナル 乗合タクシー 20キルギスソム( 1000ウズベクソム相当 )
 バスターミナル → ホジャナバード バス 600ソム(以下ソムはウズベクソム)
 ホジャナバード → アンディジャン(新バザール) ダマシュ(乗合ワゴン) 1500ソム
 国境を出るとタクシーの運ちゃんがいっぱいあつまってきたが、どうせふっかけられるのはわかっている。それよりも問題はウズベキスタンのソムのないことだ。今もっているキルギスソムをウズベキスタンのものに両替しなければならない。朝早くにつきすぎたため、オシュの両替屋が開いておらず両替できなかった。乗合ワゴンがとまっていてどっかに行くがそれはホジャナバードに行くものだった。しかしその時点でホジャナバードが国境とアンディジャンの間にあるとはわかっていなかったので、乗らなかった。それよりもタクシーの運ちゃんなどがしつこい。連れの方は英語が話せる運転手となんか話しているがアンディジャンまで4ドルと言っているようだった。アンディジャンまで2ドルくらいという情報をもっているのでそれにものれない。まぁしかしこの先にバザールかなにかがあって両替できるらしい。
 とにかくこんなところでウダウダしていてもしかたないので、連れの日本人はほうっておいて先にテクテク歩いていった。集落があるがなにもない。連れの方も来る気配がないのでもどってみると、ずーっと同じところで話をしている。ドルから下がらないか交渉するつもりだったらしい。
 あとからイミグレをでてきたおっさんが、乗合タクシーの助手席にのり、1000ウズベクソムか20キルギスソムでどこやらに行くといってたので、とりあえず連れの方をひっぱってこようとするが、その間に別の二人連れに後部座席に乗られてしまった。まぁしかし相場がわかったので、待っているタクシーではなく来たタクシーをつかまえて、1000ソムと言っているのに乗って出発。数キロでチェックポストを過ぎてバスターミナルについた。数キロで1000ウズベクソムはちょっと高いがしかたない。バスターミナルにもタクシーがいていろいろ言ってくるが少なくとも国境前よりましだ。連れの日本人がチェックポストの警官か軍人かに聞いてアンディジャン行きのバスが来るという情報をしいれてきた。そういうアイデアがなかったので感心した。そこでどこで両替できるのかも聞いてみたところ、近くにあると、場所まで教えてくれた。道端のおばちゃんがやっていた。結構遠かった上に一度通りすぎてつきあたりまで歩いたため無駄に時間がかかってしまったが、首尾よく両替することができた。レートも悪くなかった。ちなみに道端に机おいてるおばちゃんと、家の角で日向ぼっこしてるおばちゃんの二人いるが家の角の方がレートがいい。道端のおばちゃんの方も家の角の方で両替しているようだった。道端の方が客を奪っているようにみえるが、道端の方も家の角の客の一人であり、警察の手入れかなにかがあれば道端の方を犠牲にして逃げる時間がかせげるのでそんなに悪くはないんだろう。1020キルギスソムが55000と数百ウズベクソムになった。
 両替しているとき、軽自動車がとおりすぎて、すこしはなれたところで止まっていた。二人組の男がでてきてこちらの様子をうかがっている。あきらかにあやしいので警戒してその側を通りすぎると、アンディジャンまで1000ウズベクソムで行くという。両替しているところをみてふっかけるならまだわかるが、少なめにいうのはあやしいを通りこしてこわい。無視してバスターミナルまで行ったらついてきた。やばいところであったが、ちょうどホジャナバード行きのバスが来ていたのでそれにのった。
 しかしこのバス、安いのはいいが途中高校か中学程度の生徒を大量に詰めこんだのでギュウギュウもいいところだった。いろいろ話しかけられた。しかし、「働いているのか」とウズベク語で話しかけられてその「働いている」という動詞をちゃんと活用して返事できない程度なのでまともな話はできない。あとから気がついたが、一人ペルシア語らしき言葉で話しかけてきていた。そのときはそういうシチュエーションもありうることを全然想定していなかった。あれはタジク人だったんだろうか。
 ホジャナバードでののりかえもスムーズだった。しかしそこでちょっと店に入っていろいろ値段を聞いたらキルギスよりもちょっと高めだったので買わなかった。連れの日本人は中央アジアではウズベキスタンはカザフの次くらいに物価が高いという情報を得ていたらしい。昔来たときは中央アジアで一番安かったんだが、公定レートと闇レートの差がちぢまったおかげだろう。
 アンディジャンの新バザールのダマシュ乗り場に着いたのが13時前くらい。さて連れの日本人の方だが、ここからタシュケントまで行くとか言ってたがその時間から出発すると夜になる。せっかくだから一二日フェルガナ盆地まわったらどうという言葉に乗ってガイドブックを読みだすくらいなので、ここでコーカンドまでいっしょに行動しようと誘っておけばこの日の夜の苦労がなかったんだろう。しかしそこで、「これから観光してくるので縁があったらまたあおう」と言ってわかれてしまった。

 金曜モスク(文学芸術博物館) 2500ソム
 新バザールから適当に乗合ワゴンにのってみると、おっさんがどこにいくのか話しかけてくる。ビシュケクでプリントアウトした旅行人ノートのフェルガナ盆地の分のコピーをみながら、博物館とかなんとか言っていると、おっさんが俄然はりきりだして、ウズベク帽をとりだしてあたまにのせ、運転手にも運転手自身のウズベク帽をかぶらせ、博物館までおくってやると言いだした。おっさんは途中でおりたがこっちの分まではらってくれた。アンディジャンの乗合ワゴンの料金は500ソムらしい。降りたところが乗合ワゴンの終点だったようだが、その目のまえにモスクがあった。もっともこの乗合ワゴン、本来のルートをはずれてこっちに来たのかもしれない。
 中に入ると子供の数人のグループなんかがいる。外人料金..というよりツーリスト料金で2500払い、子供のグループの尻についてモスクの二階にのぼっていくと、受付からそこまでつれてきてくれたおばちゃんは奥から一人女性をよびだしたあと子供をつれて先にいってしまった。その女性に解説させるということのようだ。といってもウズベク語かロシア語で解説するのでよくわからない。よくわからないが、工芸品なのでみたらわかる。わりと新しいものばかりだったが、写真取り放題だった。
 楽器がおいてあったのだが、その組み合わせがカシュガルとまるきりいっしょだった。ラワップもあった。サントゥール系の楽器があったがカシュガル方面とおなじくチャンという名前だった。ギチャックまであった。同じだろうとはおもっていたがここまで同じだとはおもっていなかった。現代化した楽器らしきものもあった。しかしこういう現代化は共産国家が国主導で行なったものなので、中国とソ連では違い、こっちではバイオリンが変形したような楽器が並べてあった。20世紀の共産主義国家らしい頭でっかちさがでてておもしろい。
 ロシアから来たサモワールと、サモワールが来る前に使われていた道具が展示してあった。サモワールが普及したのはその素地があったからなんだろう。
 しかしこの博物館、文学部門は公開しておらず工芸品のところだけだった。なんでだろう。あるいはバーブルの博物館の方に吸収されたのかもしれん。
 下におりると子供のグループが待っていて、「ウェルカムツーウズベキスタン」とか言ってくれた。受付のおばちゃんの仕込みだろうがなかなかおもしろいことをしてくれる。ウズベキスタン、ここまではなかなかよかった。

 アンディジャンの州立博物館 4000ソム
 さて文学芸術博物館の横に州立博物館がある。極めて不快な気分にさせられたところだ。入ろうとすると下にうさんくさいおっさんがいて、上につれていった。切符売り場のつもりのような机があり、日本人だとわかると4000払えという。高いなとおもいながら払おうとすると切符は後だとかいう。ここでひきかえしたり、旅行人のコピーを確認したりすれば不快になることもなかった。なんか紙きれにその日払われた金の分を書いていたようだが、そこにも記入しない。とりあえず展示室にいってみると、その展示室の中にある各展示ブースの前に赤いひもが張ってあって近寄れず展示の説明を読むもくそもない。さらに写真をとると、スペシャル料金とかなんとか言ってくる。その時点で猛烈に怒りがこみあげてきた。展示は文化祭の展示のような手作り感あふれる感じにしあがっている。内容はたぶんわるくないんだろうが近寄れないのでたいしてわからない。州立のくせにそんな展示でしかも縄張って中に入れないようにしてあってそれで4000も金をとるのか、とおもうとよけいに怒りがこみあげてきた。
 あとで旅行人ノートのコピーをみると、日曜は休館と書いてある。つまりは休館中に職員か掃除屋かだれかが小遣い稼ぎにやっていることなのだ。しかもそこの記述では金曜モスクよりも少ない額になっている。こっちが日本人だとわかったのでボったくってきたのだ。額を言ったのもあのおっさんなので、あのおっさんが首謀者だろう。公のいれものをつかって私利を得ているあのおっさんの舌はくさっておちろ(呪い)
 展示物は旧石器時代から現代まで各時代別にブース分けしてあった。特に目新しいこともなかった。遠くから見たかぎりでは。冷静に見れてない上に子供がいっぱいいてカラんでくる。イヤホンを耳にしてるようなやつが横にならんできたときはますます腹がたった。というかちょっかいだしてくるのがうっとおしくて手をだすようなふりをして追いはらったりした。

 アンディジャン → マルギラン ミニバス 2400ソム
 さて極めて不快な気分になったので宿さがしもせずに一気にマルギランまで行くことにした。乗合ワゴンにさっさとのればよかったがしばらく延々と歩いて道がわからなくなってから乗った。新バザールの乗合ワゴン乗り場につく前にバスターミナルについたのでそこで降りたころには4時をまわっていた。もう夕方の色が濃く日が落ちかけである。マルギラン行きをさがしてみると、バスは2000ソムでもうないが、ミニバスは2400ソムであのあたりに来ると言われたのでまっていたら、ミニバスというかでかいワゴンが来た。フェルガナ行き。フェルガナはマルギランの横にあるロシア謹製の新都市で、マルギランが旧都市みたいな関係にある。そこそこ距離もあり別々の発展をしたので旧市街新市街という関係でもない。マルギラン行きもすぐ来た。

 マルギランに着くと日も沈んで暗くなりかけている。ホテルマルギランという安いホテルがあるはずなので探し出して入ってみると、マネージャー室と書いてあるところからおっさんが出てきて、もうホテルとしては営業していないのでフェルガナかコーカンまで行けと言われた。他に宿はないのか、と聞くとホテルアドラというのがあるがここから東二キロくらいのところにあり4ドルくらいだとのこと。4ドルなら問題ない。
 2キロならすぐだとばかり歩いていくうちに空は暗くなってしまった。そのホテルにつくとやたら高そうな雰囲気。その通りでやはり30ドルからとか言われた。ぐぬぬ。
 真っ暗な中を乗合ワゴンにのって微妙にボったくられながらもどり文句を言いに行くと、ホテルマルギランの建物には鍵がかかっている。まぁつまりおっさんはわけのわからない日本人を最後にからかってみてから悠々と帰ったのであった。
 しかたないのでここから12キロというフェルガナに行くしかないが、もう夜になってフェルガナ行きの乗合ワゴンとかがなくなっている。ここでほかの宿をさがしてみたらよかったのだがそういう努力をせずにフェルガナへ行く努力をしてしまった。つまりフェルガナの方向を聞いてズンズン歩いていったのである。

 延々と歩いてようやく「フェルガナ 6km」の道路標識をみつける。そこからしばらく歩くとフェルガナの街の入口をしめす門があった。門の側に警察の詰所みたいなのがあったので、宿まであとどれくらいあるのか聞いてみると、5kmとか言う。しかも適当に車をつかまえてくれた。ありがたい。
 さて警察にヒゲの日本人をおしつけられた車だが、助手席に英語を話す人がいてどうにか話が通じた。ここまで「話した」とかなんとか書いているのはみな片言で単語を並べてなんとかしたのである。とにかく安い宿と言っていると「ホテルフェルガナ」に送ってくれた。ちなみに英語の人はその近くで降りたがそのときに金をはらっていた。金をはらうのが普通なのだろう。
 まぁしかし警察におしつけられたヒゲの日本人からは金をとらなかった。よほど困っているようにみえたんだろうか。その時すでに八時をまわっていた。

 ホテルフェルガナは安そうな空気をプンプン出していたが、外人おことわりの宿だった。あー。その後、フェルガナのホテルめぐりの旅がはじまるのである。ホテルめぐりといっても、まずホテルで他の宿がどこにあるか聞き、旅行人ノートのコピーに地図があるのでそれをみて歩きまわるだけだった。アジア、ズィヤラットが60ドルで論外。ドストリックは10ドル以下でいけそうだったが外人おことわり。地図にない新しいホテルのタージマハルというところは40ドルだった。
 このフェルガナという街は例の協力隊で派遣要請がでていたところであり、ここに行くべく志望にあげておいたが、要請不適で落とされた因縁の場所だ。中川さんという人が選ばれてここに赴任している。都合があえば飯でも食おうと勝手におもっていたが、どうもキルギスが四連休になったのとおなじようにウズベキスタンでも連休になっていたようで、それにあわせて旅行にでてしまったらしい。協力隊の人たちはブログを書いて情報発信しているのでわりと動静がわかりやすかったりする。そのブログにフェルガナおすすめの宿みたいなのがあったのだが、フェルガナで泊まるつもりがなかったのでメモすらしていなかった。しかも旅行にいってるのでどうせ会えないだろうと連絡もしなかった。
 たしかその中川さんのブログにのっていた宿が24ドルくらいのはずだったが、結局わからない。さすがに歩きまわりすぎて疲れてきた。休憩をはさまないと歩けなくなってきた。もう23時もまわっている。とりあえずホテルフェルガナのうすぐらいロビーにもどって休憩しようと行ってみると、受付の人がイビキをかいて寝ていたのでこれ幸いとイスにすわって寝てしまった。一時間くらいしてから起こされて「ホテルズィヤラット」に行けと追いだされた。出たらタクシーで客がたくさんのりつけて来ていたので、受付の人は携帯で起こされたんだろう。
 一時間くらい寝てだいぶ元気をとりもどしたので、地図にのっているイェルマザルバスターミナルまで歩くことにした。実は一度あるこうとしたが、そこまで2キロ以上はなれているらしいし真夜中にそんなところまで歩くのは危険だとおもったのでひきかえしてホテルフェルガナで寝たのだった。しかしこうなったら覚悟をきめるしかない。バスターミナルまで歩いて朝をまつことにした。
 この時点でもうフェルガナを離れてコーカンドに行く気マンマンだったのだが、バスターミナルらしきところにつくと真っ暗だ。近くで警察が車をつかまえてなにかしていたので、その人にあれがバスターミナルかどうか聞くと、どこに行くのかと聞いてくる。「コーカン」と言っておくとそのへんから車がでるらしいことを言ってから、指を四つたてて四時と言っていた。そのときもう一時くらいだったのであと三時間まつだけだ。それなら待てるので寒いバスターミナルで待つことにした。
 しかしそのとき警察が四時と言ったのが本当に四時のことだったのか。四時間だったのかも。今となってははっきりできない。四時もすぎ五時もすぎ、七時くらいになり明るくなってようやくわかったのは、そのバスターミナルは今はバスターミナルとして機能していないということだった。バスターミナルであればバスターミナルと上に字がならんでいたりするんだが、それがない。タシュケント行きのタクシーは六時ごろ現れた。コーカンド行きもそのうち来るとそのタクシーの運ちゃんたちは言っていた。五時くらいになると前の道にバスみたいなのがチラチラ走るようになっておかしいなとはおもっていたが.... 今からおもいかえすとたしかに警察の人はあれがバスターミナルだとは言っていない。コーカンド行きの車が出るとしか言っていなかった。それは正しかったのだった。
 そのときはウズベク語の表記がよくわかっておらず、クコンとかいうところに行くバスが目の前をよく通るのに気付いたが、そのクコンなるところはその頻度からしてフェルガナの近郊のどっかだろうとおもっていた。おそらく旅行人ノートがでてからの5年間にバスターミナルの統合でもおこなわれたんだろう。しかたないので二キロの道をひきかえして市街にもどり、バザールちかくの近距離バスターミナルというところまで行ってみる。
 バザール周辺をまたグルグル歩きまわってようやくわかったのは、コーカンド行きのバスはバザールの近くからでていたこと、そして「クコン」とおもっていたのが「コーカン」のことだったこと、そして、昨日ホテルさがしで歩きまわっているとき、ホテルズィヤラットの近くに謎の空き地をみつけていたがそれが長距離バスターミナルの近くであったことだった。
 ウズベク語というかこのあたりのキリルの表記で O を A のように読む事があるのはロシア語の O はアクセントがないときみな A と読む習慣からきているんだろう。そしてクコンとおもっていたクの Y (キリル文字の U )の上には小さく v がのっていた。そういうとウイグル文字ではウを示すアラビックの上にvをのせて円唇のオを示す。あれか、とそのときはそれで合点した。

 フェルガナ → コーカン(コーカンド) バス 2500ソム
 今手元にあるバスのチケットは3000だが、それで2500になっていた。そしてフェルガナからコーカンまでのバスの中ではほとんど寝ていた。今からおもうとフェルガナで博物館をみていったらよかったなとおもうが、まぁすぎたことはしかたない。

 フダヤルハーンの宮殿(郷土博物館) 3000ソム 写真2000
 途中金曜モスクを外からながめ、トイレに困ったりしながらここまで歩いてきた。やはり子供やら若いのがいっぱいいるのでウズベキスタンもキルギスとおなじくこの月曜は休日だったんだろう。
 展示の中でアンディジャンの博物館にあったのとおなじ絵があった。フェルガナ盆地の歴史を概説すると同じ遺跡に触れることになるんだろう。ところで最近携帯でとった写真にピントはずれが多くなってきた。この携帯のAF機能、腐ってきたんだろうか。展示は狭いながらもそれなりにまとまっている。英語でもそれなりに説明があった。といってもでかい説明に英語はないが。
 楽器の組み合わせのなかにラワップがなかった。たまたまないのかコーカンにはないのか。コーカンド汗国の中心だからないとはおもえないのだが。
 なぜかヨーロッパの12-14世紀の鎧というなかなか珍しいものが展示してあった。今からおもうとあれはコーカンド汗のコレクションだっただけかもしれないが、そのときはソ連の文教政策の結果だろうとおもってしまった。

 コーカン → ベシュアリク 乗合ワゴン 2000ソム?
 ベシュアリク → 国境 乗合ワゴン 1000ソム
 さてもう宿さがしする気もなくさっさとタジキスタン入りするつもりだった。バスターミナルまでもどると12時すぎ。飯でも食おうかなとおもったが、もうベシュアリク行きがでるのですぐ乗った。例によって乗合ワゴンの中では爆睡。ベシュアリクに着いて両替できるところをさがそうとするが、また国境行きがすぐ出るという。そういう次第でコーカンからあっというまに国境に着いた。

 ウズベキスタンの国境での検査はそんなに厳しくなかった。まずイミグレの前のチェックポイントで中に通されてパスポートをペラペラみられた。なんかいろいろ聞いてたがなにか書類に登記するわけでもないのになぜそんなにしつこく聞くのかよくわからない。それはともかく、そこを出てイミグレに向かうと、国境を越える人がそんなにいなかったので順番通りだった。やはりここにも英語のできる若い女性がいて外人への対応も明るいものだった。この係官が、トルコとかにもいそうな感じの美人だった。できればもう一回ここを通りたいなとおもわせるような感じであった。まぁでももう一回通って同じ対応かどうかはわからない。一応荷物も開けたが開けたらすぐ本がでてくるのでやる気がなくなったのか全然調べなかった。税関申告書ももう一回書かされたがいいかげんで済んだ。
 ウズベキスタンで心配していたレギストラーツィアだが、ここでは全然チェックされなかった。まぁどこで泊まったかとかいろいろ聞かれたが、高かったので野宿したといったらそれ以上聞かれなかった。ここの国境では検査がきびしくないというのはそのとおりだった。
 タジキスタン側は変なのが多かった。まず入口の兵士がパスポートをとって通れないとか言う。なんでーとか言ってたら通してくれた。ここからペルシア語が通じる。中に入ったらそんなにつっかえることはなかったが、パスポートをとった奴が携帯にでて外にでていってその間放置された。書類も書かないといけなかったがそれ自体は簡素なもので、その書類にスタンプを押して出国のときその書類を渡せばよいらしい。ロシア方式が簡素になったようなものだ。パスポートをとった奴がタクシーがどうこうとか言ってたが断わって外にでると、出たところにあるチェックポストが金をくれとか言ってきた。これも無視しているとすぐ解放された。ウズベキスタン側もタジキスタン側も税関はなんとか浄化できてきているが、チェックポストとかにいるようなやつはまだ淘汰できていないのかもしれない。まぁもっともこういう職につくようなのは悪事にもそまりやすいのかもしれない。

 国境 → カニバダム 乗合ワゴン 2ソモニ
 カニバダム → ホジャンドのイスファラバスステーション 乗合ワゴン 7ソモニ
 イスファラ → パンジシャンベバザール 乗合ワゴン 1ソモニ
 もう散々書いたからどうでもよくなってきたが、国境入ったところにマルシュルートカがとまっていてそのままカニバダムのバスステーションまでいけた。カニバダムまでいくとすぐに乗りかえてホジャンド行き。ホジャンド行きは2.5ソモニという情報を得ていたが、7ソモニだった。地図をみてもかなり距離があるのでなぜ2.5ソモニという情報があるのかよくわからない。ホジャンドについてとりあえず安宿のシャルクというところに行き、荷物を置いてATMをさがしにいったが動いているところがみつからず、金は翌日にしてもらった。一泊15ソモニ。ドミトリーだがだれもいないので実質個室のようなもの。とりあえずカシュガルでもらった細かい金が使えてよかった。この日まであんまりまともに寝れてなかったのですぐ寝た。


2011/11/05 土 ビシュケク → (オシュ)

 今日はビシュケクを出発してオシュに向かうことにする。今日の夕方出て明日の朝つけばそのままウズベキスタンのアンディジャンまで行ける。

 中東TODAY: NO・2125「イスラエルのイラン攻撃はあるのか国論は二分」

 Wikipedia の記述がどんどん詳細になっていく。たぶん中学とか高校の時分に既に Wikipedia のあった世代が専門に突入するにしたがって Wikipedia にその専門のことを追加していったりするのが量的には大きいんだろうと想像する。

 【訃報】西岡武夫参院議長 肺炎で死去 享年75:Birth of Blues

 キルギス語入門がかなり網羅的でわかりやすく書いてあったので、著者の飯沼英三について情報をさがしてみたけどあんまりみつからない。中央アジアのトルコ系の語学書を90年代にたくさん出している。最後に出ているのが2001/7のアゼルバイジャン語会話であるらしい。どうも東京外国語大学の昭和51年卒業生らしい。


2011/11/04 金 ビシュケク

 ビザもそろったので本来なら今日出ていってもいいんだが腰がうごかない。

 タイの洪水被害が収束しない複雑な理由:日経ビジネスオンライン

 グリニッジ標準時(GMT)が消える?世界標準時めぐる英仏の攻防 : AFPBB

 腹の具合がわるい。

 日本センターに行ってきた。本がいっぱいあったが、中にキルギス語入門というのがあったので写してきた。日本語の文法用語などをつかって解説してあるのでわかりやすかった。
 ウイグル語とかとはやっぱり微妙に違うのな。母音の組織も微妙に違うんだがどこまで違うのかたしかめていない。
 ところで日本センターの図書室でキルギス語入門を机においてしこしこメモしているとビシュケク在住とおぼしき日本人がときどき来るんだが、別世界という感じがしてなんというか居づらかった。それで南旅館を出る決心がついた。
 まぁ月曜と火曜がキルギスの休日なので、公的機関は明日から四連休となるというのもあるが。


2011/11/03 木 ビシュケク

 ウズベキスタンビザを受領。ついでに午後タジキスタン大使館に行ってタジキスタンビザを取得。即日その場で発行55ドル+50ソム。GBOパーミットは別で金とられるらしいのでここではとらなかった。あとダブルビザは10ドル追加になるのでダブルにもしなかった。事前に聞いてたのと全然条件がちがっていたが、ドシャンベでサッカーがあるのでそのせいかもしれない。
 55ドルは街中の両替屋で両替した。ATMで100ドル札を三枚くらい出してもよかったが、月初めなのでなるべく後日にしたかった。でもどうせ数日の差でしかないので、気にせずひきだしてたらよかったかもしれん。

 図録▽南アジアと東アジアの人口転換

 現代ウイグル語と古代のウイグル語の間には断層があり、現代のウイグル民族主義者や中国の公式歴史観が古代のウイグルと今のいわゆるウイグル人をあたかも直系の子孫のように語るのは問題があるということはよくいわれるが、ではどれくらい違いがあるんだろう。というかチャガタイ語と古代ウイグル語の間の関係がどれくらいあるのか。

 Report of a Mission to Yarkund in 1873 - 『東洋文庫所蔵』貴重書デジタルアーカイブ
 こんなんあるのに気付いたが、全部落とすのは手間だ。探したら archive.org に別スキャンがあるのをみつけた。→ Report of a Mission to Yarkund in 1873 : Thomas Douglas Forsyth : Internet Archive (HTTP) 写真のスキャンのやりかたが謎

 Tokmok - Wikipedia
 李白の生地とか書いてあるな..


2011/11/02 水 ビシュケク

 みんな納豆菌を甘く見ない方がいい - むしブロ+

 中東TODAY: NO2122「リビア新首相にアブドルラヒーム・アル・キーブ氏選出」

 遼や金の諸京めぐりをしたくせにバラサグンやアクベシムに行かないのはいかがなものかと自分でもおもうが、なんか行く気がしない。というかやる気がでない。ウズベキスタンのビザがいつでるのかわからんが、申請の一週間後であるとすれば今日か明日か。(たぶん明日)。何にせよ自分でどうにかできる話ではなく、宿の人に電話で聞いてもらうしかないのがくやしいところだ。自分でやるとこんな会話になる。「ヤーヤポンスキ、ビザ、カクダー」。やはり人にやってもらうしかない。
 しかしウズベキスタン突入といっても、フェルガナ盆地の数都市をまわってタジキスタンのホジャンドに突入するのでそれこそ数日しかいないかもしれない。まぁどうなるかはよくわからない。問題があるとするなら宿が高いということだろうか。高いうえにレギストラーツィアみたいな面倒なものがあるのでよけいに滞在日数は短くなるだろう。そもそも都市間も近いのでそんなに宿泊しないかもしれない。うーむ。

 アフガニスタンはテルメズ国境から入れるらしい。カシュガルからいっしょにここまで来た日本人のしりあいのスペイン人がこないだ入ったそうだ。

 今日適当に46番のバスにのって適当にバザールで降りたら警察に因縁つけられて詰所までつれこまれたがのらりくらりかわしてなんとかした。東バスターミナルのちかくでアラメディンバザールというところだった。

 風俗行ったら人生変わった:ハムスター速報
 おもしろすぎる


2011/11/01 火 ビシュケク

 ペルシア語の本屋、今日も二回行ったが、午後ようやく開いているところへ入れた。情報ノートによるとペルシア語を無料で教えるとかいう事だったがそういうことはもうやっていないようだ。とりあえず話はできたが全然話にならない。そしてこの本屋はほとんどコピー屋として機能しているようで、コピーの客がいっぱいでそれどころではない状態だった。一枚一ソムだったのでついでにコピーしてきた。
 イラン大使館発行の雑誌をもらって帰ってきた。去年のものだったからあまりものなんだろう。半分キルギス語半分ペルシア語。

 やっぱりいい地図がないとまともな旅行はできんよな。といいつつ荷物になりそうなので買ってない。今日本屋にいって地図をみたけどロシアの道路地図でついでに中央アジアもカバーしている結構いいのがあった。同一縮尺で全面カバーしているというやつらしい。ただ等高線は入っていないのでそんなに使いものにはならないか。
 しかしよくよく考えれば自分用の地図を作って出力屋で出力したらいいだけか。一枚2ソムだし。

 navaket,ak-beshim,balasagun

 痛いニュース(ノ∀`) : 世田谷・スーパーの高放射線量 原因は地中の「瓶」
 なぜ瓶というよりも、なぜ世田谷ばかり?
 憶測1 実は日本中に放射性物質の入った瓶がうまっているが、たまたま世田谷に偏執的に放射線を測る人がいてこのことが明るみになった。
 憶測2 世田谷という土地に偏執的にこだわる人間がいて、わざとそういう瓶を置いてから放射線を測らせた。
 憶測3 仕込んだ人間が世田谷の近くに住んでいる。


2011/10/31 月 ビシュケク

 ロシアっぽい人形アニメをテレビでやってる。なんか魔法つかってるから魔法少女(熊)ものか?
 人形アニメとおもったがCGなのかもしれない。組みあわせているのか。ロシア製だとおもってたら番組最後のテロップが英語だったのでロシアではないようだ。

 個人の記憶は無意識のうちに書き換えられていく:カラパイア

 2chで不覚にも正論だなと悟らされてしまった四次元殺法:哲学ニュースnwk

 今日はペルシア語専門本屋というのがあるというので見にいったが二回いっても閉まっていた。イラン大使館の文化センター的な役目をしているということだったが。


2011/10/30 日 ビシュケク

 In Deep: 『人間の尿は最大の発電燃料』: 英国王立化学会の研究発表

 今日は大統領選の投票日。夜なにがおこるやら。

 韓国大統領府「もう失うものはない」韓米不平等条約を韓国議会採決秒読み:Birth of Blues

 メッツァモール

 世界創造紀元 - Wikipedia

 とりあえず動詞のところは全部やった。

 オシュまでいっしょに移動した日本人(あの埼玉人じゃない方)が南旅館にやってきた。国境越えのあたりの写真をもらったが画質がとてもいい。カメラをみせてもらったらカシオのEX-H30というやつだった。電池のもちもかなりよく、1000枚弱は平気でとれるという。うむむ。


2011/10/29 土 ビシュケク

 雪は積らなかったらしいが木の枝に雪が載っていて白い。

 宿に『ペルシア語入門』があったので復習してた。


2011/10/28 金 ビシュケク

 寒いとおもったら雪が降っている。

 中国の東トルキスタンとイランのアゼルバイジャン・クルディスタン

 トルコルーンって今は突厥文字というのが普通なのか。

 わりと近くに語学学校があってかなり安いらしい。ちょっといってみようかとおもったけど土日休みだそうだ。

 カザフに行く人がでていったので、その人がつかっていた広いベッドに移動した。今まで「エクストラベッド」という名前の椅子で寝ていたのでなかなかつらかった。


2011/10/27 木 ビシュケク

 今日はウズベキスタン大使館へビザの申請書をもっていく。どうなるのかはしらんが、一週間後くらいにとれるらしい。

 ウズベキスタン大使館で申請書を渡したあと、キルギス歴史博物館に行ってきた。150ソム。写真は別料金。
 四角い建物で、展示は三層ある。三階が歴史、二階が革命、一階が特別展示スペースという感じのようだ。二階には階段のところにレーニンの首だけの像なんかがある。他にもいかにも革命という感じの銅像がいっぱいあっておもしろいが、入れないようにしてあるところが多いんだが、マルクスエンゲルスからロシア革命に至るまでがもともとの展示の内容であるようだった。その展示をチューリップ革命の展示に置きかえようとしているらしい。あとなぜか中国の新疆の楽器みたいな展示もあった。
 三階はふつうに歴史展示で旧石器の石器から新石器、青銅器鉄器、遊牧民族、諸宗教、イスラム、民俗展示という感じであった。何分長文の説明はすべてロシア語とキルギス語しかないのでよくわからない。まぁしかし展示自体はしっかりしていて、いいものが展示してある感じだった。仏教寺院の仏像のカケラとか、ネストリウス派の十字架が刻まれた石とかおもしろいものが展示してあった。遊牧民についての説明がおもしろいところのはずだが読めないのでわからない。新疆の方にもあった青銅のでかい鍋があった。時代が下るとイランと似たようなものが並ぶようになる。スレイマニヤのモスクの書体に似た壁の字なんかもある。まぁモンゴルつながりなんだろうか。
 一階の奥の方は石に刻まれた石刻文字の展示で、これが岩絵からトルコルーン、シリア文字、アラビア文字なんかまで各種そろえてあった。チベット文字なんかまであったがこれは17-18世紀に刻まれたものであるらしい。ジュンガル?
 トルコシリア文字の展示のところには十字架がふんだんに刻まれていて、由来がわかりやすかった。ウイグル文字とは書いてなかったどうかまでは確認していない。

 西太后は満洲語がわからなかったので満州語文書は満漢合璧にされたらしい。


2011/10/26 水 カシュガル → オシュ → ビシュケク

 ビシュケクまで大移動してきた。

 10/24 月
 カシュガル → ウルグチャット乗合ワゴン 27元
 ウルグチャット → イルケシュタム 乗合ランクル 50元
 イルケシュタム → オシュ 乗合ランクル 900ソム

 もう気がかわったので月曜に出発しようとおもっていたら、他の日本人も行くらしいので便乗することにした。まぁ日本人も複数いたが、旅行しながら漫画をかいているという埼玉人がいて、こいつが自分もブラブラ旅行しているくせに他のブラブラ旅行している日本人を見下しているというイヤな奴だった。これもやはり月曜にキルギスに行くとは聞いていたが、国際バスで行くとか聞いたのでいっしょにならないだろうとおもっていた。埼玉人と同室の日本人は他に三人くらいおり、行くと聞いたのはそのうちの一人で、詳しくは聞かなかったがどうせその埼玉人以外の日本人だとおもっていた。
 翌朝になって下にそろった人間をみると、その想像は正しかったらしく、キルギスに行くといって人をさそっていたのは埼玉人とは別の日本人だったが、一応埼玉人にも声をかけたらしく、いっしょに行くことになっていたらしい。しかしなぜかその場から消えていた。日本人3人とフランス人カップル2人の総勢5人。国際バスターミナルの横のウルグチャット行き乗り場にいくと、埼玉人が先に乗って行くところだった。その後接続がわるく一時間くらいまたされて10人乗りの乗合ワゴンでウルグチャットに到着した。国境行きの乗合ランクルをみつけ、その整備をおわるのをまっていると、埼玉人が一人で座っているのに気付いた。どうも他に行く人がおらず、我々が来るのを待つしかなかったらしい。彼には乗合ランクルの助手席に乗ってもらった。隔離したつもりだ。
 カシュガルからイルケシュタム国境までの景色はなかなかよかった。岩山ではなく土の山だからか、奇妙な形をした荒涼とした山がつづいていた。ウルグチャットから国境までの距離は相当あり、他の人の情報では25-35元くらいで行けるとかいうことだったがそんなので行けそうな距離ではなかった。50元で妥当だろう。
 さてイルケシュタム国境は中国での出国手続きを終えたあと、トラックにのせてもらってキルギス側へいかねばならないらしい。ツーリストも全然おらず、我々6人だけだった。さてトラックをとめて一人一人とめていく係の武装警察(河北人)が居たが、これがなかなか人なつこい人で適当なことを話していたら、その間に埼玉人が一人で先にトラックに乗っていった。なぜかその後トラックがつづかず、5人でボーっと待っていたがトラックの波がやってきてなんとかキルギス国境までたどりついた。
 入国して乗合ランクルやタクシーが待っているところにいくと埼玉人がいない。まぁトラックに乗せてもらって行ったんだろう。フランス人がとにかく金を値切るので、金の交渉に口を出さないことにした。そのおかげで一人900ソムでオシュまで行くことができた。オシュではとりあえず定番のオシュゲストハウスに行った。250ソム。

 10/25 火
 オシュ → ビシュケク 乗合ランクル 800ソム
 埼玉人が朝になってやってきた。トラックに一人でのせてもらってタダでやってきたらしい。また5人のうち一人はもうオシュにはもどってこないので、しばらく滞在するとのことでここから先、ビザ取りをいそぐ4人でさらにビシュケクまで進むことになった。
 オシュゲストハウスではビシュケクまでの相場は1200ソムだと言っていた。事前に聞いていたのは1000ソムだが、たしかに結構距離があるので1200でもいいんじゃないかとおもっていたんだが、やはりフランス人のおかげで800ソムの車をみつけることができた。客がすくない時期だからかタクシーやランクルの運転手がわっとたかってくる。こっちは4人なので値段の交渉もしやすいというわけだ。
 しかし乗った車はどうも家族で移動するついでに客をのせていくという感じだった。だから商売っ気のない800ソムだったんだろう。しかも現金をもっていないらしく、ガソリンをいれたとき、交通警察に止められたとき、峠の料金所、飯屋などでその都度金の先払いをさせられた。まぁ全部最初に払ってもよかったんだが、フランス人が先払いを渋ったのでそんなことになった。しかも結局そういう費用で我々の金は消えていったらしく、ビシュケクに真夜中着いたときには、ゲストハウスまでの移動にさらに金を要求され、そこで降りて南旅館のおっさんに来てもらうことになった。彼らはさらにイシクキョルまで行くとか言っていたので、追加で要求された500ソムはおそらくガソリン代だったんだとおもう。自分としてはまぁそれでもいいんじゃないかとおもったが、今まで渋ってきたフランス人がここでOKするわけがなく、そういう事になった。

 南旅館(サウスゲストハウス)は日本人宿として有名で、とにかく安く150ソムで泊まれる。ウズベキスタンのビザをとるのに一週間くらいかかるので安い方がいい。あと、あの埼玉人はこういう日本人宿は避けるだろうから顔をみなくてすむだろうという算段だ。来てみたらほとんど日本人の男だった。女の子が来るとおもっていたらしく、掃除とかしていたがフランス人のカップルだったのですこしガッカリしたようだった。

 漫画かきの埼玉人のことを書くと、彼は旅漫画をかいて本、しかも同人誌ではなく商業出版で出したいらしい。それをするにはすこし素朴な絵だった。あれだと内容がよほどおもしろくないと読まれないだろう。しかも会社をやめて二年間の予定で旅行しているそうだ。そして韓国人が好きらしい。どういうところが好きなのかというと、韓国の「年長に絶対服従」みたいな習慣がいいとおもっているようだった。また海外で会う長期旅行の日本人にろくなのはいないから韓国や中国の若者と行動を共にするんだという。たしかに海外にいる日本人にはそういう面もなくはない。しかしたいがい旅行している韓国人の若者よりは埼玉人の方が年上なので、韓国人の習慣にのっかって気持よいおもいをしているんじゃないかとおもわないでもない。それから、旅行の経験で人に感動を与えることができるとか本気で信じているらしく、素敵な旅とかいう気持ちわるいことをしきりに言っていた。あんまり気持ちわるいので旅行なんか金持ち国の人間の道楽だと言ってやったところ、ムキになって反論してきた。その反論のしかたがまた気持ちわるく、マザーテレサとか野口英世とかをもってきて、つまり一般に権威とされるようなものにすがって自分の意見をおしつけてくる。むかつくのでそういうのも全部金持ちの道楽で押しとおした。そんなのは物の見方の話でしかないのだから、あぁそうですかおもしろい(orかわいそうな)人ですね、ですむ話なのだがそんな芸当はできず、とにかく自分の意見に同意させないと気がすまないらしい。
 またドミトリーの同室の人間でも口をきかなかったりするようで、いっしょにオシュまで行った日本人もその一人だったそうだ。どうもちょっと話してそれで見切ったつもりになっているらしい。まぁしかし人を見る目がないとしかいいようがない。
 さて埼玉人は人を見切っているつもりであるようだが、露骨に無視されていた方でないもう一人の日本人の方は、埼玉人がなんか上から物をいう感じだったのであんまり近づかないようにしていたらしい。

 ここは台所がつかえるということで、スパゲティとトマトを買ってきて、台所にある塩をつかってトマトスパゲティをつくった。なんかみんなで飯をつくったりしてるようだがそれには加わらなかった。腹いっぱい食いたい。


2011/10/23 日 カシュガル

 そろそろウイグル語の勉強もあきてきた。

 ヤルカンドに行くつもりだったが、12月初頭にカシュガルまでもどって中国ビザを再利用するならその後にまわしたほうがいいような気がしてきた。ビシュケクでウズベキスタンのビザとりに一週間程度待たされるはずなので時間もなくなる。もっともここで仕入れた情報によると、タジキスタンは宿代が高いらしいのであっという間に通りぬけてしまうかもしれない。

 アフガン情勢だが、ニュースだけみていると和平交渉がそれなりに進展中で、パキスタンが悪者になりそうな流れもないでもない。

 Afghan trip report sept 2011, recent security + some FAQ - Lonely Planet travel forum
 ウズベキスタンとアフガニスタンのテルメズ国境はアフガン出国だけできるらしい。バルフとヘラートも今はタリバンが浸透しているらしい。ペルシア語ができたほうがいいらしい。


2011/10/22 土 カシュガル

 ドット欠けが筋状にのびてきている...

 北朝鮮政府「チョコパイは資本主義の象徴」と警戒=韓国から月600万個が流入 : KINBRICKS NOW

 例のマザールの論文で、イスタンブールにあるユースフの墓も再発見されたマザールと書いてあって驚いた。なんか変な墓があるなぁとはおもっていたけど。


2011/10/21 金 カシュガル

 昨日の夜、カバンをすこし高いところから落としたせいで、ノートパソコンの液晶に広範囲にわたるドット欠けが発生した。前回みたいに筋状に伸びてたりしないので今回はすぐ治るだろうと期待しているが、前回一気に治ったのは下界の暑さのせいかもしれないのであるいは来年の夏までこのままかもしれない。

 ここの滞在も一週間を越えてしまった。早いものだ。

 パキスタンは暑かったのでシャツ一枚になってしまい、ペン型スパイカメラを試しにくかったが、カシュガルまでくると普通に胸ポケットのついたカッターシャツを着ているので使える。今ごろになってそのことに気付いてちょっと撮ってみた。
 やっぱりそれなりの写真を撮るにはまだまだ訓練が必要だ。指で隠れてしまう点について注意したので隠れた写真はなかったが、何を撮ってるのかわからんような写真ばかり。やはり胸の高さというのはなかなか難しい。


2011/10/20 木 カシュガル

 だいぶ寒くなってきた。

 ペスト菌は600年前から変化せず:カラパイア

 中東TODAY: NO・2109「米軍駐留8年半の成果は水泡に帰すか?」

 痛いニュース(ノ∀`) : ラジウムの上で50年生活、1500ミリシーベルト浴びた92歳女性 今でも健康体

 G'zOne IS11CA | au by KDDI 一般
 G'zOne IS11CA | KDDI株式会社 ビジネス
 あーよかった。来年の7月にはこの携帯使えなくなるのでどうしようとおもってた。携帯を変えるだけの金はのこしとかんとなぁ。


2011/10/19 水 カシュガル

 中東TODAY: NO・2107「表面化してきたハメネイとA・ネジャドの対立」

 今口座の残高とかクレジットカードの利用履歴をみてたけど、8月に内蒙古あたりまでがんばって行ったのはかなり経費がふくらんでいた。逆にパキスタンに行ったのは全然金がかかっていない。物価の差もあるし、内蒙古のあたりは移動しまくったので移動費だけでかなりのものだということもある。


2011/10/18 火 カシュガル

 アメリカ人たちはホータンに行った。誰か入ってくるまでこのドミはシングルだ。

 スストでアライバルのパキスタンビザはとれなくなったようだ。先週末出発した人たちがカシュガルにもどってきていた。タシュクルガンの時点でパキスタンビザのない人間は通れないと言われ、実際にスストのイミグレに携帯で電話してみたところ仕組みがかわったと言われたとか。
 別の人たちも帰ってきたが、その人たちはタシュクルガンで食いさがったところパキスタン側から中国におくられてきた書類をみせられたそうで、それには10月11日の日付がついていたそうだ。

 このたびのたび・サハラで死体を運んだ話

 まぁアライバルビザ取り放題だった今までの方が異常な事態だったので、まともになったといえなくもない。

 パキスタンに行く前に買ったウイグル語の教本を今かたづけようとしているのだが、間にあうものかどうか...
 大众维语という本で、本来は新疆大学の生徒向けにつくられたものらしく、背表紙には「君たちの同学に聞けばわかるからテープはつけないぞ(要約)」と語学教材らしくないことが書いてある。ちなみに新浪共享にmp3が落ちてたのでそれを利用している。速すぎるがこんなもんかも。やっぱり音がないときびしい..


2011/10/17 月 カシュガル

 アメリカ人たちはどっか高いところの湖に日帰りで行くらしい。

 「ほこ×たて」緊急解説 | 製造現場ドットコム


2011/10/16 日 カシュガル

 アップグレードしたらキーボードが英語配列になってちょっとつかいづらい。特にvimでよくつかう:が一発で押せないのが困る。アップグレードの最初にキーボードの選択を選択する画面があって、jp106とかレッツノートの選択肢がなかったので「カーネルそのまま」を選択したらそうなった。
 他は.Xresources読んでくれてないっぽいとかあるけどその辺は変わるかもしれない。ただ、電気をなぜかやたら消費するらしいという点は早く直してほしい。
 setxkbmap なんか使う方法があるけどそれはその時だけだし英語キーボードと日本語キーボードの配列を併用したいというような心もないのでなんとかしたい。
 → /etc/default/keyboard に直接書く方法でなんとかなった。なんで106キーボードが最初の選択肢になかったんだろう。

 日曜バザールをみてきた。動物は別のところに移動したらしい。うーん。あのあたりも随分整備されてしまってるなぁ。

 ついでに解放鞋という、布鞋を軍靴風にしたものを買ってきた。18元。軍隊風の緑色で、足首まで高さがあるがあくまで布というもの。今まで歩きにくいといいながらはきつづけていた布鞋は捨てた。あの鞋は本当に足に負担をかけていたらしく、解放鞋をはいてあるくだけできもちいい。

 パキスタンで右上の犬歯にヒビが入っていたのに気付いたのだが、ここにきてついに欠けてしまった。とにかく上の歯がどんどんボロボロになっていく。近い将来全部入れかえるとかしないといけないんだろうか。
 欠けた歯はおそらくまた虫歯の餌食になって溶けていくんだろうな。

 同じドミトリーのベッドを全部占領したアメリカの老人たちのなかに一人だけおねーさんがいるがこの人は電通につとめているらしい。そのおねーさんの母親は仙台とか三沢基地で暮したことがあるらしい。米軍人脈か...


2011/10/15 土 カシュガル

 パキスタンで激流さんにもらったファイルのなかに読んでおくべきものが多いことがわかったのでカシュガルにいる間に読む。

 scp って resume できひんのか。知らんかった。
 rsync をいまごろになってはじめてつかう。

 ライブハウスはミュージシャンを育てない。なぜなら!:うがやの「毒にも薬にもなる話」
 巷にひとり在り : 戦場の狂犬部隊アルモガバルス

 今までとちがってネットの従量課金を気にしなくていいので1Gあまりのファイルをサーバにアップしようとして(非公開)失敗したり、新浪共享からダウンロードしまくったりしている。
 それで『蒋介石与莫斯科的恩恩怨怨』の正版や、毛沢東本の別のバージョンのスキャンをみつけた。10元で買ったこの本これから運ぶのしんどいし捨てようかな..

 巨大ファイルのアップロード中にカシュガルの博物館に行ってきた。無いのかとおもっていたけど小さいのがあった。
 入場料は6元とか書いてあるがただではいれる。朝に行ったらツアー客がいた。たぶん開館直後に来たんだろう。日本人団体がふたつ白人団体がひとつ。朝一に博物館に行くと日本人がうろちょろしている可能性がたかい。マジメだなぁ。
 博物館自体は小さくて古い上に二階だけしか使われていなかった。一階は事務室で三階部分にも展示ケースがあるが開いていない。

 ubuntu 11.10 がリリースされたようなのでネット使い放題の今の間にアップグレードしてみる。
 うかつにアップグレードするもんじゃなかった。やりはじめたらアメリカ人の老人団体がやってきてうちの部屋のほとんど空いていたベッドを占領したのはいいが、ダウンロードに時間かかっているうちに作業する時間が夜になってしまった。みなさんさっさと寝てしまったので、うかつに音をたてるわけにもいかず窓の外にコードをひっぱってほとんど露天の中なんとかアップレードをつづけている。


2011/10/14 金 カシュガル

 ドミトリーのイスラエル人が朝の暗いうちから荷物の整理をしていてうるさかったが、夜も明けようというころになって別のウイグル音楽っぽい音が外から聞こえてきた。ついでなので起きてしまって出てみたら、近くのレストランっぽいところの外で楽器をならしている。大鍋でポロをつくっていてみんなに大皿でふるまっているので、手振りでなんとか潜りこんで一皿くってきたが、結局なになのかよくわからなかった。帰ってから宿の人に聞いてみたら、結婚式らしかった。うーむ。行ってよかったんだろうか。

 白血病死亡者数|新・都道府県別統計とランキングで見る県民性

 今日はキルギスからまた日本人がやってきたので新鮮な情報を仕入れることができた。キルギスとタジキスタンではATMからドルを引きだせるらしい。ウズベキスタンのATMはつかわないほうがいいらしい。ビザの情報もいろいろ。

 やはりマザリシャリフとヘラートの交通が問題になりそう。

 USB棒つかえるかどうか試してみたらつかえなくなっている。一ヶ月の期間が過ぎたからか、一ヶ月つかっていなかったからか。


2011/10/13 木 カシュガル

 中国のビザには「発行日」と「この日までに入国すること」の二つの日付が書いてある。後者は有効期限の末日だとおもっていた。
 宿の人が宿帖つけてるのみてわかったが、「この日までに入国すること」というのはその通りの意味でしかもその日からビザの計算がはじまるらしい。ということで今もっている一年マルチ滞在期限三ヶ月ビザの「この日までに入国すること」は12月3日だが、文字通りの意味でいけばその日に入国すれば来年の一月末までいれるらしい。ほんとうかどうかわからんが、どうせ中国は15日間ビザなしで滞在できるので試すのもいいかもしれない。中央アジアを一ヶ月半くらい。コーカサスに行こうとかおもわなければいける。

 ヤルカンドは今の莎車らしい。

 Bento de Góis - Wikipedia, the free encyclopedia

 このCDどうみてもCDRなので、DVDとしてむりやり書きこんだからそもそも読めなかったんじゃなかろうか。

 やっぱり水シャワーが気持いいようなラホールは暑すぎ。だいたいカシュガルはパキスタンに行く前でも水シャワーがつめたかったくらいだから比較に挙げるべきではなかった。

 12ムカームが成立したのってヤルカンドハン(カシュガルハン)国時代なのか。


2011/10/12 水 ススト → タシュクルガン → カシュガル

 ススト → タシュクルガン 寝台バス 2600Rs
 バダフシャンホテルにつれてきてくれたおっさんたちはまだ荷物の通関が通っていないらしくまだ出発しないらしい。ということでNATCOで切符を買い、出国手続をすませる。出入国管理所に中国の寝台バスがとまっていたのであれにのれたらいいなとおもっていたら、出国する人数がNATCOのマイクロバスの定員18人を6人こえていたので6人そっちにのれることになった。普通前日に切符を買うところ、朝になってから買ったので寝台バスの方の名簿にのっていた。目出度い。
 中国の寝台バスとNATCOのトヨタのマイクロバスではまちがいなくマイクロバスの方が早いのだが、中国の国境にある荷物検査所でしつこい検査があるのでどうせ合流するだろうとおもっていたらそのとおりだった。しかも中国の国境で合流してからは一緒に走ってタシュクルガンまで下った。

 タシュクルガン → カシュガル 乗合タクシー 100元
 タシュクルガンについたのが日の暮れたころで、寝台バスがマイクロバスよりも先にイミグレに入れた。寝台バスは荷物がいっぱいあるからだそうだ。それでかなり早い時間に入国手続をすませたわけだが、早いのでタクシーとか待っておらずとりあえず道をあるいていたところトラックっぽいものにカシュガルとよびとめられた。150元で声をかけられたけど交渉して100元。(交渉というより100元と言ってきかなかったらのせてくれた感じだったが...)
 しかし客をひきにイミグレまで行くところだったらしく、そのままイミグレの前に連行され、一時間くらい待たされたあげく、別のランドクルーザーにのせられた。タシュクルガンでみかけた上海人ドイツ人といっしょになった。
 そのまま夜の山道をはしってカシュガルに朝の4時ごろ(新疆時間では2時ごろ)到着。上海人のおっさんといっしょにユースホステルに行ってとりあえず寝た。


2011/10/11 火 ラーワルピンディー → フンザ → ススト

 レッツノートの液晶の筋状ドット欠け、いつのまにか治っていた。痕跡すらない。下界の暑さのおかげだろうか。しかし暑い暑いと言っていたけど、カシュガルも下界よりは涼しいとはいってもそれほど涼しくはないのでそんなに強調するほどでもなかったかもしれない。

 10/10
 朝宿をでてイスラマバード行きのをさがすがどの辺走っているのかわからないので、北の方へ歩いてコミッティーチョークというところまで出る。そこで1番の乗合ワゴンにのって20Rsでゼロポイント。ゼロポイントから北の方へ行く乗合ワゴンにのりかえて10Rsですこし先まで。
 そこから歩いてペルシア語しか通じないという図書館へ行ってきた。用事は無事すんだが、しばらくペルシア語を使っていないので語彙がでてこずすぐにつまる。時制もかなり怪しく過去形すらちゃんとつかえない。まぁそもそも前もそこまで話せていたのかという話もあるが。ペルシア語しか話せないっぽいおやじがいて、すこし話をしたが、別れるときにはジェスチャーになっていた。あんまりひどいので話す気になれなかったんだろう。
 その図書館のあるブロックの中心の南東端に乗合ワゴンがあったのでピールワダイに行くのかどうか聞いたら行くとのこと。20Rsだったがもうすこし払う必要があったのかもしれない。カラチカンパニーを経由してピールワダイについた。

 ラーワルピンディー → フンザ NATCOバス 2020Rs
 ピールワダイについたが、バスターミナルではなく道路沿いにスズキやら乗合ワゴンやらバスやらが密集しているところについた。どうも自分の知っているバスターミナルは北部方面専門っぽい。その道路沿いのところからならラホールとかすぐ行けそうだった。
 なんとかバスターミナルをみつけたらなんともなつかしい感じがした。昔何度も往来したのはここだった。NATCOのオフィスをみつけるとフンザ行きがあったのでとりあえず買う。2020Rs。カラチ行きもここからでていた。2000Rsらしい。
 13:30出発のはずだったがバスターミナルをでたあとNATCOのターミナルに寄って荷物をつんだりして結局15時前になって出発した。満員ではなくうしろ数列が空いていた。最後列だったのでうしろの方に移動して二席つかった。
 しかしこのバス、バネがおかしいのか平地の舗装した道を走っているはずなのにポンポン跳ねる。この先がおもいやられる。しかし道自体は順調で、アボッターバードなどで渋滞につかまった他はスイスイすすみ、ベシャームのNATCOの休憩所についたのが22時。ギルギットについたのが翌10時だった。

 10/11
 しかしギルギットについてからがつらかった。ギルギットで荷物や客をおろして11時前に出発。来た時は舗装されていなかったフンザ→ギルギットの道が半分くらい舗装されていたが、未舗装の区間のバスの跳ねが尋常ではない。そういえば来るときもここは拷問みたいに感じていたのをおもいだした。中間にある休憩地点まではだいたい舗装されていたが、そこから先が未舗装だった。それでフンザのアリーアーバードに着いたのが14時過ぎ。

 フンザ → 湖 ジープ 150Rs
 湖 船 外人300Rsのところを100Rs
 湖 → ススト 乗合ワゴン 150Rs
 14時までに着かなかったらフンザに一泊しようとおもっていたがやっぱり一気に行けるところまで行ってみることにして、15時前湖行きのジープにのる。150Rs。湖についたら16時過ぎ。
 もう夕方なので客もすくない。金の回収のとき300Rsと言ってきた。パキスタンに来たとき100Rs払って何も言われなかったのは客が多かったからだろう。その船の組合がつくった書類らしきものをみせてきたので、もうこれからは300Rsとるんじゃなかろうか。船にのったころには湖面は山の影になってかなり寒くなっていた。
 二時間弱で湖をわたりおわる。そのころには日も沈んで暗くなりかけていた。こんな時間にススト行きがあるのだろうかと危惧していたが、ススト行きの乗合ワゴンが待っていて、船でいっしょになったおっさんとふたりでちょうど定員(三人がけのところに四人つめて計算する定員)いっぱいになり出発した。
 スストについたら真っ暗だったが、おっさんにつれられて来たときとおなじバダフシャンホテルに泊まった。おっさんが適当に交渉してくれたが、三人ドミ200Rsだった。おっさんは他の待ちあわせしていた人たちと泊まり、ドミといいつつ一人か?とおもったが、結局フンザから来たという別のおっさんといっしょになった。来たとき150Rsだったぞと言ったらこのおっさんといっしょだからということで150にしてくれた。

 寒くて気持ちがいい。


2011/10/09 日 ラホール → ラーワルピンディー

 疲れているような感じがするのはおそらく体が暑さに順応しようとしているからだろう。暑いとはいっても朝も随分涼しくなってきたが、何にしても、これから寒いところへ向かおうというのに暑さに順応してしまうのだけは避けねばならない。

 朝6時半に宿をでてひたすら歩き、途中朝飯がわりにバナナシェイクをのみ、7時ごろには駅についたが、駅前のホテル街のあたりを歩いていると典型的なニセ警官に出あってしまった。被害はまったくなかったが、時間をロスしてしまった。まさかパキスタンでニセ警官に会うとはおもわず、先日城の写真をとっていてパスポートチェックをうけたところだったので、相手が車にのったままだったにもかかわらず、おもわずパスポートとか出してしまった。幸いなことに目的は現金だったようで、貴重品入れのなかにある金らしきものをつかんでチェックしていたが、前もらった10万円をそのまま入れてあるのに目をつけて、それをどうにかしようとしたようだ。しかしあんまり露骨だったので、一部をこっそりてのひらに隠していたのをみつけ全部回収すると、やることもなくなったようでその車はさっさとどっかへ行ってしまった。
 いやー。あんな露骨なニセポリスにひっかかってしまっておはずかしい。

 ラホール → ラーワルピンディー 鉄道 エコノミークラス 250Rs
 駅について無事250Rsのラーワルピンディー行きの切符を買ったが、7時発の列車は行ってしまった。その次が8時半ということだった。たしかに8時半に来たが、その後9時すぎに出発した。しかも一時間ほど走るといきなり停車し、しばらくそのまま待ったあと、すぐ近くの駅までなんとか移動して、そこで3時間ほど停止していた。どうも機関車がおかしくなったらしく、機関車を交換していたようだ。
 ラホールの駅で列車にのるとき、あとをついてまわるお調子者の若者がいて、あんまりしつこかったので相席をゆるしてしまったが、とにかくうっとおしい。しかしそんなに遠くないところで降りるというのですこし我慢していたが、停車してうごく見込みもないとわかると相手するのにもつかれてさっさと寝た。あたらしい機関車が到着して再度うごいてからわかったが、彼が降りる駅は停止していた駅のすぐ次であったようだ。

 さて、今日中にイスラマバードについて用事をすませるつもりだったが、このままだと到着自体が夕方になり用事もなにもない。まぁしかたないのでひたすら外をながめていた。派手に遅延した列車にのってくる乗客もすくないので足ものばせる。

 日も暮れたころにラーワルピンディーについた。さて宿だが、とりあえず列車からみえた賑やかな方向に歩いてみた。とりあえずネットで適当にしらべたところでは高いのしかないということだから、まずはウルドゥー語で看板がでている宿をさがそうとおもい、路地に入って最初に行ったところが400Rs。うーむ。高いのか?その隣りは外人おことわり。ではその奥の裏通りには? とおもって歩いていると、中国人のおっさんに出会った。ある宿に値段をしらべに入ったタイミングがおなじだったせいで、部屋をシェアするつもりのようだ。うーむ?おっさんのくせに。しかもこのおっさん適当な日本語を使う。うーむ? さらにはこのおっさん相場感があるのかないのかよくわからない。ある高そうな宿に入ってふたりで1000Rsと言われて即座に断らない。たしかに払えなくはないのだが、そんな余裕あるなら一人でとまったらいいのに、とおもった。ある宿が200Rsだったけど断られたとか言ってたのでついていったら二つ目に尋ねた外人おことわりの宿だった。日本語をまぜてるけどやっぱりなんか発想が中国人っぽく「ごり押し&セコい」だったしそこまでしてオレと泊まらなくてもいいだろとおもったので、最初の宿が400Rsだとおしえて別れた。
 表の通りを歩いて宿に片端から入ってみるとどこも拒否される。HOTELとアルファベットで書いてあるところでもそうだった。しかし路地の中にあったところにはいってみたら300Rs。さがすのも面倒だったのでそこにした。単語を並べるだけの片言のウルドゥーが役にたった。
 しかしそこはパスポートをあずけろといわれ、しかも飯を食いにいこうとしたら部屋まで持っていくから出るなといわれる。しょうがないのでダル(豆カレー)をたのんだ。ラーワルピンディーになにか問題があるのかと聞いてみたら「カシミール...」とか言っていた。そう言っておけば納得しそうな答えをくれただけかもしれない。

 というわけでパスポートをどこかに預けているとかそういうことがないかぎり、ラーワルピンディーでそれなりに安い宿をさがすのは難しくなさそうだ。


2011/10/08 土 ラホール

 そういうとタラはtarがなまったもので、イェクタラは一弦の楽器のはずだが、シタール(セタールがなまったもの)に3本どころでない弦があるのと同様にイェクタラも弦が増加したんだろう。ラホール博物館にもドタラとかあった。

 暑いのとダルいので今日は一日寝ることにした。昨日おとといと歩きすぎた。
 もしくは昨日宿の近くにヨーグルト屋をみつけて朝からヨーグルト1kg食ったせいか。とりあえず腹もゆるい。

 カシミールに中国人4千人 印参謀長「人民解放軍も」 - 47NEWS
 しかしKKH、全然舗装されていなかったので、パキスタンが金はらわないから中国がいやがらせで先に舗装を剥いだんじゃないかとおもっていた。スカルドゥの発電所建設なんかも中国がやってた。あと道を歩いているとパキスタン人がちかよってきて「チャイナ、友達」とか普通に言うようになっている。そういう人に日本人だと言うと困ったような顔をしたりすぐに「日本、友達」みたいなことを言ったりする。

 疲れがとれぬ。


2011/10/07 金 ラホール

 この宿の主人の旧知というドイツの老人が昨日から来ているがこの人も音楽系ジャーナリストの仲間ということであるらしい。山下洋輔と知りあいとか言ってた。今朝、ubiet(ユビエット)とかいうインドネシアの歌手の歌を聞かされた。今の歌という感じだった。

 駅まで歩いてみたら案外近かった。しかもラーワルピンディーまで安い席なら250で行けるらしい。すぐ券が買える雰囲気だった。
 その後城まで歩いたら写真をとったからというので不審尋問された。アメリカのエージェントか?とかいう間抜けな質問があった。その後もガンジバフシュに入ろうとするとカバン持ち込み禁止なのでどっかにおいていけとかいわれたり、よくわからん人につけまわされたりした。どうも要人がうろつきまわっているらしく、リーガルチョークまで戻ると道を一時封鎖して軍っぽい警固の車を四台したがえたランドクルーザーっぽいものが高速で通りすぎていった。それで警戒レベルがあがっているのか。

 暑い暑いとはいいつつ、気候自体は日本の夏の終わり程度で、耐えられない事もない。しかし汗がだらだらでるので困る。もうインド平原から脱出したい気分。
 ラーワルピンディーに安い宿はなくなったようなので、ラーワルピンディーには泊まらず用事だけすませてそのまま北上しようとおもう。ペシャーワルも行こうかなとおもってたけどもういいや。
 安い宿がなくなったといっても、中国の宿を基準にしたら全然オケなので、泊まってもいいような気がしてきた。40元=500Rsだし。

 ネットに転がっているだろうとおもった本もそうそう転がっていないようだ。しかし買うのもなぁ..


2011/10/06 木 ラホール

 電子機器の水漏れであれば、一週間くらい動かないのは普通で、放置しておくと内部まで完全に乾いて動くようになるのも普通。結構乾かないものだ。

 今日はラホール博物館に行くぞ。

 ラホール博物館 400Rs
 ラホール博物館は写真を撮るのに金がかかるが、それ以上に問題なのが携帯持ちこみ禁止。自分のように携帯をカメラのかわりに使っている人間に写真を撮る機会はない。ということで、黙って持ちこんで、頼まれた分だけこっそり撮ろうとしたが、こっそりも何も常に見張りがいるのでそんなことはできない。それで堂々と撮ることにした。しかし失敗が予想されるのでとりあえず頼まれたコインコーナーからはじめたが、何回か注意され、最終的に他のパキスタン人の客からの苦情で携帯だけ受付に預けさせられた。まぁ他の客も携帯を預けさせられているわけで、うすぎたないヒゲの中国人みたいなのが携帯を出して写真撮ってたら文句の一つも言いたいにちがいない。
 イギリス領インドになる前のラホールの支配者シク教についてもそれなりに展示物があったが、General exhibition というところにおしこめてあった。中国の陶磁器なんかもあったが、清朝のものばかりでまぁ19世紀の金持ちは普通に収集していたんだろうが、見るにたえないものばかりだ。というか、インド亜大陸で見る19世紀の金持ちの収集物の展示は概して趣味がわるい。思っている以上に成金趣味だったんだろうか。
 考古の部屋が奥の方にあった。まぁ左から見ていくようにすれば、イスラム → 考古 → 宗教 → ガンダーラ という感じになるのでそう周るべきだったんだろうが、逆に回ってしまったので最後の方になった。まぁ General とか書いてある方がメインだろうとおもう方がおかしいんだろう。ハラッパとかモヘンジョダロの出土品のなかに細石器の石核っぽいものがあった。やはり古い博物館ということで、出土地別になっていた。
 ガンダーラも考古も展示物があったはずのところに何もない事が多かった。たぶん他の博物館に貸しているんだろうが、パキスタンのことなので、館員のだれかが勝手に売っぱらったのではないかと邪推してしまう。そのためガンダーラ仏の展示をみても、その顔がみんなインドかイランにいそうな顔にしか見えなかった。
 民俗展示でスワート特集みたいなのがあったが、人形を駆使して生活の諸相を表現しようとしていておもしろかった。写真撮れてたらなぁ。
 パキスタンの解放運動みたいな展示をみたが、イギリスの進出やマイソール戦争なんかから始まっていたが、そもそもパキスタンの概念はムスリム統治する範囲のことで、本来はインド全域がパキスタンだった、みたいな事になっているらしい。だからセポイの叛乱もパキスタン運動の一ページということになっているらしい。この展示をみていて意外だったのが、1947年印パ分裂のときのムスリムの暴徒という写真で、どうみても暴徒が人を殺しまわったような写真だが、そんなものが展示してある。シク教徒がパキスタン成立に反対した写真もあったが、彼らの暴行写真というのがなかった。中国ならまずありえない事態で新鮮だった。

 写真が撮れない上に暑くてじっくり見る気もおこらなかったので予想以上に早く終わってしまった。そこで旧市街を歩きまわることにした。パキスタン人が写真に撮られたがる事に気付くまでにすこし時間がかかったが、それがわかってからはわりとおもしろい写真が撮れた。
 バードシャーヒーモスクとかみたがあんまりおもしろいものでもなかった。しかしその門の上にあった「博物館」の中をみてすこしおどろいた。イマームフセインの遺品みたいなものも飾られていたので、シーア派のモスクということになる。そこに入る前におっさんが「ここにはなんとかのなになにが展示されていて云々、なんとかが4000年後に支配する云々」みたいな事を言っていたが、イマームの再臨のことを言ってたんだとわかった。

 旧市街と旧市街から宿までの間の市街地をまた歩きまわった。カッターシャツが破れたので新しいカッターシャツを買い、靴下もなくなったので靴下も買い、パンツも相当ボロくなっていたので買った。中国で買った布鞋がついに普通に歩くのもつらくなってきたので新しい靴を買おうとおもっていたが結局買わなかった。他のところで買うより断然安いのは間違いないがすこし躊躇してしまう。宿の近くのリーガルチョークの北側は秋葉原のような電気街になっていた。パーツ屋も多かったので、半田ゴテとか買えばペンカメラのスイッチをもっと反応のいいものに付けかえれるなとはおもった。うーん。そこまでするかどうか。

 そういうと、博物館でカッターシャツが破れたので、暑いことだしカッターシャツを着ずにTシャツだけで歩いたがこっちの方が外人らしくてよいのかもしれない。

 今日はこの宿のコネで聖者廟でやってる音楽会(スーフィーナイト)に潜りこめる日だったが、歩きまわって疲れてもう外にでるのもいやになっていたので行くのをやめ、ズボンを洗濯したりした。ついでに口のまわりだけのこしてヒゲをそってみた。ヒゲが剛毛かつ粗毛なのでどうもあんまりキレイにみえない。誰何される事を減らしたいという目的だが、減るだろうか。


2011/10/05 水 ラホール

 留学先のインドに帰る激流さんとわかれたが、ペン型のスパイカメラをあずかったので、テストのためにラホールの街のなかを適当に歩いた。適当に歩いたつもりが、昨日行った本屋街のあたりまで行ってしまったのは、ラホールの古い街は案外狭いということだろう。旧城内の旧市街もあと一歩だった。しかし暑いので疲れた。水を飲むとダラダラ汗が流れてくる。道々バナナシェイクやマンゴーシェイクやりんごシェイクを飲んだので結構な出費だったとおもうが暑いからどうでもいい。
 パキスタンの物価はあいかわらずよくわからない。ただ、ラホールの街の中をブラブラしていても、100Rsを越える食べ物も結構あるので、ものすごく安いのがあるのはあれは安すぎるのではなかろうか。

 それはともかく、スパイカメラだが、スイッチが甘く、撮ったつもりが撮れていないことが多い。せっかく撮れていても指で隠れてしまっていることが多いので、これは慣れないといけない。あと角度がむずかしく、人物の顔が切れてしまったりしている。画素数は多いが肝心の画質はあんまりよくない。これはレンズが小さい上にフォーカスを開いたままにしているのでしかたない。わりと近い距離での写真の撮りかたをもっと研究する必要がある。
 あと二三時間ブラブラ歩いて適当にパチパチ撮る分には問題なかったが、帰ってから角度の研究をしようとしたら電池が切れてしまった。なかなか難しい。

 ラホールでしばらくダラダラしようかなとおもっていたがとにかく暑いのであんまりダラダラしないかもしれない。暑いといっても日本の夏の終わりくらいなので、平気のはずだがこの中にいきなり放りこまれるとすぐに汗がダラダラでてきてしまう。暑い。


2011/10/04 火 ラホール

 スカルドゥにもどった翌日の10/2、バスにのってラーワルピンディーに行き、ラーワルピンディーに着いたその日(10/3)のうちにバスをのりかえてラホールへ。
 10/2の11時過ぎにバスにのり、10/3の19時前にラーワルピンディーのバスターミナルに着いた。途中チラースの前あたりでバスの警備のため、バスだけをかためて隊列を組んだりしたせいで一時間くらい待たされたり、アボッターバードでなにかの抗議の交通封鎖に会い、数時間足止めされたりいろいろあったので、12時くらいに着くとおもっていたのがそれくらいになった。

 下界に降りたので暑くて暑くてたまらない。とはいっても暑さは日本の夏の終わりくらいだが、山から降りてくると暑いのは変わらない。
 くわえてバスに長時間乗った疲れもあって体がだるい。今日は激流さんが本屋に行くのについていったが、本屋といっても学術系の出版社をまわることだった。しかしパキスタンにも立派な本屋があるのを知った。とは言っても過去に出版された英語の本をコピーして再版したものだったりする。おもしろそうなものが何冊かあったが、とにかく本がでかいうえにハードカバーだったりするのであんまり買う気になれなかった。どれも古い本なので、archive.orgなどに落ちていたりするんだろう。

 ラホールではリーガルインターネットインというところに泊まっている。ドミトリー200Rsですぐ近くにスーパーがあり、ヨーグルトなど買える。よく売っているネッスルの400mlのヨーグルト、フンザでは100Rs、ギルギットでは85Rsだったが、ラホールでは60Rsだった。輸送費がモロに反映している。
 しかしここではネットができるのだが、そなえつけのパソコンも無線LANでつないでいる。一時間40Rs。ノートパソコンは基本的に無線LANが前提で、24時間200Rs。高い。高いので逡巡してやめた。→ ノートパソコンとLANケーブルもっていってつなげてくれといったら、wifiで暗号を向こうがうちこむという方式で繋げてくれた。

 リーガルインターネットインの夜の催し物で、スーフィー音楽の楽団の演奏会みたいなのがあった。スーフィー音楽というのが何を意味するのかよくわからなかったが、教団が信者のために宗教的内容をもつ音楽をやってたのしませるのが目的らしい。太鼓以外は見慣れない楽器だったので名前を聞いてみたら聞きなれない名前だったが、パンジャビ語だった。後でもらった名刺にはフォーク音楽と書いてあったので、ローカルな色あいが濃いのだろう。まぁ結構な曲数をやっていたが、どれもおなじようなリズムだった。あるいは外人受けの調子いい曲を選んでやっているのかもしれない。
 楽器のなかで一番見なれないものはゴミを挟むハサミのようなものだった。長い鉄片を曲げて向かいあわせてあり、それをあわせて叩くしくみ。長いので反動で調子良くリズムをとることができる。


2011/10/01 土 ハプルー → スカルドゥ

 さて9/29に激流さんと合流したあと、9/30にハプルーに行き、10/01にスカルドゥにもどってきた。まぁもともとの激流さんの計画ではハプルーにある教団の道場をみにいく予定であったらしいが、ビザや飛行機でかなり予定が圧縮されてしまって普通の観光をするだけになった。しかしそもそもその道場(ハーンカー)も今改築中で、予定通りであっても目的が達成できたかどうかはわからない。チラースの岩絵見物とか見にいく意味があるのか実際疑問だったので、予定がくるって待ちくたびれてやる気がなくなったりしたものの、これでよかったんだとおもう。ハプルーでは Kunis というところに泊まったが、二人部屋200Rsで安かった。到着した日には気づかなかったが、今朝何もすることなく外をみていると、目の前にハンマームがあったので入ってきた。40Rs。安いというだけで泊まってシャワーとか電気とかは度外視していたが、ハンマームがあるのでこの宿かなりよい。
 チベットのツァンパとおなじものを食ってるということだったが、どう確認したものかわからなかった。しかし道場を見にいった帰り、英語教室の前を通ったらそこに呼びいれられたので、せっかくなので根掘り葉掘り飯のことを聞いてみたところ、ツァンパみたいなものを食っているということだった。バルティー語ではチャペーというらしい。Kunisに帰ってチャペーを食わせろと要求したら出してくれた。チベットのツァンパそのまんまだった。ただし、バターではなく、アンズ油をまぜるのにつかったがそれが普通なのかどうかはわからない。あと、バター茶も飲むそうだ。昼間に四回飲むとか言ってた。

 ハプルーとスカルドゥの往復はシャーハマダーンのワゴンをつかった。250Rs。行きは定刻に出発し、三時間弱でついた。帰りの出発は30分程度遅れたが、むちゃくちゃとばし、途中飯休憩などあったにもかかわらず三時間弱でついた。ハプルーとスカルドゥの間にはチェックポイントがあって行きは二回登録したが帰りは一ヶ所で日本人がいると確認しただけだった。行きの登録のとき、帰りにも寄れとかなんとか言っていたけどあれはどうしたんだろう。