つれづれ

2012/07-09
2012/09/30 日 フフホト(呼和浩特)

 蒋介石が尖閣にどういう事言っているのかを台湾版の蒋介石秘録でさがしてみたがみつからなかった。まぁ産経の連載がもとだからあたりまえか。ただ、台湾からすれば、今年は日本が国民党をみすててから40周年ということになるということがよくわかった。
 あと申報5版の中国分省新図(1948)をみると、外蒙古(いちおう独立を認めたとは書いてある)も南沙もビルマの野人山の向こうも中華民国の版図として描かれているのに尖閣は描かれていなかった。それでも八重島沖を走っている国境線が微妙に東に傾いてはいる。同年の中国分省新地図(亜光輿地学出版社)になるとあきらかに尖閣が日本側にあるのを意識して国境線を西に傾けている。1953年の新中国分省図もそうなっている。
 まぁもっともどれも画像データなので、申報の方は改竄してある可能性もなくはない。

「日本政府媚共親匪的態度、破壞了中日友誼。今後可能產生之後果、日本政府應負完全責任。」
  1964/01/09 中華民国の声明
『須知中日邦交的惡化、我們固然有若干不利的地方、而將來受害最大、尤其是將要自食其共匪顛覆擴張的惡果的 —— 都是日本』

  蒋介石 「鞏固臺灣與反攻大陸的要務」1964.1

 [徳力]グリーさん、モバゲーさん、「ゲーム」という言葉が「ギャンブル」や「麻薬」と同義語にならないように、是非ソーシャルゲームの明るい未来のビジョンを語って下さい。

 写真の整理をしだして、7月ごろの日記なんかもチラチラと読んでみたが暑い暑いとしきりに書いてある。よほど暑かったんだろう。熱で頭がおかしくなったのか、その後しばらく日記の文章もひどい。長文でダラダラ書いてあるうえに誤字だらけで文意が通じない。よくこんなの放置してたもんだ。これでも読む人そんなに減らないんだから不思議だ。

 写真の整理つらい...

 日本 - ロシア ビザ発給簡素化へ : JIC
 こんな事書いてあるな

 まぁ今中国は日米離間に必死なんだとおもう。


2012/09/29 土 フフホト(呼和浩特)

 モンゴル行くの寒いし面倒くさいなぁとおもっていたが、人民元は両替しやすいらしい。そんなら今たくさんもってる人民元も死なないのでとりあえず行ってから考えることにする。中国人からいやがらせされる事についてはあんまり心配していないが、うろちょろしてるとスパイ扱いされそうなのがいやだ。五原の方に行ってみるのはやめてこのままフフホトからモンゴル入りする。これでまた中国入りして国境であやしまれて面倒なことになったらいやなのでモンゴルから日本に帰ったりするかもしれない。しかしやっぱり安いからというので上海まで行ってみたりするかもしれない。

 モンゴルのウランバートルはメジャーな旅の目的地なのでなんぼでも旅の情報がでてくるな。

 カツカレーのネット非難を捏造した日刊スポーツ その親会社の朝日新聞にもっと高いカレーがある件 - ゴールデンタイムズ

 シャープ歴代社長の経歴 : 2chコピペ保存道場

 崑山に行く前の日記を読んでいて、そういえばレッツノートのコンバーチブルノートパソコンは今どうなっているんだろうと思いだして検索してみると、CF-AX2という新モデルで登場することがこの26日に発表されていた。→ レッツノートAX (CF-AX2) Panasonic
 ちなみに古い方はこれ → レッツノートC(CF-C1B) Panasonic  スペックをみていると、よくなったのかわるくなったのか微妙だが、今もってる5年前のCF-W5でもそれなりにつかえているのだから型落ちになった方を買っても使えるだろう。でも10万以下では買えないんだろうな。...価格コムで調べたら逆に値段があがっていた。なにそれ。
 AX2は店頭予価16万かららしい。うーむ。それから、VAIO Duo11 というのがでるらしく、それにスペックをぶつけているようだ。だから CF-C1 との連続性があんまりないのか。Thinkpad X230 Tablet はAX2とおなじように液晶モニタが回転する形式であるらしい。
 → 連続性がないのは喧嘩上等だからではなく、インテル様提唱のウルトラブックの規格に合わせているからか。なんとまぁ。

 こうしてみてると12.1型でも1600x900なんて液晶があるんだな。今持ってるレッツノートに液晶だけのせかえることができないか調べてみたらそもそもサイズが違うのでハマらなそう。3センチも横幅がちがうので削ったりしてもなんともならなそう。

 崑山に行く前には構想していたことがあったのだが、ここ一ヶ月ほどダラダラしていてもそれほど本を読みすすめれていなかったので、ダメかもしれない。


2012/09/28 金 フフホト(呼和浩特) ←→ 蒙牛

 さば水揚げ去年の2000倍以上 NHK

 サイトをブロックするアドオンに広告とか統計っぽいアドレスをいれとくとかなり快適になってきた。あと、http://とhttps://を区別するのでいろいろ便利だ。

 フフホト → 蒙牛 マイクロバス 13元
 鮮卑の最初の都城あとである盛楽をあつかった盛楽博物館に行く。その博物館のまわりは中国ではおなじみの乳製品会社蒙牛の本拠地であるらしく、バスのチケットの行き先も蒙牛になるが、博物館自体は蒙牛で降りれるところの先にある。バス自体の行き先は和林。
 朝、通达南站(南バスターミナル)に行ってバスのチケットを買うが、中型バス(マイクロバス)で、しかも和林行きは何台もあるのにその最後になる。どうも今日は客がすくないらしく、一台にまとめたようで、チケットの書き換えとかよくわからんことをしてバスにのせられた。出てからも客をひらう。
 そんな感じで、7時前に宿を出たのに博物館に着いたのは11時前。しかも人気がない。しばらくすると女の人がきて、「今なんとかだから十月一日にきて」みたいなことを言っていた。国慶節になると開くのか? だだっぴろいゲートの出口側をみてみると人民帽をかぶったおっさんがいるので聞いてみると今やってるから切符買って入れとか言っている。うーむ。まぁたぶん係員どもが仕事したくないんだろうな。
 ブラブラしてたら人がでてきたりしたのでしつこく聞くと午後の2時半こいとか言っている。うーむ。

 しょうがないので外でボーっと待っていたら、車で来ていた私服のおっさんが博物館から離れるときによってきて「おまえ何者だ」みたいなことを聞いてくてその挙句に身分証をみせろとか言ってくる。しょうがないので日本人だと言ったらパスポートをみていろいろ聞いてくる。「何回も出入国しているが何のためだ」みたいなところが気になったらしい。一応その後握手して去っていったが、さらにしばらくして黒い車がきておっさんが降りて携帯でこっちの写真を撮っていった。明らかに建物ではなく、こっちを撮りにきている。うーむ。
 おそらく不審尋問したおっさんは博物館関係者とかではなく、公安関係の人なんだろう。そして怪しい日本人ということであとから写真を撮らせたんだろう。これでまた尾行されだしたらいやだなぁとしばらく考えこんでしまった。地方だからそんなに日本人もうろうろしておらず、「あやしい日本人リスト」に入れられたらこまる。ハイラルでの事もあるし。
 一番いやなのは出国審査のときにパソコンやUSBHDDの検査をしつこくされて、写真を消されたりすることだ。今の情況なら、いやがらせでデータを全部消したりすることもありそうでそれが一番こわい。

 それはともかく盛楽博物館だが、結局入れてくれなかった。2時半にまっていたら中からでてきた人が対外開放してないから帰れみたいなことを言ってひっこみやがる。また適当なこと言いやがって。あんまりむかつくのでその場で大声を出していたら人がいっぱいでてきた。この怠け者が。2時半に来いとか言ってた奴がいたので問いただしたらそれなりの回答を得た。一人だと電気代がもったいないので団体が来たら入れてやるとのことだ。2時半というのは団体が来そうな時間ということらしい。国慶節なら開いてるとのこと。もっと早くそういう説明しろよ。おかげで不審尋問うけてしまったうえに知られたくない方面に日本人だと知れわたってしまった。
 ということで博物館なんぞに行かずに部屋で寝ていればまだまだ呑気なフフホトライフがおくれたのだが、なってしまったことはしかたない。
 もっとも、単純に国慶節前で警備が厳しいだけかもしれない。

 フフホト行きのバスがいっぱい走っているので適当につかまえようと、博物館の向かいで待っていたら南站行きのマイクロバスがすぐ来た。途中、市バス1路の始点を通り、駅に行くひとはここで降りろということだったので降りたが、最初っからぎゅうぎゅうづめ状態だった。1路は駅前の交通渋滞を抜けるのが時間がかかるのだが、今日乗ってみると途中繁華街も通るのでそこでも渋滞にまきこまれ、途中で飯くって帰ったら6時前だった。


2012/09/27 木 フフホト(呼和浩特)

 firefox にサイトをブロックするアドオンをいれて、twitterをブロックすることにした。twitterを見たいときに面倒だがまぁあんまり見ないようにすれば済むことだ。ついでに画像をブロックするアドオンを画像とフラッシュをブロックするのにいれかえた。これでUSB棒による中国でのサイト閲覧がかなり楽になった。

 液晶モニターの高画素数を体験するとノートパソコンの1024x768の狭い画面が窮屈に感じてくる。まぁ5年前に買った当時ですら狭いと言われてたくらいだからなぁ。国会図書館のPDFは余白が広いので読みやすい大きさまで拡大するとページおくりが面倒くさくなる。
 AcrobatReader の設定をながめていると、pixel/inch がシステムと固定をえらべるようになっており、現状固定の110になっている。システムの97を選んでみると若干クッキリしたような気もする。
 toolsのところで矩形選択かハンドツールかを選べたりしたのか。しらんかった。ハンドツールにしといたら便利だ。

 フジテレビ「とくダネ!」コメンテーターが安倍元総理の潰瘍性大腸炎を「お腹が痛くて」と表現⇛実は厚労省も指定する難病 - Togetter

 ちょっと南バスターミナルを見に行ってきた。盛楽というところまで行くバスがあるかどうか調べに行ったのだが、たくさんあるようだった。近くの大召をすこしみて適当に市バスに乗ったらフフホト東駅までつれてかれてしまった。帰るのが日のくれるころになってしまった。


2012/09/26 水 フフホト(呼和浩特)

 最近の日記があとからみてなんか締まりなくなっているのは、迷っていることを朝書き昼書き夜書き、みたいなことをしてそのまま放置しているからだろう。twitter的に日記を使うとこうなるという事だな。一日単位で日記を書いているのだからなにか迷っている事も一日単位で書いた方がよい。つまり迷ったことがその日のうちに解決したらそういう文脈で書きなおした方があとから読みやすい。読んでる人のことは知らない。

 中国が棚上げとか言っていたのは、そのときは中国にとって都合わるいから、というだけ。境目を共同管轄にしましょうといってその後実効支配をつよめ取りあげるのはロシアがやっている。アムール川のあのあたりもそうだし、日本人はもう忘れている人が多いが明治初期の樺太南部もそうだ。それを知らないとなぜ明治の日本がロシアを恐れていたかがわからないんだが、戦争末期になってからの対日宣戦とかシベリア抑留とか冷戦なんかでロシアの脅威が上書きされているので説明なしに通用したりしている。
 北方領土はたしかに辺鄙な土地だが、日本以上にロシアからみた方が辺鄙でロシア人も流動人口ばかりで固定していないらしい。北海道が栄えていたのは昭和30年代までで、その後は人口流出なんかでどんどん人口が減っているが、それは日本の田舎は全体にそうで、京都のすぐとなりにあるうちの田舎でもそんな感じだ。北海道の開発の歴史からいうと、まず漁場として開発され、樺太千島方面の海の幸を南に運ぶ基地として賑わい、内陸はその後すこしづつ開発されていった。明治中期の函館が日本有数の大都市だったのはそういう事情による。経済的なことを考えるとあのあたり一体として繋がっていた方がよいのはあたりまえで、スターリンも北海道を留萌ー釧路を結ぶ線でとろうとしていたが、さすがにやりすぎだろうというのでアメリカにとめられて北方領土だけしかとれなかったという事情もある。まぁつまり北方領土というのは北海道があってはじめて生きてくる土地だが、今は戦略的な価値、つまり潜水艦をオホーツク海に入れないようにするための意味しかない。
 朝鮮というのは侵略者に一方的にいじめられるかわいそうな国みたいなイメージで被害者面しているが、政権の支配する土地という点でみると、歴史的にはどんどん領土を広げている一方の国だ。主に北にむかって広げている。清末には満洲方面にどんどん農民が入りこんでいき、それをテコに図們江の向こうまで朝鮮にしようとしていたくらいだから格がちがう。それが実現できなかったのは日本が勝手にその件に決着をつけたからで、今でも間島はウリのものと言ったりしている。まぁもっといえば、高句麗の最大版図が頭のなかにあるので、満洲はウリのものという意識まである。対馬は竹島とならんで李承晩がウリのものと言ったところでさすがに対馬は無理だったが無人島ならアメリカも止められないだろうというので竹島はとってしまった。だいたい韓国からみれば対馬は済州島より近くにあるわけで、とれたらとりたいところだろう。ちなみに九州とかでも韓国の歴史学者のなかには百済に朝貢していた国があったとかいう奴もいるのでそのうち九州もウリのものと言いだすかもしれない。
 今の中国での反日意識というのは、日本が中国に戦争をふっかけていったという歴史的な経緯もあるが、それだけではなく中国共産党の正統性にもかかわる事なので、なかなかおさまらない。天安門事件以降共産党を正当化するための方向で近代史をまとめ、各地に記念物を大量にこしらえて熱心に教育しているのでもう若い連中ほどそういう意識が強い。今はまだ文革でひどい目にあった人たちがたくさんのこっているので中国の行動もこれでも抑制的だが、あと20年もすれば愛国教育で反日を叩きこまれ、共産党支配でひどい目にあっていない人たちが社会の主流になるので、日本との間で何かあったときにはもっとひどい事になるだろう。

 まぁ結局どうしようもないということだが。

 駅の前で麻の種を売っていたので買った。宿のおやじによると口の中で割って中の種だけうまく食べるものらしい。今まで殻が硬すぎて噛みくだくとささったりするのでもう手で割って食べてた。

 ヨーグルト450g売ってるのをみつけた。砂糖入りなのがちょっと難だがこれで栄養確保がかなり楽になる。

 ベッド一つの部屋に移った。20元。ついでなので100元札払って5日分としておいた。これであと5日はここにいることになる。
 モンゴルはもう初雪らしい。行くならさっさと行った方がよいのはたしかだ。

 日本三大都市 - Wikipedia

 春秋航空の茨城便、10/10以降なら5000円、高松便なら10/4以降4000円で買える。それに7080円追加されるんだがそれでも安いな。中国人観光客がいなくなっただけのことだろうけど。


2012/09/25 火 (通遼) → ウランチャプ(乌兰察布) → フフホト(呼和浩特)

 集寧南駅到着。集寧市からウランチャプ市に改名したのはそんなに昔ではないらしい。とりあえず宿をさがすがどうせ日本人おことわりだろうとおもって最初っから裏の方にいったら30元とかいう客引きがいたのでそれにした。しかしものすごくあやしい。客がいない間に荷物の中をさぐる泥棒宿っぽいんだがまぁいいか。盗られたら荷物が減るし。
 ウランチャプの博物館が今どうなっているかよくわからない。新館をつくっていてそれができたのか、できていないのかがわからないのでなんともかんとも。どうせ昼休みがあるっぽいのでしばらく日記を書いたり調べたりした。昼前に探しにいく。なくなったら本当に困るものは持っていくしかないな。

 宿を出ようとして、部屋に鍵かけてくれというと鍵かからないという。なんかゴネたらもう出てってくれみたいなこと言われた。まぁ盗難を恐れてそのままでることも検討してたくらいjなので、金が一部帰ってくるならいいかということでそのまま出る。20元もどってきた。

 古い方の博物館が住所だけだと駅から近いところにあるはずなので行ってみるがみつからない。その辺の人に聞いた方向に行ってもみつからんのであきらめて新博物館の方へ行く。バス停で市役所方面に行きそうなのをみつくろって乗ってみるとそのあたりに博物館っぽい建物が見えたので降りる。ドンピシャリだったが、みるからにまだ開業していない。博物館の前に石碑などがあったのでその写真だけとってきた。
 元代の石碑の字がほとんど読めなくなっているのはどうかんがえても文革のせいだろう。石碑系は無字碑になっていて悲惨だった。パスパ文字らしいものが刻まれている石塔なんかもあったが一部分だけ。石造の車輪みたいなのがあり、石造の円状の溝もあるのだが、これもよくわからん。元代の年号が書かれているが。石造物は全体に博物館のオブジェあつかいっぽかった。
 キリスト教徒の墓もあった。

 博物館の目の前にあった建設銀行と工商銀行で金をおろそうとするが、一方は1000元までしかおろせず、一方はおろせない。中国の嫌がらせが始まったのかとおもったが、この場合中国に外貨が入ってくるのでそういう嫌がらせはしないんじゃないかともおもっていた。バスで駅前にもどったら中国銀行があったのでそこで引きだしてみると最大限の2500元出せた。まぁ出せたのでよしとする。建設銀行か工商かどっちかが3000元ひきだせるはずだったのだが。

 あと集寧戦役記念館というのがどっかにあるのだがまぁもういいかとおもったので移動することにした。包頭行きの安いのはもうないのでフフホト行き。

 集寧南 → 呼和浩特 無座 10元
 無座だがこれは自由席という意味だろう。この列車はモンゴル国境のエレンホトから来ていたがガラガラだった。フフホト → エレンホトってガラガラなんだろうか。
 ウランチャプとフフホトの間には古い駅がのこっているのがある。どれくらい古いのかよくわからんが、駅名が旧字体なので結構古そうではある。
 中国っぽい丸い塚の墓がよくみえるのだが、その前にモンゴルっぽい山型のものが置いてあるのでモンゴル人の墓なんだろうか。

 フフホトについて前泊まったところに行ってみたらおやじがこっちのことを覚えていた。すごいな。しかし30元である。うーむ。といいつつもおやじがおもしろいので泊まる。まぁ二人部屋だからだな。おやじがものすごくなまっていることに気付いた。


2012/09/24 月 通遼 → (ウランチャプ(乌兰察布))

 今ごろ気付いたけど今日は月曜。つまり普通は博物館おやすみ。そんなこと昨日のうちにわかるはず...

 ところで乗っける飛行機はどうなった? - ネットゲリラ

 自動改札機の運賃計算プログラムはいかにデバッグされているのか?(前編) - Publickey
 結局網羅はできないんだな。

 科尔沁博物館 (科爾沁)
 昔通遼市博物館だったが科尔沁博物館になったらしい。
 博物館行ってみたら開いていた。なんと文字通りの年中無休であるらしい。しかも朝は8:10からやっていた。よくあることに昼休みがあり、朝の開館時間は11:00まで。どうせやっていないだろうとおもってちょっと遅れていったらもったいない事になってしまった。
 目玉は遼陳国公主駙馬合葬墓の展示のようで、それだけで一室つかってある。琥珀とかガラスとかが目をひいた。まぁ玉とかは麗々しく展示してあるけどなんかなぁ。しかし壺とかも大事に展示してあるけど遼的には金属器の方がありがたかったんじゃないかという気がしないでもない。
 科尔沁秘宝展とモンゴル族歴史長巻という展示もあるが、秘宝展は石器陶器玉器というふうに分けて展示してある。遼金元だけでなく、鮮卑のものも結構あった。それなりに歴史展示っぽいのがモンゴル族歴史云々の方で、一応東胡鮮卑なんかのものもちょろっと並べてあってこの科尔沁の歴史にうつる。チンギス汗の弟に起源をもち、明代にオイラートに破れて北満の方に移ったあと、清の勃興に力を貸したのでこの場所にきたとか。センゲリンチンもこの辺の人らしい。
 この通遼の西にある開魯のあたりが契丹がおこったところという伝説があるらしいが、詳しい説明もなにもない。まぁ開魯にある博物館に行けということなんだろうか。
 博物館の前に石造物なんかが置いてあったが柵がしてあって近寄れなかった。鐘も雨晒しのままで錆がでている。たぶん満洲国時代のものとかまじってるんだろうなぁ。

 通遼から内蒙古西部に行くには集通線といってウランチャプ(集寧)まで行くのが一番近く、国鉄の列車もそこを通るが、一応集通線は別会社の集通鉄路のものということになっているらしい。通遼駅発の列車は国鉄だが、哲里木駅発のが集通鉄路の列車になる。
 集通鉄路の列車が一日一本哲里木駅からでていて、ウランチャプ方面にいくにはそれが一番安く、硬座で56元。国鉄の約半額なので寝台が国鉄の硬座くらいの値段になり、できたら寝台でいこうとおもっていたが、発車時刻が12:03分。博物館を出たのが11時前で、その時点でかなりやばかった。しかも哲里駅は通遼の中心からはなれたところにある。一応google地図で場所は確認したものの、道がよくわからない。ネットで調べると近くを通る市バスの路線があるらしいのだが、どこまで本当かよくわからない。博物館を出たときにすこしバスをまってみたが、なんか調べたのと違うのが来るのであんまり信用しないことにして、とりあえず歩いてみることにした。困ったらとりあえず歩いてしまうのは悪いクセだ。
 歩いてみるがやはりまっすぐ行くバスはないようなのでいざとなったらタクシーにのるつもりであるいてみるが結局川を越えるまで歩いてしまう。その辺で道があやしくなってきたので、病院の前にとまっていた屋根つき三輪バイクタクシーにのっていった。8元。しかも意外と遠く、ギリギリ間にあうくらいだった。

 通遼 → 集寧南 無座 56元
 窓口で寝台を買おうとしたがないといわれ、しかも切符も発券できなかったようでそのまま列車にのることになった。乗ったらガラガラ。去年林東からフフホトにいく列車にのったときは超満員で拷問のようなつらさだったたと日記に書いていたが、今回はそういうこともない。しかも最後までガラガラで、硬座の長い席でずーっと寝て行けた。途中から乗る人はフフホトとかの大都市をめがけていくのでこれには乗らないということかもしれない。
 林東のあたり、つまり遼の上京があったあたりにちかづくと林が増えてくるが全体に草原状。まぁつまり長春のあたりからずーっと草原状だということだ。その先で日がくれたのでよくわからんが、林東の手前あたりから岩山が目立つようになっていたので、そういう地形もあるはずだが真っ暗だし寝ていたのでよくわからない。
 そういうと車内で身分証チェックがあったとき、珍しくパスポートの番号を控えたり、これからどこに行くのか聞かれたりした。普通はパスポートをチラっとみておしまいなのだが。


2012/09/23 日 長春 → 通遼

 双日長春営業所は今年の一月に安達街のビルに移転したところらしい。ちなみに安達街は線路沿で昔の満鉄附属地にあたるところではあるが昔の繁華街ではないからまずその辺ではないな。双日 ← ニチメン ← 日綿實業 は昭和18年までは日本綿花だったそうで、海外商工人名録. 昭和12年版(満洲国・中国の部) によって調べると日本綿花の新京出張所は日本橋通70にあったらしい。
 日本橋通は今の勝利大街で駅前から南東に走る斜めの道にあたるが、これが旧城の大馬道につづいており、事実上のメインストリートだったんだろう。建物も密集しており、先の商工人名録をみても会社があつまっている。「各種商店の外銀行、會社、電信、電話、郵政局等公共機關がある繁華街である」(『新京概況』1942)。昨日横浜正金銀行と書いてある建物をみつけたのもその通りだ。社員の住宅はどこかわからんが、同時期の地図をみると、もうすこし南の方に小学校が数個あるのでそのへんが住宅地だったんだろう。

 長春 → 四平 新空調硬座 19元
 四平 → 通遼 硬座 17元
 ネットでしらべると通遼まで結構安くで行けそうだったので行く事にしたがやっぱりもうすこし長春にいてもよかったかもしれない。
 目当ての四平まで9元のやつが直前すぎて買えず、その次のを買った。10元高い。買えたので宿から荷物をもってでて長白口から乗る。13:06に着くのだが、四平から通遼行きは13:30になる。9元のやつをのがしたのだが、ほとんど同じ時間に長春発通遼行きがあった。それが45元なので、今の合計額をみるとあんまり得していない。これなら普通に乗ったらよかった。
 長春から四平、四平から通遼は平原なのでそんなに景色もかわらない。川の流れているところを越えたが、たぶん昔は湿原になっていたような地形のところが今は開拓されて一面畑になっていた。

 通遼につくが、駅前の安宿街は日本人おことわりばかり。一軒泊めてくれるところがあったが飯くって帰ってきたらやっぱり派出所に行って「暫住証」をもらってこいといわれ、行ってみたらくれなかった。日本人には出さないことになったらしい。駅前の客引きのおばはんらによるとすこし前までは大丈夫だったが今は日本人はダメだということだ。なんというか予想通りすぎてこまる。吉林なんかも一度警察の検査があってそのときしばらく外に出ていないといけなかったからまぁ厳しくなったとはそういうことだろう。
 とはいってももともと泊まれないところがゆるくなって泊まれるようになっていただけだから元にもどっただけではある。中国中が新疆や北京のような状態になったということか。派出所で「市賓館」に行けといわれたので日がくれたにもかかわらずその方向に歩いていくと、広場のあるところについた。その奥にある建物が博物館っぽいので確認すると博物館であった。まだ賓館までは遠いがこのへんで泊まれたら便利だとおもい、ゆるそうなところをあたってみたら泊めてくれた。40元。しかし半分ネットカフェであるらしいうえに隣の部屋の音がつつぬけなのでゲームの音がうるさい。この調子で夜をすごすのはきびしいなぁ。泊めてくれるだけでもありがたいとはいえ、もうすこし選んだらよかったか。

 しかし 1920x1080 って広いなぁ。

 元の上都にいくには北京の六里橋バスターミナルから正藍旗に行くのが一番楽っぽい。集通線からアプローチするのは不便そうだ。
 [原创][贴图]世界文化遗产元上都遗址_正蓝旗吧_百度贴吧


2012/09/22 土 吉林 → 長春

 スキャン系の電子書籍をみるのにこのレッツノートの1024x768では狭くて荒くてとても見てられない。日本に帰ったらとにかくモニタだけ買うことを検討する。ノートパソコンの買い換えは... したいんだがお金がないので検討もしない。

 日本の週間天気予報をみるとだいたい最低気温が20度を切るか切らないかというくらいなので快適な季節になりつつあるようだ。モンゴルの二週間くらいの天気予報があったので見てみると寒くなったあと若干暖かくなるもののそのまま寒いままらしく、暖かくなるのを待ってもしかたない。

 USB棒の残量はあと600M弱らしい。広州市内に行けばあと6G程度は使えるようだがまちがってこれを買ってしまったのだからしかたない。全国流量2Gのうちこれだけのこっているのだからそれなりに使えたとみた方がいいか。

 痛いニュース(ノ∀`) : 【奈良】 働く能力がありながら仕事もせず一定の住居を持たないでうろついてた男を現行犯逮捕
 おれのこと?

 吉林から移動する気にならず、朝のハルピン行きや瀋陽行きの時間を過ごしていたが、あとから宿の人が最近警察の検査が厳しいので倍の40元出してくれみたいなことを言われる。まぁ昨日の夜も警察が検査にくるので一時間ほど出ていってくれとかいわれてしばらく出ていったのだが、それが本当のことかどうかはわからずとも実際に厳しい可能性はある。しかたないので列車の時刻をしらべたら長春行きは安いのがあったのでとりあえず長春に戻ることにした。

 吉林 → 長春 硬座 11元
 美人の向かいの席だったのでギューギューづめでも気にならなかった。といいつつ半分くらい寝ていた。

 長春に着いて今度は駅前の東側に泊まってみた。20元窓無し。東側をすこしまわったらこっち側は結構古い建物がのこっていた。中国人にはつくれそうにもない立派な建物があったのでおもてに回ったら横浜正金銀行と彫ってある。うーん。これは上から塗りこめていたからこのように残ったのか、新しく復元したものか。

 逸平のおじいさんって長春のどの辺に住んでたの?

 ビザが切れるまであと二週間。吉林にいたときはもう動きたくない気分でいっぱいだったが、長春まできたら移動する気になってきた。満洲をごちょごちょまわるのはもうやめてこれからはモンゴルをせめる。
 長春 → 通遼 → ウランチャプ → 包頭 → 五原 → フフホト → モンゴル突入 こんな感じかな。鉄道も安いのが一日一本くらい走っているのでそれでいけばかなり安くあがる。フフホト以外は泊めてくれるところをさがすのが大変かもしれない。
 他の案としてフフホトから上海に行き、一ヶ月観光ビザを買って広東までの沿岸を下るのを10月やるという手もあるがまだ暑いからダメか。というか日本の天気予報をみておもったけど、なんでこんなに暑いの?


2012/09/21 金 吉林

 もうチチハルはいかずにここから山の中を通る路線で 瀋陽 に出て 錦州 → 内蒙 というルートもいいような気がしてきた。しかしモンゴルの天気のわるさが気になる。やっぱりモンゴルはやめるか。

 狙いはインフラ サイバー攻撃で水道が止まる WEDGE
 これはやばすぎるwww

 龍潭山遺址公園
 結局行ってきた。高句麗時代の土壁がのこっていて、しかも清代にゲンが悪いというので一部切られている。山のてっぺんまで登ったら吉林の町が一望できた。水槽のあるところは通らなかったが、旱牢と名付けられているところはみた。解放軍の連中が訓練なのかjしらんが登ってた。入口の横に建設中の博物館とおぼしき建物があった。これ完成したら入場料取るようになるんだろうか。
 その後バスで北山公園までいく。旧市街のあったはずのところを通るがあんまり古い建物がみあたらない。うーん。北山公園のあたりにあるのは観光向けにたてられたものだろうし。古い建物を利用した満族博物館があったが入れなかった。

 帰ってきて寝る。うーん。なんか喉がいたい。喉の奥をみると崑山のころよりもひどい腫れ物ができている。できたのかずーっとあって益々わるくなっているのか。帰ったら病院行ったほうがいいんだろうなぁ。とりあえず観光とか出歩かずに籠ってゴロゴロしていたほうがいいような気がしないでもない。白城か長春にもどってゴロゴロしてようかなぁ。

 今まで列車の時刻をしらべるのに火车网をつかっていたが、中国鉄道部のサイトで調べたところ情報が古くなっていることがわかった。ただ鉄道部のサイトは混雑して使えないことが多い。時間だけであれば【火车票】-去哪儿网 でも間に合うのでこれからはこっちをメインに使うことにする。ただここは運賃があやしい。

 JR九州/旅名人の九州満喫きっぷ | JR九州 列車の旅
 上海 → 長崎船の旅いいなぁとおもいながら九州の切符を調べていたらこんなのみつけた。任意の三日なのがすごいが九州くらいの大きさだと連続した三日間で回るのがつらいような気もするな。
 SUNQパス 九州のバス乗り放題乗車券[サンキューパス]ご利用方法
 こっちの方がいいな。九州はバスが発達しているし。
 上海 → 長崎はこれ → オーシャンローズ|HTBクルーズ
 今のうちにのっておかんと、すぐなくなるかもしれないのはたしか。


2012/09/20 木 長春 → 吉林

 長春 → 吉林 硬座 11元
 宿を出て駅にいく。今日から北口の切符売場が使えるようになったらしく、北口切符売り場だとすぐ買えるとしきりにアナウンスしているので南口で買わずに北口へ行ってみるが、京都駅の八条口から地下道を通って烏丸口に行くようなもので、遠い。動車ではない安いのを買ったので、北口からは入れずまた南口にもどって待合に入った。さらに遠い長白口にいかずにすんだのでそれはよかった。
 長春から七台までは平原だが、そこから低い山になる。といっても吉林の方に近づけば平原状にもどる。まぁ吉林は松花江水系なのでその山が分水嶺になっているんだろう。

 吉林駅をおりて安宿をさがすが数軒まわっても外人おことわりがつづく。日本人だからどうのこうのということはなかった。ある宿で地下の謎の売春宿っぽいところにつれていかれたが、そこから地上の宿にまた移動させられてそこで20元。よくわからんがまぁ泊まれたらいい。
 吉林市博物館の位置をはっきり確かめず住所だけを頼りに探していったところ、松花江岸のキリスト教の教会にでる。やたら本格的な建築だったがフランス人がつくったらしい。中にはいったら信徒の人がいて、なんか説明をうけたが、文革のときでも内部が破壊されていないらしい。その割に内部はきれいだったし隣の教会の付属施設とおぼしきものが養老院になっていたので、まぁなにかに転用されてたりはしたんだろう。

 吉林市博物館
 教会の対岸にあった。吉林の近くに夫余の遺跡があって、その遺物が展示してあった。その後高句麗の好太王がここを版図にいれたときに作った高句麗式の城跡もある。石垣でつくった水槽がのこっているらしいが、ネットで検索すると今年その水槽で高校生が泳いで死んだりしているらしい。
 その後遼金の城もあったらしいがそれはさておき、明代にはここに船工場があってそこでつくった船で松花江から黒龍江へくだり、海へでていたとかなんとか書いてあるが本当なんだろうか。うーむ。
 清朝の展示で皇后の絵があったんだがなぜかやたら美化した絵が飾ってあった。光栄のゲームの絵のような感じの武将の絵まであった。なんなんだろうあれは。
 清朝崩壊後も吉林の中心として発展していたのは知らんかった。満鉄沿線に繁栄を奪われるというほどでもなかったのだろうか。満洲国時代の建設は日本が略奪するためのもの、みたいな感じで紹介してある。まぁ中国だしな。といってもさりげなく満洲国時代の下水管が展示してあったりする。
 吉林の金持ちで京劇好きがいて金をつぎこんで京劇の教育組織をつくり名前をのこした人がいるのだが、満洲国成立の前くらいに家業が倒産して北京方面に引っ越したらしい。歴史展示の方ではこの破産も日本のせいみたいな感じになっているが、京劇展示室のところにその倒産について紹介した当時の新聞が展示してあり、当時の経済政策のせいでバタバタと破産があいついだことが紹介してある。工業展示の方で「中国水力発電の母」とかいわれているダムが紹介してあるが、歴史展示の方では満洲国時代に日本が労働者をコキつかって作ったと書いてある。なんというかあっちもこっちも見れば補いあえるような展示になっていておもしろいといえばおもしろい。

 博物館が充実していたので、高句麗の城とか見にいく気もなく帰って寝た。高句麗の城には博物館があるような感じの紹介がされていたが、今作っているところらしい。そもそも元々吉林近くの遊楽地として有名なところであったらしい。景区になっていて金とられたりするんだろうか。どうしようかな。

 電子書籍はページの角をさわったりできないのがなんか気持ちわるい。

 ウランバートルの天気予報をみていると来週明けからしばらく寒くなるようだ。気温だけみていると日本の冬なみ。湿度が上がっているので天気がわるくなるんだろう。うーん。モンゴル行くのはまた今度にしよっかな。


2012/09/19 水 長春

 日本のマツダの完成車が韓国の浦項で分解されるわけ | Joongang Ilbo | 中央日報
 なんで日本で分解しないんだろ。

 今日は昼飯食いに外にでたくらい。明日吉林に移動しよう。その後のことはそこで考える。まぁどっちにしてもモンゴル行くならさっさと行った方がいいんだろう。もう十分寒いんだろうし。中国人に襲われたら襲われたときのことだ。

 長春の新華書店は狭いところに本棚がならんでいるところや本棚が低いところが日本の本屋に似ている。

 エヴェンキ自治管区で巨大ダイヤがゴロゴロ - ネットゲリラ


2012/09/18 火 長春

 須賀丈他『草地と日本人:日本列島草原1万年の旅』 こういう本があるらしい。日本に帰ったら読みたい。

 ちょっとバスにのって南の端の方にある市政府とやらまで行ってみた。駅と市政府を結ぶバスが二階建なのが不思議だったが、近くに高速客運站がありそこでみんな降りた。メインの長距離バスターミナルがそこになったということでバスと鉄道を結ぶ路線として活躍しているということか。満洲国皇宮を起点とした二階建観光バスがあると聞いていたが実際にはなかったものの、そのころ用意した二階建バスをこの路線に転用したのかもしれない。
 ついでに電脳ビルっぽいバス停名があったので行ってみたらそういうビルだった。一階にあったソニーや東芝のブースからは商品が撤去されていたが、二階以上にある日本関係のブースは普通に営業していた。

 HDD内にヘリウム充填で容量が40%増加 - GIGAZINE
 はしょりすぎだろ
 「容量無限のHDD」実現の可能性も、新たな物理現象が発見される - GIGAZINE
 SSDに置換されそうな勢いのHDDもいろいろと進歩してるんだな。


2012/09/17 月 長春

 宿の近くの通りに紐をわたして日の丸にペケを書いたものが吊るしてあった。

 首の周りにできてるブツブツをみてもらいに中日聯誼医院の皮膚科に行ってみたが、一番安い先生にあたってみたら適当な漢方の塗薬を出されてしまいだった。このブツブツ、見た目だけだとやばいものではないと判断されたらしい。まぁ口で詳しい説明もできんしな。そもそもよくなりかけているのだから、行かなくてもよかったんじゃないかという気がしないでもない。

 新京案内の地図に「歓楽地」というのがあったので行ってみた。それそのものはのこっていないだろうが下町エリアとして雑然とした町がのこっているだろうと予想できる。ただ、google地図の航空写真をみるとマンションがたちならんでいたので何ものこってなさそうではある。行ってみたらまだ破壊していない一角がのこっていてなかなか昔の風情があった。でもここもあっというまに破壊されるんだとおもう。
 まぁこれでだいたい新京の範囲もまわったかな。意外と小さい。戦後の都市拡大の前だから十分大都市だったんだろう。

 【佐藤優の眼光紙背】1997年11月11日付の小渕書簡があるため日本政府は尖閣諸島周辺の中国漁船を取り締まることができない(眼光紙背) - BLOGOS(ブロゴス)
 条件闘争では中国が上手っぽいな。


2012/09/16 日 長春

 今日はいい天気だ。デモ日和だね。
 長春の反日デモは今日あるらしい。

 今、南京軍区が実弾演習をやっているが、18日から瀋陽長春でも軍事演習をやるらしい。何の演習なんだか。

 宿のおばはんがいつ帰国すんのと聞いてきた。最近あぶないから早く帰った方がいいということらしい。うーむ。たしかに、移動は問題なくできるとしても、これからは宿探しが今まで以上に面倒になるかもしれない。どうすっかな。

 デモを見にいってきたけど時間があわず、見れなかった。

 一応帰りのことを調べてみる。
 蘇州号 上海 → 大阪 9/18,25,10/2,9,16 11:00 二日後9:00着 1300 + 150 元
 新鑑真号 上海 → 大阪 9/22,10/6,20 神戸 9/29,10/13 12:30 二日後9:30着 1300 + 150 元
 オーシャンローズ 上海 → 長崎 9/29,10/2,10/5 08:20発翌日11:30着 16200円   10/5のみ日中国交正常化40周年記念の安い席7400円 シングル11400円
 ゆうとぴあ 青島 → 下関 9/17,20,24,27 10/1,4,11,15,18 20:00発 二日後9:30着 1100 + 150元
 春秋航空 上海発 高松行きが17000円くらい。茨城行きは2万越える(10月の分を今から買えば12000円くらい)
 ピーチ 香港発関空行き HKD1200くらいで意外と安い。
 デルタ 北京発成田行き 1600元程度  長崎行きの国交正常化40周年キャンペーンちょっと気になる。

 あとは中国から韓国に行くルートもあるな。韓国からは釜山→大阪と東海→境港というのもあるが対馬に渡るというルートもある。うーむ。

 スマホでエアコン操作 パナソニック断念の不可思議  :日本経済新聞


2012/09/15 土 長春

 宿のおばはんだが、泊まってもいいのか聞いたところダメなわけないみたいなこと言われたので泊まっとくことにした。公安から資格がないと言われたのは安全じゃないからとかなんとかその程度の理由というのがおばはんの理解らしい。罰金の件は言われなかったとか。

 これからの案
 1 長春 → 吉林 → ハルピン → チチハル → 白城 → 通遼というふうにまた北をちいさく回る
 2 長春でダラダラしながら周辺をまわる
 3 通遼からフフホトまで一気に抜け、フフホトの西側あたりをちょっとみてからモンゴルに突入
 4 遊んでおらずにさっさと帰る
 なんかグルーっと大回りして満洲国の首都まで来たので双六の上がりに来たような気分だ。ダラダラし足りないようだな。

 重慶路という繁華街のあたりにいってみた。裏の方に古い建物がそこそこ残っている。骨董市を裏通りでやっていたのでそれなりにたのしめた。近くに護国般若寺というのがのこっていた。文革のときに入れ物としての建物以外はぶっ壊されたらしいがその後復元されたとか。石碑も復元されたのがあったがなんと満洲国時代のものが復元されていた。ここの一番えらい人の墓が後ろにあったが、それも満洲国時代のその人の記念碑が残っている。ちなみに墓に結構詳しい略史が書いてあったが白い石に刻んである上に半分日陰になってよく読めない。写真を撮ってきたけどやっぱり読めなかった。
 澍培法师_百度百科 ←この人。朝陽の人ということだったので漢人だとおもっていたが、モンゴル人らしい。この人の名前で検索したりすると川島芳子の名前がでてきたりする。
 テレビ朝日|報道発 ドキュメンタリ宣言 ← 日本語の情報源だとこんなのがある。


2012/09/14 金 長春

 尖閣騒動の見方
 A 中国は奪還作戦を実行するつもりで今はただの時間かせぎ
 B 胡錦濤が李克強を後継者にするため習近平を倒したので習近平ラインが反日を利用して騒動をおこそうとしている
 C 石原の火遊びで中国が腹をたてただけ
 次世代の指導者を選ぶ大会が延期されて目前に迫っているので、何がおこるかわからない。日本に対して屈しない態度をみせることで継承をスムーズにさせるかもしれないし、それを壊すための逆の策動などもあるかもしれない。習近平がみえなくなったのも本当に早期癌などの体調関係かもしれない。
 09/16 → 習近平出てきたが、いなくなったのは対日軍事作戦の準備といううわさもある。やっぱりAか?www

 中国は国連にまで言いだした。上下義憤とか言っているのでそれを示すために義和団騒動みたいな事をおこせばおもしろいな。中国にいる自分としては他人事ではないが。

 ちょっとバスで遠出したりちょろちょろ歩きまわってみたりしてみたけどあんまりおもしろくない。古い部分は残っていなくはないがかなり再開発されているようだ。満洲国新宮殿のまわりの旧満洲国建築をちょっとみたくらい。満洲国軍事部の建物がかっこいい。国務院もそれなりだがいまいちか。ついでにバスにのって満洲国皇宮に行ってみた。まぁ前も行ったのだがちょうどバスが来たので乗ってみた。近くのカルフールで腹ごしらえしたあと、皇宮の敷地内にある「東北陥落史陳列館」へ。ここはただで入れる。
 展示の内容的には日本がなんでもとにかく悪いということにしてある。万宝山事件なんかまで日本がしくんだことになっている。なんというか。
 うーん。開拓団の門標が展示してあったけど、パネルの写真とまったく同じものがある。まぁつまり写真をもとにしてそれらしく復元したものだな。というか全部そうだろうこれ。中国人がこんなもの残すわけがない。

 さてその陳列館で展示物の写真をとったりしていると、カメラの液晶をのぞいてくるやつがいる。うーん。そういうやつの一人が敷地を出るまでさりげなくついてこようとしていた。ちょっとやりすごしたらみえなくなったが、尾行されてたらいやだなぁとおもって巻くための努力をした。たぶん日本人で隙のあるやつを探しているんじゃなかろうか。昨日も駅前のヤマトホテルの写真をとってたら白い乗用車が入ってきてこっちを観察していたうえに、出てからもホテルの前から動かずこっちを観察しているのでその車の写真を撮って追いかけたらどっかに行った。北朝鮮国境付近とか黒河ーハイラルの尾行とかとは毛色がちがい、明らかに観光客を狙っている。どうも只事ではないような気がする。長春は大丈夫だろうとタカをくくっていたけど、8月の反日デモのときにはここでもはげしくやっていたらしい。うーむ。ただのデモ→暴動ならどうということないのだが、ここまでターゲットを絞ってこられるとちょっと只事ではないような気がする。ていうかプロがやってるだろ。逃げた方がいいのかもな。
 というか普通に考えれば明日明後日が土日なのでそこでなにかおこるはずで、まぁ今さらジタバタしてもしかたない。

 長春では9月16日に反日デモが予定されているらしいが、「南湖に10時」と「大経路と三馬路の交差点に9時半」の二つの情報がある。大経路は町の中心なのでこちらでの騒ぎを政府側がのぞむとはおもえない。南湖の方が公的情報に近いんではなかろうか。


2012/09/13 木 長春

 4年前泊まった宿周辺の写真2枚とgoogle地図の航空写真をじっくりみくらべてだいたいどこか見当がついたので行ってみたところ、すぐにどこかわかった。駅に近い方だと勘違いしていたが、バスターミナルに近い方だった。入ってみたらなんと宿のおばばがこっちの顔をおぼえていた。美人の娘はつれあいをみつけて田舎にひっこんだらしい。その娘の子どもつまりおばばの孫はもう大学生になったそうだ。娘とそのつれあいの携帯番号をおしえて、明日にでもその田舎の林東にいけと言うのだが、林東(巴林左旗)は遼上京遺跡があるところでもう行ってしまった。うーん。
 それよりも、やっぱりこのへんの宿は外人をとめると罰金として500元くらいとられるらしい。今泊まっているところもバレたら取られるんだろうか。もっともそれは噂でしか聞いていない話だそうで、現に今泊めてもらっているところは「私は講習をうけたから大丈夫、パスポートでOK」とか言ってた。まぁ今回夜中公安に踏みこまれて宿を追いだされるなんてことがない。今回どころか数年ないわけで、大丈夫なんじゃないかとおもうんだが、まぁよくわからん。だいたいWebで旅客登録しているから公安も調べる気になれば一軒一軒まわらずともすぐわかる。
 まぁしかし長春に長居しない方がいいのかもしれない。
 そういうと昔はなかったパソコンがその宿にも置いてあった。パソコンがないと泊まってくれないという。それに宿が増えすぎて商売もうまくいかないと言っていた。泊まってほしそうだったがあの部屋で60元はなぁ。

 太平洋戦争の盲点とその戦略的解答 の人のサイトとか見ていると結局海軍をもちあげ陸軍をさげているというよくある見方になっていて、どうかなとおもうところもあった。

 吉林省博物館があるので行ってみたが臨時展示だけしか公開していなかった。3階4階は10月1日以降開くとかなんとか。2階は開かないとか。さすが吉林省、博物館のやる気がない。
 行き帰りに関東軍司令部を見かけた。なんというか日本の城がいきなり中国の町のなかに現れるのでギョっとする。

 アルシャンのあたりの国境を開放するという話はモンゴル東部と内蒙東部を繋げるというだけではなくてもっとスケールが大きいらしい。北朝鮮ロシアとの国境、つまり延辺から長春をとおりウランホトへ抜けモンゴル東部へ抜ける一帯の経済を振興するという計画であるようだ。

 駅前にあるヤマトホテルを見にいったがいろいろとショボかった。ネットで調べてみると、改修をかさね、現存するヤマトホテルのなかでも一番昔の面影の少ないところであるらしい。うーむ。

 駅前のデパートの上にあるフードコートみたいなところにいってみたら意外と安かったので食ってきた。安いものなら一皿20元しない。その辺の飯屋でも最近は10元前後が普通になってしまったが、その辺の飯屋の料理はたいして手が凝っていない。ここのはそれなりに手が凝っているので値段なりな気がする。ただカードに入金する方式だった。

 午後帰ってから結局寝ていた。宿に公安から電話があったらしい。外人を泊める資格ないから明日でていってもらえ、と。web経由の登記はやはり確認できるようだ。今まででこんなことは初めてなので、なにか意図があるのか、もしくはたまたま確認したらこうだったのか。週末になんか反日イベントが企画されているので問題がおこったら困るからとにかく管外に行ってくれとかいう意味だったらイヤだなぁ。
 宿のおばはんはまぁ泊めてくれるらしい。どうなるか様子見だな。かなりひさしぶりに夜中の公安の訪問があったりして。

 なんで満洲国でなくて満州国なんだろう。国会図書館の本でみると、満州表記はたしかに20世紀初期にはすでにあったものの、満洲国が建国されるころまでには満洲が通用するようになっており、満洲国関係の出版物はほとんど満洲の字を使っている。ところが最近のは研究者レベルでも満州をつかうらしい。なんか「支那」とおなじ扱いをされている匂いがするなぁ。しかもこっちは支那以上に無意味というか無知な感じがする。
 一方でなんで日本で満洲という言葉を使うようになったかというと欧米の地理学の影響もあるものの、直接的には、日露戦争後ロシアの南満洲鉄道をとったことからロシアの地理感をそのまま踏襲したのではないかという気がする。満洲独立みたいなのも結局ロシアがやりかけていたことを踏襲しただけではなかろうか。なんか利権というのは業の深いものだな。


2012/09/12 水 長春

 吉林省城市系列地图之《长春城市地图》— 吉林省测绘局
 長春の地図の他にもいろいろ公開されてて便利。もっと早く知ってればよかった。

 宿のルータの口がすくなくウチの部屋のは抜かれがちなので宿替え。何箇所で断られるがなんとかみつける。20元。無線LANあり。
 雨が降ってきたな。
 全然やまない。あてにならない中国の天気予報をみると今日明日雨でその後はよい天気がつづくらしい。

 昔の長春の日記を読んでいたらそのままヨーロッパ編に突入してしまい、長々と自分の旅の記録を読んでしまった。あのころは時間に追われて旅行しているので切迫感があるわりにその時間内にできることをしようとがんばっているのがみえてもうすこしゆっくりした方がいいんじゃないかとおもうくらいだが、現状のダラダラをみれば、セカセカした方が実りがおおいのではないかとおもう。

 中国降水量24時間予報
 中国降水量48時間予報
 中国降水量72時間予報
 中国の天気予報はあんまりあてにならないが降水量分布予報図は参考になる。まぁこれからは天気がよくなる方向だな。

 石原の息子どうにかしたほうがいい。というかあんなの選ぶようなら自民党も機能できていないことになる。なんで谷垣クンでてこないの?

 中国で15年戦争なんてことは言わない。中国では当時抗戦何周年というのを毎年やっていた。もっともそれは支那事変から数えてのことで最終的には1937から19458年になるが、満洲事変から数えたとしても同じ数えかたをするので、その場合は14年になる。日本人で15年戦争とか言いだした連中は、結局他人事だから年表の上で1931から1945だろとかいって15年というわけだ。だから中国の「愛国主義教育基地」にいってそういう展示をみたときに、日本の「15年戦争」とかいう見方に影響された見方で年数を書いていても14年と書いている。だいたい日本でも「太平洋戦争」を何年戦ったかと言えば1941から1945年の5年間と数える人はいない。普通は3年9ヶ月もしくは4年である。これからみても15年戦争と言う人がどれだけ他人事あつかいしているかわかる。
 十五年戦争 - Wikipedia
 Wikipediaによれば言いだしたのは鶴見俊輔らしい。

 太平洋戦争の盲点とその戦略的解答
 いやこれはすごい。
 この人のブログ → Pathfinder Physics Team


2012/09/11 火 白城 → 長春

 ダウンロードした国会図書館の本がなにげに28Gに達している。以前ダウンロードしたのに目次をつけなおしたのもあるから25Gくらいは中国でダウンロードしたということだろう。いやはや。まぁしかしこの程度で窮屈になるようなHDDは交換したいものだ。

 白城 → 長春 無座 21元
 白城から長春にいく一番安い列車は一番遅く、他の列車の二倍以上かけていくので客がすくない。席の指定がなかったがこれは全席無座で売り出しているんだろう。
 白城から松原のあたりまでは平原。長春の近くになってすこし起伏があるようになり、景色もおもしろくなった。やっぱり平原だと真っ平らすぎる。立体的になっていると見がいがある。線路脇には満鉄電柱があった。
 しかしこの調子だと、昔は満洲の平原部は蒙古のものだったんだな。日本が東蒙古東蒙古と言っていた時代があったが、なるほど満鉄のすぐ横まで東蒙古だったわけだから、大連から瀋陽あたりまでおさえるとその次は東蒙古ということになるのもわかる。今の内蒙古自治区で考えてしまうからなんかよくわからんことになるんだな。今の内蒙古はそのいわゆる東蒙古の平原部を開拓してしまったあとの高原部になるわけだ。

 長春に着くが臨時の駅でおろされた。臨時の駅は長春駅の東側にあるので歩いていけばすぐ駅前につく。まぁ高速鉄道とか通したりするためにいろいろ改造しているんだろう。駅前も2008年の年末に来たころにくらべると随分変わっていてかなり開発されているようにみえる。もっとも前回来たときはもう寒くて氷点下10度以下の世界だったのでそのせいかもしれない。前泊まったところをさがしたがよくわからんかった。適当に30元のネットつきのところに泊まるが、30元にしては箱みたいなところなので探せばもっといいところあるのかもしれない。

 そういうと長春は省都だけあって、若者があつまるようで、美人が目につく。


2012/09/10 月 白城 ←→ 洮南

 長崎の唐通事が話していたのは南京官話で、明治新政府にそのまま仕えたが北京官話が主流となっている清との外交に差し支えがあるようになり北京官話を習得するようになった、と国会図書館の何盛三『北京官話文法』1935 に書いてあったのでネットでいろいろ調べてみた。
 南京官話って19世紀初頭まで主流だったのか。「マンダリン」が示すものも南京官話だったらしい。でしかもそういう実態が知られるようになったのが80年代後半以降であるらしい。知られるといってもそれは音韻学者の間でのことであろうから、一般への普及はより遅れることになり、自分など今知った。雍正帝が宮廷言語を自分の話す言葉に統一したという話があるが、それが実態となったのは一世紀遅れることになる。まぁ雍正帝の件は中国のネットでの言説なので話半分で聞いたほうがいいんだろう。→ (雍正年間に正音館をつくって北京音を普及させようとしたことを指すらしい)
 契丹文字の漢字音は1985年に解読され、北方方言が表現されているらしい。北京語口語音はその直系子孫ということになる。南京官話が通用言語だったから、北京音には南京官話が文語音として入りこみ、文白異読の字が出てくる。多音字が結構あるのはその名残りであるようだ。
 今となっては正統でなくなった南京音は電波にのってくる北京音に圧倒され、当の南京でも年寄りしか使えなくなっているらしい。まぁ絶滅もすぐだろう。

 西郷隆盛 高杉晋作 平野次郎 (JPEG 画像, 2592x1728 px)

 白城 ←→ 洮南 バス 9元 頻発
 洮南府に行ってみた。このあたりが東蒙古の一部分だったころ、その蒙地にあった一番大きい町だ。出口王仁二郎が蒙古布教にでかけて失敗したときもここを経由している。→ 第一三章 洮南旅館 - 霊界物語ネット
 まぁ日本人街もあったそうだが、行ってみたら何もなかった。白城からはバスで30分、町の規模もそこそこあるが、なんというか古っぽいものがみあたらない。ここまで何もないのも珍しいので適当に市バスにのったら畑のどまんなかにつれていかれた。そのまま折りかえしてバスターミナルにいって白城にもどった。
 満蒙都邑全誌の山田久太郎はここに関係あったらしく、めずらしく「此地は筆者に縁故深し、大に其發展を祈らざるを得ざるなり。」とか書いている。

 会社にとんでもない女がいた話 - ゴールデンタイムズ
 まぁしかし自分も浮いてる系の人間なので、このアントンのことを笑えない。

 わかった : 二階堂ドットコム

 富山房『最新世界詳図』1925 をみていると、北京から熱河赤峰を通り、洮南を抜けてチチハルへいたり、そこから黒河までいくという鉄道予定線が書いてある。今にいたるまでその路線は実現していないが、北京から黒河をほとんどまっすぐ結ぶ線でなかなかおもしろい。しかもいわゆる東部内蒙古のどまんなかをつっきるような感じになっている。漢人移民が入りこんでいるとはいってもまだモンゴル人の土地だという意識がのこっているころだから東蒙古もわかりやすく大きく海岸線の近くまででっぱっている。1925だから張作霖が計画したとかなんだろうか。これが実現しなかったのはどうしてだろうか。
 まぁ実現すると北京とシベリア鉄道の短絡線ができることになり、満鉄の値打ちがさがることになる。だから満鉄ないし日本があの手この手をつくして妨害したとかいうことは考えられる。

 あと内蒙と外蒙の境界はどの地図をみてもいろいろ違っていてよくわからん。ノモンハンのあたりは案外大差ないのだが、アルシャンのあたりから南の方の変化が大きすぎる。


2012/09/09 日 白城

 ウランホトのジンギスカン廟で買ったアイスにあたって昨日は腹を下していた。やばいアイスはやっぱり変な風味がある。

 白城博物館
 朝行ったら係のおばはんが事務室にいて展示室をあけてくれた。しかし愛国教育の展示室は見せてくれなかった。
 古代の展示室の真ん中には鮮卑の墓の人骨が展示してある。それはそれとしてこのあたり、遼の四季巡行のルートにあたり、春のころはこのあたりにいたそうだ。ということで遼の遺物が多い。今までぐるりとまわってきたが、ようやくそういう所まで下ってきたということか。このあたり洮南の方が古い町なのかとおもっていたが、土地柄だけでいうと白城の方がふるい。
 近現代の方には満洲国時代の新聞も一部展示してあった。近現代ということで文革からつい最近のことまで展示してあった。

 午後はダラダラして過ごす。ここは安いのに広くてネットがつかえるのがいい。ここからさきどうするか。チチハルにいくというのが当初の考えだったがさっさと長春にいってしばらく滞在するのもいい。まぁここにしばらく滞在するのもなかなかいい。駅前広場を一望できる部屋に20元で滞在できるのだから部屋の条件としては相当いい。しかもこの辺りの宿の供給過剰状態を見ればしばらくどっかに行ってここに戻ってきても空いているだろうということはわかる。ハイラルあたりで二週間程度ダラダラしたのだから長春でいい宿みつけてそれくらいダラダラしてもいいような気もする。ここは部屋の条件はものすごくいいが、その他には特に何もないしなぁ。


2012/09/08 土 葛根庙(葛根廟) → 白城

 駅まで歩いてもどり朝飯を買いに駅の前の売店にいくと、葛根廟までの距離をおしえてくれたおばはんがいた。今日は廟会があったらしい。市の立つ日だったんだろう。うーむ。霧が晴れるまで寝てたらよかったか。まぁしかたない。大した距離でもないので戻ってもよかったが野宿で疲れているので白城に行くことにした。

 葛根庙(葛根廟) → 白城 硬座
 ウランホト行きの鉄道は結構あるが、ウランホトでは列車をためておくことができず、一度白城まで戻る。満洲里行きの列車がハイラルにもどるようなものか。これもウランホトから戻る列車で、検札もゆるかった。駅でも切符を売っておらず車内でも検札されずあっというまに白城についたので結局切符を買わないままだった。買っても安いはずなんだが。

 白城について宿さがしだが、20元でLANケーブルありのところがみつかる。駅前に安宿がいっぱいあるから供給過剰なんだろうな。公安に旅行者を登録するWebアプリが北朝鮮に近いところと同じだった。疲れたので昼まで寝る。
 午後、博物館を見にいったが、開ける係がいないとかいうよくわからん説明をうけておいかえされた。

 内蒙古人民共和国、東蒙古自治政府、蒙古自治邦、蒙古連合自治政府


2012/09/07 金 乌兰浩特(ウランホト) → 葛根庙(葛根廟)

 宿のおやじが身分証がないと泊まれないと言ったので迷惑かけないために荷物をかついでとっとと出る。

 興安博物館
 内蒙古民族解放記念館
 ともに同じ建物に入っていて市政府の横にある。民族解放記念館の方が正面。駅から1路のバスで行けるけど結局歩いていった。博物館の西にはバスターミナルもあるし、1路のバスでジンジスカン廟も行けるので観光はこれで十分だとおもう。
 興安博物館だが、まぁ土地柄大興安嶺出身の北方民族政権博物館みたいなかんじになっていた。東胡 → 鮮卑 → 契丹 → モンゴル左翼 → 清代のオロチョン族、哲里木旗 → 漢族移民 という感じ。金と清の満洲族がないのは本拠地ではないからだろうが、東胡契丹もこの辺よりもうすこし南な気がする。範囲が広いがここが「東蒙古」の中心だからこういう博物館になったんだろう。l
 階段の踊り場に興安千秋史として各時代の文字があるが突厥文字とか西夏文字とか混じっている。展示にはないのだが物としてはあるんだろうか。
 東胡の石像なんてのをはじめ、あんまりよくわからん東胡の遺品が展示されている。まぁしかし、燕に北方から圧力をかけたみたいに書いてあるが、燕の方が北に進出していったんじゃなかろうか。石像は他に突厥、モンゴルのものが展示してある。
 契丹の軍鍋とモンゴルの軍鍋がおなじスタイルだった。
 別室展示で仏像がいっぱい置いてあったんだが、ほとんどが近代に作られた模倣品だった。どういう由来があってそんなものがあるのかくわしく説明がない。北朝仏の模倣品が多いので、まぁ満洲国時代になにかあったんじゃないかとおもうがよくわからん。

 内蒙古民族解放記念館は前言によると、阿片戦争以来モンゴル民族は外国列強の侵略と北洋軍閥国民党の大漢族主義の圧迫をうけ、民族滅亡の危機にたたされていたが中国共産党の民族政策によって1947年自治政府を獲得し民族解放の新世紀を開いた。1956年毛主席と党中央の指導により内蒙古の歴史的地域を回復し徹底解放を実現したとある。阿片戦争以来というのは中共様の史観にたったもので、なんかズレているような気がするがモンゴル騎兵が清の軍事力の一つで阿片戦争でも出兵しているからということらしい。1956年に徹底解放云々というのはこのウランホト(赤い町)を中心として1947年自治政府をつくったあと、1949以降に解消されて省に再編されていたところから自治区になったことを指すらしい。これは毛沢東が徐々に東西内蒙古を統一するという方針を出したからであるらしいが、内蒙古がこういうあつかいなのは李大釗が内蒙古対策に力をいれていたからだろうか。
 この東蒙古を中心として最初に自治政府をつくったというのがおもしろい。自治運動から始めるあたり、日本とやりくちが同じなところが特におもしろい。では現在のフフホトを中心とする西蒙古はどうなっていたかというと1949に日和るまでずっと溥作儀がおさえていた。自治政府をつくったといっても中共の傀儡政府だから満洲国軍が支那事変に出兵しているように内蒙古騎兵は国共内戦に参加している。
 阿片戦争のあたりから始めているのは、マルクスが中国軍(清朝の蒙古騎兵)の英仏軍との戦いを褒めているからであるらしく、それがメインになる。
 清朝が漢人移民を大量に導入したことについてモンゴル人の反感をかい武装蜂起をおこしたとか無邪気に書いてあるのがすごい。そのことについてなんら解決してないだけでなくますますひどくなったのだが、そういうことはひとことも書いてなく、政府の政策がわるかったからということでそっちの責任だけをあげつらって反抗を称揚している。
 (内蒙古に漢人が急増したのは満洲国時代であるらしいがそのことは紹介されていなかった。)

 その後ジンギスカン廟を見にいったが、入場料が高かったので入らなかった。満洲国時代に作られた建物で大事にされているのはこれくらいか。

 ウランホトが東蒙古の中心だったということでもうすこし泊まろうかなとおもっていたが、駅前ですこし宿さがしをすると中国の身分証がないからということでことごとく断わられてしまう。しかたないので移動することにしたが、まっすぐ白城にいくのもおもしろくないので、葛根廟事件のあった葛根廟にいってみることにした。田舎なら泊めてくれるだろうという腹だったが、着いてみると街灯もついてないような田舎で一応宿が一軒あったがそこでも断わられる。そして白城にいく列車は明日の朝までない。ウランホトまで戻るのも癪だ。葛根廟の町ではなく廟そのものがすこし離れたところにあるらしいのでそこに行ってみることにした。30分くらい歩いたらたどりついたが葛根廟の前の広場の周りには何もない。うーむ。犬がほえる声が聞こえる。野犬がいたらこまるので、神社の狛犬のような感じで並んでいる一方の象の像の下で野宿することにした。最初はそれほど寒くなかったが朝になるにつれだんだん冷えてきて濃霧がでてきた。寒くて目がさめるくらいだった。

 ウランホトを出てすぐのところに鉄道に面した要塞らしいものがあった。日本軍の残したものだろうか。


2012/09/06 木 阿尔山(アルシャン) → 乌兰浩特(ウランホト)

 さすがに疲れた。

 アルシャンの西にある冷泉まで歩いてきた。五里泉という名前だった。全然期待せずに行ったが意外とうまかったので昨日買ったペットボトルの水をすてて入れかえた。しかし湧き水が湧いているところに建っている亭とでもいうような建物はそこから水を取りだしてパイプでどっかに送っているらしく、その建物自体には入れなかった。建物の下の湿地の中に渓流がありそこまでコンクリで固めてあって渓流の中に枠がありそこに余った水がでているらしい。しかし冷泉の水はパイプでねこそぎ送りだし、その渓流の水を迂回させて流れでているようにみせかけているだけじゃないかという気がしないでもない。まぁうまかったからなんでもいい。

 阿尔山(アルシャン) → 乌兰浩特(ウランホト) 硬座 23元
 アルシャンからウランホトまでは川ぞいに下るのでそれなりに景色がよいのだがあんまり窓の外をみなかった。
 日がくれた夜の8時すぎにウランホト到着。今までの辺境めぐりにくらべるとすごいでかい街にみえる。駅前にも宿が密集している。とりあえず客引きにひっぱられていったがなんか気がのらずに断わった。しかしどこも条件はにたようなもので同じようなところに泊まった。そんなら最初の宿のおばぁのところにとまってもよかったのだが、そこは駅横の奥で駅に近すぎるので駅のアナウンスとかがうるさいような気がしたのだ。
 地下のPC部屋。30元。体をあらうところなし。しかしここの液晶も1400x900がある。今はこれで普通なのか。デスクトップだからそうか。


2012/09/05 水 海拉尔(ハイラル) → 阿木古郎(アムグラン) → 诺门罕(ノモンハン) → 阿尔山(アルシャン)

 天気もよくなってきた。曇りだが雨は降っていない。今日はノモンハン方面に行くか。内蒙古出るまで日記の更新できんかも。

 ハイラル → アムグラン(阿木古郎) バス 30元
 アムグラン → ノモンハン トラック
 アムグランは新バルガ左旗(新巴尔虎左旗)の政府のあるところで、东旗という名前でも通っている。大型バスで草原をぶっとばすので距離のわりに速い。草原は草原だけあって延々草原しかないが道路の脇はだいたい柵で囲まれていた。何もない草原が延々つづいているわけではなく、囲まれた誰某の草原でみっちりつまっているということなんだろう。集落があるところの近くには池があったりするのでわかりやすい。
 ハイラルを出たのが9時前でアムグランに着いたのが12時前。バスターミナルでノモンハン行きを聞くと一日一便16時発だが席はないという。アルシャン行きは休運だとか。そのままなくなるのかもしれない。タクシーに普通に乗るのも癪なのでとりあえず歩いてノモンハン方面まで歩くことを考えた。タクシーをつかまえるにしても待ちかまえているのよりはもう既に出発しているのをつかまえる方が安くなるだろうという腹もある。
 とりあえず数キロひたすら歩いていたら料金所にたどりついた。この辺の道路は高速道路あつかいらしい。料金所のむこうで板を満載したトラックが丁度ロープの締めなおしをしていたので、きいてみたらノモンハンまで載せてくれた。
 その板だが青島まで運ぶらしい。木材自体はロシアから満洲里まで運ばれ、このトラックが満洲里から青島まで運び、その後韓国日本アメリカに渡るのだとか。満洲里へいく列車で満洲里には木材加工基地があり、ロシアから来た丸太を加工して板にしているらしいからその木材なんだろうか。ここは辺鄙なところだろうと勝手におもっていたが、満洲里から荷物を運ぶトラックがバンバン通るルートだった。

 ノモンハン戦役遺址陳列館 30元
 たどりついたのが4時前。入口は道路わきにあるが、そこから陳列館までも長い。しかも湿地がよこにあるので蚊にたかられてしかたない。辺鄙なわりに車が結構入ってきている。モンゴル外縁のこのルートを通る人が休憩がわりにたちよるには格好の観光地ということなんだろうか。横にハリボテの日本の戦車が置いてある。
 展示はオーソドックスにノモンハン事件の経緯をパネルと遺物で紹介するもの。 展示では日本軍の被害が5万とか日本の目的はシベリア鉄道切断とソ連侵攻とかいう風にソ連の言い分を踏襲しているが日本側の経緯も詳細なので日本の資料も取りこんでいるんだろう。興安軍とか東北抗日聯軍の協同とか、中国ならではの視点もあった。
 遺物で一番多いのはガラス瓶で、戦車対策で火炎瓶を大量に作るため日本中からガラス瓶をかきあつめた名残だろう。主戦場はモンゴル側なのでここで展示されているのは日本側の物が自然と多くなるはずだが、その割にソ連軍の遺物が多い。実際のところソ連側の被害は日本以上に多かったらしいが主戦場がモンゴル側ならここに残る筈がない。ソ連の満洲侵攻のときの遺物も混っていたりするんだろうか。
 三階にはなぜか731部隊の細菌戦の展示があった。ノモンハンは細菌戦を最初にやったところという事になっているらしい。しかしもう5時に近づいていて閉めにかかっていたのでじっくり見ることはできなかった。4階にもなにかあったが見れなかった。

 ノモンハン → アルシャン タクシー 50元
 蚊とたたかいながら道路まで出て脇でボーっと立っていたがトラックとか停まりそうにない。そこへタクシーが通りがかって停まった。こんなところを空のタクシーがこんな時間に通るということは帰りのはずなので聞いてみるとアルシャンへ帰るところで50元でどうかという申し出。アルシャンまで行けないかもとおもっていたが行けるうえにバス並みの値段でタクシーで悠々行けるならありがたい。
 ノモンハンからアルシャンへの道は大興安嶺に入っていくのだが、草原が丘陵になり徐々に山になっていくのでまぁおもしろかった。丘陵から山になりかけのところは林がかたまってあるところと草原のままのところが斑状になっていてなぜかイランとか細密画とかを連想した。
 途中、本来外蒙の地面で、ノモンハン事件で日本がもぎとったところの横を通ったが、その地帯がいちばんつきでているあたりで工事をしていた。そこにイミグレをつくるらしい。どういう具合になるんだろうか。
 アルシャン温泉は地元の人なら10元で入れるらしい。よそものは300元の温泉に行かないといけない。まぁ無理だな。アルシャン市の入口に冷泉の建物があり、そこはタダで飲めるようになっているといわれた。

 20元30元の宿と言っていたら運転手仲間の宿につれていかれる。30元。まぁ外も冷えてきていたし疲れていたのでそこにした。


2012/09/04 火 ハイラル

 今日も雨か。どうしようかな。ここ連日の雨でノモンハンに行ってもぐちょぐちょだろうし。
 ということでもう一泊することにした。やっぱり大画面液晶はいいな。昼くらいには雨もあがり気温もかなりあがってきて半袖のシャツ一枚であるいてもそんなに寒くない。

 微熱がある。昨日はだるいので半日眠ってたらだいぶ楽にはなったが全快ではない。うーむ。

 あれやこれやと本をつまみぐいしてたら日がくれた。

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 そういうと晩飯食いにいったついでにブラブラ歩いたらあやしいタクシーが二台いた。まぁたしかにこの街はタクシーがうじゃうじゃ走っているのでタクシーなら尾行対象に気付かれにくいかもしれないんだがやる事が露骨すぎるんよな。目に見える範囲で乗員交代したり、わざとらしい停車したりしたらバレるだろ。もっともそれを大通りでやってたらなかなか気付かなかったとおもう。せめて乗員をひとりにしたらわかりづらいとおもうんだが、たぶんあやしい奴と接触したら現場をおさえるつもりがあったりするんだろう。
 結局ハイラルなんかに外国人が来ることがないから自分みたいなのがそういう対象にされているだけかもしれない。もっと外国人がいっぱいくる大都会にいけばそういう対象にされることもないのだろう。もっといえば、尾行の練習台にされているだけかもしれない。

 ノモンハンは草原の中、アルシャンは大興安嶺の中とこれから先はしばらくバスの旅となる。まぁあきらめて列車にのってチチハル白城長春といけば安楽なのは安楽だな。

 ちなみに玄奘の中国現代音読みの xuán zàng をウェード式で書くと Hsüan tsang となる。現代音の表記はともかく中古音的にはヒュエンザンみたいな音になるらしい。
 玄のゲンって呉音なのか。胡涓切でケンになる。


2012/09/03 月 ハイラル

 今日も雨か。

 電機崩壊の危機!人材&技術がダダ漏れ - ZAKZAK
 パラリンピックでもガチのスポーツ解説をする、暴走王・小川直也のバッサリ解説の巻。 : スポーツ見るもの語る者
 暇人\(^o^)/速報 : もしも赤旗読者が風の谷のナウシカを見たら?の感想が面白い

 朝鮮戦争 - Wikipedia
 1950年1月に李承晩が竹島と対馬の領有を宣言したことに対しアメリカは警告の意味で韓国を防衛圏に含まない旨発言。北側の侵攻はそれで引きおこされたが、一方韓国は日本侵攻のため大演習をよそおって半島南部に兵力を集めていた。
 Wikipediaの朝鮮戦争の概説部に追加されたこの内容は、日本国内のIPから9/1に編集されたこの版から。→朝鮮戦争 - Wikipedia(2012/09/01)
 最近の竹島騒動でネットに流れた内容が反映されたものか。どこまで本当なのやら。

 なんかやる気がないなぁ。ノモンハンとかアルシャンとか行かずにもう寝台車両でチチハルとか長春とか降りて宿にひきこもろうかな。

 ノモンハン事件後の国境線 - 山猫文庫第3版
 ノモンハン東方のでっぱりはモンゴル主張の国境で、ノモンハン戦後の協定で満洲国側と決まったものらしい。
 Монгол Улс
 この地図なんかはノモンハンの東のアルシャン方面のでっぱりを描写している。
 Дорнод - Google 検索
 ドルノド県で画像検索すると、でっぱりが描写されている地図とない地図があるのがわかる。

 第12近現代史研究会報告 満ソ(蒙)国境紛争 kin-12.pdf
 ノモンハン付近の国境が紛争地になった経緯がわかりやすい。ソ連も日本も当初は外蒙内蒙の境界線を認知していなかったっぽい。

 昭和からの贈りもの
 これはおもしろい。

 データえっせい: 専攻別にみた博士課程修了生の惨状
 文系か。ならしょうがないな。

 携帯のカメラのガラスに細かいキズがはいりすぎて散乱光で画面が白くなってしまっているので買い換えどきではある。


2012/09/02 日 ハイラル

 KDDI向けLTE対応スマートフォンau CAL21と思われるKMP7T4A1-1AがFCC通過|最新ケータイ情報
 筐体サイズからするとN07Dとおなじ。

 今日ノモンハン近くの阿木古郎まで行こうとしたけど雨がパラパラ降ってたのでやめた。

 昼間ちょっとでかけて、中国が春節の前くらいに尖閣問題のために軍事行動をおこすとかいう話を聞いた。ハイラル到着時にいろいろ狙われていたことを考えると、反間計のつもりで流された情報かもしれないが、別にスパイとか記者とかでもないのでここに書いとく。
 これが現実になるとなかなかおもしろい見世物になるとおもうので中国さんにはどこまでできるのか期待したい。てゆーか尖閣だけを狙って軍事行動できるわけないのでどういうつもりで言ったんだかよくわからん。

 俺のクラスでシャーペンの芯が通貨になった話:キニ速

 アクセス解析をみていると「atm 理塘 四川省 引き出し」というキーワードで検索している人がいた。理塘にATMがあったかどうか覚えていないが、ATMがあるかないかなら中国銀行とか建設銀行工商銀行のサイトで検索したらいいとおもう。農業銀行でクレジットカードの引き出しに成功した記憶がないので農業銀行はあてにしてない。まぁ間違いなく康定にはあるので康定でおろしたらいいんじゃなかろうか。
 昔餞別にもらった10万円を返せるようにそのままずーっと持っていたのだが、返しても受けとってくれないのと持っていたらあぶないので今回崑山に来る前、関空のゆうちょのATMで持ち金全部入れてきた。ということで手元には中国のATMでひきだした中国の金と中央アジアでつくったドルしかのこっていない。しかも香港の中国銀行でゆうちょのクレジットカードを食われてしまったため、今は昔つくってもったままだったセゾンカードでしのいでいる。海外手数料が一回210円なので最近は月末締め日近くにATMの限度の2500元とか3000元とかを引きだしてそのまま持っているので結構な札束を所持していることになるが、その昔は10万円を持って歩いていたことを考えれば、まだマシだ。

 ノモンハン付近の米軍地図をみていると、ノモンハンの東のアルシャン近くに謎のモンゴル領の出っ張りがある。それが昔満洲国領だったことは明白で、その出っ張りの中に神武山とか十勝山とか日本人しかつけないような地名がある。現代の地図やソ連の軍用地図にもその出っ張りはないので、戦後の一時期だけそこが係争地になっていたのだろうか。

 海拉爾の言語、海拉爾は各民族の集合地であるから、各々異つた言語を使つて居るが、自然に一定の標準語と云ふべきものがあつて、それを使へば一般に用を便ずることが出來る。それは滿洲語である。
 役所の公文には、漢文字を使つて居つたけれども、漢文は殆んど民衆には解らない。共通に解るのは此の滿洲語である。滿洲語は本場たる滿洲に於いて殆んど死語に歸して居るが、海拉爾に於いて、それが標準語として最も有用に使はれて居るのは面白い。何故滿洲語が此處に行はれるかといふと、一體蒙古人は滿洲語を尊重して、中流以上の人は皆滿洲語の文字を學び、丁度歐羅巴に於ける拉丁語のやうに一種の尊敬を拂つて居る。其の蒙古人が此の海拉爾に多く居る所から滿洲語が標準語として行はれてゐるのである。故に法蘭西語が歐羅巴の通用語になつて居るように、滿文で書き、滿語で話せば一般の人が最も解り易いと云ふので、公文書も滿洲文字を使ふやうになつた。露西亞も此の點に注意したものと見えて領事や書記生などで滿洲語に通じて居るものが少くない。

  『満洲国境事情』満洲事情案内所 1940

 蘇炳文の措置は露国の国内問題 1932.12.12大阪時事新報
 満洲事変のときハイラルでがんばってソ連に逃げた蘇炳文の引渡しを要求する日本に対し、白軍を例にひいて要求をはねつけるカラハンは見事としかいえない。日本もそれ以上追求できない。  


2012/09/01 土 満洲里 → ハイラル

 九月ということだが日本の気温をみるとまだ最低気温が20度を切っていないので日本は暑いということがわかる。満洲の平原部も暑いのでどうしようかなとおもっていたが、最低気温は20度切っている。ちょうどいいくらいか。

 ●馬鹿を直す法 先づ人の知らぬ様に梯子をかけ蔵の屋根へ上りて逆様になり下へ落つべし随分首の骨を打折ること妙なり而して忽ち直るべし或人は云ふならん「ベラ坊めそれでは死んで仕舞ふは」と成程最至極と思はるれども死なねバ(けつ)して直りはせぬなり
 国立国会図書館デジタル化資料 - 物識天狗

 満洲里 → ハイラル 硬座 14元
 ということで草原のなかをザっと走ってハイラルにもどって前泊まってたところに来たのだがこの宿のネットがおかしい。ADSL方式だが電話が通じていないためにネットもできないとのこと。ここは登記を無線電話端末でやる方式だったのだがそっちの電話も通っていないらしい。昨日からおかしいらしい。といいつつも来た以上はしかたない。一泊するか。
 → なおった。

 世界は何處へ-- 一歩一歩、一段は一段と、暗い暗い地下室へ折りてゆくやうな感じがします。
 斯ふして色々な角度から世界の經濟相を圖表にして見ると、今更のやうに景気の惡さ加減が痛感されるではありませんか。惡い惡いと思つた昨年よりも更に一層惡くなつて來て居るやうです。一體この先どうなるのでせふか。
 ラヂカルな論者は資本主義は崩壞すると申して居ります。をだやかな學者や實際家も此の頃ではそうした危險の存在することを警告し始めました。われわれも周圍の小さな事柄に氣をとられてゐないで、此の世界の大問題にもつと鋭い注意を向けなくてはなりますまい。

 『世界は何處へ』新聞聯合大阪支社 1931
 資本主義がおわるとかいうのはよくある話なんだな。まぁ「世界の終焉と大審判」の焼き直しだとおもえば陳腐な話なんだろう。
2012/08/31 金 満洲里

 鳩山・福山の呪縛 無理を重ねた原発ゼロシナリオ  WEDGE

 満洲里はもういいかなとおもいつつも部屋が広いのでもうしばらくいてもいいかなと考えてしまう。ハイラルへ行く列車は無数にある。

 結局もう一泊することにした。どうもこの辺の市バスは車掌がいるらしくどこまでいくとか言わないといけないようで特にあてもなく乗るのにめんどくさい。5路のバスが車掌なしだったので乗ってどこまでいくか見ていると国境線近くにたどりついた。満洲里だと出入国管理所がある国境まで国境を見物にいくのが普通であるらしいが、そこは景区になっていて入るのに金がかかる。普通に国境線みれたらよかっただけなので、フェンスが延々とつづいているのをみれて満足だった。小高いところにのぼったらロシア側がみえるが乾燥した草原がつづいている。後ろにみえるのが満洲里で、国境からすぐなのがよくわかった。
 (google地図で確認したら見えてたフェンスは国境自体ではなくその手前のフェンスだった。)

 飯食って寝た。

 最近になってようやく街のなかで売ってるゆでたトウモロコシを食べるようになった。日本のトウモロコシはなんか変な味があるのであんまり好きではなく、できれば食べたくないのだがこのへんのはモチモチとして食感もよく味もあっさりしていてなかなかよい。特にあのまっきっきのではなく淡い黄色と紫の粒がまじったものがあってこれがよい。たぶんまっきっきの方が見栄えはよいのだろうが、何分日本で食ってたコーンみたいなものをおもいださせるのでよろしくない。
 トウモロコシ - Wikipedia
 これをみると「食用としてのひとりあたりトウモロコシ年間消費量」は中国より日本の方が多いようにみえるが中国は広いのでもっと細かく区切れば満洲あたりは日本より消費量が多いはずだ。

 サリヤンカ売ってるロシア飯屋があった。さすが満洲里。

 ニセモノのチョコレートはまずすぎる。買って一口食ってそのまま吐きだして捨てた。


2012/08/30 木 ハイラル → 満洲里

 ハイラル → 満洲里 新空調硬座 19元
 ハイラル発満洲里行きという一番安い列車をねらって駅にいくが切符売場の行列がひどいので列車に直接のる。切符を車上で買おうというわけだが、順調に買えた。しかし人民列車だとおもっていたら、車両が動車組とかにもつかえるような軟座ぽい感じ。それもそのはずでこの列車は本来北京-満洲里のものだった。どうもハイラルに車庫でもあるようでハイラル満洲里はついでに安く運行しているようにみえる。で、車内で補票(切符を買うこと)し、空いた車両まで移動して座っていたらその車両の係の人がいろいろ話しかけてきておもしろかった。降りるときに気付いたが、その車両には自分以外乗っていなかった。どうも他の人間は他の車両に移動させられ、自分だけは残してもらえたらしい。なんか殿様気分だった。

 満洲里の駅前は南側になるが、ロシアの建物が結構のこっている。北側が新市街で南側が旧市街であるっぽい。博物館もあるのだが、行ってみたら閉まっていた。その辺で宿さがしをするが、ネットつき20元といういいところをみつけたつもりが、派出所に電話したらダメとか言われたということで他をさがす。古い建物の両翼がなぜか宿になっていて、そこに美人の娘がおりデカい部屋が40元とかいわれたので心ゆらいだが、まぁいいところがなかったらそこにしようとかおもいながら駅の北側にいってみたら北側も古い建物がポツポツあるので南側が旧市街ということでもないのだろうか。適当に北の方の不便そうなところに行き角にあった宿にきいてみたら30元でパソコンもおいてあるというのでそこにする。どうもだれか住んでいるのだがあいているというよくわからん状態。ここにルーターが置いてあるところからするとたぶんここの子供なんだろう。

 満洲里の街をあるいてロシア料理屋に入ってきた。結局ボルシチ。あとよくわからんケーキとお茶をのんだ。わりと安くあがった。

 なんかの病気にかかっているような気がするがよくわからない。崑山でひろった謎の病気を抗生物質でふきとばした気がしていたが、そうではなかったような感じ。額と肩にボツボツができていたのだがそれが範囲をすこし広めているようにもみえる。蜂に刺されたところに近いのでその影響かもしれないし崑山の病気がまだのこっていてそれがでているだけかもしれない。まぁもっとも移動をつづけて体力が落ちているのかもしれない。額や肩にボツボツができているという症状があるので病院に行けばなんらかの診断はしてくれるかもしれない。まぁ中国の毒食品の毒がでてきたという可能性がないでもない。まだビザは一ヶ月くらい残っているのでどっかで半月くらい寝て暮すのもいいがどこにしようかな。新京かな。でも暑そう。

 漠河からハイラルまで謎の尾行と監視をうけ、ハイラルに着いて宿さがしで狭い路地を歩いていると後ろから来た車が横で急カーブしてかすめて去っていくという脅迫をうけ、最初にあたったマンション宿に入ってそこにするのをやめて出たらその直後にゴツい男どもがドヤドヤと入っていくという事を体験し、3泊した宿でも最初は夜中じゅう誰かが入ったり出たりしていたのが、博物館をじっくり見物していたら謎の停電が一回あって警察が見回りしにきたという事があったあとはそういう尾行とかがなくなった(少くとも露骨ではなくなった)感じだった。まぁ、満帰からの列車についてきたあやしい男が、近くをうろちょろしたあげく、ついに向かいの席にきて何処にいくとか聞いてきたから、そいつのタバコをとりあげてもみけし、ここでタバコを吸うなとか言ったからよけい追跡している方にあやしまれたのかもしれない。しかし追跡している方の動きからして、自分を泳がせておいて自由に接触させるという方向だったんだろう。たぶん記者とかスパイとか民主活動家とかそういうのだと勘違いしてたんじゃなかろうか。香港から入ったからよけいそういう風におもわれているのかも。

 世の中には短文が名文とかいう迷信があるらしいので長ったらしくできるときはなるだけ長ったらしい文章にするよう心掛けているのだが、さすがに↑ここまで長いと読みづらいな。

 米軍地図もソ連軍用地図も満洲里の街は駅の南北におなじように広がっているので、今の駅前である南側は昔と規模がかわらず北側は最近大規模に再開発されて大きくなったということだろうか。
 米軍地図をみると満洲里方面の中ソ国境に二つ線があり、ソ連に近い方に abagatuy treaty 、中国に近い方に tsitsihar agreement と書いてある。満洲国時代の地図をみるとそのabagatuy treaty の方に沿った線になっている。これは満洲国時代の国境を満洲国崩壊後ソ連が取ったというわけではないらしい。abagatuy treaty というのは1727のキャフタ条約ができた一連の交渉のなかでできた国境協定のことでキャフタから東の国境を決めたもの。そしてtsitsihar agreementというのは1911年のチチハル協定で、辛亥革命前後の混乱に乗じてロシアが満洲里方面の国境をかすめとったものであるらしい。で、満洲国としては手続きに問題ありとして承認していないが実質的にはソ連がその部分を占領していたそうだ。結局その後中共もここをどうすることもできず、この線をみとめることになったということのようだ。

 さて満洲里はもういいかな。明日ハイラルにもどってそれからどうするか考えるか。


2012/08/29 水 海拉尔(ハイラル)(ホロンバイル市)

 今日は北山にあるハイラル要塞あとの世界反ファシズム戦争記念館にいってみたが、60元するということで入らなかった。行きは道沿いにあるいたので帰りは北山を横切ってみたところ端のほうには要塞の一部らしいものがあった。北山といっても丘陵状で、草原との境目はほとんどない。以外なことに砂地だった。地球気候の変化次第で砂漠と草原のあいだを行ったり来たりしているところなんだろうか。
 北山から市街地にはいるところは勝手に囲んでつくったとおもわれる菜園程度の小さな畑がいっぱい並んでいて出れなかったが、その畑のあたりには大麻草らしきものが生えていた。

 市場にいって毛沢東バッグの代わりになるものをさがしたら30元で布製の肩掛け鞄があった。今つかっている毛沢東バッグよりも布が厚いしポケットがいっぱいあってよさそう。しかし肩掛けの部分の金具が前の毛沢東バッグとおなじ針金だったのでその場で買わず他の店もみたところ、20元で化繊のバッグがあったのでそっちにした。こっちは金具部分がプラスチック。
 肌ざわりでいえば布の方がいいわけなんだが、日本円で考えると百数十円の違いしかないのでその程度で考えるほどのことでもないのかもしれない。他の店には展示品で汚れたのを15元で売ってたがそれはしっかりしていた。ただ色がケバいのでやめた。「色がケバいのを買う人は汚ないのを買わない」「汚くても買う人はケバいのを好まない」ということで安くても売れていないのではないかと想像。


2012/08/28 火 海拉尔(ハイラル)(ホロンバイル市)

 呼倫貝爾民族博物館
 市役所の裏にある博物館。一階で特別展示のロシア文物特別展をやっていた。二階が清代までの歴史で三階が北方民族民俗展示。鮮卑が嘎仙洞あたりからでてきたあとこのホロンバイル草原にでてきたあたりの遺物なんかも展示されている。その後鮮卑が匈奴の故地のフフホトあたりに進出したあと室韋がまた大興安嶺からでてきてここにとどまり後にウランバートル方面に進出してモンゴルとなったとある。その室韋の遺物も展示してあるが、草木子に紹介されている木をくりぬいて棺とするモンゴルの墓葬がこのころからあるということがわかる。金代にはモンゴル系の活動範囲となっていたらしい。明代には衛がおかれていたとかあるがどれくらいつづいたものなのか紹介してない。雍正のころに街がつくられると。歴史展示はそんな感じだった。民俗の方では森林・草原というふうに生活本位の紹介。いわゆるエヴェンキとかは森林の方。

 帰って寝て大画面液晶で本読んだりして一日がおわる。


2012/08/27 月 海拉尔(ハイラル)(ホロンバイル市)

 朝になってからネットのできるところ30元に宿替えした。
 ここはPCの液晶ディスプレイが1400x900なのですごい。当然のごとくケーブルをノートパソコンに差してそっちメインでつかってる。

 なんか背中のあたりに疲れがある。あくびもでる。ということで今日は一日屋内でダラダラする。
 ダラダラするといいつつパソコンをいじるのはよくないな。

 [国会図書館デジタル化資料] 新資料の満洲国現勢とか - メモ@inudaisho
 いろいろ書いたけど国会図書館だけあって検閲前の本とか発禁本とかあったりしておもしろい。


2012/08/26 日 满归(満帰) → 海拉尔(ハイラル)(ホロンバイル市)

 满归(満帰) → 海拉尔(ハイラル) 硬座 36元
 結局早朝出発の列車にのってハイラルへ。まぁいわゆるホロンバイル草原の中心都市だ。早朝5時半で夜の18時半と13時間も乗るが席があったのでなんとかいけた。しかし移動つづきで疲れてきているのは否めない。
 この路線は大興安嶺の峰の付近を通ってホロンバイル草原へ降りてくる。ということで、森林から草原になっていくのをボーっと眺めることになる。
 朝は寒かったが日がでてきて暖かくなるといい感じになった。

 ハイラルに到着して駅前をまわるが、どこもちょっとたかい。ということで駅の裏の方に行ってみたらこっちのほうにバスターミナルがあり、そっちの方が安宿が多い。しかしどこもだいたい30元で、20元はさすがに断わった。あとおっさんと相部屋をえらぶとそれなりになる。

 なんか漠河のあたりから尾行というかなんというかそういうのを受けている感じがしてならなかったので宿を決めるまで無駄に歩きまわってしまった。

 USB棒がつながらない。GSM網には入るがそこから先にいかない。ひょっとしてこれ内蒙古では使えないんだろうか。阿里河も同じ症状だった。ここはさすがに電波がつよいのですぐGSM網にはいるが、一度切れるともう繋がらない。しかし今 vmplayer が動かない状態のままパッチをあてれば動くのを放置しているのでショートメッセージとか見れない。まぁしばらくはネットしたかったら10元くらい上積みしてネットのある宿を選べということだな。なんか悔しい。まぁモンゴルは中国じゃないとおもうことにしよう。
 博物館の位置なんかがわからんがまぁしかたない。USB棒がなかったときはこれが当たり前だったのだからなんとかなるだろう。

 尖閣諸島のことは中国では日本が軍事的野心を露わにしたとか報道されてるなwww


2012/08/25 土 漠河 → 满归(満帰)

 漠河は最北の県であるらしいが、さらに最北の村というのがあって、それが北極村。ここからまだ数十キロ北にあって歩いてはいけない。村といってもそこが本来の歴史ある漠河で、米軍地図をみるとそのころはそこにしか集落がないのだが、今は北極村ということで観光開発されている。地図でみればもうすこし西に真の最北がある。この辺に開いている国境があるがその真の最北をさらにすこし西にいったところになる。
 北極村は入場料として60元もとられるらしい。アホらしい。まぁ十分北の果てまで来ているのでもういいだろう。地図をみていてこの辺行ってもしかたないなとおもいながら来たくらいだ。簡単には行けないだろうとおもっていたら鉄道があったので安くで行けるならと来てみただけだ。
 オーロラもみれるらしいので来るなら冬なんだろう。

 热尔图加共和国_互动百科
 中俄历史中鲜为人知的“热尔图加共和国”,俄国历史兴趣小组小组-人人网
 璦琿の博物館で紹介されてたこの共和国があったところは金鉱のちかくであるらしい。砂金がみつかってゴールドラッシュがおこり、ロシア人なんかが雲集して共和国までつくったが清朝に討伐されたという。ささやかな満洲国みたいなもんであったらしい。満蒙都邑全誌には共和国と書いてなく匪賊がいたみたいな曖昧な記述になっている。まぁ太平天国も長髪賊だったからそういう扱いなんだろう。

 嘎仙洞のあるあたりは米軍地図でも未開の土地で、冬にしか道がない。満洲国関係のものではこのあたりについて触れることがない。オロチョン自治旗が去年成立60周年だったらしくそれを記念する電飾がいまだに飾ってあったが、それまでは本当になにもなかったんだろう。あんな碑文が1980年までみつからなかったのも仕方ないのかもしれない。

 島をめぐる争い '82 - リアリズムと防衛を学ぶ

 柴田の卒業旅行に便乗してドイツにはじめて行ったとき、やはり独文専攻の人とインド帰りでは興味と懐具合がちがうので彼にはとりあえず好きなところに行ってもらうことにして、自分は一人ロマンティック街道を野宿しながら徒歩で南下、ミュンヘンで合流するということをやったが、別れる前のドイツ最初の宿のフランクフルトのユースホステルでミューズリーにであい、うまさに感激、その後一人旅の間にスーパーでミューズリーが激安で買えることを知り、ひたすらミューズリーとパック牛乳で安くあげることを心掛けたがそのうまさに参ってしまい、漫研への土産としてミューズリーをもってかえりみんなに食わせたことがある。その内のひとりがその数年後書いた文章がこれ
 やせたい。栄養が足りない。そんな時には
 で、ネット上ではこれをみてさらにミューズリーをたべるという人もいるようだが、どうも自分にとってしっくりこないのは、ミューズリーが「うまい」という人があんまりいない事だ。あんなにうまいのに。うまくないとかいう人はツバがでるまでよく噛めばその溢れでる滋味がわかるだろうとおもうんだが、味覚の習慣自体が違うのかもしれないのでよくわからない。あぁいかんよだれがでてきた。
 もっとも最近の中国旅行で歯がいけなくなっているところを放置してさらに悪化しているのでもうミューズリーとか食えないかもしれない。かなしいことだ。

 漠河 → 满归(満帰) バス 45元
 バスターミナルはマンションの下にありターミナルらしくない。
 このルートは大興安嶺をこえるが、あんまりこえている感覚がなかった。ただ内蒙古にはいるまでの道が未舗装でひさしぶりにガタガタ道を走るバスにのった。黒河から加格达奇に行くバスも途中未舗装道路を通ったがガタガタではなかった。まぁあっちは舗装してあるところもコンクリートだったが。
 森の中を延々走る。結構湿地気味だった。

 満帰に着いたのが6時くらい。本来3時間半くらいで着くようにバスターミナルの時刻表には書いてあったが、たぶん未舗装道路のせいで一時間余計にかかった。満帰の町は平屋ばかりで空が広い。バスターミナルから駅まであるいたが駅前通りは廃墟みたいなありさまだった。ここからハイラルにいく列車は朝の5時すぎにでるので近い方がいいのだが、もうすこし中心にちかいところの鎮招待所というところに泊まった。20元。しかし窓がこわれている。それだけではなく、廊下をはさんで煙突があり、それをつたってこの部屋の窓に入って来れるような感じになっている。うーむ。とりあえず飯屋をさがしたけどいいメニューもなく羊雑湯と花巻ですました。

 ここはUSB棒がつながらない。GSM網にすらつながらないのでもう全然ダメなんだろう。うーむ。大興安嶺はちがう。


2012/08/24 金 阿里河 → 加格达奇 → 漠河

 阿里河 → 加格达奇 マイクロバス 8元
 加格达奇 → 漠河 硬座 34元
 今朝は外が白く霞むほど冷えた。適当に起きてバスにのると皆厚着をしていて自分のように半袖のシャツでいる人は一人もいない。車掌も昨日とおなじだった。
 駅前で降りて駅ですぐ漠河行きの切符を買うが、9時のは高いので10時のを買う。それから飯。漠河へはひたすら森林の中をすすむ。まぁ阿里鎮の駅前の宿ですらUSB棒の接続があやしかったわけだから、こんな何もないところでUSB棒がつながるわけがない。
 このあたり森林地帯といっても山の傾斜はきつくない。丘陵的だ。昨日荷物をかついだまま嘎仙洞に行って帰ってこれたのも平地を行くような感じで峠を越えれたから。モンゴルの西の方にある森林もこんなんなんだろうか。

 漠河についたら真っ暗。駅前には北極村への客引きがいっぱいだが雨が降りだしていてすこし寒い。とりあえず駅に入って時刻表をみようとしたがない。いちおう電子掲示板で流しているが、各駅の運賃とか注意とかどうでもいいことを延々とながしていてなかなか時刻表をみれない。しかも時刻表がきたらすぐ消える。とりあえず一日三本あるらしいということだけつかんで外にでたら誰もいなくなっていた。駅前の宿にとまる。20元。外にトイレがあったり水道がなかったりする。よくないところを選んだような気がするがまぁ雨ふってるしいい。とりあえずそのへんで晩飯くった。
 失敗したかとおもったけど雨が本降りになってきたのでとりあえずなんでもいいから宿をとったのは間違いなかったようだ。しかしここも電波がよわい。
 雷まで鳴ってきた。まぁこれは歓迎だとおもっておこう。

 昨日の安宿は南京虫がいたようで、脇腹とかに噛まれたあとがある。


2012/08/23 木 黒河 → 加格达奇 → 阿里河

 Gmailとこのサイトがみえない問題にひきつづき、ついにLAN自体につながらなくなったのでUSB棒を出してきたところ、Gmailもこのサイトもみえてsshも通った。この宿の問題か。

 黒河 → 加格达奇 バス 70元
 加格达奇 → 阿里河 マイクロバス 8元
 黒河から加格达奇行きのバスにのる。朝8時半発。黒河の近くからもう森林地帯になっていた。地形的には平原状から丘陵状になるが全体になだらかで自転車でもそんなにつらくなさそうな感じ。大興安嶺のとっかかりだがまぁこんなもんか。ただ延々と未開発の状態がつづくわけでもなく、途中開発されているところは一面のトウモロコシ畑などになっていた。そういうところで降りる人が多かった。
 璦琿に知青博物館があったのもそのはず、ドラマ「知青」のセットがあった。このへんはドラマみたいに狼がいたりするんだろうか。さすがにセットとおなじような建物は少なくなっているが、あるにはあり、廃墟みたいになっているところもあった。
 午後2時すぎに到着した加格达奇は意外に大きな町だった。鉄道が通っているからだろうか。黒河からここに来るまでに内蒙古自治区に入ったわけだが、ここだけ黒龍江省の飛び地になっていて北の端を管理しているらしい。結構列車が通っているがこれから夕方まで一本も通らないことがわかる。とりあえずバスターミナルにいって阿里河行きを買う。阿里河はオロチョン自治旗の中心。
 加格达奇から阿里河までは全然開発されてなかったがそのわりに阿里河鎮はおおきかった。璦琿みたいなところを想像していた。駅前につく。バスも1路線だけだが結構頻繁に走っている。それに乗るとよかったのだが、のらずにとりあえず道路案内にあったオロチョン博物館をみにいってみる。が、まだ開いてなかった。

 ここまで来たのは嘎仙洞をみにきたわけだが、もう3時すぎなので今から行っても時間がない。ということで宿をさがしてとりあえず荷物を置くべきなのだが、それをせずに荷物をかついで奥さして歩いていった。事前にgoogle地図でみたところによると阿里河の町のメインの通りをずっと行き、そこから西に曲って低い山の鞍部をこえ、阿里河の谷から嘎仙河の谷に行くというルートだがその先嘎仙洞がどこにあるのかわからない。わからないのに歩いていったのは無謀であった。
 バスがどこまで走っているのかわからなかったが、歩いてみてわかったのはその嘎仙洞へのルートに沿って走り、山の手前にある中学が終点だということだった。このために一時間くらい無駄にした。
 そこから峠を越えてゲートにたどりつくまでも一時間くらいかかった。途中バイクにのったおっさんらと話したが、あと少しまてばゲートが営業終了するので金はらわなくてすむとのこと。入場料は65元らしい。高い。
 ゲートにたどりつくとたしかに料金所に人がいない。そのわりに人はいるし、車も結構とまっている。ゲートのまえにいたおばはんに話しかけられたがこれから嘎仙洞に行くというとなんでそんなに荷物たくさんもっているんだというところに話がいくだけだった。まぁそもそもこの時間になってゲートを車が越えていったりしているので、地元の人にしてみると夕方になって料金所に人がいなくなってから入るのは普通のことであるらしい。ということで歩いていった。
 普通の観光客はゲートの手前で車を降り、2元はらって電気自動車にのりかえるのだが、車でずんずん入っている人がいる。地元民なんだろう。もう5時まわっているのだが電気自動車が戻ってくるのに二台もすれちがった。ゲートから洞穴まで3kmくらい。
 おおきな岸壁の中腹に洞穴ができており、そこまで歩いてのぼれるように整備されている。洞穴自体かなりでかく奥行もある。家も建てれそうだ。問題の碑文は入口にあり、実物は金属の箱で封鎖されて見れなくなっていた。残念。まぁ中国人の手のとどこところにおいておくと破壊されるからしかたない。横に模刻がおいてある。
 ということでゲートまでもどるとかなり日が暮れて暗くなった。宿があるのでいくらか聞いてみたら50元からとのこと。こっちの風体をみて特別価格をいってくれたらしいがまぁ高いのでやめて飯だけ食った。安いものの品目がすくなく、包子と粥だがうまかった。そこから出るころには8時になり完全に日が暮れている。まぁしかたないので駅まで一時間半かけて歩いて戻った。最初に宿とって荷物おいておくともっと楽だったはず。宿さがしも10時まえにやるようなことではなかったがわりと開いていて最後のひきこみにがんばっていた。20元のところに泊まってすぐ寝た。

 嘎仙洞だがどこまで本物なのか。魏書にのっているところによると太平真君4年に烏洛侯国が使者を出し、うちに北魏の先祖の旧墟の洞穴があり祀られて霊験あらたかだというので官僚をやって祀らせたという。その時の碑文がここにあるわけだが、そのこと自体もどこまで本当のことなのかよくわからない。礼志に書いてあるところだと先祖の廟としてつくった洞穴がのこっていて今でも霊験あらたか、みたいな感じである。たしかに岸壁の中に大きな洞穴があって祀りたくなるのはわかる。

 USB棒がつながらん。接続してもすぐ切断される。電波が弱い?


2012/08/22 水 黒河 ←→ 爱辉(愛輝)

 黒河 → 愛輝 バス 7.5元
 バスは一時間くらいで着くが6時半出発と早朝すぎるので博物館がひらくまで待っていないといけない。行ってみると予想よりも田舎だったので河原でロシアを眺めていた。このあたりの地形は真っ平らの平原でなかなか気持ちよかった。

 黒河市愛輝歴史陳列館
 この建物の名前だが愛琿だったりと一定しない。昔の漢字でいうと璦琿で音読みは違うが北京語での発音は全部おなじだからまぁそれでいいだろということなんだろう。まぁ内容的にはロシアの侵略をあつかうものなので、黒河市内にないのは当然ではある。そのわりに入口に例のロシア絵画館が設置してあるのが不思議だが、あれはロシア人に対する目眩しなんだろうか。
 一応前史として石器なんかから遼金代なんかをザっと紹介して本題にはいる。ネルチンスク条約からアイグン条約をへて、義和団の乱のときに破壊されるまでがメイン。破壊のとき、同時にブラゴビチェンスクでは華僑が殺されたらしく、「大虐殺」とぶちあげている。その虐殺と破壊の情景は人形や大スケール絵画をつかって臨場感をもたせて復元してあったりする。この地方はそのとき占領されて日露戦争のあと清に返還されるが、日露戦争があったとかそういうことは一言も書いてない。
 ロシア相手にここまでの博物館をつくっているとはおもわなかった。やっぱりとられてかえってきていないとは思っているらしい。
 敷地内に鐘が釣ってあったが意外なことに満洲国時代につくられたもので銘文がそのままのこっていた。まぁ錆び錆びなのに雨晒しなのだが。碑林があると案内図にあったがそこには台座だけあって肝心の碑がなかった。川沿いのところは草ぼうぼうで放置してある。建物の中だけ気合がはいっていた。交通の便がよくないのに観光客はかなりたくさん来ていた。

 知青博物館
 愛輝の南のはずれにある。文革のときに下放された知識青年のことを延々と紹介している。まぁ昔を懐しむためのものだろう。動員人数の統計が紹介してあったが人数だけでいうと意外なことに遼寧省が一番多く、次が四川省、黒龍江省という順番だった。上海市はその次にくる。北京上海天津といった大都市だけだとおもっていたのでこの順番はちょっと意外だった。さらに、紅衛兵を地方へ追いはらうためのものだと聞いていたが、その前から知識青年は田舎へ飛ばされている。70年代中頃に二つ目のピークがきている。紅衛兵を田舎へ追いはらった年が一番多いのは確かだが、その前後がそんなに多くないため、70年代中頃のピークの方が規模が大きい。これは文革終了前後の混乱のとき手兵となるのをおそれて事前に田舎へ追いはらったのだろうか。

 だいたい見たが足がないのですぐに帰れない。タクシーで13元で帰れるとは聞いていたがバスを待つことにしてとりあえず鎮のなかをぐるぐるまわった。まわったといってもメインの通りは一つだけなのでそのへんをうろうろしただけだが。税関跡と称するものもみた。あと満洲国時代の警察の建物がのこっているらしいがどれなのかわからない。
 しかしバスがなかなかこないので結局タクシーで帰った。13元。

 黒河とブラゴビチェンスクの間の中州の島にロシア市場があるというので行ってみたら結構でかいショッピングモールが二つあってびっくりした。なるほどこれは綏芬河とはくらべものにならない。ただ残念なことに行くのが遅すぎてもう閉店しかけているところばかりだった。うーむ。このためにもう一日滞在するのもな。

 このサイトとGmailがついに中国からみれなくなった。sshできなくなるので更新が面倒になる。一時的なものであればいいんだが。

 ネットで検索すると黒河の国境は第三国人は越えられないと書いてあることがあるが、
 再び東シベリア - travelog
 この人はここの国境を越えてなおかつ戻ってきているのでビザさえあれば越えられるようだ。

 上野千鶴子はものすごい - 孤立無援のブログ


2012/08/21 火 黒河

 ルーマニアで日本人女性がレイプされ殺害される  女性のツイッターが生々しすぎる件… | ニュース2ちゃんねる
 ルーマニアに行ったときブカレストはバスかなんかで通りすぎただけだな。

 政経ch - 中国企業「北朝鮮への投資は悪夢。技術を覚えた途端、我々を国外に追い出した」

 そういうと黒河への列車では何語かわからん言葉をしゃべっている人がいた。

 山田久太郎『満蒙都邑全誌』1927 ガイドブック的な網羅さで満洲の街を紹介してあってすごい。どこではどういう通過が流通しているかの表なんかまである。

 尖閣諸島上陸の件、前回前原が無駄にがんばったときには自民党ならさっさと強制送還するのにという論調になっていたが、無駄に拘束したあげく無駄に強制送還するという事をした。今回は前回の件でこりてお約束にしたがってさっさと強制送還したつもりなんだろうが民主党がしでかしたことのために前提が変わっている。つくづく交渉事というのは生き物で仕掛けたり仕掛けられたりみたいなことをやりつづけるしかない。

 博物館を見にいったが、ロシアの絵を展示・販売する施設になっていた。しかもロシアの絵といっても油絵である。しかもごく最近90年代以降になって描かれたものである。西洋の油絵の最盛期は19世紀であって、そのころに精密を極めるが写真の出現によって油絵の値打ちがなくなり、20世紀になってからはもっと新しい方向を模索するようになり、油絵による写生画とか人物画なんてのは美術をやる人が初歩の訓練としてするとか素人が趣味でやる程度のものになる。という大勢を知っていると、ここに展示してある油絵がどういうものかは知れる。歴史絵画というジャンルがありヨーロッパでやはり19世紀ごろに最盛期を迎えたものでかつ今は滅多に見ないものだが、中国というのは21世紀のこのご時世にその歴史絵画を大量生産しているような国だったりするのでそこにつけこんでロシアの商人が練習画をえらい画家の絵と言って売りこみにきたんだろう。まぁ中国人も金持ち気分になれるしWinWinとかいう奴かもしれない。

 博物館の前の通りはロシア物産を扱う通りになっていたが、その真ん中で中ロ物産大会みたいなのをやっていた。もう終わりかけなのか始まりかけなのかやってないブースが結構あり、商品をしまっているロシア人なんかもいた。中国側は少数民族の美術品とか石とか玉とか普通に中国のみやげものみたいなのを売っていたりするがいずれもプロっぽい感じがあったが、ロシアの方はなんというかバザーみたいな感じの手作り感あふれる人形とか木製品とか売ってて差を感じた。たぶん対岸の都市の住民が来てるだけなんだろう。まぁ人口の差も大きいだろうがこういうところで売る事の感覚そのものが違うんだろうな。

 黒河からみるブラゴヴェシチェンスクはなかなかの町だった。他の中露国境でこれだけ都会がみえるところはないんじゃなかろうか。もともと璦琿にあった中心が璦琿条約以降発展したロシアの町の対岸に移動してきただけのことはある。
 なんか歩いているうちにやる気がなくなってきたので帰って寝たあとパソコンをいじっている。


2012/08/20 月 綏化 → 黒河

 綏化 → 黒河 無座 45元
 黒河行きは約11時間。なかなか座れないので連結部にいるが煙草にいぶされて非常にけむたい。
 北にいくにつれだんだん人気がなくなってきた。北安の北のほうになると大麻草が植えてあるのを発見。大規模大麻草栽培だ。まぁ繊維をとるためだとおもう。そういうと牡丹江の市内でも一本生えているのをみつけたし、中国の農業テレビでは大麻草の栽培技術の番組がある(youtubeに落ちてるはず)どっかにあるんだろうとはおもっていた。
 雨が降ってきたな。これで黒河に着くころにはものすごい冷え方したりするかも。

 国会図書館からおとした満洲国現勢(康徳二年版)がひどい。見開きでスキャンしたものをわざわざ縦向きにしたてなおしているのだが、拡大したりせず、見開きの大きさのまま縦向きにして入らないところを切り、余ったところを余白にしてある。どういうつもり? しかも落としきれなかった康徳五年版は普通に見開きスキャンのまま置いてある。こういうものが読めるというだけでありがたいことではあるが、意味がわからん小細工がしてあるとものすごくむかつく。
 国会図書館の仕事はときどきわけがわからない。画一的、事務作業的かつ普通に日本人な丁寧さでやればいいのにどうもそうでもない。目次がズレてたりするのもある。同じ本を二回とりこんでそれをそのまま置いていたりもする。やっぱり詐欺師だらけのIT業界に下請けさしているからわけのわからん思い付きを後先考えず言いまくるのにふりまわされて変なことになるんじゃないかとおもわないでもない。
 実は昨日日記にそういうことを書いたのだが、実際読んでみると案外読みやすかったので怒りもおさまって消してしまった。しかし落としきれてない康徳五年版のPDFの一部をみると見開きでスキャンしてあったのでまたむかつきが。しかし暇で暇でしかたない中国人がうようよしている中国の列車内で日本語、しかも写真入りの満洲国関係のPDFを堂々と読む気にもなれないので読めないでいる。

 黒河到着。8時だとまだ明るいとおもったら7時には日がくれてまっくらだった。客引きをよけていくが結局客引きにつれていかれる。しかし外人おことわりの説にあう。登記いらないとかいうおばはんにつれていかれるがネットなしで上半身裸のおっさんが歩きまわるうるさい宿に30元もはらうのはいやだったのでやめてさびれたところをさがしにいく。しかし出たところですぐ他のおやじにつれていかれる。PC付き30元。ネットが速かったのでよかった。
 飯くってまわりをグルっとまわってみたがボロいエリアがない。壊れた地区が若干あった。あとでgoogle地図の航空写真で確認すると駅前は完全に作りなおしたようで、駅の裏の方にはのこっていた。何分日が暮れてしまったので駅のまわりがどうなっているのかよくみえなかった。


2012/08/19 日 佳木斯(ジャムス) → 綏化

 暑い。暑いんだが天気予報をみていると今日あたりから天気がくずれて二日後くらいにはものすごく冷えるらしい。まぁこれから北にいくのでその影響をもろにうけるかもしれない。もっとも中国の天気予報はあんまりあてにならないのであんまり気にしてもしかたない。

 朝一に博物館に行ってみるが民俗展示しかやってないという。近現代は明日開くとかよくわからん状態。古代はどこか壊れていて見せれないらしい。一応見たが、漢族朝鮮族満洲族の展示と赫哲族の展示だけだった。あと農業関係の定番の唐箕とか置いてある。しかし唐箕も使われている板がぶ厚いせいでごつくみえる。
 満洲族の展示は民居の実物模型なんかもあって比較的力がいれてある。トーテムという名前でそういうのが置いてあったがなんで満洲族の言葉でなんというか書いてなかったんだろう。各行政区画単位の満洲族人口の表があったが数パーセント程度だった。しかし満遍なく分布しているのがおもしろい。実際にはどういう分布をしているんだろう。このあたりは満洲国時代に集合部落政策で散村を集村に固めて共産党や匪賊が補給する道をなくしたのだが、そういうことからするとその名残で集村のなかに混っているんだろうか。
 切り絵が満洲族の習俗とかいうことになっているがどうかとおもう。そういうと民居の中の鍋の中にトウモロコシが入れてあった。満洲族の主食はトウモロコシということなんだろうか。まぁもともとキビとかアワくってたとしたらトウモロコシは粒のデカい雑穀として簡単に置換されそうだからそういうことなのかもしれん。

 赫哲族の展示は別室になっていて、ここに新石器時代の石器なんかもなぜか置いてある。もっとも「古代展示」が見れないのでそっちにもないのかどうかよくわからない。魚皮でつくった服が展示してあった。魚の皮を加工しているところを人形で展示してある。列車からときどき草拭きの家をみることがあるが、実際にああいう家に住んでたようだ。

 今日は「反日デモ」なるものが計画されていたらしく、博物館の前の広場には警察がそれこそウジャウジャいた。博物館のある広場は駅から放射状に走る道の一本につながっていて、その道の端に公園があり、公園に面して広場がある。まぁ満洲国時代からの都市計画をそのままひきついているんだろう。建物はほとんど建てなおされたらしいが、その広場の東にある建物は満洲国時代の建物っぽい雰囲気を出している。公園には革命烈士の塔があるが、その前には石灯籠を崩してつみなおしたようなものがあり、そこにあった神社をつかってそういう公園にしたものだとおもわれる。日本は満洲国の各地に忠霊塔というのを建てていたがまぁそれが革命烈士にかわったようなもんだ。すぐ近くにソ連の兵士を祀る塔もある。

 佳木斯(ジャムス) → 綏化 無座 32元
 まぁそういうわけであと松花江の方にも何かの記念塔があるらしいがそれはいかずに綏化行きにのった。この路線も満洲国時代にしかれた線路で山をこえる。まぁといっても途中それほど高くない山の地帯を越えただけであとはだいたい平原状だった。

 綏化に着くとなんというか駅前に雰囲気がある。なかなかいい。駅前の広場に木製のリヤカー式の移動店舗みたいなのがならんでおり、その一つ一つが飯屋になっている。雰囲気的にはロシアみたいな感じがする。宿さがしをしてたらおばはんがよぶのでしょうがなしにそこで水餃子をくった。まぁうまかったがそのおばはんの息子が宿をやっているのでそこに泊まるよう勧められたのはことわった。今日は銭湯兼旅館に泊まってみたかったのだ。
 駅前に何軒かあったが二軒目、地下にあったところが15元、風呂こみで20元とかいわれたのでそこにした。入口で履物を下駄箱にいれてはきかえ、風呂の手前にある部屋の中のロッカーに荷物とか入れて鍵かけて裸で風呂にいくという形式。スーパー銭湯形式だな。これで外にでれるのかどうかわからない。どっちにしてももう夜なので外にはでない。中国の銭湯はシャワーが中心で一応湯船もあるが、湯がはいっている水槽という感じであんまりキレイなものではない。まぁ垢がういていようが濁っていようが湯にはかわりなく、ひさしぶりに湯船につかってきもちよかった。どうせシャワーで洗うしな。

 しかしこの銭湯旅館は地下だけに電波状況がわるくネットにつながらない。もうすこし選んでもよかったかもしれん。


2012/08/18 土 桦南(樺南) → 佳木斯(ジャムス)

 【4Gamer.net】[特集]シリアスゲーム「3rd World Farmer」の“面白さ”をあらためて見る

 9時すぎ博物館のあるところにいったが閉まっていた。まぁどうせあんまり物もないだろうとおもっていたのでジャムスに行くことにした。思っていたよりは大きな町だった。

 桦南(樺南) → 佳木斯(ジャムス) 硬座 9元
 樺南のあたりは川の流れるところだが、弥栄のあったあたりは低い山になっている。山をこえ松花江のほとりについたあたりがジャムスになる。とはいっても全体的に平原的で通化とか集安のあたりの山とはくらべものにならない。
 駅の待合で座って待ってるとまうしろに職員が座った。その職員が去ったあと隣にきたやつがいたが、こいつがずっとついてきていて、切符をみせずに改札を通過し、車内では自分の席の後ろにずっと立ってこっちを見ていた。切符じゃないなにかをみせて改札を通過できることから鉄道関係か公権力関係だろう。監視されているとおもうんだがなんで目をつけられているのかよくわからん。そのわりに駅をおりたらそういうのがあんまりない。ちょっとジャムスの町のなかを松花江まで歩いたけどそれと確証をもてるようなのがなかった。中朝国境の都市みたいに露骨な尾行がなくなったのはいいことだ。まぁこのへんまでくるとうじゃうじゃ人がいるのでわからんだけかもしれんがまぁいい。

 宿は駅の前にあるバスターミナルの裏のあたりに泊まった。どこも20元とか普通にあるので場所がよさそうなところを選んでぐるぐるまわった結果15元のところがあったのでそこにする。樺南には泊まれる銭湯があったが、ここには銭湯宿があった。銭湯だけど一晩いれるところか、宿の体裁をとりつつ銭湯の形態ももっているかの違いだ。安かったら泊まろうかとおもったが一番安い部屋で30元だった。まぁこのあたりに来てから暑いので銭湯に入れるのは魅力的ではある。
 博物館があるということで場所を地図で確認せず、宿のおばはんの言うのを聞いていってみたが道をまちがえて駅の前を真っ直ぐ松花江に行く通りを進んでしまい、博物館にたどりつけなかった。松花江には「知青」の記念碑があった。それだけでなぜか疲れてしまい、宿まで帰って動く気がするまで寝ていたらそれで日がくれてしまった。

 佳木斯市志とか牡丹江市志には満州国崩壊時、日本軍が工場とかを破壊したとか日本の特務が町に火をつけたとか書いてあるんだがどうなんだこれ。ソ連が工場の機械を戦利品としてうばっていったみたいなことは書いてない。もっとも大部のもので隅から隅まで読んだわけではないのでどっかにほのめかしてあるのかもしれない。
 大事記によるとジャムスは満州国崩壊後に中国共産党が拠点としたことがわかる。満州国時代の省幹部を公開裁判即処刑する集会を開いたらしいが、そのとき騒動がおこって20人死んだとか書いてある。何がおこったんだ?


2012/08/17 金 牡丹江 → 桦南(樺南)

 牡丹江 → 桦南(樺南) 硬座 17元
 樺南は満州国時代千振という名前だったところだ。開拓団がいっぱい入ったところということで行ってみたがそれらしいものはみあたらない上に博物館なるものがあったが金曜休館ということで入れなかった。今日中にジャムスに行くことも考えていたが、せっかくなのでここに泊まることにする。
 ぐるぐる歩きまわり、銭湯に泊まることも考えたが時間がありすぎるので結局やめた。でもやっぱり泊まった方がよかったかもしれない。今日は天気がよくて若干汗かいた。20元の所に泊まる。

 中東TODAY: NO・2295『エジプトで始まったか・英雄待望心理』


2012/08/16 木 牡丹江

 ダウンロードできる状態になったので国会図書館で本を検索してたら前よりも増えているような気がした。確認してみたらまた本が追加されている。リストをみてうーむ。おもしろそうな本がいっぱい入ってるな。

 牡丹江博物館
 ここにきたら渤海関係の展示でもみれるかとおもってきたが、旧満洲はそんなにあまくない。ここにある展示は2つづつ週がわりで見せているという。それが本当かどうかわからないが言われたのだからしかたない。ということで革命展示だけしかみれなかった。革命展示で目をひくのは金日成。まぁ金日成は東北抗日聯軍の一部であって、かれらは初期には活躍していたが、そのうち掃討がはげしくなって満洲国内におれなくなり、ソ連にひっこみ、ソ連侵攻とともに戻ってきたとある。掃討がはげしくなって安全圏にひっこんだというのは中国の共産党とも通じる。
 中国側の偉い人と金日成とソ連の将校がいっしょに写っている写真があるが、金日成が金日成にみえない。
 満州国については収奪・奴隷化のための建設ということで全部説明しようとしている。日本語教育の強制とか書いてあっておもしろい。このへんって昔は外国語として日本語勉強させられるよう指定された地域じゃなかったっけ。まぁ中国はそういうことは気にしないタチなんだろう。要塞についても展示がすこしあった。
 展示してあったポスターのなかに、協和会による「9月18日をおもいだせ」というのがあった。いろんなつかいかたができるもんだなぁと感心した。もっともそこに書いてある六コマの漫画のうち一、二コマ目の文字がある右端部分がブレて読めなくなっている。どうも1コマ目は軍閥がひどい政治をしていた、2コマ目は日本軍が解放してくれたみたいな事が書いてあるようだ。日本軍の存在を肯定するための理屈にバリエーションはそんなにないだろうから協和会関係をさがせばわかるだろう。あと万里の長城をはさんで「天国と地獄」と書いてあるのもあった。
 展示物には偽物が多い。まぁ雰囲気を出すためにすこし関係なくても置いてあったりそれらしくこしらえてつくって置いたりしたものだ。わざとらしく関東軍のハンコを押した紙に印刷してあるものが簡体字だったりしてもうなんというか。日偽の憲兵の腕章というのもあるが憲兵の字の上にM.Pと書いてあったりする。いつの腕章だ。日満協和とか書いてある腕章もあるがそれは憲兵のものじゃないだろう。
 展示物のなかに「滿鐵助役試驗問題集」というのがあった。内容はみれないが結構な暑さの冊子でそういう目的のためにこんな立派なものを拵えていたのかと感心する。
 あと、これまでの移動で窓からみていて目についたサイロみたいなものが大豆倉庫だとわかった。

 国会図書館の新公開分に満州国現勢とか満州国要覧みたいなのがあり、あれば便利だが500ページを越す大部なもので、ダウンロードできそうもない。

 こぷと語小文典

 千振 → 桦南(樺南)
 弥栄 → 孟家岗(孟家崗)
 米軍地図をみると弥栄や千振の周囲には群馬とか茨城といった地名がのこっていたが、今の地図にはのこっていない。弥栄のちかく、群馬があったあたりに群が頭につく地名が散在しているのはその名残か。秋田のあとが秋豊になっているのもそれか。


2012/08/15 水 虎頭 → 虎林 → 牡丹江

 とりあえず虎林にもどるがそこからどう移動するか。ジャムスに行こうかなとおもっていたけどかなり興味がなくなってきた。牡丹江までももどらず、鶏西からチチハルまで一気に行き、黒河、漠河にいって内蒙古に突入しようかな。ノモンハンも博物館たっているらしいのでいきたいがタクシーしか接近手段がないらしいんよな。

 虎頭 → 虎林 ミニバス 14.5元
 虎林 → 牡丹江 無座 32元
 といいつつ牡丹江までもどってきた。牡丹江駅では今回南側に出た。こっちが正面であるらしく、都会らしい姿をみせていた。前回北側についたのは駅のバスターミナルが北側にあったからだ。中国の駅で北口と南口があるのは珍しい。
 駅の並びに安宿がいっぱいならんでいる。あとで駅前から牡丹江の岸まで歩いてみたが、町中に宿があったので、市バスで適当に移動して宿さがししてもみつかりそうな勢いだ。とはいいつつ駅の横の並びの宿にとまった。30元ネットつき。共同シャワー。もう最近30元でネットあるとかいわれたら断れなくなっている。この町なら20元でネットできそうなところありそう。この宿はネット付きというよりはPC付きで、LANケーブルだけあったらいいといったが結局PCつきになった。LANの設定が微妙で一度PCをたちあげてその設定にしたがってノートパソコンを設定しなおした。

 時間が微妙だったので一応牡丹江の川岸まで歩き、ついでに博物館の場所を確認した。朝は9時から。川岸には「八女投江」の像がある。共産党ひきいる抗日聯軍の女兵たちが身を投げて死んだ事を記念したもの。なぜか七女投江と間違えておぼえていた。博物館も「八女投江記念館」が上に来ている。
 宿に帰る途中カルフールで買い物して帰って飯。置いてあるPCのモニタの線を抜いてノートパソコンに差し外部モニタとして使ってみたらなんかにじんでいるし画面が曲がっている。昔はこういうモニタだったなぁとおもいながらつかっている。発色はやっぱりキレイだし画面もひろい。

 牡丹江市志の口絵の写真をみると牡丹江駅北口は1935年にできたものであるようだ。つまり図們とジャムスを結ぶ図佳線の駅としてつくられたもののようだ。そしてロシアがつくった東清鉄道の駅は今の市街地の南側の中心を通っていたそうだ。なるほど、google地図の航空写真でみてみると東西方向の線路は市街地で大きくまがり南北方向の線路に合流しているが、旧駅とされているところから道路に沿っていくと東西方向の線路が曲っているところにぶつかる。道路の方向と線路の方向があっていることからして、東清鉄道を基礎にして市街地がつくられたんだろう。

 なんか体調わるい。


2012/08/14 火 虎林 → 虎頭

 現実的に竹島は平和的な方法では戻ってこないだろう。

 虎林 → 虎頭 ミニバス 14.5元
 ミニバスと書いているがワゴンとミニバスの中間くらいのもの。中央アジアだとよくみるけど中国ではそんなに見ない。まぁロシア式なのかもしれない。この路線はバスターミナルの窓口で切符を売ってくれない。乗って買うのだが、バスにはすぐにのせてくれずターミナル内で待たされる。で、バスが来たらゲートをひらけるわけだが人が殺到しているので乗れない。ということをくりかえしているうちに乗れるようになったが今度はこれは臨時増加だから20元といわれて降りる人続出。人が乗らないのでそのバスはひっこむ。その次にきたのがとにかくつめこもうとするバスで、とりあえず出口の外で待てという。人多すぎで乗れないだろと言ってもとにかく行けという。待つと今度は市バスにのって郊外へ連れていかれる。待っていたらやっぱりおなじミニバスが来る。市バスで来た人もミニバスに既に乗っている人とおなじくらいいるのでギュウギュウづめになっていく。こんなん乗れんわと市バスでひきかえしたら普通に乗れた。出るのが遅かったとはいえ、バスターミナルでこんな感じでまたされて出発できたのは11時。虎頭についたら12時くらいになっていた。

 虎頭は小さいところで見るだけなら半日でまわれる。泊まった方がいいかとおもってとりあえず宿20元に泊まったけど虎林に宿をとって朝から往復するだけでもよかったかもしれん。
 とりあえずウスリー川をみにいく。対岸のロシアは森になっていてよくみえないが見張り塔はみえる。ウスリー川本流は濁っていて、イマン川の黒い水と川の真ん中で境目をつくっていた。
 まぁ川ぞいをぐるっとみたが遊び客であふれる夏の海みたいな感じで中国人がいっぱいいる。夏休みだしなぁ。日本軍の軍用埠頭跡というのがあったが破壊されたそうでなにものこっていない。胡耀邦が来たという記念碑があった。1996年と意外に早い時期にたてられていて意外だった。
 観光客目当てのでかい飯屋ばかりで昼飯を食うよいところがなく村に近いところまで行って食った。冷麺。日本人だといったらおばはんらの昼飯の焼き餃子をくわしてくれた。豚の内蔵を切って唐辛子であじつけしたものもくれた。

 虎頭要塞の博物館だが、行ってみたらタダで入れた。まず博物館をみてそこから要塞を見物することになる。タダではいれるものの、切符をもらわないといけない。そしてその時間がほんの10分から20分程度で指定されている。たまたまその時間内だったからすぐもらえたものの、どうもどっかの偉いさんが視察に来るらしく、追い出しにかけられ、写真もとれなかった上に二階部分がみれなかった。要塞陥落をどう展示しているのか見れなかった。
 要塞内部はよく保存されている。まぁここは複数ある要塞の一つで、ソ連との戦いの早い段階で放棄されたところだからよく残っているのかもしれない。この時代のものでも中国よりはよく作ってあるな。
 外に出ると要塞の上を通って入口にもどるようになっているが、要塞の上にはソ連軍の慰霊碑みたいなものがたっていた。要塞の上にほってあった塹壕は今でも認められる。

 博物館を一応みたので、次は41センチ砲の砲座を見にいく。第二次世界大戦最後の激戦があったところということで、そういう記念公園をつくり、金がかかるらしい。ゲートまで歩いていったら30元といわれたのでひきかえした。
 当然おとなしくひきかえすつもりはなく、山道をみつけてそこから砲座のあとめがけて歩いていった。google地図の航空写真などで確認したのでだいたいの位置はわかっている。再確認するまでもないのでとりあえず林の中を歩いていったのだが、そのあたりで解放軍のみなさんが小グループで森をとおりぬける練習でもしているようでスレちがってしまった。奥の方から他の声もする。やばいのでよけていくつもりだったが公園まであとすこしというところで深く掘ったところがあって越えることができない。しかたないのでそのふちを歩いていくと、解放軍のみなさんが訓練しているところにでてしまった。手榴弾の投擲訓練みたいなのをしていた。知らん振りして行こうとしたが、ひとりに呼びとめられてしまう。どっから来たとか言ってる。まぁしかし解放軍も人民なのでそこは無表情にあの記念物のみえてる公園に行くと言ってごまかしてなんとかなった。あんなとこで訓練すんなよ。
 公園につくと砲座の方へ行く道に「工事中」の掲示がある。困ったがどっちにしても潜入中なのでそこにも潜入する。もう5時近いので本当に工事中だとしても作業員も帰っているだろう。
 まぁその通りで、途中要塞の一部分をながめながら、砲座のあるところにたどりついた。ドームの一部がのこっており、砲座のあったところには水がたまって池になっている。砲座の壁に穴が開いているがこれは地下要塞に連絡するトンネル部で、奥の方からなにかがゴソゴソする音がきこえる。まぁ虫か小動物がなにか食っているんだろう。
 なかなか把握できるような写真がとれないので上にのぼったがやっぱり全体はとりづらかった。
 さてここから帰るのだが、同じところを通るとまた解放軍が手榴弾ごっこや森探検ごっこをしているところへでてしまうので通れない。記憶では砲座の北が森の外に近かったとおもって行ってみたが、いやいや。湿地だったところに出た。たまたまひあがっているからよかったものの、雨のあとだと悲惨な目にあうところだった。しかたないので山にもどり、解放軍の遊び場を通らないように東に向かっていった。
 そのおかげで41センチ砲を復元したものにいきあたった。ハリボテだが雰囲気はよくわかる。意外と砲自体は小さくみえる。まぁ砲座は砲をまわすものだからデカいのはあたりまえか。まぁしかしあれでも大和の主砲よりは小さいんだな。
 ハリボテがある道はゲートの方に通じているんじゃないかと危惧したが、そうではなく博物館のある道の奥につながっていた。よくわからない。あのハリボテは誰か見にいけているんだろうか。


2012/08/13 月 綏芬河 → 虎林

 コミケ、今回は江藤氏の新しいののみで、漫画の方はこの通り中国でダラダラしているので、前に作ったのこりだけだったが、そこそこハケたらしい。前回は中国で無理矢理コピーしてコピーの質、紙の質の悪いものになったので中国ではやる気がなかった。もっとも上海のような大都会ならきれいに製本できたかもしれんが、旅行は基本的に地方をまわるしなぁ。旅行してなきゃ日本に帰るのでどっちにしても中国での製本はもうしないだろう。
 で、江藤さんの同僚の意見では一冊目の漫画の表紙は不気味で手にとりづらいらしい。そこまでの印象を与えられるということはホメ言葉だな。まぁ問題は最近絵もなにも全然かいてないということだろうが。
 といっても10冊持っていって5冊売れたとかいう感じらしくまぁなんとも。在庫って少ない方がいいね。

 朝冷えこんで霧がでている。朝は半袖シャツサンダルだとキツいかも。いまいち信用できない中国の天気予報によるとこのあたり朝はもう10度台前半まで下がっているらしい。最高です。まぁもう長春あたりでも最低気温は10度台の後半になっているので夏の盛りは過ぎたということだな。

 綏芬河 → 下城子 硬座 8元
 下城子 → 虎林 硬座 17元
 朝6:59発18:10分着の予定はその通りになった。ながかったので本でも読んでた。下城子からはウスリー川の水系になる。まぁウスリー川からアムール川に合流して海にでるわけだが、そこからちょっと南にいけば綏芬河としてウラジオストック方面に流れ、さらにもうすこし南になれば図們江に出るので分水嶺が集中しているところだ。
 下城子で一時間くらい乗り換えで時間をつぶしたあと、川ぞいにくだっていくとだんだん湿地っぽくなってきて、川の岸が低くなりジメジメしたところが増えてくる。蒲が生えてるところは日本以来ひさしぶりにみた。このへんも穀倉地帯なんだろう。みわたすかぎり開発されてなにか植えてあった。

 虎林についたらもうバスターミナルはしまっていた。タクシーとかもあったがまぁそういうのにのって日がくれてから着くのとかゾっとしないので虎林で適当に宿をさがして泊まる。20元。テレビあり。
 町のなかは今改造中らしく、にぎやかな通りらしいところの道を封鎖してなにか工事していた。駅の西側にボロい地帯もひろがっておりなかなかおもしろいところだ。気候もいいし長居してもいいかもとかおもわないでもない。

 時事ドットコム:江蘇、遼寧で9人炭疽病感染=中国
 大連あたりにある生物兵器工場から漏れてるんだろ。


2012/08/12 日 綏芬河

 朝から隣のやつが曲をながして一人カラオケやっててうるさい。
 綏芬河発の列車が6時59分をのがすと午後までないからわざとやっててくれてたようだった。わるかった。

 被害妄想かもしれんとおもって書かなかったが中朝国境あたりでは尾行・宿の監視されることが多かった。黒龍江に入ってようやくなくなったかとおもったら、綏芬河に来たら宿の監視があった。うーむ。まぁ国境地帯はそういうもんかもしれん。たぶんどういう人間と接触するか見ているんだろう。

 まぁ宿の監視とか初日だけかもしれんな。

 東寧要塞は東寧から遠いみたいなのでやめて虎頭要塞を見物しにいくことにする。明日のバスで虎林→虎頭と行くことにする。
 虎頭要塞日本側研究センター Kotou Fortress
 虎頭要塞はこれに詳しい。41cm砲の跡だけは見てみたい。

 昼飯にロシア料理でも食べてみようと中心の方に行ってロシア語でレストランと書いてあるところに入ってロシア語メニューで適当に注文したら中国の炒め物がでてきた。うーむ。もう一軒地下のところに入ってみるとここのメニューは中国語が併記してあって中国の料理にしかみえない。ロシア料理をくれといったらボルシチとパンをくれたが、うーん。中華味のような... ボルシチといえば赤紫の大根がはいってそうなもんだがただのトマトスープ(中華味)になっている。
 中国は雑居ビルに似たようなものを売ってる店がいっぱい入っている卸問屋街スタイルのデパートが多いがここもそんな感じで、違うのはロシア人がいっぱい買い物に来ていることだ。ロシア物産を売っているエリアもあるが狭く、鮑なんかの海産物系とか、軍事系グッズとかの珍品系か毛皮系カバン系の高級装飾品系がメインだ。まぁ今は中国が世界の工場だしなぁ。
 昼に出てグルグル回っていたらなんだかんだ言って五時くらいになっていた。そんなもんだろう。

 磨刀石・東寧・虎頭の戦跡を訪ねる: 7日目 綏芬河~虎頭
 ここから虎林まで行くのに、バスだと6時間くらいかかるらしい。9時発で15時過ぎ着。さらにバスにのりかえないといけない。鉄道で行けるかどうか調べたが、朝一0659の牡丹江行きにのり、下城子で降りて東方紅行きにのりかえれば1810に着くらしい。だいたい11時間かかる。値段だけでいえばこれが一番安いがその日のうちに虎頭に着くかどうか。ただこのあたり日が長いのでその日のうちに虎頭鎮についてもなんとか宿さがしくらいはできるかもしれない。ちなみに今から切符を買うという真似はしない。明日が勝負だ。
 下城子には中露友好記念館というのがあるらしいがまぁ入れないんだろうな。


2012/08/11 土 牡丹江 → 綏芬河

 牡丹江 → 綏芬河 新空調硬座 27元
 結局牡丹江に留まらずまた早朝4時台の列車に乗ってしまった。ロシアが敷設した東清鉄道の路線にのってロシア国境まで行くわけだ。
 この線路の横に線路跡らしきものが併走していて時々古いレンガの橋があったりする。ロシアが敷設した古い線路かもしれんが細いような気がするので違うかもしれない。相席の女の子が大学生で綏芬河の手前に家があり帰るところらしい。キリスト教徒だということだが、教派がなにか追求したがなになのかよくわからんかった。
 道々植えてある白いものが木耳の栽培装置だと教えてもらった。なかなか技術がいるらしい。

 綏芬河着。ロシア人がうろうろしている。目の前にバスターミナルがあったので値段をみてみると牡丹江綏芬河が33元とか書いてある。まぁそれほど高くないので時間の都合があったら乗ってもいいな。宿をさがすがパっと見なんか高い気がする。すこし離れたところでそれなりの美人が中にいたので聞いてみたら20元だった。共同シャワーもないが美人がいるからいいだろう。
 紅色通道記念館というのがあるらしいので行ってみたが入れない。ロシアの建物でのちに満鉄の職員も住んでいたらしい。なかなか味がある。扉は開かなかったがトイレの窓が全開なので入れなくもないがやめといた。教会も小高いところにあった。昔は正教会だったようだが今はどうなっているんだろうか。よくわからん。愛国なんとか教会みたいなのになっているような気がしないでもない。

 綏芬河博物館。午前中行ってみたら前に「接待専用車」なんてのがとまっている。いやな感じがするとおもいながら入ろうとしたら「サンダルおことわり」みたいなこと言われたのでまぁあきらめず靴を取りにもどってまた来たら昼休みになっていた。飯食って入ったらやっぱりいろいろいわれる。写真撮影禁止みたいだったのだが、あとからどっかの偉いさんが視察に来て報道係がバシバシ写真とってたのでついでにとったった。係員が注意しにくるわけだがこの女がサンダル履いてるんよな。これはサンダルじゃない、「涼鞋」だと主張しやがってむかつく。とにかくいろいろうっとおしかったがどうも今日はどっかの偉いさんの接待の日みたいだからしょうがないのかもしれない。
 普通、民国軍閥史では狂犬扱いされている張宗昌が名地方官扱いされていてめずらしかった。といっても阿片を植えて経済をまわしたとかそんなのだが、堂々と書いておもしろい。阿片畑で働いている人の絵(イメージ画像みたいなもの)まであった。このあたり写真をとりたかったが係員のくそ女が邪魔してとれなかった。ここにも要塞があってそこからの出土品ということで日本軍の残留物がずらりとならべてあったがこれはどうでもいい。石器はけっこう置いてあったがロシアが東清鉄道ひくまでは一貫して田舎だったことがわかる。

 市内で買い物をした。カバンはいいのがなかった。ホンマモンの軍用カバンとかあったがあんまり便利な形をしていなかったのでやめた。サンダルを15元でかう。今度は親指で挟むもの。ただ足の甲をおさえるあたりが繊維系になっていたのであとあと臭くなったりしそう。今まで履いていたのはもう貫通していたので捨てた。新しいサンダルをはくと熱い。今まではいていたサンダルが地面との距離がすくないためにこんな夏でも地面に熱が流出していたらしい。

 旧日本領事館をみつけたが、その隣に旧ヨーロッパホテルがありこれが共産党の秘密基地になっていたそうだ。さらにすこし離れたところに旧ソ連領事館があり全部建物がのこされている。まぁ日本領事館の建物が残されているのは政府や軍関係の機関が入っていたから今まで残されたわけで、なにかの記念物として残ったわけではない。他にも幼稚園になっている古い建物とかあったが入れないので元がなにかわからなかった。一番高いあたりにあるマンションに勝手にはいって階段から町の写真をとったが今みてもあんまりよくわからない。反対側の丘にのぼってとったほうがいいのかもしれない。


2012/08/10 金 图们(図們) → 東京城 → 牡丹江

 図們の冷麺はどこも唐辛子が多すぎる。

 图们(図們) → 東京城 新空調硬座 26元
 朝一ということで4時頃起きて行ったが間に合った。ここから上流にあがっていくがまぁゆるい谷がつづき、そこを越えて牡丹江水系に入ると風景が草原的になってくる。まぁこのあたりから北に満蒙開拓団もたくさん入ってきているらしいから、満洲の大原野というのはこういうイメージだったんだろう。
 東京城につくが意外とにぎやかな町でびっくりする。規模は大したことがないがニギやかさがいい。いい感じにまとまっているだけかもしれないが、一泊してもいいような感じだ。朝飯くってないのでそのへんの出店でパンケーキを3個買って渤海国の遺跡をみにいくとか話したら3路のバスで行けると教えてくれた。

 東京城の3路のバスは渤海鎮行き。城壁の跡の間を通り、最後までいくと興隆寺というところにつく。15元らしい。中に渤海国関係の石造物も置いてあるらしいが入らない。南に1kmくらい離れたところに博物館らしい建物があったので行ってみるがこれは新博物館を建築中のところで行くだけ無駄だった。
 寺にもどって聞いてみると北の方に古い博物館があるらしい。ということで北の方に歩いていったが渤海鎮のはずれまで歩いて何もなかったので戻った。渤海鎮の中心までいくと渤海上京遺址博物館というのがあるが閉まっている。がっかりしてとりあえず城壁のところまで戻ってみると、説明のコンクリート板があり、遺跡の概略図が書いてあった。それをみると内城跡がさっき行った渤海鎮の北の端からもうすこし北のところにあるらしい。荷物かついでいるしもう歩くのいややなぁとおもいながら歩いていった。
 結局北の端までまたいって北西の道をすすむとそんなに遠くないところに森が見える。歩いていったら切符売り場があったが、特に注意もされなかったのでそのまま入っていくと渤海上京遺址博物館がそこにあった。
 中にはいるとどうも飯時でだれもいない。といっても展示物もあまり多くなかった。渤海の墓の壁画の臨模があるのが目新しいくらいか。とはいってもそこに描かれているのは役人とかなので、時代が時代だから唐とあまり大差ない。日本も役人は唐みたいな格好をしていたわけだからまぁ当時のスーツだとおもえばそんなに特徴がないのもわかる。
 さらに北の方へいくと内城跡の石垣の跡がある。宮殿が5つ南北にならんで南北に門の跡があり東側に庭園の跡なるものがあった。なかなか広い。上部構造物はなにものこっていないが、礎石の間に瓦の欠片が無造作にちらばっている。しかし礎石とか石垣につかわれている石が火山岩なのか、穴だらけなのが気になる。あれでちゃんと礎石として使えていたんだろうか。石垣も古い石が積んであるが結構雑な積みかたで、昔のとおりなのかどうかわからない。崩れたのを積みなおしたのとかありそうだ。
 東の方にいくと庭園跡があり築山や池があったりする。そのあたりから出れたので出た。

 東京城 → 牡丹江 バス 15元
 荷物を担いだまま歩きまわっていいかげん疲れた。さっさと東京城にもどり、着いたときに確認していたバスで牡丹江に行く。東京城と牡丹江はバスが頻繁に出ているようで、バスターミナルの外で切符を買わずにとっとと乗れる。
 戦前の旅行記を読んだりするとこのあたりから開拓村があり、そういうところは整然と建物が並んでいたりするらしいが、たしかに今見てもそんな風になっている村がある。もっとも昔はさらにその集村の隅に望楼があったりしたらしいが今はそういうのがみあたらない。
 牡丹江に着いて駅で時刻を確認すると一時間後くらいに綏芬河行きがあるらしい。すこし切符売り場に並んでいたが、すこし気がかわって宿さがしすることにした。20元でいいのだが電源がちゃんとしてなかったりして数軒まわった。

 牡丹江にも博物館があるようなので明日行ってみる。開いてなかったりしそうではあるが。あと、博物館リストをみていると、関東軍の築いた虎頭要塞と東寧要塞をあつかった博物館があるようなので、これから先行くことにする。虎頭要塞はソ連国境間近にあり、シベリア鉄道を砲撃できる位置にあったので、ソ連側はわざわざ迂回路を作ったそうだが、それに対抗するためにでかい砲台を据え、ソ連侵攻のときにはそれなりに活躍したそうだ。まぁ行ったらなにか書いてあるだろう。

 韓国の大統領が竹島上陸とかなんだが、韓国人頭おかしいとかいうよりも何か変なことたくらんでいるんじゃなかろうか。まぁもっともたくらみもなくよりによってオリンピックのサッカーにひっかけてそういうことをしたのならやっぱり頭おかしいとしか言えないのだが...


2012/08/09 木 图们(図們)

 朝起きてから昨日の分の日記を書いた。

 博物館があるらしいので行ってみたが、中国朝鮮族非物質文化遺産展覧館というのだった。しかも40元する。うーん。ということでやめた。ぷらぷら歩いて冷麺食ってバスにのってちょっと市内をまわって帰ってきた。帰りしな、マッコリ売っているところをみつけて500g買ってきた。4元。飲んだらすぐに寝てしまった。なんか疲れているようだ。

 中東TODAY: NO・2287『悪循環となった各国のテロ支援』

 帰りのことを考えてすこし調べていたら天津発の燕京号がなくなったらしい。


2012/08/08 水 珲春(琿春) → 防川 → 图们(図們)

 サンダルを買うといいつつまだ買っていない。サンダルよりも緊急性が高いのはカバンだったりする。あちこち破れて中身みえてるしなぁ。そろそろ針と糸でなんとかならない段階になりつつある。広州で紅軍包の新しいの買っておけばよかった。

 防川ツアー 130元
 バスターミナルを8:30出発。宿を出て荷物を全部かついでいく。ミニバスだったが運転席の後ろの一人席に座れたので丁度よかった。どうも外人は本当はダメらしく、金はらってから名前聞かれたときに日本人だと言ったら無闇にしゃべるなと言われた。
 なにか電話で揉めてたので出発がおくれ、本来とは違う順番で回ったらしい。ロシア国境 → 張鼓峰事件記念館 → 三国国境を見物 → そこの飯屋で飯 → 砂山で砂あそび → 呉大澂公園 → 洋館堤(降ろしてくれなかった) → 北朝鮮国境。
 砂山とか呉大澂公園はどうでもよかったのだがツアーコースにはいっているのでしかたない。ツアーには他に日本人がひとりいた。といってもわざわざここまで来たのではなく、嫁の実家がこのあたりで、夏休みをとって遊びにきていて、嫁の妹とその友達と三人で参加したらしい。なるほど嫁の妹というのは日本人好みの顔をしていた。奥山佳恵をもうすこし南方系っぽくしたような感じ。二人とも日本人とわからないように自重していたが、まぁポロリと日本語を言ったりするのでわかった。最初は駐在の人がお水の人といっしょに遊びにきているのか、日本語教師が生徒に案内されて来ているという二つの線を考えていたがどっちも違っていた。
 記念館の展示は展示物で文字がみえなくなっているところもあるので本来もうすこし広かったのかもしれない。ソ連軍の展示の方で「英雄」の二文字が消されていたりするのがおもしろい。日本が負けたという風になっている。まぁしかし展示してある武器とか骨とかはソ連軍のものばかり。どうなんだこれ。
 張鼓峰事件では満洲国側(日本の朝鮮軍)は山頂を奪回し死守したということだが、その割に翌年ソ連側が占拠したのを妨害していない。またこの事件のあと図們江を下れないように封鎖したらしい。そのためについ最近まで中国は日本海に出られなかったそうだが、なんでそんなことしたのか。
 カチューシャというソ連の歌は張鼓峰事件を契機にしてつくられたらしい。なるほど カチューシャ (歌曲) - Wikipedia をみると最初は恋人をおもう歌だったのがその恋人は国境警備をしている設定が追加されたということになっている。張鼓峰事件はその後の展開に隠れて今ではあんまり目立たなくなってしまっているが極東軍総司令のブリューヘルという超大物粛清の口実になった事件だからソ連国内ではことさらに大袈裟にする必要があったのだろうか。まぁしかし日本が攻めてくるというのは多くのロシア人にはピンとくるものではなかったのか、後の「大祖国戦争」で愛唱されるようになったとかなんとか。
 ロシア国境も北朝鮮国境もバスが行き来していた。バスターミナルからは国際バスがでているので普通に往来できるんだろう。まぁ第三国人は無理なんだろうけど。北朝鮮国境にかかる橋は1936年にかかったものをまだ使っているらしい。ガイドがここが中間線というところまで連れてくれたが、すこしくらい越えてもいいらしく、ツアーに参加してた子供がその線を飛び越えながら「中国」「北朝鮮」とか言って喜んでいた。

 珲春(琿春) → 图们(図們) バス 17元
 ツアーで疲れたらしくよだれ垂らしながら寝ていたら着いた。北朝鮮国境ぞいを移動していたが、まぁ山ばかりでいいかげん見飽きたのであんまりみていなかった。
 図們駅について時刻表をみると北の「東京城」を通るのが朝の4時台の牡丹江行き一本しかない。東京城は渤海国の首都上京龍泉府の跡にできた町で、東側に町が発達したから東京城であるらしい。すぐ横のバスターミナルでみても朝の10時の牡丹江行きしかないらしい。まぁすぐに行けないことがわかったので宿探し。すこし離れたところに20元テレビ無し無線LANあり共同水シャワーのところがあったのでそこにする。どうでもいいことだがおかみさんが癩病でおばあさんが呆けているっぽい。やっぱりツアーで疲れたのか日記を書く気にならずしかし国会図書館から古い本をダウンロードさせながら寝た。


2012/08/07 火 敦化 → 延吉 → 珲春(琿春)

 このあたりの気温分布をみると、図們江河口付近のいわゆる間島、今の延吉朝鮮族自治州のあたりがすこしあたたかい。

 もういい天気で感覚的にはこれまで梅雨でようやく夏になったような感じだ。いままで洗濯物が朝になっても乾かない日本みたいな気候だったのでシャツなんかが納豆臭をただよわせつつある程度になっていたけどなんとかなってほしい。

 敦化 → 延吉 硬座 14元
 朝10時の列車で延吉に向かう。牡丹江水系をこえたあたりからなんというか草原的な地形になった。延吉のあたりは高い山がみあたらず、いわゆる帽子山をみつけるのに何の苦もない。延吉でおりて荷物をかついだまま博物館の方向に行ってみた。一応計算では延吉で一泊して明日琿春に移動でいいかとおもっていたが、延吉の駅前の通りが全体に工事中なのをみて延吉に一泊する理由がわからずそのまま荷物をかついでもってきたのだ。敦化で調べていた博物館の位置に行ってみたら、博物館は新しいのを建ててそっちに移動中だった。9月から開くらしい。列車で図們まで移動しようかとはおもったが、夕方までないのでとりあえずバスターミナルに行ってみた。

 延吉 → 琿春 バス 36元 + 保険1元
 すると琿春行きがあってそんなに高くない。まぁこの値段ならいいかと乗って行くことにした。琿春は盲腸なのでどうせ図們に行くことになる。延吉から出発すると今度は谷になって低い山がつづく。高速なのでものすごく早い。やっぱりバスは乗り心地がいい。道々北朝鮮がすこし見えたりするのだが、何もないのでそのうち飽きて寝てしまった。

 琿春のバスターミナルにつくと防川行きへのタクシー運転手のおさそいがあった。一台200元とからしい。しかしバスターミナルではバスターミナルのツアーを売っている。一人130元。ロシア国境をみて北朝鮮国境をみて三国望遠台に行って張鼓峰事件の記念館に行ってともりだくさん。飯代もすべて込みらしい。こんなにいらんと言ったら一人二人ならタクシーよりツアーに参加する方が安いとのこと。まぁそれもそうかとおもったがとりあえず朝でも買えるらしいので今晩考えることにした。
 町の方へ行く道ぞいにいっぱい宿がある。適当に選んで30元。長白旅社。無線LANあり共同シャワーあり。
 ついでなので町をぐるっとまわった。ついつい冷麺を食ってしまう。今日食ったのは辛かった。この町はハングルの他にロシア語が溢れている。バスターミナルにはアフトボクザルと書いてあり、宿にはガスチニッツァとかミクロガスチニッツァとかオテルとか書いてある。なかなかロシア語が目立っておもしろい。


2012/08/06 月 白河 → 敦化

 アメリカで低脳ウヨクがシーク教徒を大虐殺 - ネットゲリラ
 シーク教徒とムスリムの区別もつかんのか...

 サンダルがだいぶ死んできているので新しいのを買わねばならない。今日龍井に行ってから探すことにする。このサンダルは一ヶ月半の命か。まぁ指で挟む形でないサンダルなのに山にのぼったり33km歩いたり無茶なことをしているのでつぶれてもやむをえまい。というか現状スが入ってるような感じになっていて水の切れがわるい。サンダルの意味がないよな...

 白河 → 敦化 バス 36元 + 保険1元
 駅に行ったら龍井行きの列車が遅延して朝8時のものが午後2時になるとか。たぶんそのせいでもう一本の午後1時の列車の人数が読めないせいでか龍井行きを一切売ってくれない。天気もよくなって日差しが強くなってきたので洗濯して乾いていなかったものを干したが、地図をみているとまぁ敦化に行ってもいいかなとおもい、バスにきりかえた。12時出発。
 今まで丹東から北上してきたところとはちがってかなりなだらかな地形になっている。しかし北海道の奥のような感じでまだまだ開発されていないような状態。森林もいっぱいある。地形的には草原みたいになっていてもおかしくないけど気候的に森林地帯なんだろう。

 敦化の駅前につく。満洲国時代の都市計画のままらしく、駅前広場を中心に放射状の道路が伸びている。まぁしかし満州国時代の建物ってバリエーションすくないような気がする。設計者がすくなかったのか?
 一応延吉方面の列車を確認するが、到着してから真夜中までない。そんなら泊まって明日行く方がいい。ということで駅前で適当に泊まる。ネットありトイレつき30元。

 敦化には博物館がないが、Google地図でみると敖東城というのがある。適当に行ってみたがスラム街のような感じになっていた。順調に文物を示す石碑の掲示だけみつけたが肝心の城跡がどこかわからない。周辺はビニールハウスもある畑か貧民街のような感じの古い建物でいっぱい。あしたのジョーとか住んでそうだ。ひととおりあるきまわって川までいくと、敦化大橋なるものにいきあたる。よくよくみると四車線の大きな橋のよこに昭和の香りがする古い橋がある。古い橋はわたれないようになっていたが、大きな橋の横にぴったりくっついている。大きな橋が「敦化大橋」で、記念碑がたっていたが、それによると横の古い橋が満州国時代につくられた橋でなんと2002年まで現役だったらしい。うちの田舎にもこんな感じの橋あったというようなコンクリート橋だったが、橋脚は相当しっかりつくってあるようでボロボロになっている橋の上面部分にくらべるときれいにのこっている。残してあるのも橋脚が壊しづらかったからかもしれない。しかも橋の欄干の端にある親柱がその橋に車を通さないための車止めとして再利用されており、そこには「康徳三年七月□□」と書いてあった。こんなに堂々と満州国の年号がのこっているのは珍しいかも。もちろん削ろうとしたあとはある。  それはともかく敖東城は渤海の初期の城跡らしい。うーむ。意識せずにそういうおもしろいところをたどってしまっているのか。

 晩飯に冷麺を二軒の店でくってみた。どっちもうまかった。

 敦化は水系がちがうとはおもっていたが、地図をみるとこのあたり牡丹江の水系らしい。牡丹江は松花江の支流だが、長白山からの山の流れをうけ、他の松花江系が西の平原に集まるのに牡丹江だけは東の山勝ちのところを流れて松花江に落ちている。


2012/08/05 日 白河 ←→ 長白山

 まだ雨やまず。台風の影響とはいえ、梅雨のような感じがする。というか七月八月が雨季と言っているのは梅雨のことなんじゃなかろうか。満洲には夏はなく梅雨しかないみたいな。

 緯度が高くなってきて朝が早い。

 満州国建国80周年か今年。今知った。
 通化は満洲にソ連が侵攻したとき、南満洲まで後退して持久をはかるとき関東軍総司令部を置くところとして想定されていたらしい。たしかに地形的には鴨緑江の支流の上流の山岳地帯の中なので、松花江と遼河が形成する満洲の平原からは切り離されている。昨日の移動では通化よりもとなりの白山の方が栄えているようにみえたが人口だけだと通化の方が二倍くらいあるらしい。白山の方が小じんまりしているから線路から見えやすかったというだけだろうか。

 そういうと好太王碑(広開大王碑)は日本軍が改竄したという説が自分の子供時分流行っていたが結局改竄もなにもしてないことがわかっている。韓国の慶州にある石窟庵にもそういう日本人がわざと配置を替えたみたいな説明がしてあったが、これも結局間違いであることがわかったらしい。まぁそんなことがわかっても歴史はある意味ファンタジーだからウリナラファンタジーは継続するんだろう。と好太王碑のWikipediaの中国語版の編集履歴をみておもった。

 もう午後の列車で龍井に行くつもりだったが、雨がやんできて宿のおやじが山にのぼれとか博物館に行けとかいうので博物館に行ってみる。言われたとおりに歩いたら自然博物館があった。自然か... しかも一人40元もとる。博物館はやめたが、せっかく結構な距離歩いたのでついでに長白山の方へ歩いていってみた。しかし20kmと聞いていたのに結局33kmもあったので昼前に出たのにゲートに着いたのが18時前。ネットでもロンプラでも20kmと書いてあったのはなんだったのか。結局みんな歩いたり距離を測ったりしていないということなんだろう。ゲートから山頂まで16kmあるという情報だがこれもどこまで信用できることやら。
 で、ゲートは18時で閉まるのであたりまえながら入れない。切符も買えない。まぁしかし夜にゲートをこっそりのりこえて入るという手もなくはなかったのだが、ゲートまで33kmもあったのでそれに追加で16km登山する気にはならない。ということで帰りのバスをまっていたがどうも18時前ここに着いたときに二道と書いたバスが降りていくのを見たがそれが最終だったらしく、他の登山客も車や観光バスで帰り、あとはタクシーだけ。タクシーの値段を聞いたら60元と思ったほどは高くない。とはいってもそのまま言いなりに60元払う気はならないし、タクシーの運転手もこれから帰るだけなんだから手ぶらで帰るよりはすこしでも入った方がいいだろうということで、20元で押し通したら通った。3人のったら一人20元なんだから4人乗ったときの一人分の15元で押し通さなかっただけ良心的だとおもう。他の交通手段では宿のおやじが8.5元のものがあると言っていたんだがそれがなにかわからない。空港と長白山を結ぶ快速バスがあり、その停留所で待っていてタクシーにひっかかったのだが、その快速バスの値段もわからない。
 飯くって宿に帰ってシャワーあびて今にいたる。

 肝心なことだが、長白山はみえない。最初は天気がわるいせいかとおもったが、午後になって急に晴れてきても見えない。ゲートまで近づいても見えない。富士山みたいに眺められるもんだと誤解していたが、そういうものではないらしく、延々と、わからない程度のゆるい傾斜がつづいてその先に頂上があるものらしい。


2012/08/04 土 通化 → 白河

 まだ雨やまず。
 7・21暴雨と中国の天気サイトに書いてあったので北京で大雨が降ったからといって大袈裟なとおもいつつ日記をさかのぼったらちょうど煙台にいたころだった。あのころからだいたい雨がちな天気がつづいているわけでまったくもって旅行向きの天気ではない。

 通化 → 白河 硬座 21元
 通化から延吉の近くにある龍井まで直通の列車があるが朝6:39とちょっと早い。とは言っても駅のちかくに泊まってるので無理ではないがどうせ行列しなければいけないだろうとおもっていた。六時半すこし前に行ってみたらそんなことはなく数人しか行列になっていない。7:52の白河行きになるだろうとおもっていたので拍子抜けたがどっちにしても今からだと間にあわないので白河行きを買う。
 しかし窓口のおばはんは龍井行きの列車で白河行きをよこした。必死に言ったがのりかえろとかなんとかいって全然替えてくれそうにない。まぁ乗れたらそのまま龍井まで行けばいいやと思いなおしいそいで宿に帰り、チェックアウト(鍵を返してデポジットの10元を返してもらうだけ)して駅にいそいだがやっぱり間にあわなかった。しょうがないので改签(切符の書き換え)してもらい7:52の切符をもらう。こっちの方が空いているようで、6:39のは無座だったが座席をもらえた。
 通化のある谷をこえて松花江水系に入ると未開発な感じになってくる。北海道の東の方の山奥のような感じ。長白山にちかづくと北見の山奥を通っているような感じになる。まぁしかしそれでもところどころに小さな町があるのがすごい。

 白河につくころには雨が止みかけていたが、駅から出たらまた降りだした。客引きを無視して歩いて二道白河鎮の中心まで行く。まぁしかし山にのぼらないのに二道鎮の方に行くのは無駄な事だったかもしれない。駅の周りにもボロ宿のあるところがあって20元からあった。普段なら20元ときけばすぐに飛びつくところ、今回は車内でロンプラを読んでしまい、町の方にいったら便利だとか書いてあったのでおもわずそれにしたがってしまった。駅からは市バス(ミニバス)が走っているのだがそれに乗らず歩いてしまうあたりどうしようもないとおもう。
 二道鎮の中心について宿さがしするがなかなかみつからない。高いのだ。シーズンだから高いのが当たり前なのだ。ということで奥の方に行くと樱花旅馆というのがあった。なぜか「Sakura Hotel」と書いてある。外人を泊めたことはなかったらしいが公安に電話してパスポートがあったらそれでいいらしいということで泊めてくれた。20元。しかしこの宿は半分くらい物置になっていて幽霊屋敷のような気配がある。松山路の旅館街の一番奥。
 あとで宿のおばはんに聞いたら、この宿は買ったものであるらしい。宿の名前ももともとこうであったとか。しかしここのおばはん、聖書を出してきたりしておもしろい。いつごろ信じるようになったのか聞いてみたら、2006年と意外に最近だった。それも理由は腰痛だとか。神にすがったら治ったので信じたとかなんとか。


2012/08/03 金 集安 → 通化

 これからの目的地は延吉、琿春、佳木斯、黒河かな。長白山はたぶん行かない。

 この辺山だらけで日本の山村に近いので、長野県に高句麗人の遺跡があるのもなるほどだとおもう。もっとも彼等が日本海を越えて自分でそこを選んで住みついたら長野に亡命政権でもつくるはずなので、そんな感じではなく大和朝廷がなんらかの事情で日本に渡ってきた高句麗人を当時の辺境に配置しただけなんだろう。埼玉に高麗郡があり、埼玉の山岳地帯と平野部の境目にある。高句麗滅亡後王族がそこに配置されたらしいが、その主な居住地域は平野部の方ではなく山岳地帯なんだろう。

 集安 → 通化 硬座 8元
 3時間ほどで通化に到着するが朝から雨。昨日天気がよかったのはたまたまであるらしい。満支旅行案内(1942)を読むと夏は雨季ということであんまり旅行に適していないのかもしれぬ。まぁでも南の方は暑くて我慢できないのでしかたない。
 通化あたりまでくると山もなんとなく険しさがなくなって大陸的というかスケールがでかくなってくるような気がするがまだ東部山岳地帯ではあるらしい。そもそも桓仁の上流にあたるのでスケールがでかくなるとおもったのはただの気のせいだろう。この西の山をこえれば平原部になる。通化は旅行案内では東部最大の町らしいが、駅のあるところと今の町の中心はずれているようであんまりニギやかな感じはしない。まぁでも市バスが走っているから大きいのはまちがいない。雨がザァザァ降っているしめぼしい博物館もないので宿にこもることにする。宿は奥の方の小汚ないところで20元。25元ネット付きのところがあったが外人お断りだった。
 通化の駅前にでかい広場がありその奥に満州国時代からの建物っぽいのがあるが屋根に金をかけれないらしくトタンぶきになっていた。満支旅行案内、範囲がでかすぎてあんまりつかえない。

 ここでこれだけ雨が降りつづいているので、北朝鮮では洪水とかがおこっているらしい。さもありなん。まぁ雨がすごいので長白山も行く気がなくなって丁度よい。

 通化事件 - Wikipedia

 というか夏に行くべきなのはモンゴル高原周辺ではなかろうかという気がしないでもない。まぁそれくらい雨にウンザリしてきた。しかも台風の影響でこの先しばらく雨がふりつづくような感じらしい。天気予報によると5日6日ごろは天気がよいらしい。うーむ。

 満洲事情案内所『露国の東亜政策と満洲』1942
 18世紀から19世紀にかけてイギリスやアメリカはアメリカ北西海岸で取った毛皮を広州で売りさばいて莫大な利益を上げていたらしい。ロシアがそのころ日本に出没して国交を開こうとしたのは日本を経由地にして毛皮を広州に運ぼうとしたからだが、結局清はロシアとは条約を結んで直接北で貿易しているということでロシアが広州に来ることを禁止した。それでロシアの日本との交渉もしつこくなかったんだろう。
 その状態に転機がきたのはアヘン戦争で、清に開港地を増やさせたイギリスが対清貿易にどんどん食いこむことでロシアの北の貿易も打撃をうけてしまったらしい。それでアムール川を利用して北太平洋からの貿易をしやすくしようという案がうかびあがったそうだが、その案での問題はアムール川河口の様子がよくわからず、樺太が半島か島かどこに河口があるのかで使えるか使えないかがかわってくる。ということでそこが当時の焦点になっていた。
 ということは間宮林蔵がそれを確認したとかなんとかいうのは日本人はなにやら学術的に重大な地理的発見をしたような気分でいるが、もっと政治的な理由で西洋人の興味があったということになる。
 で、アムール川使えるということになったのでロシア人は清に無断でアムール川にのりこんで要塞とか作っていたがクリミア戦争で英仏を敵にまわすことになり、極東方面が孤立して英仏の攻撃をうけるとやばいのでアムール川をつかいたいからといって清に対し国境交渉を要請した。クリミア戦争がおわってもおなじ調子ですすめてアムール川の北側を割譲させ、さらに第二次アヘン戦争で英仏と清との調停に立ち、ついでに沿海州も割譲させた。

 戦中の本でも十分使えるな..


2012/08/02 木 集安

 朝一に市バスで好太王碑のところまで行ってみるが8時前だからというので入れない。そもそも切符売り場がみあたらない。しかし碑はどこにあるかよくわかる。色ガラス張りの亭があるのであの中だ。つまり中に入っても近くでみれないので入ってもしかたない。その近くの積石墓もなんかネットでさんざんみたので遠くから眺めてそれでおわりにした。近くに将軍墳というのがあるのだがそこまで歩くのがなんかダルかったのでやめた。

 トップがセールスする米国、表敬訪問する日本:日経ビジネスオンライン

 【世界終了のお知らせ】新型エボラウィルスがウガンダ首都へ感染拡大:Birth of Blues

 丸都山城まで歩いてみた。山容はやはり五女山におよばず。麓にたくさん積石墓があって異様な景色。入口までいってみたら展示館があったが入山料もこみで30元だという。手頃な値段だがひきかえしてしまった。天気がよかったのに。積石墓は柵の外からグルっとみえる。中はみれないがまぁいいだろう。
 丸都山城の東にある村まで行ってみたが、なんかのぼる気がせずそこから引きかえしてきた。
 帰って受付の若いのと話したらこの人大学生でしかも医学科らしい。今は夏休みで受付やっているということだった。なんかしらんが話してたら夕方になった。

 集安での行動はなんかしまりがない。さっさと移動するか。

 米軍基地で飯食ってるけど質問ある? - ブラブラブラウジング


2012/08/01 水 桓仁 → 集安

 桓仁 → 集安 マイクロバス 36元
 朝一6:30発のバスで集安に来たが着いたら11時くらい。バスターミナルのまわりで宿をさがす。バスターミナルの横の招待所で聞いたら外人おことわりと。他のところできくと30元とかだったが、もっと安いのないかとか粘ったら裏のマンションにつれていかれた。20元で鍵のデポジットで100元。だまされているのかもしれんので帰ってきたら荷物がなくなっていたりするかもしれん。部屋に案内したらいきなり掃除しだして一時間ほどいたり、シーツをくれなかったり。あやしすぎるが100元渡してしまったのでしかたない。
 集安のちかくまで山のなかだったが、集安の近くになってようやく北朝鮮がみえてきた。バスを一回警察に停められたりしてなかなか国境近いと大変なようだ。遼寧省だと道がよかったが、吉林省に入ってすぐ道がコンクリートになった。そこそこ走ってからアスファルトになったが吉林省の貧乏さがちょっとわかった。

 とりあえず博物館に行ってみたらそこは旧博物館で新博物館が市役所の近くにあるけど「まだ開業してない」とか言われる。とりあえず川の近くの方に行ってみると市役所が北朝鮮を望むように立っており、その前に博物館があるがやはり開いていない。博物館の前にさらに文化センターがあったのでそこで聞いてみたら博物館は個人の客には公開していないとのこと。一応開いてはいるらしい。そこで帰って宿のおばはんに聞いてみたら朝の8時に行ったらいいとのこと。ツアーの観光客が時間どおり来る間だけ開いているということなんだろうか。まぁ明日行ってみる。

 その市役所の前の川沿いは北朝鮮を眺める場所になっていて観光ボートなんかもでている。結構いい望遠鏡が3元でのぞき放題だというのでのぞいてみた。北朝鮮の人民が川で何か洗ってたり自転車で移動してたりするのがみえる。兵隊が隊列を組んで歩いているのもみえたが、何人かスコップをもっていたのであれは警備だともおもえない。農作業の帰りだったりして。
 北朝鮮の農家がみえるがなかなか味のある平屋である。ひらべったい感じに屋根がのっかっているがみんな同じ大きさなのが気になる。中国側の農村はもうすこし多様性がある。山は可能なかぎり耕しまくっている。中国も文革のころはあんなのだったんだろうが、今の中国は山林の保護育成のために立ち入り禁止の山とかつくってるくらいなので案外緑が多い。特にこのへんは山がちの地形で木がたくさんはえているので日本の山村のようにみえてなかなかよい。まぁ冬になったら景色も一変するんだろうけど。

 しかし今シーズンのわりには観光客が少ないようにみえる。こんなもんなのか? それとも土日が多いんだろうか。もしくは観光客の行くところと自分が行くところがズレているからあんまり見かけないだけなんだろうか。

 高句麗とか渤海とかの民族系統が問題になっているが、この辺にいた人たちって10世紀ごろの長白山の噴火でほとんど死んでしまい生き残りは周辺の人たちに吸収されてしまったんではなかろうか。高句麗と同時代に活躍し、相互に関係のあった鮮卑なんかも今はあとかたもないし。秋田県まで火山灰を飛ばして谷を埋めてしまい当時の建物を今にのこしているくらいだから、近くのこのへんはもっとひどかっただろう。(→ 勘違い。秋田県で谷をうめるほど火山灰をとばしたのは十和田湖の噴火)
 しかしそうなると考古学的に火山灰の地層がありそうだがそういう話を目にしない。

 外出して帰ってきたら一室にだれかいる。この部屋他に誰も入れないはずでは? うーむ。たしかにおばはんその部屋を掃除していたのはそういう子細があったからか。明日をちゃんと迎えられるだろうか。

 そういうわけでなんか不安になったので宿替えした。今度はだいぶ町中に入って30元ネットありのところ。まどなし。銭湯が目の前にある。
 20元の宿のおばはんの頭がゆるいだけという気がしないでもないがまぁいいだろ。


2012/07/31 火 桓仁

 日露戦争特別展2 | 開戦から日本海海戦まで 激闘500日の記録
 こんなのあったのか。

 蜂毒によるムクレはもうピークを過ぎた。初見の人だとわからん程度のムクレなのでどうということもないのだろう。昨日一日寝ながらいろいろ調べて張鼓峰事件のあった防川までは琿春からバスで行けるらしいことがわかったので延吉の後、防川まで行ってみる。

 高句麗いにしえの地を訪ねて - 1
 ここに五女山山城の西門の1991年頃の写真がある。今階段になっているところにトロッコが走っていたのがわかる。

 今日も昨日も桓仁の町の中をブラブラ歩いたわけだが、今日西の果ての方に行ったらそこにあったロータリーの中心の小さな公園の石でできたテーブルの上に法輪功関係のCDが置いてあった。まぁこんな田舎まで熱心なことである。よく邪教がどうこうという注意を見るのはこういうことなのかもしれない。

 日本選手団退場の謎!|Rubyのロンドン生活日記
 ロンドン五輪開会式日本選手団だけ強制退場させられるスレの121
 他のところもある程度出されているというオチがついた。

 そういうと旅順博物館に陶磁器部屋があり、中国の陶磁器がならぶ横に朝鮮と日本のものがちょろっとならべてあったが、なんというか縄文土器は異質すぎる。


2012/07/30 月 桓仁

 なんか顔が若干むくれてきているようだ。蜂の第一撃はこめかみだったので、そこから毒がまわっているんだろう。うーむ。

 虚構新聞に4コママンガがついているのに今気づいた。

 うーむ。あちこち本をつまみ読みしすぎて収集つかなくなってきた。

 バイカルアムール鉄道を略してバム鉄道とはこれ如何に。


2012/07/29 日 桓仁

 朝から雨。今日は部屋でこもって写真の整理でもすっか。宿を換えてみるかな。

 宿替えしてみた。バスターミナルの裏の方にある「商業歩行街」がなぜか旅社街になっている。町自体そんなに大きくないしバスしかアクセスする手段がないようなところなので商店街を新しく作っても中身がおいついてこないんだろう。
 で、宿を順番に当たっていったがだいたいどこも底値30元。バスターミナル向いの裏の旅社街より条件はよい。こっちはやはり新しくできたところのせいか、ネット付きのところが多い。ネットで5元とか10元とか加算されるが、奥にいくほど条件がよくなって、30元でLANケーブルのあるところがあった。すぐにそこに決めてしまったが、その部屋からまだ出ていないというので他の部屋で待たされている。最初はそれでいいかとおもったけど寝ころがるのが悪いような気がして寝ころがれない。すぐに決めなきゃよかった。→ 移ってみたらベッドが三つあり道に窓の面した広い部屋だった。

 鳥居龍蔵の『蒙古及満洲』1915 によるともうそのころすでに南満洲の満洲人は満州語を話さなくなっていたらしい。
 内蒙古が独立できなかったのはロシアと日本の密約によって内蒙古は日本の勢力範囲ということになっていたのでロシアが援助しなかったからと書いてある。それについて、この度日本が民国と協約をむすんで内蒙古に手出しできるようになったみたいなことになっているのだが、1912年の日露協約で内蒙西部をロシア内蒙東部を日本の勢力範囲としたことになっているはずだ。どういうことなんだろう。

 蜂に刺されたところの腫れだがたいしたことないのですぐ治るだろう。
 スズメバチ - Wikipedia
 やたら分量が多い。スズメバチのすごさをいろいろ教えられたあと、人間が食用にするためにあの手この手でハチをつかまえたり養殖したりする熱心さに感心する。

 結局写真の整理はせずダウンロードした本読んで一日終わった。


2012/07/28 土 桓仁

 朝飯をくおうとしたが9時くらいにでたのでなかなかみつからずスーパーに入ってみたら開店一周年の記念セールで混雑していてよけいに遅れてしまった。
 五女山山城へ行くのに1路の市バスで最後まで乗ると景区に行けるはずだったが、乗ってみると景区まではいかず、行き方だけ教えられて歩かされる。五女山は長い台形をした巨大な岩で、そういやウラルトゥの城跡もあんなかたちをしてたなというような形だ。みているだけでただものではない感じがある。しかも結構高く、麓が広い。景区の下の入口に着いてみると80元ということで、躊躇する値段だが、山にのぼらないなら博物館はタダでみられるとのことでとりあえず博物館だけみた。
 なかなかおもしろい。新石器時代からの遺跡があるのもともかく、高句麗という国がこれだけ姿形がはっきりしていたとはおもわなかった。それに技術も特異だ。甕城とかすごいんじゃないか。そのわりに鉄器の導入が遅いのもおもしろい。やっぱり発掘が進むとわかることが全然違うんだな。
 火葬が普遍的だったのが中国の影響で土葬になるというのもおもしろい。説明では仏教の影響及び云々みたいに書いてあるが、仏教の影響なら火葬になるはずなので土葬になるのは中国の葬式のやりかたを真似するようになったということだろう。そもそも仏教が来る前に火葬していたというのがなんというかすごい。
 しかし五女山山城自体についてのことはやっぱりちょっと少ない。やはりここは登っていろいろみるべきものなんだろう。80元はらうと博物館の上から送迎バスで城の近くの入口まで送ってくれるらしい。

 しかしここはやはり切符を買わずに博物館をみれたのだからとりあえず歩いてのぼってみて、入れるかどうか様子をみることにした。さて登るにはどこから登ったらいいのか。博物館のあるあたりは五女山からつづく尾根にあり、登山用自動車道もその尾根のあたりにあるのだが、川沿いにすこし上ると五女山へ伸びる大きな谷があり集落が結構上まで伸びている。最初はそこからアクセスしてみようかとおもったが不審人物扱いされるような気がしたし、そもそも今はフニャフニャの便所サンダルに半袖のシャツと、山登りするような装備ではないのでやめて自動車道を歩いてみることにした。どこにゲートがあるかわからないがあったらあったまでのことだ。博物館の裏にある駐車場の横を抜けてのぼっていくとさっそくショートカットできるわき道がある。自動車道は傾きを維持するためにジグザグな道をすすむから歩くなら近道した方が楽だ。それなりに踏まれた道なのでサンダルでも大丈夫だ。まぁくどくど書いてもしかたない。昔の道があるなら尾根つたいだろうと、尾根を進むことにして自動車道を無視して歩いたら、ある程度登ると自動車道もだいたい尾根を進むようになった。五女山の城というか巨大な岩に近づくとまた道が蛇行しはじめる。したがわずに山のなかへ進んでいくと、あるところで上に道のないところになってしまった。ある程度のぼってしまったのでもうそのまま崖に近づくしかない。サンダルに濡れた土が入ってヌルヌルすべる。しかし登っているところにはなぜかパイプが上に通っている。ところどころお菓子やアイスの袋が落ちていたりする。たぶんここは上にたどりつけるようになっているんだろうとおもって頑張ってのぼってみたら、岩戸のような割れ目にたどりつくことができた。おそらく尾根づたいにくるとこの岩戸にたどりつくようになっているんだろう。
 ただ相当ヘバっていたのでその辺の細い木をつかみながらのぼっていくと、いきなり蜂に刺された。首と額の四箇所ほど刺されてからよく見るとその木のまたのあたりに蜂がホバリングしているのでたぶんそこに蜂の巣が作りかけなんだろう。すこしよけたら何事もなかった。しかし痛い。今でも痛い。
 岩戸をくぐりぬけると城である。周遊できるように切り石で歩道がつくられていた。遺跡がポツポツのこしてあり、景色のよいところも何箇所かあった。下からみるとあまりに巨大なので相当広いのかとおもっていたが、想像したよりは狭かった。まぁでも結構広いといえる。夏のせいで木が茂っていて見通しが悪いのでそのあたりよくわからんといえばよくわからんのだが。
 岩の切り通しのようなところは何箇所かあった。ものすごく狭いところが通り道として整備されていた。そこを通って下におりると東城門がみれると書いてあったがさすがにここまで登ってきたので降りるともう登りたくなくなるのは目にみえているので見にいかず、西門から降りることにした。
 西門だがたぶんここは昔ケーブルカーかなんかがあったんだろう。博物館にあった山の地図にそれらしきものが書いてあったからだが、その跡にまっすぐの階段が設置され、今は1000段だか999段だとして有名であるらしい。普通に西門側から来たらこの石段を登らされるわけだが、ケーブルカーの跡だと知るとガッカリするだろうとはおもった。今からおもえば、西門の方は降りたらもうあとはくだっていくだけなので南門の方から出たらよかったとおもう。
 さて西門のあたりから下界をみおろすと、最初ここから登ろうかなとおもった大きな谷がここから近いようにみえる。昔はその谷を通って自動車道がのびていた跡があるからあの谷の集落を通って降りていくのが正当であるようにみえる。とはいいつつも、おりていくときはすこし疲れていたのである程度道なりに降りた。そうすると結局来たときとおなじ尾根道になった。城の近くで自動車道からはずれている尾根道を進むと谷の方におりる獣道のような道がある。そのまままっすぐ降りていっても昔の自動車道の方にでるのだが、とりあえずその獣道を降りてみた。するととうもろこし畑があり、獣道のような道はその中の道につながっている。ということは獣道ではなく地元の人が使う山道というわけだ。ぐんぐん降りていって集落にたどりつくことができた。
 あとは来たときとおなじように市バスで帰ったわけだがつかれた。宿にシャワーがないのでシャワーを浴びにいって帰って洗濯した。華北方面だと気にならなかったがこのあたりにくると湿気でズボンのにおいが気になるようになっていた。

 契丹文字:貴重「契丹文字」の本、ロシアで発見 解読研究に光 /京都 (毎日新聞)  カラキタイの遺物かー。


2012/07/27 金 丹東 → 寛甸 → 桓仁

 なんか蠅がおおい。

 丹東 → 寛甸 バス 24元
 雨のなか丹東を出発。鴨緑江沿いに行くやつかとおもっていたらもうひとつの山中を通っていくものですこしがっかりした。相変わらず日本の山奥を彷彿とさせる景色のなかをぬけて寛甸に到着。意外と栄えているのはやはり鉄道があるせいか。ついてすぐそのまま荷物をかついで博物館まで歩いてみたが、博物館は奇石売り場になっていた。他の展示は書画。来る意味なかった。ということでそのまままたバスターミナルにもどって桓仁行きを買う。

 寛甸 → 桓仁 バス 36元
 このルートも山の中なのだが、バスがとばすとばす。それもそのはず道がやたらよい。よくよく見るとガードレールまである。見掛けだけは日本の田舎なみで中国らしくない。中朝国境に沿っているから軍用としてこんなに丁寧につくってあるんだろうか。寛甸から集安までが開けているようだった。途中でそのルートからはずれるととたんに道がわるくなる。ダム湖があるところなどは水面すれすれに走っている未舗装道路を走っていた。民家をながめていると、小さい小屋が併設されているものがおおい。いろんな形態があるが、その一番原初的なのが木造の高床式倉庫だ。立派なものになると、レンガでつみあげてあり、下も物置として利用できるようになっているが、上に置いてあるのはたいていトウモロコシ。たしかにトウモロコシ畑がやたら多い。この辺の主食はトウモロコシなんだろうか。あと高床式倉庫って北方にも普通にあるんだなとおもった。
 桓仁に到着。盆地にあるひなびた都市。結構いいかも。宿探しをすると、最初にものすごくよいところで40元にしてやるというところがあり、それが基準になってしまってよけい探すのが大変になった。バスターミナルの前の安宿街は30-40元。それならネット付き共同シャワーありの40元のところがいい。20元のところがあったが外人おことわりだといわれた。すこし離れたところに20元の宿があったのでそこにする。おやじが話したがりでちょっとめんどくさい。あと鍵なんかいらんとか言う。それはともかく、となりの果物屋のおやじが重要なことを言っていた。十年前だったら西瓜を外においておくと翌朝にはなくなっているが最近は置いておいても大丈夫だと。

 ミニッツメイドオレンジを飲んだら砂糖の味がした。


2012/07/26 木 丹東

 地図でみるとだいぶ日本にちかづいてきたな。
 そういうと福島の原発の近くとか行くなら今くらいがいいなぁとちょっと思った。夏だし野宿も困らない。
 でも地震直後とはちがって人もだいぶ帰っているだろうし、不審人物あつかいされて面倒なことになるだけだろうな。

 抗美援朝記念館
 とりあえず行ってみた。観光客がいっぱい。夏だからか。展示をみている限りでは中国軍なかなかしぶとくがんばっている。しかしソ連に頼まれたから台湾攻略をあきらめて朝鮮に出兵したとか、スターリンが死んだのでやっと和平できたとかそういうことは書いてなかった。敵の被害は書いてあるが、中国側の被害が書いてないということはよほど被害が大きかったんだろう。
 トンネルをたくさん掘ったのはこのころかららしく、地道戦(トンネル戦)という抗日戦争っぽいフレーズがつかわれていてそのトンネルなんかも再現されていた。北朝鮮がトンネルにミサイル隠しているとかいうのは伝統なんだな。
 敷地内に丹東博物館があったが入れなかった。その前に石碑がころがっていたが傷だらけだった。その一つは満州国時代につくられたものらしい。

 北朝鮮を見にいったら昨日夜でまっくらだったところに岸とその茂みの後方に町らしきものがあった。ほんとうに電気足りないんだな。国境の橋のあたりでバスが走っていたがあれは何のバスなんだろう。

 抗美援朝記念館にあった「上甘岭」についてすこし調べたらどうもアメリカの方にそれに相当するような大戦役がない。新浪共享ですこしさがしたらやっぱりだれかが調べていた。それによると中国では上甘岭で負けたのでアメリカがくじけて停戦に応じたみたいな感じで宣伝されていたがそもそも戦局に影響をおよぼすような大戦闘ではない。しかもそのあたりの戦闘の主力は韓国軍で他の国の部隊もいたらしい。また別のものでは中国軍はこぞって誇大に戦果を報告したがそもそも中国側の被害が甚大であったらしい。それほど重要でもないところを人海戦術で固守した結果であるようだ。
 まぁそもそも抗美援朝記念館の戦果数でも敵(つまり国連軍側)の死傷者数しか示していない。まぁソ連に言われてしぶしぶ参加して被害甚大だったわけだからごまかさないと国民にしめしつかないということだろうな。
 細菌戦の証拠とかいうのもあって、米軍が北朝鮮から満洲に広く細菌をばらまいたとある。ただそれも虫にコレラ菌とか炭疽菌とかそんなのをつけて投下したとかいうのでよくこんなの信じる人がいるなぁとしかおもえない。まぁでも中国だしな。

 国会図書館から満洲関係の旅行案内をおとそうとしているが全然おちてこない。遅い。
 あんまり遅いのでこのサーバでダウンロードしてそれをダウンロードすることにしたらすごく速い。→ しかし日本から中国にダウンロードすること自体に時間がかかるので総体としてはあんまり変らないかもしれない。でも途中までダウンロードしてどうのこうのとかできるからわるくはないか。

 北京のあたりでは雨が降って大変らしいねぇ。道理でこのあたりも天気が悪くて湿気てるわけだ。


2012/07/25 水 大連 → 丹東

 (cache) 自衛隊が北区役所内での宿営を断念 « 日本共産党北区議会議員 のの山けん
 火の無いところに煙は立たぬ

 大連 → 丹東 硬座 47元
 大連から丹東行きのバスは83元だったので(駅前からだと110元)、素直に鉄道で移動した。しかしバスは直線で行けるだけに早い。まぁ別に急いでないからいいか。
 ということで遼陽まで行ってから丹東まで下るという遠まわりコースだった。遼陽まで遼東半島の西側を北上するコースではなだらかな地形がつづいていたが、遼陽から下るコースでは山のなかをつっきっていった。しかしこのあたりの山の様子が日本の山とたいしてかわらない。ちょうど天気がわるく湿気ていたせいで温度はそんなに高くないのに湿度だけ高いというあたりも日本ぽかった。まぁでも冬は寒いだろうからそんな簡単には言えないんだろうが。
 丹東についたのは7時すぎで日も暮れてから。客引きが30元でLANケーブル付きというのでついていったが、体をあらうところがなかった。うーむ。まぁ安宿はいっぱいあるので明日どうするか考える。

 晩飯に冷麺食いにいったが、店のなかは韓国レベルのきれいさでおどろいた。まぁ中国がひどいだけかもしれん。冷麺はうまかった。5元が具なし、8元が具ありで10元は酸っぱいらしいんだが、10元はやめたほうがいいみたいな言いかたされたので8元にしておいた。

 そういうとその山岳コースで景色をながめていたら一つ城あとみたいなのをみかけた。城あとというか砦程度のものだったが復元もしているような感じだった。しかし小さい。なんか規模が小さくなってきたような感じだ。

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 キャパシタなんてものがあるのか。


2012/07/24 火 大連 ←→ 旅順

 大連駅北広場 → 旅順バスターミナル 市バス 5元
 旅順バスターミナル → 大連駅北広場 市バス快速 7元
 さて旅順ふたたび。前回来た時は旅順はまだ外人立ち入り禁止区域のうえ、12月もおわりかけのころで寒くてしかたなかったが、今回は旅行シーズンで観光バスがバンバンのりつけているし、外人も立ちいっていいことになっているらしい。やっぱりシーズンとなると博物館も開いている部分が違い、来て損はなかった。
 旅順口にあるソ連軍勝利塔も様子がちがい、屋台がでているくらいには人がいた。前回これの写真をちゃんととっていなかったのが心残りの一つだった。ちゃんととってから旅順博物館へ。関東軍司令部には入らなかった。
 旅順博物館に前回来た時は南口がひらいていた。構造からいって南口は裏口のはずだとおもっていたが、今回はちゃんと正面にあたる北口がひらいていた。北口に仁川の鐘が置いてあったのでその写真をちゃんととった。モンゴル時代にモンゴルの金と人で作られた鐘で全面に梵字がかいてあるのがおもしろい。前回この写真を撮りわすれたのが心残りだった。まぁせっかく20元もはらったので一通りみた。いっぱいあったような気がしたけどこんなもんだったんだな。展示が一部なくなっている。たとえばミイラももっといっぱいあったはずだが二体しかない。中央アジア関係がない。
 別館がひらいていて、本館の券で入れた。一階で大連の通史展示、二階に大谷探検隊の中央アジア関係が移ってきていた。大連の通史だが、あたりまえだが高句麗の遺物があった。支石墓もあるし。一方で金代の遺物が多い。このあたりの中心はながらく金州であったらしく、金州も行った方がいいような気もしてきた。

 その後バスターミナルにもどって万忠墓をみにいったが火曜休みだった。そこで白玉山に登ってみた。白玉山の上は景区になっていて、入るのに金がかかるようだったが、得意の山歩きの技を駆使して適当に歩いたところ、切符売り場に行きあたらなかったのでいくらなのかわからなかった。白玉塔は日本がたてた表忠塔から表忠の字を削っただけらしい。それをしたのはソ連軍ということで、ソ連らしい処置なのかもしれない。
 白玉山から降りたらソ連軍友誼塔みたいなのがあった。まぁそれで時間もいい感じになったのでバスで帰ってきたが、今しらべてみるともうひとつソ連軍の烈士陵園があってそこに人民広場から移置したソ連軍の塔があったらしい。うーむ。

 強まるオスプレイ配備への反発 現実離れした日本の要求 WEDGE

 旅順博物館のあたりで地面から出ていたボルトを踏んでちょっと痛い。


2012/07/23 月 大連 ←→ 金州

 そういうと臨沂の博物館に銅鏡がたくさんあったが、三角縁の鏡ってめずらしいものでもないのな。小さいそのものずばりの三角縁神獣鏡という名前のものもあった。

 中山広場とか人民広場の日本時代の建物を見物に行ったけどすぐ見れて時間があまってしまった。ついでなので市バスとか路面電車でちょっとまわったけどまぁだいたい規模もわかった。昔の街にしては大きいけど今からみるとたかがしれてるな。
 これは昔の大連の街の範囲のことで今のでかい大連のことではない。

 大連 → 金州(和平路) 軽軌 6元
 金州 → 大連 バス快客 10元
 大連駅の裏の軽軌が気になっていたのでよく路線をたしかめてみたら金州まで行っている。ついでなので行ってみた。スターリン路というのがあって屋台がずらりとならぶニギニギした通りになっていたので端まで歩いてみたが、食い物の他は特におもしろいものがあったわけでもない。市バスの案内をみていると長距離バスターミナルが近かったのでそこまで歩いてバスで大連にもどってみた。金州は軽軌の高架からながめていたときも、マンションがズラリとならぶそんなにおもしろくない街だなとはおもっていたが、バスで通ってもそんな感じだった。都市計画をする方としては香港式に商業施設はマンションの下をつかうという方式を好むんだろうか。

 宿に帰ったらやっぱりここは外人泊まれない宿らしい。でも今晩泊めてくれるらしい。明日も泊まると言ってみたら困った顔をしていた。その割に明日の予定を言うとああしてこうしたらいいと細かく教えてくれるからおもしろい。


2012/07/22 日 烟台(煙台) → 大連

 朝のうちに煙台の西洋近代建築のあるあたりをぐるぐるまわったが、肝心の領事館街は入れなかった。このあと大連に行ってもっと規模の大きいのをみたわけで見にいかなくてもよかったかもしれない。

 烟台(煙台) → 大連 フェリー 座席 180元
 威海に行こうかなとおもってたけどやっぱり大連に渡った。駅前のいたるところに切符を売っているところがあったのだがそこで買わず、フェリー乗り場で直接買ったのだが、宿の近くの切符売り場だと180元で八人部屋の寝台と言っていたところがあったので売り場を選べばいいところがあったのかもしれない。
 朝から蒸し蒸ししていたのだが、それもそのはずガスっていた。それは大連もおなじで、大連の方が若干涼しいという程度。どうもこれから天気が崩れて明日なんかは大雨であるらしい。うーむ。動けんな。

 大連につくがフェリーターミナルのまわりには宿らしきものがない。とりあえず市バスで駅にいき、駅前を歩いてみると、なんとまぁ古そうな建物がそのまま残っている。昭和10年代につくったままなんじゃないかというようなデザインのものがチラホラ。旅館旅社もあったがきいてみたら80とか70とか無茶苦茶高い。前回来たときのことをおもいだし、とりあえず駅の北側に回って座って休憩した。
 駅の北側にも安宿らしきものがあるがあちこち適当にまわって底値で50元。その北側のマンションの中にある安宿エリアを西の外れまで歩いたけど値段的にはそんな感じだった。一軒外にネットありみたいなことが書いてあったところがあって、部屋もそんなにわるくなかったので50元で泊まりかけたがそもそもLANケーブルがなかった。なんでネットありみたいなこと書いていたのか。駅に近いと文字どおり足元をみられるが、西の方へいくとやはり客がすくないらしくこういう小汚ないのでも歓迎される。でも値段が一向にさがらない。

 結局バスターミナルの近くまで歩いた。そのあたりにも古い街がそのままのこっているところがあり、貧民街みたいな感じになっている。看板を出している招待所に入ってみたら20元だったのでそこにした。鍵があるが戸の反対側がひらくようになっていてあんまり意味がない。駅の北側の安宿エリアの西のはずれにネットありで50元にしてくれたところがあったがなんか密室だったのでとりあえずやめたのだが、今からおもうとそこにしといたらよかったか。まぁしかたない。

 山東半島に入ってから男女とわず鼻筋の通った人が増えてきたなぁとはおもっていたが、大連に渡ると急に美人だらけになった。これから先もこの調子なんだろうか。


2012/07/21 土 烟台(煙台)

 青島はほどよくさわやかだったのに煙台にきたら湿度が高い。

 ここで国会図書館から満州国時代の旅行案内みたいなのをダウンロードしようとおもっていたのに遅すぎてダウンロードできない。

 鳩山氏の対抗馬に松山千春さん? 鈴木宗男氏が言及 - MSN産経
 地域政党に近い新党大地と鈴木宗男を一貫して応援している北海道の大物松山千春が全国政党の落下傘大物鳩山に挑む! こういう見方をすると非常におもしろい。

 朝日新聞:エジプト人力士、断食に耐える 名古屋場所中にラマダン

 煙台市博物館
 各地につくられた展覧館をそのまま利用したとおぼしき建物だが、中身はちゃんと最近の博物館になっている。煙台市域の西の方が山東半島の北の平原部と繋がっているせいか、そのあたりに春秋時代の国の遺跡がのこっているらしい。また秦の始皇帝の東巡のための宮殿のあとなんてのもあるらしい。この山東半島の中部は仏教や全真教の寺や修行場の立地として栄えたそうだがまぁつまり僻地だということだな。共産党の根拠地になったのとおなじ理屈だろう。煙台は意外なことに日本降伏後、中共がおさえた都市であったらしく、米軍の寄港上陸を阻止したとか紹介されていた。1947年に満洲方面に共産党が集結したときに一度手放し、1948年に再び共産党の手にもどったとか。
 いちおう近代建築がのこっているようなのでそれを見に行こうとしたが一度帰って昼寝してから出たので遅くなった上、見当違いのところまで歩いたのでみつけられなかった。あとで地図で確認したら途中古い町をみつけたところの北側にあった。つまり博物館からそんなに離れていなかった。明日の朝もう一回行ってみるかどうか思案中。


2012/07/20 金 青島 → 烟台(煙台)

 青島 → 烟台(煙台) 硬座 22元
 宿をでて青島のユースホステルに行ってみたら満室とのこと。まぁしかしユースホステルの近くは旧市街というやつでなかなかおもしろかった。昼に来たら空いてるかもしれないとのことだったがその辺ぶらぶらしたらそれで満足したので午後の烟台行きで移動することにして駅で切符を買うため並ぶが、一時間並んだのに目の前で窓口の昼飯休憩にぶつかる。しかたないので並びなおして買った。

 烟台に日の暮れ到着。客引きを相手にせずとりあえず大連行きの船の価格を調査。210元とか言ってるがどうも部屋になるらしい。フェリーか。
 駅前にマンションのある区画があり、そこに安宿がありそうとおもいつつ駅前にいたおっさんの客引きが20元からの紙をもっていたのでネットがあるか聞いたところ20元の部屋でLANケーブルつきの部屋が25だという。そこにした。
 ただ飯くったりしていたら遅くなったうえ、国会図書館の近代ライブラリをみたらアンケートがあってそれを書いていたらもう眠くなったので寝た。


2012/07/19 木 青島

 青島市博物館
 青島のあたり、沿岸部ということで新石器時代になにか変なものでてたりするかと期待していたけど臨沂とあんまり違いなく、大汶口文化と龍山文化だった。まぁそれよりは瑯琊に始皇帝が来てたことを忘れていた。
 瑯琊が春秋戦国時代の重要港であったように、このあたりは歴代重要な港がある場所だったらしい。斉の経済都市の即墨が青島の近くだったのも海と関係あるんだろう。
 唐代に膠州湾に港がつくられ、北宋のころに北方の港としてここだけが開放されたため繁栄したそうだ。というか元のころに海経由で江南から北京方面に米を送っていたのは知っていたが、遭難率をへらすために膠州湾から山東半島の北まで運河をつくっていたということは知らなかった。
 ドイツが青島に敷設した下水道管が展示してあったが、形が下のとんがった楕円形でしかもその内側の下半分はタイルみたいなもので覆ってある。ドイツってやることが細かいな。あたりまえのように日本がドイツから取ったことの詳細やどう統治していたかは全然紹介されておらず五四運動以来の運動で日本からとりあげたことだけ紹介されている。そういうと青島攻略についてちょっとしらべて驚いたのは英軍も青島攻撃に参加して日本なみの規模には死傷者を出していることだった。イギリスは極東で軍事行動する余裕がまったくなかったとおもっていた。
 他の展示は陶磁器とか青銅器とかコインとかあったがまぁまぁ。そういうと陶磁器の方は明清のものだったが清代のものが地道な色つけでまともだったのが意外だった。もっと頭のおかしいケバケバしいつけかたをしていたとおもっていたが、こういうマトモなものも中にはあったようだ。
 民俗コーナーに「糞籠」があった。ようやく実物をみることができた。

 その後、ドイツが最初に開発した駅周辺に行ってみようとするが、行くはずの路線の市バスがなかなか来ない。一時間待って来なかったので他のでちょっと移動したらバンバン走っていた。その動線までは歩いても移動できたのでちょっと無駄な時間をすごしてしまった。
 駅の方に行く途中古い建物があるあたりをすこし通った。駅につくが地下鉄のための工事で不便になっている。駅のまわりには安宿っぽいのがいっぱいある。明日移動してみてもいいかとはおもった。


2012/07/18 水 临沂(臨沂) → 青島

 広東省博物館の民俗展示は、東の沿岸部の潮州、その山岳部の客家、中央部の広府の三つをメインとしていたが、方言分布図をみると広府の方はその隅の方にヤオ族、客家の方はシェ族の分布がある。これは客家の方からみてシェ族、広府の方からみてヤオ族というだけなのではないかとおもったが、Wikipediaによるとヤオ族シェ族の話す言葉は近く同じ語派に含まれ、しかもその語派はその二つしかないらしい。
 しかしヤオ語だけでみても大きく三つのグループにわかれ、それぞれ意思疎通できないらしいからヤオとシェをわける意味があるんだろうか。さらに語族のレベルまでいくとミャオヤオ語族というのがあるらしいがそのミャオ族も内部的には雑多で中国の民族識別でそうグループ分けされただけらしい。グループ分けの細かさと雑さは漢字文献の量で細かくわかるところは細かくなり、よくわからないところは大雑把になったとかそんなんだろうか。

 临沂(臨沂) → 胶州(膠州) 19元 硬座
 膠州 → 青島 (高速)バス 20元 (保険抜き 保険は1元)
 臨沂から膠州までが19元で同じ地級市内の膠州から青島までが20元なのはなんとなく釈然としない。それはそれとしてこの沿線緑も多く林も多いしよく耕されている。山西陝西方面とくらべて大きな違いだ。林が多いのは近年の植林政策のおかげかもしれない。あと家が特徴的で、赤だいだいというか茶色というか明るいレンガ色というかそういう色のスレート瓦でふかれた切妻の四角い箱の家が並んでいる。緑が多いのもあいまって、あまり中国っぽくない。
 膠州、おもしろそうなら泊まってもいいかとおもっていたがあんまりおもしろそうでもなかったので飯だけくってバスターミナルまで行き、青島行きにのった。膠州からは膠州湾をよこぎっていくのでなかなか景色もいい。特に夕方になりかけの時間だったので膠州湾に日が光ってなかなかよい感じで中国にいる感じがしなかった。でも青島の街中に入ると小汚いので中国にいることに気付かされる。
 ハイシーズンなので宿も高いだろうと危惧していたが、バスターミナルの周辺に安そうな旅社がいっぱいあったので安心した。でもどれもそんなに安くないが、売春宿っぽい雰囲気のところがあったので入ってみると一番奥の独房みたいなところが30元だったのでそこにした。あとでそのへんをまわってみたが、日本人はダメっぽい。さすが青島、韓国人とか日本人がよく来るようで、日本人とすぐ見破られることがあった。足元をジロっとみることがおおいのでサンダルのせいかもしれない。

 日本のテレビが韓国製に負けた本当の理由  | 現代ビジネス [講談社]


2012/07/17 火 临沂(臨沂)

 民国の臨沂県志を斜め読み。ここって琅邪郡であり蘭陵なのか。
 歴史地図集をみるかぎりでは蘭陵というのはすこしはずれたところにある。唐のころには蘭陵が沂州の中にはいったのでそのせいか?秦のころの琅邪は沿岸だったが、治所がだんだん中に移動して後漢では琅邪国が臨沂の近くにおかれるようになったようだ。まぁここに琅邪王の墓なんてのがあるくらいだしな。

 虫歯にならない歯をつくる新分子「Keep 32」誕生 : ギズモード・ジャパン
 遅いよー。もう歯抜け出してるよー。

 臨沂博物館
 客より警備員が多い、交通不便、開館一年未満、作ってる最中の展示もあるとなかなかだが中身は充実していた。このあたり大汶口文化とか龍山文化のものがいっぱいでているということでとにかく壺がいっぱい並んでいた。通史展示だけでなく、専門展示があるほどだ。あと墓の展示もおおく、新石器、春秋、漢、晋と各時代そろっていた。琅邪国の中心となった後漢から晋にかけてが一番さかえていたらしい。宋以降の展示はぱっとしない。
 一階に石像物ばかり並べてあったが漢の画像石のちょっとよくできたものがあった。画像石といえばだいたい二次元的な表現だが、もうすこし立体的にしてあり力強い印象があるようになっている。でも画像石なのでこまかいところは二次元的だが。半三次元彫刻とでもいうのか。

 臨沂烈士陵園
 帰りに行ってみたら、敷地内の抗日戦争と解放戦争を主題とした展示館は閉まっていた。解放戦争の方は開いていたが電気が付いていないうえに中は埃だらけでしばらく人が入っていないのがよくわかる状態。めんどくさいから開けてないんだろうか。
 記念塔があってこれがなかなかいい味を出していた。建国直後に作ったせいか中共制作にしては堅固な作り。記念堂もそうだった。
 烈士陵園で5時ちかくなったので銀雀山漢簡博物館には行かなかった。

 明日の昼の膠州行きの切符を買ったが膠州から青島への連絡があんまりよくない模様。しかも青島は夏の海水浴シーズンで一番こんでいる時期であるらしい。まぁ行ってから考える。


2012/07/16 月 临沂(臨沂)

 青空文庫のむかつくところは発表年代ではなく底本とかの年代しか書いてないことだな。まぁ正しいといえば正しいんだが、その底本が「日本の名随筆」だったりすると余計むかつく。まぁ小説みたいなのがいっぱいある時点でむかつくんだが。

 今日月曜ですよねー。博物館系は基本的に休みですよねー。

 新華書店の地図コーナーをみにいったら博物館が違うところにあった。ネットで調べた情報だと王義之関係の池のちかくの孔廟にあったのだが、孔廟はただの孔廟となっており、博物館は市役所の近くにある。たぶんこれは都市計画で新しく開発したところに市役所を中心とした文化地区をつくってそこに新しい博物館をつくったということだろう。そうおもってとりあえず孔廟周辺をみにいってから博物館をさがしにいった。孔廟とその横の教会はなんということもなかった。博物館の近くの文化センターで文革前後の写真家の写真展をやっていた。
 博物館の位置と明日の開館時間はわかったがサンダルはダメらしい。事前にわかってよかった。帰りも無駄に歩きすぎてつかれた。たいしておもしろいところもなかったし時間の無駄よのう。

 以構文があるので把構文的アイデアがもともと中国語になかったわけではない。

 docomo の N07D がようやく出たので情報収集中。docomoのスマホに乗りかえるならこれかとおもっている。

 ハローワークインターネットサービス - 求人情報詳細
 アラスカ大学らしい。おもしろそうだなこれ。


2012/07/15 日 徐州 → 临沂(臨沂)

 徐州 → 临沂北 36元
 まっすぐ膠州青島あたりまで行くのもなぁとおもって時刻表をみると臨沂を通るのがあったのでそこまで来た。着いたのが北駅でここから町の中心まで10km。市バスで2元。そこからさらに臨沂駅まで市バスで1元。駅前の横筋にある宿をあたったら最初の宿で20元というのがあった。なんか幸先よすぎるので他のところもあたったら10元とかあったけどあんまりよくないので戻って最初の宿にした。
 そしてテレビをつけると二号交通站という抗日喜劇をやっていたが野尻君と黒藤君というのがでてくる。うーむ。

 欧州債務危機の救済に乗り出す中国 「白馬の王子様」 心変わりの理由  WEDGE


2012/07/14 土 (広州) → 徐州

 208元の無座にのって25時間弱かけて徐州までやってきた。ひきつづいて真夜中発の列車にのれば青島のちかくの膠州まで行けるんだがそこまでせずにとにかく寝る。駅前にいろいろ客引きがいたが安くて30元だったので前来た時にとまったところまで歩いていって泊まった。25元。
 やっぱりここまで来ると夜の暑さも大したことない。


2012/07/13 金 広州 → (徐州)

 朝のうちにワッカースの墓をみにいってきた。その公園みたいなところの入口にムスリム以外立ち入り禁止と書いてあったがとりあえず入ってみたら入れた。聖者廟ってこんな形してるようなというような形をしていた。さすがに廟の中まで入らなかった。

 三忠の墓というのがある。清に抵抗して死んだ三人のムスリムだという。どこまで本当の話なんだろうか。
 ちなみにその敷地の横に展示場があり、アニメのそういうのがあって若いのがいっぱい行列をつくっていた。香港からの客も数に入っているらしく、香港広州行き帰りのバスの時刻表を貼った看板もあった。

 東洋協会調査部

 広州東にいって青島行きを買おうとしたらやっぱり全然無い。しかたないので徐州行きを買った。夜の9時半発で9時半くらい着の無座とろくなことがない。せいぜい物をぬすまれないように気をつけよう。

 中山記念堂に行ってみた。普通にホールだったがロビーに孫文の革命人生をまとめたところがあって陳烱明がでていた。記念堂の前に孫文の銅像があった。


2012/07/12 木 広州

 ひさしぶりによく寝れた気がするが蒸し暑い。

 黄沙 → 魚珠 地下鉄 6元
 魚珠码头 ←→ 长洲码头 渡船 5角
 黄埔軍校旧址記念館に行ってきた。フェリーで珠江を渡ったが5角だった。軍校の近くに着くのもあったが一時間に一本らしい。そっちは1.5元。
 黄埔軍校の跡地自体は南京に移転したあと日本との戦争のときに空爆をうけて破壊されたらしい。今あるのは復元したもの。子供が軍事訓練っぽいことを受けていた。たぶん夏休みにここでそういう訓練をうけるプログラムでもあるんだろう。学校の授業に軍事教練がある国だからな。
 展示は三つあり、軍校の歴史、関係者を描いた人物画の展示、雲南陸軍講武堂の展示だった。雲南陸軍講武堂はこの軍校に関係が深いということだがより直接的には葉剣英が出身だからだろう。葉剣英は広東の出身であり、なおかつ共産党の軍隊をひきいて広東を解放(占領)したから今広東にいる解放軍の始祖にあたる人物である。農民運動講習所でも毛沢東を差しおいて葉剣英の一生をあつかった展示があった。のちに北朝鮮の高官になった人がひとりこの学校出身であったらしい。

 となりに孫文をあつかった展示のはいった小さな建物があったがここは昔の税関であったらしい。その税関が不要になったので土地をつかって軍校をひらいたということだ。広東省博物館にもあったが、清の中期に対外開放港を広州にしぼったために広州に西洋文物が集まるようになり、その買い付けのための商人として十三行がおかれたため十三行が清朝の貿易を握って莫大な富を得るようになった。そのあたりは広東省博物館にくわしく、西洋向け輸出品をここで加工していた実物なんかが置いてある。景徳鎮から無地の磁器をとりよせ、広州で西洋向けに加工していたとかみやげ品の洋画を描いていたとかというあたり、日本で蘭学者が手探りで西洋のものをマネしていたのとは比べものにならない。このあたりのものをみると西洋の物の接触吸収はどうみても清の方が進んでいたようにみえる。こういうのだけみているとなんでその後日本が先んじたのかよくわからん。
 二階に孫中山・梅屋庄吉と黄埔軍校という展示があって、孫文の活動の資金源が梅屋庄吉であることが紹介されていた。この建物に孫文が泊まることが多かった関係でここが孫文庄吉が送った孫文の像のひとつがその建物の裏の丘に立っている。その像のあるところは中山公園という名前がついていた。

 陳烱明を倒した東征関係のものが西の方にあるが、その孫文関係のものがあるところからは直接行けない。山をぐるりとまわらなければならないようになっている。すこし歩いたがもう歩くだけで疲れてしまい、そこまで行かなかった。

 船で行きとおなじように珠江を渡り歩いていくと地下鉄の駅との中間にある大きな道にバスがとまっており、中山八路まで行けるようだったのでそれで終点まで乗ってみた。途中寝てしまったのであっという間に着いたが一時間くらいは乗っていたような気がする。そこから適当なバスをさがして結局最後まで歩いてしまったのだがそのあたり賑やかで古い建物もわりとのこっていておもしろかった。

 陈炯明吧_百度贴吧
 海丰人社区 - 陈炯明史料研究

 そういうと今日市内鉄道切符売り場をみつけたので明日の青島行きを聞いたらもう売り切れらしい。長春行きは無座があるらしい。うーむ。諦めるべきところか。暑いから広東省には長居したくないのだが。しかし陳烱明の墓が恵州にあるとかいうしなぁ。

 ワッカース墓というのが広州にあり、こないだ行った南越王墓の北側にあったらしい。


2012/07/11 水 広州

 暑い。朝だけだな何か書く気になるの。素直にまともな宿とかに行った方がよいような気もするな。

 昨日みつけた38元の宿は受付のおっさんがちがったので外人はダメということで追いだされた。しかし部屋が狭くて暑いので結局何もできないのはおなじだということはわかっていたのでそれでよかったのだろう。そこで素直に沙面の偽ユースに行ったらよかったのだが素直に行かず歩いて他の宿をさがし、そのままの勢いで陳家祠をみた。10元。広州は観光地が安そうだ。
 しかし重い荷物をかつぎながら見るものではない。それに展示では陳一族の詳細がわからないので精巧な彫刻くらいしか見るものがないが、ざっとみただけにおわった。
 さらにその後往生際悪く天河バスターミナルまで行ってみて宿探しをしたがやっぱりダメだったのであきらめて沙面の偽ユースに行く。涼しい。

 移動しまくってバスなり地下鉄の冷房に触れてわかったけどやっぱり暑いの無理。頭もまわらんし何もできなくなる。これから安宿をたどって沿岸部を北上するとか無理だ。まっすぐ北上しよう。広州東から青島にいくのがあるのでそれで一気に山東半島まで行こう。
 T161/T160次-广州东至青岛-火车网

 南越王墓博物館。12元。
 西漢南越王墓博物館と西漢がついているのが中国らしい。まぁ分裂政権はこれをみとめないというわけだな。
 墓もそのまま公開で中に入れるようになっている。博物館の中がすずしくてよかった。これが南越式とかわかりやすく説明してあってよい。まぁでも漆の棺とかそういう特徴的なものは本物が置いてなかった。

 宿は毛唐だらけだが、中に日本語のできるカナダ人がいる。英語教師とかで世間を渡っている系の人で、今は中国語を勉強しているらしいんだが、日本語ができるというのはうっとおしいことだなぁとちょっとおもった。


2012/07/10 火 広州

 暑い。暑いうえに足とか背中とか腕に虫さされのあとができてかゆい。深圳のあの部屋にはなにか南京虫のようなものがいたんだろう。この部屋にもいるのかどうかわからないがとにかくかゆい。

 広東省博物館と毛沢東主弁農民運動講習所跡地に行ったのだが、暑くて日記にまとめる気になれなかった。
 一応その後時間があまったので沙面の出島を見にいき、近くが賑やかだったので宿をさがしてみると38元の宿があった。しかし暑そう。すくなくともここよりは静かなので引っ越ししてみる。


2012/07/09 月 深圳 → 広州

 深圳 → 広州 動車組 90元
 駅に行って広州行きの普通の列車を買おうとしたら売ってくれない。しかたないので新幹線にのったが、バスターミナルもすぐそばにあったのでそっちに乗った方がよかった。
 途中樟木頭というところを通ったら昨日博物館で見た客家の要塞塔みたいなのがチラっとみえた。広東省、細かくみていったらおもしろいんだろうなぁ。

 駅前で宿さがしをするが安いところがない。数年前来た時に泊まったところのあたりをあたってみたがみつからず高いのしかなかった。結局また40元。荷物置き場を改造して人を寝れるようにした感じで高い床と扉しかない感じだがこれくらいでちょうどいい。

 駅前から流花湖のあたりまでぐるっと歩いた。中国聯通を探していたのだがみつからず結局代理店にはいってネット専用のカードを買おうとしたら300元3ヶ月というのがあった。9Gということでまぁいいかとおもったのだが、帰ってからよくよくみると、境内7G境外2Gと書いてある。失敗した。広州なんか二三日しかいないのにそこで7Gもいらない。ちゃんと直営の出張所にいって一ヶ月のものを買ったらよかった。

 宿に帰ってゆっくりしてみたら重大なことに気付いた。すぐ横を高速道路が走っていてうるさい。寝れるんだろうか。

 うーむ。googleってどこからもリンクをはっていない秘密ファイルにどうやってアクセスしているんだろう。


2012/07/08 日 香港 → 深圳

 MTR 佐敦 → 羅湖or落馬洲 40.5HKD
 MTR 佐敦 → 上水(一度改札を出る) → 羅湖or落馬洲 34.5HKD
 MTR 佐敦 → 元朗 (24HKD) 元朗 → 落馬洲 バスB1 (10.9HKD?) 34.9HKD?
 MTR 佐敦 → 元朗 (24HKD) 元朗 → 落馬洲 ミニバス75 (5HKD?) 29HKD?
 油尖バスターミナル → 皇崗(落馬洲) 35HKD

 飛び地研の人と深圳博物館に行った。ルートは上で挙げた一番下のバス。中国側に入ってから博物館にうまくたどりつけず、二回もバスをのりかえた上地下鉄でようやくたどりついた。古いガイドブックにのっていた博物館の位置と新しい博物館の位置がちがっていてゴッチャになっていたからだがまぁしかたない。
 二階に古代近代民俗。三階に改革開放前と後。香港の博物館とだいたい同じだがこっちの方が範囲がひろく僻地だった香港に比べれば地方の中心だったので古代部分の内容は多い。深圳市の東のあたりが軍事拠点にされることが多かったようで、今でもその古城がのこっていたりするらしい。ほかにも民俗部分で客家の要塞的家が紹介されていた。家を囲って要塞にするのは通性なのか。福建の円楼とは違って四角くまさしく要塞的だった。その他の展示も香港とは微妙に内容や名前がちがったりした。まぁしかし似たような感じになっているのは香港博物館の影響をうけたんだろうか。
 中国の他のところとちがうのは文革を紹介していることだった。改革開放を紹介するためにはその前振りとして必要なんだろう。まぁもっとも極左がわるいことをした、みたいな扱いでポスターを貼ってサラっと流してある。改革開放部分はやたらくわしかった。鄧小平が鍬をいれるところの銅像があった。

 深圳駅でわかれ、そのへんの宿を適当に探して泊まる。40元。安い宿がみつからない。


2012/07/07 土 香港

 うーむ。宿のおやじといっしょに深圳行くという話をしていたのだがおやじが先に出かけてしまったので急いでノートパソコンをかたづけておいかけたが完全に見失なってしまった。しかたないのでとりあえず歩いてさがしてみたのだが警官に聞いていったところは広州の方に直接行くバスのようで、途中でおりれるにしても西の方を通る。深圳に行くとしたらちょっと遠まわりになる。そしてそんなに安いわけでもない。(広州に直接行くなら安い。)
 しかたないので一度宿にもどって調べ中。というか日本にかえろうかなぁ。

 「【単刀直言】森喜朗氏「野田君はよくやった」「小沢さんの命運尽きたな」」:MSN産経

 飛び地研の人と話がはずんだので、香港島にわたってトラムにのって九龍城の方にまわってかえってきた。マニアックな話はたのしかったがなんか体調があんまりよくなかったので疲れた。明日いっしょに深圳博物館を見物しようということになったので夜はさっさと寝た。


2012/07/06 金 香港

 金の計算があわん。少くとも100HKDくらい足りない。うーむ。
 まぁしかたないか。

 今日ビザを申請してみたのだが、宿のおやじに金をはらうために何個かATMをあたってみたら現地ATM手数料を請求される。中国銀行があったので現地ATM手数料がないかもしれないとおもっていれてみたらやっぱり必要だという。とりあえず手続きをキャンセルしようとしたらいきなりATMが停止した。
 つまりカードがくわれてしまったので受付の方にいったらもう出てこないという。最初は四営業日くらい待てとかなんとか言われていたが、日本の銀行のカードだというとそのカードを日本に送るから日本でうけとれとかなんとか言う始末。つまりもうここで出すつもりはないらしい。
 今までで最悪の事態が発生した。しょうがないのでとりあえず帰ると同宿のだいたい同じ年のやりてっぽい人がスカイプをつかわせてくれた。その人は嫁が中国人でここしばらく中国に住んでいて、日本と電話をするために日本との電話が使い放題になるスカイプのなにかを買っていて、普通の電話であればかけ放題であるらしい。で、早速郵貯に電話したらどうも停止するしか方法がないらしい。新しいのをつくって送るには一万円かかると。うーむ。
 こっちとしてもそれしか方法がないというわけではないのでとりあえず停止してもらった。しかたない。

 ビザの方は申請してしまったのでしかたない。このままとりあえず受けとる。どちらにしても現金が尽きかけていたので、今度は崑山で大量に引き出していた人民元を香港ドルに両替してとりあえず宿代とビザ代だけ清算した。それだけしたら疲れたのでとりあえず昼寝した。

 まぁしかしこの体調といいカードを食べられて回収できない事といい、なにか運が尽きている気がする。一度帰って仕切り直した方がいいのか。ビザは三ヶ月あるし。

 スルガVisaデビット 3% + 210円
 セゾンカード 金利(18% x (1-2)/12) + 105(↓10000)/210(↑10000)円


2012/07/05 木 香港

 蘇州号碼 - Wikipedia
 使っているのをみたがそのときは意味がわからんかった。

 昨日ついにアジスロマイシン系の薬を一度に4錠飲んだら頭とか背中が痛いのはだいぶよくなった。


2012/07/04 水 香港

 ラッキーハウスのおやじは昭和13年生れで高島さんとほとんど同世代らしい。で、文革がどうこう大安がどうこうというその時代に中国語をやってた人にしかわからない昔話をしたらどうもそのど真ん中あたりにいたらしく、それがいやになって香港に行ったみたいなことを言ってた。反中国かどうかみたいな底の浅い話をしてくるが底が浅いので順を追って話をすれば、たぶん前振なしで言うと中国の悪口になりそうなことでも、全然問題にならなかった。

 なんか体調わるいなぁ。
 今日は今までの湿度がなくなって乾いてきた。まぁ体が慣れてきて汗を出さなくなったのかもしれんがとにかく湿気で気持ち悪くないのはいい。でも崑山のときとおなじようなダルさがあるのでひたすら寝ている。

 David Rumsey Historical Map Collection


2012/07/03 火 香港

 暑い。今日はちょっと香港島に船で渡ってみたが、朝からバテ気味だったのでちょっと動いたらもうやる気がなくなり、すこし骨董街までのぼっただけでバスでもう一方の繁華街まで行って地下鉄で帰った。まぁ甘いものばっかり食べたりしてるせいか。鼻水がでるので夏風邪のようなものになりつつあるのかもしれん。

 鼻水がとまりません


2012/07/02 月 香港

 w3m.vim というのをみつけた。これはいい。
 ただちょっと重いな。レッツノートが熱くなる。

 重慶マンションの他のところにまた行ってもよかったが、今度は日本人宿として有名なラッキーハウスに行ってみた。こっちの方が下町ぽいエリアでいい。重慶マンションだとついつい毎食カレーになってしまう。行ってみたらそんなに人がいない。2chにスレが立つくらいだからさぞかし腐敗した住人でひしめいているんだろうとおもっていたが拍子抜けした。ドミ80HKD。
 中国ビザ三ヶ月即日を550HKDでやってくれるらしい。最初はひやかしにきたつもりだったがそれだけでもここにいる価値がある。

 今日は昨日すこしみた古い街っぽいところを横切って九龍城塞跡をみにいくつもりだったが途中あんまり暑いのでバテてしまい、ショッピングモールで涼みながら飯くって無料の無線LANで行き方をしらべてバスで行った。
 九龍城跡はその中心にあった元兵士宿舎部をのこして全部解体され、公園になっていた。むかしをなつかしむ展示がその建物にあった。しかしもともとの砦の城内建築物が九龍城の違法建築の中で残っていたというのがすごい。この九龍城は中国で普通にいう城(街)の意味ではなく、日本語の城(砦)の意味に近いものであって、城内の街はなかったらしい。もともとアヘン戦争で無人で開発する余地のほとんどない香港島をイギリスにわたし、その目付のために対岸のここにたてた砦である。宋代からあるとかなんとか書いてあるが昔あったのはそんなたいしたものではなかっただろう。
 イギリスが九龍から先まで租借地にくみこんでしまい、九龍の砦だけのこされ、兵士は追いだしたものの、条約の範囲外なので取ることもできず、無法地帯として成長した。ここにメスがはいったのは日本占領時代で、昔の啓徳空港を拡張するために砦をこわして石とりしたりしたらしい。戦後ここを一度回収しようとしたらしいができず、返還が現実になることまで宙ぶらりんのまま大陸から逃げてきたひとたちの受け皿となっていたそうな。

 ところでこの九龍城跡の前にも街があり、そこにいってみるとスイーツ屋がいっぱいあり、あるばかりではなく有名なスイーツスポットであるらしい。九龍城塞が住民から隔絶した区域となり、その前に城下町みたいなのが拡がるという感じはまさに日本の城にちかい。九龍城塞が住民から隔絶した区域となり、その前に城下町みたいなのが拡がるという感じはまさに日本の城にちかい。九龍城塞が住民から隔絶した区域となり、その前に城下町みたいなのが拡がるという感じはまさに日本の城にちかい。しかしスイーツ屋があるのがなんともいえず、九龍城の違法建築無法地帯といわれるイメージとはまたちがった現実があったんだろう。

 疲れたのでもうさっさと帰った。ドミの相部屋の人は明日インドにでかけ、その後アフリカ縦断するらしい。もう今はアフリカへ普通に行くようになった時代なんだなぁ。

 しかし蒸し暑い。北上したいなぁ。


2012/07/01 日 香港

 签证种类及有关证明文件要求
 申请签证需特别注意的几个问题
 なるほど今個人での中国ビザ申請は無理っぽい。業者を通すしかないか。

 香港海事博物館というのがあったらしいが今ちょうど閉まっているらしい。残念。

 香港空港で夜を過したあと、朝あかるくなってからバスのりばにいった。香港のバスの運賃は路線の長さによってちがうが、全額払うものであるらしい。普通ケチケチ路線の人は21HKDの路線バスで市内へ向かうらしいが、そのバスは九龍が終点ではなく香港島の方が終点なので途中でおりることになりもったいない。ということで九龍の北のあたりに着く14HKDのバスにのった。これだと歩きながらそのあたりをブラブラ見物することができる。路線バスから見える香港の山々は上海のあたりから来てもものすごく新鮮にみえる。前日雨で洗われたというのもあるし南国系の樹木が道に迫っているということもある。しかしよくみてみると山は色こそ緑だが地肌が薄く、木にも恵まれていない。砂浜とかも見えず山がすのまま海に落ちている。開発しにくい地形が未開のまま放置されているようにみえた。
 香港の街に近づくと日本みたいにちょっと古い街(昭和な感じ)がそのままのこっているのがみえる。今まで中国の全破壊再開発地ばかりみていたのでそういうのも新鮮にみえた。香港の古いところは全体にコンクリートで固めてある感じがあり、隙間なく灰色になっているようにみえる。降りたあたりもちょっと古い感じだ。狭い路地に看板が突きでているのがおもしろい。日本の創作でつかわれる香港風市街地の看板はただの雑然とした看板だが実際の香港の路地の看板はもっと自己主張がはげしい。言い方をかえれば一個一個が堂々としている。まぁセコい人間の手にかかるとそうなってしまうということだろう。
 ただそのちょっと古い感じのある街の宿にちょっとあたってみると安くても一泊250HKDとかだったのでとてもちかよれない。何軒かあたってもそんな感じだったのでさっさとあきらめて重慶大廈まで行くことにした。
 それなりに歩いたあと重慶大厦で宿さがししたがどこもシングル150くらい。最初に声かけてきたおっさんが100とかいってて相手にしなかったがあんまり安いところがないのでそれにしたら、一回行ったところのようなところに紹介された。D4F恒生賓館。昼飯食って帰ってきたら20HKDサービス税とか後からいってきた。ここは一泊で出ることにする。

 昼寝してから香港歴史博物館にいく。10HKD。
 ひさしぶりにレベルの高い博物館だった。さすがイギリスの植民地だっただけのことはある。自然の紹介とかハンバではない。
 展示によると虎なんかも住むような密林があるらしい。どこにあるのかわからんがまぁまだ見ていないところにあるんだろう。歴史展示の方だが、所詮香港のあたりは辺鄙なところだったので、塩田とか開墾とかの話しかない。ひとつ1950年代に発見された漢代の墓というのがあってこれが目玉のようなものか。とはいっても展示物は豊富で、他の中国の辺鄙な部分をきりとってもちゃんと発掘すればこれくらいの出土物に恵まれるんだろうとおもわされる。まぁおかげで民俗展示が豊富で海老ミソなんかの展示まであっておもしろかった。
 イギリスが目をつけたあたりから展示が豊富になり、アヘン戦争をへてイギリスの手におち順調に発展したみたいな感じに展示の流れがすすんでいる。しかしここ、天然の良港である代償として可住地が少ないわけだからその開発が順調だったわけがないのだが、そのあたりの展示は地図でちょろっと示しておしまいだった。中国人ってつくづく地道な努力に興味がないんだなぁとおもった。ただし植民地経営については善政が強調されており歴代総督の肖像画まで展示されていたあたりについてはなかなかやるなとおもった。
 西洋化された中国の姿は香港や上海にあり、極東地域でも先進地域で、明治政府も香港上海を手本にしたところがあるんだろうとおもう。しかし中国自身が香港上海をモデル地域として使いだしその反映があらわれるのはようやく1920年代になってからで、しかもそのころには戦争が常態になってしまいあげくのはてには共産政権をうみだして鎖国してしまう。横取りする奴の声がでかい国ってこうなるんだな。
 たった四年弱しかない日本占領期にわざわざ1ブロックをあてがっていたが、当然の結果として最小に近い展示ブロックだった。館内放送も広東語でやっているのに抗日コーナーのミニ映画は普通語でやっていた。まぁアヘン戦争のミニ映画が何語でやっているのか見てなかったのでそれだけを挙げてなにかしら言うことはできない。日本の占領時代には日本に占領された当然の結果として国際貿易港の機能が低下し、経済状態がわるくなったのだが、香港はその後またイギリスの手元にもどって前の繁栄をとりもどすことができたからかなり無邪気に日本の占領時代を否定できるということはわかった。戦前戦後という言葉を日本とおなじ意味で使えるのも香港だけだろう。
 その点上海は複雑だな。租界がなくなったのも日本が上海にいる時だし、その後は国際貿易港どころではなくなるし。
 そういうと文革とかで逃亡してくる人が増えてどうのこうのとかは書いてなかったな。

 夜は香港返還15周年記念花火大会をみた。豪勢な花火のつかい方だった。