2013/08
2013/08/31 土 デリー

 ラインナップ比較表 | パソコン(個人向け) | Panasonic
 本当に駆動時間30時間って書いてあるなぁ。

 逆引きできる海外ホストなので2chに書きこみしようとしたけど海外書きこみ規制中だった...

 ズボンを洗濯したが、デリー毎晩雨降ってるのでまだ乾かない。朝飯も食いに行けない。
 なんとか乾いたけど洗濯してなんか臭くなった。

 デリーに来てから毎晩雨が降るせいで、夜蒸し暑くて眠れない。このドミは小さい蚊がいるがかまれるとものすごくかゆい。というわけで天井のファンは蚊よけのためにつけっぱなし。しかし部屋の隅なのでファンの威力があまりきかない。かゆい。

 気象庁の奈良の毎時観測値をみていると日本を出発する前の暑すぎた時期とおなじ気温推移をしている。帰っても暑そうだなぁ。

 パヤルの人が日本料理屋をしつこくすすめるので行ってみたら、明日帰るとかいう人がいて、金あまってるそうなので1000円両替してもらった。670ルピーゲット。これでかなり余裕ができた。ついでにパヤルのおっさんが金はらえというのでついでに7泊分払った。これで手元にある金は全部生活費交通費ということだ。1000円くずしたおかげでできることが増えたが国立博物館に行ってカメラつかったらほとんど消えてしまうな。うーむ。まぁ金の様子をみて考えよう。金ができて気が大きくなり、やたらマンゴージュースのんだりして無駄遣いした。

 そういうと深夜発の飛行機は機内食出るのだろうか。
 検索してみたら中国東方航空のデリー上海便は普通にでるようだ。ということなので最後の9月5日は腹を減らしていこう。

 Photo by ilyusher
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 big112446osgaoiyfhk.jpg (JPEG Image, 1000 × 750 pixels)
 ハバロフスクの最高水位の記録が1896年らしいが今年はそれを1mも更新しているらしい。しかも今また雨降っててまだ更新する勢いらしい。もう無理な気がしてきた。
 アムール川は地形的には日本海に面した沿海部を高い山に塞がれ、北の方も同様に山で塞がれており、大陸に降った雨がすべてそこに集中する仕組みになっている。これも今回洪水になったというのでじっくりみてみるまで気付かなかった。ハバロフスクはウスリー川とアムール川の合流地点にあるが、そこが沿海部の高山と北の山の作る谷の入口になっている。つまりそこに水がたまりやすいので今回の洪水のような場合放置すると一番被害が大きくなるところであり、そうならないようにいろいろ仕組みがつくられているはずだ。それがここまで被害が大きくなっているということは、たぶんロシア側にあるアムール川水系の安全装置であるダムとかは全て満水で余剰の遊水池はもう残っていないんだろう。アムール川に流れこむ水は他に松花江がある。これはアムール川の南側、つまり北満洲の水を全て受けとっている川だが、中国の管轄なのでロシアにはなんともできない。ハバロフスク市民としてはおねがい中国なんとかがんばって、というところだろうが、中国側で危険水位に迫っているのは松花江の上流の一つで、大興安嶺から流れている嫩江であり、人口過疎地だから危険意識も低いだろう。
 しかし嫩江で危険水位ということは、大量に雨が降っているのが大興安嶺のあたりだということもわかる。もちろん直接アムール川に流れているのもあるだろう。ロシアの方ではゼヤのあたりも洪水になっているので大興安嶺の北の方も雨だということがわかる。アムール川の上流域だ。
 ハバロフスクも一応雨らしいが、それ以上に地形的に上流の雨の影響をうけやすいので今後も引き続き危険な状態がつづくということになる。


2013/08/30 金 デリー

 今日は激流さんが帰る日だが、最後にデリー近郊都市のグルガオンの本屋へ大量に本を買いにいくというのでまたついていった。
 「ついていった」ばかりだが、そもそもこの旅行自体が激流さんについていくことで始まっているのだから仕方ない。

 グルガオンまでデリーのメトロで25Rsで行ける。デリーのメトロにはじめて乗ったが、中国の上海のメトロのようだった。

 本屋の家と店舗に行って本を見た。いろいろ本があっておもしろかったが、やっぱりパキスタンの本屋が作ってる復刻本が目についた。あと、グルガオンにやけに具象的なヒンドゥー寺院とかあったけど写真とりわすれた。

 最後にまた激流さんが飯おごってくれたので肉くってきた。その飯屋からメインバザールの眺めがよかったので写真をとった。ちなみにアニメgifにしようとしてすこし撮ってたけど枚数がまだ不十分だった。今度Payalの屋上からの写真でつくってみる。

 パヤルのドミだが今晩は一人のようだ。デカいシングルだ!

 "Spying for the Raj: The Pundits And the Mapping of the Himalaya"
 今日本屋で見た中にこれがあっておもしろそうだった。著者のJules Stewart だが、他にもアフガニスタン関係の本も書いてて、 "The Khyber Rifles: From the British Raj to Al Qaeda" もおもしろそうだ。


2013/08/29 木 (ジャンムー) → デリー

 デリーサライ駅には4時過ぎについた。早すぎるのでホームでしばらく寝ていた。
 大分明るくなった5時半に出発。デリーサライ駅から道にでるとバスがはしっているので適当なものにのれば楽に行けるんだろうが何分まだ6時前なのでそんなに早く行ってもしかたない。歩いてパハルガンジを目指す。
 6時半にはパハルガンジの昔よくいったあたりに到着。その昔ウプハールという安宿があったところも通った。今はあのボロ宿が改装してラマンとかいう宿になっていた。最安で350Rsとかだった。宿をいろいろあたってみてやっぱり高いことがわかった。泊まるなら昔ウプハールがあった通りの方が飯が安いのでいいのだが、高いとこばっかりなので結局表の通りのPayalにした。ドミ200Rs。200Rsの部屋はちょくちょく見付かるが、宿に wifi がないのばかり。ここは激流さんが先に飛行機でデリーに飛んで泊まっているところで、一応候補にはしていたが、結局ここになった。

 パハルガンジ物価安いでー。今までが観光地で高かったんやでー。こら十分今の所持金で行けるでー

 昔ウプハールがあったとこの下のお菓子屋は今もあった。シクのおっさんが今も店やっててケーキとかクッキー売ってた。アイス売ってたのでアイス買ってみた。20Rsした。その向かいの揚げ菓子屋も健在で鍋を何個もならべてお菓子を売っていた。
 マンゴージュースが小グラス10Rs。小といっても結構大きいグラスだから紙パックのやつより安い。デリーに来たらゲッソリするかもとちょっとおもっていたが元気がでてきたぞ。

 ルピー安がますます進行して今は100円67.7ルピー程度らしい。うーむ。


2013/08/28 水 スリナガル → バニハル → ジャンムー → (デリー)

 DLホスピタル → ノウガム バス 8Rs
 ノウガム → スリナガル駅 乗合タクシー 10Rs
 スリナガル駅 → バニハル駅 鉄道 20Rs
 朝、とりあえずTRCに行ってスリナガル駅行きのバスのことを聞くとないという。うーむ。やっぱりラールチョークに行けという。どうも7時半発とか言ってたのはジャンムー行きのバスのことらしい。しょうがないのでジャンムー行きの安い方の270Rsのバスに乗ることにして500Rs札をわたすがなかなかおつりをわたしてくれない。そのうえ白人のやつがなんか文句つけてきていたときにそのおつりをわたしていた。そのうち他のインド人がやってきて切符を買うと、こっちに500Rs札を渡し、フルになったから高い方の500Rsのバスにのれという。腹立ってとりあえずラールチョークにいくことにした。
 途中J&K州バスが通りすぎる。あれかもしれんなーとおもってラールチョークに来てみるとやはりなにもない。その辺の人にスリナガル駅のあるノウガムへの行き方を聞くと、JDホスピタルに行けという。ゴニカンからの帰りのバスでいつも見てるあれか。とりあえず橋を渡ってゴニカンにいき、JDホスピタル方面にいくと、ミニバスが一台停まっていた。ノウガム行きだが、スリナガル駅はそこから3kmあるという。そのときすでに7時半をまわっている。鉄道の時間はたしか8時半くらいだったような...
 まぁ間にあわなければ遅い時間のでゆっくり行けばよいだけだとおもいなおし、とりあえず乗っていくと見たことある所を通ってスリナガル駅にいく大道の交差点でおろされる。あれにのっていけばよいといわれたミニバスがすぐにどっかに行ってしまったのでとりあえず歩いていくと、そのへんにいた兵隊にとめられてラダック人かとかなんとか尋問された。とりあえず駅の行き方を聞いてると車がとまって駅にいくという。10Rsだったのですぐ乗った。駅についてからその車をみると乗合タクシーだった。鉄道の時間は8時45分で十分間にあった。
 スリナガル駅からバニハル駅は寝てしまったので書くこともない。

 バニハル駅 → ジャンムー駅 バス 180Rs
 バニハル駅からおりると車がいっぱい待っている。ずっと前の方にいくとJ&K州バスがあった。ジャンムージャンムーと行っているのできいてみるとウダムプルまで120Rs、ジャンムーまで180Rsだという。
 最初はウダムプルで降りてそこから鉄道でデリー行きの二等にのるという計画だったので、その線でいくべくウダムプルまでのることにした。バスの中で金を払うときになると130Rsと言うのでそのまま払った。
 さてここであとから隣に座ってきたインド人がいたのだが、こいつが股を広げたりしてやたら密着してくる。そしてやたらなれなれしい。最初はそういうやつかとおもって話をしてみたが、そいつの持っている鉄道の切符がJammuTawiからなのに、こっちがウダムプルで降りるというとウダムプルまでの金を払っている。うーむ。しかも途中で降りておれの分のお菓子まで買ってきてくれたり、仏教徒かとか聞いてくるのでそうだというとブッダガヤ出身とか言ってくる。ハァ?
 窓の外の写真とったりしてるときにシーツの包みの方をイジっていたようだったので物盗りらしいとわかった。途中で人が何人か降りて隣の三人掛が空いたのにそっちに移ろうともせずあいかわらず密着してくるし、太股をおしつけて上下にゴシゴシしたりするし、荷物とか手元とかをときどきジっと見たりしているのでもう疑いは確定した。二人掛けでそいつに密着されつづけているのも疲れるので空いた三人掛に移った。
 結局わざと足を広げたりして密着してくるようなのは物盗りだとおもってよいことがわかった。最初っから密着しつづけてあやしませないということなんだろう。なんで狙われたかというとN-08Dを出して写真を撮ったりしていたからで、狙いはN-08Dだったようだ。おそらくiPadminiかなにかと勘違いしたんだろう。
 バスに乗ったときにわざと窓の外の人に乗ってこいよみたいに声をかけたりしていたがあれは知らない人に声をかけただけでターゲットに怪しませないための策なんだろう。包みをイジっていたらしいとき、そいつは急に電話しだして、三人掛けの向こうの人に用もないのに電話に出させたりしていたが、そりゃ白々しすぎるだろ。逆にそいつが敏感に反応しすぎたので、包みをイジっていた事がわかってしまった。

 しょうがないのでウダムプルで降りずにジャンムーまで行くことにした。50Rs追加。物取りがどこまでしつこく狙うのかよくわからない。

 ウダムプルからジャンムーの間は自然公園があって猿がいたり、岩がゴツゴツした地形だったりして案外おもしろかったが時間もかかった。鉄道で行ったら楽チンだったし安かったのだが、ああいうしつこそうな物盗りに狙われていると安心して列車の中で寝れない。しょうがない。

 ジャンムー駅 → デリーサライ駅 寝台 340Rs
 ジャンムーにつくと、バススタンドで客をおろし、さらにジャンムー駅まで行くという。バニハル駅からジャンムー駅まで駅間を結んでいるということになる。もっともバスの車庫が駅の前にあるのでついでに乗せてってくれただけのようだが、便利なことには違いない。

 そういうわけでジャンムーの街中もそんなに見ずにおわったがなんか思ってたより小さい街だった。
 ジャンムー駅ではあちこちたらいまわしされたが、今すぐ出るというデリー行きにのることができた。物盗りに狙われたせいでちょっと警戒してしまい、ついつい二等ではなく、普通に寝台を買ってしまった。二等は195Rsだということがわかっていたが、寝台は340Rsで、ジャンムーで一泊して昼行きを買うよりも安い。そんなら寝台でいいかという次第だ。買ってから気付いたが、デリーといってもデリーサライ駅だった。調べてみたらニューデリー駅まで歩いていける距離だったし、どうせ早朝に着くのでそれでいいか。なんともやる気のない事だったが、乗ってすぐ寝た。


2013/08/27 火 スリナガル

 南条文雄『印度紀行』(1887)で明治20年インドを訪れたとき、バラナシで舟をやとってガンジス川の水浴を見、釈尊のころから続いているとか紹介したあとにこう書いている。

 嗚乎人各其信スル所ヲ可トスト雖モ此法ノ如キハ毫端モ人生ニ益ナキノミナラス日ニ暴シ雨ニ浴シ身体ヲ無用視スルノ甚キ凡眼尚黙視スルニ忍ヒス况ンヤ佛眼ヲヤト感極マリテ舟ヲ進ムルコト能ハス
 南条文雄はもともとインド行きの志があったが、渡欧する人を訪ねて話がはずみ、金を貸してくれるからというので翌日その人と一緒に横浜から出発したそうだ。しかも大学と本山には一年くらい行ってくるということで話をつけていた(たった一日でそこまで話をつけたのもすごい)が、コルカタについてインドの暑さに参ってしまい、また仏教書とかもほとんどないのでインド留学はあきらめたらしい。ブッダガヤとかバラナシをみただけでボンベイに抜け、上海にもどって浙江の天台山にのぼってお茶をにごしたそうだ。

 また下痢ってきたのだが、今度はすぐに治りそうにないので Norflox-TZ を投入して寝ていた。明日ジャンムー向けて出発なのだ。

 なんでこの宿、頻繁に電源をおとしたりwifiを切ったりしてるのに停電のときにはなかなか停電しないのかわかった。どうも盗電しているらしい。道路沿いの部屋になってわかった。盗電して蓄電とかしているから電気の節約意識が強く、停電に強いんだろう。あちこちで電線から直接盗電している人たちもたぶん電線を蓄電池に繋げているんだろう。

 なんか激流さんにしょっちゅうおごってもらってるんだが、今晩はシズラーとかいう高い飯をおごってもらった。チキンシズラーである。

 みてわかるようにインド飯ではない。この店の場合中に鶏のカツレツが入っている。もっとあっさりしたものを想像していたが、一日下痢した身には重かった。まぁNorFrox-TZ が通過したあとなのでよけい重いかもしれないが明日一日移動なのでそれくらいの方が腹持ちよくていいんだろう。

 あと、この appyFIZZ の1リットルのペットボトルを買ってしまった。リンゴ味の炭酸。小さい200mlのが15ルピーで手頃なので毎日飲んでいたが、明日は一日移動だということででかいペットボトルを買ったのだ。

 明日の予定だが、鉄道とバスをつかってジャンムー方面に出たあと、一気にデリーまで鉄道で行くとおもう。ということで順調に行けば明後日の朝にはデリーに着いているはず。そうして鉄道を最大限活用して移動費を圧縮し、現有の3800ルピー程度の現金で9/6の飛行機まで持たせるつもりだ。まぁジャンムー方面にでて暑さで気がかわったら違う方にいくかもしれない。
 若干金をとられたっぽい事がここに来て響いてきた。自業自得か。

 あいかわらずタオルがくさい。水で体をあらってタオルで拭くとなんかくさいんだが場所のせいで日光で干せずいかんともしがたい。吸水性はおとるが洗いやすく水の切れもいい日本手拭いがほしい。トライアルで買った75円の安物のタオルは吸水性がわるく手拭いに近いところがかえってよかった。あれでいいんだがおきわすれてしまったのでしかたない。


2013/08/26 月 スリナガル

 この宿は夜の23時すぎには wifi の電気を切ってしまう。戸締りするときについでに切ってしまうんだろう。うーむ。だから朝いちいちスイッチを入れにいっているんだが今朝は wifi つながってもネットにつながらん。
 ルーターの問題だったらしい。

 これから先のことを調べているが所持金が微妙な額すぎて困る。どれくらい微妙かというとケチケチ生活をすればなんとかいけそうな額。激流さんに2000円で1200ルピー両替してもらおうかとすこしおもったがそれもまた微妙な額だ。かといって6000ルピーもあると今度は使いきれない。これから先どうするかもまた関係してくる。一番の候補がマニカランに行って温泉につかりながら貧乏生活を極めるというもので、これなら金ももちそうだがインドにきてそれだけというのもなんか変な話だ。かといって今まで一ヶ月ほど涼しいところで暮しておきながら、暑いインド平原に降りて観光生活を一週間ほど続けられるともおもえない。他の案としてはデリーに直行して首都生活を満喫というのがある。この場合デリーに行ってしまえば予想外の交通費の出費がなくなるから金を綺麗につかいきることができる。金も必要に応じて引き出せばよい。
 ジャンムーの博物館も結局宮殿とかになるので行かなくてもいいような気がしてきた。

 樺太と大陸を結ぶ船はホルムスク→ワニノになるらしい。アムール川河口のニコラエフスク・ナ・アムーレにいくにはコムソモリスク・ナ・アムーレから下るしかないようだ。北樺太とアムール川河口を結ぶものがあるとおもっていたが。

 いすみ鉄道 社長ブログ | 団塊の世代の旅行需要 その2

 Lay's というポテトチップがあるが、それに "India's Magic Masala" という味があったので食べてみたらまさしくインド飯のマズい香りで絶望した。
 成分をみると Spice&Condiments として Onion,Chili,Dry Mango,Coriander,Ginger,Garlic,Black Pepper,Turmeric,Cumin があげられていて、Cumin以外はみなPowder ということになっている。このマズい香の正体はCuminかCorianderだとおもう。まぁまちがいなく量のバランスがおかしいから気持ちわるいんだろう。

 日本が酷暑だったのとおなじ原因かしらんが、極東ロシアとか北満洲のあたりは豪雨がつづいており、アムール川流域は洪水の危険に晒されているらしい。なにもこれから行こうかなとおもっているところに限って雨とか来てもらわなくてもいいんだが。


2013/08/25 日 スリナガル

 「地球史上最大の絶滅事件」に新説 2億5000万年前の謎 :日経

 今日は激流さんが金をだしてくれるというのでよろこんで古代ヒンドゥー寺院見物についていった。もっとも、こないだ見物にいったヌールッディンの直弟子のダルガー(廟)も行ったのでそっちが主目的でついでに古代寺院見物もしたという感じなのかもしれない。いずれにしてもありがたいことだ。

 順番に9世紀9世紀8世紀の寺院。8世紀の太陽寺院が一番大きく遺物も多いが、浮き彫り関係は溶けて判然としないのが多い。彫刻とかは二つ目のが一番よくのこっていたが、いいものはスリナガルのSPS博物館に移置されているらしい。

 どこも水を寺院内にひきこんでジャブジャブにしていたそうで、水路やプールや水槽なんかがあちこちにちらばっていた。最後に行った太陽寺院は横に水路が走っていたので昔はその水でも引きこんでいたんだろう。

 太陽寺院の下に現役のヒンドゥー寺院があってそっちは真ん中にでかいプールがあり、そこは柵がしてあって入れないが外に広い水路があって、人が体を洗ったり子供が遊んだりしてた。

 古代寺院のを大規模にしたらこんな感じになるんだろう。

 ヌールッディンの直弟子のバムッディンの廟はこんな感じ。

 中に棺の形をしたものがあるんだが、この棺の形をしたものは中に死体が入っているわけではなく、土に埋めた上にこういう構造物をつくっているだけなんだそうだ。

 ここにもよくわからんおっさんがいて金をせびられた。あとからみるとなんかかわいいな。運転手がいきなり20Rsわたし激流さんもつられて20Rs出していたが、10Rsしか出さないでいたところ、うしろのおっさんがその自分の10Rsをまわされて前のおっさんが20Rsづつわけていた。写真のうしろのおっさんのテンションが低いのはそのせいだろう。


 その直弟子の廟の上には洞穴寺院があった。ちなみに激流さんは前にも寺院めぐりをしたことがあったがそのときこの洞穴のすぐ近くにあるものがダルガーだったとは気付かなかったらしい。見かけだけではモスクなのかダルガーなのか判別できんもんな。
 この洞穴寺院にも水を流した遺構があったので、昔はこの洞穴から水でも湧いていたんだろう。石の棒はリンガで、よくみればチンコのカリの線まで描写してある。

 ちなみに昼は現役のヒンドゥー寺院の横にあるグルドワーラーでタダ飯を食った。ちょうど日曜の昼だったからだろう。ちなみに激流さんが前来たときは、運転手が太陽寺院のことを知らず最初にこっちにつれてかれたそうだ。そのときはヒンドゥー寺院の方で施しのタダ飯があってそっちの飯を食ったそうだ。
 ここのグルドワーラーはナーナクが来た跡に建てられたものらしい。

 そういうと太陽寺院に美人がうろちょろしてたのでおねがいしたら写真とらせてくれた。

 太陽寺院に入ったころに入ってきて出たころに出てきたので、実は観光客に写真とられたくてうろちょろしてたんじゃないかとおもわないでもない。

 車を一日借りてグルグルまわるというのは日本円で考えれば相当安いので短期で集中して回るならいいんだろうなぁ。ラダックも寺を回るのはそうしてる人の方が多い。ただ聞いた話だと寺一つ一人400Rsとかで車に45人詰めて45箇所回るのでラダックはかなりボっている。

 まぁしかし激流さんもおれみたいな腐ったおっさんと現地合流するよりどっかの女の子と現地合流してあちこち回ってたりする方がよほどよかったんじゃなかろうか。


2013/08/24 土 スリナガル

 昨日はやたら疲れて日記書く気力がなかったので今朝昨日の日記を書いた。今みると写真貼りすぎだとおもう。うーむ。

 隣の日本人女性だが、しばらく前ジャンムーに行くとか言っていたがおなかがいたくなったとかで出発できず、昨日は今朝ダラムサラへ直接行く車に乗るとか言っていたが、戻ってきていないところをみると無事乗れたらしい。しかし1000Rsでスリナガルからダラムサラへ行けるとかいうのは安すぎるとおもうんだが大丈夫なんだろうか。まぁ所詮は他人事なんだが。

 Hazratbal モスクというのをみにいってみたがあんまりおもしろいもんでもなかった。まわりのバザールがいいかんじだったくらいか。

 湖の中の小島へいくモーターボートがあって、ちょうど出るところだったが乗らなかった。50Rsだった。対岸までいくのなら乗ったかも。

 ジャンムー行きのバス、朝発の安いのは267Rs、高いのは500Rsらしい。10時間だとか。スリナガル発でもいいような気がしないでもない。朝の鉄道に乗ろうとすると、TRCに7時くらいにいっておけば駅行きのバスにのれるらしい。やはり昨日はバスがもう出た後だったんだろう。

 来る前はもしインドにもっといたくなったら金出して帰りの飛行機を変更すればよいとおもっていたが、今となっては延長する気はないし、もうすこし早めでもよかったとおもっている。インド飯スパイスいれすぎでつらい。貧乏飯が食いたい。


2013/08/23 金 スリナガル

 最近昼寝しているので午前2時頃に目がさめやすい。午前2時頃目がさめる → 夜中に作業をする → 昼寝しやすくなる。 まぁそれくらいの時間は静かでよいので悪循環ではないかもしれない。

 もらったPDFに目次をつけた。
 もらったPDFにもともと目次がついていたということだったのでみてみたが、自分でつけた方が完璧なのでまぁ無駄ではなかった。

 今日は激流さんの予定が急にあいたということで、鉄道に乗ってきた。
 今インド政府はカシミール盆地とインド平原を繋げる鉄道をがんばって作っているらしい。盆地内の線はできて今はジャンムーと盆地を繋げる山岳地帯の作業に移っている。あと5年くらいかかるらしい。今のところはカシミール盆地の南の峠を一つ越えたところバニハルまで駅ができている。
 スリナガルは南のすこし離れたところに駅があり、そこまでいくバスにうまくのれなかったので激流さんの金でリキシャにのったが、リキシャが道をまちがえて変なところに降ろされた。最初TRCにいくとバスはラールチョークからと言われたのだが、もう出たという意味だったのかもしれず結局どこから乗れるのかよくわからない。

 列車の乗りかたはなかなか無茶苦茶だった。ホームの乗客分布と列車の車両の分布があっていないが、乗る方は近くにある乗り口に殺到してものすごい騒ぎとなる。すこし乗り口を移動すれば簡単に乗れるのだが...

 車窓の景色ははっきり言って単調。どこまでいっても田んぼか森である。集落から離れたところを通るようにつくったようだ。どこも駅と集落がかなり離れていて森の向こうになってしまい、沿線には警備隊と若干の住宅の他は何もないようにみえる。

 この鉄道の目玉であるトンネルだが、通過に10分ほどかかる長いもので、山の随分手前から入り、山のかなり先から出るので、いつ突入するのかタイミングがよくわからない。
 乗客は鉄道がはじめてなのかいちいちおおはしゃぎなのだが、トンネルに入ったら窓にたかって出口を眺めていた。

 バニハル側に出ると急に気持ちのいい景色になる。空気も乾燥してるのか、やけに遠くまで見える。

 来てからわかったのだが、同じ車両が折り返し運転している。そのまま戻るなら降りずに同じところに座っていればよかったのだが、昼飯をくうつもりだったので駅から降りた。ただ、すぐ近くにバザールなどあるだろうとおもっていたところ、数キロ離れたところまで歩いていくことになり、結局折り返し運転には間にあわず、3時間くらい待つハメになった。

 ちなみに写真二枚の手前にうつってるリュックの男が激流さん。
 駅から降りるとジャンムー行きのバスとかジープとかが客引きしているが、バスに値段を聞くと230Rsと言ってた。鉄道20Rsにバス230Rsで300Rs弱でジャンムーまで行けることになる。早朝の鉄道に乗れればかなりいいのだが問題はスリナガル駅まで遠いということだ。リキシャなどつかうと値段でのアドバンテージはすぐになくなる。

 乗客のみなさん写真に撮られたがる人たちが多くておもしろかった。

 今日は激流さんがなりゆきで二人分の金を出してしまうことが多くさすがにちょっと不機嫌だった。


2013/08/22 木 スリナガル

 「帝国主義の鎖の弱い環」ってのはロシアで革命がおきたことを解釈するためにレーニンが言いだしたものなのか。で、その時点で「マルクシズムの歴史的諸条件に基く発展」と屁理屈をコネたのでレーニンの理論から離れられなくなったわけだ。なるほど。
 その屁理屈にしたがって選ばれた攻撃地点がイギリスの「植民地インド」と「半植民地の中国」ということらしい。結局英露のグレートゲームが変質しながら続行していただけなのか。

 チャイナチャイナといわれてうざいので昨日放置していたヒゲを剃った。香港映画に出てきそうなハゲでヒゲの悪役、たとえていうならキラーカーンみたいな感じになっていたせいかもしれない。剃ったら感触がよくなった気がするのでこれからちゃんと剃ることにする。

 タジキスタンでタージキスターンがトージキストーンと聞こえる問題だが、ā の後舌・円唇化として現代ペルシア語にある傾向であるらしい。

 今日はカシミールの公的機関は休みであり、激流さんがチャラリシャリフというとこにあるシェイフヌールッディーンの廟に行くというのでついていった。ちなみに何を見に行くのかよくわからずついていった。
 スリナガルの南にくだり、チャードーラというところで川をわたって登りになり、丘陵を縁まで登りきったところにあるのがチャラリシャリフ。地図でみるとこのへんの丘陵地帯の中心になるようだ。

 廟自体は最近作ったもののようで、内装は木をたっぷり使った豪華なもの。まぁ日本ならこれくらいのものはそんなに珍しいものではないが、インドにしばらくいるとこの水準の工作かつ木製というのが珍しく、新鮮に見えて写真をバシバシとってしまった。
 ここは観光客がほとんど来ないところなので地元の人の反応がスレておらずおもしろかった。ついていってよかった。

 ↑みんなそれなりにポーズをとっていたりする。

 そういうとこういうところで御布施すると砂糖菓子とかくれるのだが、そのうちの一人が新聞紙の小片の小さな包みをくれたので帰ってから砂糖菓子だとおもって中身をみたところ、なにかの灰みたいなものが入っていた。どうしたらいいのかよくわからない。

 ヌールッディン自体は実のところヒンドゥーかムスリムかよくわからんそうだが、今ではカシミール文化を代表するムスリム最初の聖者として崇められているらしい。建物も歴史のあるものだったが、1995年に武装勢力とインド軍の戦闘にまきこまれて燃えてしまったそうだ。Wikipediaにはアフガン時代の19世紀初のころの一時期コインに名前が刻まれたことがあると書いてある。なんでそんなことしたんだろう。

 スリナガルにもどってタクシースタンドのちかくの飯屋でダルチャーワル食ったがひさしぶりに腹いっぱいになり、帰って昼寝した。

 スリナガル駅まではTRC(ツーリストレセプションセンター)からバスがでている。
 スリナガル駅から南開通しているのは峠を越えたところのバニハル駅まで。


2013/08/21 水 スリナガル

 また下痢ってきたがその原因はどうもこないだ店で食った果物入りヨーグルトっぽい。変な味がするといいながら食ったがその変な味とおなじにおいがするんだからあれ以外にないだろう。これ変だろというようなものが堂々と出てくるんだから店の食い物が信用ならない。昨日なんか疲れが早かったのは腹の中で下痢が進行していたからかも。

 オムロンパーソネルが仕事を紹介したくてうずうずしているらしいので10月以降におねがいしますということにしておいた。

 虫だが昨夜はあんまり噛まれていないようだ。なんか毛布の上にいたのでつかまえて潰したら小さいクモだった。残念。昨日の朝潰したのも暗くてはっきりしてないので南京虫ではないのかもしれず、噛みまくっていたのは本当に蚊の類なのかもしれない。

 そもそもパタンコットから東へいくカングラ鉄道があるな。

 うしろの山にのぼってきた。
 山の上にはシャンカラチャルヤとかいうヒンドゥー教の寺がある。今日はなにかのおまつりらしく人がいっぱい登っていた。ネルー公園の方の登り口から登ったのだが、これは自動車道なのでバカ正直にその道に沿って歩くと距離が長い。やはりというか、ショートカットする道があったのでそれをよじのぼっていった。

 途中からわりと素直な登山道に合流したので、徒歩の登山口もどっかにあるんだろう。しかし要所要所に軍がいた。自動車道のある方面の眺めのいいところには近づけなかった。普通の登山道で登っていっても途中の一部は軍の指導でたどれない。今日だけなのかいつもなのかはわからない。

 上の道につくと道ぞいにものすごい人出。露店も延々とつづく。さらに登っていくと行列がある。これは寺院の敷地に入るための身体検査の列だった。しばらく並んでみたが長い上に全然動かないのであきらめた。そもそも携帯など電子機器ですら持ち込みできないらしい。
 ここの石造寺院も最初の部分は6-7世紀ということになっている。

 ココナッツの粉菓子とリンゴとシヴァかなにかの画像のはいった名刺大のカードを配っていた。それをもらってさらに西にいってみると徒歩の登山道がある。それをたどって降りていったが、そっちからも登る人がたくさんいた。シク教徒も結構見かけた。あと五体投地しながらお参りするインド人の団体があった。おもしろいのは手で棒をもち、五体投地するたびに線をひきながら進むのだが、その線を引くところは手のとどいたところではなく、棒の先なのですこし棒の長さの分得をしながら進んでいることになる。さすがインド人。

 そういうことで撮った写真を合成してパノラマ写真を二枚つくってみた。

 例によって例のごとく、帰ってきたら二時間くらい寝た。

 夕方シャリマール庭園に行ってみた。バス10Rs。入園料10Rs。しかし中はまだ工事中だった。

 庭園の外からみると水が流れ出しているのでちゃんと庭園として機能しているようにみえるが、その実一番下の建物に水を流しているだけ。たぶん下の方から順番に修繕しているんだろう。
 シャリマール庭園自体そんなに構造物が多くなく、庭園の上の方から流れている水路に沿って庭園が設置されている形になっている。まぁつまり庭園の主役は水なのだが、その水が流れていないのでいまいちな感じがある。

 構造物で一番目立つのが一番上流にあるこのたてもの。内部はなかなか豪勢で見応えあるが、よくよくみると観光客の落書きだらけでひどい。こんなの修復できるんだろうか。全部塗りつぶして描き直しとかになるような気がする。
 まぁ廃墟だったのをここまで修復したんだろうからどっちにせよ創造的修復をしないといけないんだろう。最下流の水が流れているところは噴水も機能していたが、よくみるとその噴水の口のノズルがなくなって噴水がショボくなっているところがある。修繕してすぐ紛失してるんだから世話ない。すぐボロボロになるんだろうなぁ。
 そういうとここは10Rsと安く修繕中なせいか、出口を見張る人がいないので出口から入り放題だった。実際物売りが入ってきていた。
 芝があり巨木があり植え込みがあって、そういう公園としてはいいところだとおもう。ちょっと芝生の木陰で寝てみたがのんびりできた。

 シャリマール庭園に行く途中にニシャート庭園もあるのだが、こっちの方が構造物は多いように見えた。でもこっちも10Rsなので中に入ったらどうなるのかわからない。


2013/08/20 火 スリナガル

 今朝南京虫みたいなのを一匹つぶした。蚊取り線香を焚いて寝たのだが、新たにたくさん噛まれたりはしていないようにおもう。うーむ。まぁ蚊取り線香はしばらく続ける。
 南京虫の天敵はゴキブリか。世の中よくできてるな。

 今日はラールチョークの西のゴニカンにバスで行ってそこから北に適当に歩いて城山の方に向かおうとしたが、途中で道を聞くと、高校生みたいなのがグングン道を案内してバスに乗せてくれる。しょうがないのでおとなしくそれにのっていったら、なんとラールチョークからダルゲートともどってさらに城山の東の門、つまりグルドワラのあるところまでつれてかれた。しょうがないのでそこから城山の西の方まで歩いていっていった。

 まぁとりあえずジャーミマスジッド行って中をくるくるみた。

 その後ナクシュバンディの方にいったが、礼拝の時間だったせいかチケット売りみたいなのが見当らない。しかし礼拝の時間なので建物の中には入らなかった。チケット売りは出るころにはいた。

 全体に木製なんだが、軒先に吊りさがっている風鈴のようなものまで木製っぽい。こうして並べてみるとジャーミマスジッドと似てるな。
 こういう木造の系譜ってどこまでさかのぼれるんだろう。8世紀とか9世紀の石造のヒンドゥー寺院の遺跡なんかがあるからずっと木造というわけでもなさそう。仏教とイスラム教が木造メインだったから仏教の残存が全然ないとかそんなんだろうか。

 今日は腹の具合ももどって久しぶりに長距離ダラダラ歩いたせいかなんか疲れた。天気がよいのに水を持っていかなかったのもあるんだろう。遅い昼飯を食って帰ったらすぐ寝てしまった。

 インドの鬼怒川 マニカランで温泉三昧 [世界攻略ジャーナル]
 マニカランやっぱりいいな。

 アーディルさんによるとキシュトワルの奥にあるタッタパーニーは夏冷たく冬熱い類らしい。

 パタンコットからマナーリまで行くバスがあった。ジャンムーからマニカランまで案外簡単に行けそう。


2013/08/19 月 スリナガル

 グル・ハルゴービンド - Wikipedia
 Guru Hargobind - Wikipedia
 昨日行ったグルドワラはシク教の第6代グルのグル・ハルゴービンドを祀ったところだったが、グル・ハルゴービンドはシク教団の武装を始めた英雄らしい。グルドワラではここで死んだとおっさんが言っていた。
 日本語の方にはカシミールで死んだと書いてあるが、英語版ではパンジャブのルプナガルで死んだことになっている。うーん?
 あとあの歌っていたのは教典らしい。
HistoricalGurudwaras.com, e journey to Gurudwara Sahibs
Gurudwara Manji Sahib - Srinagar - Gurudwaras of World
 どうもグル・ハルゴービンドがスリナガルに来たとき作らせたもので、祀っているわけではないようだ。

 隣の日本人女性だが、宿のおやじのチューは拒否したと言いはっているがまぁどうでもいい。彼女が宿のおやじから得た情報によると、焼き芋シンジさんは例の家族の姉妹と関係をもっていたらしい。シンジさんはバレてないとおもっているらしいが、このあたりの日本語使い業界では皆知っている事らしい。そりゃそうだ。おれも最初にすぐそう疑った。で、妹ということになっていたのは妹の娘で、妹は既に死んでいるらしい。で、シンジさんはその三人みんなと関係を持っていたとこの辺の人は皆おもっているらしい。で、結婚してとかなんとか言ってたあの女(妹の娘)には婚約者いるらしい。そもそもシンジさんはここに数年とかではなく20数年来ているそうだ。
 姉の方はどっかと結婚して離婚だなんだという話になっているが、離婚なら賠償金みたいなのを払うという話にもう落ちついているそうだが、姉は離婚するつもりはないらしい(その日本人女性の観察)。しかしシンジさんは最近不如意なのでその賠償金を一部もらえるのをアテにしているとか。今まで貢いだからいいだろということらしいが貢いだ金を返せというのも勝手な話だ。

 夜中に何かに刺されているらしく、足や頭などが痒い。カルギルのインド人ドミトリーには何かの虫がいて足首などをモゾモゾ動いていた。スリナガルの初日の例の家で両腕の内側をたくさん噛まれた。この宿に来てようやくそういうのと無縁になれるかとおもったが足首と頭と耳を噛まれて痒い。蚊がいるのは確かなので蚊取り線香を買ってきたが、効くかどうか。
 寝てるときはシャツパンツに毛布をかぶって頭と足首出して寝ているので蚊など飛ぶ虫の可能性が高いのは確かだ。南京虫とかがこのベッドに住んでたらもっといろんなところ刺されているはず。しかし噛まれたあとが硬くて小さく丸いコブになって痒いので面倒くさい。

 朝飯のあと激流さんとブルバード通りの対岸のあたりを探検してみたがゲストハウスなぞがいっぱいあった。湖に面しておりなかなか雰囲気のあるところだった。バックパッカー宿みたいなのもあった。普通にこのあたりに泊まるのもいいのでは。

 スリナガルを攻略 - ハウスボート編 [世界攻略ジャーナル]
 ハウスボートの起源はイギリス人が建物をたてられなかったから家を湖の中につくったのがはじまりとある。いつごろからそれが避暑地のホテルに変貌したのか?イギリス人がひきあげたインド独立後に残されたボートを使って商売しだしたのが始まりだろうか。
 ハウスボートもちゃんとさがせばそんなに高くないところに泊まれるようだ。


2013/08/18 日 スリナガル

 夜中に目がさめたら隣の日本人女性と宿のおやじまだうるさく話してる。どうも宿のおやじがくどいているがなかなか渋っているらしい。胃がまた熱くなかなか寝れないのでとりあえず横になって休む事に集中していると、2時半くらいにようやく静かになってチューしだした。3時くらいにはおやじが帰っていったがギシギシアンアンの声は聞こえなかった。チューの音が聞こえるくらいだからギシギシアンアンになればもっと聞こえるはずだが聞こえなかったということはなんかの不都合でやめたんだろう。
 普通の部屋は四方を壁に囲まれていてそういう音は聞こえないが、ここは隣のトイレとこっちのトイレの上部が採光と換気のため繋がっている。したがって 隣の部屋→木製のドア→隣のトイレ→こっちのトイレ→木製のドア→こっちの部屋という形で音が伝わることになり、トイレで増幅されるのかしらんがそれくらいの音は聞こえる。
 こういう形で各観光地の日本語使いは育成培養されるのかとおもうと日本人女性単独旅行者の地道な努力に胸熱(違

 ひさしぶりの快便。下痢は治った。Norflox-TZ すげー。

 今日は激流さんが前回の写本の撮り残しをコンプリートしにいくというのですぐ終わりそうだからついていってみたが、その図書館閉まっていた。しょうがない。その帰り、シク教のグルドワーラーから音楽が流れているのであれはタダ飯が食えるんだろうとおもって行ってみたら本当に食えた。うまかった。

 ついでに激流さんがシカラというスリナガル名物の舟にのってみようというのでのってみたが、座席の形が肩を並べて足をのばすようになっている。おっさん二人でのるもんじゃないな。それはそれとして舟にのってプラプラただようのはなかなかよい。観光名物になっているだけのことはある。

 雨が降ったりやんだりで出歩くにはまだまだ。午後は各自読書でもするということで解散した。

 夕方激流さんとラールチョークの西側のゴニカンに行って商業区域がどれくらいの広さなのか歩いてみた。日曜で店がそんなに開いていないせいか、あんまり広く感じなかった。ラールチョークにインドのケンタッキーみたいなチェーン店があったのでそこでデカいバーガーを買って帰って食った。

 インドの伝統的アイスクリームを Kulfi というらしいが、これを食ってみたら普通のアイスクリームよりも物質感がある。帰ってバーガーを食いながら調べてみると、成分の中に豆が入っている。それの固形感だろうということになった。


2013/08/17 土 スリナガル

 ようやく出てきた。結局下痢は治ってないが液体ばかり飲んでるせいだろう。ゲップの異臭はなくなった。また、胃が熱い。うーむ。

 今日もストライキの呼び掛けがあり、結局店は閉まっていた。昼ごろ、中心部で飯でもくおうとおもってラールチョークまで歩いていったがそのままミニバスにのって帰ってきた。結局ダルゲートでバナナとヨーグルトを買って食った。

 店は閉まってるが路上販売は結構やってた。でもこれでも少ない方なんだろうな。
 ラルチョークまで歩いた感じではまちがいなくダルさとかはなくなっており、まぁ体調としてはほとんど回復したものとみてよかろう。

 例の盗難一件も午後動きがあり、隣の日本人女性に、例の家族の妹が4000ルピー渡すという形でとりあえず収めることになった。警察に行かれると賄賂とかなんとかで大変面倒なことになるらしく、それでこういう形でおさめることになったようだ。最後まで盗んだとは認めていないが、最初のうちは「なくなった分」から500ルピーx3泊分を引いて返すとか言ってたあたり、まぁ認めたも同然だろう。あーめんどくさ。こっちの金もたぶんすこし盗まれてるんだろうけどまぁいいや。
 で、一応の決着に尽力したこの宿のおやじと隣の日本人女性が飲んでいたり今日は宿に客が多かったりして結構うるさいが知ったことではないので寝る。


2013/08/16 金 スリナガル

 Norflox-TZ だがどうも強すぎるのか胃に熱いものがたまって夜中に目がさめて吐きそうになった。おそらく胃から小腸のあたりが敵の本丸なのではやいとこ小腸の方に流れていってほしい。そうでないとまた吐きそうだ。
 そもそも昨日買ったときにさっそく一錠飲んだのだが、水なしに飲もうとしたので喉につっかえてしまい、唾液でのもうとしているうちに吐き気がして一錠無駄にしてしまった。体が拒否してる感じがあるがそれだけ強いと効くような気がする。
 もっとも錠剤には真ん中に筋が一本いれてある。割って飲むようにもできるんだろう。箱も説明書もないのでわからない。

 朝になったらとりあえず胃は通過してくれたみたいだ。ダルい感じがなくなっている気がする。

 1911年のマレーのインドガイドブックにはスリナガルのハウスボートのことは載っていない。

 スリナガルでインドの独立記念日にストライキやってたのはそういうことになっているのではなくて、政党がそういうよびかけをしたかららしい。

 カルギルからのタクシーでいっしょだった日本人女性から車中で聞いた話だがWayToRussiaの空バウチャーつかって東京のロシア大使館でビザを取ってモンゴル→モスクワ→カザフと経由したという。本当に簡単に取れるらしい。ということで日本に帰ったらまだ寒くならず金のあるうちに樺太→アムール川→ウラジオストックでもやってみたい。帰りはウラジオ→東海→境港のフェリーとかでもいいし中国に入って丹東にいって北朝鮮にちょっと入ってみるのもいい。

 ロシア観光ビザの申請手数料は翌日24000翌々日8000一週間後4000二週間後無料らしい。

足比較
稚内~コルサコフ 時刻表 - ハートランドフェリー 25000
舞鶴~小樽(フェリー) ツーリストA 9300
都市間バス時刻表 札幌ー稚内 6000
北海道&東日本パス - Wikipedia 10000
サハリン航空(UTSエアサービス株式会社) 大阪-新千歳-ユジノサハリンスク 片道56100円 + 2700 + 1000 + 300 サハリン航空から直接買える。それほど安くない。
 一番安いのは東京まで高速バスで行ってそこから北海道&東日本パスで稚内を目指すのだが時間がかかるので食費で金がかかる。フェリーとバスの組み合わせが時間がかからずそれほど差がないのでまだマシ。アシアナでソウル経由というのもあるがちょっと風情がないしそれならサハリン航空をつかう。

 今日は博物館に行った。
 激流さんと合流して朝飯を食いにいったとき、電線から直接盗電しているのをみかけた。棒をつかって器用に針金をひっかけていた。たぶん朝とか夜の短い時間だけ使っているんだろう。

 で博物館なんだが、外の掲示には写真2000Rsとある。しかし中では500Rsでいいぞとか言っていた。SriPratapSingh 略してS.P.S博物館ということで人名を冠しているのは19世紀末の設立者なのだが奇人の気でもある人なのか、中の展示物も珍奇なものが多い。なにより人類学標本の風俗見本のマネキンの端に自分の像をまぜているあたり珍奇度が高い。残されたカシミールの石造物なんかも珍奇なものがおおくて写真にとって後からじっくり眺める価値はあるとおもう。ただ博物学の時代のまんまの展示で説明は雑すぎるし着色された剥製標本とか並べてあったりしてどうなのかとおもう。ミニアチュールは見れなかった。
 19世紀前期のスリナガルの簡単な地図を編みこんだ布があったが、それをみると湖のところ一面に船がいっぱい浮かんでいる。船の民で満ちていたんだろう。ハウスボートの原型か。


 で博物館に行くまえにちょっと時間があったのでスリナガルの商業中心であるラールチョークにいってタオルをさがしてみた。たしかに賑やかで数日ブラブラするにはいいとおもう。この辺に安宿があれば、沈没する人とかいるんじゃなかろうか。得体の知れないハウスボートなんかよりよっぽどいい。ホテルとかあったので安宿もありそう。

 で博物館をみたあと激流さんがいるはずの研究施設の方へいこうとしたが、朝一回見たことのある警備兵が、「友達あっちにいった」とかいうのであっちの方にいっても市バスが客引きしてるだけでよくわからん。もう疲れたしいいやというので帰って宿のWifiでロシアの情報をしらべてた。(写本の置いてある施設が二軒隣だっただけだった)
 隣の部屋に人がいるとは思ったが、なんとそれがカルギルからいっしょに来た日本人女性だった。ジャンムーに行くにも閉鎖されていて行けず戻ってきてアーディルさんの世話になってここに来たらしい。で、例の家で結構な額を盗まれたので今金を取りかえす算段をしているとか。
 実際ここに来てから所持金を勘定するとちょっと減り方が多い。おそらくは500-1000ルピー程度ではあろうが盗まれている可能性があるとはおもっていた。うーむ。

 NorfloxTZ効きすぎでこんどは出てこない。


2013/08/15 木 スリナガル

 スリナガル観光の巻。
 激流さんと朝合流。雨が降ってしかたないので傘を買う。飯をくったあと、旧城内。

 山の上の城は軍が今もつかっていて入れない。たしかに立派な山城だ。こんなところに立てこもられてカシミール独立とかやられたら困るからしかたないのだろう。

 その山の下の方にある聖者廟へ行くのだが、そこまで登る途中に石造りの古い建物があった。ロンプラ様によると 1649年につくられた Akhund Mullah Shah モスクらしい。聖者廟では激流さんがペラペラしゃべって歓迎されてた。カシミールの聖者伝を書きのこした人が聖者廟に祀られているというのもおもしろい話だ。

 その後ジャーミマスジッドにいくが入れない。今日は軍が閉鎖したらしい。英語つかう奴がカシミール独立について熱く語っていた。今日はインドの独立記念日なのだが、カシミールは独立記念日にはストライキをすることになっているそうだ。だから店が全然開いていないらしい。

 城から始めてその西南をちょろちょろまわるという案を地図みて言いだしたのは自分なのだが、回っているときは地図とか見ることなく激流さんにおまかせでついてまわっていた。しかしまぁ研究対象にしているような人にすると、"دار ال علم" 程度の初歩的な文章をみて「これどういう意味」とか聞いてくる人間を案内するのはつまらないものかもしれない。ちなみにعلمについては前にも何回かこれどういう意味と同じ事を聞いた覚えがある。何回も聞く方も聞く方だ。なんか書いていて自分も申し訳なくなってきた。

 そういうわけでハマダニーのハーンカーに行くときには "Khanqah-e-Muala" としか言ってくれずそれがハマダニーのことだと気付くのは大分近づいてハマダニーの名前が看板などにでてきてからだった。まぁそれもロンプラ様にはちゃんと書いてあったりするのだが。

 これで今日の観光は終了。帰って昼飯食って解散したわけだが、人といっしょに回ってみて、やっぱり腹の具合が悪いと能力が随分落ちることがわかったので、前からおすすめされていた Norflox-TZ を分けてもらうことにした。
 分けてもらう約束をしたにもかかわらず、その後タオルをさがしに外出したときに開いている薬屋をみつけ、Norflox-TZ があったので買って飲んでしまった。まぁ効けばいいだろう。タオルだが店もほとんど開いておらず、結局みつけられなかった。アーディルさんによればこの辺では売っておらず新市街の方に行って買うものらしい。


2013/08/14 水 スリナガル

 さて昨日からのスリナガルの「ホームステイ」の宿のことはまとめてこの日の分に書く。
 旅行ズレしたような日本人女性についていった「ホームステイ」の宿だが、しきりにタダだ、とか家族同然だから家にいるようにゆっくりしていったらいいとかいう歓迎ぶり。なんか妙な気分だ。妙な気分だというのは、歓迎されて落ちつかないという意味ではなく、歓迎ぶりがなんかおかしいという意味だ。着いた時点ですぐ後悔の情が湧いてきた。この家は女二人男二人の姉妹兄弟だけで住んでいるようだ。「やきいもシンジ」とかいう人物の名前がしきりにでる。シンジさんはここに数年間シーズンになるとやってきて泊めてもらいスリナガルで焼き芋をやっていたらしい。日本人女性もそのシンジさんの紹介で来たそうだ。しかもそのシンジさん、この家(というよりその妹の方)と一日に10回も電話しているという。そりゃちょっと変じゃないか? 実際携帯越しにすこし話をした。どうもその筋では有名であるらしい。しかもカシミール語もペラペラらしい。mixiのコミュの運営もしているらしい。ただの遊び人ではなさそうだ。
 まぁとりあえず飯なんかも食ったが、その兄弟姉妹の妹がなんか妙で、おれの顔を露骨にジロジロみてきてイロイロ話しかけてくる。いやオレみたいなハゲのおっさんに見入るのはおかしいだろとおもいつつ美人にジロジロみられてうれしくないわけないのでニヤニヤしていたが、そのうちおかしい事をいうようになる。
 なんか下腹部をおさえて「下が痛いの」みたいな事を言ってきたりするわけだ。その時点で露骨な誘惑なのかなにかの病気で痛い事を訴えているのかよくわからんようになってきた。さらに泊まりに来た二人を別々に寝室の方につれていって、自分の方には妹が、女友達とかいないなら結婚してとか言いだしたり(断わった)、湯で体が洗えるということで洗い場(トイレ)に行ったら案内した妹が去らずに例の下が痛いを言いだしたり(変な顔したら戸を閉めた)、寝る部屋はふたつの部屋で四人兄弟の間にごろ寝ということで、男部屋女部屋に別れるのかとおもったらなぜか女部屋の方で妹の横に寝かされたり、おかしいだろというようなことがつづいた。
 オレに結婚してとか言う時点でたぶん金持ち国の日本人ならだれでもいいんだろうなということがわかるが、まぁしかし気をひいて長居させる手法なのか本当に金持ち国日本にいきたいのか欲求不満を行きずりの旅行者で解決なのか罠にハメようとしているのかよくわからない。

 そのあたりいろいろ本当はこうではないかと妄想したが、あとで情報を探してみると「やきいもシンジ」さんが結構ダダ漏れでその邪推を訂正するところもあったのでその妄想は書かないでおく。妹には結婚歴がある事と何らかの病気を抱えていることがわかったのでまぁ人間だからこういう日もあるのかもしれない。病気とか結婚歴とかあるのは姉の方だった。妹の方はそういうのないのだからあんまり解釈の余地ないかも。
 やきいもシンジさん情報をみているといかにも彼等が愚かな選択をしているような感じだが、やきいもシンジさんがかかわったことが逆に事態を悪化させているということは考えられないのだろうか。普通に欲も打算もある人並の女性に、金持ち国の人間がATMの如くボンボン金を出していればそりゃ金銭感覚もおかしくなるだろう。観光地にたくさんいる小悪党ももとから小悪党だったわけではなく金持ち国の人間がボロボロ大金を落とすから小悪党をやっているのだ。
 そもそもインドに転がってるような旅行者(自分も含め)がこぞって無縁の民家にタダでホームステイなんてタカリ以外の何者でもないのだが。
(後日情報追加あり)

 何にしてもこのままではそのうち面倒な事になりそうな気がするので来た以上は一泊するがそれだけでやめることにして、着いてすぐその家から激流氏の知り合いのアーディル氏に連絡した。このアーディルさんもスリナガルでは有名な日本語使いらしく、その家でも知っていた。
 今日の朝になると激流さんから電話があり、大学の用が済んで戻ってくるのが午後2時くらいとのことでその頃に会うのを約しておいた。で、それまで面倒な事がおこらない事を祈りながらとりあえず寝っころがって日記を書いているとまた妹がやってきて、貧乏なのとか稼ぎがどうとかいろいろ言ってくる。そのうち金の無心をするようになってきた。うーむ。病院に行くのにお金がいるの、とかいうので額はいくらだときくと300ルピーとかいう。まぁ世話になっておいてあれだがなんか腹たってきた。そのとき小銭がなかったので500ルピー札一枚置いて荷物をまとめて雨の中出てきてしまった。
 こうして自分も金持ち国のATM的振舞をしてしまったわけだ。

 昨日から雨がふりつづいていて梅雨のようだ。気温もそんな感じ。

 旧市街だと聞いていたが、どうも新市街だったようで、イギリス的建物のならぶ町並みとなっていた。ダル湖のある方にアーディルさんの家があるらしいので住所をたよりに行ってみたが、結局わからずダル湖岸を行ったり来たりしていたので警察というか軍というかそっち関係の人に目をつけられた。どうもどこにいっても胡散臭くみえるらしい。それとここにはホテルを軍関係の施設に転用したところが何箇所かあった。後で聞いたところによると裏山が重点警戒地区らしい。
 ダル湖の湖岸にはボート乗り場が何箇所もあったが雨で客があんまり来ていないのか、舟にあつまってボーっとしている船頭がたくさんいた。

 その後、なんとかアーディルさんと会えると宿紹介してくれた。家の改装作業中で、それがもうすこし進んでいればとりあえず寝るだけの部屋があったようだ。宿の値段はおそらく特別価格なのでここには書かない。まぁ二週間いるんだし。
 その後寝てしまったが、夕方には激流さんとも再会できた。明日はインドの記念日で公的機関がやすみということで、スリナガル市内のめぼしい観光地点をとりあえず案内してもらうことになった。以上。眠い。寝る。


2013/08/13 火 カルギル → スリナガル

 パンジャブ飯屋のおっさんが朝の6-7時にスリナガル行きのタクシーがあり600-700Rs、夜のバスは450Rsと行っていたのを真に受けて朝6時前に起きていろいろさぐってみると、バスは夜しか走っていないらしい。今から夜まで待つのはバカらしいし第一夜走ったら風景が眺められない。で、タクシースタンドに行くとたしかに車があるのだが、800Rsだという。どうも早朝すぎてだれもおらずタクシーを選べる状態ではない。パンジャブ飯屋のおっさんの情報は古いんだろうとおもい、ヒッチハイクすることにしたら、交通整理の警官がこれから出る準備をしているトラックをつかまえてくれた。しかしこのトラック、これから荷物を降ろしたり積んだりするのでそこで待っていろという。

 二時間くらい待っていると昨日からの移動の疲れが体に来たのか、立っていると頭がくらんできたり、急に便意を感じてトイレをさがしてうろうろし、結局パンジャブ飯屋の宿まで行ってゲリって来たりした。もうなんか体がしんどい。トラックらしいのが便所を探しているうちに見あたらなくなった事もあって待つのがイヤになり、タクシースタンドに行ってみると今度は運転手がいっぱいいて客引きも盛ん。7時くらいに行っておけばよかった。
 やっぱり800Rsと言ってくるが600Rsというとすんなり受けいれる。タクシーの中でハーハー言いながら寝ていたらまた他の客もつかまえてきた。他に日本人の旅行ズレしたような女性もつかまえていた。あとで運転手が「800Rsだということにしといてくれよ」と念を押してきたのでこの運転手は信用できるとおもった。

 しかし客は全然あつまらず、午後1時半になってようやく出発したのだが、しんどくて寝ていたのでなんということなかった。ただ、タクシースタンドでは「2時タクシー出発」とかしきりに言ってたので、タクシースタンド業界では午後2時出発が了解事項になっていたようで、それ以前にあわてて出発しようとしてたこのタクシーはなんか複雑なことをしていた。なんであわてていたのかはスリナガルに到着したらわかった。6-7時間かかるのでゆっくりしていると日が暮れるのだ。
 しかしこのルート、山を一つ越えたらパキスタンというだけあって、兵隊だらけなのでどうも写真とりづらかった。

 だんだん風景に湿り気が増えてきたのはいいのだが、雨もザーザーぶりになってきた。

 カシミールの盆地へ入る境目の峠を越えると急に山に緑が増えるが、同時に雨と雲でよくみえない。さらにタクシーに前後して兵隊を乗せた車が走っているのでなんか写真も撮りづらい状況になってしまった。

 ところで同乗の旅行ズレしたっぽい日本人女性だが、旧市街にホームステイするというのでいっしょにどうですかとかいう。どうもそういう旅行者の間でスリナガルの宿の情報はホームステイということになっているらしい。下心がないわけでもなかったがホームステイだし体も元気でもないのでそういう事をする余地もなかろう。その女性も二三泊程度だということなのでまぁ旧市街のホームステイがどんなもんか一泊してもいいかなとおもいついていくことにした。問題は金を取るか取らないかよくわからないということだった。その女性の話を総合するとどうも寸志程度は置いていくようだが。
 スリナガルに着いたのは日が暮れる直前で、リキシャーで迎えに来てくれるのを待っていたら日が暮れた。この宿のことは明日の分に書く。


2013/08/12 月 レー → アルチ → ラマユル → カルギル

 レー → アルチ ミニバス 90Rs
 アルチ → カルシ → ラマユル 車 ただ
 ラマユル → カルギル トラック 200Rs
 長々と滞在したBabuゲストハウスの宿代を清算して朝出発。まずはアルチ。
 リキルに行くという日本人のおっさんとミニバスでいっしょだったのでダラダラ話しながら行った。なぜかミニバスにのったとき、窓際にずらりと座った一団がいて、軍事地域を過ぎたら降りていったが、被害妄想の目には写真をとらせないためのフォーメーションにみえた。

 アルチゴンパ 50Rs
 でアルチゴンパは行ってよかった。カシミール仏教美術とか中期密教とかそういうのはさておいて、中世の息吹みたいなのがそのままのこっているところがよくすごかった。写真はとれないのだが、外のチョルテン数個の中にも似たような壁画があったのでその写真をのせとく。

 アルチゴンパから歩いてインダス川まで戻る。橋のあたりに吐蕃遠征軍の刻んだ文字があるとかなんとかいう話だったがみつけれなかった。

 国道までもどってヒッチハイクするとすぐ車がつかまるが、カルシのチェックポイントで降ろしてくれる前になんでかしらんがこの辺の名産のアプリコットの小袋一袋を買ってくれた。ちなみにその人によると種が白いのが上等らしい。
 カルシのチェックポイントで待ってるとすぐに白人ギャル二人を乗せた車がきたのでそれに乗せてもらった。来る途中その白人がヒッチハイクしているのをみかけていたので、ついでに乗せてもらったのだ。まぁしかしその車は謎で、どこに行くのか聞いたらカルギルといい、今旅行中とかいいながら、カルギルまで乗せてくれというとダメといい、しばらくラマユルで待っていたら戻ってきていた。何の仕込みなんだか。


 で、ラマユルゴンパだが、登っただけで入らなかったのは間違った選択肢ではなかった。ゾラワルフォートの戦史にもちょっと顔を出していたが、やはりそのときに破壊されて今あるのはその後再建されたものらしい。しかし、ゴンパの先にあるセンゲガンという小さいお堂が一番古い建物で見甲斐があったようでそれは見といたらよかった。

 もう夕方だったわけだがカルギルに行きたかったので必死にヒッチしていたらトラックがつかまったがこれが200Rsとると言う。レースリナガルのバスの運賃から逆算したらそれくらいだがたぶん逆算してそう言ってるのか。途中からのったおっさんが変だったり(スリ?)、降りるときに余計に金を取ろうとしたりいろいろあったがまぁ22時頃にはカルギルに着いた。パンジャブ飯屋があったのでそこで聞くとスリナガル行きのバスは22時半でその前で停まるという。ただその飯屋の二階が宿のような気配だったのできいてみたらドミトリーで100Rsだという。もう無理して進まず寝ることにした。

 今からおもえば無理して進まずラマユルで泊まって翌日進めばよかったように思う。トラックヒッチで金要求されてる時点であきらめたらよかった。


2013/08/11 日 レー

 下痢中。今日はバナナだけ食って明日出発できるように体調をととのえることに専念する。しかし今日は曇りなので、普段の日射が強すぎるレーとしては外出日和だ。むむむ。

 ヨーグルトという手があった。おさまれば明日スリナガルへ向けて移動開始する。


2013/08/10 土 レー

 昨晩は夜中の一時すぎにまたなぜか目がさめてトイレにいって下痢ってきたが、それ一回で済んだのでもう治るだろうとおもいきや、晩飯に食った玉子カレーがなんか変でまた下痢になるかもしれない。勘弁してほしいんだが。

 腹の具合と相談しつつ、ヘミスゴンパにいってきた。しかし行ったはいいがちょうどお昼休みに到着してしまい、何もみれなかった。まぁいいだろ。あんまりチベット仏教に興味ないし。

 レー → カル ミニバス 50Rs
 朝バススタンドに行ったらアルチ行きのミニバスがあったのでしばらく載っていたけどアルチまで3時間かかるみたいだし腹の具合も心配だったのでやめて、ヘミスに変更。ちょうどカル経由シャクティ行きのバスがあったのでそれにのってカルにいくことにする。たまたま韓国人がのってたのだが、その人が生姜が腹にいいというのでその手があったかとバススタンド横の野菜屋街にいってみたら生姜発見。とりあえず一欠け買う。水をのむときはついでに生姜を噛むことにした。うまい。
 ミニバスなんだが明らかに外人は別でちょっとボラれている感じだがしょうがない。あーやだやだ。カルで降り、そこからヘミスゴンパまで歩いていこうという算段。カルは軍事基地化されていて、その基地の中を通らないとヘミスに行けない。しょうがないので歩いていく。で、橋をわたってからヘミスまで扇状地を歩いてのぼっていくわけだがやっぱり暑い。車道は蛇行しているのだが歩きなので真っ直ぐ扇状地の谷を目指して歩いていった。
 というか言わせてほしいんだがインド軍ってバカか。ツーリスト専用の道とか作って基地を見えないようにするとかそれくらいの工夫をしろよ。扇状地から丸見えだぞ。他の基地も丸見えすぎる。


 しかし暑い中、カラカラの扇状地を登っていくのですぐにヘバって何度も休憩。あきらかに水が足りない。たいした距離もないところを数時間もかけてしまった。この谷の奥にいくと岩が突きでて壁みたいになっているところがあり、そのうしろにある。まぁ要塞みたいなもんですな。

 ヘミスゴンパの下には小さい村があり、カラカラの扇状地からは想像できない畑なんかがあった。しかしヘミス行きのミニバスにものらず早いのにのってとっとと登って午前中にはもう降りているつもりだったのが、回復するまで何度も休憩したのでヘミスゴンパについたのは昼すぎ。飯屋があったのでそこでリムカをのんだりダルを食ったりして回復を待ってから観光にとりかかろうとしたらちょうど昼休みに突入してしまった。まぁ中には入れたものの、博物館とかも閉まってた。

 何気に山門の上に角が置いてあったりする。このガキどもは山門でヘバって休憩してたらなんかしゃべって向こうに行かないのでN-08D向けたらこんな風に並んでくれた。昼休みだが高僧っぽい人が観光客の記念写真とかに応じてたりしてた。観光客の写真撮影には気軽に応じろという決まりでもあるんだろうか。

 数時間もかけて登ってきたのに一時間待てないのがどうもあれだが、ザラワルフォートにあった戦史でヘミスゴンパがザラワルに食糧供出したとか書いてあったくらいしか興味の種がないので、しょうがない。だいたいここは今も活動中の教学施設なのだから、建物とかどうでもいいよね。ということでとっとと降りた。降りるときは早く、一時間で降りれた。

 バスをまちながらヒッチしたがなかなかつかまらない。たまたま小型トラックの荷台に人がのってたので、きいてみたらレーまでいくという。おねがいしたらのせてくれた。眺めはよかった。ただ、ちょうどインダス川の上流の方から嵐がくるところで、そのうち追いつかれてしまい、最後はすこし雨にかかった。まぁそんなにひどくなかったが。

 レーについたら珍しい嵐とあって看板が落ちたり吊ってあるものが切れたり騒然としていた。

 あと今日わかったことは、確実に当局(具体的にどこかわからんがなんかの組織)にマークされ尾行され監視されていることだ。マナーリからこっちなんか変だったんだが、被害妄想の可能性もあり、書かないでおいた。さすがに今日、ヘミスゴンパについたら昨日後をつけてたおっさんがそこにいて、また後をつけてこようとしたりしてたので、これは大掛かりな尾行とおもうしかないだろう。そのおっさんそんだけ露骨なのに知らんぷりするので横に座りにいっていろいろ問いつめたら、ドライバーだとか言ってとぼけていたが、トラベルエージェンシーだと言ったりタクシーのドライバーのくせにレーまでの値段を知らなかったり言ってることが破綻している。最後にポロっと「中国から来た日本人だから怪しまれているんだ」とか言って去っていった。いや、同じことは他にも言う奴がいたし、他にも変なことはあったのだが、もう確実なので書くことにした。
 飯屋に入ったら後から必ずうさんくさいのが入ってくるんよな。ひょっとしたら腹の具合がわるいのってこいつらが飯屋に言ってなんか変なもんまぜさせてるのかもしれん。今日もついに治るかとおもったが、昨日とおなじ飯屋に行ったのに晩飯がやたら辛くて腹が急に崩れてしまった。
 中国のときから尾行してるっぽいやつはみんな写真を撮ることにしてる。今日もミニバスでこっちをジロジロみる変なのがついてきてたが、そいつはカルで降りずに、韓国人の隣に座ってた。まぁインド人が無駄なことを一生懸命する事はよくわかった。
 だいたい中国がインドの情報手にいれようとしたらインド人買収するのが一番の近道だろ。亡命チベット人を情報源にするのも簡単だろうし、中国での展開をねらう国際企業にインドの情報とってきたら便宜はかってやるみたいなことをもちかけるのもできるだろうし。
 晩飯の帰り、旧市街の宿に帰るのに狭い路地を通るのだが、だれかつけてきてるかなとおもい、路地をひとつ出たところでちょっと座って眺めてみたらあるおっさんがでてきていつも曲っている方向にいきかけて、その方向に自分がおらず後ろで座って見ているのに気付いたのかあわてて戻っていった。まぁ変なのがいたから怖くて逃げたのかもしれんが、慣れた道を通ってその変なのから離れているのにわざわざ近づいて戻る方が変だろ。
 ただしこういうのには被害妄想の可能性が常につきまとう。要するにいくつかは本当にそうだったとしても全てがそうだとは限らないということだ。まぁ警戒するというのは被害妄想と紙一重なのだが。インド当局が自分のような人間をマークしてしまうように。

 下痢ってきた。やっぱり下剤でも混ぜられてるのかな... おかしいだろこんなに頻繁に来るの。

 まぁいやな話書いてもしかたないのでロバでなごもう。


2013/08/09 金 レー

 日付がかわったころから下痢でトイレに行っていた。下痢といってもガスが大量発生して液状の便が押し出されてくる感じで全然つらくない。昨日まではなんかダルかったり重かったりしたんだがそういうのがないので問題なく動ける。インドに来てから屁がよく出ていたので便の状態以外は元にもどった感じか。
 おかげで朝目がさめるのが遅くなってミニバスでちょっとでかけるのが無理になった。どっかにいくには8時くらいまでにはバススタンドについてないといけない。8時すぎに目がさめてるようでは..
 あと部屋を変わったらセキとかがなくなった。それだけ粉っぽかったんだな。

 レーからスリナガルはバスで二日かかる。今日切符買って明日出たら月曜に着く計算だ。激流氏は今日成田を出て明日にはスリナガルについている予定なので、あとから着く計算になる。ただ月曜から活動開始だろうから、慌てて行ってもしかたなかろう。下痢次第ということにしとこう。

 昼、図書館にいってみたら閉まってた。

 レーのメインバザールでgifアニメつくってみた。
 


2013/08/08 木 レー

 うーむ。下痢ってきたぞ。

 部屋替えしたらやっぱり全然ホコリっぽくない。朝一応バススタンドにいってみたが、9時前に行ったのでほとんど出払っていた。しょうがないので帰ったがやはりなんかダルいので午前中は寝てた。
 14時くらいにこのままではいかんとおもってパンジャブ飯屋に行ってダルだけ食ってみたらこれがいける。スパイスがキツいなぁとはおもったが食ってるうちに発汗してきてなんか元気になってきた。やっぱり塩か。
 下痢もひととおりすんだらまた軟便に戻った。これから飯ちゃんと食ったら快方に向かいそう。

 ネット屋にいったがネットするどころの話でない遅さだったのでやめた。午後飯食ってる最中に停電したのでネット屋も停電。こりゃダメだ。

 テレビかなにかの撮影をやってた。

 宿のおやじが、日本人が置いていった山本高樹『ラダックザンスカールトラベルガイド』というのを貸してくれたが、それによるとラダックにはゲルク派の寺はたくさんあると書いてある。まぁそりゃそうか。

 夕方飯のついでにネット屋にいったらちゃんと動いていた。でも遅い。facebookとか繋がらん。

 さていつスリナガルに移動するか...


2013/08/07 水 レー

 大分調子よくなったような気がするが、酸素不足気味な気配はある。

 レー → ティクセ ミニバス 25Rs
 今日はティクセとシェイにいってきた。
 朝とりあえずバススタンドにいってティクセ行きのミニバスにのったら結構ツーリストがいた。ドイツ人と韓国人。あんまり一緒になりたくないなぁとはおもったが、結局ティクセゴンパを見にいくので一緒になる。これが思ったより愉快な連中だったのでそんなに不自由でもなかった。

 チベット仏教といっても結局仏教なので六道輪廻の図とかあったりする。旅行人『ラダック』によるとここはゲルクパということで、その通りにダライラマの写真が飾ってあったりする。もっとも『ラダック』によると、ラダックではギョクパが主流らしいのでティクセゴンパってどういう扱いになるんだろう。しかしどれがどの仏とかそういうのは全然わからないまままわった。
 ちなみに下から適当にのぼっていったらツーリストがうじゃうじゃいたところに出たのだが、入場料は駐車場の方の入口にあったらしく、とられなかった。もっとも『ラダック』に書いてあるところにしたがい、小銭を御布施するところでは御布施してきたのでまぁいいだろう。

 おれはここからシェイまで歩いていくから別れよう、と言ったのだが結局グループ行動になって来た道をまた降りてバスを待つことになる。そういうのがいやだから一緒になりたくなかったのだがなりゆき上しかたない。しかし降りる途中、同じバスで来てシェイで降りたフランス人男女が登ってきて、ティクセまで歩いてきたというのでなしくずし的に歩くことになった。よしよし。ティクセゴンパの横から斜めに後ろに降りる道があってそこを通ったらシェイへの近道になるのだが、それを言ってすぐに納得するような連中ではないので説明しなかった。
 まぁしかしドイツ人と韓国人の方向感覚はかなり鈍いようだったので最終的にはこっちの言いなりにすることができた。二人とも英語ペラペラしゃべるが、韓国人はあやしい日本語をバンバン言って知識をひけらかそうとするし、ドイツ人はどうも結構日本好きっぽいあたりも一緒にいて楽だった理由だろう。要するにこっちのでたらめな英語も問題なかった。

 途中の飯屋で飯を食ったあと、シェイ。
 シェイには城があり、その下にゴンパがある。韓国人はガイドブックを英訳して大仏があるとかなんとか言っていて「ブッダブッダ」と言っていたので目標があってよかった。自分はあんまりブッダには興味なく、その上の城にのぼりたかったので、ブッダをさがして変な方向に行く二人に、「ここは城の城門の跡だから、ブッダは後ろの方向にあるあれにある。ブッダをみる前に城にちょっとのぼろう」と言うとドイツ人はいやがったが、韓国人がのってきたので行くことになった。よしよし。

 ちょっとなわけがないんだが、二人は道を読むことができず、こっちが勘で適当に言っていることに反駁できず、こっちがいろいろ言いつつ率先して道を進んでいくのだからついていくしかない。グルリと大回りして入城し、さらにせっかく来たのだからということで頂上までいけた。まぁもっともグルリと大回りせずとも入口を登ったところから右にいけば普通に城にのぼれたのだが、それは方向感覚に乏しい二人がブッダブッダと言いながら変な方向に行って裏の城門から降りていこうとしたところからスタートしたのでそうなってしまっただけだ。

 インダス川の作った湿地につきだした岬になっていて、道はこの山の麓にそって回るしかなく、ここに城をつくった理由がわかりやすい地形になっている。
 肝心の「ブッダ」だが、まぁティクセで似たような見てるからあんまりおもしろいもんでもないよな。壁画に結構いい感じのがあった。あと、ブータンのお札をはじめてみた。

 シェイからの帰りはバスを待つのと平行してヒッチハイク。かなり長い時間立っていたが、軍用トラックに乗せてもらうことに成功した。つーことでレーの下でおろしてもらい、7時に飯ということで適当に散ったが、シェイの城を降りたあたりからなんか気分悪い。たぶん城登りでハッスルしたせいだろう。そのときは炭酸飲料をのんだらなんか気分悪いのがどっか行ったが、やはりなんか気分が悪い。つーことで飯はパスしてその旨言いにいって西瓜でも食って寝ることにした。
 レーについてからまずネット屋に行ったら停電から通電に変わるところで、ちょうどネットが復活したのでノートパソコンをつなげたが、5分くらいしないうちにまた停電した。ということで日記を今朝書いたところまでアップロードしただけで終わった。まぁレーだからしょうがない。

 昼間やたらしゃべった余波がのこったのか、帰ってから宿の韓国人が今晩マナーリにいくからこの部屋に移ればよいと言われたのでついでに調子にのってベラベラしゃべってきた。ものわかりのいい韓国人っているんだな。
 それはそれとしてこの韓国人は日本人にたいして原発の恐怖を煽るよう命令でもされてるのかとおもうくらい「原発の恐怖」を言っていておもしろかった。韓国の原発の方が問題多いだろとか、日本は文句つける連中が多くて高速増殖炉をまともに運用できてない間に中国が作ろうとしてるぞとか、進歩しないと何でもよくならないと北朝鮮をひきあいに出したりしながら、話を中国と韓国の歴史論争の方、つまり自分の得意な領域にひきこんでごまかした。


2013/08/06 火 レー

 ラマユルに行ってみようとして週に三本しかないバスに座ったが、なんか腹の具合がわるく気分がすぐれない。そういうと朝からなんか呼吸が荒い。これはよくないとおもい、切符は発車してからっぽいのを幸い、バスから降りて帰って寝た。
 朝の小便がやたら濃くにおいがキツかったから水不足はあるだろうとおもって水をガブガブ飲んだが、なんか冷えるのでそれだけでもなさそう。毛布を被ってちゃんと寝た。呼吸が荒かった。

 昼前に目がさめたときにはだいぶよくなっていたが、まだまだなので、秘蔵の粉ポカリを出して溶かしてこれまたガブガブのんだ。腹がうごきだして屁が出るようになったがこれが異様な臭さ。たぶん一昨日から腹の具合が悪い原因がそれで異常発酵してるんだろう。水不足とそれの相乗効果で気分まで悪くなったのか。
 昼には一応パンジャブ飯屋でターリーを食ってきた。夜飯はメインバザールの道端で売ってた大根をくすりのつもりで買ってきたがこれがからすぎる。一本だけにして皮を厚くむいてかじった。

 朝の8時ごろから14時半まで拡声器で坊主の説教が延々流れていた。

 レーは昼間停電していることが多い。わざとか?もしくは揚水ダムとか使っていて昼間は揚水に全力をあげているんだろうか。

 一応ネット屋をみにいったが昼頃行ったときには閉まっていたりこれから閉めようとするところだったりした。中国だったら今はもう電気もネットもそう頻繁に切れたりしないのにインドはまだまだだな。


2013/08/05 月 レー

 なんか腹が気持ちわるい。
 昼にバナナをいっぱい食べてみたらすこしはよくなった気がする。

 図書館に行ってみたらラダック・カシミール関係の本がいっぱいあった。自由に入れるので結構いい。

 宿が朝から停電していたが、16時ごろシェイク屋にいってみたらシェイク・ラッシーは停電しているから出せないとのこと。Fort Road のネット屋は朝やってたので、旧市街が停電しているのか。朝ちょっと天気がわるかったのでその影響か。
 あと Jamspal のおっさんが車でメインバザールまで買い出しに出てきているのにでくわした。気付かなかったが手をふっているのでわかった。うーん。なんか本当に申し訳ない気がしてならない。

 夕方には通電した。

 Zarawar Fort のザラワルだが、グラブシンのWazirでラダック・バルティスタンの平定で中心的役割をはたしたようだ。さらにその勢いで西チベットに突入し、ネパールと境を接するまで進軍しようとして清朝・チベット軍にメタメタにやられ、そのときザラワルの首もとられたそうだ。その後チベット軍がラダックまで進軍しようとしてレーの手前で敗れ、ラダックとチベットの従前からの境が国境になったと。
 アヘン戦争と同時期で、最初はタリム盆地方面に行こうとしたが経済的にあわないというのと、ラダック人が昔の王国の版図を望んだというので西チベットになったらしい。イギリス人はアヘン戦争もやってるのにグラブシンの軍隊がタリム盆地に入って余計に事態をこじらせるのを望んでいなかったと書いてある。
 今日図書館でみたジャンムーカシミール藩王国の本にはそのときに清・チベットと結んだ条約ものっていた。
 ついでに清史稿をみてみたら、本紀にはのっておらず、藩部の西蔵のところに書いてあった。そこでは「拉達克」が「生番」と結託して侵入したので撃退したとものすごく大味な記述になっている。20世紀に入ってから編集されたものなのにこの程度か。
 ジャンムー王国のドグラ人とかいうのがネパールとおなじような山岳民と言えることを始めて知った。kishtwar とか興味があるが、旅行人『ラダック』では危険だから行かない方がいいと書いてあるんよな。うーむ。

 ちなみにこれがザラワルフォートに展示してあった当時のドグラ軍の軍装と軍旗。これだけみるとどんだけ古代なのかとおもってしまうが、これで銃も持ち、弾丸やレーションまで支給されていたらしい。戦史をみていると重装備としきりに書いてあり、展示にも西洋の甲冑のような鉄の護手や鉄仮面のような兜があった。ますます上の写真のイメージから離れる。もっと鉄でギラギラした恐しい感じだったんだろう。ちなみに銃はジャンムーで製造していたそうだ。火薬もジャンムーだが、のちにレーでも製造していたらしい。銃はグラブシンのデザインで「Par-Mar」ブランドだというのだが、本当かな。パーマーってイギリスとかにありそうな名前だが。
 展示には清・チベット側の剣なるものがあったが、西洋の幅広の剣を模したものを使っていたという。それからするとドグラ軍の甲冑とかも西洋で不用になった重い鎧がパーツでバラバラにされてインドに輸出されてたものなんじゃないかという気もする。

 寺とか全然行ってないが Zarawar fort のおかげである程度満足したような感じがある。展示のテキストの量多すぎ。

 アザーンがうるさいんだが、その一節が「ハンニャーハラミーター」とか言ってるように聞こえてしまう。


2013/08/04 日 レー

 朝から日本山妙法寺のストゥーパにのぼってきた。インド式のストゥーパをみはらしのよいところに建てているので展望場所として人気があるそうだ。

 それはいいんだが、ストゥーパにハメこまれている仏像がまた日蓮宗臭さを出していた。立正安国とか普通の神経してたら書かないよなー。

 ここからの眺めの日差しの変化でGIFアニメでもつくったらおもしろいかとおもってしばらく撮ってみたが、帰ってみたら手で適当に撮っただけあって固定されておらず、あんまり意味がなかった。

 まだ40Rsのネット屋にはいけてない。いつ行っても閉まっている。しかも今日は街中ネットが通じていなかったらしい。ダメだこりゃ。

 だいぶ高地に慣れてきたような気がしたので、ちょっと離れたところまで歩いてみたが、日差しがキツいのでやめてひきかえしてきた。あと腹の具合が悪くなってきた。しかしゲリピーまではいかない。羊の脂がまだ消化できてないんだろう。そういうにおいがした。


2013/08/03 土 レー

 隣の部屋が二週間くらいいる日本人だったので安いネット屋を聞いてみたら結局 Jamspal の近くのツーリストエリアだったが、行ってみたら聞いた値段とは違ってた。あとで確認したら要するにちゃんと聞けてなかっただけでまだ奥だったらしい。そのときはわざわざ遠いところに行くのが面倒におもい、昨日見つけていたメインバザールの商店街の階下にあるネット屋に行った。一時間60Rs。
 レーのインターネットはスリナガル経由らしい。レーとスリナガルの間で最近地震とか洪水とかあってネットが不安定なのだそうだ。まぁしょうがないよな。
 どうせ30分程度しかしない上にネットが不安定ですぐ切れたりするので一時間60Rsと40Rsなら大差ない。

 バススタンドにいってスリナガル方面に行くバスの時間を確認したら台湾人らしき御一行様がマナーリの方へ行くバスを調べにきていた。中国語で話をすると頭の中が一気に中国語モードになってしまい、バスの時間を聞くときに中国語がでてきそうになった。

 天気が非常にいいのでズボンを洗濯して昼寝。マナーリで温泉づけになったパンツとタオルがまだ硫黄臭を発している。

 ロンプラの12版と14版をPDFの形でもっているが、12版の方が昔なつかしの情報量でギチギチのもので、14版はロンプラがスタイルを変更し情報量を減らして写真をふやしたり色をつけたりしだしてからの去年のもの。バススタンドの帰りにラダック人が道路で集会しているのをみかけたが、その横断幕に "OUR DEMAND U.T FOR LADAKH" とか "SUPPORT UT FOR LADAKH" とか書いてある。UTとは何か。ズボンが乾いたら宿の人にきくつもりだったが、ロンプラ12版の方に「United Territory of Ladakh」の成立を目標とする政治運動があると書いてあった。United terytory というのは連邦直轄領という意味らしいのでジャンムーカシミール州からの独立を目指すということなんだろう。ただそこにはつづけて「州政府はラダックの観光産業から利益を得ているので、自治はほとんどかなわない夢となっている」みたいなことが書いてあった。

 あと12版では今泊まってるとこが最安として挙げられていた。なんで14版では消えたんだろ。


2013/08/02 金 レー

 夢。高地のせいかしらんが夢見がちだった。
 どういう文脈かわすれたが、女王みたいな存在を襲って殺す。首を刎ねて顔も削ぐみたいなことを粘土を切るようにやって平気で不思議だなとおもって目がさめた。

 "Super-friendly family place" な Jamspal Guest House にずっといてもよかったのだが、やはり旧市街の方がいいような気がして結局出てしまった。なんか申し訳ない。
 昨日歩いたときはレーの街はデカいような気がしていたが、今朝歩いてみたらそんなに広くなかった。そして中心から離れていたような気がした Jamspal Guest House も中心からすぐだった。ツーリスト向け施設が近くに集まっている分、Jamspal Guest House の方が便利かもしれん。
 と言いながら旧市街の方に200Rsの宿をみつけたのでそこに移動した。ロンプラにはのってない。どうもシングルの部屋はかなり限られているようだ。しかしこの部屋もホコリっぽい。たぶん安い部屋で掃除もおざなりになりがちの上に目の前に砂とか積んであるからその砂が入ってくるんだろうな。
 このホコリでやっぱり後悔するのかもしれない。

 宿替えのついでに、Fort Road の名前の由来となった Zarawar Fort を見にいってきた。

 今はインド軍が管理していて、夜にはライトショーなんかもやっているらしい。周りにはインド軍の駐屯地がある。こんな城壁の低いしょぼい城インド軍まだつかってんのかとおもったが、中にはいってみたら城壁も半分はなくなっていたし残っている部分は博物館と民家になっていた。記念物として残してあるだけなんだろう。
 中の博物館はラダックの征服者であるドグラを顕彰したものとなっている。やたら詳しいパネル展示があってなかなか読みきれないので写真にとって帰った。

 宿替えしてから、レーではどこからでもよくみえる王宮のある山にのぼってみた。

 王宮の横の岸壁がのぼりやすそうだったので王宮には行かずに岸壁をのぼり、峰づたいに上にある砦まで登ってみた。案外楽にのぼれたが、てっぺんまで登ってから水をくんだペットボトルを置き忘れてきたのに気付いてあせった。

 いちおう砦には入ってみた。20Rs。テラスがふたつあるが、低い方にしか登れない。高い方は危険ということで入れないようになっていた。試しによじのぼってみたけど途中でやめた。
 せっかく岩山をよじのぼってきたのに、登山道を降りるのもつまらんなとおもい、王宮と反対の峰にしがみついて降りてみることにした。そしたら王宮がなかなかいい角度で写真撮れそうな気がしたからで、これがその成果。

 高いところなのでじっとしているとなかなかいい感じに頭がクラクラしてくる。水もなく、照り返しもキツいので、岩にしがみつきながらなるべく速く降りた。

 ところで、この山にのぼって下をながめてみて、東チベットの理塘(リタン)に雰囲気が似ているなぁとおもったが、今写真をみてみたらそうでもなかった。これがリタンの写真。

 まだおもしろいことがあって、山にのぼっているとき、モスクから説教師の説教が延々と拡声器で流されていたのでうるさいなとおもっていたが、降りて飯食いにいったらイスラム教徒のデモがはじまった。

 最初はケンカでもはじまるのかとおもってワクワクしながら飯屋から眺めていたがそうでもなかったのでおっかけて写真とってみた。
 ホメイニ・ハメネイの写真を掲げている人がいて奇異におもったが、何のことはない、レーにはでかいモスクが二つ、小さいのが一つあるが、メインバザールに面しているでかいふたつのうち王宮の下にあるのがスンニー、まんなかにあるのがシーアで、そのシーア派の方がホメイニとかを掲げているのだった。ということでデモ隊もふたつあり、それが合流して一つのデモ隊になっていた。飯屋はシーア派のモスクの前にあったので、ケンカでもはじまるようにみえたのだ。
 デモ自体はイスラエルとアメリカは死ねみたいな内容で、なるほど共通の敵の前では仲良くデモできるわけだ。しかしこういうツーリストがあつまるところにはイスラエル人とかいたりするのだがどういう気分だろう。

 宿替えして山に登ってデモ隊を追いかけたりしたのでいいかげん疲れて帰って寝た。夕方飯に行こうとしたころに天気があやしくなり、突風があったり雨がパラパラ降ったりして街中停電したりついたりしていた。雨に弱いんだろう。
 ということで安い飯屋を見つけづらい状況になり、なんか高い飯屋ばかりでグルグル街のなかをまわりつづけ、20時前になってようやく普通のインド飯屋をみつけてターリーなんか食った。とりあえず何でもいいから食ってさっさと帰ってたらよかったか。


2013/08/01 木 ケーロン → レー

 朝4時過ぎに起きて4時半過ぎにはバススタンド。宿の人おこしにきてくれた。ちょっと早いかとおもったがそんなことはなかった。あと切符買えないとか言ってたけどちょっと席空いてたので買えたっぽい。後ろの席の方が動きやすくてよかったかも。

 最初はちょっと天気悪かったが最初の峠を越えたあたりから天気がよくなる。

 5000m前後の峠を三つこえるのでどうなるかとおもったが、水を1リットルのペットボトルに汲んできたので何とかなった。さすがに高いところではなんか体が変な感じになった。湯治と高所適応を兼ねてマナーリにしばらくいてこれだから、デリーからいきなりバスで行ったりする人はどうなるんだろう。
 でこれが一番高い三つめの峠の写真。コンクリの記念碑に書いてあったのは17582フィート(5328m)。

 サドゥーも携帯もって記念撮影する時代なんですな。

 二つ目の峠を越えて谷を下ったところと、三つめの峠を越えてレーの谷に合流する前の谷に奇景が多く、他の人につられてついつい写真を撮りまくってしまった。

 
 ケーロンのあたりからこういうチベット式建物がみえてきたけどやっぱりレーの谷の近くの方が多いな。
 途中ラダックのおっさんに言われるがままに寺院の写真など撮りつつ19時すぎ日が暮れそうなころにレーに着いた。

 日がくれそうなのに適当に歩いてみたのが失敗で、旧市街は街灯がほとんどなく、しょうがなしに新市街の方を歩いてみたが、なかなかみつからない。適当に歩いて Fort Roadという通りにでたらなんかいろいろあった。とりあえずきいてみると800Rsとか満室とかそんなのばっかりだった。途中一軒FortRoadから脇道に入ったところにやたら人のいいおやじがいるゲストハウスがあってそこが300Rsといい一週間くらいなら250Rsにまけてあげるという。うーむ。とにかくおやじの人のよさがにじんでなんか断りづらいのを断わって、さらに歩いたがみつからない。最悪なのはそこでようやくロンプラの地図なんかをみだして中途半端にあてにしだしたことで、それで無駄に Fort Road を歩きすぎて余計に疲れた。それにここは富士山に近い高さなので微妙に頭も痛くなってくる。もうどうでもよくなってきて、その人のいいおやじのところに泊まったらそのおやじ飯までくわしてくれた。あとでロンプラをよくよくみるとここは"Jamspal Guest House"としてちゃんと乗っており、説明までついていて「Super-friendly family place」と書いてあった。ここにしばらくいてもいいような気にさせるところだった。それはともかく疲れたので水だけボトルにいれてもらってとっとと寝た。


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