201510-12
2015/12/31 木 ニューデリー

 他の部屋に移ったらにおいもマシだしなんとかなりそう。
 結局エバーグリーンが安いのは確かだし、日本語のできるシク教徒は貴重なのでここに1月半ばまで泊まることにした。で、200 x 15日の3000Rs前払いする。まぁこの宿、そういう目先の金にガツガツしたところが敬遠される所以なんだろうけどな。

 昨日サンタナの人に年越しうどん作りに誘われていたので行ってみたがうどん二玉こねて一度帰った。それからオールドデリーのジャマーマスジットのあたりのムスリム飯屋までわざわざ行って飯を食って帰って寝たりしてからうどんを食いにいった。いや海外でうまいうどん食えるとはおもわなかった。
 まぁしかしもうサンタナ行く事はないだろう。積極的にそういうところへ出かける社交的な人間ではなし。清水さんと会うのも済んだし。しばらく右往左往していたがこれから本を読んでいくか。

 写真はオールドデリー

 しかし部屋からネットできなくなったので日記をアップするのは早朝だという...
 そういえば一時期寒い寒いと書いていたが、夜布団で寝れるようになってから寒いと一向おもうようにならなくなった。むしろ暑い。朝の冷え込みを回避できるだけでこんなに印象が違う。


2015/12/30 水 ニューデリー

 塗料臭い部屋だがこれちょっとヤバい領域かもしれない。200Rsで泊まれるとかよろこんでたのがバカだった。おとなしくナブランのうすぐらい部屋に泊まってるべきだった。ただし布団があったので暖かった。うーむ。塗料臭いのさえなんとかなれば...

 いずれにせよ金は必要だしちょうどセゾンカードの締め日(月末)直前なので、 AxisBank の ATM で金をおろそうとしたら200Rs手数料を取るとATMの画面に出る。ぐぬぬ。
 そこでとりあえずどあつかましくも日本人宿のサンタナに行ってATMの情報を仕入れに行ってみたら一応ATMが集まっているところを教えてはくれたがよくわからないとのこと。とりあえず行ってみてカードを差しこんだりしていると、あるところは手数料300Rsとか取るところだったが、とりあえず画面で手数料を取るとか出ていないところに当たった。しかも細かく500Rsくらいでくれた。ただし上限一万ルピー。

 それでまたサンタナに行って、今度は電話を借りて元日本食屋の主人の人に連絡しようとしたら、その清水さんがサンタナの受付の人とニザムディンへ行くのでしばらくしたら来るということだった。なんたる奇遇。まぁデリーのパハルガンジの日本人旅行者相手の商売なんて狭い業界なので横の繋がりがあるのは推測できたが、さすがにこれはおもしろいので待っていっしょに行く事にした。

 そういうわけで、2年前にデリーで会っただけの人(清水さん)と今日初めて会った人(サンタナの受付の二人)とニザムッディン廟に行ってきた。

 二つ目が弟子のアミールホスローの墓で、三つ目がニザムッディンの墓。どうも清水さんは大学の修論かなんかをデリーのダルガーで書いたらしくその辺ものすごく詳しい。逆にこっちが今調べてる18世紀後半から19世紀前半のことはそんなに知らないようで(そらそうだ穴場なんだから)情報交換的に話が弾んで、とりあえずニザムッディン廟参詣から帰ってサンタナの二人と別れたあとも延々と話をして、最後晩飯を食って別れた。
 清水さんは今の仕事でジャイプルの方に住んでるらしく、倉庫兼事務所みたいなところなので広いから1月末に社長が来るまでは居てもかまわないということだった。しかも1月初めは村の方へ材料の調達に行くのでついていってもいいということでおもしろそうだ。

 そういうわけで夜になって塗料臭い宿に帰ってきたが、塗料臭さについて文句を言うと、塗料臭い事はわかって貸してたようですぐ対応してきた。こいつらwww というのもあと15日余計に住むとつまりそのまま3000ルピーが手にはいるということでその目先の金が欲しいようだ。で、他の部屋に換えてやるから3000ルピー払えとうるさい。壁を塗りかえたのがいつか聞いたら一ヶ月前とか言ってたがそんなに前だろうか。他の部屋も案外塗料臭かったが、最初に住まされたシングルが一番においがキツかった。で、比較的マシな一番上のダブルをかわりにもらって、一晩寝てからどうするか考えるということにしたが、帰ってからそれまでの間にまた吸ってしまっているのでどうも気分が優れず日記も十分書かずにとっとと寝た。今日は一日風邪がひどくなったような咳をしていたが、有機溶剤臭で喉がやられたせいではないかと疑っている。

 で丑三つ時に目がさめたので日記を書いている。どうしようかね。ジャイプルに行くのもよさそうだが、この宿が持ち家で経営しているという強みで安いのも確かだ。長期滞在にはいいしそもそもこの親子シクだ。ただしガツガツした親子と問題をおこさずに過ごせるかどうか....


2015/12/29 火 ニューデリー

 Navrang (ナブラン)から エバーグリーンゲストハウスに引越し。エバーグリーンも古くからある安宿で、主が神戸の震災前後神戸で7年ほど働いていたとかで日本人宿だったらしいが、最近はサンタナが日本人を総取りしたので全然人がこないらしい。まぁ場所も奥の方でなかなか入って行きづらいところにある。しかも常連客も年とってなかなか来れないらしい。

 で、日本人来なくなったので、BookingComとかいうとこに登録したら世界各国から来るようになってなんとかやっていけてるそうだ。それでも日本人は特別扱いでちょっと安くで提供しているそうだ。まぁたしかに最近のインドの宿の相場からしてシングルをこの値段で出すのは安すぎかもな。ということで、ドミトリーという名前の実質シングルから本当のシングルへ鞍替え。数時間過ごしてみた感じではかなりよいのであまり動きまわらず半月くらいここに住むかも。

 なんでこんなに安いのかわかった。昼間は戸とか窓とか全開にしてたのでわからなかった。この部屋ペンキぬりたてだからだ... 有機溶剤臭がすごい。今頃ネットの情報を調べてわかったがこの宿の人ガメついのな。まぁしょうがないのか。
 というかこのご時世にこの宿代は安すぎだろ。宿代上げて余裕があるようにしたらそんなにガツガツせずにすむのに。


2015/12/28 月 ニューデリー

 朝一靴を買いにパハルガンジの目抜き通りに行く。250Rsの靴を買うつもりだったが、結局300Rsになった。まぁオールドデリーまで行くつもりもないのでそれでよかった。
 さて買ったので調子にのってとりあえずカシミール門まで行って、チベタンキャンプまで歩いてみた。しかし足は水膨れが潰れた状態になっていて、ちょっとあんまり状態がよろしくなく、そんなに歩くと不可逆状態を進行させてしまうだけだった。しかもチベタンキャンプ、だいぶ発展していて、昔のようにチャン(酒)を発酵させて飲ませてたような空気もきえてしまい、それなりに小綺麗なレストランが増えててどうも入りにくい。ということでいちおうトゥクパを食うのが目的だったがなんか高いモモを食っておわりだった。

 モモをくったときに汁とかかかってしまったのでいい機会として洗濯。いままで洗濯してなかったので相当汚れていた。で、午後はそれを乾かしておわり。
 夕方、ナブランの飯屋に珍しく日本人らしい人がいたので話しかけてみたらおもしろかった。二ヶ月くらい写真をとって回っていたが、最後の最後になって鉄道で荷物を全部とられてしまったらしい。カメラとか持っていたので狙われたとか。
 ところでこのおじさん、明日日本に帰るのに飛行機を待つのに手持ち無沙汰なのでナブランのドミトリーを打診したらフルだといわれたらしい。あと、12月の最初のころはドミトリーに日本人いっぱいいたそうだ。誰もこないんじゃなくて自分一人にされてるということだろうか。

 ところでこれでも見てくれ。

 今まで夜の写真はろくにとれてなかったのだが、それは単純にN-08Dのデフォルトのカメラアプリのダメな点だったということがよくわかる。OpenCameraだと夜でも普通に撮れる。まぁそういうモードに自動で切り変わるというだけだが。


2015/12/27 日 ニューデリー

 一晩寝ると足の痛みもややマシになった。Navrangのドミトリーは一階にあるので暗く空気もよくないがそのかわり寒くない。

 旧棟(五階建)の屋上でやってみたら電波とどいた。旧棟の上層の落書きをみると2010-11年ごろの外人旅行者の落書きがのこっている。そのころまではこの建物全部つかってガッポガッポもうけてたんだろうな。

 日記を書いたので足が痛いとかいいながら図書館を探しにオールドデリーに入っていった。よくわからなくなったのでやめてシクの博物館をみたり、ベガムサムルの旧宅を探したりしていた。

 20世紀初頭にマレーのガイドブックがかかれたころにはこの建物のまわりは空き地になっていた。この空き地は城まで続いていて、そのころには城と町の間の空き地を "Urdu" と言っていた状態がのこっていたようだが、今ではこのまわりには市場が広がっている。初期の植民地建築と案内板に書いてあるので19世紀に建てられたものということのようだ。


 グルドワラの前にあったシクの博物館はこういう調子で延々とシク教の歴史を紹介しているものでしかも順番がよくわからなくなっていたりする。あんまりたくさんあるので全部写真にとるのはやめた。


 その後、デリー城の西側を通って帰っていたら、こういう感じの中央アジアっぽい風にしたナンを売っていた。ちょっと高かった。


 20世紀初頭の地図にはアジメール門の前に出城みたいなものがあり、Ghaziuddinの墓なるものがあることになっていたが、そういうのは壊さないだろうとおもっていたところ、帰りによくみたらそのあたり学校になっていて今もそのように使われていた。そもそも建てられたときからマドラサだったようで、1830-40年代には"Delhi Renaissance"の中心になったとか書いてあった。そして中にちゃんと墓があった。何かの聖者かとおもったら、アウラングゼーブ時代の貴族らしい。なんだ。

 靴屋の一帯を通ったときに価格調査をしたが安い靴なら250Rsとかであるようだ。買おうかとおもったが結局靴下を二足買っただけにとどまった。


2015/12/26 土 (ラクナウ) → ニューデリー

 まぁなんか窃盗団っぽいのに狙われたけどなんとかうまくデリーの手前で列車を降りて違うのに乗ることができた。買った切符はニューデリー行きではなくオールドデリー行きだったのでそこからどうするかが焦点だったが乗り換えで明るくなるまで時間を稼げばよかった。そもそもニューデリーなら駅の施設が多いのでなんとかしやすい。
 ガジアバードで降りてニューデリー方面行きを求めると通勤列車っぽいのに乗ることができた。しかしそれはニューデリーではなくデリージャンクションというところで止まる。かぎりなくオールドデリーにみえるのだが.... そこで似たような通勤列車にのりかえてニューデリーに無事到着。朝までまってからNavrangに投宿。

 Navrangのドミなるものもほとんど人がいない。しかもこの宿Wifiもない。うーむ。なんというか時代の変化についていけてないような... そもそもドミのある建物はかなり上の方まである建物だが2階以上は機能してなかった。昔は人が来たんだろうが何かが切っ掛けで人が来なくなったんだろう。パスポートのコピーも自分でとってこさせるし、商売する気がないんだろうか。

 まぁとにかく昼すぎまで寝てそれから日記を書いて日がくれる。しかもwifiがないのでアップロードもできない。
 とりあえず目の前のコピー屋兼ネット屋でつなげてみようとしたがつながらなかった。あきらめる。
 この宿の新棟の3階に韓国料理屋ができていてそこでならwifiつかえるようだが、残念なことに部屋までは十分な電波が届いていない。うーむ。この旧棟の3階からならつながるかも... 一応のぞいてみたが高いのでやめた。

 そういうと、このNavrangの下の食堂の名物おくら丼を食べてみた。

 おくらを醤油で味付けしてあるだけだが醤油味がうまい。しかし短期旅行者が食うようなものではないな。この下の食堂は入口にあって、日本食メインだが100ルピー台でケチケチ旅行者でも食えそうな値段なのに韓国料理屋はなぜか高い。まぁ結構人入ってるからいいんだろう。どうもそれなりのレストランとして認知されている模様。
 ちなみにwifiのパスワードは韓国料理屋をのぞいたときに確認していて、新棟の屋上でちょっとタブレットでメールチェックだけした。さすがにここにいすわってなんとかするのは気がひけた。


2015/12/25 金 (ササラム) → ラクナウ → (ニューデリー)

 ラクナウに到着したのが夜の2時くらいで、一応宿探ししてみようとしたが、真っ暗だし道もよくわからんので退散して駅で寝る。案外寝れたのだが、寒くて寝てれなくなったのが朝の7時前でちょうどいい具合だった。

 ラクナウは古い地図もガイドブック的地図も揃っているので対応さえできれば迷わない。とりあえず古い地図で要塞のある方向まで歩いてみた。

 道々古いおもしろい建物を写真にとったが、こういうの建築年代が1930年代前後が多い。50年代に入ると装飾がシンプルになる。インド植民地時代最末期ということか。バレイリーにも似たようなのがあったがどうもそのころの建築の流行っぽい。デリーにある似たようなものもそのころなんだろう。やっぱり英領インド時代って結構羽振りよかったんじゃなかろうか。

 さてなんとか要塞があるはずのところまで来てみたが要塞らしいところがない。たどっていろいろ歩いているとイマームバラのあたりに裏から入ってしまった。

 とりあえず休憩。途中で買ったパンと牛乳など食って、モスクの横の水道で手足をあらって、なんかややこしそうな建物にはいろうとすると外で500Rsのチケット買えという。あらためてロンプラのPDFをみるとどうもこのあたりの建物を通しで見れるチケットがあるらしい。外人はそのパスしか買えない仕組みか。まぁ良心的なのか。うーむ。
 裏から入れてしまったのであらためて500Rs払って入る気がしなくなってきた。ということで正面に出て、他のものを眺める作戦に出る。

 時計塔とか遠くに見えているし小イマームバラなんかも近いのだが、ここまで歩いて足が微妙に痛いのでやめてレジデンシーに行く。(歩いて)。


 レジデンシーはアワド藩王国時代のイギリス人の集住地区のあとで、藩王国取り潰しのあとおこったインド大反乱(セポイの乱)のとき包囲された戦跡をそのまま保存したもの。デリーのカシミール門とおなじ目的で残されたものだが、それを今は「第一次独立戦争」の戦跡としてのこしてある。まぁしかし独立戦争とするのは無理があるよな。
 そういう意味でここにある博物館は期待できたのだが、インドらしく行ってみたら開いてなかった。せっかく100Rs払って入ったのに。
 インドのおもしろいところはイギリスが残した記念物なんかをそのまま残してあるところで、これが中国なら記念塔なんかはきれいさっぱり地上から消しさるか、字を変えて違うものとして再利用するところだ。
 ただしマレーのガイドブックには英人の武勇を称揚するような詩を書いた板があったらしいがその建物をみにいったらなかった。さすがにそういうのは消えるのか。

 いいかげん足が痛いのでそのへんで切りあげて帰ることにする。アイスクリームを買って食ってから駅までのオートの相場を聞くと20Rsだとか。リキシャなら5Rsだとか。で、そのへんのオートなどに聞いてみると無茶苦茶な値段を言うので無視してしばらく歩いた。
 バスターミナルがあったのでデリー行きの値段を聞くと470Rs。うーむ。そんなもんかもしれんがやめて町にもどると繁華街の角で駅の方に行くオートがあと一人と呼び込みをしてる。乗ってみたら10Rs。しかし足が痛くなければそのへんを歩いてみればなかなか楽しく歩けただろう。駅前で安宿とって数日いたらおもしろかったとおもう。

 駅でニューデリー行きの切符を買おうとするとまた2等をよこす。しかも遠回り。しょうがない。どの列車がそれに相当するか確認してのりこもうとすると案の定ものすごいコミ方をしている。迷わず寝台車に乗りこみ、車掌に交渉するがまぁ見てのとおりの混雑でどうしようもない。しかも窃盗団っぽいのに目をつけられてしまった。ぐぬぬ。


2015/12/24 木 (バレイリー) → ササラム → (ラクナウ)

 ササラムのシェールシャー廟は事前にgoogle地図などで大まかな位置を把握しておけば余程の方向音痴でないかぎり迷う事はあるまい。駅からちょっと歩くだけ。
 外人は100Rs。ためしに1000Rs出してみたら細かい札をいっぱいくれた。

 遠目にはおもしろいものの、近付くとあまりおもしろいものでもない。雑さが目につく。まぁ骨太な建築ではあるのだろう。しかし一部にタイルがのこっているところがあるので装飾はタイルとかでやってそれが剥離してしまったのが今の姿であろうか。

 とにかく文字というものがほとんどない。細かいところは微妙。ちょっと通好みすぎるから今はあんまりガイドブック系にのってないのだろうか。ロンプラでさえ最近になってようやく載ったようだ。しかも囲み記事扱い。

 こんな感じでくるっと見て帰った。

 しかしカップルがうろついていちゃいちゃしていたな。インド人は5Rsなのでチャイ一杯程度だからちょっと入る程度ならいいところだろう。

 ササラムからラクナウもスリーパー買おうとしたら結局2等でくれた。しかもムガルサライで乗りかえ。なるほど。インドの切符も席なしなら適当に乗りかえていってもいいんだな。まぁそもそも無賃乗車が相当いそうだが。


2015/12/23 水 バレイリー → (ササラム)

 朝8時にチェックアウトして適当に町の中心目指して歩く。米軍地図の略図が参考になってなんとかなったが、何分昔の略図なので旧市街の概略しかわからずそこまでたどりつくのが大変だった。
 で、旧市街っぽいところがなかなかおもしろかったので歩くが何分朝なのでまだ十分町が動いていない。ところが露店っぽいところが多く、ある路地への道に飾りがしてあり、みるからにムスリムの人がどんどん入っていくのでその流れに乗ってみた。

 どうもイスラム教の聖者廟かなんかのお祭りらしい。スピーカーで説教をながしているその建物に入ってしまったが、まぁなんとか出て、ムスリムの波の中をただよっているとチャイを振る舞っているところにたどりついた。どうもその廟やモスクなどでふるまっている以外に普通の民家でもチャイを振る舞ったりしていた。

 そこで十分堪能してあとは本屋さがしでもしておけばよかったのだが、写真の子供から城跡があるということを聞いて探しにいったのが失敗だった。何分得られる情報が断片的なので的確なことを言ってくれててもそれを活用できない。C.B.Ganji の方向に歩いていったら「キラ」があるということだったのだが、結局キラを通りこし、そのC.B.Ganjiまで5kmほどの道を歩いてしまったのだ。そもそもバレイリー到着のときしょぼい城壁状の壁がちらっと見えたところがあって、何だありゃとおもっていたが、後から情報を総合するとどうもそれが「キラ」であったようだ。

 さて、5km余計に歩いてネットカフェで自分の間違いを確認。とりあえず駅までもどって次ササラムまで行く切符を買ったが、夜中の23時出発ということでまた町の中へ向かい、ダラダラ歩いてしまった。本屋にはありつけず。 今自分が履いているものはパール印のサンダルであるが、あらためてよく見ると一面に小さなイボイボがついている。一種の健康サンダルだ。グリップはよいのだが、それが足の皮には酷で、10kmとか歩くものではない。しかもよく寝てないので回復もわるく、足がダメになるのである。


 それはともかくこの町は目抜き通りでもこの狭さで人がひしめいていてなかなかおもしろかった。たのしかったのだが、一度変な車に乗るよう誘われたり、駅で23時間近に変な若いのにからまれて、後ろから頭をはたかれたりしたのでちょっと怖いところがある。それでもうあまりダラダラしないようにしようとしてこれから移動移動を続けることにしたのだが、その結果疲れた。

 しかもササラム行きは万全を期してスリーパーをとったつもりが、順番待ち状態のリストの最後に並んでいてもらえるあてもない事になり、4時間くらい座って待つ事になる。でも8時間くらいは寝れた。


2015/12/22 火 ニューデリー → バレイリー

 昨日の夜、寝落ちしている間に調理人が近づいて何かをしようとしていたが、その瞬間に目がさめたので何もできなかった様子。とりあえずあたりを確認すると、ドミトリーの戸も閉まっている。うーむ。計画的か。
 とりあえず隅のベッドに移るがもともと荷物はまとまっているので片付けるも何もない。日付が変わる前なので出ていくのもよくない。宿替えするかどっかに行くかは結局朝決めることにして寝た。

 ↑手前の暗い部屋のベッドに寝てるのが調理人。2年前は奥に5ベッド手前に3ベッドあって人いっぱいだったが今はこのありさま。多分夏に人が来なかったのだろう。来てからしばらくこのベッドで調理人寝ていなかったのだが、この日は寝ていた。まぁこんなとこで並んで寝かされたらなんか間違いおきるよな。

 朝ヨーグルト買いに行ったついでに Navrang に行ってドミの値段を確認。同じなのでならいいか。パヤルに戻ったときに受付のおっさんに昨日のことを言うとどうも話が通じない。実は二日目くらいから全体にものすごく冷淡になっていた。パヤルとしても誰もこない=金にならないドミトリーを開いていても何もいいことがないのだろう。パヤルの方も遅くまでうるさく騒いでみたり、グロー球をいじって蛍光灯がつかないようにしたり、いろいろしたけど全然こたえてないので結局最終手段として調理人が泥棒のマネをしてみただけだろうか。本当のところはわからんが歓迎されてない感じだったのでここらで出ていくのがよかろう。

 ということで出たのだが、わざわざデリーでだらだらしなくとも、とりあえずローヒラーの本拠地バレイリーに行ってみるのもよいのではないかとおもった。で、Navrangは放置して駅にいきまず列車の時間をたしかめると11:30だということでとりあえず2等の席なしを買う。幸先よく始発だったので席にありつく。

 何事もなくバレイリーに着くが17時ごろということで日没間近。駅前で宿さがしするがなかなか安いところがなく、結局最初のころにみつけた 350Rs の宿にする。うーむ。

 日記書いていたら電源が落ち、しょうがなしにすぐ寝ていた。その後日記を書く気力もなく、ニューデリーに戻るまでまともなところに泊まらず移動ばかりしていたので以後26日にまとめて書いている。そのうち電気も回復したのでテレビでもみていた。
 そしたら the son of sardaar というシク映画をやっていたのでみていた。CGの使い方が無茶苦茶なアクション娯楽映画で、大麻でも吸いながら作ってるとしかおもえないところがあるが、言葉よくわからなくても見てわかる程度のもの。まぁ内容はともかく、背景としている点がおもしろい。世代を越えた復讐というのがまずあり、それに加えて家の敷地内に入った客は敵味方関係なしにもてなし求めるものはみな与えるが、一度敷居を越えると敵味方関係が復活するというところ。シク間の争いが背景かとわくわくしながらみていたのだがしかしこういう風習があるんだろうか。


2015/12/21 月 ニューデリー

 とりあえず朝一にナジャフ・ハンの墓を見に行った。

 まぁこの通り上部構造もない素気ないもので細部の装飾すら完成していない。
 その後サフダルジャング廟にも行ったがこっちは豪勢だった。

 悪い病気がでて、100Rsの入場料をケチったので中の写真はみえないが、門から奥をのぞいた写真から、ナジャフハンの墓が土台程度でしかないことがわかるとおもう。
 まぁ門の装飾見ても同時期のイラン並でタイルではなく描いてるからあんまりたいしたことない。上に乗ってるのがだいたいどんなもんかわかったからいい。
 サフダルジャングはムガル朝関係者でこういう壮麗な廟を作れた最後の人間だということだがナジャフハンはアワドのような広大な領地をもってなかったからそういうのも効いてるんだろう。

 でも100Rs如きをケチるのは問題だ。一食で100Rsなんて普通なんだからもうそれくらいならケチらなくてもいいような気もする。これが約200円、昔のレートで16元とか考えると本当にたいしたことない。

 昨日歩きすぎたのと今日の歩きで足が疲れた。地下鉄でコンノートプレースに行って芝生で本でも読もうかとおもったが人が多すぎで落ち着かない。やめてとりあえず飯を食いにいった。

 60Rsのターリーだがこれがもう米が多すぎた。おかわりは全部断わろうとしたがおかわり入れるのが速すぎて困る。とりあえず全部食ったがもうそれで動けなくなってパヤルのドミトリーに帰って午後は寝ていた。

 パヤルのドミだが、2015年3月に泊まっている人のブログを発見。そのときは奥にちゃんと5つベッドがあったようだ。しかしその時点で全然人が泊まっていなかったらしい。地球の歩き方から削除されたからなんだろう。直接聞いてみるか。


2015/12/20 日 ニューデリー

-- Imperial Gazetteer of India, v. 26, Atlas 1909 edition, Delhi -- DSAL
 20世紀初頭のデリーの地図(たとえば上の地図)をみているとデリー城の西側に北へ長く伸びる丘があり、その丘の上にいろいろ記念物などが立っている。それをたどってみることにした。
 まずはイドガーに行く。

 日曜ということで子供らがクリケットに興じていた。外はもちろん中にある空の貯水池もつかってやっていた。よくわからずに行ったので中にいた人などに聞くと昔の「ナショナルモスク」とか言ってたのでたしかにキブラもあるし、ムガル朝の時代のものかとおもったが、今調べるとイドガーというのはラマダンあけの大祭イードのときに集合する場所で南アジアに普遍的にあるものらしい。なるほど常軌を逸した広さなのはそういうことかと合点した。
 その後、丘をたどるつもりだが町があってまっすぐ行けない。丘をたどったつもりであれこれ歩き回ったが、後で地図をよくみると、イドガーの西からまっすぐ北にのびる道が今ものこっている。まぁとにかくその道に合流したので北に行き、その地図でいうところの "Memorial Pillar 1857" と "Asoka Pillar" をみる。

 インド大反乱(セポイの乱)鎮圧の記念碑として立てられたのが最初の柱で、デリーの考古学局による看板によると1863年に立てられたとか。番人がいたけど金もとられなかった。ここからすぐ北にアショカ王の石柱がある。柱頭はなかった。こっちは中に入れなかったので説明が読めない。

 アショカ王の柱のところから丘を降りてカシミール門の方へ行く。とりあえずカシミール門のところにいってからあらためてニコルソン墓地を探したらロンプラの地図にでかでかとのっていた。そして入ってみたらなんということはない、ニコルソンの墓は考古学局によって柵で囲ってあった。

 前来たとき適当に調べたら、なんか破壊されたとか書いてあるのをみつけたがそんなことなかった。もっともロンプラには墓の海の中みたいなこと書いてあるし、明らかに長年手入れされず荒れたままだったようでようやく草を刈りだしたようだったし、探しづらいのはたしかかも。

 そこそこ歩いたので疲れて帰って一休みしてから飯食いにいった。うーむ。

 そういうとアショカ王の柱のところから丘を下ったとき、道端に猿がいたのだが、写真でも撮ろうとするとちょうど車が寄ってきた。何かとおもえばおっさんが車のトランクから米を出してきて猿にやっていた。


2015/12/19 土 ニューデリー

 先客の人は結局早朝3時半の予定が9時に遅延で帰ってきてまたでかけていた。結局12時間くらい遅延していたのか。その後帰ってこなかったので無事乗れたんだろう。

 昨日メトロにのったときには暑かったが、宿で寝てたらそれなりに寒かった。まぁちょうどいい気候か。

 今日は一日ちょっと外に出て寝ての繰り返しだったが、

 で体が疲れていたんだろう。ネットも使えなかったのでちょうどよかった。ネットは夜になったら使えるようになっていた。

 そういうと会う事になっていた日本食屋の人はどっかに出張して年末まで帰ってこないらしい。結局会う事にならないかも。

 このドミトリー、機能している気配がなかったのだが、昨日の先客が一日だけ利用したその日に着いたので入れることになったわけで、まぁ幸先よいといえよう。


2015/12/18 金 関空 → 上海 → ニューデリー

 昨日のうちに関空に行って毛布を借りて寝る。無事出国。飛行機待ち中。

 特に書く事もなく夜ニューデリーに到着。空港のゲートを出たとこでATMを探すが二台しか動いておらず、誰もならんでいない citibank ではない方にいくと20000ルピーは出せなかったのでとりあえず10000ルピー出して我慢した。エアポートメトロの券売機も空港内にあったのでそこで買うと駅で並ばなくてすむ。60Rs。

 ニューデリー駅から歩いてとりあえずパヤルのドミトリーに投宿。誰か一人いる模様で荷物がひとつある。ベッドの数が5つに減ってしかも入口に近い方の二つはマットレスがなかったりトランプが散らかったりしてまともに使われていない。ドミに来る人もいないのだろうか。ドミの横の部屋などは従業員が使っているようだった。

 とりあえず晩飯として鶏の揚げたもの80Rsを買ってくると先客が帰っていた。バラナシでシタールを習っている人だったが、バラナシ行きの列車が霧で遅延していて早朝出発になったのでとりあえずドミに戻ってきたらしい。この人は個室に一泊していて列車待ちで個室使うのももったいないからとドミにしたらしい。ドミが使われていなかったこと確定。しかもその人によるとドミのベッドの数が少ないのは前からだという。ネットで探しても最近の情報があんまりなかったのもそのせいか。

 従業員がうるさかったので気がつかなかったが、先客の話につきあっているだけで夜の0時過ぎてしまった。そしてパヤルのインターネットが契約切れでちょうど使えなくなる。地図サイトなんかを教えている場合ではなかった。そんな感じで疲れて寝る。


2015/12/17 木 山奥 → 京都 → 関空

 V713に貯めこんでいたファイルを一斉にHDDに移したらWindowsの動作がものすごく軽くなったwww

 うーむ。ファイルの転送がおそい。こりゃだめだ。あきらめるしかないか。

 あきらめて京都に降りてきて京都の部屋に残してある食材を始末するべく、マルちゃん正麺の袋麺を買ってみたのだが、これがすごい。できあがりが生の中華麺をゆでたものみたい。調べてみたらどうもインスタントラーメン史でも革命的な出来事であるようだ。普通は工場で蒸してアルファ化したものを揚げたり乾燥させたりして作るものを、これは工場で蒸さずに生麺のまま乾燥さすらしい。そのために家庭の鍋でゆでるときにアルファ化がすすんでちょうどいい塩梅で食べられるという仕掛け。なるほど。こんなのでてきたら他の乾麺なんか食えないのではないか。
本格ラーメン店を装って最先端の袋麺『マルちゃん正麺』を出したら、どんな感想が飛び出すのか…?試してみた結果:らばQ
 こんな記事もみつけた。
 インスタントラーメン業界ではそのマルちゃん正麺がひきおこしたノンフライ麺ブームが過ぎてフライ麺に回帰しているらしい。もう流行は過ぎたのか。
 食ってるときはうまかったがなんか後味がよろしくない。ゆで汁の濃いのを飲んだような感じが舌にのこる。たぶんこれ生の麺ゆでてるのとおなじだから案外ゆで時間がシビアなのでは。


2015/12/16 水 山奥

 雨。

 高速増殖炉BN-800がロシアで送電開始と第四世代高速中性子炉について - Togetterまとめ

 明日は... 雪?まず関空で試練かな。
 関空は夜毛布を貸し出しているらしい。

 18きっぷを売った相手から届いたという連絡がない。もう届いているはずだが。うーむ。
 届いた旨連絡があった。よかったよかった。

 旅行中の事故でデータが消えても泣かないようにバックアップ中。さすがに慌ててきた。

 5カ国の小学校の座席システム。 実は、全部違った。- Nadya Kirillova - 電通報


2015/12/15 火 山奥

 N-08DとSH-08Eの写真の比較のつづき。SH-08Eのデフォルトのカメラアプリの細部を云々しながらこないだの縮小した比較写真では細部もクソもなかったので、ピクセル等倍で切りだして細部を比較した画像を作ってみた。
 左:N-08D/デフォルトのカメラアプリ 中:SH-08E/デフォルトのカメラアプリ 右:SH-08E/Open Camera


 SH-08Eのデフォルトのカメラアプリが記録用としてはあまりよくないことがわかる。お花畑を撮るにはいいかもしれない。その一方で撮像素子自体はそれほど悪くない事も Open Camera で撮った画像でわかる。色味的には乾いた感じのN-08Dよりもいいかも。黒いところが黒いのがいい。
 Exmor - Wikipedia
 これをみるとN-08Dが使っている Exmor R は当時の最新素子でiphone4S,5も採用している。この次世代の Exmor RS をiphoneは引き続いて採用しているからスマホの撮像素子のデフォルトみたいなもんだろう。Xperia Z1f/A2を買う理由がまたできた。うーむ。

 暗いところのノイズも比較写真をつくるとこんな感じ。土蔵の奥の薄暗いところを撮る。

 SH-08Eのデフォルトアプリがなぜのっぺりとした感じに画像加工しているのかもこれでわかる。ノイズが強いのをなんとかするためだろう。まぁスマホのカメラの一般的な用途は花撮ったり人撮ったりするのだからこれがいいのか。
 まぁしかしこうやって詳細に比較してみると、暗いところのノイズはともかく、シャープの撮像素子の色合なかなかいい。N-08Dのはちょっと赤みがかっている。

 ここで N-08D のデフォルトのカメラアプリと OpenCamera の比較画像をしようとちょっと外で写真撮ってたがあんまり違いがなかったのでやめて、OpenCamera で土蔵の奥の薄暗いところを撮って昨日の夜撮ったものと比較。

 随分違うような気もするがホワイトバランスの違いだろう。撮ったタイミングがちがうのでなんともいえないがこれだけでいうなら OpenCamera の方がいい。

 脱退証明書と明細を送ってもらったおかげでなんとか国保関係の手続ができた。締日のトリック要注意。これで旅行前にやるべき除染関係の金まわりのことは終了かな。あとは帰ってきてから確定申告か。確定申告は期日を過ぎてから堂々とやろう。KDP関係の申告と消費税の還付ができるかどうかそこが大事だがまぁ今は知らん。

 パスポートがパキスタン大使館から送られてきた。ちゃんとビザも貼ってある。これであとは17日京都にでて、関空で夜を過ごし飛行機に遅れないようにするだけ。


2015/12/14 月 山奥 ←→ 京都

 ロシアで発見された「シギルの偶像」は世界最古の木造彫刻であることが判明(共同研究) : カラパイア

 ソ連軍用地図のタイルキャッシュを任意のディレクトリに設定できるようになっていたので、SDカードに移したりしてると画像ビューアが大変なことになったので.nomediaの反映のさせかたを調べてたりしてたついでに撮像素子のことを調べていただけで昨日の夜が潰れる。うーむ。

 自己評価が低い代償として目標が高くなり、さらに自己評価を低くする

 発掘やめて九州旅行行ってからの一年余りの写真の整理をしてこなかったので今から整理する。そのためにわざわざ総合資料館まできた。
 去年の今頃は吉野から和歌山あたりを巡っていたのか。忘れていた。
 除染の前までできたのできりあげて山奥に帰ってきた。


2015/12/13 日 山奥 ←→ 京都

 SH-08Eの画面のモードがケバいモードになっていたので自然なモードにしたらいい感じになった。写真の彩度がキツく見えたのはそのせいか。ただノイズが強い点はどうしようもない。しかしこれでN-08Dの代替できるかも。

 昨日の夜、18きっぷやりとりの掲示板に書きこんだり写真いじったりしてなかなか寝ずにいたので午前中コタツでやる気もなく半分寝ていたが、気がついたら18切符の金が振り込まれていた。速い。速すぎる。郵送先の住所も知らせてもらってないのに。
 住所確認。これから送付のため京都に降りる。

 ということで京都駅前の中央郵便局まで行って出してきたが、初めて知ったのが、京都駅前という重要な立地にありながら9台分も無料の駐車場があることだ。いやはや。
 まぁあっという間に18切符の現金化ができたのでよしとする。これで東京往復の交通費が計算できるが、5000円弱というとこだな。あわててやったわりには上出来上出来。

 SH-08E も N-08D も撮像素子は裏面照射型CMOSらしい。この裏面照射型CMOSの特性を探してみると、「ノイズが多い」「高感度のノイズだけは強い」ということらしい。となると暗いところでのノイズが目立つSH-08Eの撮像素子は本当に裏面照射型CMOSなのかという疑問が来る。この個体がハズレなのだろうか。
 N-08Dの撮像素子はSONYのExmor R for mobile。
 Exmor - Wikipedia
 なるほど写真の出来がよいのはよい素子をつかっているからだな。
 SH-08Eの撮像素子はシャープ製なんだろう。
技術情報:シャープ電子デバイス
 これから見るとちょっと落ちる3トランジスタ型なんだろうか。

 Open Camera というカメラアプリのいいところはファイルがデフォルトで撮影時間なところで、YYYYMMDD_HHMMSS.jpgという形式で保存されるため今までのように変換する必要がない。まぁ手間といってもスクリプト書くだけだが、機種毎にexifをしらべて機種別のスクリプトを置かないといけなかったからその手間が省ける。ということでカメラは全部これに置きかえることにした。

 64GのmicroSDXCカードを買ってわかったこと。ファイルをちょっと移動させるのも速い。read/writeの速度がわかっている場合、値段が大して変わらないなら速い方を買った方がよい。今回東芝のを買ってよかった。N-08Dの中に入ってる32GのmicroSDHCカードも速いのに変えたら写真撮影ごときでもたもたしないんだろうな。


2015/12/12 土 山奥 ←→ 京都

 MIT: まったく新しい海水淡水化法を開発・浸透膜も加熱による蒸発も必要なし - BusinessNewsline
 たまたま知ったこのサイトのMostPopularのところに並んでいる記事はどれも興味深いものばかりだ。

 ニューデリーの空港から市内へのアクセスは前回はバスをつかったが今でもバスは75Rsの模様。
 DMRC : Airport Express Metro Timing & Fares
 そういうと空港から市内までメトロをつかうと60Rsで行ける。そんなに安かったか? 200Rsくらいした気がする。前回の日記を見ると逆から行ったときは35Rsと書いていたが、今逆から乗ると20Rs。やっぱり値下げしたんだろう。ニューデリーから Dwarka Sec 21 まで27Rsなので合わせて47Rs。よほどルピーに困ったり時間が余ったりしたときでないと使わんな。
 今回デリー到着が1940なので出れるのが 21時くらいか。まぁメトロに間にあうな。

 さて。昨日買った18切符の余りを現金化すべく京都に降りてきた。

 大阪の百均で買ったポンチョ系のカッパを干しに出したら、カッパの雨ののこりでぬれた手から大阪の下町のゲスい匂いがする。ということで干す前にまた洗った。

 「第二次世界大戦中、ジープの新車はこんな風に出荷されていた…:らばQ

 4回分の買取価格が8500円だったのでやめて帰ってきた。
 わけあおう!青春18きっぷ掲示板
 ここでなんとかすることにした。

 SH-08Eのカメラをなんとかするべくカメラアプリをいれてみたが、カメラアプリを変えるだけで精細さが向上した。Open Cameraというのがよい。ただ、カメラアプリを変えるだけでは変わらないのが色あいで、これは素子の問題かもしれない。くらいところをそういうアプリでうつしてみたら、ノイズが強かった。デフォルトのカメラアプリが画像の細部を曖昧にしてしまうのはこのノイズを消すためにエフェクトをかけているせいかもしれない。
 N-08Dの方はカメラアプリを変えてもたいして変わらなかった。こっちはいい素子でも使っているのか。結局これをカメラ用に持ち歩くことになるんだろうか。タブレットが二重で面倒い。

右上:N-08D 左上:SH-08Eのデフォルト
右下:SH-08E/HDCameraULTRA 左下:SH-08E/OpenCamera




 うーむ。


2015/12/11 金 (大阪) → 東京 → 京都 → 山奥

 東京到着。雨。

 パキスタンビザ申請終了。申請書がんばって書いたが受付けた人はほとんどチェックしてなかった。ぐぬぬ。受領日は翌営業日ということで月曜だったが、宅急便で送ってくれるらしいのでそうすることにした。つーことは今日中に帰れるな。どうするか。

 月曜まで待たないといけないとおもったのは、返送が普通郵便かなにかという話がありそれだと間にあわないとおもったからだが、宅急便なら確実に間にあうのでそれでいい。まぁ人に会う貴重な機会ではあるがいいや。

 そういう次第であわてて東京駅へ行って郵便局で金をおろし、18切符を買い、大雨と風でダイヤが乱れている中をなんとか京都まで帰った。今週中にビザ関係の作業完了。寝る。


2015/12/10 木 山奥 → 京都 → 大阪 → (東京)

 よしリーガルインターネットインの書類ゲット。
 ところでドミ350Rsか... うーむ。2011年には200Rsだったのに。

 WORLD RUNNER ~世界一周旅日記~
 このパキスタン宿情報をみると2014年10月時点で250Rs。近所の他の宿が500Rsとも書いてあるのでそれでも客来るならと上げたんだろうか。

 今気付いたが、インドビザ受領の書類をよくみると、赤いハンコで今日の日付が押してある。印刷の方には11日と書いてあるがどうもこの赤いハンコが正しいようだ。今日もらえるのか!

 ということで、明日の朝までに東京に着くべく、夜行バスを買った。2450円。京都には諸般の都合で車なしで降りてきたのでちょうどよい。即日受領になるかどうかわからんがそうなれば東京一泊で済む。まぁ明日の朝次第だ。

 100円 = 85パキスタンルピー = 55インドルピー
 2011年頃は1ドル80円前後だったのが100円前後の時期を経て今や120円前後に来ているわけだから、値打ちが下がって当然。パキスタンルピーは1ドル85円前後から100円余にちょっとさがり、インドルピーは1ドル45ルピーから65ルピー台に下がっている。若干パキスタンルピーの方が強くなっている。

 そういうわけで無事インドビザ受領。パスポートを回収したので夜行バスで東京へ向かう。さて明日は一日で済むのか。即日でもらえないなら来週の月曜受領ということになり、土日は東京で過ごさねばならなくなる。だれか頼って泊めてもらうしかない。どこも所帯じみて来ていてなんか泊めてもらうのに気がひけるようになってきたので野宿でもいいような気がしてきた。まぁ金銭的には平日の夜行バスで往復するのが安いのだが、時間的にインド渡航前に家で準備する時間が減るだけなので願わくば金曜だけでおわって土曜18切符でチンタラ帰れるようになってほしい。


2015/12/09 水 山奥 ←→ 京都

 もう霜が普通に降りる季節となりました。寒い。
 そして日が照ってくるとビシビシというすさまじい音をたてて霜などが溶ける。

 おもいだした。地図系のファイルを入れたHDDはアフガニスタンで壊れたんだった。その昔ダウンロードした謎の地図がない。も一度中国の怪しいサイトで探すか。

 京都まで降りてきた。

 中国高速公路及城乡公路网地图集の2015年版が落ちてるけど拾えない

 帰ってすぐ寝てしまう。


2015/12/08 火 山奥

 地球上の人類はこの先もどんどんの増えていくのか? 科学者がマウスを使って行った実験の帰結とは? - BusinessNewsline

 インド行ったら散々な目にあったったwwwwwwww【画像あり】 : 2chまとめ/2MONKEYS.JP

 【拡散】 在日の主張『自分達はちゃんと税金を払っている』のカラクリが判明 税金が全額還付:あじあにゅーす2ちゃんねる
 なんかこの辺の話、どんどん物騒になってきているな。

 シェールシャーの墓のあるササラムの写真
 近代デジタルライブラリー - 印度旅行記 (天沼俊一1922)
 ササラム :: 東文研アーカイブデータベース (尾高鮮之助1932)
 ほとんど同じ写真があるが微妙に角度が違うのがわかる。
 Mausoleum of Sher Shah - Lonely Planet
 うーむ。入場料100ルピーか。
 というか行くこと決めておいてなんだが、博物館系の外人料金が高い。ぐぬぬ。


2015/12/07 月 京都 → 大阪 → 京都 → 山奥

 インドビザ申請成功。指摘受けたとこはすぐ作りなおしてローソンでプリントアウトして提出。金曜受領の紙を貰う。V713も電池がヘタってきたとはいえそれくらいの時間はもつのでなんとかなった。次はパキスタンビザだが、金曜受領なので行動が来週頭になる。東京の大使館に行って出せば翌日受領という事だが。
 水曜くらいにもらえればその夜のバスで東京に行くというのが安くついたが金曜受領だと週末特価で高くなるので安くはない。うーむ。18切符か?

 その後日本橋まで歩いて電気街を見物。RZ4とかいい出物があったが金ないので買わない。レッツノートは今N10くらいが3万くらいで出ててお買い得か。SH-08E用にマイクロSDXCの64Gを買う。東芝。2300円程度。
 タブレットとかSIMフリーのものとかいろいろ出ていておもしろそうだった。金がないとなにもできない。
 P-01Dの電池が切れてしまったのでSH-08EにぷららSIMを差しなおしたが普通に使える。これでテザリングできればもうSH-08Eをメインにするのに。SH-08EがMVNOSIMでテザリングできないのでP-01Dを使わざるを得ず、カメラの出来が微妙なのでN-08Dを捨てられない。SIMフリーの中華タブレットでも買ってしまえばそれでいいのかもしれない。


2015/12/06 日 山奥 → 京都

 中国東方航空のデリー行きをポチった。12/18出発で3/15帰着。57650円。3ヶ月は長すぎるか否か。次は問題のインドビザ。
 いちおうWeb申請しといた。次は写真。ということで京都に降りる。

 写真は5x7の証明写真とって適度に切ったらいいか。インドビザうまくいけばパキスタンも挑戦したい。

 5x5で白い背景の証明写真機を探してあちこち行って最終的にヨドバシカメラの地下のカメラ現像コーナーにあった。しかも5x5が二枚と3.5x4.5が二枚あわせて600円。非常に都合よい。
 その後ヨドバシの地下をふらふらしていたらビンゴとかやってたがなんということはない、Yモバイルの契約を結ぶためにビンゴで客寄せして、ゲーム機を特別の破格の値段で売る真似をしただけだった。さすがソフトバンクは詐欺的。

 しばらく前チケットを買うかどうか逡巡してたとき、前回デリーで飛行機待ちしてたときしばらく遊びに行ってた日本飯屋がどうなってるか検索してみたらそのあるじのおっさん(同年輩)のmixiをみつけてつながってみた。どうももう廃業するらしいということがわかっておもしろそうなので会う約束をしている。まぁ会えそうな気配だ。

 インドビザの申請書何枚でも作れるなこれ。ちょっと心配なところを変えてもう一回作った。

 そういうわけで明日は朝から大阪に行く。


2015/12/05 土 山奥 ←→ 京都

 霜がおりた。これくらいが普通のはずなんだな。暖かすぎた。

 といいつつ寒くて始動が遅れる

 また資料館行ってきた。帰り雲ケ畑通ってみたが結局道が悪いのであんまり速くない。

 おもいきってとりあえず本読みの場所をインドに移すという手もあって、12月中に行ってしまうのはその手なのだが、しかし今まで思いきってそういうことをすると後がロクでもないことになることがあるので中国東方航空のチケットをポチるのを躊躇している。
 エアアジアのインド行きだと南インドなら5万以下の組み合わせも可能だ。まぁ年内は無理だが。

 中国東方航空、ポチろうとするとBad gatewayがでる。鯖の調子がわるいようだ。


2015/12/04 金 山奥 ←→ 京都

 今日は寒い。これがあたりまえか。

 今日も府立総合資料館行ってきた。ここいいわ。勉強室があり無料の駐車場がある。1630に閉館なので遅くまでいれないがそれくらいがいいのかもしれない。問題はほとんど体を動かさなくてすむことか。

 日本語や中国語の論文ならすぐ読めるのに英語だと何日もかかるのはなぜか。....なぜもくそもスラスラ読めないからだが。

 インド行きの飛行機12月の分を買うとすると18日しか安い選択肢がない。1月は11日以降。こっちはいくらでも選択肢がある。中国東方航空。帰りは3月中旬にするか。
 デリーの12月の天気 2015 - インドのデリー州のAccuWeather天気予報 (JA)
 これをみると今くらいが丁度いいな。これから最低気温が10度を割ると。で二月に入ると最低気温が10度を越え三月中旬以降は暑い。ふむ。

 久しぶりに電子書籍作りをやってみているが久しぶりなので手が遅い。下準備だけやって寝ようとおもったがその区切りまでなかなか到達できず寝れない。


2015/12/03 木 山奥 ←→ 京都

 暖かい。

 ぷららモバイルLTEのプロバイダ側のネットフィルターを完全にOFFにするとそれなりの速さがでると書いてあるところをみつけたので今までレベル1程度のぬるいフィルターをかけていたところ全部とっぱらってみた。まぁ実のところ今でも不満はなかったりする。あんまり変わらんのではなかろうか。

 寧ろ遅くなった。やっぱり先月だけ速くなってたのではなかろうか。

 うーむ。インド行くならもうチケット取っておいた方がいいんだろうが。前回とはちがって目的地を何個か設定できるのでたぶん一ヶ月だと足りないよな。かといってボヤボヤしていると暑くなってしまう。いっそ12月 → 3月で取ってみるという手もある。3ヶ月。さすがに長いか。


2015/12/02 水 山奥 ←→ 京都

 今日は府立総合資料館行ってきた。行きは京見峠帰りは貴船経由。

 グラフを変えて見る「過去最高の防衛費」(dragoner)


2015/12/01 火 山奥

 寒いからと言ってひきこもっていると血の巡りがわるくなって余計寒くなるのだが..

 199.水木しげる論 - 山田視覚芸術研究室

 せっかくもらったPDF、家にいると全然読みすすめれないのでまた車で出かけて読んできた。SH-08Eだと電池が全然持つ。おそらく一日つけっぱなしでも行けそうなので電源にこだわらずにどこでもできそう。あとはSDカード差したらどれくらい電池が減るかだな。

"although India could not sustain extensive forms of pastoral nomadism, a large part of its population was permanently on the move, be it as herders or as migrant workers, traders, pilgrims or mercenaries. In fact, well into the eighteenth century, the mobility of Arid India is not represented by tribes of pastoral nomads, but by wandering bands of warriors looking eagerly for employment on the huge Indian military labour market." (p.43)
"Babur’s war-band was not an ascriptive tribe but an open status group of various warriors and their families." (p.44)
"Babur’s ideal was not the tribal cohesion of the Afghans but the solidarity of ghazis." (p.46)
"Mughal ghazidom was transformed into a highly idealised concept more suitable for settled kings." (p.46)
Jos Gommans "Mughal Warfare : Indian Frontiers and High Roads to Empire, 1500-1700" 2002
 すげー。なんで?と思ってたこと(Sikhはつまるところどういう集団?流浪のバーブルってどういう軍隊をもってたの?なんでインドに流れてきたよそものが天下を取れたの?)に一応の説明がなされている。草原の遊牧民はいないけど流動人口は多く中には馬業者とか武装修行者なんてのもいてそういうのを寄せあつめて軍隊になることもあったとか。

 6月くらいからなぜか本を読む方面が停滞していたが、ちょっとここらで巻き直すことができそう。


2015/11/30 月 山奥

 寒い。

 Chamba District Map
 Chenab川の渓谷に今のチャンバの領域が伸びていることがよくわかる。チャンバからカシミール方面は trekking route となっているので車は通れないということか。なるほど。
 しかもこの渓谷とチャンバ中心部を結ぶ道が自動車道路として整備されたのが2008年らしい。
 Kishtwar Kailash road
 Charanpreet Singhs Bike Ride Through Killar Kishtwar Route
 Kishtwar - Keylong - Dangerous Roads - India Travel Forum | IndiaMike.com
 Chenab渓谷を下る道が険しいのは前検索してわかっていたが、「インドで最も危険な道路」としてかなり有名になっている模様。

 CF-T7にubuntu15.10を入れてみた。fcitxの使い勝手を試してみた。skkとlibpinyinが使えるのでいいかという印象。libpinyinにはbopomofoモードがあるのでこれがよい。ところでCF-T7のファンの音がうるさい。昔はこれをメインに使ってた時期もあったのだがあんまり使いたくない。


2015/11/29 日 山奥 ←→ 京都

 コタツ布団が湿気て埃っぽいので干したいのだがこの時期の山奥はずっとグズグズしてあまりカラリと晴れず干せない。ついでに京都の祖母部屋の洗濯機で洗濯してみることにして降りてきた。
 洗濯できたが市内もあんまり天気よくない。意味なかったか。

 Jangladesh - Jatland Wiki

 町全体で合法的に納税拒否 「お手本はgoogle」 イギリス|世界の裏側ニュース

 よく知らない地名が散々でてきて一々調べながら読んでるので全然進まない。
 しかし中印国境のよくわからない地名からここまで思えば遠くへ来たもんだ。

 まだ地理のところから抜け出せてないけど帰ろう。


2015/11/28 土 山奥

 昨日あんまり寒いのでコタツを出したらそのまま寝てしまった。夜中に目が覚めて布団で寝直した。

 国文研データセット簡易Web閲覧
 これは便利だ。

 いかん。朝も横になったらすぐ寝てしまい夜も横になったらすぐ寝てしまいでコタツは実にけしからん。あんまり読めなかった。


2015/11/27 金 山奥

 もう11月も末か。そら寒いわ。

 カメも線路も救う溝…ポイント挟まる事故防止 JR西、須磨水族園実用化 : 読売新聞
 この件、読売の図解がわかりやすかった。他のとこはどういうことかわからなかった。

 おぉぉ
 この本すごくおもしろいぞ
 戦争の歴史には地理が大事だねということで地理でわかりきったことを書くのかとおもえば、インドに広がる乾燥地帯が西部のみならず、南部まで広がっていることを説き、ガズニ朝の侵入以後の教科書的にいうところのデリースルタン朝の時代には北部平原・中部のデカン高原・南部のカルナータカの三つの乾燥地帯のそれぞれが軍事行動の舞台となって政治的な塊となり、、それに対応するようにラージプート・マラータ・ナーヤカなどの戦士階層が成長したと説く。そしてその三つを結合したのがムガル朝だと。わかりやすい。

 SH-08Eで読んでみたが、結構電池もつことがわかった。これいいな。

 うーむ。インドビザも相当面倒くさくなっている模様。インドビザ取るだけの用意したらパキスタンのビザなんか簡単に取れるじゃなかろうか。


2015/11/26 木 山奥 → 京都

 マイクロソフトからのダウンロードが1Mbps程度占有したまま止まらない。京都に行ったときにWindows10TH2のISOでもダウンロードしようとして電池が足りず途中で止めて帰ったけどそのせいか。せっかくなので京都に降りて電源と太いwifiのある四条のマクドナルドに行って好きなだけダウンロードさせることにする。
 ISOできたら止まったのでやはりISO作成のための通信だった模様。

 帰ってうちの親のレッツノートをWindows10TH2にする。MX3の方は勝手になっていたのでWindows7マシンをアップグレードした。普通に使えてる模様。

 やってたことも形にしたのでとりあえず新しくもらったPDFにとりかかる。
 Irvineのもarchive.orgにあるのか。
 Moghul Period in India : DigitalBookIndex
 こんなんみつけた。archive.orgに飛ばされる。

 「難波津の歌」全文記した木簡初出土 - 産経WEST


2015/11/25 水 京都 → 山奥

 エアアジアのデリー便再開とな。
 サイトの予約のところでチマチマ確認すると日本発は関空のみ。水金土。11時発で23時到着となかなかよい感じ。来年2月から。日毎に違う価格だが現在のところ一番安い席で諸税コミで片道3万円台。4月くらいになると3万切る価格もでてくる。
 中国東方航空は往復で買うと5万5千円くらいで一番安いが、安い便は到着時間が変で中国の空港(上海/北京)で相当待たされてだいたい一日かかる。日本→中国と中国→インドで人が選ばない便の組み合わせだからそれはしかたないのかもしれない。
 デリーの格安航空券 | インソリューションズ
 これみるともっと安い便があるが諸税抜きの価格か?

 そういうと昨日資料館で吉田寮関係の資料が製本されて置いてあるのをみた。三高の吉田寮と近衛寮が並立していたと誤解していたが、グラウンド南の吉田寮が潰されて新しく現在地に1913年に建てたのが今の吉田寮らしい。そのときにも建て替えで一悶着あったらしい。完全に誤解していた。学生集会所とか近衛会館とも連結していて、南寮側から管理棟への突き当たりにあるドアはその連結部の通路だったようだ。

 第2総軍 (日本軍) - Wikipedia

 こないだ親のレッツノートいじって気付いたがMX系ってキーボードの右下が短かくつまっている。そこに注意してレッツノートのサイトの写真をみてみるとそういうことになっているのはMX系だけ。なんでだ。

 山奥に撤退。

 最近気がつくとテザリングがつまって停止していることがあるが、そういう時はほとんど何もしてないのに数十メガ通信している。で、リソースモニタで観察すると、plala-akamaiからひたすらダウンロードしている。akamai...
 SvchostAnalyzer でみると当該プロセスはどうもウィンドウズのプロセスのようなのでしかたないとはおもうが何なのか。通信量多すぎる。


2015/11/24 火 山奥 → 京都

 もう雨降ってるが天気予報では南部は雨降らなそうなので市内は降っていないにちがいない。京都に降りる。

 府立市立の図書館は閉まってたので総合資料館行ってきた。収穫なし。

 寺町に行ってきたが結局64GのマイクロSDカード買わなかった。2000円台後半で手に入るのを確認。それはそれとして priori3 というのがPC工房に置いてあった。税抜12800。うーむ。XperiaZ1fの中古の方がいいのはまちがいないが安いしこれでいいかもしれん。問題は電波の仕様だが。
LTE1/3/8/19
3G(WCDMA)1/6/8/19
 必要最小限はカバーしてるな。うむむ。

 インドカレーをごちそうになる。あげたつもりのレッツノートのCF-T7がwifi使えないというので戻ってきたのでどうするか。

 ぷららモバイルLTE、やはり市内だとやや遅い。市内で速度の実験しようとおもって京都の部屋に泊ることにしたが素直に田舎に帰ったらよかったか。


2015/11/23 月 山奥

 うーむ。PDF読みながら寝てしまったが起きたらV713落ちてた。もうバッテリーはないようなものだなこれ。

 昨日のつづきでpdfを読んでたつもりだが寝てしまう。最近の生産性がやばい。

 明日京都行くついでにマイクロSDカード買おうかな。64G安い。

 神威隊と廃仏毀釈


2015/11/22 日 山奥

 ちょっと奈良まで行こうかとおもったが連休でこんでるだろうとおもってやめた。


2015/11/21 土 山奥 → 府民の森 → 園部 → 山奥

 西川善介『日本林業経済史論』専修大学社会科学年報41-43, 2007-2009
 わが山国は民間の資料が豊富にのこっているせいで日本史の焦点のひとつになっている。これは林業史の見直しを狙ったものでおもしろい。

 東北電力への賠償金の第三回を振り込んできた。ぐぬぬ。貯金がやばい。やはりもう一ヶ月働いておけばよかったか。

 日吉町郷土資料館
 まぁ関西文化の日で無料ということで行ってきたがそもそも200円なのでケチるような額でもない。日吉ダムで水没した世木を中心に展示。大堰川水運の中継地として栄えたということでそういうのが中心だが、このあたり鮎をとって京都に売りにいく販路が確立していたらしく、途中で水を足しつつ生きたまま嵯峨の問屋まで運んだそうな。
 移築してあった民家もあったが、さすがにうちのあたりと同じような形だった。

 あとついでに園部にも行ってガソリン入れて帰ってきた。

 世間は三連休なのか...

 かつて日本人がいた“本塚”めぐり - DPZ
 パキスタンのギルギットにもそういう宿があった。

 キンコーズって京都にあるのか。

 葛上神社
 添御県坐神社
 いやいや。奈良に住んでたときこういう神社が近くにあったとは知らんかった。このへんを根拠にしていた小野氏系の杣人が平安京をつくるとき丹波の山国に来たとか堂々と書いてある。なんだ。大神氏系図、なにか元ネタがあるはずだとはおもってたけどこれか。


2015/11/20 金 山奥 → 美山 → 園部 → 山奥


 藤田元春が神官の子だというがそれはこの諏訪神社ではないかとおもい、美山の一番北の鶴ヶ岡まで行って諏訪神社を見にいってきた。そしたら今の神主が落葉を集めて焼いてるところだったので、聞けることを聞いてきた。
 その後、美山の図書室に行って「美山町誌」と「ふるさと鶴ヶ岡」をザっと読む。案外郷土資料少なかったのでついでに南丹市中心の園部まで行って図書館に行ってみるが、ここで美山の資料を探すのがまちがいだった。ついでに日吉町誌をナナメ読みしてくる。
 という感じで一日過ぎた。

 蓮如が吉崎御坊から退去するとき小浜から知井→宮脇→海老坂というルートでその後摂津まで抜けたらしい。やはり小浜からみて美山方面は亀岡・大阪方面へのルートだということなんだろう。明治以降の小浜街道や現在の国道162号線にひきずられて小浜方面から北桑田を抜けて京都へ行く道があったみたいなことを書く人がいるがそれは錯覚だとおもう。最短ルートは若狭彦神社のある谷から小入谷→久多→八丁平→大見→花背峠→鞍馬方面のコースのはず。
 日本風景街道:登録マップ
 近畿の風景街道|近畿の風景街道一覧|西の鯖街道
 「日本風景街道」なるものの一つ「西の鯖街道」として登録されているがまぁそれが妥当なんだろう。このルートは観光のために一部歪められているところがある。山国を通る必要はないだろ。


2015/11/19 木 山奥

 ゴキブリかとおもったがヘリカメムシとかサシガメの一種かもしれない。動きがにぶすぎた。昨日もう一匹みつけた。しかしそれにしてはしばらく前に徘徊していたものはスピードが速かったので鼠もいたのかもしれない。まぁ得体の知れない音はしょっちゅうしているので何でもいいのだが。
 あとでゴキブリの一部分が蟻の巣に運ばれているのを発見したのでゴキブリだとおもわれる。まぁいろいろ生息してるようだ。

 シャヒードの間違いでは。

 新石器時代に生殖できた男性は「極度に少なかった」 « WIRED.jp

 親がうるさいのでエンジンオイルをいれかえる。ヴィヴィオのために買ったエンジンオイルののこり。コメリの10w-30。いれかえたらわりと力がでるようになったが燃費は落ちた模様。

 小酒井儀三という人物についてよくわからない。昭和19年まで著作を出している。京大系だとおもうのだが。


2015/11/18 水 山奥

 徘徊していたのは鼠ではなくてゴキブリだった。夜中みつけた。動きが遅いので袋に入ったのをそのまま外に持っていけた。外に持って行ったら消えたのでどうなったか知らない。

 自転車の鍵がなくなって出てこない。こないだ京都に降りたときに気付いてそのときは歩いてなんとかした。しかしこれから歩くしかないようだ。

 東北電力どうしたんだ?

 北桑田郡誌を読んだだけではわからないことがわかった。何で調べたのかおもいだせない。
 わかった。見落していた。これでなにかを書くほどの資料もないことがわかた。

 京都歴史散策マップ -財団法人京都市埋蔵文化財研究所

 平壌亭 園部店メニュー2
 園部の道沿いに平壌亭という焼き肉屋があり気になっていたがメニューはこんな感じらしい。高い。冷麺をみると「韓国冷麺」が840円する。うーむ。北系じゃないのか... おもしろくないな。

 SH-08E に FOMAのSIM差してみたが使えない。N-08Dができるのでこれも当然いけるとおもっていた。うーむ。ただのタブレットとして使うしかないか。しかし電話にもならず (ドコモSIMがFOMAだから) テザリング端末にもならず (データ通信のSIMは格安SIMだから) という状態でこれを持ち歩くのは荷物が増えるだけで不便という結論になってしまう。
 一番理想的なのは7インチタブレットで電話もデータ通信端末も兼ねる状態。機械的には今ドコモに行くと SH-05G が手に入るのでそれが最もよいのだが、通信量の制限と金の問題でドコモでデータ通信つかうのは避けたい。かといって割り切ってドコモを捨ててぷららSIMに一本化するのも微妙。


2015/11/17 火 山奥

 昨日はとっとと寝てしまったがその間にwindows10がTH2化していた。何が変わったのかよくわからんが、pdfの関連づけがedgeになっていた。sumatraPDFからAcrobatReaderDCに変わって間もなく変わったがまぁ何でもすぐ開ければよい。archive.orgから落としたjpeg2000画像を含むPDFの展開が早くなった気がする。

 毛沢東は日本軍と共謀していた――中共スパイ相関図(遠藤誉) - Yahoo!ニュース
 中共が阿片を生産して満洲に輸出してたとかいう話は聞いたことがあるが、こういう形で具体的に中共と日本軍の回路がわかるのははじめてか。

 パリ同時多発テロとパンドラの箱を開けた日本人テロリスト(dragoner) - Yahoo!ニュース

 SH-08Eをうまくなんとかしてデータ端末にしたらよいかとおもってたが結局無理だとわかった。加えてSIMロックも解除できないので海外には持っていけない。やはり自分が想定するような用途のためにはXperia系でないとだめだ。
 では今N-08Dが担っているPDF閲覧+電話+カメラの機能が代替できるかというと電話は裏側でできるらしい。PDF閲覧はSH-08Eの方がよい。SDXC対応なので容量多くできる。N-08Dは32GまでなのでPDF類をいろいろ削除する必要があった。カメラがすこし微妙。なんかはっきりしない。これについてはN-08Dがよすぎるのか。

 西の鯖街道と当館の歴史 きぐすりや
 これはおもしろそう。

 エンゲルベルト・ケンペル - Wikipedia
 ケンペルの日本誌の付録が日本で1801年に翻訳されたとき「鎖国論」と訳されたのが「鎖国」の言葉の始まりらしい。

 うーむ。まだ東北電力の第三回振込の紙が来ない。


2015/11/16 月 山奥

 c-0001.c-msedge.com ? なんだこりゃ。マイクロソフトか。
 午前中延々1-2Mbps程度のダウンロードをつづけているのだが何なのか。
 ウワサの「TH2」がついに登場:Windows 10初の大型アップデート公開 - ITmedia PC USER
 これか。

 結局途中で終わった。延々ダウンロードしておいて何だ。

 SH-08Eのroot化は失敗。現状ではお手軽にはできないようなのでどうしたもんか。この機械。たしかにN-08Dに勝るところが多いがちょっと重い。

 いわゆる鯖街道についてとりあえず大雑把にまとめてみた。

 若狭方面から京都方面への物流の流れはこんな感じで、やはり小浜方面からの荷物は東側の琵琶湖経由か熊川から朽木方面を通って京都に行くのが主流で、小浜から北桑田方面に入ってくる荷物は北桑田自体と園部方面が消費地だったようだ。北桑田を京都への中継地に使っていたのは高浜方面ということになる。宮脇の宮というのはその合流地点にある道祖神社のことで、ここに道祖神がある事自体興味深い。
 明治以後の道路改修ではこのルートでは山越えできず、現在の162などは細い線で描いたようなルートを選ぶことになる。


2015/11/15 日 山奥 ←→ 京都

 夢。地獄に行く事になったが水滸伝の知識のおかげで入門の責め苦を免れる。しかも地獄で水滸伝の仕事をすることになったので他にも数人技能のありそうな人間をあつめる。

 朝から変な夢をみたせいか起きたら動悸がしていた。しかも5時前。除染だと起きる時間か。昨日日記を書きかけで寝たのでとりあえず書いておいた。

 パリのテロについてtwitterではテレビだと情報が入らないとかいう論調があったが昨日の朝出発前にNHKで現在パリでテロ進行中というニュースをみてから出た身にとっては謎。

 昨日親が携帯+SH-08Eという体制からスマホ一本化してSH-08Eが余ったのでもらってきた。N-08Dに比べて重いが性能的には優れている。P-01Dが担っているデータ端末という機能をこれに置き換えたいとかいろいろ考えたがMVNOテザリングに対応していないことを忘れていた。うーむ。
 カケホーダイライトなんてプランが登場していたようだ。それだと月7000円体制になる。親はそれにしていた。

 rootingtool発見。うーむ。

 ちょっと京都に降りて百均でSH-08E用のものを買って帰ってSIMを差し換えていろいろしていた。うーむ。plalaモバイルLTE、山奥で試すかぎりでは3Gの方が速い気がする。なんか一日無駄に使った気がするぞ。


2015/11/14 土 山奥 → 美山 → 高浜 → 若狭本郷 → 山奥

 なんかネットが速いとおもっていたが、いつのまにかこのあたりLTEになっていたらしい。しかも電波がちょっと強くなったようでドコモのサイトのエリアマップでもちょっとかすっている気がする。もっとも機器が3Gだし3Gの方のエリアマップは変化なしだが、まぁアンテナは共用のはずだからLTEのエリアマップの方が最新なのだろう。
 航空写真の方で子細に検討した結果、今まででも一応FOMAプラスエリアではなくFOMAエリアに入っていることがわかった。


 とりあえず周山まで行ってから漆谷を越える。漆谷から先の一車線の自動車道は舗装してあるが林道状態なので明治以降使われなくなったのもわかる。そこから神楽坂経由で美山に入り、とりあえず知井の奥まで行って知井坂の入口まで見に行く。見るからに山道。なるほど明治以降このルートについて触れられなくなるのも無理はない。あとで読んだ名田庄の地方誌にはこのルートは運搬には向いていないと書いてあった。そらそうか。その後また神楽坂の方まで戻って神楽坂の旧道も見物してくる。


 美山かやぶき美術館に付属している郷土資料館
 街道沿いにあるし関西文化の日でタダなので入ってきた。以下同様。
 民具が並んでるだけだが、そのひとつひとつに説明が付されていてわかりやすかった。麻の繊維があったが、しなの木の皮も同じように繊維として並べてあった。苧桶というのがなくなっていたので聞いてみたら単純に撚った麻を巻きながら入れておくもので桶みたいな形をしていたらなんでもよいらしい。

 そこから高浜まで行くが、美山から名田庄に降りてそこから峠を二つ越える。さぞかしクネクネした道だろうとおもっていたら、ループなんかを駆使して通りやすくしてあったので案外早く着いた。もう昼は過ぎていて時間もあまりないのでスーパーで適当に買い食い。

 高浜町郷土資料館
 ここの展示は福井県立若狭歴史博物館と展示のスタイルが似ていた。なんか祖型があるんだろうか。高浜は小浜に対してどうしても従の立場になるようで、古墳も控えめだったりするが、おそらく地形が険しかったということだろう。奈良時代の若狭の税は塩と御贄としての海産物らしいが、平城京の出土木簡の示すところでは高浜は御贄ばかりだったらしい。それに対しての説明はないが、おそらく高浜のあたりはそのころから港として有望だったということだろう。塩を取るには砂浜がいる。砂浜があるところは遠浅なので港には向いていない。とか書いたけど海水浴場あるなあのあたり。
 まぁしかし若狭地方は鎌倉時代の神事を残しているあたり格が違う気がする。講なんかはうちのへんと共通するものもある。舞鶴との境にある青葉山という形のよい山が修験の山になっていたらしい。
 あとは戦国時代ネタくらい。高浜街道をたどった身としては近世近代の展示がなかったのが残念。

 おおい町立郷土資料館
 図書館と併設している施設で、今日は関西文化の日ということでお茶席を設けたりしていたらしいがもう4時をまわっているので資料館の方には誰もいない。そもそもここの資料館は声をかけて電気をいれてもらう仕組みのようで、図書館に入って郷土資料を読んでから出るときにそれがわかった。ただ閉館5分前なのに入れてもらえたのはありがたい。
 ここの展示は現代に近い方から遡る形になっていた。高浜とは違って古代は製塩が盛んだったようだ。製塩土器が並んでいたがその薄いこと。こんなに薄いの他にあったっけとおもうくらいだがそもそも製塩土器の大きさも違う。たぶん中央とつながってものすごい需要があったから古代であっても本気で事業化するとこんなんになったということではなかろうか。
 近世末の禅僧なんて展示で取り上げてるとこはじめて見たが、水上勉の若州一滴文庫の名前の出典だからかもしれない。真珠の養殖もやってたようだ。

 午前中旧街道さぐりで時間つぶしたこともあって帰りは暗くなった上に雨風も激しく、帰るのも大変だった。


2015/11/13 金 山奥

 寒い。

 ちょっとインドのことは脇に置いて昨日の夜二階からひっぱりだしてきた郡誌を全部読むつもりでいるがやっぱり家にいると進まん。昭和の郡誌は昨日の夜のうちに読んだ。大正の郡誌は藤田元春がまとめてるだけあって今でも読むにたえる。というか郡誌のレベルを越えている。明治の郡誌はそれなり。

 明治初期の北桑田経由の京都小浜を結ぶルートは 鷹峯 → 杉坂 → 小野 → 笠峠 → 栗尾峠 → 周山 → 五本松で左折 → 矢代 → 漆谷峠 → 神楽坂 → 知井 → 知井坂 → 小浜 だったそうだ。

 東北の方の地方誌をみると、明治維新ののち入会地などの共有地が召し上げられて国有地になり、薪を拾いに行くだけでもいちいち申請しないといけなくなったりしたのだが、北桑田郡誌をみるとそういうことはない。
 東北の方だと明治になってからの交通革命はまず馬車なのだが、北桑田郡誌によると牛車になる。しかも道路の改修がなされていないうちから牛車を通していたのでかなり危険であったようだ。
 それから明治のころはそういう道路の改修は江戸時代そのままの受益者負担だったようで、郡や府の負担もあったものの、道路を直すたびに費用が各村各戸に割り当てられていたらしい。


2015/11/12 木 山奥 ←→ 京都

 胸腺 - Wikipedia
 胸腺腫と胸腺がん 基礎知識:[がん情報サービス]
 免疫のしくみ | 免疫の働き | LEM入門
 線量の高いところに行くと胸のあたりがゾワゾワする感覚があったのだが、それは胸腺に影響があったのかもしれない。胸腺はストレスに弱く、放射線や副腎皮質ホルモンなどで萎縮するという。胸腺は成人になると退化するというのだが、退化の具合についてはサイトによってまちまち。wikipediaでは30代で退縮が完了するとあるが、三つめのリンクの免疫のしくみなどでは80歳くらいまでに1/2になると書いてある。三つめはしいたけパワーのサイトなので眉唾で読むべきなんだろう。あるいは胸腺が退化して他の臓器がその機能の肩代りをしていることも含めて書いてある可能性もある。
 もっとも事故で胸を打っているそのあたりとも共通しているのでその後の回復でできた新造部分の可能性もなくはない。

 京都に降りてきた。ネット速い。

 ドコモ版Xperiaで格安SIMのテザリングができるというので試してみた:週間リスキー - 週刊アスキー

 Showa Japan: The Tumultuous Legacy of Japans Post-war Golden Age
 こんな本がもう出てるwww

 pahar.inの本がどんどん増えてる..
 京大まで行って読んだ本も増えてる...
 おっと落としすぎて制限かけられた。山へ帰るか。


2015/11/11 水 山奥 ←→ 京都

 京都に出て府立図書館で本を適当に読んでからサーガルとかいうインドカレー屋に行ってみたが午後の休みギリギリだったのであきらめてとっとと帰ってきた。ふー。無駄遣いするところだった。

 N-08DのBatteryMixの温度の記録をみると、それほど寒く感じなかった羽鳥湖宿泊の時の温度が0度前後まで落ちていた。一週間しかみれないのでその前はわからん。凍った日はなかったのでその前の寒かったときもその程度だったのだろうが想定以上に寒かったようだ。うーむ。


2015/11/10 火 山奥

 京都のインド料理屋を探してみるとムガールというのが1987年創業で28年とか書いてある。他のをみると老舗とされるガラムマサラが1983年創業で31年。70年代の余波でインドカレーもどきができバブルでインド人が来てインドカレー屋をつくりその後もその文化が定着して今に至るというところか。
 そのガラムマサラも今は代が替わってインドに修行に行ったりして普通のインドカレー屋に変わってるらしい。しかし昔も行かんかったけど今も行かんやろなぁ。

 インドと私の出会い 1~10号
 サーガルとかいうインドカレー屋の旦那はシク教徒らしい。

 国文研古典籍データセットの公開 | 国文学研究資料館
 どうも売ってもいいようだ。

 昨日の夜某所でSSGが97年前後の寮の写真をスキャンしたからといって公開してたが、その中に自分の写真があり非常に爽やかに見えたので保存してしまった。


2015/11/09 月 山奥

 SH-01E

 ぐーっすり寝た。山奥でないとこの静かさは得られない。

 山奥でのぷららモバイルLTEの速度がやたら早くなっている気がする。昼前だからか。

 静脈血栓塞栓症 - Wikipedia
 おそらく南相馬の宿舎で高栄養の飯を毎日食ってたせいで血がドロドロになってるんだろう。まだ足がおかしい。飛行機で発症しやすいのは気圧が低いため水分がどんどん失なわれていくからもともとの素因以上に発症しやすいようだ。

 デリーの気候は今ようやく最低気温が20度を切ったところらしい。

 平成27年度 京都大学図書館機構講演会「デジタル化資料の公開にかかわる権利処理を学ぶ - 基礎知識から実践まで-」


2015/11/08 日 福井 → 8号 → 河野 → 若狭町 → 162号線 → 山奥

 木下さんは午後用事があるということで木下邸を出発するが雨と風が強く観光には向いていない。織田文化歴史文化館が気になったがこのあたりは京都から一日で来れるのでまた今度行ってもかまわない。ということで8号線からちょっと分岐するだけで行ける河野へ行く。


 河野は今は北前船の船主の遺産を前面に押しだしていて、その右近邸が公開されてたが500円したのでなんか入る気がしなかった。船主たちの家が建ち並ぶ通りもあったが雨と風で歩いて回る気もしない。ということで図書館の一階にある河野歴史資料館をちょろっと見てから図書館で河野町誌を読む。
 まぁしかし何だな。中世のころは馬借による交通で敦賀-(船)→河野-(馬借)→府中(武生)というルートが確立されていた、みたいなことに焦点を合わせてないからあちこち合わせて読むしかない。江戸時代の西廻り航路で京都中心の地上交通は衰亡した、みたいなのが書いてあればおもしろいのだがそういうことでもない。地方誌にしては漫然とした記述だとおもう。

 河野の図書館で15時過ぎまで過してしまったので、海岸沿いに敦賀に出てさらに小浜方面へ向かうとどんどん暗くなってくる。一応みやげでも買おうとして美浜や三方のあたりの道の駅系のところをまわり結局へしこを買う。三方のスーパーに行ってみたらそこに入っていた生協がもう店仕舞いをするらしく、一掃セールをしていて棚が空になっていた。まぁ車が普及するとこういう規模でも維持できなくなるんだな。小アジのミリン干しみたいなのが結構入った袋で200円くらいだったのでそれを買ってつまみながら帰った。
 そういう感じだが山奥の家に帰ったら20時前だった。やっぱり山奥は静かでええわ。

 ここしばらくの行動でわかったが、車中泊できるといっても寒くてよく寝れないと疲れが取れない。福井に着くまでは午前中寝ていることがあったがそれは結局寝足りなかったか。昨日はたらふく食ってよく寝たので今日は全然眠くならず運転していてもそれほど疲れなかった。しかし足はなにか重いのでエコノミークラス症候群のようなものかもしれない。こういう旅行には山登りでも混ぜて足の血行をよくするべきなんだろう。あと寒そうなところへ行くときは布団でも持って行くべきか。


2015/11/07 土 大潟水と森公園 → 8号 → 美川 → 福井

 元寮生の木下さんと連絡とれたので今日泊めてもらうつもりでとにかく福井めざしてひたすら8号を進むが、一週間以上車の生活でなんか足の具合がわるく途中疲れて昼まで寝たりする。今日中に着くのかと怪しんでいたが金沢のあたりまで来ると8号線が高規格になってやたら早くなった。
 ひたすらとか言いながら途中「石川ルーツ交流館」とかいうのに寄る。石川県の名前はここに県庁が一時移動したときにつけられ、金沢に戻ってからもそのままだったためついたらしい。もっとも展示が散漫だった。せっかく北前船で栄えた港町というのがあるのにその紹介もバラバラで紹介するつもりがあるのか疑う。手取川河口の港町で、対岸の湊の方が古いらしいのだがやはりそういう中途半端なところに引け目でも感じてるのだろうか。
 対岸の方に呉竹文庫というのがあり券が共通だったので行ってみた。北前船の船主として財を築いた人がひらいた私立図書館ということで本の背表紙を眺めに行ったがなかなかおもしろかった。

 ということで木下さんとこに着いたときには暗くなっていたがそもそも今日は大学やっておらず休みなのでいつ来てもよかったということがわかっていなかった。大量にメシおごってもらう。スーパーで売ってた「せいこ蟹」というのを食った。


2015/11/06 金 道の駅羽鳥湖高原 → からむし工芸博物館 → 河井継之助記念館 → ダム → 六十里越 → 道の駅小千谷 → 大潟水と森公園

 静かなせいかよく眠れた。疲れが取れてない感じがしたのはここ数日うるさい道の駅で寝ていたせいだろう。


 羽鳥湖のまわりをまわって奥会津へいく道にもどるがこんな感じの紅葉具合。また南会津を通って今度は田島から400号で昭和村の方へいく。その昔は野尻郷というのだから見てみたい。

 からむし工芸博物館 300円
 からむしとは苧麻のことで、大麻とは別の植物らしい。イラクサ科カラムシ属。大麻はクワ科だそうだ。もっとも昔はそういう植物繊維をまとめてアサとよんでいたそうで、実際に製作に携わっていないと混乱しそうだ。
 そういう草系の繊維の特徴として吸水性吸湿性に優れ引っ張りに強いというのがあるらしいが、カラムシはその性質がアサよりも強く、アサが使ううちに柔かくなるのにくらべカラムシは硬い性質を保つそうだ。だから夏服を作るのには向いている。
 カラムシとアサの使用は時代によって違いがあり、縄文時代はカラムシの方が多く、弥生時代はアサの方が多かったそうな。カラムシは正倉院御物にあるくらいで古来上等なものとみなされ、平安時代には一般人の着用が禁じられていたほどらしい。
 このあたりでカラムシが広く生産されるようになるのは18世紀中ばらしい。それも越後の縮の材料として販路が既にあったのが大きく作用していたようだ。そもそもは越後の上杉家が生産を奨励し、上杉家が転封されるにつれてその生産も山形の方に拡大したそうで、会津にもちこまれた苗も山形の方からとりよせ、製法もまなんでいる。上杉家は会津に一時封じられていたがそのときには会津で広めていないようだ。
 もっともカラムシを生産するのとは別にアサも生産していたらしい。というのもアサは中世以来伊北麻としてブランドになっていたので販路が確立されていたようなのだ。それにカラムシは多年草で、五六年たつと連作障害がでて弱るそうなので、一年草のアサと混ぜて栽培するとちょうどよいそうだ。

 からむし工芸博物館は道の駅に併設されていたが、それほど人が入っていない様子で朝のうちずっといたが客は誰も来なかった。
 以下は昭和村の様子。

 なぜ昭和というと野尻村と大芦村が合併するときに名前が決まらず昭和村としたそうだ。中世の野尻郷、近世の野尻組なので野尻を冠するのが妥当なのだろうがそれだと大芦村が納得しなかったのだろう。

 その後金山の方までくだるが道端で車を止めて休憩してたらそのまま寝てしまっていた。温泉にでも入るつもりが一つ寄ってみたら工事中で閉まっていた。さらに只見町の方まで行くと河井継之助記念館というのがあった。

 しかしこのあたりダムが何個もあり、河井継之助が死んだ家も水没してしまったので切りとって移築している。それが見所か。長岡から逃げてきてここで死んだだけなので墓と死んだ家くらいしかない。ところで水没したあたりに塩井があり、製塩をおこなっていたらしい。そっちの方がおもしろそうだがそれはパネル展示だけだった。

 その後ダムを見物し、田中角栄のつくった六十里越の自動車道を通って新潟に入り魚沼まで行くと日も暮れる。

 とりあえず小千谷までがんばって行って道の駅でへぎそば食ってみたが、あんまり静かでなさそうなので、おもいきって291で柏崎の方まで出てみると思っていたよりもすぐ着いた。しょうがないのでとりあえずマクドナルドで日記でも書いている。今晩はどこで寝ようかな。

 適当なところがみつからず県立大潟水と森公園とかいうとこまで行ってみたら入れたので寝る。


2015/11/05 木 道の駅南相馬 ↓ 浪江 → 288 → 三春 → 郡山 → 道の駅羽鳥湖高原

 さてセブンイレブンでヨーグルトを仕入れて東ヶ丘公園で日記を書く。今日WBCを受けるのだが、ここからどういうルートを通って帰るのか決めてない。東京経由して東海道で帰るか新潟に抜けて日本海経由で帰るか。うーむ。モバイルバッテリーを充電しわすれていたのと各種バッテリーがへたってきたのであまり長く作業できない。

 WBC受けてきた。なぜかスケッチ班の長老も辞めてたので連絡先を交換する。あてもないがまた相馬まで戻るのも何なのでとりあえず小高の住民が一時立ち寄りする場所に寄って情報を収集すると、288で郡山まで抜けれるらしいが何分帰還困難区域があるのでまっすぐ行けないらしい。とりあえず道々警察に聞いてなんとかして288に入って途中また疲れて道端でちょっと寝る。


 288を走っていると三春は城下町だという情報を得た。ということで行ってみる。とりあえず歴史民俗資料館に行った。自由民権記念館も併設されているが、河野広中の出身地だからだった。
 三島通庸の会津三方道路については奥会津にとっては恩恵だったが、他地方にとっては圧政そのものだったようで、河野広中らは三島が議会を無視していたのもあって目一杯抵抗し、それが福島事件とか加波山事件につながったようだ。明治14年の政変の後の情勢とか松方デフレとかそういう観点からみないといけないだろうが、そう政局的にみるとなんか微妙な運動にもみえる。
 三春にいた戦国大名の田村氏は伊達正宗と姻戚の仲で伊達の覇権を助けるところがあったようだ。しかし伊達正宗のせいで秀吉の小田原に参陣せず消滅する。その後は会津の付随領のような扱いをうけていたが秋田氏が入ってから藩としての体裁をととのえたとか。馬の産地として有名であったらしい。
 まぁ資料館としてはこんなもんかという規模だった。

 三春城にのぼってみるとかなり険しい。中世以来城が連続してあったところということで、たしかに中世城郭らしい険しい山城ではある。一番上には小さい基礎があった。天明の大火で城が焼失すると本丸には将軍からの朱印状をおさめる櫓をたてただけというからその櫓の基礎なんだろう。立地は中世城郭なので眺めはよい。


 これは「百杯宴記」という石碑がのこっているところ。修験道の寺の不動堂があったらしいが幕末の住職であり儒者であった川前亀角が寺子屋を開いていて河野広中もそこで教育をうけたという。その亀角、号は紫渓先生は酒が好きで、贈られた盃が百杯になったのを記念して安政4年に百杯宴という宴会を開いたらしい。で、それを記念して安積艮斎に撰文を依頼してできた石碑だそうだ。

 という具合であちこちまわってみたら夕方になったのでとりあえず郡山まで出て、イオンタウンの一角のマクドナルドで充電しつつ日記を書いている。うーむ。まぁここで行き先を検討しよう。

 結局来たときに検討したのと同じで、距離だけだと中山道経由、時間をみると新潟方面に出て日本海経由が早いのか。高速で行くなら東京経由もありだが下道なら回避した方がいいか。その方向で考えよう。
 なんかここ数日布団で寝てないので疲れが微妙に溜ってきてとっとと帰りたくなってきた。

 道の駅羽鳥湖高原が寒くて寂しそうなので行って寝る。真っ暗で星がよくみえる。


2015/11/04 水 道の駅安達 → 福島県立図書館 → 川俣町 → 県道12号 → 道の駅南相馬

 道の駅安達を出発して福島市のマクドナルドで充電しながら日記をまとめる。その後県立図書館に行く。

 大内宿があった街道が会津盆地と関東平野を最短で結ぶ道だったようで、中世以来の街道だったそうだ。北関東からみた呼称として会津西街道がある。この街道の歴史は結構複雑だった。大内宿みたいな山奥が街道筋になったのは、その東側の川が険しすぎて道が通せないというのもあったが、古代の道筋は基本的に尾根筋だという事の名残でもあるのだろう。このルートの大事件としては1683年の日光大地震で栃木県側が崩壊し堰き止め湖ができ40年ほどそのままだったことだろう。パキスタンのアッタバード湖のごとく湖上交通でなんとかしていたらしいが、それを機に白河の方へ抜ける道ができたらしい。
 そういう各種枝街道の他にこの奥会津では仲付駑者という運送業者が宿駅を通さず運送をやろうとして宿駅側との争いがつづいていた。そのために宿駅を迂回するルートが複数発達したというのもあってルートが複雑になっている。
 大内宿が本格的に衰退したのは三島県令の指導のもと明治17年に完成した会津三方道路のひとつ野州街道で、大内宿を通らず川沿いのルートで馬車が通れるようにしたのが契機のようだ。昨日北上したときに川沿いのルートの旧道らしきところを求めて東岸に渡り、船子というところの奥までいくと道の舗装がなくなったのでひきかえしたが、あのルートがまさにその明治17年に開通したルートらしい。しかもその峠の勾配が馬車にはきつかったようで明治36年に西岸に改めて道をつくったようだ。
 大内宿はそのように明治後期以降の発展を受ける前の段階で交通の大道から切り話されて山奥に放置されたため江戸時代の宿の構造が残されたようだ。しかもそれが再発見されたのが昭和44年。もうすこし後になると高度成長の余慶が山奥にも到達し、茅葺きの屋根がどんどんトタン屋根に置きかわり車などが入ってくるころだが、その直前に価値を見出した学生がいた。そのためトタン屋根への置き換えも昭和40年代の後半から進み出したのだが、昭和56年に文化財指定を受けるとき、道路に面した部分の改装はもとに戻すことになって今のようになったようだ。
 ちなみに三島通庸の作った道路はその後栃木県側が荒廃して使い物にならなくなったようだが、そのことに触れたものがあまりない。なぜなら明治32年には後鉄道が会津若松まで通ったため、会津の物流がすべて会津若松を目指すようになったためのようだ。大正3年の郡誌にしか道路の荒廃のことはのっていない。

 あと江戸時代に野尻組、昭和の合併で昭和村となったところは麻生産が盛んだったようなので地方誌を探したが、山奥で何もないとしか書きようがないようなところだった。昭和村の戦後のことを扱った本があったが聞書を集めたものでおもしろかった。麻作からの転換は昭和20年代後半で、転換作物としては葉タバコがあったらしい。もっとも他の麻の実を食べすぎると酔ったような状態になったりあたまがおかしくなったりすることは知られていたようだ。
 それから麻作りについても大正三年の郡誌には江戸時代裃の素材として絶大な需要があり、京阪地方で伊北大麻としてブランド化していたようだ。麻の生産についても「古来」ということは強調するところではないようにおもう。

 この日は日が暮れる前に川俣町まで行ってみたが道の駅でおにぎり半額を買ったくらいで何もせずそのまま南相馬の道の駅まで行った。そのとき南相馬の西北にスーパーがあるのを今ごろになって発見した。うーむむ。


2015/11/03 火 塩原温泉 → 奥塩原温泉 → 塩原元湯温泉 → 奥会津博物館 → 会津若松 → 49号 → 越後街道 → 4号 → 道の駅安達

 朝起きると温泉愛好家がわりと近くに駐車していた。温泉愛好家によると岩の湯は入れたという。それから硫黄くさい温泉が好きなら奥塩原温泉の寺の湯もお勧めだという。そう言いのこしてまたもみじの湯へ去っていった。

 岩の湯に行ってみるとたしかに崩壊したところが修理してあってロープも張ってない。ということで朝から入ってきた。誰も来んだろうとおもっていたらおっさんが朝風呂に来たので譲ってとっとと出る。それから温泉愛好家の勧めに従い、寺の湯を探しに行った。行ってみたらあったのだが、まだお湯をいれてる最中で湯が熱い。湯船が二つあったが水で薄めた方に三人ギューギューで入っていた。湯を入れてる最中の方は熱くて入れないのでコミコミの方に入る。一人出てくれた。しかし狭い。そこへさらにもう一人温泉愛好家が登場。二人の先客は温泉愛好家が来たので風呂の縁に上がったのだが、その二人というのは夫婦なので上がられると更に目のやり場に困る。女と対角線の方に入ってしまったのが失敗だったが狭いんだからしかたない。そのうち夫婦も上がっていった。
 温泉愛好家に除染あがりで温泉めぐりしてるみたいな話をすると、塩原元湯に黒い温泉があるので入っていったらいいという。温泉愛好家は紅葉を見に来たらしい。

 ということで紅葉ラインの料金所まで行ってから元湯温泉の方に行ってみる。スマホで調べると黒い湯があるのは大出館というところらしい。600円かかるのはいやだが黒いのがどんなのか見たいのでしかたない。
 行ってみたらなんか淀んだ空気の漂う怪しいところだった。それはともかく黒い湯は墨湯といってこの温泉の看板のようだが、黒いといっても黒くにごっているわけではなく、黒い析出物が漂っている湯だった。黄色い硫黄析出物らしいものもまじっているところをみると硫黄関係なんだろうか。サイトによると黒いのは鉄ということなので第二鉄とかなんだろうか。よくわからん。浴槽が二つあって黒いのと黄色いのが並んでいた。もうひとつ御所の湯というのがあったがおばはんが入ってて男連中が脱衣所で入るのを遠慮してたので入らなかった。

 その後また来た道を逆戻りし、南会津にもどる。温泉入りすぎて途中で寝たりしてたせいでもう昼だ。道の駅たじまでけんちん汁を食う。

 奥会津博物館。

 もとは民俗資料館というだけあって民具が充実したところだった。江戸時代には奥会津は幕領だったらしい。会津塗りのお碗の材料は9割方木地師が奥会津各所に行って木を加工し会津盆地に送ったものだそうだ。展示に木を横倒しにしてお椀をひっくり返したようなを一列に何個も削り出したのがあったが、それは展示向けの説明でそうしてるのではなく、そうやってお碗の材料を削り出していたらしい。たしかに山奥を転々として現地で加工するのならそれもありか。山奥らしく、麻加工の展示もあった。麻の織物を復活させる試みがあるらしく、受付の前に織物が置いてあった。写真の三枚目は麻関係コーナー。麻を蒸す筒だが、他の山奥の資料館で見るのはもっと長いのでこれはなんか部品の一部ではないかという気もする。

 広大な敷地内に移築民家もあったが、その中に土間の広い家があった。床があるところが少ない上に床のところには畳ではなくムシロがしいてある。まぁたぶん古い形で、竪穴式住居の遺風だろう。もっともボランティアの家守りのばあさんは貧困と結びつけたがっていた。この辺りの民家は入口の右側に便所があり、風呂もそのあたりに置くのが普通だったらしい。
 敷地内に山王茶屋というのが移築してあってそば屋として営業していた。しんごろうとかいう餅が一番安いのだが、これは米を丸めたものにじゅうねんみそをつけて焼いたもので、じゅうねんというのがつまりエゴマらしい。しかし今はエゴマが希少でかなり高い値段で地元農家から買っているそうだ。砂糖・エゴマ・味噌の簡単なものだが、うちの配分が一番うまいと言っていた。


 このあたりの民家はなかなか細部がおもしろい。微妙にとがっていたり、強調されたり、比率が微妙に違っていたりしていた。折り板でふいた屋根がベッタリとペンキで塗ってあるのも相俟って、今まで見た中では下北半島と同じような感じを受けた。単純に茅葺きをトタンに置きかえたらこうなるのかもしれんが。

 会津若松のあたりで日が暮れる。道の駅ばんだいで寝ようとおもっていたが入るところがわからず猪苗代湖に出てしまう。しょうがないのでそのまま走り、途中越後街道を通って4号にでて、どんどん北へ行き、道の駅安達で寝る。遠かった。


2015/11/02 月 道の駅つちゆ → 沼尻元湯 → 猪苗代湖 → 山内宿 → 道の駅たじま → 塩原温泉


 道の駅つちゆはなんか寝づらいところだったがそれなりに朝まで寝れた。天気が崩れているおかげで意外と暖かった。
 ということでまず沼尻元湯へ。沼尻スキー場の中の未舗装道路を通ってつきあたりに駐車場があり、そこから谷沿いに行く。既に雨が降ってきているので傘を持っていく。
 この沼尻元湯についてはネットでも豊富に情報があがっているが、過去に硫化水素で死人が出ているくらい硫化水素がでているため、風のない日は危ない。今回たまたまだが雨が来るということで、雨とそれにともなう風で硫化水素も吹きとばされるだろうという甘い見通しで臨んだ。
 駐車場から谷沿いの道にはいってしばらくするとなんか息苦しいしすぐ息があがる。なんかおかしいとおもいつつとりあえず滝の横の高いところまでいくと、息が楽になった。まちがいない。なんらかの火山ガスが道まで溜っていたのだ。まだ雨もふりはじめなので水に溶けたり風で飛ばされたりしてないんだろう。それはともかく、滝の上流には温泉の川があって入りやすいところがあったが人間が入るにはちょうどいい温度だった。昨日がんばって来てもよかったのだが、昨日は日曜でまちがいなく人がいっぱいいるだろうからあんまりおもしろくない。今日は天気が崩れることがわかっているのでまず誰もこない。独り占めだ。
 ということでしばらくぷかぷかとつかっていたが、雨が続くと上流から流れてくる温泉がぬるくなってきた。風でとばされるのは硫化水素だけではなく水温ももっていかれるのだ。雨の水も川にながれこむ。ということで長く入っていてもろくなことはなさそうなのでそこらで切りあげた。帰りの道は息苦しくなかったので水に溶けたんだろう。

 そこからどうするか考えてなかったがとりあえず猪苗代湖まで降りる。会津民俗館というのがあるが500円だし雨も激しいので入らず、表にあるラーメン館みたいなのに行ってみる。これは喜多方ラーメンを製造販売しているところらしい。二階でいろんなラーメンが食べ放題で1480円となっている。うーむ。そんなに金出して食いたくもないな。
 隣にボロいドライブインがあったので入ってみる。ドライブイン湖柳。客がだれもいない。昔のままでなかなか風情があるがメニューをみるとラーメン700円。うーむちょっと高いとおもってそのまま出ようとするとお茶をすすめてくるので飲む。よくよく奥をみるとラーメンの長持ちがある。こんなとこで出前か? 昔からラーメン作ってるんですかと聞いてみるとよくぞ聞いてくれたというような感じの返事だった。せっかくなので食べていくことにする。どのラーメンがいいのか聞くと、一番やすいただのラーメンがいいという。ミソラーメンはどれもいっしょの味になる、醤油ラーメンが一番腕の違いがでるとか。
 食ってみると、なかなかうまい。シンプルな組み合わせだがクリアタイプのスープの味が濃いのとちぢれ麺がいい感じにまとわってよい。その一方で関西のうどんをおもいだした。たしかにこれはラーメンスープの味なんだが、こういうクリアタイプのラーメンの究極形はは関西のうどんのようなものを目指してるのかもしれない。
 食いおわってから話を聞いてみると昭和50年ころからやっていたそうな。喜多方ラーメンのブームが来るより前らしい。となりのラーメン館も震災の年の前後にできた新しいもので、もとは地元の人が高い金を出して建てた団体向けのドライブインのようなものがあったが、負債で手放したため安くで買って商売をしたものだとなかんとか言ってた。

 ラーメン食ったのがちょうど昼前。そこから出て会津若松を通り抜け、大内宿の方に行く。

 みての通り、江戸時代の宿場町の状態をかなりよく残している。幕末明治初の写真のようだ。ここに来るまで会津若松方面からはかなり登ったのだが、ここが街道筋だったらしい。地図をみると今の国道は東側の川沿いを通っているが、おそらく昔はここが険しくて道が通せなかったのではなかろうか。しかしこういう状態で残るには大内宿が早い段階で交通の要衝からはずれたことを意味するので、たとえば会津盆地の重要性が落ちて交通量が落ちたとかなんだろうか。また調べてみよう。
 おもしろいのは神社などもこういう屋根のままのこしてあるので、残してあるのかもしくはこういうふうに復元したのか。復元したんじゃないかという気もする。隅から隅まで歩いてみたのでなかなか時間を食ってしまった。

 その後、奥会津博物館を目指したが閉館時間まぢかだったのであきらめる。ということでそのまま南下して道の駅たじまで日記を書く。もう暗くなった。さて今夜はどこで車中泊するか。

 そういうとWBCは5日の朝になった模様。ということで明日明後日はブラブラ旅行につかえる。

 暗くなったので塩原温泉の岩の湯に入ってみようとしたが階段崩壊で入れないと書いてある。しかたないのでもうひとつのぬるい方(もみじの湯)に入ってきた。たまたま風呂であった温泉愛好家に観光客向け駐車場の場所を教えてもらい、そこで車中泊。


2015/11/01 日 柴田町 → 白石 → 福島市 → 道の駅つちゆ

 ネット速い。
 なんかしらんがゴリさんの娘に異常になつかれた。


 とりあえず柴田町の郷土資料館みたいなとこに行ってみた。遺物はまんべんなく出ているが珍しいものがない。奥州文治合戦の舞台となったのと伊達騒動の原田甲斐の所領だったのが歴史的事件。地形的には阿武隈川の出口近くを塞ぐ谷の近くということで重要なところだが、ちょっと狭いのかもしれない。近くの船岡城跡は車で登れるので行ってみた。普通の城山で跡地は公園になっている。物産館みたいなのがあって「がんづき」というのがこの辺の伝統的なお菓子らしいので買ってみたが味はういろうだった。

 その城の向うは大河原というところだが、萩の月の工場があるくらいだったのでとりあえず白石まで行ってみる。

 白石城に行ってみたら歴史展示があったので行ってみる。城の麓に水路があったがこれは江戸時代の絵図にはあるのでかなり昔からあるものなんだろう。模造天守閣とか復元塀とかあとづけで作られている。片倉小十郎の城ということで歴女に媚びた展示になっていた。
 それはそれとして片倉小十郎の軍が後藤又兵衛をうちとっているのか。それで有名なんだろうな。
 白石うーめんというソーメンを短かく切ったような麺が名物らしい。ここでも食えたのだが特にどれも食べなかった。伊達当主に片倉家が饗応した献立の中に「むしうむめん」があり、白石温麺が江戸時代にはあった証拠となっているのだが、そういう展示をしておいて食堂でうーめんを出すなら、せっかくならそれを復元したものを出せばいいのにとおもってしまったからだ。

 その後はとりあえず福島県立図書館に行って閉館近くまで適当に本読んで来た。そしてマクドナルドに来て充電しつつ日記を書いている。温泉は明日にした。今日は道の駅で車中泊の予定

 東洋文庫のバーブルナーマを斜め読みしてきた。最初は火縄銃の記述がなく、カブールに拠点を置いてから10年近く記述が欠落したあとに火縄銃がでてくる。明らかに弓の代用にしている。
 それはそれとして、バーブルは「ルームのイスラーム戦士の方式」と書いていて、オスマントルコがチャルディラーンの戦いでサファビー朝を破ったやり方を導入しているのだが、その10年程度の欠落の期間にチャルディラーンの戦いがあったので、その事件がどう伝わって火縄銃を積極的に採用することになったのかわからなくなっている。
 で、バーブルの火縄銃の運用だが、一列に並べた荷車と火縄銃兵が協調して運動することになっている。この時代の火縄銃は火力も弱く、命中率も高くなく、玉を込めるのに時間のかかるもので、その隙に騎兵に突入されたらひとたまりもない。その弱点を荷車を並べた壁で補う形だが、このやりかたは明らかにボヘミアのフス派のやり方なわけで、フス派が傭兵としてハンガリーなどに行き、その技術がそのままオスマントルコのイエニチェリの火縄銃兵隊に採用され、さらにチャルディラーンの戦いでペルシャを越えてバーブルによってインドまで持ちこまれたことになる。
 気になるのはオスマントルコはどのように運用していたのかだ。一般向け世界史概説書のオスマントルコの本とか読んでみると、軽砲をたくさんそろえたとか火縄銃兵を出したとか書いてあるのだが、なぜそれで遊牧騎兵を破れたのか書いてない。そもそも本当に軽砲を持っていたのだろうか。持っていたとしてそれは使えるものだったのだろうか。
 中国では14世紀までには小さな大砲を作るようになり、その鉄輪で砲身を強化する形の大砲はそのままの形でヨーロッパのあたりまで伝播していたのは確かだが、そういう大砲だったんだろうか。まるで19世紀のナポレオンの軍隊が軽砲を活用したようにオスマントルコが運用したように書いてあるのだが本当だろうか。

 明日は朝から夕方まで雨っぽい。

 ヨークベニマルで食材を調達して道の駅つちゆまで登って車中泊。


2015/10/31 土 南相馬 → 柴田町

 今朝はさすがに寒い。長袖出すか。

 インドビザも航空券が必要とか書いてあるな..

 在パキスタン日本国大使館: 邦人被害の強盗事件(ガンポイント)発生に伴う注意喚起
 なんでこんなところに、とおもったがどうもバーブルと関係のある庭園があるらしい。
 Kallar Kahar - Wikipedia
 Takht-e-Babri - Wikipedia

 Apacheの今月のlogを落として検索してみたが月末に関係クエリが集中しているのであまり背景などなく、単純にバレる→報告がいく→すぐ電話が来て休み ということになったようだ。しかも名字+社名で検索しているのは休んでからなので、完全に社内で収まっている話だろう。
 さらにおもしろいのは、25日の夜富士通のパソコンから社名で検索→26日の夜スマホから社名で検索→27日の夜ここのタイトルで検索ということになっているのでそれほど簡単な話でもなさそう。しかしLogで浚える情報には限度がある。まず検索最大手Googleのクエリが今は隠蔽されているので、限られたアクセスしかたどれない。

 クリスタ1.5をまたさわってみたが前よりあきらかに軽くなっている。

 宿舎をひき払って柴田町のゴリさん宅に遊びに行った。前回震災直後に来たときは子供いなかったが今回は子供が二人になっていた。たどたどしい話しかできなかったので現場仕事でかなり脳が弱っているような気がする。ついでに泊めてもらった。もっと早く出れたら温泉に行けて車中泊とかになってたとおもうが出れず。明日からはしばらく主に温泉巡りをする。でWBCいつなんだ。4日じゃないのか?


2015/10/30 金 南相馬

 南相馬に到着した夜にガソリン入れてから今までガソリン入れてないのでちょっと奮発してガソリン入れるか。図書館の事だけ考えても福島市とか仙台まで出た方がいい。

 チーズには麻薬並の中毒性があることが研究により判明 - GIGAZINE

 冷静に金の計算すると先月の21日から今月の27日まで31日しか働いていない。うーむ。まぁ総合して飯代引いても60万程度にはなってるか。ただ昨日支払いの話をしたときは26日までとかで説明してた。やっぱりちゃんと支払われるのかちょっと不安になってきた。

 ちょっと柴田町の元寮生のとこまで遊びに行こうかとおもってすこし走らせたが相馬まで行ったところでなんか疲れて帰ってきた。無駄な時間だった。

 ふむ。9月分の半分が振りこまれた。計算はあってる。12月末じゃないな全部入るの。もっと早い。
 これだけ入ったならもう賠償金11月末を待たずに直接東北電力の山形支店に行って払ってしまおうか。


2015/10/29 木 南相馬

 今日も休み。しょうがないのでゆっくり朝飯たべる。

 そういえばチベット語も声調はもとの発音が単純化された名残りだったはずとおもって見てみたらパンジャービー語とちがってそもそも有声有気音の列がなかった。有声音の列が無声有気音の列と同音になって声調で区別してる状態だった。
 チベット語の声調は結局よくわからんかったが、そういうことならまだわかる。まぁしかし今は中国政府の支配下にあってシナチベット語族ということで中国側からの解釈が進むから声調化が進むんだろうな。

 ヒンドゥスターニー語 - Wikipedia

 めでたくクビになった。退職届を書くという形。まぁしかし退場のWBCまではいる必要がある。いちおう冬の服の用意はしてきたが必要なかった。まだ半袖。
 金を稼ぎに来たので金を回収するまでがお仕事だからそこが終わるまでは終わらない。12月末までか。

 11月中にインドに行くことも考えたがあれだ。賠償金の支払の三回目が11月末だからだめだ。もっともここらで再び調べ物に専念してもいいわけか。元に戻ったんだし。


2015/10/28 水 南相馬

 今日は休み。たぶんこのままクビではなかろうか。

 朝のうちに鹿島の真野古墳群を見に行ったが一番大きくて双頭金魚袋が発見された前方後円墳がなんというかただの空き地の土盛りみたいにしか見えなかった。宿舎に帰ったら15時前まで寝てたのでまぁ疲れてたんだろう。

 クリスタが1.5にアップデートしてたので朝鹿島へ行く前にセブンイレブンでダウンロードだけしておいたのだが、今インストールしてちょっとかいてみるとなんかかきやすくなっているような気がする。ソフトのできがよくなったのか図面仕事とかしてたせいか。


2015/10/27 火 南相馬

 今日の累積線量は10.7μSv。

 仕事の具体的な内容や仲間の事などは削除することにした。端的に言うとバレた。いらんことを書いてたせいでクビになるかもしれんが自業自得だろう。強気の賠償計画を立てたせいで今は貯金が一番やばい。事態が事態なので今まで働いた分がどうなるか微妙。そんな時にこういう事になるのはつまり悪因悪果ということだろう。


2015/10/26 月 南相馬

 今日の累積線量は13.3μSv。


2015/10/25 日 南相馬


 とりあえず相馬太田神社に行く。相馬氏が最初に城を構えたところということになっている。神社の本殿の欄間の彫り物が全部馬。なぜか絵馬堂に乗馬練習用の木馬があった。

 野馬追はここに馬を奉納するので相馬藩の中心神社といえよう。あちこち凝っていた。相馬太田神社を遠くからみるとこんな感じになっている。平野の中の小さい丘。館を構えるにはちょっと険しい気もする。最初から神社だったんじゃなろうか。

 その後ちょろっと小高のあたりまで行ってみたがまだ避難指示解除前なので活気もなにもなかった。図書館に本を返しに行ったが来週は引越しなので借りず。ついでに前登ろうとして入れなかった国見山の林道の南の方の入口に行ってみたが閉鎖されていた。一部崩落しているらしい。そらあかんわ。

 今日は北風がものすごく強かった。宮城県の方では暴風警報がでていたくらいだ。

 福島県の図書館の蔵書数をまとめたxlsが福島県のサイトに落ちていた。蔵書数で並べると南相馬の図書館は福島県内の大きな都市の図書館の次に来る。蔵書数だけで言うとやはり福島が一番よいようだ。県立と市立があり、それぞれ89.6万冊と78.6万冊で県内の一位二位を占めている。矢祭もったいない図書館はちょっと特別な例として除外しても、いわき・郡山・会津若松とつづいてその次に南相馬市23.5万冊。のこりは10万冊台かそれ以下ということになる。相馬市の図書館には期待しないことにした。


2015/10/24 土 南相馬

 今日の累積線量は10.8μSv。
 電磁波とか放射線とかは人間の体に感覚器官がみつかっていないので、間接作用でなんらかの影響が出ているのを感じることになる。wifiの電波ですら、浴びつづけるとなんというかボーっとする感じがするのだが、放射線もそれに近いものがある。


2015/10/23 金 南相馬

 今日の累積線量は4.7μSv。


2015/10/22 木 南相馬

 今日の累積線量は10.7μSv。


2015/10/21 水 南相馬

 今日の累積線量は2.3μSv。

 東北電力の賠償金第二回を振り込んできた。あと一回。


2015/10/20 火 南相馬

 今日の累積線量は0.8μSv。

 東北電力の賠償金の振込用紙が来ていたのだが、振込に行く前に寝てしまう。何もできず。


2015/10/19 月 南相馬

 今日の累積線量は4.7μSv。
 仮置場の設計は土で30センチ以上覆えば放射線はほぼ遮蔽されるという事実にもとづいており、実際仮置場内の線量は高くない。むしろ居住制限区域で周囲が未除染だったりすると周りの方が線量が高かったりする。

 今日も帰ったら寝てしまった。ただ日付が変わる前に目がさめた。最近はもうtwitterを追いきれない。どうでもよくなってきた。


2015/10/18 日 南相馬

 図書館に本を返しにいく前にとりあえず夜の森公園に行ってみた。今は住宅地の中の小さな丘だが、江戸時代には野馬追原の一部であり、野馬追の見物にちょうどよいということでその際には観光客がこの丘に雲集していたらしい。

 丘の上に行くと石碑が結構たくさん立っているのだが、惜しいことに溶けて字が湮滅し読めなくなっているものがある。旭公園でも読みづらい石碑があって写真にとったが結局よくよめなかったのがあったが、同じ石材なんだろうか。
 似たような石材でも日清戦争の石碑は深く彫ってあるせいかよくよめる。これがおもしろい。「...清國以兵連敗諸道不支、乃割邦土獻軍資、特派大臣卑辭厚禮、來而請和
叡聖文武皇帝一視同仁、不咎既往不問舊惡、輙許其請、以東洋之和、...(訓点を適宜補う)」とまぁこういう調子で書いてあって目がくらくらする。まぁ中国の文章よんでるとこういう調子になってしまうんだろうな。しかし天皇と書かずに皇帝と書くとは。

 その後ついでに野馬土手の探索に向かう。
 
 土手には木戸があり、人の出入口になっていたのだが、上の写真の石垣がその木戸の部分の残存。180cmというから6尺なんだろうが、5尺くらいしか石が積んでないようにみえるのはそれだけ土が崩れて視点が高くなっているということだろう。もう一つの写真が博物館近くの森のなかにあった土手。おなじくあまり高く見えない。


2015/10/17 土 南相馬

 今日の累積線量は2.3μSv。


2015/10/16 金 南相馬

 今日の累積線量は2.7μSv。

 パンジャブ語の音構造のなかには意外にもshの音がなく、グルムキで外来語に含まれるshの音を表わすにはsの字に点を打って表現するらしい。ということであのへんの音を表現するとき「シ」をつかうのは外来語でしかありえないということのようだ。

 そういうと19世紀初頭に書かれた英語の文章をみると荷駄隊のことをtrainと書いてある。たとえばラクダに荷物をつんでタール砂漠を横断するのもtrain。鉄道が発達するとtrain=鉄道ということになるけれどその場合でも本来の用法からすれば貨物のことだけを示すべきなんだろうか。
 とおもってOEDをみたらもっと複雑だった。trainのもとの意味のなかに「流れ」のイメージに発展するものがあり、それが荷駄隊の列とつながって鉄道の意味にひきつがれているようだ。


2015/10/15 木 南相馬

 今日の累積線量は2.1μSv。

 帰ってすぐ寝てしまったので目がさめたら日付がかわってた。

 東芝、紙ノートのような書き心地の「dynaPad」を技術解説 ~独自の技術を多数盛り込んだ意欲作 - PC Watch
 dynaPad はV713の延長上にあるんだろうが、デジタイザペンはついに電池を搭載したらしい。それでもワコムということだからワコムの新技術ということになるんだろう。やっぱり電池をいれないとキビキビ動作しないんだろうな。


2015/10/14 水 南相馬

 今日の累積線量は2.7μSv。
 どうもただの風邪だったようで、日をおうにつれ軽くなっていく。明日には元にもどっているだろう。今日は眠かった。しかも帰ってすぐ寝てしまった。特に書くこともなし。

 Tribal Analysis Center
 ここの "Hindustani Fanatics, India's Pashtuns, and Deobandism -Connections" つーのが今の興味とかぶっている。


2015/10/13 火 南相馬

 今日の累積線量は2.1μSv。
 昨日にひきつづき微妙な風邪っぽい症状。うーむ。途中でお茶をのむと汗がでてかなり改善された。水不足になっていたんだろうか。他に書くこともなし。

 微妙な風邪状態のせいかどうもやる気がなく帰ってすぐ寝た。


2015/10/12 月 南相馬

 今日の累積線量は3.0μSv。

 今日は世間では祝日で、南相馬も文化財関係の特別公開とかあったのだが仕事のせいで行けなかった。ぐぬぬ

 カングラ征服の書... ムガル朝による征服だろうか。


2015/10/11 日 南相馬

 予約してた本が返ってきていたので取りに行くのと三菱のekワゴンのリコール対応で出かけるついでに桜井古墳を見に行った。前方後方墳。

 この古墳公園の敷地内に野馬追土手の遺存があるということだが、低かった。一応規格は1m80の高さらしいがここにあったのは人の背ほどもない。

 ekワゴンはECUの書き換えだけで済んだ。前はちょっと踏んだときに燃費が落ちていた。そういうのがなくなったとおもうがあんまり走ってないのでわからん。まぁどっかに遠出しないとわからんだろう。

 昨日の酒の余韻がのこっていたのであとは帰って寝て本を読んでいた。『大学講義 放射線医学』丸善出版 2014。低線量被爆についてはまだよくわからないところがあるとしながらも現在の知見を詳しく書きあげ、放射線の作用は結局活性酸素による間接作用なので、それをどう軽減するか、という方向に向かって行き、いかに健康を維持するかという本になっている。ちなみにこの本によるとタンパク質のとりすぎは血液を酸性に招き、それを中和するためにカルシウムが使われるのでカルシウム不足になりやすいとある。


2015/10/10 土 南相馬

 今日の累積線量は1.2μSv。
 ボーリング大会はガーター三回ストライク二回。まぁそんなもんだ。


2015/10/09 金 南相馬

 今日の累積線量は3.0μSv。
 明日は懇親会とやらでボーリング大会。その後宴会。さてどうなることやら。


2015/10/08 木 南相馬

 今日の累積線量は4.7μSv。

 パンジャーブ語 - Wikipedia
 なんか説明が充実してきている。声調の存在について、それは有声帯気音が消滅した代償だという。なるほど。

 三菱のekワゴンのリコールの対象なので三菱まで持っていかねばならない。スバルなら近くにあるのに三菱は6号沿いにあるのであずけることになるといろいろ面倒くさい。ECUの書きかえだけで済むならいいのだが。


2015/10/07 水 南相馬

 累積線量は3.2μSv。


2015/10/06 火 南相馬

 今日の累積線量は3μSv台。


2015/10/05 月 南相馬

 今日の累積線量は6.0μSv。

 よくよく考えると12月とかにインドに行くと北の山の中は雪なんだな。平原部だけなら冬がいいが山中に行くなら3月になってからの方がいいということか。ふうむ。


2015/10/04 日 南相馬

 どうも健康になっているような気がするんだが単純に食堂の飯のおかげか。


 昼間ちょっと原町の旧市街といえる本町のあったところまで歩いてきた。若干古い町の気配が残っている程度。宿場町の面影はほとんどないがそれらしきボロ家がなくもない。駅からの道と宿場町の交差点を四つ葉と言うが、ここが野馬追原を囲っていた土手の出口の一つである原町木戸のあったところだとは知らんかった。もうすこし南かとおもってた。
 醤油屋の土蔵とか戦前の洋風建築とかいろいろあるが見ただけ。写真の交差点は四つ葉ではなく、そのもう一つ北の交差点。南側を向いているが、洋風建築が見える。

 うーむ。図書館の放射線医学の本が貸出中のままでなかなか読むことができない。放射線を利用する方(レントゲンとかCTとか)の放射線医学の本はあるがそういうのは読んでもしかたない。低線量被爆の本はそれなりにあるが怪しいものばかりだ。

 そういうと本町を歩いたとき、観光案内所みたいなところに入って国見山のことを聞いたらとりあえずググっていた。立ち入れるかどうかの情報すら集めていないらしい。ついでに野馬追原の土手のことも聞いたら知らないようだった。あとでそこからもってかえった桜井古墳のパンフレットをみていたら、古墳公園の敷地内に土手の遺存と復元したものがあると書いてあった。まぁ興味ないと頭にのこらないか。

 宿舎で田舎の子供のごとく人と会うと「おはようございます」「おつかれさまです」を連呼していたのだが、最近顔をあわせるとそむけられることが多くなってきたので同じように顔をあわせないようにすることにした。ここは都会なのだ。忘れていた。

 ミールアンマンって自序で12イマームを出してきているからシーア派なんだろうけどつまりペルシャ系なんだろうか。とすればフマーユーン以来仕えているということだからサファビー朝がフマーユーンにつけてやった人達の末裔なんだろうか。


2015/10/03 土 南相馬

 今日の累積線量は2.7μSv。

 軽度の放射線被爆の症状の一つに知能低下があるようなんだが。うーむ。


2015/10/02 金 南相馬

 今日の累積線量は1.7μSv。

 図書館に行って放射線の筋のいい本を探そうとしたが借りられている。しょうがないので平凡社の東洋文庫を眺めて『四人の托鉢僧の物語』を借りてきた。原本が出たのが1801年ということで序文と解説がおもしろい。中の話はどうでもいい。
 『イギリス史10講』という新書を前借りて読んだが、イギリスもおもしろい国だ。イギリスのインド支配については植民地とか収奪のことばかり強調されるが、イギリスという帝国、いうならば、デンマークのバイキングの北海帝国以来の諸王の王的側面をもちつづけた古い帝国という側面から見た方がおもしろい。コモンウェルス(イギリス連邦の方)というゆるい帝国に今もインドが参加していることからその構造は今もつづいているといえる。フランス史もパリ中心の小国が強大なイギリス帝国から自立し拡大し対抗していく歴史という風に見ることができる。
 この物語も「インド」を作りあげたイギリスのインド政策の中から生まれた本とみればおもしろい。中身はまだ読んでない。昔読んだことがあるかもしれないがおぼえていない。


2015/10/01 木 南相馬

 もう10月か...

 今日の累積線量は4.7μSv。