20世紀 ◆冷戦 冷戦末期、アフガンでアメリカとソ連がきびしく戦いあった。ソ連が去った後、アメリカはアフガンを見捨てた。あとにはアメリカが育てた軍閥がのこり、また戦いはじめた。。 ●ザヒル=シャー親政への道(在位1933-73)<1914-> ・イギリス保護国時代にアフガニスタンの国内では部族制国家から専制国家に変化、王権が確立し、諸部族が弱体化したと言われる。独立後もそれはかわらず、アフガニスタンに欧米のシステムを導入していった。 ・1927 国王アマヌラの急進的改革→近代化反対の反乱→1929イタリアへ亡命 ・1931 110条の新憲法 ・とはいうものの、ザヒル=シャーは若年で王位についたせいか、首相(三人の叔父)に実権を握られっぱなしだった。 ・WWⅡ以後、アフガニスタンは非同盟中立を表明、米ソ両国から支援を受けるようになった。→「東西の援助競争」(ソ連色つよし) ・イギリス領インドから生まれたパキスタンに対しては国境問題で常に強硬。「デュランドラインはイギリスに強制されたモノ」 アフガン・パキの対立、時に衝突 →1961 国交断絶、国境閉鎖 ・アメリカがパキスタンについたので、ソ連に依存。 ・経済の悪化を将来 1963 ダウド首相はザヒル=シャーにやぶれ退陣 ・国王親政へ 1964 新憲法 1965 総選挙 ●20世紀の流行 といえばまず共産主義であり、ソ連と国境を接するアフガニスタンにもやってきた。ほかに、イスラム回帰運動もやってきた。 ・1958 イスラム協会設立。 ・1965の選挙はそれまで言論のなかったアフガニスタンに百家争鳴と表現できるような状態をもたらした。学生運動が盛んになり、組合が組織され、新聞も発行されたのだが、やがて40年の安定支配を覆すことになる。 ・1965 アフガニスタン人民民主党(PDPA)結成 ・要するに共産党 ・1968 イスラム協会下部組織「ムスリム青年組織」結成 ・共産主義に対抗するため ・ラバニ<1942->(神学部教授)、マスード<1956-2001>など参加 (ヒッピーの天国カブール 他にネパールのカトマンズ) ●周辺情勢 ・イギリス領インドはWWⅡ後、独立してインドとパキスタンとなり、インドがソ連にちかよっていくにつれパキスタンはアメリカに目をかけられることがおおくなった。パキスタンとインドはカシミール帰属問題で鋭く対立。 ・ペルシアはレザー=シャーのクーデターののち、古代の栄光の復古を掲げナショナリズムを高揚させた。そしてドイツに近寄っていたので、WWⅡ中に息子に交代させられた。中立を掲げたにも関わらす、独ソ戦で西イランは戦場となってしまった。WWⅡののち、英ソ両国はイラン国内から軍隊を引き上げようとしなかったので、アメリカが仲介して引き上げさせた。中東一の親米国の誕生である。 ・1951にイランのモサデク首相は石油の国有化を発表、その結果国際社会から断交され、経済状態が悪くなり、シャーとモサデクの戦いがおこった。アメリカのCIAの工作でシャーは復位する。 ・1958イラクでバース党によるクーデタが起こり、王政が廃止されたのに動揺したイランは上からの革命を起こした。「白色革命」とよばれる。それに反対するホメイニ師などはイラクへ追放された。 ●王政廃止 1973 ザヒル=シャーがイタリアへ目の病気療養に行っている間にクーデター ・ダウドが青年将校に担がれ復活、王政廃止を宣言 ・シャーは書簡を送り、承認、無血革命が成就する(王族は殺されたモノ以外イタリアに送られた) ・うらにPDPA、ソ連の支援 ・「アフガニスタン共和国」成立 ・政権固めのためすべての政治グループを禁止した ・ダウドはイスラム勢力を押さえこみ、土地改革に着手 1974 マスードとヘクマティヤル<1949->によるクーデタ ・見通しの甘さのため失敗、イスラム協会はペシャーワルに逃げる ・この失敗のため、マスードとヘクマティヤルは決定的に仲が悪くなる ・異説あり→ヘクマティヤルはもともとPDPAの学生活動家であり、毛沢東主義者のリーダーを殺したため投獄されていたが、王政廃止の時にパキスタンへ逃がしてもらった。ところが今度はパキスタンで「イスラム党」を結成しムスリムとして現れた、というもの。 ・政権内では内輪もめがたえずおこり、「ハルク」派と「パルチャム」派で争うようになる。<元は新聞の名> ・そのうちダウドはPDPAの干渉をうっとおしがるようになり、排除に乗り出す ●サウル革命 1978ダウドがハルク派に殺される。「サウル革命」 ・そしてハルク派のタラキが大統領になる 「アフガニスタン民主共和国」 ・パルチャム派のカルマルは政変で転出させられそのまま亡命 ・各地でゲリラ活動活発 1979/4には「聖戦」宣言(すでにこのころから内輪もめ) さらに。 1979/9タラキが殺されアミンが大統領になる (妥協のない急進政策) ・露骨な親ソ政策、宗教弾圧 ●イランイスラム革命 ・シャーの白色革命はたしかにイランを「近代化」させたが、貧富の差を拡大させ、恩恵にあずかれない層の不満を募らせた。 ・1978より、各地で反シャー勢力と治安警察の間で衝突が頻々と起こり、1979/12には大規模な反シャー運動。 ・1979/1にはシャーの逃亡、2月にはホメイニ師の凱旋。 ・11月にはテヘランのアメリカ大使館占拠事件が起こる これにより、中東一の親米国は中東一の反米国にかわってしまった。 ・うらにソ連の介在がささやかれる。 ・イランはシーア派の国である。 ●ソ連侵攻 1979/12末 ソ連軍はアフガニスタンに進駐、アミンを殺し、カルマルを政権につける。 ・国際的な非難→1980モスクワ五輪ボイコット ・侵攻の決定はアンドロポフなどごく少数の上層部によって決められた。 ・クラスター爆弾や新型銃の使用 ソ連の侵攻はアメリカの積極的なゲリラ支援をひきだした。 激しいゲリラの抵抗と国際的非難→ 1982後半頃から撤退の意志がちらほら見え隠れするようになる ●アメリカとパキスタン 実はパキスタンでも政変が起こった。 1971からの大統領アリ=ブットは社会主義政策を実行 1977、選挙を機に国内が混乱する。ジア=ウル=ハク将軍はイスラム主義を掲げてクーデタ 1979にはイスラム法の導入とブット首相の処刑 ・さらに秘密裏に核兵器の開発を行っていたので、春になってアメリカは援助を中止 ・しかし、ソ連のアフガン侵攻が起こり、アメリカはしかたなく、パキスタンをひらってやって、アフガンゲリラを支援することに。 ・その際、CIAとハク将軍は秘密の約束を交わした。 ・アフガンゲリラ援助はパキスタンを通じて→アフガンゲリラをあやつるため ・カシミール問題でアメリカはパキを支援 ・ハク将軍には、イスラム主義をアフガンから中央アジア方面へ輸出する野望があった。・アメリカには、アフガンをソ連の「ベトナム」にしたてる狙い ・最高時で年間七億ドルの援助 ・資金源としてケシ栽培を黙認→アフガンは世界最大の阿片の産地に ・ゲリラたちはジハード「聖戦」にしたがうムジャヒディン「聖戦士」とよばれるようになった。 ●サウジアラビア ・世界最大の産油国サウジはアメリカCIAの最大のスポンサーであり、たまにCIAを自国の利益のために使う ・20c初、サウジ家がアラビア半島を征服。国内ではイスラム復古運動のワッハーブ派がつよい。メッカを有し、イスラム全体の兄貴分の地位を保つ。自分の主義であるワッハーブ派を輸出しようとしていた。 ・ソ連はイスラムを迷信として攻撃している。そのソ連がアフガンに侵略するのを無視できない。 ・イスラム諸国にジハード「聖戦」を呼びかけ、人間をあつめ、金を提供した。 ・そのよびかけに集まったのがのちに「アフガン・アラブ」とよばれるようになった。 ・アメリカCIAはパキスタン・アフガン国内にゲリラ養成センターを設置し、さかんにゲリラを生産した。 ●アフガンゲリラのあり方 ・ソ連侵攻後、アフガニスタン人は各地でゲリラ活動をするようになった。そして、家族はパキスタンもしくはイランの方面へ脱出した。あり方としては、村・谷をあげての集団移住であり、難民キャンプを基地として、アフガン国内へ戦いに行くのである。表向きは「難民」としてあつかってもらったため、欧米から援助してもらえた。 ・最大時には六百五十万以上の難民がパキスタンとイランにいた。 ・イランに逃げたのは同じシーア派のハザラ族が多い。 ・パキスタンは七人の代理人を指定し、彼らを通じてアフガンゲリラに金の配分をおこなった。そして代理人が、難民キャンプを回って、ゲリラを組織し、アフガン国内へ送り出すのである。 ・金を一つにまとめなかったのはゲリラが一つにまとまるのをおそれたのである。 ・マスードはソ連侵入の前にすでに故郷のパンジシール渓谷にもどり、ゲリラを組織して自治地域を作り上げていた。ペシャーワルの代理人ラバニからの援助を受け取り、ソ連に対して天才的な戦闘を続け、「パンジシールのライオン」として有名になった。 ・西のヘラートではイスマイル=ハーンが「西のライオン」として有名だった。 ・また、シーア派のハザラ族はイランからの援助の元、「イスラム統一党」を結成し、アフガン中部にハザラ族の自治地域を作り、ソ連軍をよせつけなかった。 ・ヘクマティヤルはトラブルメーカーとして有名だったが、パキスタンからの援助が一番手厚く、そのイスラム党はパシュトゥン族最大派閥を誇っていた。 ・オサマ=ビン=ラディンはサウジの富豪の息子だが、ジハードの呼びかけに応じて1979もしくは1982にアフガンへやってきた。資金援助をするだけではなく、前線にたつ司令官でもあったので人望があった。また新しいトンネルのほりかたを考案し、アフガン中にトンネルを掘った。「アラブ・アフガン」のなかではもっとも地位が高かったので、パキスタンとサウジの情報部も手厚くあつかい、「アラブ・アフガン」の指導者のような地位にあった。 ・以上のような様子だったので、政府側は大都市を押さえるのみだった。 ●ついでにイランイラク戦争 イランイラクの南部国境設定→オスマントルコとサファビー朝の頃から固定。しかし、20c初に石油が見つかると、その国境がペルシア側の石油運び出しに不便なため、問題に 1968 1971、湾岸からイギリスは撤収、かわってシャーのイランが主導権を握ろうとしていた。 1972イラクのバース党はソ連と友好条約を結ぶ ・イランが裏でクルド人とイラク南部のシーア派の自治運動をあおっていた 1975アルジェ協定 ・イラクに不利な国境線ひきなおしをするかわり、イランはクルド人などを見捨てる 以後頻々と南部国境両側で衝突がおこる。 イスラム革命がおこると、シーア派を多数抱えるイラクとしても他人事ではない。 イランとしても革命のエネルギーを放出する必要がある。 1980/9頃、戦端が開かれる ソ連もアメリカも公然とは援助せず しかし、たたかいがタンカー攻撃にまで発展し、クェートが米ソ両国に護衛を頼むと、1987アメリカが積極的にイラクを支援。 1988 戦争終結 イラクには多大な負債、イランにはゆがんだ人口構成など、禍根を残した。 ●アフガンからのソ連撤退とカブール入城 1985 ソ連のゴルバチョフ書記長 1986 小型ミサイルスティンガーをアメリカが開発した。小型で持ち運びに便利。ソ連軍の被害は爆発的に増える。(通算約1000基供与うち300基ほど行方不明) ・カルマルにかわり、ナジブラが人民民主党書記長になる 1987 ナジブラ大統領就任 ・「アフガニスタン共和国」にもどす ・ゲリラに対し、和平と連合政権参加の呼びかけ。一党独裁の放棄、地方自治容認、一方的停戦など。 1988 ゴルバチョフアフガン撤兵を発表 ・パキスタンのハク将軍謎の死(CIA暗殺?) 1989/2 撤兵完了 ソ連が撤退したので、もう用のなくなったアメリカはナジブラ大統領の和平政策を「評価」し、国連監視下での自由選挙を呼びかけるが、ムジャヒディンたちは聞かない ・ザヒル=シャーもローマからロヤ・ジルガを呼びかけるが、力なし 1990 政府側タナイ将軍のクーデタ(影にパキスタンISI?) 1992/4 政府側のドスタム将軍<ウズベク人>のねがえりでカブール陥落、ナジブラ逮捕。 ●ムジャヒディン政権・・と内戦 1992/4 ムジャヒディン政権誕生する「アフガニスタン・イスラム国」 ・ラバニが大統領 ・国防省のポストやドスタム将軍のあつかいなどをめぐってヘクマティヤルとマスードが対立 ・シーア派のハザラ族とドスタム将軍派を無視した組閣 →ラバニ派とヘクマティヤル派にわかれて再び内戦が始まる ・ドスタム将軍は北部六州で独立王国のようにふるまうようになった。 ・近隣各国の各派への支援 パキ・サウジ→ヘクマティヤルのイスラム党<パシュトゥン人主体> イラン→ハザラ族のイスラム統一党 タジキスタン・インド→ラバニ・マスードのイスラム協会<タジク人主体> ウズベキスタン→ドスタム将軍<ウズベク人> ・各派はその時々の状況に応じて組む相手を変え、互いに攻めあった。 ・ヘクマティヤルはカブールの南に陣取り、そこからカブールめがけて通算25000発ものミサイルをマスードの押さえるカブールめがけてぶちこんだため、カブールは廃墟になってしまった。 ●ムジャヒディンの変質 中央で主導権争いがつづいている間 ・ムジャヒディンたちはアメリカなどの支援のおかげで軍備太りし、いうなれば地方軍閥となり、誰も押さえられない存在として、その地方地方を支配した。関所をたてて通行料をとりたて、自由に課税し略奪強姦などほしいままにふるまっていた。 ・ソ連撤兵前の1991/8にはテレビ朝日のクルーが軟禁され「機材保証金」300万円をとられている ●イスラム協会とタジキスタン内戦 1991 ソ連崩壊→中央アジア五カ国やむを得ず独立 1992/5 内戦開始 イスラム協会はイスラム勢力に協力<アフガン国内での軍事訓練キャンプ、武器、軍勢提供> イランも援助 ・背景 小国タジキスタンは中央アジアの中心ウズベキスタンの属国扱い タジキスタンのタジク人とアフガンのタジク人、イランのペルシア人は国が違うだけ 中部山地のイスラム教徒と北部南部の共産勢力の対立 北部のウラン鉱山 ・北部のラフマーノフ大統領が南部の人民戦線の戦力でしのぐ。 ・1994から始まった和平への歩みは1997に実を結ぶ ・ロシアとイランが同じ立場に立ってそれぞれ支持勢力を説得 ・国連が重要な役割