アフガニスタンは多民族国家であり、伝統的には、ゆるやかな連合政権が立つ国で、カブールの中央政府は最低限の権威を保つだけだった。
どの集団も多数を占めていないが、一番おおきいパシュトゥン人集団が平時でも戦時でも政治動向のカギを握っていた。
シーア派ムスリムであるハザラ族はふたつ目におおきい集団である。つぎにタジク人とウズベク人がくる。それにくわえて、もっとちいさいトルクメンやキルギスなどの集団が、アフガニスタンというモザイクをかたちづくっている。
権力の真空
ある人は言う。アフガンというのは、パシュトゥン人をさす古い言葉だと。だれも本当のところは知らない。
アフガニスタンは現在、民族的・地勢的な統合が危うい状態である。
隣国のおもわくや、二十三年間絶え間なく続いていた戦争によってつちかわれた不信が権力の真空をうみだした。
千人ほどの強力なハザラ族部隊が首都の同族を守るためカブールへ進軍しているが、アフガンの少数派、シーア派にとって、深刻な悲劇がおこった前例があるからだ。
強硬なスンニー派からうける宗教差別にシーア派はくるしんでいる。最近の話ではタリバーンが数千のハザラ族をころしたらしい。
ハザラ族の本拠地、アフガニスタンの中央のバーミヤンで、タリバーンは宗教的民族的憎しみに駆られ、放火、強姦、略奪をおこなった。
カブールではときにハザラ族がタリバーン政権に参画し、都市での憎悪をいくらか緩和したが、シーア派のイスラム統一党勢力との衝突がカブールの西南でよく起こっていた。
共同墓地
ハザラ族に血を流させたのはタリバーンだけではない。北部同盟の中心勢力、故アハマド=シャー=マスードによってつくりあげられたタジク人勢力も、90年代なかばには、幾度もイスラム統一党とたたかった。
ハザラ族市民の語るところによると、彼らの隣人が葬られている共同墓地はマスードの部隊による虐殺のためできたそうだ。
パシュトゥン人は人口の40パーセントを占めるとみられるが、同様に差別に苦しんでいる。それは、彼らの本拠地である南アフガニスタンではなく、100年ほど前、アフガン王が、タジク人ウズベク人地域に部族の勢力を扶植するため、北部に強制移住させられたパシュトゥン人が受け続けている問題である。
最近では、1997、1998のマザリシャリフ、そしておそらくいまおこなわれている民族虐殺はパシュトゥン人を対象としたものである。
彼らのおおくはタリバーンの支援者かもしれないし、いくらかは多分そうではないだろう。
東北アフガニスタンのタジク人はつねに、アフガニスタンを指導するエリート層で重要な位置を占めていた。
パンジシールのくるしみ
故アハマド=シャー=マスードはタジク人の本拠地パンジシール渓谷の出身である。実のところ、パンジシールの人たちは白い肌、薄茶の髪、そしてしばしば緑の瞳であり、彼ら自身が際だって特徴的な下位民族集団である。
これは、タリバーンのもとではひどく苦しめられる事を意味している。モンゴル人のような外見のハザラ族と同じように、かれらはその出身をかくすことができない。
ラシード=ドスタム将軍率いるウズベク人は中央アジア遊牧民の子孫である。ウズベク人でないアフガニスタン人は不公平なことにかれらを共産主義者とみなしている。
これは、ドスタム将軍が1992に裏切る前はソ連軍の側にたって戦っていたことによるし、また、ソ連の軍隊はおおくウズベキスタンをとおって来たことにもよる。
不安定さ
トルクメン人は北西にいるちいさな集団で、おなじ問題に苦しんでいるが、たいしたことはない。
遠く離れた東北辺境にいるキルギス遊牧民や南東(訳注:東北の間違い)のヌーリスタン人、その他十指にあまる集団がこの複雑でうつろいやすくいつまでも続くモザイクをかたちづくっている。
いまはアフガニスタン人にとって大変な時期だが、だれもユーゴスラビアのように国が分割することを望んでいない。
避けることができないのは、民族的司令官たちが領土にしたところでの不安定がながくつづくことだろう。この古く誇り高く、そして叩きつづけられている国土は試練に直面している。