ギメ。
とりあえず近くにある凱旋門を見た。あんなアーチなにも言うことない。そこからギメの方に降りていったら、ギメがあった。しかし暗いし観光客もいない。タダだったのでとりあえず入ったら、中国の仏画がすこしあっただけで、のこりは日本の仏像ばっかりだった。しかも時代の紹介とかなにもなく、いろんな仏像を神々のパンテオンとして紹介しているだけだった。仏像はいいものがそろっていた。東寺の仏像群(仏像で構成するマンダラ)なんてのもあった。廃仏毀釈すごいね。
ギメってこんなもんかとおもいながらさらに道を下っていくと、本館があった。6.5ユーロ。見れないところもあったけど、おなかいっぱいです。
東南アジアがつよいのはさすがフランスだが、メインのカンボジアだけ見れてのこりの部屋はなぜか入れないようにしてあった。まぁ、いいや。
一番多いのが中国で、ありきたりのものから敦煌将来品まで仏像を中心にいろいろあった。チベットのものも多かった。フランスは、チベットは中国じゃないけど東トルキスタンは中国という立場のようだ。
しかしギメのおもしろいのは朝鮮だとおもう。朝鮮部門の展示品は19世紀後期の朝鮮にフランス人が行って収集したもので、最近韓国があちこちに押し売っているソウル民俗博物館のコピーのような展示ではない。興味深く見ることができた。
中国日本のものにくらべると、朝鮮の美術品はどうしても見劣りするし、それなりのものは中国のバリエーションになってしまって独自性がない。でも、ユーモラスな戯画的なものの野蛮なくらいの大胆さとかは朝鮮でないと出せないとこで、そういうのを見るのはおもしろい。民間の版画とかもそうだな。ただ、そういうのの評価は現代でないとできないのがむずかしいところだ。18世紀の絵で、薄墨と版画のようなケバケバしい色をつかって絶妙なバランスで絵にしあげているのがあって、それもよかった。かざってあった屏風とかは日本画の先駆みたいにみえる。ああゆう毒々しい色を薄墨でつかいこなすのって朝鮮でないとできないんじゃなかろうか。
ギメのあと、人類博物館というのに行こうかとおもったけどやめて目の前にあるエッフェル塔を見てきた。東京タワーみたいな武骨な鉄塔を想像してたけど、意外にシャレてるのな。まず塔本体の横の面が一つの□が組みあがっているかたちではなく、二つの□が組みあがっていくようになっている。脚二つのそれぞれから□がつながっていって、塔の上の方で二つ並ぶかたちだ。で、太いままでとどまって、のこりは別の細い塔が乗っている。だからすごく安定している。さすがおフランスだな。
クリュニー中世博物館。
ここにはオーディオガイドがあって、日本語のもあったので使ってみた。中世のものの値打ちなんて解説されないとわからんしな。
ノートルダム寺院には偶像がいっぱいあったけど、フランス革命のときにあらかた破壊されてしまい、今ある寺院は19世紀に再建されたものだという。その事自体しらなかった。そしてその偶像の欠片が後に発掘されてこの博物館におさめられているのだという。そう解説されるとなんかありがたみがでてくる。この博物館にあるローマ風呂の跡はパリで最も古いものの一つらしい。
フランスの歴代の王、ユダヤの28人の王なんてのの偶像があって、それぞれ彩色されていたという。中世の石像は今のように地の色のままではなくベタベタと極彩色に塗りたくられていて、肉感なんかも絵で表現していたという。たしかに木像はそうだしな。
12世紀なんかでもフランスの王はそれなりに石像をつくる職人をそろえることができたようだ。かなりリアルでできのいい像を拝むことができた。まぁそれ自体が当時の最高水準らしいから、それで当時を推しはかるのはできないが、フランスは先進国であったらしい。
しかし、考古学博物館でメロビング朝期のもの見なかったのは失敗だったか。
アラブ研究所。
行ってみたが、図書館と博物館部門があって、博物館はおまけのようだ。それにアラブと銘うっているけど、展示品は普通にイスラム美術で、イランのものが大量に含まれていた。まぁイスラム美術からイランを排除したらかなりさびしくなるしな。アストロラーベがやたらたくさんあって、三角形のものなんかも置いてあった。
図書館は名前どおりアラブに特化している。下に本屋があり、アラブ関係の本を広く売っていた。専門書なんかもあった。あと、物産屋もあって、中にチャイハネみたいな喫茶店もあった。
見てないが、特別展が「ボナポルトとエジプト」だった。ほんとボナポルト愛されてるな。
缶詰は cannelloni というものだ。イタリア発想とか書いてある。写真からみると、マカロニに肉かなにかつめてある。缶をあけてみたら、直径2cmくらいあるものにソーセージの中身みたいなのがつまって、缶のなかにおしこまれてトマトソースにつけてあった。まぁそういう味だ。わるくない。Petit salé aux lentilles というのがあって、レンティル豆はわかるがほかの意味がわからない。とりあえずこれも買ってみて缶をあけてみたらコンビーフみたいなにおいがした。味もレンティル豆のコンビーフ風味という感じ。うまい。
レンティル豆の中に肉がうまっている。まぁうまいからいいだろう。この肉が petit salé なんろうか。
パエリアの缶詰があって、レンジで3分とか書いてあったので、おそらくそのまま食べれるんだとおもうが、米だけに冷めているとまずいかもしれない。あと、800gとかでちょっと量がおおい。
量がおおいと言ってもスパゲティ系と豆系のふたつでそれくらいあるので、一缶ですむとおもえばそんなもんか。
LAN のただのりができないので、サイトの更新もしないまま日記を書いているが、よくよくかんがえるとこのあとネット規制のきびしい中国に行くことになる。むーん。大丈夫か。
朝、3/3までの金を払った。そろそろ残りの金を数えながら生活していくことになる。とはいっても所持金が少なすぎるのでもうすこし降ろさないといけない。
木曜はルーブルに行った。
ルーブルの考古学部門だが、イランが充実していた。大英博物館と補完する感じ。シリア方面とか詳しいのはさすがフランスというところか。イランの宮殿建築の本質は円柱とか言ってるのがおもしろかった。ただ、エラム王国の高地部分についての評価が高いけど、なんかイメージで言ってるだけな気がするな。政治的に強いのと文化的に強いのとは別だろう。説明は美術的でおもしろい。フランス語がよめたらもっとたのしめたんだろう。エラムもメソポタミアのように、アンシャンとスーサの王という二つの土地の王という言いかたをしているのはしらんかった。ロレスタンの青銅がどういう背景で出現したのかはじめて知った。
エジプトはやたら多く、テーマ別と時代順別のふたつもあって贅沢な構成。まぁしかし大英博物館が説明的なのにくらべると、こっちは美術的で、いいものを並べるのに余念がない感じ。もちろんこっちも説明は十分加えてあるのだが、フランス語を読もうともしていないので、それがいいのかわるいのかわからん。
絵のほうはわるくなかった。あたりまえだがフランス絵画が強い。オランダのすごい肖像画の前に似たようなのが既にフランスにあったのね。しかしレオナルドダビンチの絵ってどれもこれも同じ顔だな。なにがそんなにいいんだろうか。13世紀より前のものとかなかったのが残念だ。
特別展示として、「平定准噶尔回部得胜图组图」なんてのがあった。フランスは中国のウイグル支配に文句を言いませんというメッセージだろうか。
で、木曜は郊外のユースホステルに泊まってみたのだが、ネットが有料でものすごく高いし、部屋が二人部屋で、見知らぬ人とベッドを並べて寝るのはきつい。最低でも4人部屋とかのほうがよかったな。ネットがつかえるとおもって行ったので、残念だった。しかも相部屋になった人はどうも仕事で来ている人らしく、携帯でダラダラ話すわ、さっさと寝るわ、おちおちコンピュータも出せない。これならシングルの方がいいわ。聞いてみたら連泊を取りけせたので、金曜朝、さっさと引きあげた。
考古学博物館。パリ郊外の宮殿にある。ユースホステルに郊外の宮殿をつかった博物館の案内パンフがあってそれで知った。他にナポレオンのことをあつかったのが二つもあるらしい。そういうと、ルーブルにもナポレオンの絵があったなぁ。愛されてるな。ヒトラーとは扱いがちがう。
考古学博物館に行ってみたら、旧石器の説明がやたらくわしかった。他のはそこまで詳しくなく、時代が下るにつれて説明が粗略になる傾向があった。といっても、最新の考古学の成果が反映された展示は旧石器から鉄器時代早期のハルシュタット文化のところまでしかない。あとはガリア時代とメロビング朝の古い展示が午前午後で切りかわるようになっている。ガリア時代の展示がテーマ別だったのでもういいかとおもってメロビング朝の方はみなかった。まぁいいだろ。
青銅器鉄器と時代がくだるにつれて説明が粗略になるのは、見てわかるような綺麗なものがならべてあることと、フランスはそのころの文化の中心ではないからだろう。宮殿の空堀にこっそり巨石墓があったのは御愛嬌だ。まぁそのうちそれが展示の一つになるんだろう。
さて、午後はオルセー美術館に行った。オルセーは1848から1914までの絵画、つまり西洋美術の一番おいしい時代のものだけがおさめてある。まぁそういうわけで見てきた。
まぁしかし印象派以降は絵がどんどん崩壊していくので、なんだかあわれだ。当時は蔑視されていたというのもよくわかる。こういう絵が受けるようになって、まともに絵を描くひととか困ったんだろうな。アカデミズムが理知的とか言うけど、題材が教養的なだけで、絵自体は全然素直だが、印象派以降は絵が頭を捻るようのになっていく。
絵の説明を見ていると、フランス人って、誇り高くて、負けず嫌いが多いんだろうとおもう。そして、そういうのが受けるんだろう。そうでないとこんなにぽんぽん次から次へとなんたらイズムとかいうのが出てこない。
19世紀末あたり以降はウィーンとかの絵の方がいい。
フランスの缶詰を試すコーナーです。
木曜の夜は、さすがにこれはまずいだろうと、スパゲティの缶詰を買ってきた。イギリスでハインツのスパゲティ缶を買ったらまずかったのでそうおもったのだ。しかし、これもうまかった。逆に、外見からしてうまそうなレンティル豆の謎の煮物がまずかった。これは冷めたまま食べたから脂がこたえただけで、おそらく普通にあたためて食べたらうまかったんだとおもう。まぁしかし冷めたままフランスの缶詰を食べるというコンセプトはまもりたい。
金曜は、スパゲティとおなじメーカーで、ツナいりペンネというのがあったので買ってきた。うまかった。そして、何豆というのかしらんがインドにもあった豆が塩水で茹でてあるだけの缶詰があったので、これもうまいだろうとおもって買ってきた。これはまちがいなし。だいたいまずくなるのは味付けが下手なだけで、なにもしなければたいていうまい。しかしフランスの缶詰に関しては、味付けがうまいからうまいとしか言いようがない。
フランスについては、信号守らないし、どこにいっても小便くさいし、社会の底力みたいのがないんじゃないかとおもっていたんだが、缶詰が例外なくうまいので、そういう認識はあらためなければならないとおもった。うーむ。
オルセーのあと中途半端に時間があまったので、たのまれていた学術書を買いにいったが、その本屋のちかくでムジャヒディンハルクがイスラム政権非難の机を出していた。ビラをもらってきたがフランス語だった。相手が相手なので、下手にペルシャ語話したらあやしまれるとおもって話さなかった。
結局最初とまったとこのすぐ近所のホテルにとまった。20ユーロ。屋根裏部屋。おやじが地味に人がいい。最初泊まったところとはえらい違いだ。まぁそれだけ客がこないのかもしれない。
火曜のマドリード発パリ行きは昼出発だとおもっていたが、夜20時出発だった。ということで、一日余裕ができたので、博物館を見にいった。
民俗学博物館?。日曜に間にあわなかったところに行ってきた。狭いところにいろいろと置いてある。フィリピンとかがあるのが目新しい。ここの目玉はおそらく人類学の部屋だろう。前世紀に絶えた学問のあとがある。裸の黒人女性とか日本人っぽい女性とかの像とか、いろいろな頭蓋骨とか並んでいた。あとはあんまり展示してない。アメリカ部門とか閉鎖してあった。
プラド美術館。前までいったのが、券を買うだけで長蛇の列。それを見ただけでもういやになった。
そういうことで、アメリカ博物館に行ってきた。ここには南北アメリカのものがおさめてある。展示のしかたはおおざっぱで、時代の概念がない。ひとつひとつは何文化に属し、その文化はいつからいつまでというような表示のしかたがされている。ドイツの民俗学博物館のアメリカ部門がやたらこまかかったのとくらべると、相当いいかげんに見える。まぁそれは展示のしかたが大雑把な理解をさせるようなものだからというのもある。それはさておき、置いてあるものは美術的にすぐれたものがおおい。おおざっぱな展示のおかげで、ドイツの博物館にあったおもしろいデザインのものがほとんどペルーの範囲におさまることがわかった。南北アメリカの造形品でおもしろいのはペルーにある。
インディオというのがネグロ・ブロンコに対する大雑把な分類だということがわかった。ネグロはアメリカで差別語になっているが、それはもともとスペイン語だというだけのことなんだろう。でなければ、この博物館でデカデカとネグロなんかと書いてあるわけがない。インディアンというのもこのインディオを直訳しただけなんだろう。
この博物館の展示では、1492から百年くらいでインディオの人口は4/3くらいになったことになっている。あと、黒人奴隷の移動と日本人・中国人の19-20世紀のアメリカ移民の移動が同じ図にいれてあった。
で、バスにのってパリに来たわけだが、パリの宿がたかい。ユースホステルがのきなみ20ユーロを越える。安いボロホテルでシングルに泊まれる価格だ。ということで、安いボロホテルに泊まってみた。25ユーロ。どっかが公開している無線LANにただのりできる。しかし部屋にコンセントがない。ユースホステルのほうがよかったか。
モンマルトルの丘に登ってパリを眺め、その後シテ島まで歩いた。
おフランスの缶詰はおフランスだけに、冷めていてもうまいんだろうとおもってレンティル豆の煮物とラビオリの缶詰を買ってきたが、本当にうまい。おフランスでもさすがにラビオリはまずいよねあははという展開を期待していたのにうまかったので完食してしまった。レンティル豆の煮物もうまい。スープのダシがしっかりしているからうまい。
イタリアもスペインも信号を守る国だった。信号を守らないのはフランスのようだ。別にラテン系とか関係なかった。よくよく考えてみれば、イタリアもスペインもファシストの国だな。
今日はレイナソフィア美術センターというのに行ってきた。20世紀の美術がおさめてある。ピカソとかだ。
ドイツでピカソとかの絵はマンガだということに気付いてから、こういうのがおもしろくなってきた。
でも日本画とか現代中国画とかのほうがおもしろい。
今マドリッド郊外のユースホステルに泊まっているのだが、こんなところでたてつづけに日本人にあった。まぁそれだけ日本人があふれているということだろう。パリなんかは日本人だらけだそうだ。なんか安宿が確保できそうにないので、結局ユースホステルにとまることになるのかもしれない。
暑いのでこれまでとする。
あれだな。なんかものすごく疲れた気がするのは、乾燥しているから水分がうしなわれているんだろうな。
マドリッドの博物館は普通はおそくまで開いているのだが、日曜は半ドンで14時ごろに閉まる。月曜はほとんど閉まる。その二日間にマドリッド滞在を設定したのはアホな事であった。しかしできることをするだけだ。
考古学博物館。行ってみたら、「館の141年の歴史上最大の再編成中」ということで、精品展だけしか見れなかった。ローマの属州になるまえのイベリア文化のおもしろいものがいくつか。
エルチェの貴婦人とかそれ系の女性像がふたつ。耳のあたりにさげている車輪のような飾りがおもしろい。まぁしかしWikipediaってなんでものってるな。
Sepulcro de Pozo Moro - Wikipedia, la enciclopedia libre これはキュロスの墓に似ているとおもった。
他にはあんまりおもしろいものはなかった。古代のイベリア半島で発達していたのはアンダルシアとかの海岸地方らしく、コルドバの博物館にあったものとおなじようなものが並んでいた。
市の歴史博物館。行ってみたらここも再編成中ということで閉館していた。
マドリッド博物館。マドリッドの市民生活の博物館で、マドリッドの市民のことしかあつかっていない。ガス水道電気とか、マドリッドの古代から現代までが展示されていた。とにかく都市のあるところに限定されていた。まぁまぁ。
マドリッドはなにもないところに都市をつくったというふうにいわれているけど、実際にはイスラム時代に城なんかがあってその時代から都市が発達していたらしい。マドリッドの地形はここではじめて把握した。まぁ城とかつくりたくなるような地形だ。
民俗学博物館に行ってみたら、閉まっていた。事前の下調べではここは夜までやっているはずだったが、なんてこともなく、日曜午後は閉館だったようだ。
ということで、博物館は二つしか行けなかったことになる。スペイン暗黒史みたいな歴史把握ができると期待していたのに残念だ。そういうのはアメリカ博物館なんかにいったほうがよかったか。
博物館がどこも無料だったのが得点だったか。軍事博物館というのもあったけど、そういうと今回どの国でも軍事博物館は入っていない。
カルタゴ -> ローマ -> 西ゴート -> イスラム -> スペイン という感じでわりとわかりやすい歴史ではある。
スペインはイベリア半島征服後、アメリカも征服してその富で急速に栄えたから、その成金っぽさはたぶん今のアメリカに通じるところがあるんじゃなかろうかと、道を歩きながら考えたけど、思いついただけでそれを見付けていない。だいたいアメリカに行ったことがないしな。
本屋に行ったらマンガコーナーが結構な量あった。イタリア・スペインとかのラテン系ってマンガが好きなんだろうか。イタリアは駅のキオスクでマンガ売ってたしな。
コルドバでは野宿した。いちおう宿さがししたが、あたたかいんで野宿できるなぁとおもっていたのでそれに惹かれた。ホームレスのみなさんがATMで寝ていたので、コルドバの駅では寝ていれないんだろうとはおもったが、結局段ボールをひらってきてATMで寝た。段ボールをひらいにいったときに黒人のおにいさんに背後をとられそうな瞬間があったが、そのとき車が来たのと、次の瞬間にはゴミ箱の段ボールをひきずりだしていたので、そのツレの白人の人になにか話しかけられただけで終わった。ほんとうに危かったのかどうかはわからない。
コルドバでモスクをつかいまわした教会をみて、考古学博物館もみて、満足した。昨日散々歩いたからそれでかなり見たという部分がある。カイロっぽい街だった。グラナダよりも都会だった。コルドバがこの地方の中心だったんだからそりゃそうだな。
この週の旅行だが、あきらめていたベネチアも行っているし、ポイントの制覇という点では結構よくやっている。移動に重点を置いた旅行をしていた結果なのだろう。まぁしかたあるまい。今気分的にダラダラしたくないというのがある。それにしても、もうすこし注意深いほうがいい。
ATMで野宿したけど、よく寝れていたようであんまり疲れていない。
ベネチアがトルコに近いとすれば、アンダルシアはエジプトに近いんじゃなかろーか。
コルドバグラナダの遺物だけ見ていたら、カイロにあるものとあんまり変わらんようにおもう。シチリアとかどうなんだろうな。やっぱりエジプトかな。
考古学博物館を見て、コルドバも結局ローマかよと思わざるをえなかった。コルドバの城から出ている橋もローマだしな。
コルドバ発マドリッド行きのバスは安くてガラガラで、経営を心配してしまうが、それとは関係なしに、後ろの席に日本人学生が座って駄弁っている。なんか新鮮だ。あー。旅行しすぎると旅行にスれてしまってイカンな。
カメラが死んだおかげで、写真の抜きとりとか気にすることなく旅行できているのだが、その代りにネットに全然接続していない。まぁいいのかな。
スペインの首締め強盗は今どうなったのかわからないが、とりあえず全部ものをなくす可能性はあるということだ。しかしそうなったとしても全然ショックになる気がしないのはどうしたことだろう。カメラを壊したこともまったくショックにならなかった。所詮は物で、自分とは別のものだとおもっているということか。
今きづいたけど、月曜休館日にひっかかる。
明日は博物館のタイムトライアル状態になりそうだ。
ベネチアからスペインまで来たのだが、移動で2日つぶれた。しかもマドリッドに夜中ついたので、ついでにそのままグラナダまで行った。これからコルドバに行くとこなので、ヒマつぶしに日記でも書く。
今週はこれまでベネチア・トリエステ・バルセロナ・グラナダと四つ訪問しているが、いずれも失敗しているところがある。ベネチアでは一番興味の中心となりそうなベネチア市の博物館に行きそびれ、トリエステでは夕方についたので、そもそも博物館には入れていない。バルセロナではカタロニア歴史博物館というそのものずばりの博物館を目の前にしながら時間の都合で断念し、グラナダでは滅多にとれない当日券を取りながら、アルハンブラ宮殿の核心であるところの宮殿にその時間に行かず、後から行って入れなかった。ベネチア・グラナダはただの不注意で、行けるところを行かなかった。なんと間抜けであることか。
ベネチアだが、その後、アカデミアを見にいったら他の二つの博物館も一緒に見れる券というのがあったのでそれにした。アカデミアには中世の宗教作品のいいものがあったけど、自分がみてよろこぶような土俗的な中世の宗教ものがなくて残念だった。まぁそのころの美術品のいいものはイタリアにそろっているということはよくわかった。
博物館なんかに13世紀のものとかいって置いてあるようなものは、よくよく考えてみると、古いものがそのまま19世紀20世紀ころまで使いつづけられたような状態でないと残らない。ベネチアみたいにそのころ最盛期だったところにそんなものが残るはずもないのだ。あったとしても新しいもので置きかえてしまっているだろう。現に壁画なんかは置きかわっていて、後世再発見されたものがかなりな数展示されている。うーむ。
オリエント美術館というのがあったのだが、行ってみたらほとんど日本のものばっかりだった。明治になってからベネチアの王子が世界旅行してそのとき収集したものらしい。まぁ時代はジャポニズムということで、うけのいい日本のものをとってきたんだろう。日本ばかりの間に中国がすこし、あと東南アジアに一室あててあるくらい。ここの階段でカメラを落として壊した。
市長の館とベネチア市の歴史博物館はセットだったのに、それに気付かず入らなかった。あとでチケットをよく眺めていてそれに気付いてあわてて行ってみたけど間にあわなかった。
ベネチアの駅で夜を過ごした次の日は Jolly Camping siteというところに泊まった。駅から遠く、しかも道がわかりにくいところで、二日目明るいうちにがんばって高速道路を横断してなんとか辿りついたが、普通に行こうとしても絶対行けないところにある。かなり設備もいいところだったのでもったいないことだ。しかしここも初日、時間があまったとかいって、正確な場所がわからないのにのんきに歩いていって時間をつぶしたし、夜にまたいって時間をつぶした。確実にここでも時間を無駄にしている。
トリエステについては17日の日記に書いた通り。城を見たりローマ劇場を見たり城門を見たりしただけ。
ベネチアからマドリッドへのバスが昼出発して翌日の22:30に着くので、そのままグラナダに行くのは決めていた。そのバスがバルセロナに朝ついて、マドリッド行き(正確にはリスボン行きのバスだった)が昼出るという算段だったので、バルセロナで数時間できたのをいいことに、早速地下鉄でサグラダファミリアに行ってきた。
行ってみたけど外から見たかんじではどうってことなかったので中には入らなかった。設計して制作しだした当時19世紀末としては流行の先端を行っていたとおもう。そんな風にすかして見ているからバチがあたるんだろうか。教会の前に公園があって、おじいおばあがゲームに興じていたけどそれがおもしろかった。ボーリングに近いゲームで、二人で並び、それぞれの分の木のピンにそれぞれの握りのついた木のかたまりを投げ、どっちかが全部倒したら終り。またピンを立てて再開する。これは二人しかできないが、その横では多数のおじいおばあが鉄の玉を転がすおはじきにちかい遊びをやっていた。ソフトボールくらいの大きさの鉄の玉の間にピンポン玉のような大きさの赤い玉があったので、おそらくそれとの距離がゲームの決め手なんじゃないかとおもったが、ちゃんと見ていない。
公園には桜も咲いていた。
それだけだと時間があまってしかたないので港まで歩いたのだが、それでカタロニア歴史博物館を見つけた。ロンプラにはこういう博物館がのっていない。残念なことだ。しかし次のバスが決まっているのでいそいでもどった。乗りおくれてしまうところだった。まぁ乗りすごしたほうがよかったのかもしれないが。
マドリッド到着が22:30の予定のところ21:45くらいについたので一瞬迷ったが、まぁ遅いのにはかわりない。24日のパリ行きをブッキングしておいて、23:30発のグラナダ行きを買った。グラナダには4:30ごろついた。時間があまってるなんてもんじゃない。しょうがないのでアルハンブラまで歩いていていった。
アルハンブラ宮殿の当日券というのは買えない。買えるのだが、アルハンブラ宮殿の核心の宮殿の予約はいっぱいつまっていて、昼ごろのこのこと行ってそこに入れる券を買えるものではないらしい。日もあけない間に着いて待っていた結果それを買えたのだが、アルハンブラ自体は券なしでも入れることをしらなかったため、アルハンブラに入ることと勘違いしてしまってのんきに隅の城郭部分で時間をつぶしてしまった。よくよく券をみて入れないことがわかってからというものは、情けないやらくやしいやらでウキウキ気分もふきとんで、さっさとのこりも見てしまった。だいたい宮殿部分の他の有料区画である城郭部分なんかどこにでもあるようなものだし、庭園部分も似たようなものをなんぼでも見てきている。つまりそこを見ずして何をしにいったのかわからないということだ。あと、数カ所見るところがあるのだが、それは無料もしくはその券とは別だった。
ということで今コルドバ行きのバスにのっている。
あんま影響なかったな。対ユーロではむしろユーロが安めで推移している感じだ。
月曜早朝。ベネチア着。さっそくベネチアの中心に行って、市長の館を見て、もういいかとおもった。
イタリアまで来ると街がボロい。ベネチアの栄えていた時代が今まで見ていた街より古く、中東方面との交易が長かったので、そのせいといいたくもなるが、たぶんそれだけでもあるまい。気温のせいもあるだろう。トルコやインドの街と似た雰囲気がある。
市長の館でおもしろかったのが、地図が壁の一面に描いてあり、真ん中に地球儀のある部屋だった。ウズベクとかタルタリアとか書いてあった。日本は一つの大きな島で小島がたくさんあって、真ん中に「ミヤコ」のようなローマ字が書いてある。
まぁしかし全体に古いので、装飾とかがシンプルだ。
その後、ユーロラインズでスペイン行きの時刻が水曜であることを確認し、ネット屋で他にどうしようもないことを知って、トリエステに向った。電車で8ユーロ。
トリエステ、到着が遅れた。市内各所に観光案内地図が立っている。小高い丘に城と教会。丘と港のあいだにローマ劇場。遅かったので、博物館とかは見れなかった。ザーっと見て終り。トリエステに泊まろうかとおもったけど、どうも安い宿がない。駅でとまろうかとおもったが、ホームレスのみなさんがあつまっていてくさかったのでやめてベネチアの駅にもどった。
ベネチアは駅が数個あり、観光にはサンタルチア駅をつかう。ユーロラインズのバスはベネチアメストレ駅というところにあり、サンタルチア駅はベネチアの島にあり、メストレ駅は大陸の方にある。メストレ駅にもどって、目星をつけていた宿を捜しにいったがみつからない。しかたないのでもどったらメストレ駅のキップ売り場がしまって夜出発の列車を待っている人を閉めだしているところだった。しまった。暖かいところで夜を越せない。
しかたないので寒いのをがまんして夜を越した。
眠いのでここまで。
いろいろあったので箇条書きしてみる。
日本経済の惨状が公開されるのが来週らしい。08年第四四半期GBP速報値という形だそうだ。もうすこし後だと漠然とおもってたけど、そういう形で計算しているなら当然のことだわな。最初の予定通り2/10に中国に戻ってたらよかったかな。
ベネチアってもうすぐカーニバルでオンシーズンなのか。しらんかった。まちがえて行ってしまうところだった。しかも13日から24日だとか。何がやばいといって、バスが混むのと宿がないのがやばい。
ナポレオンに禁止されてから1970年代に復活されるまで200年ほどやってないらしい。ネットで調べると頭のふわふわした人たちがベニスのカーニバル最高!みたいな感じで集まってくるらしいからなおさらあぶない。
デュッセルドルフの市立博物館に行ってきた。ひさしぶりにどローカルの歴史をやっている博物館を見れてよかった。北欧でもまず見にいくべきだったのは市立博物館だったか。ベルリンのは閉館していたからしかたないが。
ドイツという国自体が神聖ローマ帝国のドイツ語圏からハプスブルグ家のオーストリアをのぞきプロシアが併呑したものなので、デュッセルドルフにはデュッセルドルフの歴史がある。デュッセルドルフ周辺というのは大国のはざまにあって、うまくたちまわってきた地域のようだ。13世紀、ケルンからの独立後、デュッセルドルフを拠点とした諸侯がたまたま周囲を併せていき、この人口稠密な地域の中心となっていったらしい。30年戦争では中立戦略を維持して荒廃からまぬがれ、ウィーンをモデルとした都市の発展をし、文化都市になったとか。ナポレオンの戦争の時期にはフランス圏との境目近くにあるここは戦場となったが、またナポレオンの帝国の中心の一つとなったので、条約で破棄された城郭跡がドイツ最初の公園となったとか。その後プロシアの支配を受けるもここに芸術学校がつくられて文化の中心の一つとなり19世紀はパリモデルの発展をしたとか。工業が発展した時代、ライン川と東西交通路の交点という利点を基礎に企業が発達したと、まぁそういうことらしい。
古代からずーっと人口稠密だったわけではなく、ローマのころは境界で、その前は二つの文化圏の境界だったようだ。それもまた意外だった。
うしじまにラーメンをおごってもらった。ラーメンたかいな。
ひさしぶりに日本語でだらだら話をした。随分頭の整理になった。
明日、ユーロラインズのチケットがとれたらそのままスペイン方面に行くつもりだ。
うむむ。スペインに夜着くのはけっこう危ないのかもしれん。やばいなぁ。首締め強盗とか会いたくないなぁ。
カーニバルがあるのは主にカトリック圏内で、ローマのキリスト教以前のサターナリア/バッカナリアというのがその元であろうという。さらにさかのぼるとギリシアのディオニソス祭とか東方の祭になるらしい。(英語版Wikipedia)
古代オリエントの祝祭がギリシアローマを経由して現代ヨーロッパに保存されているということか。
最後の授業 - Wikipedia
「最後の授業」って1985年から教科書にのらなくなったんだな。
アントワープ。アントワープにはプランタンモレトゥス印刷博物館というのがあるので見てきた。まぁ印刷所だ。
絵画とか工芸品とかの美術でヨーロッパを見ると、16世紀のヨーロッパなんて屁みたいなものなのだが、印刷物を見て、そういう認識はあらためないといけない、とおもった。やぁヨーロッパやっぱりすごいわ。
細かい挿絵はやっぱり木版だったようだ。
王立美術館に行ったあと、ブリュッセルに電車で行って、漫画の博物館。
ベルギーの漫画はタンタンのエルジェを筆頭に、層の厚さを誇っているらしい。どうもエルジェは手塚治虫のような位置にあるようだ。
漫画の原稿がずらーと並んでいて、ベルギーの漫画の絵って1950年代くらいからあんまり変わっていないとそのときはおもったけど、それはまちがいのようだ。最近の展開のコーナーがそういう変化を展示していた。ただ、これはどうなんだろう、漫画界への美術の侵入のようなところもある。新聞漫画から雑誌漫画に発展し、読者層の年齢がだんだんあがってきて、大人向けのマンガもできる。そこへ美術系の漫画が加わるという感じか。
日本が違うのは上の方の読者層の厚さだろうな。要するにおっさんが漫画雑誌を熱心に読むか否かというところだ。ベルギーの漫画は子供向けのものと若干の大人向けのもの、そしてアート系の漫画にわかれているように見える。あと、絵の基礎がしっかりしている。
デュッセルドルフまでユーロラインズのバスで行ってうしじま宅に泊。立派な社会人だ。
デュッセルドルフからアーヘンって結構遠いのな。距離約80キロ。電車で往復35ユーロするようだ。うむむ。あきらめるか。
ちなみにベルギーはフランスっぽかった。売店のチョコレートがうまかった。
ライデン。ライデンではなくレイデンと呼ぶとなにかで読んだのでそうなのかとおもってしまったが、安心してほしい。おれの接触した二三の現地人はみんなライデンと呼んでいた。ネットの情報なんて知ったかの嘘ばっかりだ。
ライデンにはシーボルトの家と民族博物館と古代博物館がある。他にも12世紀の洪水避難用の要塞(円城)とか教会とかあるけどまぁそれはついでに見たらいいようなものだ。ちなみに要塞は狭かった。人口すくなかったんだな。
民族博物館は世界中の民族資料をあつめてあるのだが、展示のしかたがおもしろい。時代とかにあまり考慮せず、関係ありそうなものをザーっと並べてあって、詳しい説明は横のタッチパネル式PCで見る。物の数は少ないのだが、なんかおもしろかったのは、美術的な目で見てしぼったりしていなからだろう。雑多な感じがした。説明がオランダ語しかないので時代と名前だけ見てあとはさらっと流すことができる。
この博物館はそんな感じにもかかわらず、インドネシア方面とか中央アジアとか今まであんまり細かく紹介されていないところの物がおおかったりする。アフガニスタンのものがおおかった。インドネシアは当然か。
そういうと、アムステルダムにはオランダ東インド会社の建物があったらしいんだがそれとして見なかったなぁ。目には入っているはずだが。
日本と朝鮮はいっしょにしてある。それは昔からの伝統のはずなのだが、展示品とPCの説明の展示品の並べかたが微妙に違っているところがあった。昔は日本の掛け軸が掛っていたところにちがうものがかかっているのは、おそらく対称的にならべているくせに掛け軸が全部日本のものだったので展示を替えたんだろう。
シーボルトの家。映画があってけっこう長い。シーボルトのセリフがニセ江戸時代語みたいな感じがしたがまぁいいや。当たり前というか説明からなにから全部日本語版が用意してある。
物はそんなに多く感じなかった。まぁ、日本のものは日本でみたしな。民族博物館の展示で消えていた日本の虎の掛け軸がここに掛っていたのからすると、シーボルトのコレクションって民族博物館の一部なんだろう。家の模型はシーボルトがつくらせたものらしいが、民族博物館の展示を見ていると、中には「東北製」というのがあった。あんなの売っていたんだろうか。
古代博物館。古代というか古典古代というか。エジプト近東ギリシアローマ+オランダの中世以前史。飽きたといいながら見てしまうのは中毒なのかもしれない。
エジプト史は十分充実していてすごかった。今まで見たなかでは大英博物館に次ぐものだろう。まんべんなく説明してある。ローマはいいかげんなのかとおもっていたけど、オランダ史の一部にあった。最後閉館十分とかいわれながら見たのでみれていない。オランダの古代史を見た感想では、どうも他の文化の影響ばかり受けている。まぁほとんど泥だからな。人口希薄な田舎だったんだろう。ゲルマン民族大移動期は暗黒時代というのがそのままあてはまるような時代だったようだ。人々は小さい集団で長期にわたって定住せず数世代にわたって移動していたから墓は集団ではないとか。遺物がこんな感じで出ているからこうだという説明があってよい。青銅器時代の遺物は武器と装身具がセットになって発見されるからなにか宗教的目的で残されたものだ、とか、剣は川や沼で見つかるからささげものか、とか。
アントワープまで電車できた。電車速いな。
駅前の感じがパリっぽい。都市の光の使いかたがなんか美しい。夜しか見てないと昼間見てがっかりするんだろうな。
フランダースの犬っておれ見たことあるはずやけど最後とか見たおぼえないしアントワープといわれてなんもおもわない。教会はライトアップされていた。
アムステルダム・ブリュッセル・デュッセルドルフの三点は正三角形に近い。
日曜、まずベルリン市博物館に行ってみたところ、閉まっていた。外にベルリンの壁があるくらい。これで今日一日無駄に過ごすことが決定した。うむむむ。そもそもこの土日は無駄だったかもなとおもいながら、再び考古学博物館に行った。
考古学博物館はどう分かれているのかわからんが、三つの部分から構成されていて、先史から青銅鉄と技術に重きを置いて紹介するなかなか新しいやりかたの部屋がひとつ。おなじく先史から文化に重きを置いて紹介する普通の展示がフロアひとつ。もうひとつ、シュリーマンの発掘成果なんかを紹介する部屋がひとつ。前見たのは文化を紹介していくやつでしかもきちんと見れていなかった。
あたりまえだが、ヨーロッパ中央のあたりのことが詳しく、鉄器時代の到来を示すHallstatt文化への影響の経路が北イタリアの文化であるとか、青銅器時代は草原の方からの影響があったとかそういうことが紹介してあった。
ゲルマン民族大移動だが、フランクだけは別格であつかってあった。やっぱりというところか。意外だったのがバイキングへの言及がすくないこと。通り一遍の紹介だけしているだけ。それよりも重点がおかれているのが今バルト三国があるあたりだ。ゲルマン人が侵略もとい移民したところだからか。まぁお国の歴史だからいいのか。
シュリーマンの成果などの特異な発掘調査を紹介するところは戦災の後があったり、ソ連に取られて返してもらっていないのでレプリカですとかいうのもあったりした。ここでもか。
技術中心に紹介するところには青銅器時代の鉱山の模型というのがあって、蟻の巣の模型みたいなのが置いてあってなかなかよかった。この部屋がいちばん独自性を出していてよかったのだが、あんまり人が来ていないようでもある。
ドイツの博物館の展示はいまいち普遍化が足りなかった。まぁバラバラに置かれていてまだ整理中というのもあるし、昔ドイツ人がこんな偉大な発掘や発見をしましたというのを紹介したい気分もあるんだろう。ただ、展示物の広がりが片よっているような気はするが、イギリスと比べたらかわいそうだからあるだけすごいということにしておこう。たとえばエジプトなんかは新王国が中心とかそういうことだ。あるものを全部出しているのかもしれない。
さて、その後、19時45分発のバスにのり、アムステルダムにやってきた。久しぶりのバス泊だが、そんなに疲れなかった。こんなのにあんまり慣れないほうがいいんだけどなぁ。このバスの発券ではじめて手数料をとられた。4ユーロ。よし。ユーロラインズのオフィスがなくてもなんとかなる見通しがついた。
ドイツからオランダに行く途中で雪を見た。アムステルダムに着いても小雨がときどき降ったり、ときどきみぞれまじりになったりする。
ということでコーヒーショップで買ってきたものを吸ってたわけだが、五時間くらい効いてた。随分吸ってなかったので、こういう効きかたなのをわすれていた。でも思いだしたからといって今後当分吸うことはないんだからあんまり意味はない。最近頭をつかっていないことを実感した。後ろの方の脳とか血も通ってないんじゃないか。
効きかたは普段の感覚の延長上なので、普段感じたり考えたりしていることが増幅されるだけ。時間が長くなって感覚に集中してしまう感じだ。どうも最近は自分の感覚をなんでも快く感じるように注意しているようだ。効いているときもその路線がくずれることなく保たれていたので、いい傾向だ。
ジョイント(すぐ吸えるように巻いてある)で売っていたんだが、タバコと混ぜたのと混ぜていないのを選べる。もちろん混じっていないのを選んだ。寒くなかったら、街のなかを歩いていたんだが、寒かったので室内でじっとしていた。やっぱり寒いところでやるもんじゃない。聞くところによればラオスもそれの天国らしいな。随分前の情報だから今もそうかどうかわからんけど。そして中国から南下したらラオスに入れるな。
ベネチアに行くならトリエステもおもしろそうだ。ベネチアからスペインに行くバスは週三本しかないので、その合間に行けるな。
おれの予想では日本円が強いのは今の間だけで、日本企業の輸出不振による業績悪化があきらかになり、またある程度戻すとおもう。もっとも昔よりはよいレートにおちつくとおもうけど。まぁつまり強い円で毛唐の面をたたくなら今のうちということだ。
ダーレム博物館。エスノロジー系とアジア美術系がはいっている。アジア美術の方に探検隊が切りとったという壁画があった。ルコックか。
でもちょっとだけしかないよ。
アジア美術は一階がインド系、二階が極東系となっており、一階の中心が壁画部屋になっている。そのまわりにガンダーラ仏からムガール朝の細密画まで収めてある。あとチベットネパール東南アジアの部屋が中二階にある。まぁそれなり。
二階は半分中国半分日本。その間に一室だけ朝鮮があるが、ほとんどが大阪の東洋陶磁美術館からの借りもので構成されていた。大英博物館とかにあった韓国の押しうりがないのはベルリンの博物館がまだ未完成だからか。
陶磁器に関してはさらに一室勉強用の部屋があって、説明もなしに中国朝鮮の陶磁器がズラズラとならべてある。たぶんここで学生とか研究者がこれは何あれはそれと覚えるにちがいない。日本の陶磁器もあったのかもしれないけど見分けることができなかった。
エスノロジー系にはアフリカアメリカ太平洋なんかがおさめてある。あとヨーロッパ文化というのがあるのだが、なんか閉まっていた。来年までかけて再整理するらしい。ガッカリした。エスノロジーの方は南米が充実していておもしろかった。あの辺りはデザインがおもしろい。
アフリカは精品展みたいな感じであんまりおもしろくなかった。まぁヨーロッパ文化がなかったせいだな。
だいたい、今までこういうのはさんざん見ているわけで、美術という枠組みにおさまっているものはこれからあんまりがんばってみないほうがいいかもしれない。でもルーブルとかギメとか行くつもりだから何をか言わんや。
明日出発するつもり。ベルギーに行くつもりだったが、月曜到着すると博物館系がどこもしまっているようだ。ベルリンに長居してしまったせいでパスが使えるのはあと三週間を切っている。明日行くのはアムステルダムにしよう。アムステルダムだが、ちゃんと調べると国立博物館は精品展をやっているようだ。絵画の精品展ならいいものが見れるだろう。あと、ライデンには民俗学博物館と古代博物館があって、民俗の方で空からみたイランとかいう展示をやっていてこれもおもしろそうだ。
まぁやっぱりオランダの博物館も月曜は休みなのだが、休みなら休みですることがあるからアムステルダムでいい。
ヒゲもじゃのパキスタン人が相部屋になった。彼は実に紳士なのだが、外見がもろにムスリムなだけによくヨーロッパに入れたなぁとおもう。この宿もネットで予約したようだ。ペルシア語はまったくわからんみたいなのが不思議だ。ペシャーワル、クエッタに行ったことがあるというとカラチも?とか言ってたからシンド地方の人なのかもしれん。
ただ体臭がきつい。乾燥地方の人からするとヨーロッパでさえ湿潤なのだろうな。
イギリスでは公園なんかに「イスラエルのホロコーストを許すな」みたいな落書きがしてあるのをよく見かけたが、ユダヤ人にはばかりのあるドイツではさすがにそういうのは見かけない。
今日も出発がおくれてしまった。とりあえず第二の博物館集合地帯へ向かう。
とりあえず楽器博物館に行ってみた。まぁチェンバロとかならんでいる。浜松の方がいい。
その後、工芸品の博物館も見た。17世紀の中国の陶器をマネした陶器がいっぱいあった。そういう絵を見ていると、西洋人がごつい指でがんばって絵を真似していたところを想像してしまう。まぁそれなり。
その次は西洋画。ジョット以降18世紀くらいまでのいわゆる西洋画がだらだらと並んでいる。まぁ有名どころもそれなり。しかしもうこういうのには食傷気味のようだ。
シャルロッテ宮殿に考古学博物館があるのに気付いて行ってみた。しかし時すでに遅し。30分しか見れなかった。宿に近いのでここに第一に来るべきだった。まぁ3ユーロなのでまた来てもいいのだが。ちゃんと見れなかったが、ゲルマン人の大移動くらいのところまで扱っている。
5時に文字どおり追いだされたので、宮殿の前にある博物館に入ってみた。一つがピカソなどを扱っている博物館。期待せずに入ってみたらおもしろかった。ピカソは絵の基本がしっかりしているという風に聞いていたけど、ここに展示されている若いころの絵を見たらそんなことはなく、漫画レベルの絵だった。マチスに至っては写実のスケッチでさえまともに描けていなかった。
そーかこいつらの絵は最初マンガだったのかと、なんかわかった気になった。もちろん崩壊しだしたら大変なことになるのだが、基本がマンガなのはどこまで行ってもいっしょだ。
その向いにあるシュールレアリズム専門の博物館に行ってみたら、これも漫画みたいなものがならんでいた。20世紀の芸術とかいうのは漫画のことだったのかとなんかわかった気になった。漫画だとおもって見るとおもしろい。現代美術はおもちゃみたいなもんだが、たぶんこのころからそういう楽しみ方をするようになったんだろう。
しかしベルリンの博物館群は分散しすぎている。まだ統一後の集合ができていないということらしい。考古学も博物館島にまとめることになっているという。博物館島を見てなんだこんなもんかと思ってしまったのだが、それは間違いであったようだ。だいたい、探検隊がかっぱらってきたものもまだ見ていない。それらは郊外の地区にあるようだ。
うーむ。ベルリンが長びいてしまっている。
ベルリンは今までの国で一番横断歩道の信号を守る。イギリスは守る人がほんのすこしいただけなので、オランダに来たときには守る人がおおいのに感心したものだが、デンマークから北に行くにつれまた守る人が減っていった。そしてドイツに来るとほとんどの人が信号を守る。これからドイツから離れるとまた守る人が減っていくんだろうか。
今日は博物館島ののこりを見てきた。ボデ博物館にたくさんあった彫像にビザンツや中世のものがたくさんあったのがよかったところか。今日はカメラ持っていきわすれた。中世の変なものをたくさんとりたかったが。まぁ撮ったってどうもしないんだから撮ってもしかたないのはしかたない。
それよりも、最初に三日間チケットというのを買ったのだが、これをよくみると、この博物館島だけではなくベルリンにある国立博物館全部であるような気がする。博物館を見たあと、時間があまったのでトルコ人のたくさんいる地区に行ってきてうまいドネルケバブをたべてきたのだが、そんなことしているよりは他の博物館にいってみたらよかった。
戦後史のなかでドイツは最初は東ドイツの逃亡市民を安い労働力としてつかい、壁ができてからはトルコ人などを安い労働力としてつかったのだが、これを日本で見ると構造的にはおなじで、日本の場合、田舎の人間が安い労働力になっただけのことだ。東京周辺には団塊の世代がいっぱい住んでいるが、ドイツの場合これがトルコ人移民だったりするだけのことだ。
変な夢を見た。三年くらい前に女性をたぶらかしたとの濡れ衣でだれかに追われているらしいということを聞く。全然身におぼえのないことなので事を明らかにしようとするところでおわり。
しかしこの夢のシチュエーション、随分前にどっかで見たような気がする。また今度続きを見るのかもしれない。
博物館島という博物館の集合しているところに行ってきた。しかし。エジプトとか古典とかイスラムとか19世紀絵画とか。変わりばえせんな。
ローカルなものを見たほうがよいのかもしれない。ドイツ歴史博物館のようなたのしさはなかった。ベルリン市の博物館があるからそれには期待しよう。
昨日行ったところにドイツの戦勝記念塔というのがある。ドイツというよりプロシア(プロイセン)がデンマークに勝ったのを記念して建設がはじまり、その後フランスとかに勝ったあとで完成したのでドイツの戦勝記念塔となり、ドイツのナショナリズムの象徴的存在となったもの。内部の展示もナショナリズムをテーマとし、各国のナショナリズム的構築物の模型や、ドイツのナショナリズム記念物の地図なんてのがある。ドイツのナショナリズムの象徴となったものの今ではラブパレードなどにつかわれるようなシンボルとなったと言ってわざわざ昇華させないといけないあたりに二度の大戦の敗戦国ドイツを感じさせるものがある。
歴史博物館の展示でも、ユダヤ人の紹介が適時はさまっていてなんともいえない感じがあった。
ところで、ドイツの都市がローマ時代につくられた以降たくさんできるのが13世紀で、14世紀半ば以降はまたしばらくできなくなるという展示があって、パックスモンゴリカ的な発想はこういうところからでてきたんだろうなとおもわせるものがあった。
まぁ今日見たのでよかったのはバビロンのイシュタル門かな。エジプトとかそういうのはがんばって集めているものの、やっぱり大英博物館にはかなわない。絵もぼちぼちか。とにかく警備員がはりついてくるのがうっとおしかった。
そうそう。バリカンだが、たったの7ユーロ弱だが軽いし刈る力も十分。しかも充電式。すばらしい。
あとヨーロッパに一ヶ月か。デンマーク以北を早々に切りあげた今となっては時間があまりそうな気がしてきたな。
まぁでもベルリンで時間くってまた気がかわるんだろう。
ベルリン物価やすくて感動した。バリカン特売で7ユーロとか。明日買おう。
ブランデンブルク門とか通ったけどまぁそんなにおもしろいもんでもない。ソ連の戦勝記念構造物があった。旅順にあったソ連製の勝利塔も見たのでソ連が第二次世界大戦で東西に作った戦勝記念物は見たことになる。
ドイツ歴史博物館。ゲルマン人ケルト人ローマ人からはじまり、中世はさらっとながして近代になるほど重くなる構成。町の規模とか当時の生活とか押さえてある。説明に地図がついていてわかりやすい。おおきな説明はドイツ語と英語で書いてある。
しかし世界史の教科書を読まされている感じだ。高校世界史のヨーロッパ史ってのはドイツ建国史を軸にしているんじゃないか。
ドイツというのが神聖ローマ帝国のドイツ語地域から神聖ローマ帝国後期の中心オーストリアを抜いた部分をプロシアが取って成立したのだということに今ごろ気付いた。で、そのドイツを説明するには、神聖ローマ帝国とナポレオンを説明しないといけない。神聖ローマ帝国はヨーロッパのいろんな要素がつまっている。ゲルマン人だったり封建制だったりローマ帝国だったり。それを時代を遡って列挙し、時代順に説明すればそれで高校世界史の西洋史は終るのではないか。だからカール大帝はシャルルマーニュじゃなくてカール大帝だったんじゃなかろうか。フランク王国の三分裂がドイツフランスイタリアの原型とかいう説明もドイツ建国神話のために必要だったんだろう。最後が決まっているからそれにあわせるように説明していけばよいのだから筋書きがあるというのは楽だ。
日本の世界史は西洋史と東洋史だけだというのはよく言われたことだけど、全部のことを総花的に説明するとなにがなにやらわからなくなる。ドイツ歴史博物館の展示を見ていると、西洋史と東洋史という枠組みはストーリーとしてそれほど悪くないような気がしてきた。まぁあと西アジア史をつけたら基礎知識としてはそれでいいんじゃなかろうか。
しかし古代はやけにあっさりしていた。クロマニヨン人とか太陽信仰とかこれっぽっちもでてこなかった。まぁ、現代ドイツにしてみれば、ナチスドイツやドイツ帝国を説明するだけで精一杯というところなんだろうか。
宗教革命と同時期に帝国のreformなんてのがでてくるのでへーとおもっていたけど、それを重視するのは最近の学説らしい。
そういうわけで、デンマークとオーストリアは過去の帝国の反映だということがわかった。オスマントルコに対するトルコ共和国みたいなかんじ。ドイツも、国民国家という概念が浸透していなければ、プロシアだけに解体されていたんだろう。
お昼くらいに着いたので、第一次世界大戦が終わったところで閉めだされ、ヒトラー登場のところまで見ることはできなかった。でも5ユーロするのでもう一回行くのもなぁ。大学ただなんだから博物館もただにしてほしい。
Goeteborg。無事切符も買えた。この窓口は数社の窓口を兼ねているが、どうも手数料はパスにコミになっているらしい。無事ベルリン行きが買えた。あと一回一晩乗ったらパスの元がとれる。バスの時刻をちゃんと把握して計画をたてれば有効につかえる。そういう旅行をすることになってきた。むむ。
いやー。レッツノート(W5)は電池がよくもつし軽いし頑丈だしいいな。
ベルリン到着。安宿に投宿。四人ドミで11ユーロは安い。とりあえず無線LANがタダだ。
ストックホルム。数泊するつもりが、一泊もせずに出ることになった。
早朝についたので、目星の宿があいていない。しかたないのでとりあえず博物館に先にいくことにした。しかも朝がおそいのでヴァーサ号、ノルディスカ、歴史、音楽、美術と順にまわっていった。一日で目星をつけていたミュージアムを見てしまった。goeteborgというところまで行くとユーロラインズの窓口とオスロ-ベルリン線に合流することができる。オスロ線は毎日走っているからどうかんがえてもストックホルムを先にするべきだった。まぁしかたない。ということでgoeteborg行きを買った。五千円弱する。あぁ判断ミスのためにそんだけ失ってしまった。もったいない。
しかしオスロでもストックホルムでも、バス代を出しているのにATMで引きだした範囲内におさまるように支出がおさまっている。こういうのはなんというのだろうか。
ちなみに船は夕方出発で、その決断をした時点ではすでに間にあわなかったのであきらめた。船はゆっくり寝れるからいいな。ちゃんと寝たい。
ヴァーサ号はまぁ、昔の木造戦艦があるだけだ。たぶん船が引きあげられたころは見物だったんだろうけど、今となってはどうなのだろう。でかいのはすごい。写真をばちばちとってしまった。当時の時代風俗の展示があった。
ノルディスカ博物館は民俗関係が充実していておもしろかった。16世紀くらいからの食卓という展示があったけど、一番最初のが皿に豚の頭とか魚を盛っただけでおもしろかった。全体にデザインとかがこなれていないのがおもしろい。今まで見てきた地方にもそういう土俗的で日常的なものはあるはずだけど、博物館の展示の対象にはなっていなかった。その点でここはよかった。
歴史博物館は先史バイキング中世と時代をしぼってある。まぁノルウェーとかデンマークとかと基本的に時代区分がおなじなのはしかたないか。先史部分に展示してあるのは昔デンマーク領だった海峡部分のものばかりで、要するにデンマークの歴史をなぞっていた。スウェーデンの奥の方の出土物がでてくるのはわりと後になる。
バイキング部分は後代の受容とかそういう内容もあつかっていた。展示内容的には高度だ。あとは中世教会美術か。マリア像展をやっていて、そのなかの一つがなんというか観音的で、琵琶を抱えた脇侍(天使)とか、放射状の光背とかをそなえていておもしろかった。まぁ、マリア像って観音像をインスパイアしたものだろ?
音楽博物館は楽器が置いてあってならし放題だった。体験にメインを主眼をおいているのはポイント高い。
美術館は、それほどでもなかった。しかし展示のしかたはノルウェーにくらべてよい。基本的にノルウェーとかわらんのだが、光量を落してみたりいろいろ工夫している。実はノルウェーの美術館には教科書的に有名なものとかあって、ときどき「あーあれあれ」となったけどあんまりいい印象がなかった。スウェーデンのもスウェーデン美術とそれ以外となっている。まぁでも19世紀のスウェーデン絵画はまぁいいよ。
絵でくらべるとノルウェーの方が上なのだが、博物館としてはスウェーデンの方が上だ。
スウェーデンの発酵食品はおもしろいらしいけどまぁもういいだろう。goeteborg で金があまれば何か食うかも。所持金600円くらいは明日の食事代と窓口での手数料(いるかいらないかわからない)のためにのこしておかねばならない。
そういうと、ヴァーサ号博物館が開くのを待っている間あんまり寒いのでまわりを歩いていたら、港が凍ってしまっている。そのなかに白鳥が水に浮んだ状態のまま凍りついていた。首を伸ばしたり回したりしているので生きているのはわかる。あのあとどうなったのだろう。
オスロ。早朝五時に起きてバス停に行った。早すぎたけど寒くない。
ユーロラインズはあいかわらず窓が汚れている。写真がとれない。撮っても濁った写真しか撮れない。
ノルウェーの国境で降ろされそうになった。金もっているのかと聴かれてクレジットカード見せたらなぜかたすかった。わけがわからない。厳重なわりに手慣れていない感じを受ける。日本のパスポートなんかをとりあげるわりに、パスポートも持っていない謎の人たちを放置していたり。麻薬犬が一人の若造に感知したあとその周辺の黒人だけピックアップして降ろしてみたり。たまたま新米にあたっただけか?
オスロのホステルがないので、何もせずにそのままストックホルムに行く選択肢も考えていたのだが、オスロに行ってみて、結局そうなった。博物館がショボかった。夕方だったので歴史博物館の一階だけしか見れなかったけど、まず説明がノルウェー語だけ。それから、展示のしかたが、日本的に言うと昭和のかおりがする。まぁモノはいちおう古いのから順にならんでいた。量はすくない。眺めていて、昔行ったバルト海諸国の博物館を思いだした。あのあたりはもっと新しい時代まで古い生活スタイルを維持していたのだが、まぁそんな感じだ。
今までバイキング関係はさんざん見たので、これというのもなかった。バイキング船博物館というのがあって、そっちにも行くつもりだったけど、パンフレットを見ていると船があるだけっぽいのでなんか見にいく気が失せてきた。もっと、ノルウェーの民族主義をかりたてるようなものとかあったらおもしろいのに。まぁそんな段階でもないのか。
デンマークは充実していたなぁ。イギリスとアイルランドの差よりもデンマークとノルウェーの差の方が大きい。
ちなみに他の階で韓国展をやっていたようだ。韓国のあちこちでさんざん見た百済の金細工の写真があった。レプリカを何個作っているんだろう。
他の階を見ると、ノルウェー関係はなんと中世で終わりであるようだ。他の階にはエジプトとか東洋とか、たぶん見てもそんなにおもしろくないんだろうなという題目がならんでいる。オスロ市博物館とかで詳しいことをやるのだろうか。でももうストックホルム行きを買っちゃった。
美術館も見にいったのだが、こっちはなんと15分で見終わってしまった。典型的な美術館的展示で、救いはあんまり古いのがないことか。19世紀から20世紀初頭のおいしいところだけ置いてあった。応用美術の美術館もあったようなので、そっちに行った方がよかったか。しかし博物館関係の開館時間が短いのは致命的だ。
20世紀前期に民族主義が高揚した時期があったはずなのだが、そういう展示が少なかった。どっか他にあるのだろうか。
以後の予定は ベルリン -> ベルギー -> ドゥッセルドルフかな。バスの連絡がうまく行くかどうか。既にストックホルム行きはユーロラインズがないので、普通のバス会社の夜行バスを買っている。以後ドイツに行くには、ストックホルムからユーロラインズで行くのと、対岸のリガに渡ってリガ発になんとか乗ってみるのと二通りある。リガ行きはフェリーの到着が11時で、リガ発ベルリン行きが12時と時間のあきがないのが怖い。事前に予約しておけば乗れないかもしれないし、現地で買うつもりで行けば、実は窓口がなかったりするかもしれない。まぁそれでもフェリーでの移動は好きなので乗るだろう。ネットで調べた値段よりも高いかもしれないが。
オランダはもうどうでもよくなってきた。行くとしたらコーヒーショップのために行くだけだ。
ちなみにコペンハーゲン発オスロ行きはポーランドの方から来ていた。客がみんな静かで寝るときも姿勢を崩さないのが印象的だった。ストックホルム行きはギュウギュウだったので、オスロ行きにしてよかった。まぁ今晩どうなるかわからんが。
寒いのも当然だ。氷点下なのか。手袋装備でなんとか慣れてきた。
昨日は国立博物館で一日潰れた。しかも全部見れなかった。今日はコペンハーゲンの五稜郭を見たあと国立美術館に行き、あまった時間で博物館ののこりを見てきた。余裕があればコペンハーゲン市博物館も見に行くところだが、まぁもういいや。音楽博物館があるけど木金は開館していない。しかたない。まぁ、楽器なんかそんなにバリエーションがあるわけでもないしな。
国立博物館に古代の太陽信仰というのがあって、線描の石刻で太陽を乗せて天をめぐる船/馬車というのがあったのがおもしろかった。ギリシャ神話のアポロンが空を巡るみたいなもんで、たぶんそういうのの基礎にあたるんだろう。
あと、馬車の戦車が北ヨーロッパで発達したみたいなことが書いてあった。とにかくイギリスとは随分様子が違う。
そのかわりバイキング時代とかも遺物中心で政治的な事はあんまり書いていない。まぁ船なんかは紀元前のかなりでかいのが置いてあったからな。ユトランド半島自体が人口稠密な地方だったので、バイキングがどうとか力を入れて言うことでもないのだろう。
この博物館自体が古いのだが、中世部分はその古い展示の雰囲気を残している。とはいっても生活とかにも重点が置いてあってなかなかおもしろかった。中世の邪教っぽいキリスト教の彫刻が結構置いてあってなかなか楽しかった。やっぱり偶像はドイツ周辺に限るな。町中にも偶像がいっぱい置いてある。ドイツの影響が大きいところはどこもそうだ。フランスとかイタリアとかもそうなのかよくわからんが、まぁ後でよく見てみよう。昔ローマに行ったけどローマは古代ローマの遺物がいっぱいあったことしか覚えていないな。たぶんドイツ系にはかなわないのではないか。プラハとかウィーンとかブダペストとか偶像だらけだった。
デンマークの位置がバルト海の出口をおさえるところにあったので、バルト海の海上交易を一手に握ることができたのが繁栄の基礎だったというようなことはどこにも書いてなかった。そうなので、スウェーデンとの戦争の原因とかそういうことはあんまりわからなかった。今世界大百科事典を見ててわかった。展示だけ見ていると、新教を受容したあと、いきなり30年戦争にまきこまれてスウェーデンとかイタリア方面とか攻めてきて、略奪うけて大変なことになったというような感じになっている。まぁちゃんと説明が読めていない可能性もあるけど、スコープが狭くて情勢がのみこめにくい。
そういうと、バイキング時代はデンマーク前史(新しい展示)と中世展示(古い展示)の両方に展示があった。バイキング時代で銀があふれたとかいうのは中世のほうにある。どうもアイルランドのバイキングというのはバイキング文化の中心の一つであったらしい。
さて、コペンハーゲン到着までになんとか読んだバイキングの新書サイズの本には、バイキングの襲来に先駆けてアイルランド人自体の襲撃があったことが書いてあったのがおもしろかった。アイルランドの博物館には一言もそんなこと書いてなかったからな。ダブリンがバイキングの重要拠点になったのはそういうこともあるのだろう。なんか倭寇をおもいだした。
デンマークはバルト海の出口を握る地理的優位にあぐらをかいていて、そこからの輸出はオランダに握られてしまっていたらしい。その地位をも脅かされたのが三十年戦争にはじまるスウェーデンとの戦争で、その重圧にあえいでいるあいだにイギリスフランスなんかが世界の貿易の中心になっていた。デンマークも遅ればせながらアジア会社をつくって中国インドとの貿易にのりだしたけど、遅すぎたようだ。それにやっぱり連中ほど悪どくなかったからそんなに発展できなかったようだ。デンマークというのは老舗の旦那みたいなイメージかな。
Gajolを食べてみた。ほんと薬品っぽい。新しいタイプもあるけど古いほうを買った。新しいのは糖衣でくるんだガムみたいなのになっている。味はよくあうだろう。
おなじドミトリーのフランス人に食べさせたところ、フランスにも似たようなものがあるらしい。同じ味ではないと言っていた。
日が暮れるまで時間があったのでクリスチャニアに行ってきた。巻いたのとか乾燥させたのとか売ってた。
金があまるかとおもったけど、キレイに使ってしまいそうだ。
そういうと、国立博物館の民族部門の中国ものとか日本ものが雑然とならんでいるところに小さい韓国室があって、両班の建物の一部とか両班の衣服とか巫女関係のものとかがこじんまりと置いてあった。大英博物館にあったセットを小さくしたような感じだ。韓国ってこんなことに執念を燃やしているのな。フランスのギメにもあったりするんだろうか。
国立博物館は他に博物館の裏方がメインの展示もあった。こんな感じで所蔵品を保存しています、とかこんんな技術がつかわれています、という感じ。
ユーロラインズのオフィスをみつけて、オスロ行きを予約したが、時刻表を見ていて重大なことに気付いた。オスロ発ドイツ行きはたくさん出ているが、ストックホルム発ドイツ行きは週に数本しかない。オスロストックホルム間の連絡がないのはわかったが、ストックホルムのほうが袋小路になっているとは。まぁいいか。
今いろいろしらべていてわかったけどストックホルムから船で対岸に渡る選択肢があった。
アムステルダムに昼間だけいた。コーヒーショップがいっぱいあったので、泊まっていたら入っていただろう。飾り窓も見てきた。あぶないあぶない。いろいろと金が消えてなくなるところだった。
国立美術館が今整理中有で、まだ四月に開くそうだからまぁしかたない。他にもゴッホ専門のとかあったけど行かなかった。夜行バスは疲れる。それにアムステルダムは寒い。ブラブラ歩いているだけで冷えてくる。まぁイギリスがあたたかいと言うべきなのか。
そういう眠い状態でふらふらとアムステルダム歴史博物館に入ったのだが、眠くてあんまり頭にはいらなかった。10ユーロもしたのに。まぁ歴史が浅いので、20世紀の事もくわしく扱っていたのがおもしろかったくらいか。AJAX。
アムステルダムは13世紀かららしい。おぉおまえもモンゴルの時代の申し子か。
アムステルダムへのバスはあんまりよく眠れなかったが、コペンハーゲン行きのバスはよくねむれた。今ハンブルクで中継のバス待ち中。一時間半ほど遅れているらしい。
ハンブルクの路面はところどころ白く凍っている。まぁなんか急に寒くなったのか。コペンハーゲン行きもそれで遅れているのか。
ところでオスロコペンハーゲンストックホルムをめぐる上で、オスロとストックホルムの間に直通がないらしい。コペンハーゲン行きがそのままオスロ行きに接続するのでそれで行くべきだったか。
コペンハーゲンはきれいだ。物価がたかくさえなければもっといてもいい。
ところでコペンハーゲンでは道端におろされてどこにもユーロラインズの窓口がみあたらない。どこにあるんだろう。
住所を発見しました。明日行ってみます。
ユーロラインズにしてよくなかったとおもったのは高速道路をひたはしるところだ。長距離を走るからしかたないといえばしかたないが、ちょっと風景に風情がない。
コペンハーゲン行きが豪快に二時間ほど遅れていたけどおかげでイギリスで買った新書サイズの本を読みきることができた。
昨日はヨークを見たあと、リーズまで行き、リーズからまっすぐロンドンに来た。ロンドンリーズ間のバスが安かった。ヨークに行く人はリーズまで行ってからヨークに行けばいいとおもう。というかなんでも拠点都市を経由したほうが安いんだろう。
しかし夜遅くロンドンについたので、日記とか書けなかった。ドミトリーのよくないところだ。夜おそくつくと寝ている人がいて、部屋の電気を消していたりする。そういうところであんまりゴソゴソしたくない。
今日はユーロラインズのパスのことをしらべて中華航空のオフィスに行き、北京へのフライトを三週間延長した。どうも最初のチケットでは南京経由で北京に行くことになっていたらしい。どういうことだ。
変更に128ポンドとられた。1300元ということらしい。あと、ユーロラインズの30日間パスは209ポンド。ノルウェーからスペインまで行くつもりなので十分もとはとれるはずだ。
昨日バスでロンドンに入るとき、ハムステッドという高級住宅街の周辺でイラン料理屋を見かけた。ロンドンの北で、ちょっと小高いところになる。テヘランとおんなじように高いところに住むんだなとおもった。今日ついでに行ってみたが、一軒しかみつけられなかったので飯食ってみるのをあきらめて市内にもどった。素直に大英博物館にでもいっておけばよかった。
バリカンをうりはらった。道端にひろげて値札を置く方式だが、声をかけてくるのは中東それもアラブではなくイラントルコ系っぽいのばかりだ。二時間いて冷えてしまったので止めようとしたところで人のよさそうな黒人がものすごくほしそうにしていたので2ポンドであげた。ただであげてもよかったが2ポンド分小銭をくれた。
売りはらった場所は交通のターミナルになっているところで、既に移民の露店がたくさんあるところだ。そのせいか注意もされなかった。もともとそういうところか。
アムステルダム行きのバスは海峡を船で渡るので選んだ。オスロ行きはうけつけの黒人のおばちゃんが昼のにしろとしきりにすすめるが、それがトンネルを通るのでおもしろくない。あと、今日なく明日あるということなのではずした。ポンドの小銭が両替できるから船はいい。夜だけどな。
ユーロラインズバスは乗るのが早いもの順で、席を取ったもの勝ちのようだ。次から気をつける。
小銭だけユーロに両替した。30ポンドはノルウェーででも両替するかね
あー。これからどう移動するかな。ロンドンの中華航空のオフィスに行くか、やっぱりやめておとなしく大陸に渡るか。それもよしだが。
結局ニューカスルのユースホステルは10ポンドとものすごく安い値段で泊まれた。最初は15ポンドと言われていたのだが、カードを取りだすと、現金なら10ポンドと言われたのでそうした。カードはときどき断わられることがある。値打ちが落ちているんだろうか。
それとは別にして、アメックスのカードは受けつけませんという張り紙をよく見る。このカードもいつまでつかえるんだろう。クレジットカードというもの自体が消えてなくなるかもな。そういうことなら、クレジットカードがつかえる最後の瞬間に旅行しているのかもしれん。てか使えなくなったらちょっと困るんだが。まぁ中国でつかうつもりの日本円の現金を後生大事に懐に抱えているので、まぁ帰るくらいは余裕でできる。世界がアジアなみになるだけのことだな。で、金の流れがますます悪くなって、世界経済がますます縮小と。なかなか愉快だな。
ニューカスルからヨークまでまっすぐ行くと高そうだったので、ロンプラの地図を良くみてミドルスボロというところに行き、そこからスカボロに行ってヨークに行った。スカボロに行くと三角を描くのだが、海岸線を見るのもよかろうと、遠まわりをした。スカボロの港町とか城とか見てるうちに日がくれたので、スカボロのユースホステルに泊まりにいったが、冬はやっていないらしい。
しかたないのでヨークに行った。スカボロからヨークのバスは二階建てなので、明るいうちに走りたかった。
しかたないというのはエジンバラでヨークのユースホステルを調べたとき、満室状態だったからだ。うむむ。とりあえずそこは避けてロンプラに乗っている他のホステルを回ったが、どこもやっていない。二年の差は大きい。
ホステルからホテルに転業したところで受付のネーチャンがユースホステルの場所を描いてくれたので、あきらめてユースホステルに行った。22.95ポンド。しかたない。
このへんまでくるともうずーっと草原状態だ。まぁゴルフ場がずーっとあるようなもんだな。今日行った海の方はやや高原のようになっていた。イギリスは海辺の地形がけっこう激しいのでおもしろいな。
ニューカスル-ミドルスボロ 約2時間 4.6ポンド
ミドルスボロ-スカボロ 約2時間 4.6ポンド
スカボロ-ヨーク 約2時間 8.5ポンド
会社が違うとこんなに違うものか。ちなみにナショナルエクスプレスでミドルスボロ-ヨークは7.5ポンドだった。
今のレートではだいたい、
ちょっとデンマーク・ノルウェー・スウェーデンに足をのばしたい。
てゆーかもうこんな機会二度とこないだろうから、行けるところは行っておきたい。
結果的に世界遺産巡りになってしまっているが、そんなつもりで行ったわけではない。
鉄道がものすごく高かったので、途中にあるハドリアヌスの壁を見に行くことにした。壁はカーライルからニューカスルまであり、真ん中のあたりがよく保存されているらしい。
エジンバラからニューカスルに行くのが16ポンドくらいしたので、カーライル行きに乗ってみたら、なんと5.70ポンドとものすごく安い。カーライル行きの会社は First で、運転手から直接買う方式だった。ニューカスル行きは NationalExpress で、全国をカバーしている国鉄だ。そのせいか。
カーライル行きはエジンバラから山のなかをとおって行く。山といっても、丘陵地帯で、そんなに木が生えていないから、草原のようなもんだ。田舎の風景がながめてよかった。どうも廃線が通っていたらしく、鉄橋や土手が見える。
雪のつもっているところもあり、この先がおもいやられた。
カーライルのバスはターミナルではなくて、バス停が広場に集合している方式である。どっかにバスターミナルがあるのかもしれないが、わからなかった。そのため、ニューカスル行きがみつけられず、とりあえず鉄道で時間をかせぐことにした。カーライル行きのバスが3時間半くらいかかって、昼の一時半くらいについたので、そこからのスタートである。これまた先がおもいやられる。
鉄道がまた途中で謎の停車をくりかえす。"Sheep on the rail" とうれしそうに繰り返していた客がいた。ほんとにそれが原因かわからないが、そう思いたくなるくらい遅かった。到着が20分くらい遅れて三時すぎ。むーん。
そこから登るわけだが風が冷たい。やばさが身にしみる。駅で地図を確保して歩いていったが、北の方で雪が降っていたりするから、このへんでは小雨が風にのってふきつけたりするわけだ。そんなに寒いのに、わざわざ地図上で壁を余計に見るルートを取って時間を無駄づかいしてしまった。その結果泥地帯を歩くことになり足はもうグチョグチョである。
なかなか壁らしきものに到達しなかったが、やっとわかった。そのへんの牧場とかの壁も石積みなのだが、ハドリアヌスの壁の石は四角い石が綺麗に積んであって壁の厚みもあるので違うのがすぐわかる。
スコットランドとイングランドの境界あたりはスコットランドとイングランドがぶつかってわかりやすく皺状になっている。ハドリアヌスの壁はその皺が切りたった崖になっているところを利用してつくられているので、壁よりもその崖がすごい。そういうと万里の長城もそんな感じだった気がする。
しかし、遅く出発したのと、地形が山谷の連続で登って下ってのくりかえしでやたら進むのに時間がかかったのとで、あんまり進まないうちに日がくれて真っ暗になってしまった。冷たい風もふきつけるし、雲が厚くて星空とか夕日であかるくなるはずの時間が余計暗くなる。たまたま険しいところを登ってゆるやかに下る順になっていたからいいものの、これが逆だったら足をすべらして頭を打って死んでいたかもしれない。途中でリタイヤして峰を下った。
丁度そのへんにユースホステルがあるはずのところに出たのだが、どうも一月はやっていないらしい。しかたないので、道まで出て、ニューカスルまで行くことにした。そしたら一時間おきのニューカスル行きが丁度二時間間隔になってしまうときにぶつかってしまい、二時間待たされた。
ニューカスルではあちこちあるきまわって、最終的に23時半にユースホステルに投宿した。金は明日の朝とか言っている。こわいなぁ。
スコットランド国立博物館。
充実しすぎていた。考古学的展示物の陳列方法が時代順ではなく、生活に使う物としての分類で並べてある。しかも発掘場所、時期も常に提示。スコットランドは短期間だがローマ軍に三度占領されていて、そのときの遺物も展示してある。ローマの範囲外だとおもっていたので意外だった。こういう展示は、伝播や変化を主眼とする展示にくらべて新しいけど、スコットランドだから、生活に即した展示を目指したということだろうか。展示物も豊富だし、伝播など外部からの影響の言及もあったが、下手をすれば昔こんなのがありましたというだけの話になる。
ただ、それはわざとそうしているのかもしれない。考古的展示が Early people として、地下にあり、一階が「スコットランド王国」として、中世に王国が成立してからの展示をし、そこでは、スコットランドに住んでいたいろんな民族の集合体として成立したことが触れられている。起点をそこに置いて、その前はいわば先史扱いしてしまうのはなかなか賢い。
スコットランドの黄金時代は18世紀であったらしい。17世紀にスコットランド王位がイングランドとかねるようになり、18世紀初頭にスコットランド議会の解散があり、その後はゲール語の禁止とかいろいろあったわけだが、暗黒時代扱いされそうなところを、「産業革命の主役」になって当時世界の最先端地域になったと誇り、イングランドの支配ですら、そのおかげで交易が盛んになり、産業革命を刺激したと肯定するわけだ。なかなか面白い態度だとおもう。スコットランド議会の消滅を重視するのは最近スコットランド議会が復活したからだろう。
自分から見れば、大英帝国の一部たることを最も享受した国であるように見える
とはいえ、エジンバラの都市が18世紀のまま保存されているのは、その後寂れたということの証拠だが、まぁ、中心が工業都市のグラスゴーに移ったということでもあるからいいのだろう。世界大百科事典によると、この旧市街は20世紀初頭にはスラム街化していたところを整備して観光都市化したらしい。
この博物館は自然史博物館とか科学博物館とかも兼ねているようで、最近あんまり見なかったそういう系統の展示も見た。スコットランドが第二次世界大戦後、植林で大幅に森林面積を増やしたのとかはどっかで聴いたような話だとおもった。
ついでにナショナルギャラリーも見てきた。結構よかった。スコットランド人のものは地下に隔離してあるのもいい。そんなにわるくない。展示の仕方は昔とそれほど変わってないように見える。
むかしのナショナルギャラリーを描いた絵があって、雑然とした観客の様子がおもしろかった。展示も雑然としていたようだ。
その二つで日が暮れた。城はいかずに明日ヨークへ移動することにする。ケチってバスでチンタラ行くか、鉄道で二時間半で行くか。鉄道つかってもいいかなぁ。どうせバスでもそんなに安くならないし。
ダブリンからとりあえずベルファストに行ったら、国境がどこにあるのかわからないままベルファストについた。バスターミナルのなかにバス会社の旅行カウンターがあって、エジンバラ方面などの連絡バスが買えた。27.5ポンド。今のレートでちょうど30ユーロくらい。何も難しいことはなかった。
そのとき、カードで買おうとしたら、失敗した。ブル・ナ・ボーニャの展示館のレストランと同じ現象だ。まぁ秘蔵しておいたスターリングでなんとかしたのだが、その後銀行で金を引きだそうとしたら、カードの発行者が課金すると出る。額がわからない。こわすぎるぞセゾンのVISAカード。一回につき500円とかだったらものすごく腹がたつのだが。
ダブリンでバスに乗るときに、普通は運転手から買えるのに、なぜか、駅のカウンターで買ってこいと言われた。謎すぎる。というより嫌がらせと思ったほうがいいんだろうな。
まぁアイルランドは露骨だったということにしておこう。
ベルファストに着いたらなぜかほっとした。たぶん物価が安いからだとおもう。
UKの方が量産品とかショップブランドがおおくて安いような気がする。UKと同じものを売っているのに、なぜかアイルランドの方が高いものが多かったのは、輸入品になるからだろうか。昔の値付けがそのままのこっている可能性もある。
スコットランドに渡ると、北海道のような景色が広がっていた。辺鄙なところを回ってよかった。
フェリー降りたところで荷物の総チェックをうけた。そのくせスタンプは押せないらしい。どうもパスポートにイランのビザがはってあるのが注意を引くようだ。パスポートのイランのビザのページはそのときの出入国のスタンプでいいかんじにいっぱいになっているのだが、フランス入国時になぜかその間にむりやり入国スタンプが押してあって不思議におもったのだが、これはつまり、要注意という意味なんだろう。まぁ、あと、いい年したおっさんがちんたら旅行しているのも目を引くのかもしれない。そんなに小汚いのか。
エジンバラ。
今後のルートを考えていて、帰りの飛行機を延期してもいいような気がしてきた。変更に1000元かかる。まぁ一万三千円くらい。どっかにある中華航空のオフィスに行って払えばいいんだとおもう。今のチケットは42日8万だから、一日2000円くらいの計算だ。その計算方法で行くと、一週間以上延長すると割安になる。そしたら北欧も南欧も行ける。
コーク以来なにか咳が出るようになった。変な病気でも拾ったのだろうか。
気付けばもう20日か。
国立博物館。結構よかった。朝なぜか博物館のある一角に警戒線が張られていて追いかえされたので、違う方向から入ってみたら入れた。何だったんだろう。
国立博物館がよかったのは、出土品がメインで、説明が最近のものだからに他ならない。遺物が豊富だ。泥沼から見つかった死体とかなまなましすぎる。
アイルランドの鉄器時代というのはケルトと関連づけられているのだが、そのあたりが曖昧でおもしろい。大陸のラテーヌ文化と平行して、それまでの青銅器文化が存在し、やがて終焉して、大陸的なものになるのだが、それの入れかわりに二世紀くらいかけている。その様態をキリスト教の受容のときと似ているとまで言っている。このあたりは「島のケルト」の問題を意識したものだろうか。とにかくアイルランドは国粋をどうこう言う段階を通りすぎているようだ。まぁイギリスのストーンヘンジより古いと威張っている巨石墓とかの文化の担い手の系統の文化がつづいていたところへ、その文化が入ってきていれかわるのだから、複雑なところだろう。
キリスト教の受容というのは、それまでキリスト教と縁のなかったアイルランドが、一度受容すると教会が林立し、学者なんかを輩出したようなキリスト教国に切りかわったような事を言う。食わず嫌いだが、一度受容するとすっかり切りかわる、というような態度と比較するということは、「島のケルト」的な文脈に沿っている。
ちなみに日本も鉄器と青銅器が組でやってくる。アイルランドとは違って、それまでの青銅器文化というのはないから、日本にはいわゆる青銅器時代自体が存在しないことになる。まぁそれはいいとして、やっぱりここでも外来文化の受容なのか異民族による征服なのかというような話になるわけだ。
あとはバイキングの展示が濃かった。ダブリンにバイキングの墓地があり、スカンジナビア半島以外では最大の規模らしい。当時の生活をうかがえるような木製品なんかがでているからすごいもんだ。ただ、ここでは大英博物館の周到さを思いしらされた。見たことあるものが多い。バイキング時代にはその活発な交易活動のせいで、通貨としての銀の使用がおこなわれていたらしい。遺物として、銀の延べ棒なんかがあったのがおもしろかった。
イングランドの支配についても客観的に書いている。まぁもっとも、展示自体が中世で終わっていて、恨み言がはじまりそうなころの展示はない。展示案内のパンフレットを見ると、独立への道みたいな部屋があるはずだが、その部屋が泥沼死体部屋になっていて、その時代自体扱うところがなくなっているのは、展示の作りなおしが進行中ということなのだろう。
ちなみに写真禁止だ。
また音楽アーカイブに行ってだらだらCDなんかを聴いてきた。リールとジグとダブルジグとホーンパイプの区別ができるようになった。ところで、スコットランドにもおなじ分類のものがあるということがわかった。スコットランドか。
ダブリンでユーロラインズパスは買えない
ダブリンから行けるのはロンドンの方だけ。やっぱりベルファスト行きは売ってくれない。本当に今ないのかもしれないが。
ということで明日はベルファストにアイルランドのバスで行ってみる。一泊することになるのかな。
博物館に行ったら、月曜休みだった。しかたない。ナショナルギャラリーに行った。
しかしそういう情報はロンプラとか見ればわかるのになぜ見ないんだろうな。
アイルランド美術ということだが、はずれだらけでひどいもんだ。オランダ系の絵画をあつめたところと、中世のものと、20世紀部門の、絵が崩壊する前はよかった。あと、特別展のフィンランド絵画もよかった。まぁ、絵画が発達したころはアイルランドはイングランドの支配下にあったわけで、文化的に亜流になるのはしかたないかもしれない。それなら「アート」的なものにこだわらず、民俗とかに美を見いだせばそれなりにあるとおもうのだが、そういうのもない。
音楽アーカイブはよかった。本がかなり高い二部屋全面に並べてあり、CDとかDVDのラックが片方の部屋の真ん中にデーンと置いてあって、片方の部屋のコンピュータで聴き放題。
とりあえずジグが三ステップ系で、リールとかホルンパイプが二ステップ系だということはわかった。DVDのなかにおじいさんとおばあさんがダンスのやりかたを披露するのがあって、ものすごくわかりやすかった。ああゆうのが本来なんだろう。
あと、アイルランド音楽の20世紀初の集大成であるオネールの1850曲集というのは、アイルランドを脱出してアメリカに渡った人がやった事であるらしい。そのあと、アメリカでアイルランド音楽の黄金時代が来たようだ。
まぁしかし、音楽がダンスなどの実体から遊離して、技巧に走るようになるのはなんでもそういうものなのか。あと、女性のフィドル奏者のDVDを見たら、足でテンポをとっていて、しかもカカトで踏んで膝を上げないようなのではなく、膝を激しく動かしていた。超絶技巧っぽい曲を一人で引いているのとかは両足でまるで駆け足しているようだった。あれはダンスの経験がそうさせているのか?フィドルのDVDを見たら、装飾音の出しかたの解説に重点を置いていた。
オーストラリア人とアメリカ人とイギリス人とフランス人とアルジェリア人にクラブへ拉致された。まぁ一人だったら絶対行かないところなので、どんなところか見るには良い機会だった。せっかくなのでギネスを一杯飲んだら、もうひどく酔って寝てしまったので黒服につまみだされた。覚めるまでそこで立ってろということだが、酔いがまわっているのにそんなとこで立っていたら死んでしまう。黒服に地図上の現在地をおしえてもらって、なんとか帰った。
英語が全然わからんかったが、酔えばよけいにわからなくなった。それでも適当に相手してくれるからえらいもんだ。
やはり経路を重視する派としては、少々金がかかっても、ベルファストに行ってスコットランドか。
今日はブルー・ナ・ボーニャに行った。
ピラミッドやストーンヘンジをさかのぼる巨大構築物とのことだが、まぁ巨石をつかった円墳だった。日本語ではこういう形式を羨道墳と訳すらしい。スパイラルスパイラルとスパイラルばかり紹介されたが、他にも枝模様とかあったな。とにかく寒かった。墓ひとつ見れただけで、あとは外にあった木製のヘンジ跡とか。見るものは少ない。
この墓については時代が古いのが一番の特徴であるらしい。まぁ四千年紀のものってなかなかないよな。同じような文化はスペイン南部にもあるとか。
エーブリーは本体のストーンヘンジ自体はものすごくしょぼかったのに、高い円墳もあり、地形的な広がりがあってなかなかおもしろかった。こっちはそういうのがないところがものたりなかった理由かもしれない。
ダブリンから Drogheda 行きのバスにのって、そこから New Grange 行きのバスにのればいいのだが、ダブリンの駅で往復通しで買うと、donore行きの切符を17ユーロで売ってくれるが、バラバラに買うと、Doghareまでが10ユーロで New Grange までが6.2ユーロ。バラで買ったほうが安いのはなにか間違えている。バスの運転手はなにか不機嫌なのか、乗ったらいきなり、そこへは行かないとか言ってた。乗りかえるのだが、わかってて言っているようだ。どういうつもりかわからない。
New Grange 行きの運転手はわりと人当たりよかった。しかし客が一人だけなのはどうなんだ。他のひとは車とかツアーで来ているようだ。彼とつたない英語で会話したところ、今日はものすごく寒いらしい。
バスの時間があわなかったので、帰り、展示館の付属レストランで飯を食ったのだが、なれないことをしたせいか、クレジットカードが二回も拒否された。ただ、拒否のタイミングがおかしい。PINコード入れてから、処理しているように見えるのにレジのおばぁがダメとか言う。なんかあやしい。結局現金で払ったが、三重取りされているんじゃないかとうたがっている。慣れないことをしたせいか、帰りのバスで猛烈に小便をしたくなって、ダブリンの市内にはいってから途中で降ろしてもらった。降りていきなり道端でタチションしたのでバスはそのまま去ってしまったが、それは降りてからすこしちびってしまったせいかもしれない。
まぁしかたなく歩いて行ったのだが、途中で「こちら港」という掲示があったので、そっちに行ってみた。
それでわかったのが、ダブリンの対岸のウェールズ北西部に渡る船にはのれるということと、ほんのすこし足すだけでイギリス内部の奥のほうまで鉄道で行けるということだ。二つ乗れる会社があったが、いづれも44ユーロでヨークまで行ける。そして、フェリー乗り場は6kmくらいある。フェリーは朝早いので、乗るつもりなら、暗いうちに乗らねばならない。
一つの会社はベルファストから対岸への船を運行しているところとおなじなので、おそらく、ベルファストに行けばおなじように港で鉄道連絡切符を買えるのだろう。これは大事な情報だ。
あと、バスの中で、ユーロラインズのパンフレットをじっくり見ていたら、ダブリンからベルファスト経由でスコットランド方面に渡るバスがあった。これは45ユーロ。これがどういう額かというと、ダブリンからベルファストまで15ユーロなので、ベルファストからスコットランド方面まで30ユーロで行けるということだ。これは港でフェリーと鉄道を組みあわせたチケットを買うのと大差ない。おそらく安い。
だいたいイギリスへの渡航の選択肢はそろった。あとは飛行機があって、事前に予約できればかなり安くなるようだが、前日になるまで当日の予定もないような、もっとひどいときは目の前にするまで判断しないような場当たり的な旅行している身にとってそれは難しい。
ユーロラインズの15日間パスがポンドとユーロで日本円にして5000円ほど差があるので、5000円以内で行けるならイギリス国内でパスを買った方が安いのだが、宿代や飯代が高いので、それくらいは誤差の範囲内だ。つまりはどういう旅行をこの先したいかだな。
場当たり的な旅行をする人としては決断を先延ばししておこう。まぁ、ダブリンで、北回りのユーロラインズが買えるのか、とかも疑問のあるところだが。観光案内所に行って、リバプール行きの船のことを聞いたら、アイルランドの事しか答えませんと平気で言うような人がいる国だ。
書きわすれていたが、昨日国境こえたときに、スタンプ押せと要求したら、15日間だけというよくわからないスタンプをよこした。仕事が欲しい人がいっぱいくるんだろうか。そしてそういう人に見えたんだろうか。
こじきといえば、身体障害者だったり、哀れなすがたを見せてお情けを乞うのが相場だが、コークではそういうのはいなくて、若くて元気そうなのが缶を置いてこじきしていた。
朝飯はミューズリーに牛乳だ。朝飯こみのところはそこのそれを食い、なしのところは自前で買ったものを食うので、ほとんど変わらない。
ダブリンまで来たが、雨降りが激しくてなにもできない。
ダブリン以降どうするかで、ベルファスト経由でスコットランドに渡ることを検討してみたけど、アイルランド側にいて船こみのチケットを安くで買う方法があんまり見あたらない。北アイルランドのベルファストに行ってみるのも魅力的だが、ルート的にどうか。
バスパスをもう買ってしまうのも手だ。
ダブリンって見るとこが結構あるな。音楽アーカイブがある。博物館も大きそうだ。ダブリンで時間つかって、ここでバスパス買ってリバプールとかに行って、エジンバラまでヨークを経由して行って、そこからオランダなりなんなりに行くのもいいな。
アイルランドに着いて港でバスにのろうとしたが、カードがつかえない。ATMもない。しかたないので、ATMがあるところまで歩いた。24時間じゃないコンビニで金を引きだし、さらにだいたい一時間くらいあるいて次のバス停がみつかったので、そこでそれ以上歩くのを止めた。一時間後にバスが来るのがわかっていて、バス停の間隔が一時間くらいかもしれないとなれば、歩くわけにはいかない。
バスに乗って順調に来た。海岸沿いにバスは走った。途中の景色がいい。人の手の入り具合が適当なところがいい。
コークについたらわりとこじんまりした街で、あんまり見るところもなく、明るいうちにだいたい一周してしまった。博物館も見た。で、宿に戻ってタダの無線LANでネットしている。
この宿には仕事をさがしに来ている人がいた。その人にはスペインの南のほうが物価がやすくて飯がうまくて暖かいとおすすめされた。どうやっていこうかね。
ダブリンは土曜は混むようだ。むーん。
夜の短い時間にだけコンピュータの電気を入れてちゃっちゃっと書くということをやると、報告書みたいな日記になっておもしろくない。
バースでローマ時代の温泉を見たあと、ブリストルに行って、スワンシー行きのバスに乗った。もう心はアイルランドだ。スワンシーから無事渡れるのかどうかわからない。というか、ブリストルからダブリンまでいくらか聞いたら、60.50ポンドと言われた。心が折れそうそうになって、その件は保留にして、時刻表を見ていたらスワンシー行き直通があったので、とりあえずそれにしたわけだが、その方がダブリンまで遠回りになるからいいだろう。ダブリンにまっすぐ行ったらそのまま船でリバプールに戻ってしまうので、あんまりアイルランドを見れない。
まぁ、もうイギリスも終了したっていいのだが。ヨークに行っていないけど。
英語であっても中国語程度のコミュニケーションをしているところを見ると、自分のコミュニケーション能力が必要とする語学力はこの程度と見える。まぁ、そもそも、母語である日本語でも全然人とコミュニケーションできていないのだから、当然か。
スワンシーに来てみたら、アイルランド行きの船は今はやっていないとのこと。代りに違うところから海を渡る鉄道を紹介された。23:45出発。さっそく鉄道の駅に行って切符を買ってみたら船もこみで27ポンドだった。しかし、それはいいとして、まだ日が暮れたところでまだ五時過ぎだ。六時間くらい時間がかかる。しかも雨がしょぼしょぼ降っている。スーパーに行って缶詰を買ったりして食べたが、まだ時間がある。ネット屋をさがして歩いてみたが、この街は六時過ぎには街中の店が閉まってしまうようなところで、どこにもない。鉄道の駅には待合室自体がない。困ってとりあえずマクドナルドに入ってみたら、無線LAN使い放題だった。すばらしい。ということで、日記の更新などしている。
しかしネットでそのフェリーの運賃をしらべてみたら、25ポンドとか言っている。鉄道でわたると、高い鉄道の運賃も込みで27ポンド。つまり単品で買うと高くなるということだ。なんなんだろう。イギリス人はみんな計画的に旅行するんだろうか。やなシステムだ。
アイルランドの港についてからのことをしらべてみたら、バスの値段体系もよくわからん。どうも距離よりもバスの乗りかえ回数に比例しているようだ。同じバス会社の接続なのにバス代を積算しているようだ。だから、ダブリン-コークとダブリンよりもコークに近いロスレア-コークの方が二倍くらい高いなんてことになる。交通の便がいいところの人間ほど移動しやすいシステムか。なんだろう。
バース に行くか エイブリー に行くか迷ったが、エイブリーに行ってからバースに行くことにした。
これはよい選択だった。旧城とかストーンヘンジなんかにこだわらなくてよかった。
ソールズベリーで切符を買おうとしたら、一日乗車券みたいなのをくれた。この地域のバスでつかえるもので、エイブリー -> バース はいける。
エイブリーは単純にロンプラが推していたので、行ってみただけなのだが、予想以上によかった。世界遺産に登録されている。知らんかった。
土塁と濠を伴なう環状列石の他、集合積石墓や巨大円墳などがある。最初はストーンヘンジ風の環状列石を見て、そのまま次に行くつもりだったが、博物館にはいってみたら、いろいろあることがわかったので、足をのばしてみた。そしたらまた泥のなかを歩くことになって足元がドロドロになった。はぁ。
まぁなによりもその巨大円墳で、墳といっても墓があったわけではないから、築山とでも言ったほうがいいのかもしれないが、紀元前3000年紀のイギリス南部のこんなとこにそんなものを築くことができる集団があったという事におどろいた。一気につくったのではなくて、三期くらいにわかれるらしいが。そういうと、ピラミッドも3000年紀中頃で、同時期といえばいえる。エジプトは文字があったが、イギリス南部のこれは文字もないし、遺物の量もすくない。
18世紀にはその築山を巨大古墳とみなし、被葬者をさがすために頂部から穴を掘りくだしたらしい。その試みは失敗におわり、2000年になってその穴を利用してちゃんと掘って調査したそうな。登るなという掲示があちこちにあるところを見ると、みんな登ってしまうらしい。ピラミッドに夜中に登りに行くようなものか。
Aveburyと書くので、エイヴブリーみたいなややこしい言いかたをしていたけど、辞書的にはエーブリーなのか。
Avon川はエーボン川。先頭の A はエイって読むんだな。観光案内所で尋ねるときに最初アボン川とかアベブリーとか言って通じなかった。
バースのユースホステルに投宿。16.95ポンド。高い。もっと街にちかいところにしたらよかった。
昨日一昨日とこれを書いている最中に寝てしまい、なんか中途半端になってしまったがまぁいいや。
しかし。なんだな。自分はおさないころにコンピュータが身近になかった世代だから、その世代らしく、日記は手で書いたほうがいいんじゃなかろーか。
とか書きつつ日記を書く。
バスパスがまだ二日分のこっているのが気になるが、とりあえずロンドンに腰がおちつきかけてきたので、動くことにした。
オクスフォードかソールズベリーか決めかねていたが、ソールズベリーに行くことにした。
バスが遠まわりして2時半についた。18.5ポンド。日の落ちるのが早いこの時期にすれば、何かをはじめるには遅すぎる。バスの案内所に行ってみたら、旧城は3時にしまるというし、Avebury(えいぶりー)には5時について帰りのバスがないという。しかたないので、ここの大聖堂を見てきた。尖塔が高い。聖堂内に、当時の姿として、写真をいじって、尖塔をのぞいた姿をパネルで展示していた。大聖堂の石は Avon川 をさかのぼって運ばれたものだという。川沿いに発展した街か。
聖堂内には最古の動く時計なんてのが置いてあった。はて、そうだったか。あと、目玉として、現存するマグナカルタの一本が置いてあったということだが、大英博物館には二本あるらしい。見たか?覚えがない。展示してなかったのか。
教会の他の施設はまぁカンタベリーと大同小異なので、どうでもいい。
うーむ。時間があまる。しかたないので、旧城とストーンヘンジの方に歩いてみた。急速に日が暮れる。旧城は丘の上に土壁で囲ったもののようだった。よく見えないが、まぁ小高い丘の上のものだとわかればそれでよし。丘の上のままで留まっていたら、ドイツの城郭都市のような風格になっていたんだろうか。今の道路は丘の小高いところ(峰とは言えないような平べったさだが、峰にあたる)を通っているので、川は丘の向うになって谷になっている。
で、その道ぞいに真っ暗な中を北へ歩いていったのだが、大変なことに気付いた。まず道に人があるくところがない。それはいいのだが、路側まで農場か牧場が迫っていて、場所によっては茨系の痛いものがうえてあり、わきみちを歩くことが出来ない。しばらく頑張ってあるいていたが、車が頻繁に集団でくるので、すぐよけることになる。まるでテレビゲームでもしているようなかんじでその障害をクリアすることになった。バカだ。でもかなり歩いたので、引きかえすのもシャクだ。
そんなこんなで、数時間暗いなかを歩いてなんとかストーンヘンジまでいった。真っ暗。うすぼんやりした中に石組みらしきものがみえる。しかもストーンヘンジ一帯はよく冷えるようで、露が落ちて凍りつきそうな感じになっている。月が登ってきたので、月明かりですこし見えるようになってきた。もうすこし待ってみようかとおもったが、そうすると本当に帰れなくなるので、月にむかって引き返した。帰りは途中からバスにのった。
ソールズベリーについてから、Bathに行く鉄道やバスを調べてみたが、23時近くなっているので、あるわけがない。しかたないか。十分歩いた。
ソールズベリーのユースホステル。15ポンド。2000円か。もうピークでもないので人もすくない。会員かどうかも聞かれていないし、たぶんこれ会員価格なんだろう。まぁ正月はヨーロッパも旅行のピークであったということだ。旅行しづらかったのはそのせいか。まぁ、これからは気楽に旅行できるだろう。
バスも鉄道もたぶん往復と片道の値段が大差ないんだとおもう。いやな料金体系だ。飛行機のシステムはイギリスの交通機関のシステムの延長上にあるようにおもえる。なんかバスに乗るだけでいろいろ大事だ。
市内までバスで一時間かかるので、今まで読む間がなかったロンプラを読んでみている。やっぱり北まわりか。ノルウェーにはこだわらず。やはりオランダは行くべきだろう。ならついでに北ドイツも、となる。
南ドイツとかオーストリアは昔行ったしいい。イタリアはローマしか行ってないから、北イタリアとか行ってもいいかもしれない。たぶん行かない。スペインも行きたいなぁ。フランスは飛行機の発着点だから考えるまでもない。
ユーロラインというヨーロッパ都市間バスがかなり安い。大都市間だけならこれで移動すればまぁいいんじゃなかろうか。
これからの移動はとりあえずアイルランドをめざして西に進み、アイルランドからまたイギリスに戻って、ヨークへむかう。スコットランドは未検討。イギリスからデンマークもしくはオランダにわたる。オランダ行くなら北ドイツはパスする。で、パリにつくころまでにスペインと南仏をかんがえる。
まぁそんなもんだろ。ロンドンに二週間弱居たのは長すぎたか。まぁ大英博物館がでかすぎるのがわるいんだ。
とは言っても、今後の移動のしかたによってはイギリスで時間つかいすぎて他に時間を割けず、さっさとパリに行ってしまうという展開もありうるが、それは知ったことではない。
テートモダン。テートブリテン。モダンの方はまぁモダンだけにつまらんのがおおかった。赤い星と題する部屋があって、ソ連の宣伝ビラが置いてあったけどそれはおもしろかった。印象派系のものもすこしあった。
テートブリテンはよかった。
この宿は安い。今日でいちおう予約した分は終わりなので、バスパスが切れるまで三日分どっかに泊まろうかとおもうが、メシ付きの韓国人宿に泊まろうとおもうと、一日15ポンドとられるのに、ここだと一日6ポンドくらいでいれる。つまり三日分が韓国人宿の一日に等しい。うーむ。
結局この宿を延長することにした。
ヴィクトリアアンドアルバート博物館にいってきた。応用美術ということで、家具とかが並んでいるだけかとおもったけど、そんなのでもなく、しっかり背景まで説明していた。ここはイギリスが説明の中心になっている。それに続くのがヨーロッパで、これはその当時の流行がどんなもんだったかということを説明するためにある。ということで、ヨーロッパを見てからイギリスの同時代を見るのが正しい。
中世の物もたくさん置いてあった。中世以降については大英博物館よりもいい。まぁ大英博物館は中世後期室を準備中なので、それがどうなのかわからんが。
イスラムとかインド系とかは大英博物館とくらべると、経時的系統的なものを欠いた並べかたをしているが、総じてこっちのほうがよい。日本のものも雑な浮世絵とかがあって、見ていておもしろい。ちなみに浮世絵は日本室以外にも置いてある。
19世紀後半に日本がデザイン方面でヨーロッパへ与えた影響も部屋を一つつかってちゃんと説明していたのはすごい。この博物館の設立目的はデザインの教育のためで、その後にパテントがでてくるという流れもおもしろかった。
随分前にウィーンの応用美術博物館に行ったことがあるが、そことは違った説明のしかたでよかった。ウィーンのほうは大英博物館的な総花的展示で、応用美術に分類されるものがすべて詰め込まれている。
まぁでもあれだ。この方面は19世紀末からはドイツ圏が中心だな。だからそのころはあっちの方がおもしろい。
中世の教会芸術の怪しい俗悪な彫刻がすきなんだが、あれもドイツとかイタリアあたりのものだな。
今日はナショナルギャラリーに行った。要するに美術館だ。ザーっと見た。ここは、ハズレが少ない。ロココ調がそんなにない。オランダの比率が高いのは好感度高い。
久しぶりに西洋絵画を見たけど、やっぱり時代が近づくほどおもしろいな。20世紀の絵が崩壊する直前あたりで終わっているのもいい。あと、15世紀なんてのがたくさんあった。中世の絵は異次元なのがおもしろくてよい。
今日はそれだけ見て、帰ってきた。今日の缶詰は枝豆ハムスープとニンジンスープ。枝豆ハムスープがうまかった。豆ものが好きなだけかも。
ノルウェーに渡る北回りルートを検討してみたけど、イギリスからノルウェーに渡る船が9月から停止しているらしい。ちなみにデンマーク行きは運行しているらしい。うーん。
オイスターカードを買いに行ったら、一週間バス乗りほうだいカードにしてくれた。13.8ポンド。
グリニッジ天文台に行ってきて、経度0度線を踏んできた。
今は展示施設となって、実用にはつかわれていないようだ。展示の内容で、天文台長たちの個々のエピソードを除いた部分は大英博物館の「時間」の展示と重複する内容だった。
年間100ポンドというのは当時としても17世紀末の当時としても薄給だったらしい。
あと海事博物館とロンドン博物館に行ってきた。
海事博物館は触る展示が多かった。そうそう。最初天文台に行こうとしたとき、海事博物館の前を通って、入るかどうか逡巡したのだが、そのとき女子高校生か海軍見習いかよくわからんがトレーナーを来た女の子の一群がこっちにむかって走ってきて、あまりの事態にとりあえず天文台に行くことにしたのだった。
海事博物館自体は海で一代を築いたイギリスらしい。大西洋貿易に関する展示があって、なかなか痛々しかった。奴隷貿易を独占して大々的に儲けたとか、黒人奴隷を800万人運んだとか、ジョージ何世が奴隷貿易を廃止したとか、いろいろ。まだ奴隷貿易の評価が落ち着いていない感じがする。
帆船模型の展示もあったな。
ロンドン博物館はロンドンの城壁の隅にあり、城壁あとと抱き合わせの博物館だ。内容は遺物を並べ、社会を再構成するという現代的なもの。ここも展示の再構築中らしく、産業革命とかの前の辺で展示が終わっていた。イングランドの歴史を見るだけなら、ここを見たほうが早い。
本屋でヨーロッパの地図を買うかどうかで迷った。わりと安い。よくよく考えると、ポンドで買うのが安いのは今だけなのだから、買う気がすこしでもあるなら、今ここで買うべきなんだな。うーむ。迷う。
宿替えした。ロンドンの郊外。郊外といっても、ほとんどケント州で、19世紀末ごろにロンドンに編入されたところらしい。グリニッジの近くだ。
無線LANがただでつかえるので、ネットし放題だ。しばらくここでダラダラしていよう。
しかし黒人だらけだ。昼間外で出あう人の半分以上が黒人な気がする。この郊外に来てみての話だが。
はじめてバスの一日乗車券を買ってみてバスのりほうだいでぐるぐる回ってみた。わりとおもしろい。しかし一日乗車券は紙のペラペラで、運転手に見せる形だった。イギリスっていろいろシステマチックなくせに、大味なところが結構あるな。
車掌が載っている二階建てバスにはじめて載った。古い。たぶんレトロバスだという自覚があるんだろう。車掌は親切で、降りてから次どこ行くのかわざわざ尋ねているようだ。二階建ての二階の先頭で外を見るのに熱中していたら、ここで終わりだからサッサと降りろと言いに来てくれたよ。
しかしここは設備が充実しているのに安くて人があんまりいない。もったいないなぁ。まぁ場所がわるいけどな。
ロンドンの交通機関だが、普通にオイスターカードというのを買うのが一番安いようだ。
文系・理系に限らず、「だから○○は~」という、その人の属性をもって行われる批判めいた言動をする人は、論理的整合性よりも情動に流されてしまうタイプである、と考えれば、論理でもって言い負かせるよりも、適当に受け流していく方が有効です。
「文系は論理的思考力がない」「理系はコミュニケーション力がない」という偏見
日本国内をまともに観光すると一日一万くらいはとんでいくことをすっかり忘れていた。ヨーロッパは一日五千円以下に抑えるつもりだったが、ケチりすぎかもしれん。
英語全然話していない。まぁ日本にいたってほとんど話さないんだから、かわらないが。
ケチりすぎだとおもって早速200ポンドひきだしてみたけど、たいていカードで払えるんだから引きだしすぎだわな。クレジットカードで買い物するという事態を全然想定していなかった。キャッシングよりもおとくなのだろうか。クレジットカード払いのときのレートと手数料次第だが。
まぁポンドは年末が底な気がするので、余っても損にはならんだろ。
大英博物館。今日でなんとか全部通した。最後に電池が切れて、乾電池と充電池を抜きさししながら使った。このカメラはそういうことができるところがいい。博物館でそんなに撮るほうがおかしいのだが。
朝鮮室は韓国の博物館、とくに民俗博物館のものを手堅くまとめた感じだった。他の地域の展示がどれも「がんばって収集したものをがんばって分類しました」という感じがするのに、ここはノリがちがい、韓国の博物館の出張所の感がある。まぁ国立博物館との提携でつくっているらしいから、そうなるのも当然か。さすがに年表に古朝鮮は載っていなかった。
日本室は収集品の偏りかたが東洋趣味っぽくていい。説明が宗教と対外交流になるのも大英博物館っぽい。
最大の銅鐸らしいものがそれと説明なく置いてある。須恵器系統の土器は朝鮮出土品とならべてあった。仏教についてはセクトまで説明するわけがなく、密教とか阿弥陀信仰とか要をおさえた紹介をしている。江戸時代の対外窓口が四つ紹介してあるのはさすがといったところか。あとは浮世絵がならんでいた。
アフリカ室とアメリカ室も見た。も、と言うようにあんまり見る気もなかったのだが、せっかく来たのだから見ておこうというわけだ。アフリカでおもしろかったのはナイジェリアのベニンのもの。16世紀のヨーロッパ向けの土産ものは不意を衝かれた気がした。アメリカは北米先住民の展覧会とメキシコの古文明総覧。まぁそれなりか。
さて。ギリシアローマを残していた。いっぱいありそうであんまり気がすすまんのよな。それに、そんなにおもしろくないだろう。
ということだが、それなりにおもしろかった。一番最後にギリシアローマ人の生活という部屋があって、生活用品がズラズラとならんでいたのだが、そこから見だしたらよかった。大英博物館はローマが大好きで、イギリスのローマ時代もやたら細かかったし、イタリアの古代もやたら細かい。大英博物館の展示はスタイルを代表できるようなモノを時代順にならべて、その変遷が一目でわかるように並べてある。その選択感覚とバランスが本当にすごいとおもう。まぁモノが少なかったのもあるだろうが、似たようなものがイッパイならんでいてゲップがでることはあんまりない。ただ、イタリアの古代は細かすぎてすぐにおなかいっぱいになった。ギリシアが細かいと予想していたけどそうでもなかったのが意外。いやまぁ十分細かいのかもしれないが、結構おおざっぱだった。
ギリシア室の一部が閉鎖してあった。よくわからん。
この宿の無線LAN、ログイン方式なので、ログアウトすれば時間が減らないのはいいところだ。
大英博物館。アングロサクソン編を見た。いちおうノルマンコンクエストまでは扱っている。扱っているといっても遺物の上でだ。
中世後期がなく、ルネサンス以降はあるが、皿がならんでいるだけなのでそんなにおもしろいもんでもない。ルネサンス当時のヨーロッパの酷い出来のものとか、前に見た。
イスラム室も似たようなものをどこかで見たことあるものが多い。ゲームとか魔術とかいうテーマ立てのところは目新しかった。占いマシーンがおもしろかった。
インド中国室だが、こちらは古い博物館的体質を残している。インドは偶像がいっぱいならび、中国は青銅器や皿がならんでいる。美術品の美術史を見ているような感じだ。まぁそれが博物館だったんだろう。旅順博物館なんかはその雰囲気を色濃くのこしているとおもう。
ルネサンス以降のヨーロッパの部分は、美術史から一歩すすんで、社会の状態なんかまで言及できるようになっているので、見るだけの価値はある。あちこち整理中なのはたぶん現代的な要求にあうように展示を作りなおしているのだろう。
今日見たところの大半は、ながし見するだけで十分なところで、ノートもとっていないのだが、どうも写真をいちいち撮るのが癖になっていて、今日一日で1100枚あまり撮った。撮りすぎだ。それだけ撮っても電池が持つ CaplioG3 万歳。
昨日熱がでていたのは軽い風邪かなにかにかかっていたようで、今は回復途上にあるようだ。このホステル、荷物を結局自分の手元においておくしかないのだが、ベッドに荷物を置いても十分眠るさまたげにならない広さを持ち、マットもフカフカで、寝ていて暑かったくらいだ。まぁよく寝れた。そのおかげか。
博物館への道の途中にあった電気屋で、バリカンを売っているのを見つけた。15ポンドくらい。今のレートで2000円くらい。うーむ。十分安いのではないか。今のカバンの容量だと楽々入るんよな。ただ、重そうだ。
宿替えしてみたが、あんまよくないかもしれない。極度にシステム化されている分、部品みたいに扱われるのはわるくないけど、ドミトリーが軍隊式で部屋の中に横に並んでいる。倉庫の棚のようだ。隅にあたればやや心落ちつくが、真ん中なので、落ちつかなそう。荷物の管理にマイ錠を持っていないといけないのも面倒だ。うーむ。どっかで錠買うか。
あと無線LANがあるのはいいが、金を取る。それも結構高い。一時間1ポンドではなく、1.5ポンドから始まっている。前払い式だ。高い。でも出なくていいのはいい。
大英博物館。ヨーロッパ編に突入してみたが、いちばんおもしろそうなヨーロッパ中世後期の部屋がない。これも整理中らしい。うむむ。
最初の部屋は農耕の到来ということで、ヨーロッパと中東となっており、次の部屋はケルトということで、ブリテン島とヨーロッパということになっている。ふむ。その次がブリテン島のローマ時代。そしてヨーロッパ中世前期。アヴァールとかフンとかが来て、トコロテン式にローマがコケたあと、最終的にフランキスタンができる時代だ。そのころイギリスでは、アングロサクソンの侵攻が一段落ついたところへ、ヴァイキングが攻めてきたということだ。ヴィンランドサガの時代だな。残念ながらそのへんで終わってしまう。デジカメがいっぱいになったので、あとアングロサクソンの展示を残してしまったが、そっちでもうすこし後までやるのかもしれない。でも大陸のほうはフランキスタンでおわりだし、大陸のフランキスタンと北方のヴァイキング王国で中世前期はおわりなんだろう。その後はもっとおもしろいのに。
ヴァイキングについては悪いように書いてない。というのは、ヴァイキングはスカンジナビア半島を中心にイスラム圏・ビザンツとの交易路を持ち、ヨークやダブリンといった交易の拠点をブリテン島周辺につくったからで、戦士が襲撃しに来ていただけではなく、農夫もきて植民していたそうな。あと、カナダ方面まで進出していたことも書いてある。まぁつまりイギリスを形づくった重要な構成要素のひとつということだ。交易で飯を食った集団ということで、後世の大英帝国に通じるのかもしれない。
カメラがいっぱいになったので、主題展示の「時計」を見にいった。グリニッジ天文台で時間を管理するのにつかっていた時計とかいろいろ置いてあった。時計の始まりははっきりしないとのことだが、最古の構造図として展示してあった絵がいかにも中国くさかった。当時の絵が単純に中国的だったのか、中国起源なのか。時代的にはモンゴルの時代だ。まぁどうでもいいけど。Enlightment と同じにおいがしておもしろかった。初期の時計産業はオスマントルコの市場がささえていたようだ。フランス人がそのころ小型化した時計を売るようになっていて、時計産業の中心だった。家康とか伊達政宗とかの時計はフランス系の小型時計のようだ。
今日はあんまり寝てないのにわざわざ重い荷物を担いでいったので、疲れすぎのせいかしんどい。熱があるような気がする。
このでかいリュックはものが入るので簡単に重くなってあんまりよくないかもしれん。そういうと、前のカバンを買うときは、B5のノートを基準にして選んだような気がする。あぁ。
どうせまだまだいるので、今度は完全に郊外にあるところを四日間予約してみた。どうも土曜金曜はつまっているようで市内のホステルが高くなっているのだ。安い。平均7.5ポンドくらいになる。でも市内に行くにはバスの一日券とか買わないといけないのでどうせ10ポンドくらいにはなる。あと朝飯がついていない。無線LANがタダ。なんか大英博物館とスーパーしか行っていないような気がする。郊外でダラダラする日をつくろう。
キッチンに広告の張り紙がしてあった。イギリスで働きだす人のためのスターターキットだ。国際送金なんかが安くでできるという触れこみ。そういう客層なのかここは。
入国のときもやたらうるさかった。イギリスなんかで働くより日本で働いたほうがもうかると何回か説明した。ポンド暴落の時に円暴騰の国から来るんだから観光に決まってるだろ。
まぁ、それだけあやしまれる風貌であるということだ。
昨日の真夜中にうるさい人達がでていってから、この14人部屋ドミトリーも閑散としてしまった。最初からこれくらいだったらよかったのに。新年冒頭は旅行シーズンだったということか。
大英博物館。アッシリア、バビロン。
アッシリア室の浮き彫りは情景描写が具体的でおもしろい。ペルセポリスのとか見たことあるけど、メソポタミアの伝統をそのまま持ってきているだけか。イラン室にもペルセポリスのものが持ってきてあるけど、こうして並べると儀礼的なものばかりで、アッシリアのみたいにはおもしろくない。ペルシアのものは権威づけのための構造物だから、そうなるのか。
アッシリア室の地下に古代近東室があったようだが、これが整理中とかで閉まっている。
説明を見ていると、よく、なになにはルーブルにあると書いてある。フランスでも似たようなものが見れるということか。
帰ってから、ペルセポリスに行ったときの写真と見くらべたらおもしろかった。
バビロン展。ここは特別展で、8ポンドはらって入る。うーむ。バビロンの城門とかジッグラトの復元模型があった。ドイツには城門の原寸大のものがあるらしい。展示はお客の興味に沿うように、バビロン捕囚の時期からキュロス大王による陥落までの時期ということだ。でまぁ、西洋社会にあったバビロンのイメージと実際との違いということで、バベルの塔とか空中庭園とか、その他聖書関係の話題だらけだった。この展示でおもしろかったのは、最後のゾーンにあったもので、天文学の知識についてや、楔形文字を紀元前五世紀ごろにアラム語使いが学習している粘土板や、紀元前2世紀ごろにギリシア語使いが学習している粘土板が展示してあったところだ。
この特別展について言えば、常設展のほうがよかった。
イラン室に行ったらここは整理中ということで、物は並べてあるが、物それぞれの説明がない。むーん。ヘラクレスっぽいのと変な服きてかぶりものをしているのが握手している浮き彫りのある板がたててあり、裏と横一面にギリシア語が彫ってあって、後世臼に転用されたとおぼしき破壊のあとがあったが、これにも説明がない。ヘレニズムとか西洋人の好みそうな事柄なのになぁ。
まぁしかしイラン系のものは見すぎたこともあってそれほどおもしろくもなかった。やっぱりイランはもっと時代がくだったほうがおもしろい。
時間が中途半端なので、おもしろそうなヨーロッパ編に突入するのは明日にして、Enlightment という展示を見にいった。18世紀を中心に、世界の見方がかわったということでそれを Enlightment となづけ、おもに博物学が発達していく姿を大英博物館の所蔵品で跡づけるという企画もの。展示室も昔の博物館っぽい展示ケースをまんなかに並べ、壁一面に当時の本と所蔵品を並べてあった。
帰りにネット屋によったら、ファイルがアップロードできないような厳しい制限をしているところだった。となりの人が履歴書を書こうとしていて、なぜか代りに打鍵してやった。レバノン出身で、今はイギリスの市民権持っていて、「めんずすたいりすと」らしい。一時間くらいつきあった。お礼に頭なんとかしてもらったらよかったな。ペプシをもらった。
ついにバスの乗りかたがわかった。バス停に黒い地味な箱が立っていて、それがよくよく見ると、金を入れてカードを買うところだった。一回乗車が2ポンドで、一日乗車券が3.80ポンド。乗りかたがわかったので、タダ乗りするのは申しわけなくなって、帰りも歩いて帰った。
帰ったら14人ドミトリーはほとんど人がいなくて、奥に太った白人がいてノートパソコンでDVDかなにかを見ていた。
ドミトリーにも慣れてきた。
中国では、本を読む事自体が目的になって本を読みふけり、ちっとも頭に入っていない人のことを書痴という。
自分のこれも旅痴とか博物館痴になってしまっているような気がする。
まぁしかし何かを始めてしばらくするとすぐに反省モードに入って、すっかり止めてしまうのもいままでよくやってきたパターンだが。だから何やっても身につかない。
大英博物館。
ヌビア。「エジプトの帝国主義」というフレーズもなかなかおもしろかったけど、エジプトの占領統治で、ファラオ制とかアモン神信仰がヌビアに入り、新王国の撤退後、ヌビアの王が逆にエジプトを併合して、ファラオぶりを発揮したこととかおもしろかった。しかも似たような状態のレバントのヒクソスにくらべて、エジプトの文化を復活させたと高評価に描かれている。
連中の興味の持ちかたはなかなか露骨だ。
ヨーロッパのルーツさがし -> ローマギリシアエジプト
聖書の歴史の探求 -> レバントメソポタミア
観客の要求に沿うように展示がくみたててあるだけかもしれんが、他にくらべてクドクド書いてある事象はそういうのに関連することが多い。だから逆に、そういう知的要求がまったくない中国朝鮮日本では何が展示のメインになっているのか見物だ。まぁ東洋趣味を満足させるような事柄が多いんじゃないかと予想するが。
頭を放置して一ヶ月。うすらハゲの部分がなかなかみにくくなっている。
中国を旅行している分にはむしろこの頭がよかったのだが、この辺を旅行するときは必要以上に人を不審がらせるだけなので、短髪にもどしたほうがよいかもしれん。バリカンを買うか、どっかでやってもらうか。中国でやっとけばよかったな。
トルコ飯屋はいい。
あさめしつきだ。わーい。
大英博物館まで歩いて30分もかからなかったので、拍子ぬけした。
大英博物館。最初、エジプト部屋の途中から入ったので、取ってきたものを乱雑にならべてあるだけかとおもったけど、ちゃんと部屋の隅から時代順に並べてあり、時代全体の説明もあった。説明もひとつひとつに細かくついている。
しかしエジプトの歴史とかって何度も読んでるはずなのに、こうして見ると、ごく断片的なことしかおぼえていないのな。ピラミッドの最盛期が古王国の最盛期で、あとは王の権力が小さくなるためにカイロのピラミッドのようなものはつくられなくなるとか、だんだん宗教の強い国になっていくので、ツタンカーメンのキンキラキンみたいなのはかなり時代の下った新王国になるとか、そういうことが新鮮におもえた。
というか説明をちゃんと読んでいけば、そういうことがわかるようになっている。
とにかく広いので、エジプト部屋を一通り見たあと、エジプト関係だけとりあえず押さえるために2階に行くと、初期エジプトの部屋の前にレバントの出土品がならんでいる部屋があった。下のエジプト部屋みたいに18-19世紀の典型的な博物的初期考古学的収集品ばかり並んでいるのかと思っていたら、ちゃんと最近の考古学的出土品がならんでいた。どの部屋も大略的な説明のほかにおおまかな年表があるので、それをメモしておけば、展示を見ていく上での地図になってよい。
レバントってのがエジプトにかなり依存した地域だということがわかった。古王国の崩壊によってレバント南部もすたれてしまったとか、中王国時代に交易によって復活したのはいいけど調子にのって中王国方面に進出してヒクソスになるとか、さっき見たのがそのまますぐでてくるのでおもしろかった。
レバント部屋の次にメソポタミア部屋があって、これも見ようとしたが、エジプトを続行することにした。しかしその隣にあったのがミイラ部屋である。おもしろいが、その時間になるととにかく人が多すぎる。人が多いうえに、説明が充実しすぎていて、なかなか進めない。たぶんこの部屋は大英博物館でも人気の部屋なんだろう。
ミイラの副葬品の家の模型とかが漢代の明器なんかとほとんどいっしょでおもしろかった。用途がおなじだと似るのかね。まぁしかし、下の部屋で、神官の権力が強くなると書いてあったけど、それの違うかたちがミイラ文化の隆盛で、そういう意味でもおもしろかった。
そういうことで、初期エジプトの部屋の途中でタイムリミットが来てしまっておいだされた。
しかし、エジプトとかあのへん行ったのに流れとして頭に入っていないのな。カイロの博物館とかカルナック神殿とか王家の谷とか行ったのに。コシャリがうまかったことしかおぼえていない。あのころ何を見てたんだろう。まぁいいか。
hostelworld.com をよく見てみたら、昨日言われたとおりだった。サイトがどんだけ取るかちゃんと書いてあった。10%のデポジットとサイトの手数料として1ポンドとられている。ふむ。ということで、あと三日分もっと街中にあるところをとった。このサイトのおかげで、大英博物館に近いところが10ポンドで泊まれる。昨日ロンプラをたよりにして最初に行ったら、25ポンドだといわれたところだ。
イギリスの新年初日は休日なのな。博物館関係がどこもしまっていた。しかたないのでカンタベリーの大聖堂を見て、ロンドンに移動した。ロンドンまで行くのに18ポンドあまり取られてまたびびった。
カンタベリーの大聖堂とか、古いところの造りは同じ時代の西アジアのモスクとほとんど変わらない。ドーバーにも教会の壁だけのこっているところがあったが、門の飾りとかがもろに向うのものそっくり。でもそのころの偶像のできがいいのは向うとはちがう。
満洲の方とおなじく、民家のレンガ積みの煙突から二本の管の煙突が出ていたが、それが二本二列になったり、三本になったり、はてはレンガの部分がほとんど壁のようになって、八本並んだりするようになったり。
どうもイギリスの安いホステルみたいなとこは予約するのが当然らしい。まぁ新年+ポンド安で観光客だらけというのもあるだろうけど、どこもいっぱい。hostelworld.com というので捜したら、わりと安いところもあるが、かなりロンドンから離れる。しかも今日あいているところでも今日だけは高いとかいう謎の状態になっている。どうも混んだら高くなったり、空いたら安くなったりするようだ。安くあげるためにとりあえず四日間泊まることにして、平均して10ポンドくらいになるようにした。まぁ一泊1400円くらいならいいだろう。四日以上になると予約が混んでいるのか、一日あたり10ポンド以上になるので、別のところで予約とる。
hostelworld.comの謎な点がまだあって、それはちゃんと説明を読んでいないからというのもあるが、サイトでクレジットカード情報を入れさせられるので、そこで入金処理おわったのかとおもったらそうでもなく、現地で払うことになっていた。PINコードの入力を求められなかったから当然の事なのか、それとも二度払いさせられているのか。まぁうたがったらきりがないので払った。とにかくきままな旅行がしづらい状態になっているようだ。まぁ計画的に移動せよということか。
地図で捜せるのはなかなかいい。
ロンドンとかパリには韓国人宿とか日本人宿(大差ない)もあるようで、そういうとこに行ってもいいのだが、最安ではないからたぶん行かない。韓国人宿がメシつきなのはかなり魅力的なのだが、韓国でもないのに毎日キムチばかりたべなくない。
ホステルの方にいくためにバスにのったのだが、金の払い方がわからなかった。たぶんカードを買っておいて、それを使うのだろう。ロンドンに到着したとき、ヴィクトリア駅の前のバスターミナルでみたときには一回券2ポンド、一日乗車券3.5ポンドとなっていた。あれがカードなのだろう。まぁ、なるべく人がたくさん乗るところから紛れて乗ることにしよう。
日本料理のファーストフードみたいなのいっぱいあるな。sushiとか書いてあんの。でも働いているの韓国人っぽいけどな。
中華街があって、中国銀行まであった。インド料理パキスタン料理屋はあちこちにあり、トルコ人のケバブ屋も多い。ケバブ屋はチップス屋も兼ねていることが多く、ミートアンドチップスなんて言って売っている。
イギリスに着いてから、チップスばかり食ってる。安いのはいいことだ。
スーパーでヤクルト売っていた。
ロンドンは安くあげようとおもえばかなり安くあがるんじゃなかろうか。ポンド安のおかげもあるけど。だいたい3ポンドで400円だ。
金を引きだそうとしたら、カードの発行者からの課金があるよと警告された。なんでだ?何回もその表示を見たあげく、しかたないので、そのまま引きだした。額がわからんのがこわい。
伊東忠太風の建物があちこちにある。忠太風じゃなくて、忠太がまねしてるんだろうけどな。
宿の人にイギリスまで何で行くのが安いか聞いてみたら、バスが安いという。船はちょっとたかいとか。
じゃぁというので言われたところへバスをさがしにいったら、バスはない。うーむ。
ロンドンまで行くユーロスターは200ユーロくらいするらしい。高い。二時間とかそこらでついてもなぁ。
とりあえずTGVにのってカレーに行くことにした。39.6ユーロだった。カレーに二つ駅があって、そのどっちかわからんからとりあえず手前の方を買った。鉄道に乗ったら隣りに東洋系の人間がすわっている。顔付きだけだと日本人っぽいが浅黒いのでベトナム人とかインドネシア人の可能性もある。英語の本を読んでいたが、しおりが日本の大学のものだった。ということで、日本人だった。
ロンプラを見せてもらったら、駅は手前の方でなくて、奥の方だったらしい。むむむ。手前のはトンネルに近いようだ。
彼は途中で降りた。
こんなことなら ロンドンin パリout にしておいたらよかった。もしくはフランスからオランダとかを回ってからイギリスに渡るべきだったか。
朝飯はトルコ飯屋のチョルバシでチョルバを食べた。ひさしぶりだった。3.5ユーロ。宿のまわりにはインド、パキスタン、トルコの料理屋がおおかったので、そういうのがあつまる地域なのだろう。晩飯の最安セットの相場が6ユーロだった。朝、駅に行くまえにグルグルまわってみたら、30以下のところもあった。まぁでも一部屋つかえて30というのは安い方だろう。隣に座っていた日本人によればフランスは日本よりすこし安いが、イギリスは高いという。おそろしい。今でも高さにクラクラしているのに。さっさとイギリスは済ましたい。
パリから北は平べったいな。古い田舎の家は切妻のレンガつくりで、中国と大差ない。中国と違うのはわりと散在しているところだな。霜がおりて寒そうだ。そういうと、フランスの時間はロンドンと大差ないのに一時間ずれているので、朝がやたら遅い。それでテレビの天気予報を見ていたら、世界各地の温度がでていたが、他の主要都市が0度前後なのに、東京だけ6度と浮いていた。
フランスの鉄道は検札も改札もない。ただのりしほうだい。隣に座っていた日本人によれば、ときどきチェックがあって、みつかると罰金をとられるらしい。
カレーについたら、日本でいうと戦国時代に相当する城跡とか室町時代に最初の構造ができた教会とかあった。どれもこれも第二次世界大戦のときに爆撃されて塔がなくなったとか、そこで戦闘があったとか、なにかしらあったものばかり。また、イングランドの占領時代に整えられたとか、そういう歴史を持つものばかり。
いやしかし地方都市は昼間歩いている人が少ないな。もともと人口もそんな濃密ではないんだろう。
カレーから海峡をわたるフェリーは18.85ユーロ。所持金ギリギリだったが、テンキーがあったから、なくてもクレジットカードがつかえるんだろう。なんか金銭感覚が麻痺しそうだ。
ドーヴァー海峡って、フランスではカレー海峡というんだそうな
2.92ユーロあまったが、こんな小銭でも船内の両替所で両替できた。2.45ポンド。ちなみに、自動両替機があるのだが、レートが1ユーロ59ペンスと非常に悪い。だれが両替するんだ。
世界標準時±0ですよ。
イギリスのコンセントに刺さるかどうか危惧していたけど、韓国からこっちずーっとつかっているコネクタがなんとか刺さる。無理しているような感じがしないでもないが、刺さるからいい。
白い崖だ。船で渡るとほんとに白い崖が見える。
ドーバーは石油というか重油くさかった。
本屋でロンプラの西ヨーロッパを買った。バスにのるつもりだったけど、すぐ来なかったので鉄道でカンタベリーに移動した。ドーバーでブラブラしているあいだに日がくれている。ハルビンで気付くべきだったが、高緯度だから日が短いんだな。あぅ。
カンタベリーで、ロンプラにのっていたホステルをさがしてみたがみつからない。ドーバー周辺の宿を紹介したような冊子があったけど、あれはドーバー周辺だけのようだ。結局カンタベリーをすみからすみまで歩きまわって、地図を見つけて住所をさがすということをしてやっとみつけた。西ヨーロッパ版は情報をつめこむために地図があんまりのっていない。失敗したか。
カンタベリーのホステルはニューイヤーイブということでパーチーをやっていた。酒を飲んだので速攻寝てしまった。寝顔を写真にとられていたらしい。なんかやたら日本好きの人がいた。ヘビメタ好きの人がヒラノアヤとかウエトアヤとか言って、「kawaii」とか言うわけだ。あとはカラテやってそうな人とか。
カンタベリーもドーバーも街のなかの歴史案内が豊富で尋常ではない。ところどころに掲示があって、由来やどう使われたか、どう壊れていったかなどが詳細に書いてある。湿気があるせいか苔むしてる建物が多く、小汚い感じがあって、なかなかいい。
飛行機にのった。北京首都空港すげー。(日本のODAでつくったらしいけど)
首都空港まで、空港専用鉄道で25元。
中国国際航空のジェット機の座席に液晶モニターがついていて、コントローラまでついている。最近の飛行機ってすごいな。飛行機なんか滅多にのらないから感心する。
フランスまで夜を越すのかとおもったら、西日に追われながら行くので、夜を越さずに長い昼を過すことになる。むぅ。
窓側にしてもらったけど、翼の端なので、下がよく見えない。
内蒙古からもう真っ白で、行かなくてよかったとおもった。
うーむ。フランス到着。中国とくらべてあまりの物価の高さに眼がくらくらしている。到着がおそすぎて、カレーまで行けないらしい。しかしパリからカレーって鉄道で40ユーロ程度するのか。高いなぁ。
とりあえずパリの中心まで行ってみたら、街の雰囲気に圧倒されてしまった。しかし、安い宿がない。まぁいきなり中心まで来たからそれは当然なのだが、こまった。途中みつけた30ユーロのところが最安だった。ネット屋で調べてみた。どうもドミトリーとかでも20ユーロするようだ。むーん。
まぁ、空港から出ずに待合室で朝まで待ってみたらよかったのだが、出てしまったからしかたない。30ユーロの風呂無しの部屋でとりあえず夜をすごそう。しかし高い。
クレジットカード大活躍。空港で金引きだしたり、市内までの切符を買ったり。切符を買うのに使えるようだ。あしたまた出さねば。。中国でしばらく出血しない状態がつづいていたので、金がでていくのが痛いなぁ。6週間なんて無理じゃなかろうか。
無線LANの電波がたくさんあるが、無駄に開放しているところってないな。acces libre なんてかいてあるのもあるが、すぐ切られる。
この宿のテレビはアラブのチャンネルがおおい。そういう客層なのか。まぁ、他にくらべて安いしな。
フランスの宿は外に値段が貼ってあるので、便利だ。
パリの空港は到着時香水のにおいがした。本当に。
ひさしぶりにユースホステルのドミトリーに泊まった。西洋人がいる。
頭を一ヶ月放置していてかなり悲惨なことになっている。床屋に行こうかなとおもったけど、せっかくなのでこのままにしとく。落ち武者みたいになるんだろうな。
騎馬民族説っておもしろいな。遺物をいろいろ見たらそういう風に考えるのも無理はないとおもう。
やっぱり首都の建物は地方とはちがうな。古い建物の屋根だけみても全然レベルがちがう。
今日は飛行機の券を買った。北京パリ往復6週間5800元。今のレートでちょうど8万円。ロンドン往復でないのは、パリの方が地理的に真ん中なので。
安いのかといえば、6週間の期間を明日の券をくれというかたちで買ったことからすれば安い。FIXだけどな。2/11北京着だ。
ついでにフランス語の本も買ってきた。役に立つのかといえば、立たないとおもうがまぁいいだろう。
買う買うといって買っていなかったリュックも買った。178元。だいたい2400円くらいか。韓国で買うよりも安い。まぁ生産国だから当然か。前のよりも一回り大きい。というよりも前のが小さすぎたのかもしれん。はちきれそうになっていたしな。しかし、中途半端に大きいので、つめかえたら中身が泳ぐ。ちょっと失敗したかもしれない。
宿のちかくの蘭州牛肉麺屋に昨日今日で都合3回も行った。ここが違うのは新疆拌面がなくて、过油肉拌面があるところ。いるのも少年ばかり。三回も行くと顔なじみだ。晩飯食って、明日出発すると言うと固く握手してくれた。
最後に客の漢人っぽい連中が食ってるのをたのんだ。天天炒面という名で、件の拌面の面をこまかく切っただけのものだが、さじで食べやすい。しかし、こっちが全部平らげているあいだに、漢人っぽい連中はほとんど手をつけないまま、去ってしまった。なんだろう、やっぱり漢人は食べ物については超保守的ということなのか?
北京到着。朝哈爾浜の駅にいって、そのまま列車にのって北京。
ユースホステル
テレビを見ていると、共産党は1978年以前の歴史はなかったことにしたいみたいだ。しきりにこの30年の歴史ばかりあつかうものをやっている。
人よ、君はねらった目的を達成すべきだ、どうも眠れないので昔の日記を見ていたら、2001/11/08 にこんなのを引用していた。
それとも夢みることをやめるがよい。
このどちらもできないのならば、
どこかへ去って、鳥のように生きるがよい。
バーブル
金上京歴史博物館行ってきた。
行きかた: ハルビン駅前を右(南)に歩くと阿城行きのバスが道にとまっているので乗る。10元。阿城につくとまず阿城のバスターミナルに行き、バスターミナル前の道を左(南)に歩く。道の右側に7系統の師範大学行きのミニバスがとまっているので、乗る。1元。終着点の師範大学前から50mくらい道を進むと、右側に金上京博物館がある。手前につくりかけの寺(たぶん観光施設にするつもりだろう)があって、まぎらわしい。ちなみに師範大学前で道の反対側に見えている土塁が上京跡で、ずーっとつづいている。27系統はターミナルから出ているようなので、これに乗って師範大学前で降りても行けるかも。師範大学前からハルビン行きがあったので、うまくすれば10元で行ける。
感想: 金上京博物館は基本的にガイド付きらしい。自分にはつかなかった。つけろとも言ってないしつくとも言われていない。展示物は金代から清代までの文物。黒竜江博物館等にあるのと基本的に変わらない。金代の銅鏡の量が多いか。武器の簡ってもっと太いものだとおもっていたら、細かった。たたくものじゃなくて刺すものなのかとおもうくらい。太祖の墓というのがすぐ近くにある。方墳。囲ってあって、入るのに15元必要だったので、払わずに門の外から見るだけにした。博物館にあった神獣を復元したものが神道に配置してある。道案内に見える上京跡まで歩くのがいやだったので、道に面した城壁あとに登って、一番高そうなとこまでいって、それで済ました。
阿城には入母屋の屋根を頂いたコンクリートの箱系の建物がいっぱいあった。昭和戦前期の日本が九段会館式の建物をいっぱい建てたように、入母屋を頂くのが国粋とかおもいこんでいるのかもしれん。
今日はそんなに寒くなかった。慣れたせいかもしれんけど、日にあたっていれば、だいたい大丈夫だ。顔が日陰になるときは、鼻に日があたるように顔を横むけたりしていた。
阿城往復が意外と短く済んだので、ハルビンの本屋にいった。中央書店がおすすめ。ハルビンの新華書店は旧態然としていてさびれている。中央書店ちかくのところなどは、一階のフロアを縮小して他のテナントを入れ、二階以上に教育書を置いて、それに特化している。しかもそれも中央書店に負けている風で、国定の教科書を扱っているくらいしか売りがないようだ。中央書店は六階が学術書専門。周囲の壁に商務印書館とか中華書局とかの本があり、フロアの棚には5割引きの学術系の本が出版社と分野別に並べてある。
新華書店に高校の歴史の教科書があったのでざっと見てみた。実験とか書いてあったので、新しい試みなのだろう、経済発展史ともうひとつ社会かなにかの発展史というテーマに沿った教科書になっている。おもしろそうだった。持ってあるく余裕がないので買わなかったけど。
英語の小型辞書を買った。
熱があってだるくなってきたので、飯食ってネットして北京のユースホステルについて調べて、さっさと寝た。
寒い。鼻毛が凍る。
ソフィア教会もしくは大聖堂というところにいってみた。ロシアが開拓したころはこの教会と当時の駅を結ぶ線が中心だったようだ。
しかし、教会のいれものはのこっているが、中身がなにものこっていない。たぶん中共がこの建物を別の用途に転用していたのだろう。内部はパネル展がメインで、ハルビンの歴史を紹介している。ロシアが作ったころのことは詳しい。まぁ当然だが、満洲国時代のことはあんまり触れていない。古い建物を紹介する写真でちょっと触れられる程度。
教会なら内陣になるところが教会の文物が展示してあった。してあるのはいいが、イコンなんかを剥き出しで置いてあるので、聖母子の顔が指でこすれて消えかかっているのなどがある。古いロシア語で印刷されたという聖書はケースにいれてあるが、強いスポットライトが二つもあてられている。まぁとにかくひどいあつかいだわ。
文廟の紹介するのはいいが、文廟の模型まで置いてあるのはなんのつもりだ。
黒竜江省博物館。あるはずだが地図にのっていなかったので、ネットで場所をしらべた。ただで入れるけど、タダ券を外にあるチケット小屋で身分証を提示して手にいれる方式。この寒い中、じっと並ばされるのはちょっとこまる。
ここは中国の他の博物館とちがい、科学と文物の二部門がある。展示の方式は古くて金がかかっていない。20世紀中頃の水準。
磨製石器とか例の遼寧式銅剣が置いてあったりするが、とくに説明もしてない。単純に旧石器時代はこう、青銅器時代はこうと書いてあるだけ。「なんか知らんけど昔こんなの使ってた人達がいたよ」という感じの扱いだ。興味の持ちかたというのは大事だとおもう。
石版と石の棒の組みあわせのすりつぶすための道具があったが、朝鮮とかにあったのとはちがって、板が大きく、するところがへこんでいる。
渤海とか遼金のものがいろいろ置いてあった。渤海のものという石の怪獣の一部があって、これが朝鮮でよく見たユーモラスな石碑を支える怪獣の顔に似ていた。他はあんまり記憶に残っていない。崇禎六年の銘のある大砲両門が無造作においてあった。
科学の展示の方は恐竜の化石が展示してあった。一通りの動物が紹介してある。
あとは川が凍りついているのを見にいった。川にちかづくと冷気が迫り、鼻水がでてくる。川のちかくに満洲国時代っぽい建物があった。ハルビン市内にもあちこちに九段会館式のたてものがのこっている。
今おもいだしたが、長春の皇宮を見ておもったのが、建物の雰囲気が、京大の古藉のいっぱい置いてあるあれに似ている。
天眼神牛というアニメの歌がかっこいい。
myminicity がブロックされるネット屋とされないネット屋がある。マメに踏もうとおもうのだが、ブロックされていると踏めない。
BBCのサイトで日本の工業輸出が8パーセント減ったことがアジアのトップニュースになっていた。中国がソマリアに派兵することよりも重要であるらしい。おやがめコケたらみなコケたということで。
宿のおばばとおかみさんが飯をくわしてくれた。豆を煮たのが主食のようだ。うまい。ちなみにおばばは昨日までなにかと金をむしろうとしていたのだが。
今日の長春の気温は-21〜-13とかだそうだ。ここ数日暖かかっただけか。
日本のNHK教育制作っぽい環境番組をやっている。BGMにすごく特徴がある。
やっぱり次行くことにした。あんまりに居心地がよすぎるのと、中でゴロゴロしてテレビを見てるだけというのもなんかなぁ。
列車にのった。窓が凍っている。ハルビンに着いたら日がくれた。寒すぎる。
ハルビン。駅からおりてまず地図を買い、ネット屋にはいって、前みつけていたユースホステルの場所を確認する。これがよかった。
ユースホステルといっても、郊外のほうではなく、旧市街のユダヤ教教会の建物をつかったほうである。大連も瀋陽も長春も今だに中心の繁華街は満鉄付属地のほうにあり、解放後にこしらえたほうはうまく繁華街にはなっていない。ハルビンも行ってみたらそうで、駅と川の間が繁華街だった。
その方面に行こうとバス停でバスを待っていたがなかなかこない。違う系統のも行きそうなので、地図をみてバス停と路線を確認していたら、頭の切れそうな美人が早口で降りるところを教えてくれた。実のところ全然聞きとれなかったが、とりあえず降りてから歩いたらなんとか行けるということはわかった。
寒い。鼻毛は当然凍るし、鼻水もでてくるくらい寒い。しかし、なんか耐えれる。本当に人間ってなんでも慣れるんだな。降りたあたりは繁華街の中心にちかく、やたら人出がある。
結局ユースホステルは、予約がないと泊まれないと言われて門前払いをくらったが、ちかくに宿がいっぱいある。とりあえず一つにはいってみたら、40元なのに設備がすごくいい。すぐ決めた。
飯を食うためにもう一度中心の通りの方にいってみた。花火のにおい。手に持つ花火をあちこちで売っている。通りの中心に氷の像が何個もたっている。なんかおまつりか?というかクリスマスでにぎわっている日なのだろうか。とすれば、ちょうどいい日に来たことになる。長春で足踏みしていたのも無駄ではなかったか。
飯食ってから中心の透りを川の方まで歩いてみた。屋台がいっぱいでている。河原の防洪紀念塔というのが人の流れの終着点だった。塔に四方からサーチライトみたいなのがあたっている。たぶんあれは川なんだろう、平面が広がって暗闇に消えていくのは凍りついているからなんだろう。そこに人がいっぱいいるようにみえた。そして、風船に灯りをともしたのをある一点から一個一個放している。それが順々に空にのぼっていって風にながれていく。
とりあえずハルビンの印象はよかった。明日はどうしようか。
宿の娘が美人なのでもう一泊することにした。娘と言ってもかなりトウがたっているのでおかみさんというべきか。だからといってなにかあるわけでもない。
ちなみに年は35で15の息子がいるそうだ。
中国人の道をよこぎる技術はイラン人に遠くおよばないのだが、北にくるほど横切る能力がたかくなる。寒いから車が切れそうになるまでおとなしく待っていられないのだろうとおもう。
外にあまり出ずにテレビをずーっと見ていた。新阿里巴巴という映画がおもしろかった。台湾制作。
アリババと40人の盗賊とアラジンの魔法のランプをくっつけたもの。もともとの話がおもしろいのに支那もの的複雑さが混じって起伏に富んだ話になっている。70年代っぽい特撮を駆使。台湾制作といってもみるからに台湾人っぽい小太りのおっさんが「アリママ」という役ででてくる。最初から見てないのでわからんのだが、アリババの家族の一員のような立場で、名前からして、母親のようなのだが、そのへんの関係はわからん。國語と英語の二つで字幕が出てくる。ヒロインの名前が英語字幕では Triumph、國語では黛安なんとかと、みるからに英語だった。ランプの魔人が國語では小叮礑(口偏だったかも)、英語では Doraemon と、ドラえもんである。いいのか? BGMがイデオンのテーマに似ていたのだが、スタッフロールを見ていると、音楽は岩田光一という人がやっていた。
その昔、ウルトラマンの兄弟がタイで戦ったりする映画を70年代後期にやっていたとおもうのだが、それとおなじような展開か?
中東っぽい雰囲気のなかにカンフーアクションがでてきてなかなかよい。チベット仏教系の手がたくさんある仏像が出てきてアリババに襲いかかる場面があるのだが、この仏像が目から光線を発したりおもわぬところから手を出してきたりして強い。
仏像が暴れまわるものといえば、最近では GANTZ がある。GANTZ の仏像は大仏が暴れまわるのと、細かい仏像が暴れまわるのと二つ系統がある。大仏系といえば、星野之宣のヤマタイカという漫画に東大寺の大仏が動きまわる場面があって、当時高校生だった自分はおもしろく読んだ。でも、旅行に行く前に三条のブックオフに寄ったとき、エイトマンの絵を描いた人(この人のシャープな絵はすきなんだけど今おもいだせない)の古い漫画の復刊本がおいてあり、そのなかに梶原一騎原作のゴッドマン(なんかそんな風な名前だった)という異色の漫画があったのでザーっと見たのだが、大仏もうごくし戦艦もうごく、上野の西郷さんの銅像まで動くと、すごい内容で、ヤマタイカで出てくるアイデアが既に梶原一騎によって発案されているのをみてちょっと衝撃だった。この新阿里巴巴で出てくるのを見て、等身大の仏像が戦う系も既に考えている人がいるというので驚いた。支那ものはアイデアのつかいまわしが多いから、この戦う仏像というのも、既に使いまわされているアイデアなのだろう。そういえば、悪人雍正帝系説話の流れに雍正帝が少林寺の12人の銅人と戦うというのがあったとおもう。これを香港あたりでくそ真面目に映像化したのがそういうのの走りになるのだろうか。
中国の日本風アニメはあいかわらずひどい。技術自体は金だしたらできるのでそれなりなのだが、原画や絵の動きの表現がよくない。日本風というのは日本風でないアニメもあるということで、サウスパークのような切り絵系のアニメがある。これはアニメ枠ではなく、大衆芸能枠のおまけで、漫才のようなかけあいを切り絵でやるわけだが、これがなかなかよくできている。昔、文革とかやってたころ、水墨画アニメが出現して世界をおどろかせたわけだが、あれも切り絵なわけで、中国は切り絵アニメでがんばったらすぐ世界をとれるとおもう。まぁしかし、成金の悪いところは人のもっているものを欲しがるところで、まだまだそういうのを見なおすところまでいかないだろう。
清真蘭州牛肉麺のおやじにどこ出身か聞いたら青海だといっていた。
八两金という台湾を舞台にした茶商の商戦ドラマをやっている。しかしあいかわらず抗日ドラマ多いな。
抗日ドラマをやっているとなりで、欧米のアルカイダ番組を翻訳したものをそのまま流しているのだが、いかがなものか。
満洲に入ってから気付いたことだが、四でもかるくそりしたしているように聞こえる。
チャウシンチーの食神っておもしろいな。
少林寺の18銅人がでてきた。12じゃなくて18か。仏跳墻もこれか。
日本軍が中国につくっていた西洋人の収容所をあつかった番組をやっている。これはおもしろい。集中営と中国語で出ているのは CAMP の訳らしい。こういうのがあること知らんかった。冒頭ちゃんと見ていないが、第四集とか出ていたので、歴史もののシリーズなのだろう。途中から抗日遊撃隊が出てきたけどこの扱いがもっと少なかったらもっとよかった。遊撃隊の手引きでふたり脱走して日本軍が怒ってそのふたりとおなじところにいた人間を一室に閉じこめたまま二日放置したところで次につづくとなったので、ものすごく気になる。
晋書の載記を読んでみたら、慕容氏は歩揺を冠につけるのが好きだったから、それがなまって慕容となったという説があると書いてある。
今日の長春は-12〜-4らしい。昨日の最高気温-16というのは-6の見まちがいか。そういえば鼻毛凍らなかったしな。ハルビンでさえ-13〜-6とかだ。
今日はまず両替をするために銀行さがしからはじめた。といっても昨日ネットで中国銀行の場所を適当に眺めたので、だいたいの場所はわかっている。わかっているのだが、調べたときは地図を買う前で、しかもメモしていないので、正確な場所がわかっていない。
事前に落としていた、テキサス大学の地図サイトで公開されているアメリカの軍用の古い地図で見ると、今、満洲国皇宮のあるところになにもなく、地質学博物館のあるところに「palace」とある。うーむ。そのあたりに中国銀行があったはずなので、とりあえずそこにいってみる。
バスで行ってみた。博物館のある文化広場のまわりには九段会館式の建物がみえる。そして、博物館とおぼしきところにはこれも九段会館式の建物があった。しかし入口のあたりで軍隊みたいなのが並んでなにか動いているので、行くのはやめた。寒いのだが、そんなに寒すぎないようで、耐えられる。しかし、足が底から冷えてくるのがちょっと困る。
そのあたりをフラフラしたら中国銀行ではないが銀行を見つけたのでとりあえず一万円両替してみた。732元。レートがわるすぎる。まぁやめたらよかったがそれもしなかった。すぐあとに中国銀行を見つけたけど、740元くらいだった。また戻っているらしい。しかし、中国銀行ではない方は両替をあつかっているくせに慣れていないらしく、手続きがモタモタしていたが、中国銀行の警備のおっさんに今日のレートがいくらかというのをレートという言葉をつかわずになんとか説明したら、両替のことであることを一瞬で察知して、ATMのような装置を操作してレートを見せてくれた。慣れというものか。
さて、皇宮のほうへ行くつもりでバスを捜して歩いていたら、ウォルマートがあったので入ってみた。靴底を買った。1元。
大昔、ウルムチの道端で買ったときは2元だった。ウォルマートみたいなとこで安く買えるのはいいことだが、それでますます道端で売るような人達の売りあげが悪くなるのだろう。中国みたいなとこだとそういう小売の独占が日本以上に進みそうな気がする。
靴底を買ったら耐寒性能が格段にあがった。普通に歩きまわることができる。とはいっても、スーパーとかで暖を取りながらでないと進めないので、この気温で山や野は歩きまわれない。
満洲国皇宮の近くに巨大なショッピングセンターがあり、そこで十分暖をとれた。中にヴェニスを模して水路を配し、喫茶店や世界の物を売っているところまである。外の寒さに比してこの暖かさはまるで天国だ。
皇宮に行ってあるきまわった。よく保存してある。しかしこういうところの警備のおねえさんはみるからに軍隊っぽいのだが、美人が多いな。
ほかに感想はないのかといわれそうだが、ない。写真とるのも途中で飽きた。
あとはまたショッピングセンターを見てまわって時間をつぶした。
晩飯のためにあるきまわって、新疆飯屋をみつけた。新疆拌面。8元。
宿の美人娘はもともと内蒙古の赤峰の人らしい。写真見せたらよろこんでた。好を「ホウ」といい、瀋陽を「シンヨウ」と言っているように聞こえる。日本人初めて見たらしい。こっちの聞き取りが悪くてどうしても筆談になってしまうのだが、構文もなんか独特だ。とりあえず字はきたない。
今朝のテレビによると、これからどんどん寒くなるらしい。北に行くと、最高気温が零下10度台を下るらしい。どうしたもんか。
遼寧省博物館に電話してみたがとりあえずノートのわすれものはないらしい。もうノートはあきらめよう。ヌルハチの墓とか行ってもいいのだが、今屋外の施設を歩きまわるのはかなりやばいので、もう長春に行くことにした。
北瀋陽駅にいったが、長春行きは5時といわれ、バスに乗りにいったが、これが買ってから随分待たされた。10時くらいに行ったのに13時ごろ出発となった。85元。
バスのなかでも横の客の女の子は二人で延々とよどみなくしゃべっているし、前の男前の客はおこりっぽいようで、バスに随分待たされたことに随分怒って、大声あげたり、走行中に運転手に噛み付きにいったり、あんまり見ない行動をとる人がおおくておもしろかった。寒いと過激になるんだろうか。
瀋陽と長春のあいだはなかなか起伏があっておもしろかった。村ばかりだが、村の建物も新しい。まぁこのへんは明の交易所の外だったんだから19世紀末以降に開発されたところなんだろう。森が若干残っているが、ほとんど切りひらかれている。すごいなぁ。
長春についたのは18時前だが、もう暗くなっている。冬至のころだししかたないのか。駅の方に歩いていったら、なんか美人の客引きにつかまったので、そのままついていった。そしたらふつうのマンションにつれていかれた。どうも家のなかをくぎって部屋貸ししているらしい。そういうと旅順のもそんな感じだった。もともといっぱい部屋があるわけではなく、数個ある部屋を無理矢理区切っているので、となりとボード一枚へだてた程度でしかなかったりする。よく音がきこえるわけだ。まぁいいけど。32元。ダブルベッドなのでたぶん二人分なんだろう。まぁしかし最初に日本人と言ったのにあんまりぼらないんだな。
長春は-11〜-16とかそんなだったのでかなりおそれていたのだが、着いたらなんともなかった。まぁ、基礎代謝があがったような気がするのと、滞空時間をなるべく短くしているからだろう。このまま行けそうな気がしてきた。まぁでも長時間あるきまわらないといけないところは行かない。集安にいくつもりだったけどやめた。ハルビンも行ってもしかたないかもしれん。まぁでも長春の寒さに耐えられているからハルビンも耐えられるだろう。
あとで地図を買いにいったけど、2元だった。安いが紙質もそれなり。駅前に地下街があったけど、七時前でもうみんな店仕舞いしている。なんとなく昔の中国の雰囲気をかなりのこしているような感じがした。瀋陽大連はかなり進んでいたが。ネット屋は一時間2元だった。やすい。
吉林省博物館とかあるかとおもったけどないのな。満州国皇宮があるくらいか。あとは満州国の建物がまだ現役であるらしいがそんなの見にいってもなぁ。滞空時間がながい行動は避けねばなるまい。
ひきつづき博物館の予定。時間があまれば九一八博物館にいく。シンガポール人によれば、今日はもっと寒いらしい。
寒すぎる。鼻毛が凍って耳がいたい。そのことに気をとられたのか、ノートをどこかに置きわすれてしまった。ショックだ。
と言っても半島上陸まではただのメモノートだったわけで、半島に入ってから、博物館で何が印象にのこったか書くノートになった。たしかにいろいろ頭にはいるようになっておもしろくなったので、写真もバシバシとるようになった。そうするとあとから写真を見るだけで、博物館の展示物を眺められたり、その時気付かなかったことや忘れたことに気付いたりしていいのだが、今度はカタログをつくっているような作業感が出てくる。なかなかむずかしい。
今日は博物館ののこりを見にいった。遼と清についての展示だが、清については大変量がすくなく、入関でおわり。遼陽の城門の後金展示の方が情報量が多いくらい。まぁ近代についてはあんまり触れたくないのだろう。
遼代になって、遼陽なんかに東京があったりしたので、遼東と遼西の差はなくなったのかとおもっていたけど、そうでもなく、あいかわらず朝陽周辺には遺物がたくさんある。遼代の朝陽は遼の五京はおかれていないのだが、遺物だけみると依然として遼西の中心であったらしい。また、遼東と遼西の差というのは遼寧式銅剣の時代からあったらしい。このへんはなんか説明によってちがうので、あんまり意識されていないのであろう。まぁそういう地域中心のことをやると分裂がどうこうとか言って糾弾されたりするのかもしれない。
二階には明清陶磁器展と銭貨の歴史展、遼の陶磁器展があった。まぁまぁ。
さて、博物館を出るまえに、寒さで死なないようにバスの路線をチェックしたが、記憶を総合してみると、ここでノートを置きわすれたらしい。しかし、記憶はいいかげんなので油断できない。
九一八博物館。共産党の宣伝ばかりだった。しかし、この展示だけ見ていると、国民党がなにもしないようにしていたところへ日本が攻めてきて、共産党だけががんばって抵抗していたけど、結局ソ連が解決したようにしかみえないな。どうなんだろうそこんとこ。
金日成の人形があった。蒋介石の人形もあったが、それは張学良に、日本にさからうなと命令したというものだった。まぁ宣伝施設だしな。
あんまり寒いのでネット屋さがしをあんまりしておらず、宿周辺にみつけられなかったのだが、夜になってからシンガポール人におしえてもらったところによると、わりと近くの路地の奥にあるようだ。でももう夜だから行かない。
宿は夜中の出入りがうるさくてよく眠れんかったので、とりあえず出た。コンセントの具合が悪くてテレビとパソコンを同時につかえないのが不便だった。
朝飯は駅前のセルフサービス式中華ファーストフードで食ってみた。豆乳と素饅頭で3元。
瀋陽故宮。50元。寒い中なんとかたどりついて入ってみたら、あたりまえの事だが、中は露天なので、寒くて死にそうだった。龍の彫刻がえぐくておもしろかった。宮殿なんかみたってたいしておもしろくないのだが、細かいところにいろいろ細工があってまぁおもしろいのかな。
中に古建築のことについての展示があったが、満州族の伝統家屋の形式というのがあって、それはふつうの切妻だった。故宮の宮殿は入母屋である。瀋陽に来る途中で見た入母屋の建物は単純にステータスなのかもしれない。
瀋陽故宮の対面にはビルに入母屋の屋根がついている九段会館式の建物があり、瀋陽故宮博物院の看板をたてていた。軍事禁区ということで入れないようになっていることから、満洲国時代の建物かなにかなのだろう。一つは屋根瓦が剥してあってなんか見苦しいことになっていた。他にも結構九段会館式の建物はのこっている。
故宮を歩きまわっている間に心底冷えてしまって、元気にうごいているつもりが、顔の肉が動かなくなっているような気配がある。とりあえず近くにあるユースホステルに入ってみた。40元。ネットはできない。
一息ついてから、地図にある遼寧省博物館へ向かってみた。途中、土曜日だからか、古物市をやっていたが、まぁ今買っても荷物になるだけなので買わなかった。連環画とか昔の赤い本とかがいっぱいあって買っておくとおもしろいとおもう。
新疆っぽい店をみつけたのではいったらそうだった。とりあえず新疆拌麺をくった。7元。どこでも値段いっしょだな。ここのはきし麺系で、たれがあまくてよかった。
遼寧省博物館まで歩いていくのだが、どんどん体が冷えてくるのでやばい。滞空時間を短くするため、走っていったらとりあえず冷えすぎることはなくなってよかった。
遼寧省博物館。無料。すばらしい。
この遼寧省博物館、全然期待していなかったけど大変おもしろかった。遼寧省は中国のなかでも人類の痕跡が古くからのこっている場所で、黄河・長江流域に並ぶくらいの地域であることは知識として知っていたけど、通史的に中原にインパクトをあたえつづけた地域の中心として理解していなかった。
一階には戦後の遼寧省のあゆみというパネル展があった。流しよみしたあと、のこる一つの部屋にいってみると、碑文の歴史とかで、漢代の石経の欠片からずーっと歴代の碑をならべているが、遼寧省ということで、北魏や遼金のものがおおかった。北魏の碑文の書体の変遷とかのあと、遼の墓誌の文字が大変なことになっていた。
そして、二階をとばしてまず三階に行ったけど、全然時間が足りなくなって、途中で出ることになってしまった。時間がたりなくなると同時にカメラもいっぱいになったのでそのへんはよかったかもしれない。
三階は「遼河文明展」というテーマで遼寧省のことを扱っていた。いわゆる東北工程の結果かもしれないが、それでもこの地方のことが明るくなってたいへんよい。
殷と関係の深い文化が遼河流域西部の山岳地帯にあり、殷の異様な青銅器の紋様に似たものが彩陶の表面にのこっている。周代には殷の遺民をつかって遼西開発をやらせていたという。それが紀元前11世紀で、その後10世紀ごろから、遼寧式短剣の出番だ。朝鮮人に言わせればこれが古朝鮮ということになるが、ここにはそんな妄想は書いてなく、朝鮮日本極東ロシアに広がったと書いてあるだけだ。
ちなみに中国人も古代の妄想はあって、最近は五帝を考古学的事実に結びつけたりしているようだ。ほかに中原の神農集団、燕山南北の黄帝集団、東南沿海の虞夏集団とか言っていたりする。出土文物で名前を追えるならともかく、勝手に名前を当てると妄想が膨らむだけだとおもうのだが。
稲作の伝播のことも展示があった。博多の板付遺跡の水田跡にむかって、北方説・江南説・海上説と三つ矢印が書いてある。あきらかに日本だけのトレンドなのだが、韓国でもみた。みんな興味シンシンであるらしい。陸稲だけなら紀元前10世紀くらいまで稲作がさかのぼれるとかそういうことは書いてなかった。陸稲水稲を区別しているようにもみえない。
遼寧式短剣の文化は遼東以東であるようだ。遼東と遼西の差は遼のころになるまでつづくようである。妄想は書いてないと言ったけど、明らかに箕氏朝鮮は歴史事実として書きこんである。歴史的叙述と考古学的事実が対応するのだから、つなげない方が無理というものだろう。
秦漢帝国の出現で、中国系が渤海沿岸にすすんでつくっていた「朝鮮」も中国に含まれるようになる。古代の三韓が南朝鮮にあって、中国系の朝鮮が北朝鮮から遼東に分布しているのをみると、現代の韓国北朝鮮の分布は古代の状況にもどったのだとみれなくもない。
その中国圏の朝鮮のすぐ北にあって、南下してくるのが高句麗なわけだ。高句麗は遼東方面に下ってくるが、遼西方面に下ってくるのが鮮卑の慕容氏だ。これこれ。これがちょっと盲点だった。この慕容氏の墓からの出土品てのが展示してあるのだが、武装馬具とか、金の冠につける葉っぱ状のきらきら(歩揺というやつ)とか、のちの百済や新羅、日本でよくみるものばかりだ。
その遼西の慕容氏が中心としたのが遼西の龍城で、五胡十六国の三つの燕が首都とした他、それにつづく拓跋部の鮮卑の慕容氏の北魏もここに中心を置いた。さらには唐代には営州となり、平廬軍節度使がおかれたと書いてあるんだが、営州といえば、安禄山だわな。
草原のシルクロードという図があって、ロシア方面からモンゴルを通ってこの龍城
につながり、さらに朝鮮日本への線が引いてあった。安禄山のことをおもえば、そのころからそういう交易ルートがあったのだろう。西方の文物がつたわる他にあぶみが西方へつたわり、中世の騎士のロマンにつながったとか書いてあるのはまぁロマンすぎだ。
帰り、バスにのってみたが、すぐちがう方向に行ったので、おりて走っていった。途中でイスラム料理屋っぽいものをみつけたので、入って、メニューにある「牛肉西红柿」を食べてみたら予想に反して結構うまかった。値段はたかかったけど。
ユースホステルに風呂があるというので行ってみたら、裏にある銭湯だった。銭湯といっても、奥に浴槽があり、その途中にシャワーがならんでいて、間欠的にでてくる不思議なところだ。まぁ、下にいるとお湯がいい感じにでてくるので結構よかった。
相部屋はシンガポール人だった。
うむ。寒い内陸へ移動しよう。しかし大陸は広いなぁ。移動費が高いけど、大連から瀋陽に行くのは釜山からソウルにいくのと同じだからしかたない。韓国並みもしくはすこし安いくらいなのか。
遼陽まで鉄道で大連から45元。途中の沿道の建物を見ていると、中国的レンガ積みの切妻の建物のあいだに、入母屋の屋根がまじっている。日帝残滓かとおもって、観察していたら、どうも、集落のなかでちょっと高い位置にあったりするような建物だけが入母屋だったりする。そして、結構新しい建物のことがおおい。入母屋の破風の比率はあまり日本的ではない。日本的なバランスのものは古いことが多く、新しいのは破風が小さかったり大きかったりする。
さらに日帝残滓っぽくないところは入母屋に四つ破風がくわわって、双胴船のような外貌をもつ屋根になっているのもあることだ。もともとこのへんの習俗かなにかだろうか。
遼陽に来てみたのは、歴史地図集を眺めていると遼や金の都があったからだが、まぁあんまり期待せずに降りてみると、白塔というのが駅からみえた。でかい。4元の地図を買って眺めてみると、寺とか、東京陵郷というのがある。バスが通じているようなのでさがして乗ってみた。途中、地図にはなにもないところに城門と池がのこっていたが、東京陵郷にはなにもない。いや、実は陵墓が二つくらいあったようだが、地図になく、バスから見つけられず、案内もないものを見つけられるわけがない。寒いなかを随分あるいたが、なにもなかったのでとりあえず城門を見にいった。
城門の前には東京城跡とある。おばはんが遺跡守りをしていて、5元で鍵をあけてくれた。城壁のなかの空間に展示があり、後金簡史となっている。ん?どうも、この東京城というのはヌルハチが数年間都をおいたところらしい。写真でみるととんでもなく荒廃していたようだが、みごとに修復されていて、風情のかけらもなかった。
遼のかけらはないのか。白塔と寺は隣接している。とりあえず寺にはいってみた。50元。高いなぁとおもっていたが、どうもこの寺は新しく観光目的かなにかに作っただけのものらしい。まぁ確かめずに入ったこっちもわるかった。鴟尾がおおきく、なるほど遼の建物は独特だなぁと感心していたが、いろいろとバカなことを考えたものだ。まぁ東大寺よりでかい大仏と大仏殿があるだけのところとおもっておけばまちがいない。くぅぅ。
白塔は公園の中にあるので金はいらないようだ。白塔の傍らに九一八事件策定場所という建物があった。すげーな。冬のせいだろうけどあいてなかった。まぁしかしでかい。ビルなみのでかさだ。寒風のなか、軒先にぶらさがっているものがカラカラなっていた。
遼陽から瀋陽までバス。21元。バスに乗ると速攻で寝てしまう。なぜだろう。そんだけ疲れているのか。
瀋陽に着いたが、街のどまんなかで、地図売っているようなところや宿がない。日も暮れた。地下街に入ったりしてあたたまりながらなんとか駅をみつけた。そんなに遠くなかった。地図は5元。駅のあたりをふらふらしていたら、客引きがいっぱいいる。めんどくさいのでつかまったまま駅の中にある宿にとまった。60元。まぁ今のレートならこれを1000円と見なすことはないのだが、しかし、高いなぁ。
瀋陽には駅前にウォルマートとかあっておもしろかった。しかし、ここまでくると、人民よりもこっちの方がみすぼらしく貧窮度があがってしまうのでいごこちわるい。おとなしく遼陽で泊まっておけばよかったか。たぶん宿も遼陽のほうが安い。遼寧に来てから浴池という銭湯か健康ランドっぽいものを見掛けるので一回入ってみたいのだが、さすがに省都のどまんなかの繁華街だけあって見あたらなかった。まぁ明日瀋陽故宮の方に行ったときに捜してみよう。
逐一日記書くの疲れるな。手で書く日記に切りかえるべきか。
ムクデンって満州語なのか。
朝、おっさんがおこしに来るまで息を潜めていた。出るときにさよならというとおっさんもおばはんも喜んでいた。ちなみにおばはんが押金をまちがえて20元わたしかけていたので、実際は20元でやっている宿なのかもしれない。
市内の飯屋で飯を食ったが、稀饭に包子一個で一元五角。包子は四個がデフォルトのようだ。なんか軍人っぽいのがやっている感じの店だったが、話しかけられてしかたなく日本人というと、別に気にすることもなくニコニコして、どっから来た? ribenbeihaidao? とか言う。まだ中国語回路がもどっていないので、北海道と言っているのがわからなかったが、まぁ、軍港っつってもそんなもんだ。
旅順博物館。建物は日本時代のままだが、入口が正面ではなくなって、裏から入るようになっている。何故かはわからない。まぁ、まともな博物館すぎて、あんまり人がこないのかもしれない。とは言っても、展示を見はる人たちは、あまり人がこないので、中国的にだらけていた。20元。
展示品は一通りのものがそろっている。これだけのものが日本時代に揃っていたのなら、戦前の日本人は旅順博物館に来て、中国の古代の文物を高いレベルで勉強できただろう。しばらく日本とか韓国の古代のものばかり見てたけど、製造レベルが全然比較になりません。日本とか朝鮮とかどんぐりのせいくらべもいいとこ。
写真とってたらとるなといわれたので、我慢した。むー。博物館は立派でも人がこないから慣れてないのだろう。しかたない。博物館は外人がよく行くところだとおもうが、そもそも軍港だから外人は本来ここまで入れないはずだ。昨日、閉館間際に来たときに応対してくれたおねーさんが日本人ということはだまって入れと言ってた。
インチョンの寺にあったという鐘がここにあった。元代に工匠などを派遣して作らせたという。東本願寺の人がここに持ってきたとか。全面に梵字みたいな字が彫ってあった。写真とっとけばよかった。
ここの目玉は大谷探検隊がもってきたミイラのようである。観光客にアピールするのはそれしかないんだろう。他にも陶磁器や銅鏡や仏像、貨幣なんかが全時代にわたって一通りあったりするのだが、そういうのはあんまりおもしろくないかもしれない。
旅順博物館の対面に関東軍司令部博物館というのがあった。20元。天井が高かった。中の展示はまぁ罪状がならべてあるだけなので物好きはみたらよい。旅順博物館別館の図書館は閉まっていた。まぁ、それらがある広場の一角に蛇博物館というのがある。どうもそれを含めて観光向けに再開発したのだが、失敗したのだろうか。もしくは今シーズンオフなだけだろうか。どうも観光複合施設として機能していない感じがある。
旅順博物館本館と関東軍司令部を挟んだ通りが列寧街(レーニン通り)だが、その線上に表忠塔(白玉山塔)がみえる。日本時代の構造は今ものこったままだ。
時間がまだまだ余っているので、203高地に挑戦してみた。ここは許可証がいるという話だが、どうだろう。しかも公安がいて、許可証を持っていないのを追いかえすとかなんとか。しかし、旅順博物館からそれほど遠くないところに203高地まで2kmと出ている。こんだけ観光アピールしていれば、行けるだろう。そんな気分でてくてく歩いていったら、ゲートについた。30元。なにごともなし。ゲートから道なりに歩いていると、迷彩模様のワゴンが近寄ってきた。中にいるひとも迷彩服の短髪で、みるからに軍人っぽい。どうなるのかとおもったら、目の前で止まってジロジロ見てから素通りしていった。
というわけで、ロシア軍の塹壕あととか、乃木保典の死んだところの碑とかをだらだらと見て、旅順港を眺めて、降りた。展示館というのがあるけど、ネズミの巣があるようで、チューチューうるさかった。写真がメインで、あとは適当に遺物や当時のものが置いてある。戦前の観光案内図なんかが置いてあって、それに日本軍が使用した地図とか書いてあるのを見ると泣けてくるが、まぁその程度であろう。観測所に28センチ砲が置いてあるのだが、これはいつから置いてあるのだろう。たしか、当時は28センチ砲は麓に置いてあってバンバン打っていたけど見えないから精度があがらないので、203高地を攻略して観測所を置いてバシバシ当てるようになったはずだが。頂上に展望塔があるが、布団が干してあるだけで、入れない。軍事要地だということで、日本人以外の外人には許可を出さないとかいうところにこんなもの作ってしまうのは、やりすぎだとおもう。ちなみにロシア語の説明もあったので、今はそうでもないのだろうか。
ここには勝手に説明しにくる名物おじさんというのがいるはずだが、みなかった。
大連。バスのなかで寝てしまう。なぜだ。とりあえず駅近くの小汚ない宿に泊った。40元。部屋のつくりもひどいし、テレビはまともにうつらないし、布団もくさい。なぜよそにしようとおもわなかったのかわからない。日本韓国のあとだと、60元でも安く感じる。まぁもうすこし高い宿に泊まってもいいとおもう。
頭を放置していると、随分のびてきたので、ハゲが目立つようになってきた。というかハゲだ。一瞥してハゲのおっさん。現地人のように見えるんじゃなくて、ひとりのおっさんとしてあつかわれているだけなのかもしれん。
中国入国時にデジカメの時間を二年前に設定してしまっていた。失敗した。くくく。exifを後で編集しないと。なんかツールないかな。
大連に無事到着。ソウルよりも若干寒い。
フェリーからおりるとき、いっぱい人がたまっていたので面倒に思って並ばなかったが、随分待ってから行ったらみんな荷物がおおいのでゴボウ抜きでイミグレに並べた。韓国の出入国のハンコがよりによって台湾のハンコの下に押してあったので、なにか言われるかとおもったけど何事もなく通った。
フェリーターミナルからは大連駅まで直通の無料バスが出ている。ちなみに普通の路線バスも走っている。無料のバスは迎えに来た人が入れないエリアに発着している。到着ターミナルから降りるところに「知らない人に気をつけてください」みたいな掲示があったので、騙されるような事件が結構あったのだろう。
無料バスにのらずに出発ターミナルで仁川行きの値段をしらべれば、920元だった。ウォンで買うのにくらべて高い。往復で買わさなかったのもわかる気がする。
売店で地図売っていて、しかも5元だったので買った。ちなみに元はインチョンでウォンを両替していたのでかなりもっている。地図を見ると大連駅もそんなに遠くないので、無料バスにのらずに歩いていくことにした。
大連の町は外国がつくった町らしく、石造りの建物が結構のこっている。それと同時に、建て替えも進んでいる。
腹減ったので適当な飯屋にはいって、混沌を食べた。6元。水餃子だとおもったので、そう言ったら、そんなもんはない、混沌はあるといっていたのでどこか違うのだろう。あぁ、八角のにおい。とうがらしの刺激のない食事はひさしぶりだ。あぁ心がやすまる。もうキムチだらけの食事にはあきあきした。
大連駅に行く途中で、航空券を売っているところを見つけたので、中国フランス往復のチケットをしらべてもらったら、五千元あまりだった。安い。韓国よりも西欧に近いことを抜いてもやすい。わざわざキムチの国にもどらなくてもここで買えばよい。
大連駅の裏に行ってみると、長距離バスがいっぱいあつまっている。大連 - 杭州なんてのもあった。どこでも行けそうな勢いだ。鉄道なんかよりはバスの方がよい。ぶらぶらしたあげく、すこしはなれたところから出発している旅順行きのバスにのった。7元+保険1元。
あとからわかったことだが、旅順は今も軍港で、軍港近くを外国人がぶらぶらすることはできないらしい。しかし自分はそんなことを気にせず、旅順のバスターミナルからその軍港のちかくを通って、博物館まで歩いていってしまった。さすがに軍艦を撮るのはまずいだろうと本能的におもってそういうのは撮らなかったが、バチバチそのへんのものを撮ってしまった。まぁなにもいわれなかったからよかった。よほど現地人っぽく見えるのだろう。ちなみにソウルでも何回も韓国人に道を聞かれた。現地人オーラでも出しているのだろうか。
博物館が午後三時半で閉館だったので、ひきかえしてネット屋でネットしていたが、ここはカードをつくらされた。10元。ネット代自体は一時間2元とすごくやすい。これは大連もそうだった。
寒さにくじけてネット屋でだらだらしていたら七時くらいになった。宿さがしにでかけたが、最初の旅館が外人ダメだといいやがる。しかたないのでふらふらしてとりあえずもっとレベルの低い旅社にいってみたら、そこのおっさんがなんとかしてくれた。50元。まともな宿泊ではないのだろうが、まぁ軍港だけにしかたない。おばはんもやさしい人だった。
テレビで民国時代の満州族の皇族っぽい人を主人公にしたドラマをやっていた。袁世凱とかは敵役にしてもいいようだ。その皇族の友人が日本人の軍官で好男子の吉野くん。吉野くんの奥さんはすごい美人。最後に北京政府にいた友人が辞職して広州にいったときに、皇族の人が、また一人になってしまった、とつぶやく。日本人の吉野くんが、おれがいるよ、というと、おまえは数にはいらない、鬼子だから、という。そういう雰囲気は新しい気がしたがどうなんだろう。
日記を無事更新していたとおもっていたら、アップする場所を間違えていたようだ。あと、USBメモリに変なファイルが書きこまれていたので、ネットカフェのPCが変なウイルスに感染していたっぽい。キーロガーとかでパスワード系が盗まれてしまったかもしれん。やばい。
15日月曜。日本語の通じる統一教会系の旅行会社に行ってみて、ヨーロッパ方面の飛行機の値段を聞いたら、今安いので150万Wくらいだという。安いのといっても、エールフランスなわけで、日本で買う格安航空券とは大違いだが、今のレートで日本円にすると十万ちょい。まぁ日本で買うのと大してかわらん。結局サーチャージが高いようだ。それも一月になればさがるという。まぁ日本でも聞いたセリフだ。オープンチケットではなく、FIXなわけで、その辺でも日本とかわらん。とにかく安ければなんでもよいという使いかたには向いていないようだ。
いちおう名刺はおさえた。
さて。ちょっと思案して中国に行くことにし、とりあえず仁川に行ってみた。地下鉄で行けるのだが、思いつくのがおそく、途中で電車の乗り換えに失敗したりしたので、ちょっと遅く着いてしまった。駅前のツーリストインフォメーションで聞いてみると、丹東行きが今日でるが、今からタクシーに乗っていけば間にあうという。値段も聞いてくれた。
お言葉の通りタクシーで第一ターミナルに着いたわけだが、値段が事前にしらべていたのよりも若干高い。115000Wだとおもっていたら、128400Wだという。財布にちょうどそれくらいウォンがのこっていたが、タクシー代でちょうど減る。日本円にして数百円だが、この壁が高かった。まず、ターミナルの銀行はウォンと人民元しか扱っていない。ATMにクレジットカードをつっこんでみたが、ハングルしか表示がなく、さっぱりわからない。実はターミナルの外に民間の両替商があって、そこなら日本円を扱ってくれたかもしれないが、そこまで気がまわらなかった。
結局、乗るのはあきらめて、インチョンの市内に帰った。12番もしくは24番で第一ターミナルまで行けることもわかった。
市内で腹拵えするために歩きまわって、まず小豆粥麺を食った。かぼちゃ粥はよく食べていたが、小豆粥ははじめて。しかもそれに麺をつっこんだものである。うまかった。味つけが水キムチな気がするが、まぁうまかったからいいだろう。水キムチはよくでてくる。
こういう単調で味付けのうすいものにキムチはよくあう。韓国人がキムチを愛するのがよくわかる気もする。飯の度にキムチを食べつづけて、そろそろキムチがないとものたりなくなってきた。やばい。
次に、市場までいって歩きまわってみたら、鳥の唐揚げのようなものがよく売っている。その店の一つで唐揚げをひとつだけ買おうとしていろいろ言ってみたら、おばはんが「もちかえり」と口ばしった。そうそうもちかえり、と反応するとそこからは日本語でのやりとりになった。大阪に行ってたことがあるという。でも詐欺でだまされて韓国にかえってきたとか。在日ではないだろう。朝鮮語が流暢で日本語に至らないところがある。まぁ食ってけといわれて食っていった。この店はちょっと前に開いたのだという。開店祝いの花が飾ってある。あたりにはおなじ唐揚げ屋がいっぱいあって、ある店にはテレビで紹介されたと表にでかでかと出してある。
おばはんが、サウナおしえてあげるという。事前にサウナで泊まるのが一番安いとしらべていたのであるが、いまだサウナに泊まったことはなかった。歩きまわっていたのも一つにはサウナを捜して歩いていたのだが、見つけられなかった。泊まりたいときにサウナがあらわれない状態だったので、そのおばはんの申し出は渡りに船だ。ということで、教えてくれるまで待っていたのだが、そしたら閉店の11時まで待たされておばはん連中と一緒にサウナに行く羽目になった。
そのまえにひとつ、こんなことがあった。気がゆるんで、一瞬そこの店員の太めのネーチャンと目があってしまった。山のなかで猿に出あったときに目があったら、襲いかかられる、そんな感じの瞬間であった。それからそのネーチャンの態度がおかしくなってしまった。うーむ。韓国人は恋愛体質なのだろうか。さてそこで、そのネーチャンがスラっとした韓国美人ならこっちも目が眩んでいたかもしれないが、こんなハゲのおっさんにそういうスラっとしたのが参るわけがない。痩せたらすごいんですという感じの人ではあるが、その後はひたすら無視した。
おばはんはやたら年はいくつとか収入はどうとか、ともだちはいるのかとか、そういうことを聞いてきていた。それだけでも露骨だが、こっちは妹をおしつけようとしているようであった。妹といってももう40代くらいであろうか。実の妹でもない気がするが、適当な感じで店を手伝っている。最初はその妹がサウナを案内するといい、そしておばはんと妹の母と妹と四人でサウナに行ったのだった。なんか妹とくっつけようとする感じが露骨なので、もう逃げることだけ考えていた。しかしまぁデリカシーみたいなのはないのだろうか。
その店で韓国人の感性について強く示唆する事象を見付けた。トイレを借りたら、階段の下の空間をつかってトイレをこしらえてあるが、同時にそこは倉庫であって、唐揚げする前の肉がしこんだ状態で便器の横に置いてある。日本では考えられないことだが、現実に目の前にあることは受けいれざるを得ない。
韓国人は日本人とそんなに顔が違わない。韓国でよく見る顔や韓国っぽい顔はあるが、同時に日本人でもよくいる顔もある。狭い範囲で見た印象で言うと、北の方に行くほど日本人と共通する顔が多いような気がする。ソウルで日本人観光客なんか歩いているが、日本語を話しているのを聞くまでそれとわからない。ソウルで韓国人の若いのが歩きながらダベっているのを聞くと、息遣いとか笑いかたとか空気とか、日本人とほとんど変わらない。それでも、そういうトイレの事例を見ると、やっぱり、異国なんだなとおもう。
おそらくそれは衛生観念の違いというよりは、下半身、性のことに対してのとらえかたの違いなんだろう。町の中にやたら連れ込み宿があって、日本のラブホテルの比ではないのだが、それはそれだけ需要があるということなのだろう。まぁ、家が狭いから夫婦者でもそういうところを使うということもあるかもしれん。
地方で多い顔というのは確実に存在する。朝鮮人顔の典型と自分がおもっている顔のうちいくつかのパターンを今回見付けられなかったので、行っていない地方にでもいるんだろう。
韓国は美人が多いかといえば、多い。それもスラっとした凄い美人が多い。まぁしかし、そうでない人はそうでない方面で凄い。なんか、日本にくらべて幅が広い感じだ。
さて、そのサウナは5階が男浴場、3階が女浴場で、4階が岩盤浴系のゴロ寝するところ。おばはんらと4階で集合したが、さっさと寝て、朝はやく5階に移動してあかるくなりそうになったら一人で出た。終了。
その後、インチョンの丘に建つマッカーサーの銅像を見にいき、中華街を眺めて、名物のジャージャン麺はたかそうだから遠慮して、さむいのに名物の冷麺を食べ、大連行きのフェリーに乗って、寝ながら日記を書いている。最安レベルのエコノミーなんだけど、外人だからか、寝台になった。よしよし。
サウナ最高とおもっていたが、以上のような状態なので、寝不足だった。あんまり安眠できないかも。また韓国に行ったらサウナを捜してとまってみよう。
韓国は旅行しやすいので、みんなきてみたらいい。特に今は円高ウォン安でバーゲンセール状態なので買い物するのもおすすめ。
結局リュック買わなかった。
宮殿を見てきた。最初はあんまり面白くなかったけど、見ているうちに面白くなってきた。なぜだろう。軒下なんか丸太が並んでいるだけなのに。色はケバケバしすぎない。黄緑というか若草色というかそういう系統の色がよくつかわれている。見慣れたらこんなもんかとおもう。軒が釣りあがっていて遠近があるのがおもしろい。あと、オンドルとかの関係で縁の下の構造がおもしろいことになっている。扉が御簾のようになっている。そんななのに障子の貼りかたが雑だったり。
宮殿のなかに民俗博物館があったので見てきた。屋外に天下大将軍とかあったので、そういう系統なのかとおもって期待したらおおはずれだった。まぁ土器をならべとくのはいいけど、ハングル自慢とか印刷自慢とか、なんだそりゃ。国立博物館でもあったようなことのミニチュアだった。おもしろかったのは冷蔵庫の形をした米櫃くらいか。
あと、韓国人の一生と題して朝鮮時代の人の一生をやるのはいいけど、士人の一生なんか興醒めだ。まぁそれなりにはおもしろかったけど。
ソウルの町を清涼里から西大門まで一直線にあるいた。
左足の薬指が腫れている。小指が薬指におしつけられてそのせいで腫れているのだ。端的にたび靴があっていない。なんでたび靴みたいなものの幅が細いのか理解できないのだが、最近の日本人はたび靴はくような人でも足が細くなっているということなのか。まぁ、右足と左足で大きさが違うような足をしているのもわるいのだが。
二日で1000枚くらい写真撮ってもデジカメの電池がなくならない。新しいのを買うよりは、このデジカメを修理清掃に出して、画面にゴミがのらなくするのがいいか。
今日は朝、ちょっと南大門市場にいってみたあと、国立中央博物館にいった。無料だった。国立は無料という決まりでもあるんだろうか。
国立中央博物館は、最初にここに行けばそれで十分というくらいモノが揃っていた。ここに行ってから、あとは民俗系のところを見ていったらもっと面白かったかもしれん。まぁしかたない。展示が多すぎて、朝の十時から夜の六時まで見てしまい、つかれた。最後には結構掛け足でざーっと流してしまった。
今まで見てきた博物館では、曖昧であんまり触れられていなかった古朝鮮が、ここでは実体のあるものとして紹介されていた。朝鮮半島の青銅器文化はBC10世紀ごろからBC4世紀ごろまでつづき、その勢力範囲は朝鮮半島というよりも、満洲南部から朝鮮北部なのだが、それが古朝鮮であるという。その後、燕の勢力が伸びてきて、鉄器をもたらし、青銅器文化と融合した。その象徴が韓国式銅剣というもの。鉄器の全土への普及はBC1世紀までかかったらしい。中国人なら、その古朝鮮のことを箕子朝鮮と言うだろうな。
博物館の展示で見るかぎりでは、日本よりも古代の文献を利用しつつ、ちょっと勇み足な感もありつつ、わりと妥当な線を押さえているとおもった。ただ、高句麗とか渤海を自民族の歴史として紹介しているのはどうかとおもう。まぁ、あれだわな。清が関の北でとどまっていてくれていれば、満洲が中国になることはなかったし、満洲族ないしそれに近い集団の歴史として高句麗とかが記述されることになったんだろう。まぁ、それに、燕の人が朝鮮征伐して開発したとか、漢の四郡が設置されたとかそういうことにはまったく触れていない。
日本への影響は度々ふれられているのだが、日本由来の遺物も韓国南部で出ることについては文化交流ということで濁していた。まぁ、しょうがないことであろう。
これだけ考古的証拠がそろってきたら、考古学を利用した古代史が構築できるとおもう。その時は国家観が鍵となるだろう。民族主義がうずめいているうちは無理か。中国朝鮮日本を見わたすようなところから冷静に見れるようにならんとな。
そうそう。地図の部屋で歴代の地図を並べていたが、なにげにその範囲のなかに対馬がはいっていたw
今日は12000の宿にとまった。ヨインスク。どうもキリスト経系の宿らしく、受付の前にカトリックっぽい耶蘇の人形とかが飾ってあったり、キリスト教の啓蒙雑誌みたいなのが部屋に置いてあったりする。
まぁしかしなんでもかんでもとんがらしがはいっているのはなんとかならんのか。ソウルに着いた日に「純豆腐ラーメン」というのをたべたが、それが一番辛かった。ただ、これは、食うまえに「イルボンサラム(日本人)」とか言ってしまったので、わざと辛めにされたのかもしれん。普通に食べてる分にはそれほど辛くない。釜山で食ったサムゲタンのおかずは味がついておらず、とんがらしがちょうどいいアクセントになっていた。大邱でたべたプルコギもそうだ。納豆味の味噌とかよくわからんけど赤くて旨い味噌とかいろいろついてくる。普通に食べてる分にはうまい。
そろそろリュックの新しいのを買わなければ。
ソウルについた。ちょっといそぎすぎたか。
大邱(テグ)では大邱の博物館にいったあと、高霊に行って、大伽耶博物館にいった。で、そこから大移動して論山というとこまで電車で行ってみたが、到着が23時すぎになってしまい、安宿がしまっていたので入れなかった。しかたなくネットカフェで夜をすごし、早朝のバスで扶餘へ。扶餘博物館を見たあと、公州。公州博物館のあと、すぐちかくにあった温泉にはいり、時間もあまったので、ソウルまでバスで来た。で、ソウル駅前で宿を捜したのだが、もういいかげん疲れていたので。25000の宿にとまった。ひとやすみしてから捜したらもうすこし安そうなところがあったのでちょっと後悔した。
大邱駅前のツーリストインフォメーションは中国語の人だった。他にも中国語を使う場面が多かった。中国語できる人は韓国旅行しやすいとおもう。
高霊は狭い。バスターミナルに着いたときはどこになにがあるのかわからず困ったけど、とりあえず歩いたら、博物館への道案内があったのでなんとか行くことができた。
スーパーに入ったけど、スーパーではすぐ食えるようなおそうざいは売っていない。まぁそのへんで食えるから、そこで食えということだろうか。
大伽耶博物館の下にいた案内のおねえさんは中国語の人だった。音声ガイドをただでかしてくれたけど、展示の方にいくと、日本語のおっさんがいて、案内するからそのガイドははずせという。うーん。まぁついていったけど、穿ったことを言うので、つっこんだことをきいてみると、答えられない。適当に聴くことにして、ひととおりまわったあと、もういっかい音声ガイドを使ってまわった。まぁ、そのおっさんは高霊高天原説のあやしいパンフレットをくれたのでよしとしよう。
まぁ二度手間だったりしたせいで、見終ったころには日がくれかけていた。テグにバスで戻ったが、さて、ここからどうするか。大蔵経の版木が置いてある海印寺というのがあるのだが、まぁ日がくれてるから行けない。いろいろ思案して扶餘に行くことにした。
せっかくなので、鉄道をつかってみたら、扶餘の最寄りの論山についたころには23時をまわっていた。駅からおりると、タクシーがいる。そして、宿の客引きのおばばがいた。駅前の町並みがさみしくて、ほとんど選択の余地がない。おばばに聞いてみると、25000だという。ただの通過点で、しかもこんな時間から朝までのためにそんなに使う気はない。反対方向に歩いていったら、ヨインスク(旅人宿)があったが、寝ているようだ。戻るとおばばがいる。しかたないので、もっとむこうに行ってみたが、なにもなくなってきたので、戻って、おばばは無視してPC房に入った。要するにネットカフェだ。朝までネットをしながら寝た。朝の六時すぎに出てみたら、まだ明るくなっていなかったが、バスはあった。よし。
早朝の扶餘はものすごく寒かった。大陸的冷えこみの中、ブラブラしたので死ぬかとおもった。その結果わかったのは扶餘も狭い町だということだ。そんな朝にさんざん歩きまわったので、もう扶餘は満足してしまった。博物館もなんかあっさり見おわったので、つぎに公州に行った。高霊扶餘と狭い町ばかりだったので、公州は広すぎた。まぁ博物館に行ってザーっと見て、すぐ近くに温泉があったので入ってきた。
伽耶も扶餘も公州も、自分のところが扱っている内容が大事なことを強調する。で、よその事にはあんまり触れない。まぁ、地方の博物館はそれだから面白いのではあるが、古代のことまでそんな調子だ。そのわりに民俗についてはうすい。日本の博物館は歴史科学民俗の三本立てがスタンダードだったので、そのあたりは意外な感じがする。
釜山から慶州。昨日は釜山博物館と福泉博物館を見、ヨインスク(旅人宿)という最安宿に泊まってみた。一万ウォン。で、今朝慶州に来て、仏国寺と慶州歴史科学博物館と慶州博物館を見る。今半月城の上。デジカメがいっぱいいっぱいになったので、ノートパソコン吸い出しているところ。さてどうしよう。慶州で見たいところは見たような気がする。
釜山から慶州の高速バスはたったの四千ウォン。バス代が異常に安い。ローカルバスはそれなりなのに。慶州で三回バスに乗ったが、合計したらおなじ額だった。
釜山博物館。釜山を中心にした博物館で、釜山は日本との窓口として発展した歴史があるから、日本との関係にかなり面積をさいている。秀吉の朝鮮侵略で町の陥落を描いた絵があるのだが、海を日本軍が埋めつくしており、日本人が刀を両手に一本づつ持って攻めていて、さらに鉄砲担いだのがそれをぐるりとかこんでいるのが印象的だった。朝鮮側の銃砲もあるのはなかなか見れないものか。あとは朝鮮戦争前後の展示物がおもしろいか。古代がおもしろいのはいうまでもないが、古代についてはもっとおもしろい博物館がある。
福泉博物館というのが東莱にある。東莱というのは釜山周辺にもともとあった内陸の町で、今は釜山の市街地にうもれてしまっている。その町の城郭が一部残っていて、すぐ近くに古墳があるところにこの博物館が建っている。古代専門の博物館だが、展示はしっかりしている。高句麗・百済・新羅・伽耶などが遺物の上でどうちがうかわかるように展示してあり、中国日本への目配りも効いている。古朝鮮とかいうアイマイなものも出てこなかった。ただ、ひたすらハングルなので、ときどき出てくる漢字を追うしかないのが厳しいことか。表にしてあると、固有名詞くらいはわかるようになってくるが、文章になっていると全然読めない。
日本の古代の遺物でよくみる高坏がいっぱいあるよ。日本だと農具の木部なんてのは腐ってのこっていないが、朝鮮の気候だと残るようで、見事に半分漆塗りしたものがキレイに出土していた。取っ手のところに細い縄をらせん状に巻いてグリップにした状態がそのまま残っている。そういう目でみると、日本ならボロボロに腐っているはずのものばかりが、かなりキレイな状態で出土していておもしろかった。
ちなみに東莱には温泉がある。とりあえず入ってきた。韓国人は、チンコまるだしでふらふら歩いていて、隠したりしない。
仏国寺は慶州の有名な寺だが、文禄慶長の役のときに焼けてしまってその後再建したものだという。梵魚寺もそうだった。なぜそんなに寺を焼いたのか気になるが、まぁそう書いてあるからそうなんだろう。
それでも残っている建築物は十分古い。あと、礎石は新羅の時代だという。その重量感と質感が十分にのこっている礎石だけでも見物だ。石垣の中に石の柱構造のようなものも見えるし、アーチもある。こんなもの作れた当時の新羅はすごかったんだな。
歴史科学博物館もハングルだらけ。みやげもの屋の間にあって、うさんくささがただようが、まぁそんなにわるくない。内容は天文台関係、石窟庵関係、印刷関係、あといろいろ。石窟庵はおもしろいな。本物を見にいってもよかったがここで模型をいっぱい見たのでまぁいいや。
慶州博物館は先史時代から統一新羅時代までだけを新羅を中心に扱ったもの。幅では福泉博物館に負けるが新羅だけを取ればここが一番あつまっているんだろう。池の中から出てきたという栓とかその関係のものが狭山池博物館で見たものを補完するようなもので、おもしろかった。狭山池のほうにあったのは管だけで、栓とか、それを抜きに行くための船を漕ぐオールとかはない。
半月城も見た。天馬塚も見た。慶州の朝鮮時代の建物とかは見る気がしなかったので見なかった。そういうことでとりあえずテグに来た。宿さがしでフラフラしたけど、結局15000の宿をみつけたのでヨシとしよう。
ippは嫁の威信財として扱われているような気がする。 -> ippの切りとってくるところだけをまともに受けるとかわいそうだわな。ippの平生を考えればおもしろいところを強調しているんだろう。(2008/12/24)
さて。釜山の博物館に行こうと門前まで行ってみたら休みだった。月曜休みwww
しかたないので、中心部にいってぶらぶらして本屋で韓国語の本を買った。ダイソーでもうすこし買っておけばよかった。
梵魚寺。石!石!石!とにかく石。韓国の寺って全然違うな。
あとは古本屋街に行ったくらいか。小学生向けの書きとりのノートを買ってきた。
今日はいろいろ食った。安いので調子にのっていろいろ。最後にはサムゲタンまで食った。
梵魚寺に登って歩いたのと、あといろいろ歩きまわったので、うごきまわったわりに書くことがない。
かぼちゃ粥がうまい。
むぅ。걸항ってのが意味わからんが、欠航なんだろうな。きっと。
firefoxからだと大亜のサイトが攻撃サイトということで見れずにいたので、がんばってw3mで見た。
今週の対馬-釜山のフェリーが、比田勝 12/7,10,14 厳原発 12/11-13 ということらしい。明日明後日はないということだ。壱岐厳原いずれも宿代がそんなに安くないのであんまり長くいたくないのだが、今日渡ると水曜まで足止めされるんだな。むむむ。ここまで来たけどとばすか。
あいかわらず博多ー釜山航路のサイトが見えないのだが、なぜだろう。
中国にノービザで入って公安局でビザを取得するのもちょっと時間はかかるができるようになったらしい。
とりあえず船にのった。そしたら荷物いっぱい持ったアメリカ人のおっさんと二人だけの部屋にされた。静かでいい。
釜山到着。あっけない。釜山の第一印象は、台湾っぽい。基隆とか高雄とかと同じ感じがする。
釜山に近づいたとき、下水っぽいにおいがしたときがあったが、そこですかさずアメリカ人のおっさんが「 smell kimuchi 」と言ってた。まぁでもそれほどでもない。寒いせいか、においはあまりしない。
安宿をさがしてふらふらしたけど、簡単にみつかった。20000ウォン。しかも部屋のなかでなぜか無線LANができる。どっかの漏れ電波だろう。
ふらふらしている最中にお粥屋をみつけて入った。6000ウォン。カボチャ粥。うまかった。これにもキムチがついてきていた。イカキムチはうまかった。ちなみにここまで朝鮮語を全然話していない。
博多港で船待ちしている間にひょんなことでリュックのファスナーの持つところが取れたけど、無理につけなおしてしめなおした。そして崩壊しかけているところを糸で縫ってなんとかしてみた。なんとかなるもんだ。でもその場所はやはりおかしいので、ファスナーを交換するかリュックを新調するかしないといけない。まぁこれこそ買ってもいいとおもう。
ちなみにコンビニのおにぎりが700ウォン。
うーむ。なんかあけすけで困るけどとりあえずこれはくぐりぬけていくしかないのだろう。
壱岐の神社のことをちょっとしらべてみたけどおもしろすぎる。
昨日泊まったネットカフェだが、目下一周年記念のキャンペーン中で年内いっぱいは12時間パックが1000円らしい。本来は2000円。
そして、初回利用の特典が半額。つまり今朝払ったのが500円だけだった。あんまり安いんで驚いた。
ということで、今晩も泊まる。
今日は寒かった。外に出たらアラレが降ってきた。あんまり寒いのでしばらくマクドナルドで壱岐の神社のことをしらべていた。
壱岐にはたくさんの式内社があり、古代の段階では重要な土地だったわけだが、神仏習合の時代を通過して江戸時代になるとどれがどの式内社かわからなくなってしまっていた。そして江戸時代前期の平戸藩の国学者がかなりいいかげんな比定を行い、それが採用されたらしい。
従って、今はその国学者が適当にあてはめた神社がその名で式内社面をしているそうだ。
京都にある月読神社の本社が壱岐にあったのだが、現在本物と有力視されているのが別にある。しかし、それは神仏習合時代を経て、八幡宮の本殿の脇にいっしょに祀ってある摂社になりさがってしまっていたようだ。
また、住吉なんかもここが本社であるという説がある。もともと住吉神社は神功皇后の征韓と深い関係があるが、ここの住吉もそのときが起りであるということになっているらしい。うーむ。まぁウリナラ起源みたいに勝手に称しているのか、本当に壱岐が本物なのか、そのあたりはよくわからん。しかし、古代の国家祭祀において壱岐対馬の神官は重要な地位をしめていたようなので、なにかあるのかもしれん。
寒かったので東公園の日蓮像を見て、図書館に行って地球の歩き方を読んできた。そんなに高いものでないし、買ってもいいかもしれん。でもかさばるなぁ。
華族一覧表 神職・僧職の部
14社家というのだが、ここには13しか神職がのっていない。修験もはいるのか。
博多まで来ると美人が多いなぁとおもうのだが、しかしこれは博多に多いのではなく、博多に九州各地の人があつまっているからだとおもう。佐賀平野には美人が多かったのだが、博多とは山こえたすぐそこだから博多に集まってくる人のうちでも比率が多いはずだ。博多に多いのではないと思うのは、美人が多いなぁとおもうと同時にパッとしない顔も増えるからだ。筑豊顔とでも言うのだろうか。
今までの道では出雲に入ると美人率が増えた。島根県だな。これは博多のような増え方ではなくて、ベースアップ的な増えかただからそういう系統の顔だということだろう。
うーむ。どうも曜日の感覚が一つずれていたようだ。今日はまだ金曜か。
韓国とか壱岐とかワクワクしてきたぞ。
とりあえず博物館行っとくか。
博多市の埋蔵文化財センター。ほとんど客が訪れないようで、展示の電気も半分消えたままだが、文化財の保護の様子がわかってよい。木製品の保存は高分子で細胞を埋めてしまうやり方よりもインスタントラーメン方式の方が黒ずんだり重くなかったりしてよいそうだが、高くて技術が必要とか。特別展もやってて、それが鴻臚館跡からでてきた各国の陶磁器(もちろん中国がメイン)だった。濃い。濃すぎる。
ちかくに板付遺跡とかあるのだが、ちょうど雨が降ってきたので、さっさと駅に戻って次は市立博物館に行った。こっちはでかくて充実している。展示の説明もよい。
古代の対外貿易機関である鴻臚館が平安時代末に機能停止したあと、宋の商人が博多にいて、私貿易の時代に突入したそうだが、その宋人と日本人の在地の有力者とが通婚してたりするのな。しらんかった。坊津みたいなところにも中華街ができてたのだから、まぁそんな感じだったんだろう。
博多の最盛期は明治以降と室町時代だったんだろう。そんな博多の心ぬくもるエピソードは、明治になってから、藩の財政を改善するために偽札刷ったのがバレて、日本で唯一藩知事から県知事になれなかったということだろうか。
博多の明治時代の発展は博覧会と密接に繋っているというのもおもしろかった。町を開発するために博覧会をやっているような風もある。
とはいっても町を開発すれば発展するわけでもなく、金と物の流れの結節点になっているから発展するのだ。室町時代の発展は中国方面との貿易の拠点になっていたからだ。江戸時代になると、西の玄関は琉球長崎対馬になり、博多は対馬の朝鮮方面のルートだけの中継点になってしまう。で、朝鮮方面というのは江戸時代に相当する時代は凋落の時代なわけで、博多も時間が下るにつれてショボくなっていくということだ。
市立博物館に時間ギリギリまで居た。その後、西新まで歩く途中にあった西南学院大学の博物館の展示がおもしろそうだったので入ってみた。ここもなかなか濃い。展示物にユダヤ教関係のものが多い。模造品も積極的につかっているのが好感度大。態度も学問的で好感度大。たとえば最後の晩餐の定番の絵と一緒に、当時の宴会は床に寝ながらダラダラ食べるのでその想像図を並べている。これがまたシュールだが、さらに中国で描かれた最後の晩餐の絵皿も横に置いて駄目押ししている。まぁそんな感じでおもしろかったわけだ。
西新から天神に行くつもりだったけど、西新のうどん屋でおなかいっぱいになって、しかも西新に12時間1000円(初回特典)のネットカフェがあったのでそこに入った。このまま寝る。
そうそう。韓国観光公社が駅前のビルに事務所を置いていて、各地の地図などを置いている。公社発行の韓国の地図とガイドブックを手に入れた。これで韓国観光はなんとかなるな。
【1498】曖昧な対人関係を理解できずトラブルを繰り返す部下は病気でしょうか
おれもそういう部分がある。
大手新聞社の友人が嘆く「一次情報の蹂躙」
記者が取材して記事にした時点で一次情報じゃないとおもう。
モテる女は歪む
記事の内容は個人的なことが書いてあるだけだが、「歪み方は人それぞれ」であるにしても、男が常に寄ってくるという状況にどう対処するか、でその先が変ってきたりするんだろう。
博多到着。雨だ。
今日はあんまり観光していない。朝の六時に出雲市を出たあと、延々と石見の海岸を移動して、この地方の廃れぶりにおどろいたあと、益田で乗りつぎして一気に萩へ。
さすが萩は観光名所、見るところが多すぎる。しかし乗りつぎとメシのつもりで 来ただけなので、そんなに時間がない。まぁここで次の二時間半後の電車にしてゆっくり見ていけばよかったのだが、いけそうだったので、うどんを食べたあと、萩を横断する。
しかし、次の電車の時間を20分ほど間違えていて、気づいて走ったが、そのかいもなく、目の前で電車が走っていってしまった。
そうなってからまた萩に戻って観光するのは疲れること、次の長門へ行くバスがないか捜してみたら、そんなに遠くないところにバス停があった。
で、バスにのって長門へ行き、さらにそこからバスで長門湯本温泉へ行く。ここには恩湯と礼湯の二つの共同浴場があり、恩湯にはいったらまた電車の時間に遅れたので、ついでに礼湯も入っていった。
あとはだいたい順当に博多まで。
しかし日曜からこっち、出雲を見に行くといいながらあんまり観光していない。切符で日程をしばるのもよしあしか。
壱岐はとばそうかとおもってたけど、今調べてみると、いろいろおもしろそうだ。行こうかな。
九州に来たときも入ったネットカフェに入ったけど、無線LANがつかえることがわかった。ここもノートつかえる。
む。松江駅南口に泊れるサウナがあったのか。しかも宿泊パックなんてのがあって2079円か。失敗した。そっちにしたらよかった。ここは遠い。
明治の出雲の神学論争についての本はおもしろかった。こっちは読めたが、出雲国風土記は出雲にいる間に読めそうにない。
とか書いたけど、頭から全部読むような本じゃないというだけのことだった。
玉造温泉に朝行って、ただでつかれる足湯に入った。
古代出雲歴史博物館。出雲大社のそばにあるだけあって、半分は出雲大社のことばかり。古代に重点が置かれるのはそれはそれでしかたない。神話の紹介のなかで、さらっと新羅の太陽と月の精が日本に渡ったという伝説に触れていた。展示内容は詳しくておもしろいが、千円で売っている展示解説の本は展示よりも解説の量がすくなかった。古代はやたら詳しいが、平安時代とかはすっとばしで、中世に来るのはどこもおなじか。
出雲が鉄生産の中心地だったのはまぁわかるが、江戸時代に至るまでそうだったのはしらんかった。古代だけかとおもってた。
大社のまえのソバ屋で割子そば。
出雲大社も縁結びの神社ということで、若い女性の姿が目立った。まぁ、大社はでかいな。それ以上の感想はない。博物館などで想像の巨大神殿を見せられたらもう。それに以前ここには来ている。今日は博物館のついでだ。
今日は疲れた。たぶん昨日の疲れが抜けてないんだろう。割子そばは二膳食った。うまかった。ただ、一軒目が雑巾臭ただよう店で、いちおううまかったのだが、そのせいか、なんか腹に違和感がある。とりあえずジャスコでヨーグルト500グラム買ってきてたべた。
そういうことで夕方の六時からネットカフェに入った。12時間コースでだらだらしてやる。そういうコースがあったからダラダラしているだけで、なければ違う選択をしているだろうが。
Google世代にとって暗記は時間の無駄 - GIGAZINE
昔の知識人は万巻の書を胸中に収めていたそうです。それに比べたら。
asahi.com(朝日新聞社):ブッシュ大統領「戦争の心構えなかった。誤情報が痛恨」 - 国際
わかったふりする奴がいっぱいいたということだな。
疲れた疲れたと言っているが、これもただの適応の階段を踏んでいるだけだろう。そのうち慣れる。もっと歩こう。
旅行もたったの四日目だ。切符の都合で、明日博多に着かないと切符が無駄になる。
つぶやき系はツイッターで十分ですな。
今日の目標は安来と松江である。しかし、とにかく歩きまわっただけの結果におわった。
朝目がさめてすぐ部屋を片付け、安来に行ったら、七時台だというのに観光案内所に美人のおねーさんがいる。それだけでも感心だが、いろいろ親切におしえてくれた。清水寺に行きたいといったら丁度バスが来るところだった。そのままバスで清水寺へ。
朝早いので店系はどこもあいておらず、寺自体もこれから開けて掃除していくところだった。なかなか風情はいい。とりあえずグルっとまわったので裏山の展望台へ。
これまた眺めがよい。正面に弓ヶ浜が見え、島根半島が一望できる。ここはそれなりの要害の地であろう。
降りたころには羊羹屋が開いていた。ここの名物は清水羊羹なのだ。羊羹屋のおばばと話をしてみたが、普通に話がすすむのでつまらなかった。「たばこする」などの安来弁は聞けたが。とりあえず一本買った。
三重塔があり、中にはいれるとのことだったが、入りわすれていた。
次は出雲国意宇郡山国郷である。ちょうどいい時間に来るバスがなかったので歩いていった。結構あった。
京北の山国にくらべれば、全然山が低い。いろいろと違う点ばかり見つかって、なんかがっかりした。
当然ながら、ちょうどいい時間に来るバスなんかないので、また歩いてもどったが、どこまで行ってもいいバスがないので、最終的に安来駅まで歩いた。今測ったら19キロくらい歩いたらしい。ちなみに安来駅まで帰ってきたときも観光案内所の美人のおねーさんはいた。
松江。とりあえず「八雲立つ風土記の丘」に行ってみたら、展示館が休みだった。がっかりしたので、とりあえず、近くの神魂神社に行った。出雲大社の出雲国造と関係があるそうで、興味深いが、実はそんなに古くないという説もあるようで、なんとも。そこから八重垣神社まで歩いていったが、途中道にまよってしまい、途中にあったはずの出雲国造の墓や荒神谷など見れなかった。まぁなんとかして八重垣神社に来てみれば、縁結びの神社ということで、なんとなく場違いな雰囲気があって早々に退散した。
松江までバスでもどったが、松江城に行くと、もう五時ということで城にものぼれなかった。しかたない。
松江城の近くに図書館があったので、安来のことについていろいろ見ておいた。
その後、松江しんじ湖温泉に行ってケチって駅前の足湯に入り、足湯につかりながらネットカフェの値段をチェックし、一番安かったところまで歩いていった。途中飯屋がみつからず、困ったが、ネットカフェ周辺にある郊外型の飯屋のなかに、どうも有名どころのソバ屋があり、入って「割子そば」をたべた。うまかった。
ついでにその後、くら寿司に行ってみたけど、まぁくら寿司はくら寿司だった。
ネットカフェ、横になれるタイプではないが、無線LANがあり、ノートパソコンがつかえる。ありがたい。
携帯のUSB充電器を買ったが、データ転送できるやつにしてしまったため、充電しようとすると、通信待ち状態になって、携帯電話としてつかえなくなる。まぁ携帯に連絡してくる人なんていないので、かまわないのだが。
今日は安来で19キロ、八重垣神社周辺で3キロ、松江市内で7.5キロほど歩いた。なんで一日に30キロも歩いているのかわからない。
もう12月か。
鳥取駅にあった山陰史跡ガイドブック第三巻山陰の弥生時代というのを見てわかったのは、鳥取県立博物館は月曜休みということだ。ついでに市立の方も月曜休みだった。ほかにも倉吉の博物館とか、いろいろ月曜休みのところがあるようだ。むむむ。
こういうガイドブック他の地域も作って駅に置いてくれたらいいのに。あと、他の巻も見てみたい。
ネットのつかえる席に移動した。ツイッターのフォローしてみた。こりゃ旅行とかでぶつぶつ書くのにいいね。ネット廃人がやるとネット廃人が加速するからやらないほうがいいとおもう。
鳥取県立博物館は特別展のおかげで開館していた。ここの展示はなかなかすばらしい。説明的だがくどくない。ヘェとおもうようなことがいっぱい書いてある。「本州のガラパゴス:鳥取県」とかマジメに書いてある。鳥取の付近は遺伝子的に東西の境目になることが多いそうな。ニホンザルもこの辺りで東西に分れるらしい。21世紀になってからの新成果なんかもどんどん取りこんである。投入堂の年輪から建築時代の割り出しとか。
民俗資料でサイノカミとかあったが、東北と基本的に変わらないことをしているのでなんというかおどろいた。東北の方が古い形態を残しているとおもわれるところが多いけど、西日本と東日本で共通していることも多いのだな。
鳥取城、石垣しかのこっていないし、高校とかに転用されているし、規模も小さいが、よい。中世の山城と近世の麓の城が一望できるところにあるのはなかなかない。まーでも秀吉に兵糧攻めされて降参した例があるのであんまり名城とはされないんだろうけど。
米子泊。山陰歴史館は民俗資料というか、昔の民生用品がいっぱい置いてある。でもおすすめはしない。ここ最近の傾向を守るなら、淀江の方とか行くべきだったのだが、なんか降りる気がしなかった。
で、駅前のビジネスホテルに泊まった。2500円。ネットできないけど明日の朝駅でつなげばいいや。
境港に行ったけど、もう夕方で、いろいろと閉まりかけていた。鬼太郎のテーマソングがあちこちでながれているのがなんとも。
デジカメの光量調節をセンターあわせにしたけどすこぶる良好。オートにしてた今までを悔やみたい。リコーのデジカメはホワイトバランスがわるいとか勝手なことを言っててわるかった。デフォルトでセンターあわせにしといてほしい。これでこのデジカメに対する不満がまた減った。たぶん最近の機種もこの特徴はいっしょだとおもう。
このCaplioG3いつまで使えるんだろ。どうも内部にゴミが入ってしまっているようで、青空を写すと黒いもやもやしたものが写る。まぁいいかげんだからそのままにしている。これも掃除してもらうと高いんだろうな。