中国東方航空のデリー便だが、7月末出発のものは7/23,25,26が13500(諸税別)で、その前はこんでいるのか結構高い。たぶん今のところ最安で提供されてる便も日が近づけば高くなっていくんだろう。9月初の方は結構余裕があるがそれでもポツポツと高いのが混っている。日付変更手数料が13100らしいので、適当に決めてもっといたくなったらインドでブッキングしなおすか。
7/23 関空発 - 9/6 関空着 55730 (normal fare 27000)
よし発券成功。しっかし安いなぁ。寝よう。
今日は逸平と旧川口居留地をみにいってきた。なんか連絡うまくいってなかったような気がするが結局朝9時に集合できたからよしとしよう。
といっても居留地時代の建物はなにものこっていない。教会があるが1919年とあったので居留地廃止以後の時代のものだ。島の地形はそのままなので狭いのは実感できる。
すぐにまわれたのでそのあと安治川沿いにくだって昭和19年につくられたエレベータ付きトンネルをみてきた。昭和19年の自動車用エレベータは閉まっていて見れなかった。人間の通る部分は生きていて新しくなっている。トンネルにたどりつく前に河村瑞賢紀功碑というのがあったが、安治川は河村瑞賢が掘った人工河川らしい。道頓堀にはこれと同じスタイルの安井道頓・道ト紀功碑というのがある。両方とも大阪城築城のときに船からこぼれた石を再利用したらしい。河村瑞賢が明治44年に正五位を追贈され、安井道頓が大正3年に従五位を追贈され、安井道頓の追贈を機に大正4年両方の紀功碑がつくられたということらしい。
その後、居留地の模型のあるなにわの海の時空館をみにいこうとおもってコスモスクエアまでわざわざ行ってからこの3月に閉館していることを知る。むむむ。しょうがないので他に居留地の模型のある「大阪くらしの今昔館」というのをみにいったが、これが600円もとられた。まぁ実物大の昔の家が復元されているところだからしかたないのか。外人にはいいようで、あちこちの国の人が着物きたりしてはしゃいでいた。肝腎の模型は全体ではなく一部だった。うーむ。
でお昼に解散。一人で梅田まで歩いてみた。天神橋筋商店街を南に下ったが、途中中崎というところへいく道があったので、それが梅田の方へいく商店街だとおもって入っていくと猛烈に寂れている。天神橋筋が栄えているので対照的だった。しかも中崎駅で途切れている。なんでこんな商店街ができたんだろう。
木炭自動車 - Wikipedia
ふーむ。木炭ガスを利用するのか。
今月も7G超過
浪花町商店街振興組合 :通称・愛称: 天五中崎通り商店街(おいでやす通り)
ふーむ。これをみてもなんで中崎駅で途切れているのかよくわからんのだが昔からある商店街ではあるようだ。戦災をまぬがれたということで探検するとおもしろかったようだ。
(注)独立行政法人の設置は、スクラップアンドビルド原則に基づき行うこととし、公的部門の肥大化は行わない。
朝、半額肉のトマト煮の肉をさらってかわりにレンズ豆いれてみた。さてどうなるか。やっぱり最終的に煮ないと食えないんだろうか。
夕方にはそれなりに食える状態になっていたがちょっと固い。水を足して炊飯してみることにした。
飛鳥にいってきた。行きは下ツ道(中街道)ルート。帰りは中ツ道(橘街道)ルート。
明日香村埋蔵文化財展示室 → 飛鳥寺 → 奈良県立万葉文化館 → 酒船石 → 石舞台古墳 → マラ石 → 川原寺跡 → 飛鳥資料館
明日香村埋蔵文化財展示室はこのまえ入ったとたんにN-08Dが写真とれなくなったところだが、今日はちゃんととれた。しかし飛鳥寺でまた具合がわるくなって写真の削除とかしたらエラーがでるがなんとか撮れるようになった。その後また整理してエラーがでても撮れるので無視して撮っていたら問題なくなった。
飛鳥大仏は作られてそこに安置されたときの場所に置かれつづけているということなので見てきた。まぁ日本で最初に作られた大仏でここに置きつづけられているんだからケチつけたりしないほうがいいよね!
マラ石というそのものずばりのチンコ石があるのが意外でよろこんで写真をとってきたのだが、今しらべると飛鳥坐神社の境内にはチンコ石マンコ石がいっぱい転がっていたらしい。入っておけばよかった。しかしこのマラ石、包茎っぽいんだが、普通チンコ石はズルムケチンコを模するんじゃなかろうか。
酒船石とかムー的には宇宙人のなんとかとかいろいろいわれていたけど、庭園の一部らしい。飛鳥資料館に石が模造品もふくめて集めてあってよくわかる。怪石はだいたい斉明天皇に関連づけるのが一般的解釈のようだ。まぁ日本書紀によれば石いじり・土木工事を名目に反乱おこされたりしてるくらいだしなぁ。
県立万葉文化館はこれまた微妙なところだった。万葉集をネタにして当時の生活文化を紹介するというところだった。ボランティア解説員がいたが、ここにも県立橿原考古学研究所附属博物館とおなじようになれなれしくて韓流がどうこうとかいってる奴がいた。県立の施設はそういうのを飼っているんだろうか。ボランティアで無償の善意にあまえているから脇があまいんだろうか。
今日は暑いせいか、結構亀が道を歩いているのをみかけた。引かれて潰されたりするんだろうか。奈良は亀が多い。多いのは溜池や溜池状のものがあちこちにあるせいだが。
奈良に白高大神という心霊スポットがあるらしいんだが、これが意外と近くで、しかも大和民俗公園へ行ったときに通った道を曲らずに真っ直ぐいけばたどりつけるらしい。今度行ってみよう。
探偵魂/スパイ日記/日本心霊マップ/奈良県 白高大神
全部伝聞で構成されている報告。伝聞を事実と書いている時点でどうなんだとおもう。夜に洞穴にいくと怖いって...あたりまえやろ!
千利休の死のイメージ - メモ@inudaisho
こういうのを一昨日-昨日の日付が変わったころに書いたらはてブのホットエントリーに一時入っていたらしく、ホットエントリー経由のアクセスというのがあったが一時だけだった。ふーむ。
人の受けを気にしながら書くべきなのかどうか悩むところだ。
昨日インドカレー屋のおやじが今ラダックに行く道はないスリナガルも行きづらいみたいなこと言ってたな。この大水害で。
【啓蒙】日本発の研究論文「質量ともに低下」…科技白書 : 【2ch】コピペ情報局
歯医者にいってきた。そのためにわざわざ精華町まで... 国会図書館は遅かったので行かなかった。
ついでに西大寺のHISにいって、航空券をネットで買うのとここで買うのと大きな違いはなにか聞いてみたところ、手数料みたいなのがつくかつかないかということだった。そりゃネットで買うよな。
痛いニュース(ノ∀`) : 【画像】 ある女性ドライバーが「タイヤがパンクした」と修理に持ってきたのがこれ
Haswell 搭載の Let'sNote はでてるんだが、これが型落ちになって値段がすくなくとも10万程度にならないと買わないだろうからまず手に入らないな。
関空-デリーの中国東方航空便は中国東方航空のサイトで直接調べて直接買った方がわかりやすい。安い日と高い日の差がはげしいな。
今ルピー安が進行してるのか。
前パソコンを使えるようにしたインド料理屋から電話がかかってきた。なんでかしらんが飯ごちそうしてくれるというので今日の昼行くことにしたwww
行ってみたら案の定パソコン関係のことだった。なんとかしてきた。片道880円もはらってインドカレーでパソコン修理をしてやるなんて割にあわないことをしているがまぁいい。
そのついでにちょっと神戸の異人館とかあるあたりまで登ってきた。
左から汪兆銘政権の中国領事館、ジャイナ教寺院、モスク。
旧中国領事館が一番高い通りの隅にあり、その奥にある異人館通りのチケット売り場を兼ねていた。これ単館だと500円ということだが、中になんらかの歴史展示があるわけでもなく、絵とか壺とかがあるだけらしい。まぁ外から写真だけ撮って帰ってきた。いちおうこれだけが目当てで行ったということもあり、他の異人館はとにかく高いので行かなかった。
モスクにはマスジデ・コーベと書いてあった。ペルシア語的に読む以外の読み方あるんだろうか。モスクの前にトルコ物産屋があったので入ってみたが微妙。とりあえずレンズ豆1kg450円がトルコ産だったので買ってきた。普通の皮つきのやつはアメリカ産でしかもそっちの方が安かった。色々納得いかない。
Google Keep というのがあってタブレットでのメモに便利なので使っている。ブラウザだとこういう風にみえるのな。これで googlecl からつかえれば便利なんだが。
もっともメモなんかこの鯖にメモディレクトリつくってあらゆる環境でrsyncつかって同期したらいいような気がしないでもない。ただタブレットでコマンド打つのめんどくさいんよな。
高句麗の好太王ってすごい征服王なのかとおもってたけどその前が高句麗滅亡の危機といえるくらいボロボロにやられてたのな。百済にもボロ負けするくらい。それを押し返して中興したという意味ですごいんであって、ちょっとイメージが違っていた。
西晋の滅亡 → 五胡十六国の時代に高句麗も最初は遼東に攻めいってブイブイいわしていたけど、五胡十六国のひとつ前燕が勢力をのばすとケチョンケチョンにやられてしまうという構図。そのケチョンケチョンの最低の原因の前燕があの苻堅様の前秦に滅ぼされると、前秦から漢字の輸入とか仏教の導入をやったらしい。
同時期に百済も東晋と通じて漢字とか仏教とか輸入していると。で、その後、華北の前秦体制が東晋侵攻失敗で崩壊して混乱に逆戻りすると、高句麗を圧迫していた箍がはずれて好太王時代がくるというわけだな。日本にも前燕の慕容氏系の歩揺のついたキラキラした靴とか冠なんかがのこされてるところからみると、その時代の文物輸入は高句麗の伸長で、高句麗系の文物がすぐれているとみなされて高句麗系が好まれて輸入されたとみるべきだろう。
で、いわゆる神功皇后の三韓征伐だが、好太王の前の高句麗がボロボロで百済にも負けたくらいのころに新羅をシメに行ったのでうまく半島に勢力を食いこませることができたというところなんじゃなかろうか。百済が七支刀を倭に送ったと文献上でされる年は百済が高句麗に大勝した直後なので、あるいは百済勝利の戦に倭軍が参加していたのかもしれない。
新羅をシメにいったのはたぶん九州の北の方と新羅がつるんでなんかしようとしてたんだろう。高句麗 - 新羅 ラインからすると、九州の連中を独立させて百済包囲網をつくろうという意図もあったのかもしれない。
USBテザリングだがときどき接続が切れる原因がわかった。ケーブルが長いせいだ。USBという規格がデータ通信に向いてないのだ。短いのにしたらかなり安定する。ひょっとしたらケーブルのせいでパケットロスもかなり発生していたかもしれない。
インドの水害
perfect viewer いれてるが使ったことがない。画像ファイルの閲覧は結局デフォルトの「ギャラリー」つかっている。画像ファイルの閲覧といっても明治の地図をみるためにつかうだけなので、その一つの画像のファイルサイズがでかい。安定してみれるのは「ギャラリー」だけだ。perfect viewer がアップデートしてクラッシュ問題が解決したとか書いてあったのでためしに見てみたが、すぐ落ちた。まぁ漫画とかみるには便利なんだろう。
昨日博物館で過去の図録をみていておもったのが、もう考古学の学者も日本書紀の神功皇后のあたりが120年ずれてるとか、ヤマト政権はたぶんこんな政治力学でできたみたいなことを言うようになったんだなということだ。あまり突飛なことを言わないあたりがいい。
三国史記とかみてても日本は侵略者の方なので、半島の方から日本に攻めてきてなんとかできるような事はなかったんじゃないかとおもう。新羅とか何回倭人に首都を攻められてるのかわからないくらい攻められている。攻めてくるのが当然の事で、それをどうやって追い返したのかというところに記述の重点があるくらいだ。もし列島の方に攻めてなんとかできたようなことがあったら誇張して特筆大書してるだろうがそういうのが全然ない。たぶんそのころから日本列島はDQNで満ちていたにちがいない。
ヤマト政権みたいなのが瀬戸内を通じて九州あたりまでの政治統合にいたったのは、それが交易ルートで、野蛮な方が先進な方をおさえるという構図で理解されている。たぶんそういうところなんだろう。任那みたいなのはその延長で、その主目的はあのあたりで生産される鉄だったんだろう。
ヤマト政権の任那支配はミカジメ料をとって守ってやるみたいな形だったんじゃなかろうか。
朝からすごい雨だ。気象レーダーみてみたらちょうど黄色の部分が来ていた。
ASEAN、インドをつなぐダウェー 検証 ミャンマーブーム WEDGE
ダウェー - バンコク をむすぶだけで海路より3,4日短くできるという。主にタイにとっていい話ということか。
セゾンカードに海外ATM使用手数料がかかって随分たつけど国内にあわせただけか。10000まで105円10001円から210円。キャッシングの金利が年18%だから最小1.5%最大で3%弱だな。
すっかり忘れていたけどスルガ銀行のネット銀行に金がはいったままだった。20万くらいある。しかしこのスルガ銀行のVisaデビット、手数料210円にくわえて海外取引事務手数料3%とられるので海外での使用のために作ったにもかかわらず使えない。まぁ緊急用か。
新生銀行に口座つくるのもいいかなとおもってるけど新生銀行のキャッシュカードで海外で引き落としするとVisaのレートにプラス4%。ふーむ。
インドの3Gインターネット事情 世界攻略者(フォートラベル)
レーの情報をみていたらとっととレーに行きたくなってきた。
丸中工業所にメール出していたら返事がきていたのにGmailの迷惑メールに自動ふりわけされていて気がつかなかった。こんなこともあるのか。おそろしい。
指付ベンハータイプは130番の他に135番、150番があるらしい。といっても添付してもらった写真をみるかぎりでは130番と135番のちがいは色だけのような気がする。買ったサンダルは地味な茶色のものがなく、しかたなしにその中では一番落ちついているようにみえる濃緑のものを買ったのだが、色の組み合わせからみて買ったものは135番のようだ。150番の白というのもあるのだが、これも型はおなじようにみえる。
丸中工業所によると、このタイプは海沿いで販売されているところが多いらしい。ザ・シューズというところに卸しているということだったので今度さがすときはそれからさがすことにしよう。あとは忍海のマツビシゴムと小田原のマツシタ靴店が一足から対応してくれると紹介してあった。まぁネットで買うのは実物がどんなもんか知ってからだな。
ザ・シューズの系列で東京靴流通センターというのがあるが、最初見にいった24号の店舗がそれで、そこに見にいってなかったのだからまぁないのかもしれない。もっとも指付ベンハータイプがなかっただけで、他のはあったからやはり店によってはあるのかもしれない。
気象レーダーをみると九州南部に前線があってザーザー降りだ。よかった。宮崎に行ったりしないで。思ったことができてるかどうかはともかく。
DPZ:遠足として120キロ歩く
こういうのよろこんでやるけどな。
結局サンダルは忍海の販売しているところまで行ってきた。直接小売はしないらしいのだが、たまたまヒマだったようで相手してもらえた。130番の他に150番というのが指付ベンハーサンダルらしいんだがそれはなく、130番があった。LとMしかなかったがとりあえずLをはいてみたらちょうどよかったのでそれを買った。次から130番をちゃんとサイトに乗せるらしい。
その後丸中工業所をみにいった。24号沿いなのでこないだもここを通ったことになる。対面の空家になった喫茶店に見覚えがあった。
再度御所にいき、くるりとまわったあと、竹内街道を通って太子町にでた。推古天皇陵をみたあと大阪府立近つ飛鳥博物館みてきた。
前に一回来ただけあって、見覚えがある。前は正面の古墳群の方から来て古墳群の方から帰った。今回は自転車なので裏の駐車場についた。ここはバスなりなんなりで歩いてきて古墳群をみていった方がおもしろいとおもう。
ここの常設展示は古墳。そういうと土器の明器だが、副葬品に生活器具のミニチュアを供える習慣というのは半島にはないらしい。いやたしかにそういうの中国でみるものと瓜二つだとおもってたんだよな。朝鮮人が来て文化を教えたのだホルホルみたいなこと言われるけどたぶん「文化」らしいものをもってきたのって大陸人だよな。三国史記の百済の分も読んだけど、漢字輸入しましたパチパチみたいなことが結構後になってでてきてるし。楽浪郡とかあったのに何してたんだっていう。
特別展示は「百舌鳥・古市古墳群出現前夜」というもので、堺の方にある巨大古墳の時代の前をあつかったもの。近所の垂仁天皇陵もその対象となる。宮内庁の陵墓指定地って発掘されてないのかとおもいきや、結構盗掘とかされててそれが残ってたりする。垂仁天皇陵(宝来山古墳)は奈良の北の方のといっしょに扱うものらしく、その集団の中では一番早いものだという。
ここには図書コーナーがあって、過去の特別展示の図録なんかも置いてあるが、こういう古墳グループをまとめてあつかった展示を過去にもしていた。応神天皇陵って誉田八幡宮があるからあれでまちがいないということになっているらしい。
その後どうするか考えたが、とりあえずどっかで野宿するにしても次の手がおもいつかないので竹内街道をまたもどって帰った。帰りにまた当麻寺にいってみた。もう5時間近で誰もいないのがよかった。
中将餅を買ってみたが、よもぎ餅でつくった赤福だな。こっちの方が赤福よりうまい。
インドビザ受け取ってきた。シングルで申請したのに6ヶ月マルチになってた。
鶴橋の商店街もボロいなと気付き、鶴橋でおりてぐるぐるまわってみたが目当てのサンダルがみつからない。鶴橋の雑貨屋で聞いてみたらないということだが、今履いているものと主人がはいているものがおなじであることから、どこで売っていたのかという話になってどんどん話がはずんでしまい、30分くらいしゃべってしまった。やばい。ビザ受取りの時間が減る。その後時間を気にしながら玉造商店街を通りすぎると、あぁそうこれこれというような履物屋があったが、やはり見付けられず。
そこから難波宮跡の南を素通りしてみつけたのがこれ。大村益次郎がここにあった病院に収容されたが治療の甲斐なく死んだので碑がたっているということらしい。昭和十五年なので皇紀二千六百年記念のものだろう。
ビザを受けとった後、松屋町などをあるきながら日本橋まで歩き、またマイクロUSBケーブルを買った。ブランドは変換名人。3mで380円。また後悔するのかなとおもいながらも芯線を太くして被覆を極薄にしたかわり、ワイヤーを芯にいれて補強し、アルミで被覆しているという点が好印象だったのでつい買ってしまった。帰って差してみたが、勝手に接続が切れたりしない。これはいい。
ただ、店員がいうには線が長いので電流が足りず充電とかできないかも、ということだ。たしかに充電量が増えてないような気がするが、テザリングでつなげてたら満充電になっても繋ぎつづけてしまうことになるのであんまり電池に優しくなかった。増えないくらいでいいとおもう。
最近脳みそを絞るような、そういう使い方してないな。こないだ大峰奥駈で体を酷使してみたから、頭も酷使した方がいい。なんかそんな気分になってきた。
なんでそんな気分になってきたんだろう。晩飯としてモヤシ二袋と玉子3個食ったせいだろうか。後頭部に謎の小さいコブが二つできたからだろうか。いやコブは何かの病気の可能性がある。単純に夜更ししているからだろうか。つまり寝た方がいいということか。寝よう。
今朝N-08Dでテザリングできなくなったうえなんかおかしくなったのでドコモショップにもっていったりして時間がかかった。こないだ日本橋で買ってきた巻けるケーブルがおかしかったようだ。うーむむ。普通のケーブルを買えということか。
すこしさがせばパール印のゴム草履くらいあるだろうと、24号沿いのところをさがしてみたがみつからない。せっかく大和郡山のあたりまで行ったので郡山の市内の古いところを行ってみたが、今日は日曜で、そういうところほど休んでいそうなことに気付いてしまった。
一軒だけ荒物屋みたいなところが開いているのをみつけたが、パール印のサンダルは甲まで被っているタイプのものしかない。昔は草履タイプのものも置いていたがとか言っていた。ただ、そこでカタログみたいな紙切れをみせてもらったので、110番のいわゆるギョサンのほかに130番という足の甲に帯のあるタイプがあった。イランでサンダルといえばこのタイプだ。これがほしいなぁ。
ということで、やはり忍海に行くしかないということだろう。その後ついでなので西大寺のあたりもまわってみたが、見付からなかった。奈良市内の方がよかったか。
成果はあったがかなり無駄だった。
丸中工業所 製造元
松菱
松菱のサンダル通販
130番は指付ベンハータイプというらしい。映画で命名か..
SOHO PLAZA - パナソニックの小規模事業所さま向け直販サイト
Panasonicに法人向けという名義の通販サイトがあるのをみつけてしまった。というか20万とか30万とか。高い。
ズボンを朝洗ったのでどこにも出掛けられない。
嫌韓宣言(´∀`*) : 【野球】韓国人「イチローの30年発言は、韓国記者の歪曲だった…」【韓国の反応】
湿気たズボンのままでかけた。天気がよかったのですぐ乾いた。
今日のプランは市尾駅から御所方面をいき、忍海から帰るというものでうまくいった。ただ、サンダルのサイズがやっぱり足にあわないことがわかった。今日は御所市にいっておきながらパール印のサンダルの製造所をそれと知らず通りすぎてしまった。歩いているから引き返すのが面倒くさい。歩いてかかる時間のことを考えれば、やはりここまでも自転車で来た方がいいんだろう。その方が見れるものが多い。まちがいない。
市尾駅 → 目の前にある古墳 → 北の方にあった大己貴神社 → 斉明天皇陵は素通り → 神武天皇神社 → 水平社博物館は素通り → 孝安天皇陵 → その横の金比羅さん → 金比羅さんの横の岡 → 満願寺 → 役行者たらいの森 → 吉祥草寺(役行者誕生所) → 御所市街地 → 近鉄御所駅 → 丸中工業所を見付けられず → 忍海駅 → 葛城市歴史博物館 → 角刺神社 → 飯豊天皇埴口丘陵 → 近鉄新庄駅
孝安天皇陵: 邪馬台国出現
孝安天皇陵とかにいったのはその周辺に卑弥呼の墓があると主張してる人がいるのでどんなもんかとおもって見にいったんだが、昔読んだ内容よりも今のこの人の主張は発展していて、どれが卑弥呼の墓とか言わなくなってこの丘陵にある尾根全部が手の入った古墳という風に変化していた。実際言ってみて歩いた感触ではやたら平らな尾根なのでなんらかの形で人の手が入っているのはまちがいないだろう。
この山が玉手山で、右端のこんもりしたのが孝安天皇陵。右の写真は尾根にある金比羅さん。そこからそのおっさんがわざわざ発掘までしたNo.1の丘を見にいったんだがずーっと真っ平で歩きやすかった。
その北のあたりは役行者の生誕地ということでそれ関係のこじつけっぽいものがいろいろあった。
しかし
ただ、駅前で↓これはないとおもったな。ほかにも二階の窓の鍵のところが壊されたままになっている家とか放置してあった。
昔は周辺の田舎の人がここに集まって買物とかしてくれてたけど、車が普及して、国道沿いの大型店舗が発達すると、わざわざせまい街中まで入っていく人がいなくなって、普通の商店街は死に絶え、金持ち向けとか販路の狭い特殊な店だけが生きのこっている、そういう街。
本屋とか本当に痛痛しかった。
まぁ時代の流れだからしょうがないよね。中途半端な家はドシドシ潰して、古い家をのこしていけばそういう観光地として生き残れるんじゃなかろうかとおもわないでもない。田原本よりも可能性がたかい。でも古い住宅地も端の方は新しい味気ない住宅に置きかわっているから、かなりの部分がそういうどうでもいい住宅地化するんじゃなかろうか。
葛城市歴史博物館は古代が充実していた。まぁ奈良だから当然か。江戸〜近代がすっぽり抜けてた。竹内街道の展示をやっていた。東北の縄文土器なんかもでてくるそうで、それくらい古代からの交通路であったそうだ。難波と結ぶ経路は難波からまっすぐ南に行って、竹内街道と交差していた。四天王寺→平野→柏原みたいなラインだと勝手におもっていたので意外だった。
あとは飯豊天皇関係かな。日本書紀に、飯豊皇女は一回セックスしてどういうもんかわかったからもうやらないと言ったと書かれたような人だ。
雄略天皇のあとの白髪天皇が子無しで死んで、雄略天皇がぶっころした皇族の子供が後継ぐことになったけどとりあえずその繋ぎで政務をとったとかなんとか。正式には天皇の数に入っていないが、天皇としてもいいらしい。最初の女帝ということになる。
この神社の鏡池には中将姫が織りあげた曼荼羅の蓮糸の蓮があるとかなんとか。男に縁のなかった女が繋がっているということか。
満洲国とか汪兆銘政権とかの日本が中国を取っていくにしたがってつくっていった政権をあつかった『ニセチャイナ』という本がでたらしいので買いたい。いや買うと荷物になるな。とりあえず読みたい。これを書いた広中という人について『「華中特務工作」秘蔵写真帖』がもとの論文よりも情報の質が落ちてると悪く書いたが、ようするにオレみたいなミジンコが気にするような細かいことよりももっとデカいことをやってたようだ。
最近朝早く起きれなくなっている。
昔の携帯からN-08Dにアドレス帳を移そうとしているが赤外線ポートがないのでファイルで移すことになるんだが移し方がわからん。面倒くさいなぁ。
VCFファイルをUTF8に変換してVCFファイルを電話帳アプリで開いたらできた。
せっかくなので連絡先変更のおしらせでもしようとおもったが、このspモードメールアプリ、BCCができない。うーむ。まぁいいかと、連絡先のグループごとにすこしやってみたが、寮関係の知りあいに出してみようとしたときにやっぱりメールアドレスが晒されたままだと問題ありそうな気がしてきたのでやめた。まぁいいや。移せたから必要があるときに出すことにしよう。
国立国会図書館デジタル化資料 - 国語綱要 : 普通教育
よく使われる変体仮名一覧
ANAの株主優待券つーのが二枚あるのだが、金券屋にいっても大した額で買ってくれないので自分で使おうともおもうがやっぱり飛行機は高い。宮崎に行くとしても1万円余りになる。うぅむ。
宮崎カーフェリー
これをみればわかるとおり二週間前に予約すればフェリー使用の駅から駅で7800円になる。まぁフェリーの普通運賃と飛行機はおなじくらいだから株主優待券も使い手はなくはないのだが夜行バスを駆使した方が安いのは変わらない。
月曜インドビザを受けとったついでに飛行機で宮崎いってくるかな。
百济人《祢军墓志》考论 - 共享资料
唐代百济移民祢氏家族墓志相关问题研究
『善隣國寳記』→ 国立国会図書館デジタル化資料 - 史籍集覧. 21
わずか9000円台でマイクロソフトのタブレット「Surface RT」が販売されることが明らかに - GIGAZINE
アメリカのカンファレンスの話。そもそも参加者は高い参加料を払っているのでわずかというのはいいすぎだろう。
来週も梅雨らしく雨つづきか。宮崎にいく気がしぼんでくるな。
機内に傘は持ちこめるらしい。
土日のどっちか御所市
月曜 インドビザ受取 → 飛行機で宮崎
火水木金くらい宮崎
土曜くらいに戻るくらいの予定か。行くとしたら。
宮崎市の宿泊できるネットカフェ
ウィークリー&マンスリー宮崎 3泊以上かららしいがこんなのもある。
ホテルマリックス ここはカプセル付設で2500くらいらしい。市街地西部
阿蘇 熊本 リトルアジア 南阿蘇 一泊1500
ゲストハウスいわと 高千穂町 一泊1500 寝具500
熊本空港は阿蘇くまもと空港といってすこし内陸にあるようなので、宮崎空港→熊本空港というプランでいくといい感じに高千穂とか行けそうだ。梅雨であること以外は結構いいんじゃないか。
ただし飛行機代で23000くらい飛び、あと一泊2000円くらいとして5泊で10000、その他移動・飯と考えると五万円くらいが一週間で飛ぶのか。そんなに金かけて見物しにいくのかと思うと無駄な気がしてきた。寝ころがって本読んでたら全然金かからんしなぁ。
ズボンのスソが臭い。これは放置できない。また硫黄石鹸で殺菌&乾燥だな。
FZ-G1を大量に導入したのは大林組
インドビザの申請に行ってきた。まずWeb申請をして印刷し、その翌々日以降にビザセンターに行って写真(5cmx5cm)と印刷した書類と金をもっていけば終わり。受取日を指定された紙をもらう。木曜だして翌月曜(6/24)夕方受けとりだから二営業日後ということでかなり早い。
もう時間ギリギリにいってしかも鋏を忘れたからスナップ写真の状態のままもっていったがとりなおしてこいといわれてとりなおしたりしても待っててくれた。ありがたい。インドのビザのことだからもっとひどいのが来るので心が広くなっているんだろうか。
その後日本橋の「はきはきタウン」にいって一体成形のゴム草履をさがしてきた。初めていったが「はきはきタウン」が「でんでんタウン」につながっているとはおもわなかった。結局目当てのものは見付けられず、あやしいゴム草履しかなかったのでそれを525円で買ってきたが、帰りにネットで探すと、前買って随分具合がよかった「Pearl」のゴム草履は「ギョサン」という名前で一部で有名になっているらしい。ギョサンとは小笠原での愛称である。まず漁師の間で評判になったので「漁業従事者用サンダル」ということでギョサンとなづけられ、小笠原では普段履きとして使われていた。そこからカラーのバリエーションが増え小笠原の名物土産となり、さらにそれを小田原に持ちこんだ人がいてまた広まったということであるらしい。そんな具合でネットならギョサン専門店なんかもある。どうもダイビング筋で有名になっているようだ。
小笠原とか小田原とかでてくるが、「それ」自体を製造しているのは奈良県御所の業者だった。なんと。そうとわかっていればあんなできそこないのあやしいゴム草履買ってくるのではなかった。ちなみにPearlの他にダンヒルとかいうブランドもあるらしいがそれをつくっているのも御所の別の業者であるらしい。
PEARL 成型サンダル
↑これがその業者のサイトだが、小売はしないというだけあってサイトもごく不親切だ。
天王寺の臭い菌で一度臭くなったサンダルだが、やっぱり一度ついたら取れないようで、今日も臭かった。まぁ大阪に行ったせいでその辺を浮遊している臭い菌がついて足の熱で増殖してたちまち臭くなったのかもしれない。もうこれからは一体成形のゴム草履なので臭さで困ることはなくなる。この臭くなったサンダルはこれからベランダ用だな。
そういうと今日は Surface pro さわってきた。
横に店員がいて放置してくれないのであんまりさわれなかった。オプションのキーボードがあるが高い方が絶対いい。
天気図をみると梅雨前線の両端に低気圧があってなかなかすごいことになっている。しかも48時間後の予想天気図をみるとその一端の低気圧(台風)が前線と融合して更に南に下がることになっているらしい。
恐怖のアルコール その1 (酢を昼間から飲んでいた酒豪のクラスメートの謎がようやく解けた) : 場末P科病院の精神科医のblog
そういうと今朝10分ほどの間に夢をみた。
自動運転の親の車に乗る。運転席に人がいない自動運転に一抹の不安。トンネルを抜けると橋が壊れている。そのまま増水した川に落ちる。ドアからなんとか出て石か木かなにかにしがみつく。親はどうなったかわからない。
明治の大峯参り - メモ@inudaisho
こういうの書いた。
近鉄の無人駅
吉野線 薬水・市尾・葛・大阿太・越部 (非自動改札)
御所線 近鉄新庄・忍海 (自動改札)
すごい雨がやまないんだがまだ降りつづくんだろうか。
こないだ日本橋にいったとき、SDXCカードに128Gというのが出ていた。そのうち256Gとか512Gとか出るのかとおもうとワクワクする。でもあんまり小さいので、変な国にいったりすると国境の荷物検査で故意に壊されたりしそうだなぁ。
SS4つーのを6/12の夕方ローソンからFAXしたら今朝方FAXでとどいていたらしい。速!
でもよくよく調べると4営業日で届くらしいから遅いのかも
chromeの拡張のフォーマットのバージョンを上げないと一週間で使えなくなるらしい。放置しようかとおもったが今見ると450人もユーザーがいるようなので放置するのもかわいそうだな。しょうがないから対応するか。
→あんまり変えるとこなかった。
チキンラーメンで無人島サバイバル 日清食品過酷研修 - SankeiBiz
チキンラーメンそのまま食えるやろ。火を自分で起こせるのはすごいな。とおもったが写真をみるとはずみ車のついた火起こし道具を使っている。なーんだ。
インドビザの申請めんどくさすぎる
国立国会図書館デジタル化資料 - 夜行富士登山・大峯登山冒険修行
明治の大峯山まいりの様子がよくわかる。一種の男児の通過儀礼として田舎方面で推奨されていたらしい。まぁたしかに暗がりの中に入ったり、踏み外したら死ぬようなところを歩いたり、崖から吊ったりするのは根性試しみたいなもんだしなぁ。この本では金剛山にまいってから大峯山にのぼっていた。
富士登山の方もおもしろい。明治35年だから江戸時代とそんなにかわらんはずだ。
菅政友すげーな。
水戸藩の学者で明治維新後には石上神宮の宮司になって禁足地の発掘なんかやって七支刀とか掘りだしてんのな。古事記のある本に書き込みしてある天皇没年の干支が日本書紀と違うのをみてその干支にもとづいた紀年の復元なんかもやってる。任那の記事を集めることもやってる。
任那をみまなと読むのはミマキ天皇(崇神)のミマキからとったということになってるな。菅政友のによると。
しかしこの『任那考』日清戦争の直前に書いてるから今はあんまり読まれないんだろうなぁ。
古代史はある程度より昔になると証拠がなくなってきて頭の体操でしかなくなってくる。まぁ歴史なんてもともと正解がないか。
鍋もないのにカレーのルーだけ買ったのを放置していたのだが、思いたってカレーのルーを湯に溶かして飲んでみた。そしたら午後眠くなって寝てばかりになった。
眠くなったのは夜中に本読んだせいかもしれない。
實に然り、されば修驗道の教義は決して難解のものに非ず、小學校にて教ゆる苦は樂の種、努力は成功の母なる眞理を理想として之を實行せんとするものである。只併し乍らその實行に當つては單に之を信念の力のみに賴るの危險なるを慮つて宗義の力、卽ち信仰の法力によらしめんとするのである。なるほど近代精神は修験道にも胎胚していたのか
国立国会図書館デジタル化資料 - 吉野群山と熊野. 昭和13年版
日本書紀がついに天武天皇まで読みすすんだ。壬申の乱くわしすぎる。明治の終りのころにでた国史大系本なので注釈解説などほとんどなく、普通に漢文を読む調子で上から下に読んでよくわからんとこはそのままとばしているから速い。
白村江の敗戦のあと、唐や新羅の使者が何度もやってきてその都度ものすごい量の贈り物してるけどあれは賠償金もしくはタカリにきてるんだよな。唐なんかは1000人規模のものすごい使節団なので軍隊みたいなもんだったんだろう。新羅と唐が戦争したあと太宰府から唐人の生口30人送ってきてるけど、一部で言われているように唐軍が駐在していたのかもしれない。ただ、日本は百済の亡命人士を関東に送って残しているので占領はされていないのだろう。新羅が唐の戦争捕虜を送ってきたのか。百済滅亡後も百済から使者が来てるのは唐の百済駐留軍政府から来てるということだな。あと高句麗滅亡後も高麗の使者が来てるんだがこれも唐の駐留軍か。
日本の任那におけるプレゼンスの消失がなぜか二回のっているが、その後も任那は存在して日本と使者のやりとりしているので、向こうからすると新羅の力を借りて日本から独立したみたいな形になるのかもしれない。
伊勢市に古事記好きの元寮生がいて車引きやってるらしくfacebookの知り合いかもとかにでてくるんだがそれをみると神代文字を書いてたりする。歴史の家庭教師とかやってるらしいが革命なんかおしえてよろこんでるらしい。オカルトに弱いタイプだな。伊勢市のゲストハウスで古事記を語るトークイベントみたいなのをやってたらしいんだが行かなくてよかった。古事記とちごてホツマツタエとかやろ。
旧唐書をみると高句麗のあとは朝鮮王がたてられ、百済のあとは帯方郡王がたてられていた。朝鮮王は靺鞨と結んでなんかしたので廃され、帯方郡王は任地に向おうとせず、新羅にとられるがままになっていたとか。
図書館に来たのだが、なんか臭いとおもったらサンダルから異様な匂いがする。大阪の天王寺を通ったときにあのへんの異臭の菌を拾ってきたようだ。中国で買ってきた硫黄石鹸の出番だな。
もう6時まわったから気温もすこしはさがったかとおもって今日の観測値をみると、13時に30度に到達してから全然さがっていない。朝方は21度だったらしい。昨日の17時から今朝の6時までずっと21度台だったようでなかなかデジタルな変化をしているようだ。
菅政友全集
"delhi airport" で画像検索してびっくりした。
図書館行く前に日本書紀目を通し終えた。図書館にいったら手際よく纏めた本とかあって、やっぱり忘れていることばかりだった。
暑いのは勘弁してほしい。特に最低気温が20度越えるとつらい。
日本書紀、ついに聖徳太子がでてきて四天王寺ができた。今日は四天王寺でも見に行ってくるか。
とおもったけど天気が微妙だな。確実に雨が降る。
単純に運賃の問題で鶴橋で降り、西へ。上町台地というのがどんなもんかわかった。生国魂神社から南下して四天王寺。うーむ。あんまりおもしろいもんでもないな。四天王寺が台地の高台の南端にあるというのはわかった。明治の地図でも大阪の市街地はこのへんが南限になっている。生国魂神社の前が栄えていたというのも今日行って知った。
四天王寺から天王寺の駅にいき、天王寺公園の間を通って日本橋をのぞいて帰ってきた。日本橋でリールでまけるマイクロUSBの端子を買ってきたが、ダイソーでも売ってたので負けた気分だ。今日本橋行ってもあんまりおもしろい新商品がない。
ドスパラで自転車にスマホをとりつける器具が売っていたのをみて、N-08Dを自転車に取りつけるものを探せばよかったとおもったがもう北の端まできてしまったのでそれ以上さがさなかった。まぁ7インチのデカいものは固定もしづらいので売ってないかもしれない。
→ さがしてみた。なくはないけど買うよりは自作した方がいいかもな...
朝から暑い。ベランダ全開にして外気をいれないと生きていけない。
『福井県史』通史編全6巻
福井県ってこんなもの公開してるのか。太っ腹だなぁ。
三国史記の年が正しいとも限らないようだ。新羅が倭との関係を断って高麗についたときに高麗の駐留軍を殺してしまった事件というのが日本書紀に書いてあるが、この事件の年も新羅と高句麗で違う。
いつのまにか寝てしまい目が覚めたら部屋が猛暑となっていた。これベランダ開けてるから熱が逃げてくれてるだけで閉めきってたら蒸し焼き状態なんだろうなぁ。麦茶がうまい
下でネーチャンが携帯でうだうだ話をしている。なんか事故をおこしたらしい。そういえば午後車がどっかにぶつかったような音がしていた。自損かなんかしらんがなんでずーっと外にいたりするんだろう。車のアイドリングの音もしてたな。
この一週間は暑いらしい。しかも日本中どこも暑いようだ。ぐぬぬ。
しかしこの外気のここちよさからすると、単純にこの部屋が暑いとするのが妥当なようだ。さすが名目上倉庫なだけはある。
欽明のころになってようやく任那日本府ってのがでてきたけど微妙な感じだな。
屯倉 - Wikipedia
ここにあるようにミヤケなるものを半島に作ったというだけなのかもしれない。まぁまだ国がなかった時代だからそういう支配形態もありえたのだろう。
しかし卑弥呼の一世紀半後が雄略天皇でその一世紀後が聖徳太子なわけだから結構短い。江戸時代程度とおもえば短さもわかる。その半世紀後が大化の改新なわけで、まぁ戦国時代から明治維新程度だとおもえばイメージもしやすいしあぁなるほどとおもわないでもない。
今日も関西は死ぬほど暑そうだ…
伊勢に行って外宮と内宮をみてきた。
あんまりおもしろいもんでもなかった。二枚目が外宮。三枚目が外宮。観光客でいっぱいだった。小さな行列ができるほど賑やかだった。中には熱心に拝んでいる人もいた。
しかし伊勢市は全体に古い建物があまりのこっていない。外宮から内宮まで歩くのに三つルートがあり、一番古いルートをたどっていったが、住宅街に転換していておもしろくなかった。遊廓の面影を残したところがあったがそれだけ。昔は複数の建物だったのを今は全部一つの旅館が使っている。まぁ地形はわかった。
内宮の前は比較的古い建物がのこっているがほとんどが改装されて観光客向けのあざといものを売るところになっている。まぁもともとそういうところだろうといわれればそうだとしかいえないが。赤福と伊勢うどんをとりあえず食い、あと甘酒と梅酒をちょっとのんできた。内宮の前はこんな感じだが、外宮の前は昭和の香りがのこる商店街が死滅しかけている感じがなかなかよかった。
河崎というところが川沿いの商家街になっているということで行ってみたけどここもほとんど商店としては機能しておらず、古い建物を改装して観光客をあてこんだサービス業にしているところが目立つだけ。
と、そんな感じで今日の一日は終わってしまった。伊勢市にはちょっと前まで市立の郷土資料館があったらしいんだが、閉まってしまったらしい。惜しいことだ。なんか無駄に一日過ごした感じがする。暑かった。
しかし帰ってきたらもっと暑かった。部屋の中のあらゆるものが暖かい。おそろしい...
そういうと日本書紀はついに雄略天皇のあたりを突破したが、仁徳のあたりから嫁が怖いとか女とられたとかそんな話ばかりになってくる。その間に結構重要な事が書いてあるから史書はあなどれん。雄略天皇のころに刑法制度を整えただろ。かぐだちとかやってたのがなくなった。大悪天皇とかなんとか言われたのは刑罰が厳しかったからだろう。
雄略天皇がエコ贔屓したのは史部身狭村主青と檜隈民使博徳とか書いてあるがこの二人が「呉」(中国の南朝)に使者としてしょっちゅう送られているので彼等が文物の輸入を担当していたんだろう。おそらく仁徳のころはまだ技術輸入が先行してて雄略のころに制度文物の輸入が始まったんだろう。だからそのころから記録が密になっているんだろう。
任那日本府なんてない。しかし朝鮮半島に日本の勢力がなかったわけでもない。日本書紀の記述だけみても任那王がちゃんといてその下にヤマトの豪族が送られている形になっている。秦氏は秦の棟梁の指導下一体となった存在..なんかではなく、砂のような存在であちこちに分散し、各地方の豪族がちょっとづつ勝手に使っていたらしい。まぁもともとがそういう半分奴隷のような存在だったんだろう。
あとイザナギとかイザナミって淡路島の神様だったんじゃなかろうか。たぶん淡路島の生成神話くらいしか世界の創造っぽい話がなかったからそれが日本の生成神話にとりこまれたんじゃなかろーか。
ネットでみてると古事記と日本書紀の比較で日本書紀には木梨軽皇子の近親相姦がぼかしてあるとか書いてあったところがあったがモロに書いてあったぞ。しかもそれが原因で支持をうしない天皇になりそこねたと書いてある。でも一書に曰くでは殺されずに、近親相姦相手の流刑先に流されたとも書いてあるから温情的措置がとられたのかもしれない。
そういうと、雄略天皇に「一晩寝た相手が妊娠したので信用しなかった」話があった。天孫降臨のニニギとおなじ話だが、こっちはある大臣がその話を聞いてつづけて「一晩に何発やりました」「七発やった」「世の中には褌がふれただけで妊娠する娘もいるのにそんだけやったらできてもおかしくない云々」みたいななんというかおおらかな筋になっていたりする。
垂仁天皇陵こそが安康天皇陵じゃないのかな。
むぅ。目だけは早くさめてしまう。
Kindleで出した本が合計3冊も売れてて目を疑った。うーむ。まぁでもこれが現金化できるほど売れるんだろうか。
やっぱり疲れがたまってるようで気がついたら寝ていた。暑い。
レッツノートAX3んんんんんんんんんほしぃぃぃぃぃぃぃ
とおもったがSSD128Gだけなのか。携帯に便利なように → 薄く軽く → 余計な重さはもたせれないということか。うむむ。まぁ母艦がもちはこべるノートパソコンとかいうオレがおかしいのかもしれんが。
というかFZ-G1が中古で出てきたらそれでいいっちゃいいんだけど。
日本書紀も神功皇后のあたりまで読んだわけだが。
卑弥呼に対して箸墓古墳のヤマトトトモモソ姫とか神功皇后をあてるという発想がでてくるのは日本書紀の彼女らに対する巫女的な記述をみてたらなんとなくわかってきたが、それ以前に当時の日本には女性首長がやたらいっぱいいたことがわかるので、巫女的な女が指導権を握るのが当時は一般的で、ヤマト政権みたいに喧嘩上等な方が珍しかったのではなかろうか。
日本の商業古代史業界が妄想に満ちている原因が日本書紀自体にあることもわかってきた。神代巻の各論併記はたいがいだしやたらあやしい話がでてくるし文章を雑に繋げている感じがするし。要はそのころの歴史記述はおはなしレベルでしかなく記録がされるようになったのもかなり遅く、残っていた記録自体が錯綜していてなんとかコジツケてマトめた成果があれだということなんだろう。たぶん古い記録になればなるほど年代なんてあってないようなもんだったんだろう。
ニギハヤヒとスサノオとオオクニヌシってどういう関係なんだ?崇神とヤマトトトモモソ姫ってどういう関係なんだ?ヤマトタケルの子が天皇になったけどその嫁が神功皇后で、ヤマトタケルの兄弟の先代の天皇と同年同日生まれの武内宿禰が神功皇后べったりってどういうことだ?あと神功皇后最初の子供は天皇死ぬ前に妊娠したけど石で腹をおさえて生まれないようにしたということで説明してあるけどその後サラリと弟もできたみたいなこと書いてあるぞ。ナメてんのか?
古事記もどんだけ違うのかとおもいながらみてみたけど案外大筋は似たようなもんだったりするのが意外だった。四道将軍が古事記にないとかいう話があるけど似たような事書いてあるし。むしろ一書に曰くみたいなのがないから微妙な感じが。あと古事記の漢文よみづらい。
台風完全に東に行ったようで、松阪の漫画喫茶にとまって今日伊勢に行ったほうがよかったのかもな。いやいやそれだといろいろ困ったことになっていた。つまり雨が降ったらおとなしく雨宿りして休憩して滞在を長くしていた方が結果的によかったということだ。過ぎたことはしかたない。
切符をなくしたのはむしろもっと新宮にいた方がよかったということかもな。
重症熱性血小板減少症候群 - Wikipedia
たしかに今朝ダニが足に噛みついていて血を吸って膨れていたのでちぎってすててつぶした。外し方がわるいと頭がのこったりするらしいので医者に行くべきらしいが無事取れた。
この部屋確実に暑い。
日本書紀の紀年は5世紀後半の雄略のころからそれっぽくなるそうだ。在位年数も実在っぽくなるらしい。たぶんそのころ記録をつける習慣を輸入したんだろう。ひょっとしたら日本書紀なんかに残されるそれ以前の記録が文字化されだしたのはそのころかもしれない。そのへんまでは読むか。
そういうと暗闇下山中にすべりまくっていたとき、一回カバンの上に体を落としたことがあり、ついにレッツノートも壊れたかとおもったが大丈夫だった。これでまたレッツノートへの信仰心がたかまってしまった。
新宮から日本一長い路線バスにのるよりも鉄道で松阪迂回した方が安い事に気付く。 しかも朝一の新宮行きに乗りおくれてしまい、新宮に行くなら帰りは鉄道になることが確定する。しかしそれはよい選択であっただろうか。そのままバスにのって新宮にいかずに帰っていればよかった。
湯の峰温泉から新宮に行くバスにのり新宮に近づくと天気があやしくなってくる。新宮市内に入ったら小雨になっていた。本宮の観光案内所でもらった地図を参考にまずは高倉神社へ。要するにこの岩が御本尊で、高倉神社のところにあった神社が下に移動したから新宮の速玉大社は新宮であるということだ。今ある高倉神社は新しく作ったもの。
その後速玉大社にいくわけだが、観光案内所の地図を鵜呑みにして、岩のある山の中にある道をたどってみたらこれがひどかった。昔からの参詣道ではないところに環境省が散歩道をつくったものであった。道が山腹にある時点で気付くべきだったが、最初はそれなりに険しいのでこういうもんかとおもってしまっていた。高倉神社の時点で雨は激しくなり、シーツをカッパがわりにして山の中の道なき道を歩く状態になってしまい後悔してしまうがもう遅い。一時間半くらい無駄に濡れながら歩いて新しい靴も濡らしてしまい、なんというかもう。
しかもその道の速玉大社側の出口にある家が、人が軒先通る状態に文句をつけたらしく、その道は廃用状態になっていたらしい。まぁ熊野川沿いの崩落もまだ手がつけられていない状態だからこんなところは手もつけらてないということだろうか。どうせ東日本大震災に優先的に予算つけたせいでこういうところに金回ってないんだろうけどな。
出口にある家のおばはんはこの山には殺人ダニがいてすぐ噛まれるとかいうイヤな情報まで教えてくれた。たしかに後で二匹はみつけた。数日後に死んでるかもしれない。自業自得だな。
その後阿須賀神社とその境内にある歴史民俗資料館をみた。新宮には江戸時代にこしらえられた徐福の墓というものがあるせいでこの資料館には徐福きちがいがよく来るらしい。まぁあたりまえだがこの資料館の徐福関係の展示はたいしたことはない。根も葉もないんだからしかたないわな。熊野三山のシステムにとりこまれていて後ろの山から「御正体」(懸仏なんかの仏像)がいっぱいでてくるとか、「熊野」とか新宮城の展示とか民俗展示とかあった。捕鯨だが、その昔は五島列島から出稼ぎにきていたらしい。ということは五島列島の方から伝わった技術だったんだろうか。捕鯨が太地と一体化させられていた時期もあったらしく、そのころ伝わった風習が今でも残っているそうだ。
雨の中駅についたら雨がやんできた。もう新宮に歓迎されていない感じがヒシヒシとつたわってくるがしかたない。本宮もたぶん歓迎されてなかったんだな。シーツは絞れば水が出てくる状態になって何回も絞っていた。靴も濡れて靴下に染みていたので早く乾かさないとまた臭くなるですよもう。
駅についたら丁度鈍行がでたところで次の鈍行が二時間後。とりあえず松阪までの切符を買い、スーパーで飯を調達して待合でたべたあと、こんなとこで靴や靴下など干していてもしかたないのでホームに入ろうとすると切符がみあたらない。2520円もするものなのに。その列車が出るまで荷物をひっくりかえしたが出てこない。しかたないので新しくまた切符を買ってさらにその次の鈍行に乗った。はぁですよはぁ。これなら湯の峰温泉から直接大和八木行きのバスにのったらよかった...
鉄道に乗りおくれたせいで松阪についたころは夜も夜。シーツや靴も濡れたしこれ以上旅行を続行する気もうせてきた。ということでとっとと近鉄で帰ってきている。帰って布団でぐっすり寝たい。
さて9日の朝5時半ごろ行仙宿を出発。昨日山小屋で火をくべて湯をわかし、やかんに入っていたお茶パックをつかいまわしてうすいお茶を大量につくったのでそれで荷物はパンパンだ。だが今からおもうとそんなに水を心配することはなかった。笠捨山から玉置神社までは予想より近かった。しかも岩にしがみついたりするような場所はそんなになく、玉置山が見えたあたりからが長かった。天気は昨日とかわり、高いところに薄い雲がかかる状態にもどり明るくてかつ日が照りつけないという状態。
結局最初のハイペースは玉置山をのぼるときの休憩でつぶれて玉置神社に着いたのが14時前。しかもそのあたりから小雨が降りだしたので参拝者向けの仮休憩所でお茶をガブガブ飲んでいた。気象レーダーでみるかぎりでは広い雲があったが小雨だから大丈夫だろうと舐めたのが大変な目にあう事になった。ダラダラしていたせいで15時前出発。そこから本宮まで大森山のピークを登るほかは大したことないと地形図を大雑把にみていたがそれが大変な間違いだった。急な登りと下りしかない。特に五大尊岳ときたらその比較的大きいのが数個あり、「五大尊岳825m」とでっかく看板があるところが実は853mのところだったところで、何個もピークのある最後が825mだった。それが一番心理的には辛かったが、その最初の五大尊岳の頂上から最後の五大尊岳の頂上まで15分程度で行ったあたり日が暮れているのに焦っているのがわかる。とにかく地図でみているよりもスピードがでない。それに最初は大森山の登りのあたりで雲に突入して、暑いのが緩和されて気持ちいいなどと呑気に考えていたが、おかげでオーバーヒートによる休憩が減った代りに雨でずぶ濡れとなった。
雨はやむどころかだんだん激しくなり、日がどんどん落ちて足元がみえなくなる。昼間はよい日陰になっていた森も日が暮れてくると足元がとにかく暗くなり、落葉が濡れてすべりやすくなる。こういう山道でスベったりすることはそんなにないのに、この時には何回もスベってドロドロになってしまった。さらに道の目印がよくわからず、低い地帯なので脇道も多く、何回か道をはずれてしまった。
最後の最後にあんまり暗いので進めなくなり、N-08Dをライトがわりにしてなんとか、山在峠までたどりついたのが20時ごろ。山在峠というのは本宮の近くの尾根にある峠で舗装された道が通っている。しかし何もないので真っ暗だった。まだ元気はあるのだが、電池の心許ないN-08Dでまた暗い山道に突入するのは無謀すぎる。とりあえず峠にあった「奥駈道」の看板の下で雨をさけ、一時間くらい寝ていた。ただし致命的なことに、それまでカッパがわりにしていた防寒シートを暗闇の下山の最中に落としてしまっていた。ずぶ濡れの状態で明るくなるまであと7時間ほど待つという頭の悪い回避方法で一時間くらい横になって寝ていたが目が覚めると寒さで震えていたのでそれは無理すぎる。そのころには雨も小降りになっていたのでとりあえず山在峠を降りつつ運動しながら乾燥させ、下向橋を渡って本宮大社に行って「上がり」にするつもりだった。
だがしかしおそろしいことに山在峠の下から下向橋にいくまでの間が崩落して行けなくなっていた。わざわざ崩落箇所まで見にいってしまったから間違いない。しょうがないので山在峠の下までもどりそこから西に行って道の駅で寝た。しかし濡れた靴で久しぶりにアスファルトを山道を歩く調子で急いで歩いたので足を痛めてしまった。道の駅についたのは23時をまわっていた。湿気た服の上に湿気たシーツを被って木のベンチの上で寝たが眠れたのでよほど疲れていたんだろう。
さて翌朝10日。そこから大社に歩いていって上がりにする手もあったが折角あかるくなったので山在峠から再開することにした。たまたま近くに停まっていたキャンピングカーのおっさんにカップラーメンをふるまわれてから出発。といっても峠まで1時間40分も歩いていたから遠い。途中廃屋を数軒みつけた。そこで寝てたらよかったが真夜中の上街灯もないところだったので様子がわからずしかたない。
そこから下っていくのも結構距離があり、熊野大社旧社地の前の熊野川を歩いてわたれたのは10時すぎだった。
さて本宮が近づくにつれて温泉に入りたいという思いでいっぱいになっていた。熊野大社で一番偉いのはスサノオで木を植え船を作る技術云々と書いてあったので日本書紀の一書に曰くの中の元ネタの一つは確実に熊野大社関係だなとかいうことはさておき、観光案内所にいって安くで泊まれる温泉がないか聞いてみた。川湯温泉は川を掘ればただで入れる。昨日は大社に行って上がりにしたあと、川湯温泉まで歩いていって、冷えた体を河原の温泉で温めるという作戦だったが、それは真夜中でやけっぱちになっていたから思いつく作戦で、今は充電もしたいし布団で寝たいので温泉旅館に泊まりたい。
というわけで湯の峰温泉の素泊まり3500円の宿にとまった。「くらや」というのが建物に雰囲気があって、候補の一つにしていた。しかも素泊まり3650円で安かったのになぜかそこにはせず素泊まり専門のところにしてしまった。観光案内所でもらったパンフには3000円と書いてあるからふっかけてるのは間違いないんだが、なぜそれでもそこにしたのか自分でもよくわからない。ということで、月曜でほとんど店もひらいていないので、玉子10個買って源泉でゆでてそれを飯にして日記を書いた。洗濯機もつかえたので上から下まで全部洗濯した。
雨で全身濡れたせいでいろいろ計画がくるったが、一番調子がくるったのは靴で、とにかく全部臭くなってしまった。そもそも先が破れるなどしてボロボロになってきていたので捨てるしかない。地図をみると大社のあるあたりにコーナンがあったのでそこで買うのは早くから決めていた。10日に山在峠から再開することにしたのも、コーナンが開くまでヒマがあるからせっかくならコース全部制覇しとくかという理由もあった。旧社地から街にはいってまずしたのはコーナンで靴を買うことだった。980円。しかしすぐはかない。足が臭いから。大社のあたりをみおわって、観光案内所で温泉と帰りのバスの資料をもらってから、スーパーらしきものは道の駅の前の生協くらいしかないと聞き、また歩いていって昼飯を買い、ヨーグルトをガッツリ食って夜飯が貧弱でもいいようにしてからしたことは靴を河原で干してにおいを減らすことだった。まぁそもそも靴が濡れて足がよけい痛くなっている事に気付かず行動していた鈍感さをなんとかした方がいいのかもしれない。ということでその靴は今、宿のドアの前に出してある。置いとくと捨てとくと言ってくれたのだがそのままだと臭いのは間違いないので外に出しておいたのだ。
しかし温泉すごいわ。お湯がヌルヌルしていてスベスベになる。ただ、日本最古の温泉とか宣伝してるわりにはWikipediaの古湯には名前もでてこないな。
深仙宿の小屋は寒かったが、シーツをかぶって寝ると息が自分スチームとなり、ブルブル震えずに済んだ。
荷物は最初いつもの肩掛けカバンとシーツに食糧をいれたものの二つだったのだが、それが足手まといだということに金曜気付き、シーツを短くしばって肩掛けカバンの上に乗せるようにした。それでかなりうごきやすくなり、元気もでてきた。なんだかんだ言いながら元気よく進めていけているので、前鬼で降りるのが惜しくなり、降りずに南下することにした。
しかしそれがよい選択でもないことがわかった。弥山であったおっさんが、奥駈南ルートは山も低くて景色もそんなによくないしアップダウンもきついから前鬼で降りた方がよいと言ってたいが、それに加えて暑い。山も名前がおもしろいだけで特に代わり映えもしない。
行仙宿の小屋について水をくみにいったら予想以上に低いところにあり往復するだけで一時間かかった。降りるときに鈴の音がしていたので誰か来ていたのはわかっていたが、帰ってみるとその人は山伏で丁度帰るところだった。修行のための食糧を運びこんでいたという。玉置神社でおりるか本宮まで行くかという話をしたら、最後までいくと神仏の加護があるみたいなことを言われたのでやる気がでてしまった。
あと神武東征のルートだとその筋では思われているらしい。まぁたしかに昔の山奥の道は谷筋ではなく尾根筋なのはまちがいないのだが、にしてもルート取りが厳しすぎるとおもわれる。最初の写真の謎の石のある太古の辻という名前もそれに関係しているらしい。
とか日記を書いていたらノートパソコンの電池がついに切れてしまった。暗い山小屋の明かりがわりにしばらく放置していたりしたせいのようだ。ということでこれは後日補筆である。
行仙宿の山小屋に緊急非常食としてボンカレーがあり、金を入れて食ってみたら死ぬ程うまかった。その後腹がなんか重かったが。しばらく乾物ばかりだったので腹がビックリしたんだろう。この山小屋は毛布がいっぱいあって気持ち良く寝れた。
N-08Dの電池は最後までもった。10000mAhのモバイルバッテリーのおかげだ。
また5時に出発。弥山の手前まではたいしたのぼりもなく眺めもよかったが、弥山がキツい。さらにその横に八経ヶ岳という大峰山脈で一番高いところがあり、そっちに登ったら完全にバテた。9時半についたがヘバって10時前まで休憩していた。
そこから南はそんなにたいした道でもなかったが、一部崩落しかけているところがあった。そのうち死人でもでそうな感じだった。水をやたら飲んだので、途中楊子宿というところにあった小屋で休憩したとき、水場で水をくんだ。この山小屋がまた二蔵宿や行者還なみに結構しっかりした建物だったので、そこで泊まるのもよいなとおもったが、まだ13時ごろだったのでさすがに早い。深仙宿までがんばることにしたのだが、建物だけでいうと楊子宿で泊まった方がよかった。今寒さに震えながら日記を書いている。
それはともかく深仙宿の手前にある釈迦岳の北側がなかなかきびしかった。でかい岩が塞がるように立っており、それをいちいち越えていかないといけず、よじのぼったりすることになった。
釈迦岳でダラダラ時間をつぶしていたので深仙宿の小屋についたのが5時くらいになったが小屋がショボい。トタンの小屋だ。まぁ雨風はふせげるが寒いな。火を焚けるようになっているが、残念ながらライターなどもっていない。ということで寒さに震えながら夜明けを待つことになりそうだ。
一晩寝るとなんか元気になったような気がしたので朝5時に出発し、大天井ヶ岳に登ったらなんとか一時間くらいで登れた。で、大峰山寺の本堂についたのが10時半くらい。そこから奥に行くと奥駈コースになるが、まぁとりあえず行ってみた。その前に持っている水分がこころもとなかったので大峰山の宿坊でポカリスエットを買ったら400円もした。まぁしかし買っておいてよかったと後で思った。
さすが世界遺産に指定されただけあって、あちこちに看板があり、道がよくわかるようになっている。宿坊でこの先のルートを聞くと行者還小屋というのがあって6時間くらいでいけるという。あと、途中でいやになったときどこで降りれるかも聞いた。その行者還と弥山と前鬼から降りれるらしい。もう昨日のバテ方でいやになったのでとっとと帰ってもよかったがせっかくなので前鬼くらいまでは行きたい。
バテたとか言いながら大普賢岳も登り、ちょっと脇道に入ってみたりして行者還の小屋には18時ごろついた。バテバテ。ここで南から来たおっさんに会う。本宮からここまで来たそうな。おっさんは前鬼の近くの深仙宿の小屋からここまで一日で来たらしい。もうバテバテで自信もなくなり前鬼まで行けるかどうかという感じだったが、案外近い。前鬼で降りてみようかな。
おっさんはもう終りだからというのでチキンラーメンとピーナツをくれた。ありがたい。塩分がポカリスエットくらいしかなく困っていた。
なんか朝から疲れた感じがするんだが大峰山のぼりにいってくるか。
六田駅着8:40。吉野川のこのの近くに柳の渡しというのがあり、吉野から大峰へのいりぐちになっているから。今は渡しはないので橋を渡る。ちょっと上流の支流をわたったところが吉野山への峰の先になっているのでそこから適当に登る。適当にのぼったわりには世界遺産の石碑もあったのでまちがっていないんだろう。墓場から峰づたいの道にでて吉野神宮にでる。9:30ごろ。ここが丈六平の跡地でちゃんと石碑もあった。吉野にある金峯山寺についたのが10:30ごろ。そんな感じでチンタラ歩いて金峯神社についたのが12時前後だが暑くて暑くてたまらない。そもそもこんな時間から登って今日中に大峰山につくのだろうか。
吉野山から大峰山までにピークが二つある。大天井ヶ岳と四寸岩山だが、四寸岩山は200m登って200m降りる。大天井ヶ岳は400m登って300m降りる。その看板をみてやな予感がしたのだが、まぁここまで来たのでしかたなく登っていった。しかもわざわざ古道を通っていった。古道は峰伝いにてっぺんを通る。在来道は通らない。しかし1235mの四寸岩山でバテてしまった。頂上に着いたのが14時くらい。まぁそこで1000mくらい登ってるわけだからヘバってもしかたないのだが、そこから先にもう行く気がしない。
大天井ヶ岳の登り口に二蔵宿という避難小屋があった。かなりキレイな山小屋で、毛布がたくさん置いてある。そこでしばらく休憩して考えた。そこでだいたい15時だからその先の大天井ヶ岳をのぼって降りてなんとか寝れる施設があるところまでまた登らなければならない。今の体力だとその前に日がくれてしまう。しかしここで泊まるには時間が早い。もう古道なんか通らず在来道を通って大天井ヶ岳をパスしよう。
そう考えたのはいいが、金峯神社にある山道の入口のところに二蔵宿から五番関(大天井ヶ岳を降りたところ)は不通とかなんとか書いてあった。その時写真をちゃんと確認すればよかったのだがせずにとりあえず歩いていったら見事崩落しているところまで行ってしまった。無駄に歩いて余計に疲れた。もう今日は二蔵宿の小屋で寝るしかない。
とはいっても毛布もたくさんあったのでなかなかよかった。
国立国会図書館デジタル化資料 - 国史大系. 第1巻 日本書紀
一書に曰くだらけなのが読む気をそぐ日本書紀の最初の方をとりあえず寝ながら読んでみたけど、一書に曰くはおもしろいな。スサノオが天から追放されたとき子のイソタケルとともに新羅に下りさらに出雲に渡ったとか、根の国(熊野)にスサノオが入っていったとかそういう異伝だらけ。というか三輪山のこともおんなじとこにつめこんであるぞ。
【Hothotレビュー】NEC「LaVie L LL850/MSB」 ~”Haswell”搭載のフラッグシップノート
Haswell搭載 + 液晶精細化 = 放電時間に大差なし
ところでNECのパソコン部門はLenovoの傘下に入ったから、Thinkpad と Lavie っておなじグループ企業のブランドになるのかな。
夜おそくまで本を読む → 起きるのが遅くなる → 暑くなる → 外に出たくなくなる → ますます夜が遅くなる
悪循環だ...
山幸彦と海幸彦ってこんな話だったのか... 日本の昔話の元ネタだな。
長髄彦はニギハヤヒにつかえていただけなのか。うーむ。というかニギハヤヒが物部氏の遠祖なら、物部氏の支配地にあとからのりこんできて難癖つけてうばいとったということになるな。
で、ニギハヤヒにクシタマとかいう名前がついてるからスサノオの条の一書に曰くの「サキタマクシタマ」とおんなじだということになるな。
ハゲ仲間のミヤサカに焼き肉おごってもらった。焼き肉のために大峰行きは延期したのだが日本書紀おもしろいのでもうすこし延期してもいいかもしれない。
ラジオ体操動画映像-かんぽ生命
中国に行くまえはラジオ体操を毎日やっていたのだった。奈良はラジオ体操あんまりはやってないようなので自分でやるしかない。これが見やすい。
ラジオ体操の歴史-かんぽ生命
ラジオ体操 - Wikipedia
Long Tail World: ラジオ体操の起源の体操
アメリカの生命保険会社のラジオ体操を日本の簡易保険局がマネしたものらしい。アメリカではすぐにすたれたという。みてみるとたしかに複雑そうな体操でこりゃ長続きせんわ。戦後新ラジオ体操がつくられて再開したとき難しくて普及せず一年で終わっているが、似たようなもんだったからじゃなかろうか。
トライアルにいったらキナ粉が4種類あったので全部買ってきてみた。
図書情報館にいってみたら月曜休館で悔しいでござるの巻。国会図書館に行けばよかった。曜日の感覚がないからこうなる。
なんでも網羅的にやろうと手を広げすぎて目標を見失って疲れてやめるのは悪い癖だな。
手が広いとザックリサクサクでないと進まない。チマチマネチネチとやっていたら日が暮れる。でもチマチマネチネチでないと何もわからない。
郡山のイオンとか行ってみたけど結局部屋にもどってきた。暑いから国会図書館までは足をのばさなかった。
もう夏だな。明日から大峰山の奥に入ってみる。
そういうとこないだ香久山に登ってN-08Dがおかしくなってから明日香村の文化財置いてあるところにいったらこれがまたいろいろ置いてあるところでおもしろかったが、中に仏像の指だけ置いてあるのがあった。あれみて中央アジアの辺の博物館に似たようなものが置いてあったのを連想した。
国会図書館デジタル化資料に最初の文部省唱歌の本があったのでみてみると君が代があるが曲がちがう。なんかそういう話聞いたことあるなぁとおもって調べたがこれが一番よくまとまっていた。
Red Fox 『君が代』の話
ミソは陸軍がとりあえず間に合わせでつくり、宮内省(海軍)、文部省のそれぞれが勝手に作って事実上今のに落ちついたから建前としては正式に決まらなかったっぽいことだな。
どうでもいいことだが宮内省版はレではじまりレでおわる壱越調ということだが、イギリスの曲をそのままもちこんだだけの文部省版もレを主音とするニ長調だったりしてなんかおもしろいな。
保育並ニ遊戯唱歌
上のページにリンクがあるが、雅楽の唱歌があったそうな。しかし国会図書館デジタル化資料というのは実にいいもので、こういうのの原資料が見れたりするからいい。雅楽の唱歌の本は出版されてないということだが、歌詞だけなら出版されて国会図書館に入ってデジタル化されてるみたいだ。
国立国会図書館デジタル化資料 - 幼稚園唱歌
そのものズバリが公開されてた。
保育唱歌: お茶の水女子大
ここに当時のノートが公開されてるけど雅楽の楽譜ってこんなんだったのか。
明日の大峰入りはやっぱりやめる。
頭のうしろが汗っぽくなるので写真とってみたらそこまでハゲが進行しているのだった。ツートンカラーだな。
5/25におろした15000円がもうなくなっていてショックだった。たしかに電車に乗ることが多かった。金がかかるところにはうかつに近寄らないように注意しなければならない。
激流さんの助成金が通ってカシミール行きが決まったということで、便乗して自腹でインドに行き、一人でラダックとかまわったあとスリナガルで合流して研究者様に案内してもらうみたいなことになっているんだが、デリーインデリーアウトなら中国東方航空で5万くらいからある。安いなー。まぁ空席があるとも限らんのだが。よくよくみるとデリー着1時とかおそろしいことが書いてある。
全日空もかww
旧川口居留地 - Wikipedia
明治の地図で大阪をながめていると居留地があったがこれのことか。なにわの海の時空館に模型があるようだ。
居留地開く → 外人による事業展開 → 港として使えず貿易商は神戸へ → 宣教師が教育施設をつくるが続々上町台地に移転 → 1899居留地廃止のあと中国人街に → 日中戦争で閑散としたうえ空襲で消滅 → 戦後華僑はもどらず倉庫に
なるほど道理で今の地図で探してもそれらしい痕跡がみられないわけだ。
旧川口居留地 - 大阪DEEP案内
国会図書館を「ヒヤヒヤ」で検索してたらこんなのみつけた。明治26年(1893)の「流行端歌俗曲集」にのっていたヒヤヒヤ節でそのころ流行ったらしい。五線譜と数字譜がならんでいるがなぜか合わないので五線譜を入力してみて位置がはっきりしないところは変に聞こえないように調整した。
(数字譜みたいなのはハーモニカ譜っぽい。そらあわんわ)
わかりづらいとおもうので漢字をあててみると
「束髪見しゃんせ束髪見しゃんせ みんな西洋の真似をする 上げ巻 下げ巻 左巻 でもボロ着ちゃ似合わない ヒヤヒヤ
梅を見しゃんせ 梅を見しゃんせ 雪の中にて 花が咲く 艱難辛苦は人の常 でも 勉強は楽の種 ヒヤヒヤ」
「束髪」「上げ巻」「下げ巻」「左巻」は髪型。後半は取って付けたような歌詞だな。
明治のころの議会の演説筆記なんかをみてるとでてくるヒヤヒヤノーノーのヒヤヒヤはノーノーと対になっていて肯定の掛け声っぽいので、どっかに明示してないかとおもって探したらこんなのみつけた。ノーノーは No No だろうから、ヒヤヒヤも演説の習慣をとりいれたときに野次までそのままとりこんだんだとおもうんだが、まだわからん。Here Here か?うーん。
まぁしかしたぶんこのヒヤヒヤ節のヒヤヒヤもそのヒヤヒヤじゃないかとおもうんだが。
当時は著作権なんて概念もなく替え歌が普通だったので、他の楽譜をみたら違っていたりする。メロディーもなんか違ってたりするがそれはどれが正しいのかよくわからん。後ろの方でミのところをファにしてるところがあったりするんよな。なんか変にきこえる
1893 (明治26) | 手風琴独奏自在 | 「かよわしやんせ かよわしやんせ ぶんめい かいかの こどもたち ようがく かんがく はったつを ても おやたち を ほねをり ひやひや」 |
1895 (明治28) | 手風琴独案内征清歌曲集 | 「進ましやんせ進ましやんせ、北京を取るまで、進ましやんせ、 日清戦争のときにはたくさん替え歌が作られた |
1898 (明治31) | 手風琴雑曲集:独習自在 | 「とりもー かよはぬ やまなか ひとつやで ございますけれどー すめーば みやこで ございやす のこんこちのひとあかはをでんでんむしかいしゃかもし ても しんきな うきよだね ヒヤヒヤ」 |
1909 (明治42) | オルガン独習自在 | 「そくはつ みしゃんせ そくはつ みしゃんせー いやに つきでた ひさしがみ うしろにゃ つきでた たなっちり でも おはなはししっぱな オヤオヤ」 |
1910 (明治43) | 清笛明笛独習自在 | 「そくはつ みしゃんせ そくはつ みしゃんせー がくかう もどり の はいから を あげまき えすまき さんかうち でも わからぬ ししつぱな ひやひや」 |
1910 (明治43) | 尺八独稽古 | 「通はしやんせ 通はしやんせ、滅法やたらに通はしやんせ、道に汽車あり、人力汽船あり、百里千里は何のその、テモマア便利な浮世じゃね、ひやひや」 |
無職になってから二ヶ月たったが、二ヶ月分のことをしただろうか。
してないよな。二ヶ月も働いたら月10万のこしても20万はのこる。そんだけのことはしてないよな。
実際のところ謎の病気対策でゴロゴロ寝ていたのが大きい。謎の病気の経過を観察するためにこの半年顔の写真を延々撮っていたが、5月の半ばくらいにはだいぶよくなっている。とはいっても予感的な感じはまだのこっていたがこの半月くらい鼻洗浄したら消えた。中国から帰ったときにすぐ鼻洗浄してたらよくなったんだろうか。でも鼻洗浄は関係ないかもしれない。
鼻洗浄しだしたのは頭関係の病気の感染ルートの一つに鼻腔経由があったのと、なんか黄色くかたく長い鼻糞がでていて気持ちわるかったのとがある。鼻炎とか蓄膿みたいなのになりかけていたのかもしれない。
あとニンニクの食いすぎが原因という可能性もある。その場合根本的に見当ちがいの心配をしていたことになる。が、肩や首のあたりが固くなったりというなんかに感染してる感じもあったのでたぶんちがうだろう。そういうとそういうのは鼻洗浄しだしたらだいぶよくなったのでやっぱり鼻洗浄がなにか効いているんだろう。
鼻洗浄だが、水に含まれるアメーバが鼻から脳に入って脳が食べられてしまうことがあるらしい。
フォーラーネグレリア - Wikipedia
日本では関東や九州の河川で存在が確認されているそうだ
週末雨とかいうことだったが今の週間天気予報では向こう一週間曇時々晴みたいなよくわからん天気がつづくらしい。
霊体験とかよくわからないが
瑞牆山・金峰山・大菩薩嶺
これみてから
山ガール・恐いのは幽霊ではなく、その場所で唯一 頼れるはずの管理人だった!|オーマイゴッ!はらにみつわやばっち
ここに「ギャオー」と書いてあるのをみると。うーむ。
昨日中ツ道の終点である大安寺にいったとき、散歩ルートマップみたいなのがあったが、図書館の南の道をまっすぐいくと唐招提寺の南に出、曲れば垂仁天皇陵の横を通っていくらしい。昨日帰りに通ったがなかなかいいルートだった。今日もそこを通って図書館に行ってみたが、やはり垂仁天皇陵はいつみてもカッコイイ。ということで夜もそこを通って帰ってきた。
奥駈道のことをしらべてきた。
大峰山は奥の方から直接登るのが普通だったのを吉野川に渡し場をもうけて北側から登るように整備し、吉野山と大峰山をつなげたのが聖宝ということらしい。
浄土思想が流行ると熊野が浄土とみなされて熊野三山が成立し、熊野の方から大峰山にアプローチしたのが奥駈道のはじまりのようだ。
わかりやすくするとこんな感じか。
奈良時代 | 吉野 大峰 |
聖宝の整備 | 吉野→大峰 |
浄土思想 | 吉野→大峰 熊野 |
順峰の整備 | 吉野←大峰←熊野 |
逆峰の整備 | 吉野→大峰→熊野 |
修験道隆盛 | 吉野→大峰→熊野 |
昨日は朝も早起きできず寝てばかりで夜もトットと寝たが年で体も疲れたんだろう。
今日も疑似下ツ道ルートで橿原市までいって藤原宮周辺をみてきたが、香久山に無理に自転車を押してのぼったせいか、降りしなに自転車ごと滑って落ちてしまった。余裕のある落ち方で自転車も途中で止まってしまい、止まった自転車をおとしにいくのが面倒くさかったくらいだが、それから N-08D の写真の具合がわるくなっていまだに写真が撮れない。うーむ。
時間も15時前だったのでそこでひきあげることにして今度は疑似中ツ道で帰った。図書館に行ってみたら閉まっていた。スーパー銭湯にいって風呂にはいり闇金ウシジマ君を5巻くらいよんできた。
藤原宮の遺跡は一応ここだろうというところがあったが、他にも説があってはっきりせず、1934年に民間団体が掘って明らかにしたとか。しかもその発掘は1943年までやってたらしい。
あと藤原京の時代はまだ箸が普及してなかったそうな。おもってた以上にいろんなことがわかっていた。
瓦とか陶器なんかはいっぱいころがっていたらしく、昔はこどもがひらって池に投げて水切りなんかしてあそんでたそうだ。
なんか最近運がわるいぞ。
ゴルゴ13は実は山伏だったと言う衝撃の事実(について) | Living in the Dreamtime
奥駈道をググってるとこんなのみつけた。今月の話か...
22時間で走破した人もいるらしい。
最近登った人のブログなどによると水場が涸れかけているとのこと。
パンクを修理したがチューブが帯状におかしくなっている。また空気ぬけるだろう。
昨日札の辻でもらった橿原市のパンフレットぱらぱら見てたら藤原宮そんなに遠くなかった。ついでにちょっと見てかえったらよかった。
今日はたいした雨ふりそうにないので橿原まで自転車でいくことにする。
とおもったがカバンをつっているところが昨日ちぎれたのを忘れていた。今から修繕する。→ したら10時まわってた。
下ツ道(中街道)をたどるということで、その遺存っぽい道をたどって橿原までくだっていった。橿原考古学研究所附属博物館をみてから下ツ道の区切りっぽい丸山古墳まで行って帰ってきた。帰ってきたのはいいが大和郡山の環壕集落のあたりまで来たころにパンク。イオンまで押して空気いれてみたところなんかすぐ抜けていく気配がする。実際500mも走らないうちにまたペコペコになった。今日はスーパー銭湯に行く気マンマンだったが、入っても押して帰るのではなんか意味がない。ということでスーパー銭湯の前まで行ったけどあきらめて押して帰ってきた。つらかった。
左から一枚目の写真は役行者。この道は大峰山への道ということで、道標もその関係の人がたててるのでそういうものが大層多かった。二枚目は鏡作神社の池にあったという石。三枚目は田原本の浄照寺に移築されたという伏見城の城門。「領主が拝領してこれを下付」とある。もともとここには真宗の教行寺があって支配を依託していたが、二代目が直々に田原本に来ることになって寺が移動したとかなんとかいう話になっている。この寺はその跡にできたものらしいがこれも真宗。移動した方は箸尾御坊とかいって権威があるようになったりしている。よくわからん。
結局昨日にひきつづき田原本かという気もするが自転車があるとまわりやすいということだろう。
八尾の札の辻にある交流館というのは昔あった旅館のたてものをそのままつかっているという。旅館といっても明治になって鉄道が通って畝傍駅ができると客足がとだえるというのでとっとと廃業してその後は民家としてつかっていたそうだ。丸山古墳だが、昔は円墳だとおもわれていたらしい。奈良県下最大の前方後円墳だとわかったのが戦後だとか。下ツ道は丸山古墳を起点としてるんだからなんか重要なものだとわかりそうなもんだが...
橿原考古学研究所附属博物館は写真とっていいとか言われたのでダメなもの以外全部撮ったった。つかれた。
特別展示のポスターにあった木製品は水門の扉だった。うーむ。
ここの解説のおばちゃんで朝鮮のことばかり言う奴がいて無駄口ばかりたたくので一言も話しかけられていないのにうるさかった。まぁ韓流をハン流というくらいだから相当なやつだ。ハン流ドラマの高句麗音楽は日本人の心に訴えるものがあるっておまえバカか? 今日本なり韓国なりで流れている音楽は全部西洋の影響を受けた近現代音楽にきまってんだろ。日本人は沖縄アイヌ以外は弥生の渡来系の骨格だとかも言ってたな。そんな感じで展示にひっかけて俗っぽく百倍にふくらませたような朝鮮話ばかりしてた。本当にいるんだなああいうの。ボランティアか在日かなんか知らんがああいうのを放置しないでほしい。
そういうと附属博物館の縄文の編年は国立歴史民俗博物館のをつかってなかった。まぁあまたある学説の一つだしな。
日付が変わったので今日として書く。今日は 唐古・鍵 → 橿原考古学研究所 → 竹内街道 → 近つ飛鳥博物館 → 四天王寺 というルートを考えているが雨ふりそう。そもそも博物館系を見物しながらだと自転車で一日で回れない。
野宿などを検討するよりは前にも思ったように自転車を置いて近鉄で帰ってきて翌日続ける方がいいかも。とおもったが、自転車を放置しとくと盗られたりパンクさせられたりする危険があるな。うむむ。
全然関係ないが、和歌山で歩くのがいやになって日前宮から貴志川線にのったあと、和歌山駅に行き、さらにそこからJRで吉野口までいって近鉄にのりかえたが、全部改札を通らず同じ構内でののりかえだった。まぁたしかに吉野口は駅前まっくらではあったし和歌山から奈良方面にいくなら大阪経由の方が安いのだが...
Fort Ross, California - Wikipedia
なんかロシアのアメリカ進出経緯とかカナダの太平洋岸進出経緯とか調べてたら朝になってた。寝ようかな。
シベリアとか今となっては何もないようにみえるけど、当時のロシアにとっては重要な輸出品である毛皮の生産地なわけだから広ければ広いほどいいわけだな。中央アジア方面を素通りしたのは当時の力では遊牧民と戦って勝てないというのもあったかもしれないが、それよりも利益を生み出さないからだな。
レーダーみるといよいよ雨降りそうだから自転車で出発するのはちょっとやめる。
コーナンで買った安物の「スリッポン」があんまり通気性がわるくて結局底の破れたたび靴にもどしていたが、雨の季節がきたら使えない。スリッポンを我慢してはくかちゃんと金をだして風通しのいいのを買うか。
大阪の母子餓死の件なんか誰も助けようがない。あれで必要なのは生活保護じゃなくて駆け込み寺みたいな完全隔離保護施設だろ。なんで生活保護と結びつけたがる人がいるんだ?
雨が本格的に降ってきた。
「「中国人、みんな悪い!」絶叫…勤勉な実習生狂わせた“妻の不貞”」:イザ!
これはこれは... 。
結局傘をもって近鉄にのって唐古・鍵考古学ミュージアムだけに行ってきたわけだがこれがよかった。いろんなものが出土したということもあって展示物の種類が多いし、なによりそれを見せる展示のしかたもよかった。ここの何がおもしろいといって、製造工程がわかるものが置いてあったことだ。それも木製品に陶器に青銅器に石器に繊維なんかまであっておよそ弥生時代の製造業の総見本みたいな状態になっている。こんな狭い展示室なのに。
あと洪水で一度埋まったとかいうだけあって、木などの腐ってしまうようなものがよくのこっているのもおもしろい。木製の自在鉤とか出ていた。あったんだそんなものが。木製品で一木彫のものは、木をみかんのように放射線状に割り、水に漬けてふやかして加工していたらしい。高坏なんかも最初は木で作っていたとか書いてあった。まぁ中国あたりの青銅器とか陶器なんかでも藤製品や皮製品を模して作ったものがあるからそういうこともあるかもしれんが高坏は... まぁ出土品からわかることだからそうなんだろう。杉皮なんかもあったなぁ。
あと意外なことに、渡来系っぽい骨って弥生時代の前期のおわりくらいにならないと登場しないらしい。水田稲作は生活の全てではなく、1/4くらいで、あとは縄文時代とかわらぬ狩猟採集の時代であったらしい。まぁそもそも石器も使ってたし。
田原本はなんというか昭和の香りのただよう町だった。この車全盛の時代によく生きのこっているなぁ。
まぁそれだけ栄えているということかもしれん。見た目ではわからんがなんか産業があってこの商店街を維持できるだけの徒歩人口があるんだろう。
下ツ道だが、真ん中に運河がとおっていた広い道であるらしい。今、田原本を通っている寺川もその名残だとか。しかし大和川とか横断するわけだが、いかに当時の土木技術が想像以上に進んでいたとしても、本当に物資を南北に流せるようになっていたんだろうか。疑問におもう。
あと、こないだ和歌山市立博物館であやしいおっさんと幼女の様子をうかがいながら読んでみた紀氏をあつかった本に奈良大の教授が唐古鍵遺跡について纒向遺跡の外港なんだみたいなこと書いてたけど大和川を挟んだ向かい側なんだから外港ではないだろう。
田原本なんか鎧袖一触すぐ片付けれるようなものしかないだろうとナメていったらしっかり中身があって田原本だけ見て帰ってきたわけが、やっぱり山のぼりの疲れがのこっているようで、帰って写真をみていたらすぐ寝てしまった。天気だけいうと自転車でも問題なかったが、自転車でいかなくてよかった。
タコ「うー、寒い寒い、ちょっとRNA書き換えとこ」 - 蝉コロン
データえっせい: 国民のイライラ化・自己愛化?
足が痛くなくなったら大峰山の奥駈道もよさそう。170kmとからしいから最低でも二泊は必要か。どうも山小屋とか何個もあるうえにいくつかは有人で営業もしているらしい。山登りルートとして開発されているっぽいので装備なんかたいしてなくてもいけるだろう。食い物の工夫が必要か。
昨日は帰って洗濯などしたあと強制終了状態になり起きようとしても起きれなかった。いいことだ。
足の裏が痛い。
10000mAhのバッテリー昨日でようやく使いきった。遠出するときは満充電にしておいた方が心配なくていい。
今週は雨がちなのか。
最近 google が重いような気がするんだが。あちこちのサイトにうめこんであるので、Transferring data from www.google.com.. とFirefoxが言うまま表示されないことが多いんだが。
→ 遅いのはdocomoの128kの通信が遅いくせに、接続しづらいLTEになって切れたりするからだとわかった。docomoのLTEを設計したやつのせいだな。
最近ピクピクしているのは右肘だ。
なんでこんなにピクピクしてるのかとおもって観察してみたら本当に目に見えてピクピクしていたのでびっくりした。
日本の古い家系
天皇家
出雲国造家の千家・北島の両家
紀伊国造家の紀家
阿蘇神社の大宮司である阿蘇家
宇佐神宮の大宮司である宮成・到津の両家
隠岐国造家であった億岐家
籠神社の宮司である海部家
熱田神宮の大宮司である千秋家
住吉大社の宮司である津守家
諏訪大社の大祝である諏訪家(神氏)
多すぎだろ。
和歌山市博物館の展示をみてると戦国末期には太田党という在家集団が秀吉に抵抗してつぶされたみたいな感じだったが、その集団の構成はそうだとしても、太田城の集団のトップは紀家だったんだな。
写真は今大立寺の山門としてのこっている太田城の城門。昨日撮った。
どうもネット情報だと太田党は雑賀の一部とみなしている面もあるらしいんだが、秀吉や信長と戦った和歌山の集団として見られるために、その塊として一括りにされてしまっているのではなかろうか。雑賀=惣国という意味でもあるらしく、「雑賀」自体が曖昧なんだろう。
大雑把にまとめるとこんな感じ。
車があったらなぁ。二三日出かけるのは車があったら便利だ。自転車もあんまり遠いと自転車漕ぐだけで体力なくなるしなぁ。というか折り畳み自転車と輪行袋を買うべきなんだろうな。
謎の病気だが最近回復が著しい。
医者にいって検査してもらったあともそんなにブツブツの状態はよくならなかった。やはり目のあたりになんかへんな感じがあるときもある。頭痛がまた来そうな感じがあるときもあった。
頭まわりの病気を調べていると鼻を感染経路としているものがある。飛沫が鼻腔に入ってそこから感染とかいうのがあるらしい。うーむ。ということでこの一週間くらい鼻洗浄をやってみた。
鼻洗浄は洗面器に塩水をつくり、それをお椀にうつして鼻で吸って口から出すもの。やってみると気持ちいい。すぐに頭痛が来そうな感じが消えた。吸って口から出すたび塩水が鼻からお椀にちょっと逆流するのだが、最初はそのときなんか白いものが出てくることがあった。こういうのが鼻に詰っていたんだろうか。中国のPMなんとかとか謎のウイルスが鼻につまって頭が痛くなったりしたとかいうことかもしれん。
結局それが原因でこの一年頭痛いとか変なブツブツができるとか気分悪いとか言ってたんならなんともアホらしい結末であったということになる。まぁあと半月くらいつづけて様子をみよう。
金剛生駒紀泉ハイキング2013 第4回 紀泉アルプス 大福山、俎石山の眺望を眺める|南海電鉄
というわけでこれにいってきた。「無理な追い越しは禁止」みたいなことをいわれたので平地でなるだけ抜かしておいた。それはよい作戦だった。
まぁしかしこういうのに参加するのも微妙な感じがした。無理な追い越しなどせずもっとチンタラ歩くもんだという気がする。まぁ今回でやめておこう。
到着12時半くらいだったので時間があまっている。せっかくなので和歌山に足をのばしてみて市立博物館と県立博物館に行ってみた。市立は100円。県立は特別展やっていて抱き合わせでないと入れず500円。市立の方の「研究室」というところにおっさんと幼女がいてあやしかった。
和歌山は古墳時代は難波津にならぶ港であったようだ。そらそうだわな。馬面とかでてきていて、外来の文化の影響を受けているという。市立の方は入ったとこにいきなり遼寧省の高句麗の壁画なんかがでてきてややこしかった。こんな壁画が和歌山にあったのかと誤解すんぞこれ。まぁさせるつもりなんだろうけど。左翼的日本史屋が元気なころに展示をつくったようで、そうおもわせるところがあちこちにある。
雑賀と根来がごっちゃになっていたが、雑賀は浄土真宗なのな。なぜか市立の方では根来をあつかっていなかった。
日本の明治の徴兵制のもととなった交代兵制度があったということだが、それをなんとか回避しようとしたことをさして「兵役忌避のさきがけ」みたいな評価をくだしていた。市立は全体にそういう感じ。県立の方がまともだった。
まともなのはいいけど写真とらしてほしいな。
そういうと県立で抱き合わせでやっていた展示がおもしろかった。桑山玉洲という人だが、独学で絵を勉強し、当時中国で流行りつつあった実景の風潮にのって、実際にある風景を描くようになったという。なるほど最初の習作は観念的な中国画ぽい風景だったが、日本っぽい湿った山の絵になっていた。
どうでもいいが朝鮮の絵も勉強してその影響がみられると書いてるならその実例も展示するべきだとおもう。中国の方は名前も絵も出て具体的なのに、朝鮮は最後まで名前や具体的な例がなかった。ホンマにあんのか?
日前宮行ってみたが5時にしまるという軟弱な神社だった。風土記の丘とかあるし一泊しようかとおもったがとりあえず帰ることにした。で、五条経由で帰っているが、1600円くらいするので素直に天王寺経由で帰ったらよかったかもしれない。
あーそういうと和歌山城の石垣がかっこよかった。
おぉぉ。もともと携帯で撮った写真だからjpgの品質を30まで落としても大差なかった
mobiに変換した場合、内部に元のファイルを含むのでファイルサイズが倍になってしまう。ということで写真が多い場合50MBの制限にひっかかってアップできなかった。しょうがないので元のファイルをそのままつかってepubにしてみたら通った。やっぱりええかげんだな。
ということで「東京仙台被災地自転車縦断一週間」茨城福島30km圏内篇と相馬宮城南部篇つーのを作ってKindle向けに出してみた。作るのはおもしろいな。
トライアルのバゲットの質が最近急によくなったとおもって裏の製造元をみてみたら山崎パンだった。
↓アマゾンにでるようになったけど今みたら類書いっぱいあるな
東京仙台被災地自転車縦断一週間:茨城福島30km圏内篇
東京仙台被災地自転車縦断一週間:相馬宮城南部篇
まぁとりあえず作ったもんだからこれでいいだろう。次はなににするか。
ついに docomo の通信量が7G越えた。これから128kの世界になる。とりあえずGmailの表示が遅い。遅いんだが、N-08DのGmailアプリでみる分には十分なので問題ないだろう。
結局夜に目がさめて作業したのがたたって午前は寝ていた。もう暑いな...
また図書館に来てしまった。
うーん面倒だな。到底売れるとはおもえないのだが売れたとしても1 米国所得税 (30%)の源泉徴収 2 銀行手数料の問題があり、1についてはその回避のためにアメリカの役所とやりとりをせねばならんらしい。アマゾン同人誌即売所というわけにはいかないようで。
kindleの目次の方式がだいぶわかってきた。ただし実機をもっておらず、previewerとN-08DのKindleアプリしかないので、他の正式な環境でどうなのかよくわからない。
この二日間図書館に通ってみて自分の部屋での集中力のなさに絶望した。チンコいじったりしてたらろくなことないな。とりあえずどこにいても同じくらいの集中力がもどるまで平日は図書館に通うことにする。部屋も一種の修行的空間に変換するよう努力する。土日?観光します。日曜は山登りだなー。
[kindle][mobi] 目次をなるべく簡単に作りたい - メモ@inudaisho
最近調べてたのをまとめた。
17時前に帰ってきたら前の溝に車が脱輪してたのでたすけた。まぁハンドル切ってバックすればひとりでに脱出できるんだが...
あんまり暑いせいか帰って飯くったら寝てしまった。涼しくなってから起きたのでこれから作業続行。
おぉぉぉ.... 50Mまでか..... ギギギ
明日はどっかに行くつもりだったがファイルの変換を続行することになりそうだ。
牛肉半額ゲットォォォォォォオオオオ
トライアルに7時前にいくといいことあるなぁ。
もう鳥肉はあきた。牛がいい。
作ったmobiファイルをmobiunpackで分解してみると、300kB近い画像も128kB以下に圧縮されているので気にせずデカい画像をいれたらいいということらしい。
うーむ。昨日にひきつづき図書館に来たものの。N-08Dをおきわすれてきた。こういうときにかぎってdocomoメールがきたりするんよな。
よしできた。帰ってN-08Dにいれて見てみる。
金剛生駒紀泉ハイキング2013 第4回 紀泉アルプス 大福山、俎石山の眺望を眺める|南海電鉄
今週の日曜はこれにいく。奥河内と普通なら行きそうにないところだが、地図をみていると前方後円墳がある。
mobiファイルをいろいろいじっているが、html一枚とかよりは章ごとに分けたりした方がいいな。となると、目次も分けて、いろいろ分けて、となって、結局細かく作っているのとおなじことになる。まぁ一枚一枚分けるわけじゃないからいっか。
カルピスオアシスというのがあってカロリー脂肪分糖分ゼロとか書いてある。成分表をよくみずに、カルピスもどえらい勝負をしたもんだとおもって買ってきたが、飲んでみたら普通に甘い。成分表をみるとアステルパームとか使ってる。なーんだ。
結局昨日は形にならなかった。自転車の空気も朝入れたのが夕方には抜けていた。今朝パンク穴をさがしてみたけどみつからない。虫ゴムがわるいのか?。うーむ。
図書情報館に来た。もう部屋にいてもなんか読みながら寝てしまう優雅な習慣がついたので出るしかない。やるぞ。
2011年の頭ごろに雲南省であそんでたころって仕事してないのかとおもってたけどメールをみるとちゃんとやってるな。
やってみてるけど結構時間がかかる。どっちにしてもすぐ片付くものでもなかった。
結局図書館に開館から閉館まで居てしまった。
【充電革命】女子高生がたった20秒でモバイル端末の充電が完了する驚異的な装置を開発! | ロケットニュース24
原理は?
うーむ。朝起きて飯食ってそれからまた寝るというパターンにはまりつつある。
末次政太郎って影も形もない人間かとおもえば雑誌「日本及日本人」に10ほど寄稿してるな。
docomoからAquosPadがでるのか。SH-08E。うーん。N-08Dととりかえたいなぁ。無理か。
太陽電池をA3サイズのプラ板やスチール板に印刷する新たな技術が開発進行中 - GIGAZINE
土日と自転車で遠出してすっかり忘れていたが kindlegen をいじっていろいろしていたのだった。とりあえず今日中になんとか形にしておこう。ここで寝ながら本読んでても一銭にもならんのだから。
というか四月からこっち寝てばかりで体がだらけてちょっと遠出したらすぐ寝てしまうようになっている気もする。奈良県立図書情報館を勉強部屋代わりにした方がいいかもな。どうも図書館を勉強部屋にするのは気がひけるんだが。
なんか左手の親指の根元の掌の腹の部分がピクピクするんですけど。
明治末ごろの読売新聞は「てにをは」をカタカナで表現してたな。
最近遠出する事が多いが、そのへんでうろちょろしてるガキが標準語しゃべってることがあってゾっとする。東京でもないのに。奈良は大阪の郊外住宅地だけあって、地元から遊離した根無し草の核家族なんかがうじゃうじゃいるからそいつらのガキなんだろう。
結局 docomoスパム問題は携帯以外全部ハジき返す設定にした。docomo の携帯メールはハジきかえすとそのメールを送った相手に返事を出すようになっていることも知った。最初に空メール送ってきていたのはメールを受け取れる設定になっているか試していたんだろう。
URLがあるのはうむをいわさず全部ハジき返す設定をつくってほしい。スパム対策はそれで十分なのに。
20130518_ww_cover | The Economist
なんというかひどい表紙だ。
右にあるコメントのリンクをみると、日本記事のコメントがやたら多いが、「おすすめ」が一番多いのはナイジェリアの記事だったりする。コメントをちょっとみてみたら中国とか韓国とかそのへんがよってたかってギャーギャー書いてるみたいで、何をやってんだか。
何もかんがえずに国会図書館からダウンロードしていた亜細亜大観をみてみたがこの出版元は大連だった。
最初のころはインドの仏像の写真ばかりで後には満洲の写真ばかりになる。
おかしい。N-08Dのデータ使用の統計情報によると4.2G程度しか使ってない筈なのに6Gの警告のメールがきた。誤差があるといってもそれはおかしくないか。
cp51932なる文字コードがあることを始めて知った。しかもlinux世界では対応してないのが多いらしい。というのもSKKの辞書をいままでLしかつかってなかったところに ibus-skk は複数指定できるようなのを今頃知ってじゃぁいろいろつっこんでみようと、専門辞書をいれてみて、ついでに文字コードをしらべてみたらこれがでてきた。
というかいまだにEUC-JPつかってんのかskkは。まぁもうあきらめてちょっと複雑な漢字はㄅㄆㄇㄈ式の中国語IMEで入れることにしてるからそんなに不自由ない。
そういうと時々ibus-skkは固まってしまうんだが、それはこのデフォルトの辞書の設定の中にある「サーバ」を放置しているからだろうか。辞書を直接指定して追加できるんだからサーバなんか導入することはない。消してしまおう。
昨日からスパムがdocomoのメアド宛に怒涛の勢いで飛んでくる。送信元鯖が 103.6.63.12 と 103.6.63.67 と 103.6.63.64 で、メールのリンク先も似たようなところになっている(12 → 13と14、67 → 67、64 → 64)。香港ドメイン?登録者は日本らしい。
その香港ドメインスパムの間に二通ほど中国ドメインのスパムもまじっている。うーむ。これはBCCで送ってきてるようで宛先が他のdocomoメアドになっている。
一番最初の本文のないスパムは 123.50.193.141 から飛んできているので本体がこれなんだろう。InterLink とかいう鯖レンタル業者の管轄のようなのでそこのサービスを踏み台にしてるんだろう。
リンクは毎度違う長文の英数文字を含んでいるので、スパムと同時にカモの情報収集も兼ねているんだろう。二通まじっている中国鯖のスパムはちがう。しかしなんで急にスパムが来るようになったんだろうか。docomoのスパム対策がなにか変更されたのか。もしくはだれかが inudaisho@ドコモをいやがらせのためにどっかに登録した結果なのか。まぁ既にスパムの対象になっており、メールの制限を高くして対処したので、それを潜りぬけれる状況ができるとこういうことになるということかもしれんが。しかしほとんど一業者だから違う理由をさがしたくなる。
ドメインの登録先の会社はSAKURAのレンタル鯖に本拠地を置いてるな。どうせ無料期間中だろう。
Good - Abuse Memorandum
とおもったらなんと去年から活動をつづけているようだ。ナカムラミサコはドメイン登録用の名前だろうか。最初に空メールを送るところはおなじか。
rightyrightyright: 迷惑メールの業者本部に電話したわ
この人は同じところに突撃してその後の報告がない。
昨日日差しが強いところに坊主頭を晒したせいか前頭部の上が痛い。
昨日おとといと外出したので今日は寝てくらす。気象レーダーをみると着実に雨が近づいているしな。
まぁしかしどっかのだれかが inudaisho@ドコモ をそういう出会い系サイトに登録したという可能性がなくもない。そもそも来ているスパムは大きく三種類に分けれるがその二つは女向けだ。うーん。とにかく送りつけれるところには送りつけて様子をみてるだけなのか、女の方がカモになりやすいのか、他のことが反映しているのか。
よくよく文面をみると 「SNS GOOD規約に同意した人にだけお送りしています」とか書いてある。うーむ。やはり出会い系の「Good」がらみか。というかいつおれがGOOD規約に同意したんだ? やっぱりだれかが勝手に登録したんだろうか。
東京新聞:春画 アートなのに… 国内巡回展は開催難航
あたりまえだろ。その同じ口で現代のエロ漫画もアートだから美術館で展示するべきとか言うんなら立場もわかるが。
さらに一通毛色の違うのがやってきた。またINTERLINKとace-idc.comとレンタル鯖からみだな...
tracepathしてみたら103.6.63.12は新宿からvectantで接続しているっぽい。
普通にtext/plain でリンクのついてるメールも来てるので今日のハテナの日記は削除しといた。
めんどくさくなってきたので、.netとか.orgで拒否することにした。
今日はこれに行く
2013iseki kengakukai.pdf
行ってみたが人が多すぎて行動にいちいち時間がかかりなんかモタモタしていたので昼で切りあげた。帆立貝型古墳は基本的に前方後円墳の劣化バージョンとおもった方がいいらしい。一番でかいのがあるところの説明は午後だったので聞いてないが、全体の行動がモタモタしているせいで説明の時間もあまりとれない感じだったのでついていっても時間の無駄と判断した。次からこういうカルチャー+ハイキング系は団塊ジジババの洪水で決壊する可能性があることに注意する。
午後は民俗博物館の麻布の講演でも行こうかとおもったが、午前の部が長びいてしまい自転車でチンタラ走っていたら間にあわない。ここはせっかくなので中街道をたどりつつ国立博物館に行ってみることにした。
昔の地図をみても中街道の沿道にはほとんど何もないようにみえるが、今も沿道の建物は少ない。特に上の写真のあたりなどは農道になってた。明治のころの街道だからそのころの道の幅がそのままのこっているんだとおもう。
その道が奈良に入るとずばーんと北まで通っていて、近鉄奈良のところまで出るわけだから、昔は栄えた通りだったんだろう。ただ奈良から南西の方向へ走って24号バイパスへ合流する道があるので、おそらく中街道が担っていた機能はその道が吸収したんだろう。
筒井の駅前が意外とにぎやかだったが、パナソニックの工場の町なんだろうな。
あと国立博物館で仏像をみてきた。うーむ。
時間もあるので図書情報館にいって中街道を再度確認したあと、なかなかおもしろい本をみつけたのでそれ読んでた。
この夏(昭和二十二年)、林彪は何を血迷ったか、又しても性懲りもなく、東北の天王山ともいうべき「四平街」を攻めて、大出血を招いた。いくら四十歳にも足らない将軍とはいえ、東北パーロ(民主連軍)の司令員としては、軽率のそしりは免れまい。第一、敵の機械化部隊に荷馬車部隊では勝てる道理があるまい。それに、党の基本戦略-- 敵が強ければ逃げろ、に違反している。また敵がとまったら掻きまわせ、を適用するにしても無謀すぎる。林彪という軍人は、延安(中共の都)の政策に反対しているのではあるまいか。二十五歳の若僧の私は林彪に疑問を抱いた。今ググると盧溝橋事件共産党陰謀説を言いだした人間として名前がでてくるな。みたことあるのに頭の中でつなげられなかった。
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ただ、柳州にはパーロ泣かせの問題が一つあって、夜間外出は絶対にできなかった。何故なら、行方不明になったパーロは、生きて再び姿を見せることはなく、水牛の肉にまぜられて市場で売られるらしかったからである。
葛西純一『誰も知らない中國』軍事研究社 昭和46
図書館のあとスーパー銭湯にいってまたウシジマくんを4巻ほど読んできた。やはり図書館のあとにいくと飯のスペースのピークの時間をすぎていて、座って漫画読んでいても申し訳ない感じがしない。
アクサイチンって اقصای چین (中国の最果ての地) でペルシア語だったのか。なんとまぁ。激流さんが図書書目入力のときに見付けたということだが、あの辺にカシミール藩王が近づいたころは اقصای تبت (チベットの最果ての地)とも呼んでいたらしい。英語がその地位にとってかわるまではペルシア語がインド平原の官僚語だったわけだからなるほどわからんでもない。しかしこの言葉どっちが早いんだろう。
اقصای چین - ویکیپدیا
そのものずばりで wikipediaペルシア語 に項目たってた。
Hindutagh-pass-aksai-chin-center2-1873.jpg (JPEG Image, 1386 × 1980 pixels)
これは地貌が強調してあってわかりやすい。カラコルム峠のあるとこってアクサイチンと別とおもった方がいいのか。
今日は大和郡山の県立民俗博物館 → 巨大イオン → 図書館といってきた。これから写真整理して日記書く。
県立民俗博物館
だいたいオーソドックスな農業林業などの展示。わかりやすいがうーむ。こういうところにはありそうな明治以降の産業の展示などもなかった。どういうことだろう。まぁ入れないようにしてあったところもあったので展示を縮小したのかもしれない。
この博物館が1970年代に出してた月報みたいなものが見れるようになってておもしろかった。たとえば下のような文章がのっていた。
ところが民俗調査の報告書をひもとくと、期待はずれもはなはだしい。幸い奈良県下のみは例外で、林宏先生のような秀れた先達のおかげで、記載は具体的である。他の多くはなにが具体的でないかといえば、かってはドングリを食べていたと記されているのみで、どんな種類のドングリをどんな風にアク抜きをしたかなどは調べられていない。または逆に食べ方が記されていても、種類が書かれていないことが多い。その上言外に、いかに貧しかったかということをにおわせ、まったく不用な調査書の優越感がうかがわれる場合さえある。まぁこれはこれとして、ここは吉本の笑い飯がネタにしたので一部では有名らしく、笑い飯が来館したときにそのネタがどこにあるか書いて残した紹介が貼ってあった。一応、祭りなどの紹介映像は見たがネタにされた映像がどれかについては興味なかったのでチェックしなかった。
(略)いずれにせよ種類ごとに正確な加工方法を縄文中期人が習得し、それが連綿として、ごく最近まで伝わっていたのである。
この種類ごとの加工技術こそ、民俗調査にもっとも期待したいことである。いわば生態学的条件の調査であるが、これはどんなに時間が離れても普遍的な条件である。もしアクの量・質が異なれば、植物としては種が変わることになるのだから。
渡辺誠「考古学と民俗学の接点」
この博物館は大和民俗公園の中にあり、他には民家が移築保存されている。残念なことに上がらないでくださいと書いてある。なんでなんだろう。渡り廊下なんかがある立体的な民家があり、はいりたくてうずうずしたが、センサーがついていたのでやめておいた。
吉野方面以外の民家はどれも案外似ていてバリエーションが少なかった。左の写真は吉野方面の家で、全面黒く焼いた板で塞いであるこっちの方が山奥人間的にはなじみがある。何軒かカマドの形が弧を描いているところがあったのに感心した。一人で座りながら全部の火の面倒をみやすいようになっている。あとカラ臼といって足をつかってテコの要領でつく臼が土間にそなえつけてあったのが目についた。
その後、大和郡山の市内を西から東に通り抜けたが、そのとき遊廓っぽい建物をみつけた。帰ってから調べるとやはりそうで、大和郡山の三大遊廓の一つ洞泉町遊廓の跡だった。戦後は営業してないために市の保護の対象となっているとのことだが、一軒はなんかエステと称して営業してるような感じがあった。
今日通った通りには薬園八幡というのがあり、ここは神仏習合時代のままの寺が壊されずに柵で区切ってあるだけで残してあった。ほかに高田神社というのも寺が横にならんでいた。奈良はなんというか、古いものがそのまま残してある感じでおもしろい。
薬園八幡だが、大和郡山には郡山八幡というのがある。両方とも由緒は東大寺に八幡を招いたときに分霊したものということになっている。明治天皇の巡行跡が聖地化して神社になるようなものか? まぁあるいはこのへんが東大寺の荘園で、荘園の管理所だったものが、荘園横領などの末、由緒がわからなくなり、八幡宮になって残っただけかもしれない。
巨大イオンにいって休憩したあと、県立図書情報館に行って明治になってから最初に測量された関西の2万分1図をみてきた。やっぱりこっちの方が古くていいな。これがjpg化されたものがどっかに落ちてたらすごく便利なのに。
そういうと民俗博物館の明日の出し物は麻布研究の第一人者を呼んで話を聞くというものでこれもおもしろそうだ。うーむ。
明日は晴っぽいので自転車で馬見丘陵公園まで行く。
htmlだけでkindlegenにかけると 縦書きはできるが右から左へのページ遷移ができない。横書きの方がいいということか。KindlePreviewerでKindleHDとやらでハジかれるのはたぶん右から左向きのページ遷移ができないからなんだろう。ということで縦書きかつ右から左のページ遷移にこだわるなら少なくともopfで書かないといけないようだ。あとncxもつくってくれないっぽい。
そうなると結局ある書式にしたがって書きそれを変換させるのが一番楽に作れることになる。なまじツールつくれるから自分でやろうとおもってしまうんよな。
5時前に目がさめる。6時前にトライアルに行っても売れのこりの肉は半額になっていない。
某高校の時間割
1 | 8:40 | 9:25 |
2 | 9:35 | 10:20 |
3 | 10:30 | 11:15 |
4 | 11:25 | 12:10 |
5 | 13:00 | 13:45 |
6 | 13:55 | 14:40 |
7 | 14:50 | 15:35 |
1 | 8:45 | 10:15 |
2 | 10:30 | 12:00 |
3 | 13:00 | 14:30 |
4 | 14:45 | 16:15 |
5 | 16:30 | 18:00 |
なるほどhtmlをkindlegenにかけるとそのまま読めるかたちになるな.... しかし横書き。
mobiunpackでmobiファイルを分解してみると、いろいろ分けても結局一枚のHTMLにされてしまうようだ。凝ってもしかたないんだな。
まーつまりKindleのは電子書籍といっても拡張されたHTML、Kindleのリーダ、Kindleのソフトは拡張されたブラウザということだな... ということはそのうち普通のブラウザも対応したり、電子書籍リーダの仕様がとりこまれたりするのかもしれない。結局客と金の流れを握っているところが強いということになるのではないか。
5月18日は国際博物館の日ということだが、奈良では国立博物館の常設展示が無料になるくらいか。あとはイベントが多い。
2013iseki kengakukai.pdf 橿原考古学研究所の5月18日のイベントの案内PDF
10:00から16:00まで弁当持参で古墳の解説をやりつづけるらしいからおもしろそうだが雨降りそうなんよな。
馬見丘陵公園の古墳パンフレット
夢。最近一度見たことのある夢の継続。スリが相手。このスリというか悪党と出あう世界は古風というか木造建築が主流をしめるまぁ明治の日本のようなところ。料理屋でそのスリといっしょになる。まぁ腐れ縁のような仲。前回の手はくわず、手酷くとっちめてやったのだが、結局次は不意をつかれて盗られる。
日記をgrepしてみたがその夢がでてこなかったのでそのときおもいだせなかったんだろう。目をさめたときに右の二の腕の内側を左手でおさえていた。ときどきある。よくないことだ。
明治の地図が便利なので結合しまくろうとしていたが、いずれにせよデカい地図はN-08Dで見れないので部分部分に切り分けることになり、それならノートパソコンが固まるようなバカでかい地図を作らなくても比較的小さい範囲で適宜結合してから切り出せばよいことに気付く。
田山花袋の『第二軍従征日記』がおもしろく最近ちょっとづつ読んでいる。戦闘員ではないのに写真班として前線近くを行ったりきたりして傍観者としての記録になっており戦場旅行日記のようなおもむきがある。田山花袋という人はその蒲団だとか耽美とかいう話とかしか聞いておらず実際に読んだことはないのに勝手にヤサ男だとおもっていた。この日記みても写真みても違うよな。ごっついおっさんが萌え萌えとかいってるようなもんなんだろうか。
蒲団 (小説) - Wikipedia
出ていった女弟子の蒲団の残り香をかいで泣くとかだからめめしいだけじゃなかろうか。しかしそのころはゲス小説が流行ったんだなぁ。
チャンコロの起源はあいかわらずわからんのだが、日露戦争のとき、使っていた苦力を「チャン
「チャンコロ」さがしをやっているといろんなことがついでにわかり、そのついでの方がおもしろいのであんまり期待せずにやっている。
huginというパノラマ写真をかんたんにつくれるツールがあったのでやってみた。やっとつかいかたがわかった。
垂仁陵。カコイイ!
下は昨日行った當麻寺。
Kindleの本って画像のサイズが制限されてるのか。面倒くさいな。写真を選ぶのが面倒くさい。
写真を圧縮せずにそのままでつくってN-08Dでみてみた。うーん。css改良の余地があるな。あとファイルサイズがでかすぎる。やはり710枚は多すぎか。上下二篇に分けたほうがいい
今日は當麻寺の練供養なるものがあるらしい。
近鉄ハイキング 中将姫伝説の當麻寺で練供養を楽しむ
大和西大寺 → 近鉄下田 480
大和西大寺 → 二上 540
大和西大寺 → 二上山 610
二日前に自転車で行ったところまで電車で行くのも微妙な話だが。
13時ころ二上山駅に到着。近鉄下田から歩いた。地図配布開始12時だけあって人はまばら。ジジババが三々五々歩く中、どうせ一人なので適当に歩く。
その前には今は神社があるがこっちもややこしい由緒があるようだ。このハイキングルートの他の見所として中将姫の墓とかあったが本物なのか?
傘堂。郡山藩主の本田政勝を祀ったものだという。郡山藩は初期は家がコロコロ変わっているので、変わったあとの遺徳をしのんでつくったものなのかと憶測してたけど帰ってから調べたらそうではなかった。横にある木の説明板が磨きすぎでよく見えなくなっていたが、もともと鐘があってそれに「恋王の私情に勝えず」「一恩永伝」とか書いてあったらしい。うーむ。衆道の契りのモーホー関係か。
また、そんときはなんでみんな傘堂の幕の中に入るのかわからんかったが、これにはポックリ信仰があって、柱に背中をつけて一周すると苦しまずに死ねるらしい。うーむ。
近くに古墳があり、石室丸出しだったが、當麻寺でジジババがしゃべってたところによると、大津皇子の最初の墓だろうということだった。
當麻寺の練り供養だが、ものすごい人出だった。それは上の写真の通り。まぁしかし普通のイベントになってるな。横にいたヨレヨレのバァさんが今年も見れたとか言ってた程度だが、やっぱり仏像をみたらナンマンダブナンマンダブとか言いだしてくれた方がおもしろい。まぁもうそういうのははやらんのだろうか。
かなりどうでもいいが陣取っていた生垣の向こう側にすごい美人が来て写真にちょっと入っていたので切りぬいてはっておく。写真の端なのですこしゆがんでいる。正面から撮っといたらよかった。というか声かけろって? いやほんとですね。
というわけで帰るころには二上山の間に日がしずんでいた。今日も暑かったのでまた上から下まで洗濯した。
当麻寺か當麻寺か。
朝の3時すぎに目がさめて寝ようとしても眠れない。3時間あまりしか寝てないのか。
今、中堅サラリーマンに「管二病」が急増している | 日系パワハラ
実践倫理宏正会のおばはんが来た。朝起き会とかいうやつだな。早起きにつかえるかとすこしおもったがそもそも会場が遠かった。訪問販売とか来ないかなー
日記に写真をのせると見栄えはよいが結局ダラダラ書くのを助長してしまうのではないか。要点だけ書く方法を考えよう。
暑い。この分だと夏には炎熱地獄が待ちうけているかも。
あんまり暑いのでジュース買ってきたら今度は汗がでる。
txtからepubをつくるスクリプトつくってみた。ある程度できた。こうして電子書籍にしたのをN-08DのKindleアプリでみるとさすがにみやすい。
だいぶできてきた。
当社では、お客様に満足度の高いお買い物をしていただくために、パブリックドメインの本については差異のない複数のアイテムを取り扱わず、無料版を1点のみ提供するものとします。当社では、作品の独自性を以下の条件に基づいて判断します。あたりまえか。人の褌だしな。勉強代勉強代。
よし次は被災地見物写真集だ
jpg/gif 一枚あたり127KB以下
いい天気だ。
今朝トライアルにいくとまた半額の肉があったので今日は焼かずにまた炊飯器トマト煮にした。晩には食えるだろう。
しかし肉の値段はよくわからん。鶏の胸肉はいつも100g50円以下なんだが。
とりあえず二上山博物館でもいくか。しかしあのへんまでいくのに自転車で延々走るのがいやになってきた。自転車を置いていきたい。
まずいつみてもカッコイイ垂仁天皇陵の横を通り、郡山までまっすぐ南下。今日は明治の地図を参考にして明治の街道をたどりながら法隆寺方面までいく。
やっぱり旧街道筋はなかなかおもむきがあってよい。昔の交通のメインルートから外れて一気に寂れたところとかとてもいい。庚申信仰の寺なんてのがあった。左はその寺の近くの寂れた商店街の店。中の写真は小泉神社の表門。茨木城の裏門を移築したもの。門といいながらスカスカなのでくぐりぬけれるあたりが神社らしいが、本来の裏門もそうだったんだろうか。
他にも地図をみながら歩いている人達がいたので旧街道巡りは流行っているのかもしれない。そのまま適当に行くと法隆寺についたので、金のかからないところをパチパチと写真にとった。右は法隆寺の中の鎌倉時代の建物。鎌倉時代くらいになるとなんかカッコヨクみえてくる。ここの奈良時代の門は東大寺の転害門みたいな質感はあったが、いまいち。小泉神社は高台にあり、南の方がよく眺められたが、今日は霞んでいた。やっぱりこないだよく見えたのは運がよかったんだろう。
法隆寺のはずれに藤ノ木古墳があって、そこからでたものの模造品が斑鳩文化財センターで展示してある。藤ノ木古墳があったところに昔寺があったそうだが、その寺があったおかげで盗掘されたかったのではないかという話になっている。その寺の昔の図面では崇峻天皇陵ということになっていたそうだ。で、斑鳩文化財センターにいくと、おばちゃんがおばちゃんっぽい客あしらいで映像ルームに通されたのでしかたなく紹介映像をみた。町長が何回もでてくる上に、36歳で町長になったときに藤ノ木古墳が発掘されたとか言っていたのであとでおばちゃんに聞いてみると、もう5期もやっているらしい。一応ちゃんと選挙はやっていて対立候補は立つがそれでも勝っているらしい。今しらべると7選目なのでもう60は越えている。
映像でどっかの学者が言っていたが、それまでの出土品は新羅系のものばかりだが、これは風がかわっていて昔アフガニスタンで発掘したのとにているととか言っていた。とは言っても歩揺がチラチラついているので遼西の鮮卑の慕容氏系のものとかなんだろうが。ソグドのデザイン → 慕容燕 → 高句麗 -..→ 倭 とかか。
明治の地図をみてもよくわからんので、そこから南の香芝の方にいく道を聞いてみたが誰もちゃんと知らない。観光案内所に行ってみたがまぁみんなあんまり知らなかった。道なんか興味ないんだろう。
とはいっても斑鳩から香芝へいくのは谷間になっているので一本道であって選択の余地はなかったりする。168号を南にくだっていったが途中で古そうなところがあったのでそこへ分かれていった。
二上山博物館は写真とってもいいらしいが申請の紙を書かされたり、ネットにアップしないでくださいねとかいわれたので上げない。石器時代からのサヌカイトの産地ということだが、この辺でそういうのが取れるのは火山があったかららしい。二上山がサヌカイトの塊なのかとおもっていたがそうではなくて、二上山の北麓のあたりが昔の火山の火口で、そのあたりにゴロゴロとでてくるものらしい。しかも石器として使ったものは全体の量のほんの一部だとかおばちゃんが言ってた。なんでかしらんが解説のおねーさんとかいない。どこにいってもおばちゃんおっさんだ。おばちゃんおっさん連中は知ってる事の差がはげしい。詳しい人は詳しい。詳しくない人は詳しくない。二上山博物館は暇だったのかおばちゃんふたりでいろいろ説明してくれた。あれこれ聞くからだろう。
石器として使われたサヌカイト、石棺とか石塔とかの材料としてつかわれた凝灰岩、研磨材としてつかわれた金剛砂の三つがメインテーマ。まぁサヌカイトとか凝灰岩とかはいいとして、金剛砂だが、一時期日本の9割くらいのシェアがあったらしいが、産業の実態としては個人経営の組合だったそうだ。今は二軒くらいしかやっていないとか。
二上山博物館を出たとき3時すぎだったので、もうひとつ行くこともできるが、こないだ桜井までいったとき帰ったころにはヘバってしまったので、それを考えるととっとと帰った方がいい。というわけで順調に帰途についた。
香芝から高田にでる。高田から北へ郡山に行く道が江戸時代の下街道のようだが、道がくねくねしてわかりづらい。この一帯は盆地の川が大和川に集約されるところなので開発が進んだころになってようやく街道として成立したんだろう。川が集まっているあたりはどこがどこやらよくわからなかった。そんなに固定してなかったような感じもある。全体に下街道はさびれたのを通りこして普通の住宅地に転換してしまったような感じのするところが多かった。
途中筒井順慶の墓なるものがあったので寄ってみたが、閉まっていて近寄れなかった。最終的にいつも曲っている大和郡山の商店街の南の端にでた。これで輪をかいた事になる。
二上山博物館の企画展示が道標の拓本で、香芝の古道をちゃんと地図に図示してあった。斑鳩の方から香芝の方を通る道も二本あった。こういうのが斑鳩の方にもあればよかったのに。それはそれとして、香芝は飛鳥橿原方面から大阪にいくときのメインルートであったらしい。そもそも大坂の大坂自体が香芝から山を越えて河内にいくところの峠のことだったようだ。ちなみに最古の官道竹内街道はもうすこし南を通っているらしい。斑鳩の方から香芝を通って吉野の方に抜ける南北の道は信仰の道だとか。
生駒山の東にもうひとつ低い山並みがあるが、金剛山二上山の東にもおなじように低い山並みがあるのに今まで気付かなかった。大和川を真ん中にして北と南に同じような地形がひろがっていたということか。うーむ。
ひさしぶりに夢。
大学の教室っぽいところに入る。キツそうなおばさん教授が英語の分厚い本をひらいて「ヨネウチヒサシ」のヨネの漢字はなにとだれかに聞いている。予習してなかったんだろう、その人は答えられない。その本をまだ見もしていないが、誰も答えないので手をあげて自信満々に「天」ではないですかと答える。はぁ?みたいな反応。気にせず悠々と本を開き、その箇所をさがすのにまず巻末索引をみる。Hisashi Yoneuchi ..さがしてもみつからない。焦ってもっと後ろの方をみるとなぜかカナがまじりだす。米内..そこでそもそも「天」はありえないことに気付く。
他にも断片的におぼえているシーンがある。寮の同期の極楽トンボが登場し、来月の試験をうけて大学を一からやりなおしだみたいなことを言う。で、それに影響をうけて、おれもやりなおすかなみたいなことを考える。
そして目がさめて自分のおもいあがりがはずかしくなり、「少年易老 学難成」だなとおもいしる。何の学問も成らずに小手先の器用さと博覧でここまで泳いできたな。
雨の合間を縫ってトライアルにいくと、味付け豚肉が半額になっていた。ヨーグルトも買ってきたがミューズリーが切れているのに気付き、朝から肉を焼いて食っている。
何かで見て気付いたことを日記に書くとき出典も書いとくと後で検索しやすい
SoundHoundというアプリで、鼻歌で曲検索できるらしいと知り、とりあえずいれてみてトルコポップとか亮剣の主題歌「中国軍魂」とか鼻歌してみたけどひっかからんかった。トルコポップの方はインドポップがひっかかった。ほかにも類似アーティストにインドポップが並んでいたのはそれっぽい。youtubeできいてみたらかなり古いインド映画の曲だった。あと全然似ていない。
Mukesh - Main To Ek Khwab Hoon - Himalaya Ki Godh Mein [1965] - YouTube
もう一回がんばってみたら「合致する曲がない」となった。中国の方はからきしダメだった。ダメなのかとおもってイエスタデ〜とやってみたらすぐ検索できた。英語曲は大丈夫なんだろう。おもちゃとしてはけっこういい
青柳篤恒 早稲田関係の清語屋
原口新吉 同じ
神田錦町二丁目の清語学堂は早稲田支那語教授連の出稼ぎ学校だったのか?
著作権の切れた明治の本のテキスト起こしして解説つけてKindleで売ってやろうとおもってとりあえずテキスト起こしまではやったけどその先がまだ調べつかん。
面倒くさいので EPUB3::かんたん電子書籍作成 にサンプルをつくってもらって作り方を覚えることにする。
→ なるほど感じはわかった。
→ N-08DのKindleディレクトリにほうりこんだら読めた。なかなかいい。これからEPUB3の仕様を読むことにする
なんでこういう仕様書をキチキチ書く人は絵でわかりやすく説明してくれんのかな。
EPUB Publications provide a rich array of options for adding Publication metadata.こういう文章読むだけでイライラしてくる。絵じゃなくてもいいから表にしてほしい。
そういうと最近布団で毎日ゴロゴロしているとなんかスえたにおいがするようになってきた。これが加齢臭というやつだろうか。
FeatureMatrix EPUB 3 Sample Documents
サンプルサイトみっけた
朝トライアルに偵察にいったら焼き肉用豚肉半額があったので買ってきた。とりあえずニンニクと塩をまぶして置いている。醤油があったら醤油かけとくんだが。
まぼろしの汽車みちを歩く|交通科学博物館
幻の鉄道 大仏鉄道(加茂駅~大仏駅~奈良駅) - 木津川市
大仏線遺構めぐり
大仏鉄道が廃止になったのは関西鉄道が奈良鉄道を合併して木津に線路を集約したからだが、選択されなかった理由として
奈良にディズニーをパクったドリームランドというのがあったらしいが、その系列で横浜にもドリームランドがあったそうだ。そして横浜のドリームランドにはヘイヘイおじさんなる名物従業員がいたそうだ。
ドリームランドの名物キャラ、ヘイヘイおじさんの現在は?[はまれぽ.com]
いいはなしだな〜
最後に筆者との記念写真があるけど筆者が真顔でうつってるのがいただけない。ギョっとしてしまった。そんな写真のせるな。
今日から明日にかけて雨ふるそうでもう今からあやしい天気になっている。でかけるなら昨日のうちにどっかに行くべきだったなぁ。
川口氏解任「国益より政局」批判…野党に誤算 : 読売新聞
どこまでも墓穴を掘る民主党...
自分の都合しか考えられないからそうなるんだ。
歴史人口学から見た江戸時代農村の結婚について | Kousyoublog
農村では離婚再婚が普通のことだったというのは、うちのほんの数代前もそのとおりだった。
雨がぱらぱら降ってきているのでお昼まえだが肉でも焼いて食おうとおもう。→ うまかった。
一年の1/4は「住むため」に働いている?高すぎる「家賃」をどう考えるか - ihayato.書店
なるほどこういうレベルのアホなこと書いてるからいいおもちゃにされてるのか。最後には読みもしない本をおすすめ。ただの商材あつかいか。
【カップル閲覧禁止】独身OLのすべて | オモコロ特集
『独身OLのすべて』 まずりん
たしかに雨降ってたけどたいしたことなかったので電車ででかけてもよかったか。
こういう緊張のない生活をつづけていたらボケが始まるんじゃなかろうか。
王朝交替説 - Wikipedia
この辺の巨大古墳の分布が大和盆地東南部から河内に移るのは常識に属することで、三王朝説なるものもそれをもとにしているらしい。
ヤマト王権 - Wikipedia
くわしすぎるぜよ...
20世紀後半が日本の敗戦で日本書紀なんかが否定された時代だったのは考古学や日本の古代史にとってはよかったのかもしれない。考古学の成果が、そのままではないにせよ、大筋では日本書紀の記述に沿うような形になりつつあるけれど、20世紀後半のその空気がなければすぐに結びつけるような人ばかりになっていたかもしれない。
もっとも西洋の考古学が聖書やギリシャ神話の裏取りのような形で始まったのを考えれば、そう杞憂するほどのことでもないかもしれないが。
この項目の字数を勘定してみたら24700余あった。400字詰め原稿用紙で62枚分か..
昨日の地図ソフトをなんとかうごかして明治の地図をダウンロードして結合した。うーん。いいね。
上街道はおととい自転車で通った通りだった。
加茂方面からの帰りに「大仏鉄道跡→」みたいな掲示があちこちにあったが、その線路も実在していた。今の関西線と別れ木津を通らず直接奈良に接続していた。
中街道は天理のあたりで中ツ道から下ツ道へスイッチしていた。うちの南の辺を通って暗峠にいく道は暗越奈良街道といわれていた。垂仁天皇陵の北をかすめていくのが当時の道らしい。下ツ道沿いにそのまま北まで行かなかったのは、郡山に行く道と平行していたからだろう。
真夜中におきて昨日の分の日記かいたのでねむい。無理はたたる。
modern が「モデム」にみえる。
茅原大墓古墳
桧原神社から降りていく途中で近くを通ったはずだが気付かなかった。この一帯に古墳が大量につくられた古墳時代前期の最後の古墳にあたり、今のところ見付かっている最古の人物埴輪がでてきているとか。その後巨大古墳の中心は河内に移るらしい。
人物埴輪はそれまで河内の古墳が最古だったそうだ。土師氏-野見宿禰-垂神天皇とかのエピソードはただの土師氏の伝承なのだろうか。
唐古・鍵 考古学ミュージアム 田原本町阪手233 生涯学習センター2F 近鉄田原本東北東徒歩1.5km
二上山博物館 香芝市役所北 近鉄香芝西徒歩0.6km
葛城市歴史博物館 近鉄忍海北西すぐ
五條文化博物館 五条は遠いかな
やっぱり docomo よりも au の方がよかったなぁ。焦って買わなければよかった。なにがいいといってサービスがいい。もうすこし待って AquosPad 買ってたらよかった。いまだに携帯のメールとか変更したの連絡してないしなぁ。まぁ2年ほど中国方面にいてだれも連絡してきてなかったんだから大丈夫といえば大丈夫だが。
とおもったけど N-08D 買ったの10月末だったんだな。あと一ヶ月半待てというのは無理だったし山奥生活では docomo 一択だったからしかたない。選択の余地なし。
サイクリングロードは自転車が通りやすいというだけで古い道ではない。古い道があるときは古い道を通った方がおもしろい。
時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ2」|旧版地形図の比較に
こんな便利なもんがあるのを今まで知らんかった。さっそく入れよう。→ wineでうごかん。
やっぱり旧版地図をみるには図書館にいくしかないかとおもって時計をみたらもう19時前だった。日長くなったなぁ。明日にしよう。
今日の晩飯はトライアルの安物づくし。中華そば+納豆+もやし。
ビルマの西北への侵攻
1795 アラカン王国征服
1814 マニプール王国を支配下にいれる
1817 アッサム王国を支配下にいれる
1818 東ベンガルをイギリスに要求
1822 東ベンガルに侵入
1824-26 第一次英緬戦争
1826 ヤンダボー条約でそのへんを手放す
--- それから26年 ---
1852 第二次英緬戦争で下ビルマをとられる
--- さらに33年 ---
1885 第三次英緬戦争で王都陥落
1886 イギリス領インドに併合される
djvu は djview で、pdf は mupdf で見るようになった。evince はなんかおもい。
今日は自転車で山の辺の道のあたりを桜井まで行ってきた。疲れた。
まず奈良駅前の観光案内所で山の辺の道のことを聞くと、桜井市作成の地図をだしてくれたのはいいが、天理から桜井までしかない。奈良から天理はときくとないとかなんとかいう。あとでそういうルートがちゃんとつくってあるのをみつけた。観光案内所は得手不得手があるんだろう。聞かずにパンフのおいてあるコーナーであさっていればよかった。
というわけで、奈良から天理まではだいたい169に沿って行った。天理にちかづくと和邇下神社というのがあり、古墳の上につくってあるところがいよいよ古代エリアに来た感じがする。
しかし肝心な事を忘れていたのだが、今日は祝日の翌日で資料館系は全部休みだった。まぁ自転車で遠出をして古墳めぐりをしたということか。
写真は順に和邇下神社、石上神宮の鶏、夜都伎神社。和邇下神社の麓にあった柿本寺とやらの跡をみたあと天理教の前をとおり石上神宮にいく。想像より小さいので拍子ぬけする。そもそも本殿なんかもなかったらしい。境内の灯籠なんかに布留社としきりに書いてあったが、あれはその後各神社にいくと地名+社という形で書いてあるのが普通だったのでそういう扱いだったんだろう。石上神宮の南に神宮寺であった寺の跡地があった。こっちが大伽藍だったようだが廃仏毀釈で消えたらしい。規模からみると江戸時代までにはこっちが本体になっていたような気がしないでもない。
夜都伎神社は小さな神社だが茅葺きが珍しかった。
環濠集落というのがあったが、弥生時代ではなく、室町時代とかの話だった。周囲に堀をめぐらしたのが今でも一部のこっているということだった。古墳の堀にも似たような感じがあり、実際古墳の堀と結合しているところもある。
このへんから古墳が増えてくる。中の写真が衾田陵。右が崇神陵。崇神陵の写真の向こうに見える二つ峰がかさなっている山が二上山。この近くの見晴らしのいいところの木陰に椅子をおいて座ってたおっさんがいたが、毎日夕日が二上山のあたりに沈むのを眺めているらしい。おっさんによると今日はこの季節にしては珍しく見通しがよいのだとか。
左がそのおっさんが二上山を眺めている姿である。中はそのおっさんにおしえてもらった三輪山撮影スポットで景行陵の先にあった。二上山は単純にこのあたりの向かい側にあるだけだが、重要さがなんとなくわかった。右は兵主神社。このへんで野見宿禰と当麻蹴速が相撲したからというので相撲の神社になっているらしい。だいぶ高い所にあって人がそんなに来ないからか、拝殿とか開けっぱなしだった。
檜原神社、箸墓古墳を檜原神社から降りる道で眺めたところ、箸墓古墳を西から眺めたところ。
檜原神社は元伊勢らしく、皇族の女性が神につかえるところであったらしい。そこから道をまっすぐ降りたところに箸墓古墳がある。でそのあたりに纒向遺跡があるわけで、纒向遺跡を最初のヤマト政権の都市だと言いたい人がいるのもわかる気がする。
大神神社はどうでもいいとして、そこから桜井駅の方にいくと、大和川にでる。このあたりは
桜井駅までついてからどういうルートで帰るか検討したが、上つ道で帰ることにした。といってもサイクリングロードでいう上つ道はどうも信用できない。桜井駅から北へまっすぐのびる道を道なりに走ってみたがこれがよかった。近世の上街道とやらで、古い町並みがずーっとつづく。日も暮れかけでしかも帰るだけだったが走っていて飽きなかった。右は天理の本来の中心の丹波市。道にかかっている屋根はバスの車庫とか停留所ではなく、市場のアーケードだったらしい。昔はもう一個あったとか。
ということで帰ったらもうまっくらになっていた。疲れたのでメシくったら寝てしまい、日付もかわってから日記を書いている。
筋肉痛がどんだけでるかとおもったが大したことなかった。山をのぼっておりただけだし大した運動じゃなかったんだな。
鉄道遊撃隊に無理矢理のせてた数字譜を五線譜にしなおした。
中国軍カラコルム峠の南から撤退ということで。
頭写真つけてみた。1年半くらい前のだが。
昨日の山歩きコースの地図がカバンの奥からでてきたのでよくみたらスタートからゴールまで約10kmだった。駅からスタートまでが1km弱、ゴールから駅までが3kmということで合計14kmということらしい。高低差400mある10kmの道を二時間弱であるいたのはやはり早すぎる。精華町まで自転車通勤した後遺症でふとももの筋肉が太くなったんだろうか。いやまぁ実際降りるときは地面を蹴りながら適当に落ちていくので常人よりも早いのは間違いなく、そのせいもあるとおもう。
うーむ。あーそうか。サイクリングロードってあの道と違うのか。
金剛生駒紀泉ハイキング2013 新緑の五月、二つの峠を越えて
ちょっと今日はこれに参加してみようかとおもう。こないだ自転車で行ったところへ大阪側から登るという趣向。ちょっとググると毎回数百人が参加するような大掛りのものらしい。さてどんなもんだろう。
八尾から登っていったが最初の十三峠に到る道は昔の街道であったらしく、ところどころ「たつた」と書いてある道標があった。斑鳩の龍田が大和川方面の奈良盆地の入口の最初の目印だったということだろう。
左は玉祖神社の屹立する石。登る道の途中に「スケートボード禁止」と書いてあったんだが、あんな山道までスケートボードやりにくる根性があるやつがいるらしい。まぁあとは普通に山道だった。しかし普通に山歩きしてる人が結構いた。十三峠と鳴川峠の中間に鐘の鳴る展望台というのがあるのだが、コンクリートの階段だけがあり階段のつきあたりからの展望が望める。ちなみに自動車道もあってそこの駐車場から家族連れとかカップルが登りにきていた。
終点は役行者ゆかりの千光寺。奥の行者堂の前に鉄錫杖があり、これを三回もちあげると「良き
今回の参加者は910名だったらしい。たしかにものすごい人だった。しかし今回ひさしぶりの山歩きということでちょっとがんばってみたが、無用な頑張りであったらしく、着いたらゴール受けつけ開始より一時間以上前だった。所要2時間弱。コース案内には14kmと書いてあったがそんなに長い山道を2時間弱で歩けるわけがない。せいぜい7km程度ではなかろうか。
ということで昨日今日と汗かいたのでせっかくだから図書館の近くのスーパー銭湯にいってくる。
→ 闇金ウシジマくんを4巻分ほど読んできて引き上げた。
audioタグ便利だな。
昨日調べたことを追加した。あとaudioタグで音を出すようにした。鉄道遊撃隊も楽譜を五線譜にして音をaudioタグで出すようにしよう。
1928 孫殿英、西太后と乾隆の墓を盗掘
激流さんが自転車で京都から来るとかいってたのだが、朝の10時すぎに到着してた。早すぎ。聞くと朝の6時すぎに出発したらしい。しかも山崎の方まで迂回していたらしい。
ファイルをもらって昼飯を食いにいってついでにいっしょに木津まで自転車でついていった。激流さんはそのまま木津川左岸を川ぞいに下るということだったのでそこで別れて下狛へいった。
高麗寺跡をちょっとみたあと府立山城郷土資料館へ。こんなとこに府立の施設があるとおもっていなかったので意外だった。企画展示で縄文土器をやっていた。あんまりないとおもわれていたが最近縄文土器が続々みつかっているらしい。それも草創期のころからあった。縄文土器は厚手、弥生土器は薄手といわれているが、縄文も晩期になれば十分薄かったとのこと。企画展示はなぜか写真禁止だったので撮ってない。常設展示の方でもこのあたりのピークは古代という感じがビンビンつたわってくるが、中世集落の跡というのがまた最近続々みつかっているらしい。消滅した中世集落がたくさんあるということだろうか。あと山城の国人一揆ってただ土豪が一時的に権力握っただけなんじゃないのとおもわないでもない。
その後ついでに恭仁京跡を見にいった。ゆるやかな扇状地の高いところがすこし台状になっていて、そこに宮を置いたようだ。そしてそういうところは今は小学校があると。ここの小学校は昔なつかし木造だった。まぁなつかしといってもたいていの人にはなつかしくもなんともないんだろうが、うちの小学校は木造だったのでなつかしい。小学校の裏が大極殿のあとで、横に塔のあとがある。聖武天皇はここにいるあいだに国分寺の政策をかかげ、恭仁京を廃止したあとはその建物が山背国の国分寺になったらしい。
あと平城京の第一次大極殿をここに移築し、そのまま国分寺に引きついだそうだ。第一次大極殿というのは今平城宮跡にたっているパチモンのあれである。
右の写真は恭仁京跡とかがあったところを南の川の橋の上から見たところ。
ということでその後加茂から山のなかを通って帰ってきた。たいしてけわしくないだろうとおもっていたらその通りだった。ついでに県立図書情報館に行って調べ物していた。
宋哲元が喜峰口で戦ったという服部旅団のことを調べにいったのだが、そしたらその御本人が熱河作戦について書いた本があった。数字も経過も細かく書いてあり具体的でおもしろい。ただ、中国側が大勝利を喧伝した相手のことなので逆宣伝の意味もあるとおもわれ、どこまで信用していいもんかわからない。この図書館は戦争関係の本を集めているといいながら戦史叢書すらそろっていないのでそういうこともまともに調べられない。
当時の新聞の切り抜きをまとめた資料(日本人作成中国出版)をみてると宋哲元とか孫殿英とかが長城線での英雄になっているが、日本軍が熱河と河北の境目の長城より先までは出てこないとわかっていたからこそ、長城で騒いだだけなんではなかろうか。その数日前には張学良が実質的に地盤をうしない、お役目返上しているので、道連れになりたくなかったんではないか。だいたいその後の活動もパッとしない。しかし孫殿英の方はこのときに売った名前が効いたのか、1943年に日本側に投降してるのにその後漢奸あつかいされずに生きのこっている。
今日も朝からトライアルに行ってきたが肉の半額はなかった。これからなるべく朝に行って肉の半額がないかチェックしよう。
というかもう5月なのか。早い。
図書館の近くのスーパー銭湯だが、行くと450円になる券をくれる。
地域 | 銭湯の料金 |
東京 | 450 |
大阪 | 410 |
京都 | 410 |
近くの阪奈道路ぞいのマクドナルドと奈良ファミリーのマクドナルドに行ってみた。奈良ファミリーの方は二階席があって電源がすこしある。しかし祝日の夕方でこの程度だとすると平日とかどれくらい空いてるんだろう。まぁどこも二階とかこんなもんか。
3月までのバイトで世界の行政区画のポリゴンを標準化してmysqlにつっこんだけどあのテーブル持って帰ってきてたらよかったな。データはネットにころがっているものだけに同じことをやればよいだけだとはいうものの。
まぁmysqlの地理ポリゴン表現は非標準的なのでやるなら作り直した方がよいということか。
テーブルの構造は至極簡単で、
その行政区画名 | 国名 | 州県名 | 市町名 | 村区名 | ポリゴン
みたいにして、国全体を表現するポリゴンなら国名だけ、州県を表現するポリゴンなら国名、州県名だけ、という感じでじゃんじゃんつっこんでいく。なかなか便利だった。
Vala
作りかけで放置してた抗日コンテンツがあった。完成させて今日中にアップしとこう。
鉄道遊撃隊のときは数字譜をがんばって入力してたけど、今度は Lilypond つかってちゃんと五線譜で書く。
最近朝ダラダラしているので今日は朝からシャンとしようとおもいトライアルに朝飯買いにいったが阪奈道路の地下道の入口で自転車のペダルがブロックにひっかかってコケてしまい、あちこち痛い。
自転車で奈良街道を通って
左の写真は大和郡山と奈良の別れ道。左側が奈良。ここから急になって自転車を押して上がることになる。大阪と奈良の間にある山は大阪側が険しい崖になっている。岩盤の向きだろう。イングランドとスコットランドの境目のあたりもイングランド側に険しい崖が向いていたが、まぁおんなじような仕組みなんだろう。
真ん中の写真が山を越えたところから生駒山を望む。生駒山は奈良からも見えるので古代は相当仰がれたにちがいない。左の写真は降りたあたりにある行基の墓。
行基の墓の案内板は大正13年に内務省が立てた木製のものがそのまま使われていたが、「行基は奈良朝時代の高僧でありまして」というところに「渡来系の大僧」とかいう落書きがマジックでしてあった。どうせ在日朝鮮人がやったことだろう。そういうアピールが盛んだった80-90年代か。くだらんことをするもんだ。
生駒から平群へは川が通じているが、その境目は急流になっている。途中に綱を渡しているところがあった。この綱は男女をかたどっているらしく、豊年祈願の意味もあるらしい。土俗的なものがでてきてなかなかよい。平群に降りると生駒とおなじように土地がひらけている。あすのす平群という施設が資料館かとおもっていたが、ただの図書館だった。資料館的なものはないらしい。中央公民館の中に埴輪がすこし展示してあっただけだった。長屋王の墓というのもまぁたいしたものでもなかった。三里古墳というのがあったが石室がむきだしになっていてなかなかよかった。すぐ横まで畑になっていた。
平群から龍田川ぞいに斑鳩まで出るとなかなか趣きのある町並みになっている。ここは大阪から大和川沿いに大和盆地へ入ったときの最初の宿場町で、ここから大和盆地の各地に分岐するという重要なところであったようだ。
右の写真は龍田神社の境内にあったもの。「金剛流発祥の地」らしい。
ということで斑鳩についたころにはもういい時間だったのでとっとと帰った。途中ダイソーで自転車の油を買って差してみたが十分すべっているのかあんまり効き目なかった。
トライアルで中華そばと納豆を買って食うことがよくあるが、今日は中華そばではなく焼きそばを買ってみた。両方とも150g16円。焼きそばには油が練りこんである。あとトライアルでバカみたいに安いもやしと油揚げを買って炒めてくってみたがうまい。しかしこの調子だと中華そばでもできるような気がしてきた。今度中華そばで焼きそば風に蒸してみてどうなるか実験してみる。
そういうと平群の道の駅に「へぐり」は
N-08Dで写真を撮ると白くなり気味だが、そのへんの調整をどうしたらいいかだいぶわかってきた。フォーカスの四角を画面をみながら手で移動できるので、ちょっと白いなーとおもうところにその四角をもっていくとホワイトバランスがそこ基準になり、だいたいいい感じになる。画面がでかいだけあって調整もしやすい。
建物の場合、影が暗くなりすぎてしまうことがあるので、影のところをよくみたい場合は白くさせるしかないが大抵の場合N-08Dの画面上で暗くてもPCで見る分には問題ないことが多いこともわかってきた。
とはいっても人間の目はそのあたりのことは自動で明るいところをマスクして解決させてるので人間の目とおなじようにはできない。高いカメラだったらできるてるんだろうか。まぁ高いカメラを買う予定はないので四角を手で動かしていい感じにするのに慣れるしかないな。
vim の後方参照
:%s/-\([0-9][A-Z]\)/-0\1/しらんかった。便利やな
タッチするだけでライトがつくアプリをさがして何個か入れたけど、ライトのアプリは怪しいのが多すぎる。ライトつけるだけなのになんでネットワークが必要なのか。しかも後でみるとネットワークを実際に使っている。広告もなにもないのに。TapLightというのがネットワークなくてタッチするとすぐつくのでそれにした。
SDXCカード64GをFAT32でフォーマットすればSDHCカードしか読めないところが読めるようになるらしい。本当か?
2014中日戦争読んでみたけど展開があほらしいのでやめた
そういうとここに住みはじめた最初のころにあやめ池の方から帰ったことがあり、そのときに菖蒲南池の方を見て狭山池とおなじようにつくられた古代の人口池だろうと見当つけたが、あの池は蛙股池と言い、日本書紀にある菅原池が変化したものらしい。
秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐。以鞍作福利爲通事。是歲冬、於倭國、作高市池・藤原池・肩岡池・菅原池。山背國、掘大溝於栗隈。且河內國、作戸苅池・依網池。亦毎國置屯倉。推古天皇15年ということで607年とか。
日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀
他の池
高市池 ?
藤原池 明日香村小原にあったとされる
肩岡池 王子町本町の芦田池
菅原池 あやめ池の蛙股池
栗隈大溝 城陽市
戸苅池 羽曳野市蔵内 戸刈池
依網池 住吉区我孫子町 大和川の付替で機能消滅
これらが最古の人工池なんかでないことはわかった。
雨。
天気がよいと布団の中でグズグズして時間を無駄にしてしまうが天気が悪いと外にでかけれないのがもったいない気分になる。おそらく天気が悪いと布団の中も気持ちよくないんだろう。(ひねくれた奴だという意見は黙殺する)
結局今日はトライアルしか行ってない。読むもんありすぎる。
こないだ書いた中印国境騒動の記事のなかでgoogle地図にリンクはってたけどリンクの先をまちがえていた... バカだ。まぁいいか。
ふむ。世間は連休か。
情報をダラダラ発信しつづけれる人間というのは限られている。twitterとかそういうのがでてきても結局ダラダラ発信しつづけれる人間が残ることになるだろう。何の利益もなく何程の値打ちもないのにダラダラ発信しつづけるのは難しい。
とおもったが、よくよくかんがえればtwitterとかどうでもいいことをべちゃらべちゃら並べているのが大半で、自分はそういうのを選別して目にはいらないようにしていたから見えなかったのだった。
カラコルム峠ルートはチベット高原の隅を横切る。フンジェラーブ/ミンタカ峠ルートは横切らない。
<参院山口補選>自民が圧勝 民主と勢力並ぶ 毎日新聞
共産党が幸福の科学の二倍程度しか得票できないところが哀れをさそう。
天気がよいのでどっか行くか
遠くにいかずにとりあえず平城宮跡資料館の発掘速報展示をみてきた。
なるほど平城京跡はすこしづつ発掘しているらしい。第485次調査とか第491次調査とかいろいろあってそれですこしづつどんなことがわかっているのかというのが順を追って展示してあっておもしろかった。あとは写真左みたいに版築の土の実物を置いてるとか。右みたいに過去の図面も展示してあるとか。
時間もあるのでついでに平城宮跡の隅にある東院庭園もみてきた。渤海の東京城(写真右)にも平城京とおなじように都に庭園あったので当時のたしなみだったんだろうな。パチモンの大極殿も見てきたけど中の展示たいしたことなかった。ということでまた帰りに奈良ファミリーの地下にきてラーメンでもくってついでに日記も書いてみた。
今までdocomoのデフォルトのホームアプリの Palette UI を使っていたが、ついに重くなって死んだので、Android のデフォルトのランチャーをつかうことにした。Palette UIをつかっていたのはフォルダが便利だったから。これからはアイコン置きまくりになるがしかたない。やっぱり軽い。
ということでいろいろアプリを見直したりしていた。
2014中日战争 - 铁血读书
こんなんみつけた。
世界を飛び回る写真家からの5つのアドバイス+α : ライフハッカー[日本版]
この写真家の言うことは全部真実だ。本当に旅行している人だ。
1.5Tの2.5インチHDDを二個買ってきて一個をレッツノートにいれ、一個をバックアップ用としてつかい、まるごと保存するようにしたら便利かもしれんな。
というよりはノートパソコンのなかにシステムSSDとデータHDDの二つあれば問題ない。その場合システムのSSDは64Gとかでいいから安くてすむ。
昨日の夜、メールで江藤氏が仕事でつくってる漢文のサンプルをみせてくれたので、LibreOffice の Writer でもできるのかどうか試そうとしたが、そもそもフォントの種類がすくない。とりあえず大量にフォントを入れている間に寝てしまった。
旅行先としてはやっぱり中国よりイランの方が清潔でいいなぁ。
しかし昔撮ったイランの写真ボケボケのばっかりだな。
vmplayerが配布されてなくて、wmware workstationが配布されてた。どっちでもいいや。
昼からならまちとか見物してきた。自転車でぐるぐるまわった。
奈良市最古の神社という
まぁしかし観光客うじゃうじゃいた。
あとはついでに奈良公園抜けて正倉院の方もいったが公開されておらず、転害門みて聖武天皇陵とかみたあと平城宮資料館にいってみたがちょうど閉まったところだった。しょうがないので奈良ファミリーの地下のフードコートで途中もらった資料をみながら麺など食い、冷えてきたところでヨーグルトでも買って帰ってきた。
今日は医者に行って血液検査の結果を聞いてきた。結果どこもわるくなかった。
あとヘルペス(帯状疱疹・水疱瘡)の痕跡すらない。痕跡というのは最近かかった痕跡も以前にかかった痕跡の二種類検査項目があるが両方ともない。痕跡もないのにヘルペスの薬をのみつづけていたわけだが、対症療法的に効いていたのだからしかたない。
2月ごろであれば薬をへらすとたちまち微熱がでて頭痛がでてブツブツ再発だったのだが今は一週間飲んでいないのに再発もしないし頭痛もこない。何の病気かしらんが治ったとみるのが妥当なんだろう。病気というか薬に中毒していた可能性もなくはないが。
左耳の上のあたりがピクピクしていたり、眉のあたりにコブができたりしていたのはあるいは回復期の症状だったのかもしれない。まぁもしくはそれでおそれをなして寝るとき頭に毛布を被ってねるようにしたのが効いているのかもしれない。
とにかくめでたい!
ubuntu を入れなおすか。
入れなおした。なんか変わってるところがある。.Xresourcesのxtermの設定がvt100にしないといけないとか。
とりあえず環境はそれなりに整えたので本を返してスーパー銭湯に行って漫画読んでくる。
スーパー銭湯で弱虫ペダルとドリフターズ読んできた
すがすがしい朝だ。
すがすがしい朝だと言いつつ二度寝してしまった。
あいかわらずラダックの奥の情報は詳しい地図で説明されていないので何がおこっているのか見当つかん。映像の説明は違う国境の情報もまじってたりするし。しかしこの調子だとラダックに入るのだけでも問題ありそう。
これでわかりやすいとおもうけど10kmというと相当奥になる。Burtsaというのが南にあるがそこで10km奥にはいると山のなかになってしまう。たぶんカラコルム峠と Daulat Beg Oldi の間の実行支配線がなぜか中国側にはいりこんでいるのでそこの争いではないかとおもう。実際そんなとこ中国が取っていてもただの交通の邪魔にしかならず意味がないとおもうんだが。しかし飛行場目の前だな。紛争とかになったらすぐに取られそう。
地響きを伴なう雷。激しい雨。
時間を遡ってレーダーで追ってみると、日本海から流れてきた雨のかたまりが大山のあたりで別れつつ六甲山の北をとおって大阪北部平野で結合し、生駒山の北を通って奈良に流れてきているようだ。
ようやく読んだが、中印国境紛争は中国が圧倒的に勝ってる間にとっとと自分から撤退して「実際支配線」を守ろうみたいなことを言って終わったわけで、その「実際支配線」がどこなのか合意が何もない。実際支配線が山の中なら問題ないが、このカラコルム峠とDaulat Beg Oldiの間みたいに線がなぜか道をまたいでいる場合その問題が明らかになる。そういう事だな。
まぁもっとも実際にどこで問題になっているのかわからんので推量にしかすぎないのだが、実際Google地図なんかだとその地点は線が跨がっていないことになっている。やっぱりここだろ。
そういうわけでキンブリ向けの記事にしたててはてなの方にアップした。
インドと中国の国境騒ぎはどこで起きているのか? - メモ@inudaisho
はぁー。結局スーパー銭湯に行くヒマなくなった。チンコでもいじって寝よう。
さて謎の病気は治ったのだろうか。とりあえず頭痛とかないし頭の中の違和感もないので治ったような気がしないでもない。
どうも部屋にいると時間を無駄にしてしまうので、小学校みたいな時間の割り方をしてもいいような気がしてきた。作業時間 → 休憩時間 → 作業時間 → 休憩時間みたいな。
まぁ近くに小学校があって遠くからチャイムの音がきこえるが、遠すぎるので役に立たない。N-08Dに時報を鳴らさすのがいいか。
朝トライアルに行ったら豚肉のこまぎれが半額だったので1kg弱買ってきて炊飯器トマト煮にしてみた。
→ うまそうなにおいが...
今日は本返すついでに極楽湯に行こう。ということで図書館が閉まる前にメモ取り終えてしまおう。
奈良 → 伊賀上野 → 名張 → 奈良 というルートは一日で行けそう。
“仕分けの女王”首相に「予算の無駄」追及 (NNN)
これは追及なのか?自己言及じゃないのか?
ネットがあると無理だ。
そういうとコメント欄に書いてしもたけど身元バレにつながる可能性は排除したいんだっけ。こっちに書きなおしとこ
ワンライナー怖いとか言いながらbashで for file in *.txt;do ...... みたいな処理今まで平気で書いてたので怖いとか言えない。
for file in *.m3u;do sed -i.bak -e "s/c:\\\\music/\/sdcard\/music/" $file;sed -i -e "s/\\\\/\//g" $file;doneついついbashのforループ書いてしまうけど sed に -sとかいうオプションあるからこれでもいいのか。
sed -s -i.bak -e "s/c:\\\\music/\/sdcard\/music/" *.m3u && sed -s -i -e "s/\\\\/\//g" *.m3u
見事雨だ。
Burthe → Burtsa?
Spanggur Gap in the Chusal sector → だいぶ南の方
このへん米軍地図の切れ目にあるから見通し悪いけどやっぱり南の方だな。
いやよくわからん。
製造業の人たちは本当に凄いんだぞ、って話: やまもといちろう
ちょっと図書館に行って新聞でどういう報道がされているのか確認してから金鰤向けの記事にするかな。だれも興味なさそうだし。
新聞報道だめだった。中印紛争全然くわしくない。結局インドの新聞の転載だからなにがなんやらわからん。
で昔の中印紛争の本をさがしてみたら書庫に一冊あったがこれが中国寄りすぎる。さすが全体に左っぽい蔵書の県立図書情報館さま。まぁでもインド軍がグダグダだったのはわかった。そらパキスタンも戦争ふっかけるわ。
まぁしかしチベット高原は結局高原だから移動しやすく、インド側はチベット高原をくぎる山と崖だからインド側が絶対に不利というのはよくわかった。
面接があったので本は全部読まずに借りだし、大阪に行ってきた。まぁなんというかろくでもない仕事っぽい。しかし聞いてると7月までに終わるかもしれないということで結構いいかも。短いに越したことはない。二ヶ月で終われば面倒な社保とか厚生年金の切り替えとかしなくてすむ。
gadm2 という世界中の行政区画のポリゴンを集めたものがあるのをおもいだしてqgisでみてみたけど、レー地区はレー以下の階層がなかった。DBOがどこまでなのか。
日本のTPP交渉参加、賛成派にもギリギリまで隠したUSTR:日経ビジネスオンライン
まぁしかしこのへんあんまり住宅地っぽくて昼間っからゴロゴロしづらいな。
連休がはじまる前にどっか遠くへ行ってモバイルバッテリーがどれだけ使えるか試してみたい。やはり宮崎か。
ルートとしては鹿児島かどっか南の方or宮崎 → 徐々に北上 → 阿蘇高千穂 → 別府 という感じか。
とおもったけどせっかく医者にいったのだから土曜に血液検査の結果だけ聞きにいった方がいい。とすると、本格的にGWに入ってしまうので連休を避けるのは無理だ。
明日また面接に行くことになった。断りづらいし面倒くさい。ブツ切れで小旅行すらも行けんな。
国立国会図書館デジタル化資料 - 桜井忠温『肉弾』
おもしろかったし読みやすい。死体と負傷者の間をくぐって突撃するあたりがすさまじい。機関銃の表現がおもしろかった。
カタカタと音を出すのでカタカタと呼んでいたっぽい。第一回総攻撃で負傷して後方に移動したので、機関銃対策をたてたらしい第二次総攻撃以降の様子はわからない。扨 て機關砲であるが、これぞ實に我等の最も恐るべき火器であつた。此度の戰鬪の後で破壞せる機關砲を分捕つたが、それを見ると、略 ましの仕組は、楯とも見るべき廣き鐵板を通して照準を取り、上下又たは左右に動かしながら引金を引くと、自動的に一分間に六百餘發の弾丸が繰り出されるのであるから、丸で弾丸の棒が砲身から出るやうなものである。又た恰 も喞筒 で水を撒くやうに、動かし方次第に依つて、廣くも狹くも、遠くも近くも弾丸を發射することが出來る。それであるから、一度機關砲の掃射の標的となつたなら、續けさまに三發でも四發でも同じ所を貫かれて大きな疵口を開くのである。
最近縦書きの本をいっぱい読んでいるので横書きに違和感を感じるようになった。
近鉄ハイキング|ボランティアガイドと巡る飛鳥① ~古代の石のアートを行く~
明日これでも行ってこようかな
→ 明日は高い確率で雨だからやめる。
よくよくニュースを読んでみると実行支配線から10km中に入ってると書いてあるな。そしたら飛行場の前まで来てるということなのか?
中国の方で情報さがしてもよくわからん。しかもインドのニュースの転載だし。カラコルム峠方面なのかはたまた南の方なのか。
Daulat Beg Oldi から古来の通商ルート沿いに南にくだると Burtsa と書いてあるところがある。これがニュースで言うところの Burthe なんだろうか。Daulat Beg Oldi を孤立させるのが目的なんだろうか。
薩摩浪士子孫も、批判の現職も落選…彦根市長選 : 読売
井伊の遺恨を言うなら子孫のお殿様を討ちとった現職もクビですよね〜
最近電池消費量でなぜかカメラが多い。どっかのアプリか?
モバイルバッテリーすごい。10000mAhは多すぎだ。半分くらいで軽いのを選んだらもっとよかったけど、これで電気のないところでもどこでもいける。
今日はいい天気だから国会図書館まで行こうかなとおもっていたが布団の中でゴロゴロしていたらいつの間にか昼前になっていた。
国立国会図書館デジタル化資料 - 山国十景
これが非公開の理由を問いあわせてみたところ、編者以外に著者が数人あり、その著作権情報がわからないからであるらしい。
よし国会図書館関西館に行こう。このままだと布団の中で一日終わってしまう。
行ってきた。やっぱりモニターでみるのつらい。だいたい関西館の椅子木製で座高とか変えれないからつらいんよな。あいかわらず遅いし。
山国十景だが、山国十景をお題とした漢詩・和歌集だった。しかも広く募集したらしく結構広い範囲に散らばっている。このそれぞれを著者とするならそりゃ無理だわ。というかこのそれぞれについて一々著者あつかいするなら、こういう無名人による詩歌集って公開できないような気がするぞ。
あと自転車の後輪が空気ぬけていくのは虫ゴムが切れかかっているせいだとわかった。
テキサス大学にある米軍様の古い地図だとこんな感じ。網かけの線が実際の国境。上の線がインド主張の国境。カラコルム峠は中国制圧で、道沿いに10kmほど取られていて、問題の飛行場もこの地図では Not Usable になっている。
中国側の道は... 他の国境はたいてい整備されてるし、カシュガルを昆明のように周辺国のハブみたいにしようとおもっているらしいからたぶん整備してるんじゃないかなぁとおもう。まぁしかしこれではカシュガル発カラコルム峠行きのバスがないはずだ。
Daulat Beg Oldi - Wikipedia
こんな重要なとこに入ってきたのか
2chにリンクの貼ってあった重要な情報はこれ。
PLA replaces China border police in Ladakh - YouTube
2009年にはすでにやってたらしい。ほかに値打ちのある情報はない。→ これ大分南の方でそこではない。
カラコルム峠のあたりらしいんだが、あのあたりの地図で10kmというとかなり奥になる。具体的にはどこなんだ?
[转帖]印度恢复启用世界最高军用机场欲挑战中国
これには2008年インドが飛行場をつくって周辺の道路を整備したとあるから、その反応として2009年中国が故意にボーダーポストをインド側へ押しやったという可能性があるな。もし紛争がおこるならその飛行場を巡るものになりそう。
→ 2009年のニュースはちがうところだった。
記事にしようかとおもったけど今日は昆が焼肉おごってくれるらしいのでこれくらいにしとくか。
ということで鶴橋にいって焼き肉食ってきた。ついでに飛田も見てきたが財布の中身を補充せずに行ったので散財せずに済んだ。東京に帰る昆とわかれたあと、難波の郵便局で金をおろして日本橋でモバイルバッテリーを買った。10000mAh。2980円。230g。結構重い。フル充電に13時間かかる。もっと軽いのでよかったような気がしないでもない。
どうも半分以上入っている状態っぽいので早速N-08Dの充電をやってみることにした。
テキサス大学の地図でみると、詳しいことがわかった。そもそも中印紛争のときに、カラコルム峠より南まで中国にとられていたらしい。その停戦ラインがだいたいカラコルム峠から10kmくらい道沿いに南なので、今回問題になったのはその線のことだろう。だから中国が無理矢理侵攻したとかそういうのではなく、実力で押さえていたところに実際にその線に沿った国境設備を置き、今回兵隊を置いたということなんだろう。
googleの地図で Military Area と書いてあるあたりが Daulat Beg Oldi で、実際の話題になった点は、Daulat Beg Oldi とカラコルム峠の真ん中よりちょっと南のあたりなんだろう。
昨日図書館で新聞記事をあさっていたらなんか変なにおいがただよってくる。周りをみたら近くに鼻全体がなんか崩れてきている人がいた。眉と鼻がなんかおかしかった。
産経ニュースに新しくついた「川柳を書く」機能がファンキーすぎる件について | nanapi
これはいい
日本料理のダシで味付けというのは、味がたいしてない草しか食うものがなかったころに発達したものなんだろうな。今までの自炊でほとんどダシとか使ってないのでそうおもった。
今朝一番近い西大寺の南にある北村皮膚科医院に行ってみた。いい先生だ。額のブツブツは症状としてはニキビ程度でしかないとのこと。わかんないから血液検査してやるということで血抜かれた。やっとまともな検査してくれる先生にあたった。とりあえず薬は中止し、一週間後検査の結果を聞きにいく。
やっぱりまともな医者は 1 客がいっぱいで年齢層が多様 2 働いてる女性がおばちゃん だな。
バラシクロビル系薬1000gを前は半分に割って一日二回にしてたが、半分を一日一回にしたらなんか症状がすすんだので、半分をかじって一日三回にしたらだいぶ効いてる感じがあった。まぁ今まで全然薬飲んでなかったのに急に強い薬を飲みすぎて体がおかしくなっている可能性もある。だとしたら薬やめるだけで治るわけで。
昼からどっか行こうかとおもったけどなんか曇ってきた。
おっと。レーダーみるかぎり午後は雨だな。
ニコニコ動画でアニメでも見ようかとおもったけどかったるくていやになった。
ボーア戦争(第二次) → 日英同盟 → 日露戦争
正規戦からゲリラ戦、強制収容所
機関銃の使用
日露戦争 → ロシアの南下方向はイラン方面へ → 英露協商 → パフラヴィー朝
露土戦争 プレヴナ要塞(プレヴェン - Wikipedia)
クリミア戦争
セバストポール(セヴァストポリ - Wikipedia)
カース(カルス (都市) - Wikipedia)
英仏軍がセヴァストポリを攻めおとすが、オスマントルコがカルスを取られてしまい、戦後の交換で英仏軍の戦果は台無し
ロシアトルコともに黒海艦隊の所持を禁止(1856パリ条約) → 1871年のロンドン条約によって許可
産業革命の成果が発揮
同時期に日本開国
マスメディアによって輿論がかきたてられて起こった最初の戦争 (イギリス)
やっぱり本みながら気になる単語をネットでテケトーに調べもんしながら読む方がおもしろいな。アニメはとにかく受け身なのがかったるい。
アクセスログの集計をみてると地図のある地点が頻繁にアクセスされているのが謎だったが、ログを実際にみてみたらおなじドメインから Referer なしで一日数回程度アクセスしていた。ということは、ブックマークしてるということだろうな。んで、その地点が指し示しているところは普通に考えて...
膠原病 - Wikipedia
うーむ。発熱・倦怠感・皮疹。これはあてはまる。
そういうと昨日失業の登録するの忘れた。まぁいいか。
朝日新聞:古墳時代の馬具一式出土 金銅製、国宝級か 福岡
九州王朝説の人が活気づきそう
午前中にしたのは、昨日100円ショップで買ってきたしょぼい空気入れで自転車に空気をいれてみたくらいか。何をおいても自転車を直すことに全力を傾けるべきなのに何もしていない。
室町時代の寺社関連の事件について - Togetter
延暦寺の根本中堂って......... 信長が焼く前に...... ぇぇぇぇぇ
県立図書情報館にいって朝日新聞の次の月の分を読んでみたがあんまり発見はなかった。しかもじっくり読んでしまい一ヶ月読むので精魂使いはたしてしまった。この時代には大阪朝日と東京朝日でコラム的な記事は両方にのってたのがわかった。
帰りに88円寿司の向いにある彩華ラーメンくってみたけどキムチラーメンだった。キムチならキムチって書け!
これから下界におりる。
京都府立図書館にいって氏岡さんの本を読んでみたが、科研費研究報告書の付録で今までの論文に手をいれてまとめたものだった。まぁザっと読んでおわり。
二階が新聞とかネットの閲覧室になっていたので、1905年1月の大阪朝日のマイクロフィルムをみてみた。なかなかおもしろくて一ヶ月読み通すのに2時間以上かかった。この月は旅順要塞が投降した月なのでいい発見があった。何も考えずにこの月にしたのは正解だった。
帰りに寺町寄ってみたけどモバイルバッテリーの安いのはない。その後京都駅南のソフマップにも行ってみたけど軽いのは高い。買わずに帰ってきた。
せっかく市バスの一日乗車券を買ってみたので、それで行ける近鉄の南から乗ってみようと、したが最南端になるとよけい時間かかるので丹波橋にいった。それでわかったのは、南の市バスは竹田駅を中心に編成されていて、丹波橋までいくには竹田駅を中継する形になる。京都市民は地下鉄をつかえということなんだろう。時間がかかるわりに60円くらいしか得しないので京都駅から乗った方がいい。おかげで本はジャンジャンよめたが、最後には電池も切れた。といっても大和西大寺の直前までもってくれたのでそんなに暇にはならなかった。写真撮ってないからだろう。
京都府立図書館のマイクロフィルムリーダは三機しかないのだが常に満席であるらしく、見にいったときも直前まで満席だったようで、読めたのは僥倖だったようだ。
オムロンパーソネルから大阪の仕事を振ってきた。うーん。というような感じの仕事ばかりだが、6月までとか8月上旬までとかこっちの希望にあったようなのを持ってきてなかなか心憎い。大阪通勤はおもしろそうだな。
むーん。そんなにプッシュされてもなぁ。
【米肥料工場爆発】劇物アンモニア、過去に事故も - MSN産経ニュース
肥料工場で爆発というと オッパウ大爆発 を思いだしてしまう。
全然関係ないが高校の図書館に「爆発」というタイトルの本があってそれにこの事故が紹介されていた。古い本だった。
ハンセン病だが大人にはうつらないということになっており、小さいときにかかるものらしい。ということはちがうか。ちなみに初期症状は様々で不定であるらしい。つまりひどい状態になってからわかるということだ。まぁ病気って何でもそんなもんだわな。
奈良店|極楽湯
こないだ図書情報館のちかくにあるスーパー銭湯にいったとき、漫画の棚があったので進撃の巨人あるだけ全部読んできた。あのスーパー銭湯、入って漫画読んだらそれだけで元とれる。行った日がたまたま男の日で、390円くらいで入れた。京都の銭湯より安い。
オムロンパーソネルが速達で送ってきてくれたので今日無事保険証がとれた。
ついでに役場の二階の図書室もみてみたがろくな本なかった。郷土資料くらいちゃんとそろえておいてほしい。
三階に統合前の小学校の展示があった。これ体育館の左上に掛けてあったやつやな。
うちに放置しているPCから昔のデータを再救出しようとしたのだが、Windows2000が起動してくれない。一回は起動してくれたのだが、その後、以前データを上書きしてしまったHDDだけを直接ノートパソコンに差そうとして持っていったはよいものの、3.5インチ外付けHDDの差し口は恐れいったことにSATAだった。ということでつかうどころではなく、おとなしく戻してみたら起動途中にブルースクリーン発生。むーん。
まぁ50G/160Gという構成で、このPCを持って帰ってきたころにはメインの環境をレッツノートにうつしていたため、これはデータ救出用でしかなく、50Gの方にはロクなデータがない(はず)なのでシステムを上書きすることにした。
分解してみたけどトラックボール動きそうにない。壊れてるのか。
まぁしかし前なら蔵の中でノートパソコンいじりながらネットになんか繋げられなかったわけで便利な時代になったもんだ。
USBポートが死んでるのでデータを手渡す手段がないことがわかった。ぐぬぬ。PCIバスのUSBポートもしくは3.5インチのHDDをUSBにつなげることができるもののどちらかがあればいいのだがここではそんなもの手にはいらないからしかたない。ということで作業終了。解散。
隋王朝の煬帝のものか 墓見つかる NHKニュース
煬帝なんて書いてあるわけないだろ、とおもったが、隋書みたら最終的に唐が雷塘に改葬したとあるから可能性がないわけでもないのか。
视频:直击江苏扬州隋炀帝杨广陵寝挖掘现场_大楚网_腾讯网
おぉー。
今煬帝の墓とされているところは阮元が比定したものらしい。
例のスレの荒らしだが、手法を変えてきた。飽くまでもディスインフォメーションやるらしい。まぁどうでもいいか。
DPZ:ラードごはん食べ歩き
まずそう。
昨日日本橋でモバイルバッテリーとか見たけど、今アマゾンでよく売れてるのをみると、日本橋で売ってたのよりも相当重い。昨日ゴタゴタ言わずに買っておけばよかったか。
自転車の後輪の空気がほとんど抜けている。うーむ。空気入れ買うべきか。
気がつけば4月も半分が過ぎている。
ハンセン病(いわゆる癩病)は皮膚と神経が壊れていく病気だそうだが、その菌は感染力が弱く低温部でしか繁殖できないらしい。普通に風呂に入る習慣のある人には無縁の病気だろう。しかし左眉の尻にコブみたいなのができてから毛布をかぶって寝るようにしたらおさまったが、額の一部に刺しても痛くないところができている。うーむ。なんかやばいような気がしてきた。医者に行って聞いてみた方がいいな。その前に一度田舎に帰って保険証を復活させよう。
心配しすぎな気もしてきた。
額はこんな感じ。比較のために記録しだした去年の11月末の写真を右に並べてみた。並べたらなんか違うが言われなければわからない。肌の色が悪いのは光の具合なのでそこは気にするところではない。ブツブツがあったのがだいぶおさまってシミみたいになっている。まぁもっとひどい状態の人いるしな。
ちなみに感覚が鈍いのは額上部の曲面の頂点みたいなとこで眉の方ではない。
国保にはいるには資格喪失証明書みたいなのがいるらしい。そして発行してもらってないので発行してもらうことになり、営業に電話したらとりあえず作ってくれたが今日送るとのこと。うーん。それがわかっていれば京都で取りにいっていたのだが。
文簡本を中心とした『水滸伝』の研究 ([氏岡真士]): 2012|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
うーむ。こんな本がでてたのか。昨日タイ支社長に言われて知った。大阪府立中央は貸出不可。京都府立は借りれるな..
資格喪失証明書を送ってもらう → 役場に持っていく → 役場から保険証を送ってくる でたぶんこの一週間はつぶれるな。まぁうちでできることをしよう。
おっと日記で返事されていたのか。まぁ神戸だし遠いしいいよもう。
うーむ。なんか天気悪い。
廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ-しばやんの日々
奈良の古墳って明治初期にめぼしいのは盗掘されちゃってるのかも。
2chの荒らし、完全に営業停止状態だ。つまんないの。まぁいいか。
Google earthがとらえた、謎に包まれた中東の古代建造物 : カラパイア
タイ支社長と無事合流できたけど会議資料がメールで送信できないとかでスタバでノートパソコン出してごちょごちょしている。
タイ支社長と高松塚古墳を見にいってきた。
今日は観光にいったのに自分でも驚くほど写真撮ってなかったのでこの程度の風景写真しかない。人と行くと手がお留守になるんだろう。左が高松塚古墳。右が文武天皇陵。
江戸時代までは高松塚古墳が文武天皇陵の扱いであったと、展示館にいたおっさんが言っていた。展示館にはキトラ古墳と高松塚古墳の壁画の模写があった。
その後、平城宮跡をぐるりとまわり、日もくれてきたので難波まで行って日本橋をブラついたあと王将で飯くって別れた。バンコクには王将の餃子がないらしい。
難波まで行ったのはついでにモバイルブースター的なバッテリーを見にいったのだが、結構大きいということと、結構重たいということがわかった。あんまり安くなかったので買わなかった。どうしようかな。
今の靴にしてからとにかく蒸れるようになり足が臭くなりやすい。やっぱり1000円程度の靴はそんなもんか。通気性最悪。寒いときはこれがいいのだが... 雨降ってないときは底の破れたカンフーシューズということになりそう。
2chの荒らしだが、やっぱりこいつら組織的にやってきてるな。つまり少々の嫌がらせでは引きさがらないということだ。あと、確実に作戦会議やってる。いわゆる2ch専門の逆宣伝会社が特に出張ってきてるってこういうことなんだろうな。
しかしテンプレ的すぎるwww 2chばっかりやってると脳味噌の皺が減りそうだ。
トライアルのバゲットが細くなっている。小麦粉の量をケチっているんだろう。
そういうと面接の件だがすぐにでもほしいとかいう話だったわりに連絡ないので、いやがっていたのが功を奏して話なくなったんだろう。よしよし。
明日は雨が降るかもしれないとかなんとか。
タイ支社長とメシくってきた。数年ぶりか。これからホテルで朝までかかって会議資料をつくるらしい。明日タイ支社長と奈良観光する予定。
エリアメールのせいで地震が来る前に目がさめてしまい、揺れで目をさますという滅多にない楽しい体験をのがしてしまった。
しかしエリアメールには播磨灘と書いてあった。実際には淡路島だったわけだが、奈良まで地震がくる10秒程度のあいだにちゃんと鳴った上だいたいの震源がわかったことには驚いた。
2chの荒らしに対峙中。二三日前に愛機のスレをみたらここ半月くらい連日コピペ荒らししてた奴がいたので「裏を返すと」戦法でちょっと粘着したら沈黙した。次は戦法をネガキャンに変えてきたのでこれから「味方に回すと怖い」戦法で潰しにかかる。まぁだいぶやる気を失なっているようなのでそんなに頑張らなくてもいいだろうとおもう。
荒らしって一見非生産的な行為だが、その行為になんらかの快感がともなうから続けられるんだろう。だから相手の期待する反応をせず嫌な反応を続ければよい。やることすべて裏目にでたらやる気もなくなるだろう。まぁ匿名掲示板だからできることだ。
県立図書情報館にあった考古学の雑誌に、こういう時代だからこそ井の中の蛙になって蛸壺的な研究をつづけるべきだと書いてあった。まったくその通りだとおもう。
大阪府立中央にいってきたが、目当てのものがちょっと想像してたのと違ってた。でも見たことはある。昔は開架してたのかな。
たまたま大正ロマン展みたいなのやってて、大正に出版された本が置いてあったので、国会図書館のPDFで手にいれた本とか見てみた。やっぱり紙の方が早く読めるし検索性もよい。
帰り、荒本から乗る気にならず、石切まで歩いてみた。あやしい占いの町はもうだいぶ店仕舞いしていた。
寮にいたころ、石切に行ったことあるけどその時の写真は他のデータと一緒に消えてしまたのでもう回収できない。でも前とおなじルートを歩いてしまった。前はそのまま生駒山をのぼって生駒駅まで降りた気がするが日が暮れかけだったので石切から近鉄に乗って帰ってきた。
そういうと某スレの荒らしは今日は休みの日らしい。煽られ耐性が弱いのか。もしくは作戦会議中で対策を講じているところか。
荒らしの場をこの半月つくっていたということで向こうの方がこのスレに対する執着が強いハズなんよな。こっちは今日から荒らしになると言いつつ放置して図書館に出かけたように短期的にはどうなったってよい。最終的に向こうを嫌な気分にさせてあきらめさせるのが目的だから。
朝の3時くらいに目がさめたので本でもよんでから二度寝したら9時前になってた。無職はいいなぁ。
今日は県立図書情報館の方にいってきた。帰りにトライアルで中華そば16円2袋と納豆4パック56円買ってきて晩飯にした。うまかった。
明治末の新聞をみていておもったこと。
新聞記事の検索は朝日が一番使いやすいし見やすい。読売が次。毎日は使えないことこのうえない。
新聞の内容でいうと朝日は柔らかい文章(つまり読み物)が多い。読売は固い。俗語は柔らかい文章でないとでてこないので朝日ばかりみることになる。
朝日は当時から政府系ではなくて、政府系の新聞のことを御用新聞とか書いて攻撃していた。
渋川玄耳 - Wikipedia
渋川玄耳って最初は硬い文体だったのが書いてるうちにやわらかくなってきてたけどそれ自体が口語体化の先駆けだったとは知らんかった。
明日は大阪府立中央にいって明治末の雑誌の復刻版をみてこようかな。国会図書館の狭い画面でシコシコクリックして拡大してみるのは目によくない。しかしああゆうのって普通に開架で置いてあるもんだとおもったが、この辺の図書館ショボいから置いてないのな。奈良県立は見掛けはゴツいけど中身は結構お粗末だ。これからの蔵書はなんとかできるけど過去の蔵書はどうしようもない。
夢。
小学校のときの違う部落(うちのへんでは集落のことを普通に部落という)の下の学年の男子とそんなに親しかったわけでもないのに再会するがつぎはぎだらけの人造人間みたいになっている。それまでの夢ででていた知り合いを紹介するが、なんか辻褄があわないことに気付いて頭を使いだしてしまう。それで意識レベルが夢レベルから覚醒レベルにあがってしまって目がさめてしまう。
夢の中の出来事で頭をつかったらおしまいなんだろう。ちなみに昨日読んだ世界無銭旅行の影響があったので寝る前に変な本よんで変なイメージをつめこんでおけば変な夢がみられるんだとおもう。
県立図書情報館にいってみたらシステムダウンしてて新聞記事の検索ができなかった。そんで帰ってきたけど戦争関係の本みてたらよかったか。
また神戸まで行ってインド料理屋の紹介した女の子と飯くってきた。容色優れたるでもなくさりとて悪くもないところ、また普通の人っぽいところはよかったが、あんまりこっちの話に興味なさそうだったし自分のことをあんまり話したがってなかったのでさっさと帰ってきた。まぁこっち無職だしな。もう連絡もないだろう。
左眉の左に小さな腫れができた。うーん。これも謎の病気と関係あるんだろうか。
ハンセン病について調べるとその菌は人体の低温な部分を舞台としているので頭蓋とかになりやすいとある。寒い地方よりも熱帯の暑い地方に多いのは暑いから人体の恒温機能が弱まって低温になりやすいからか単純に貧困のせいか。この謎の病気のブツブツだが主に額にでき、あとは首元にブツブツがあるときもある程度なので、高温な部分にはないという点では満たしている。しかし額とかよりも低温な指先なんかには影響ないような気がするので関係ないんだろうか。
まぁしかしこの腫れは今までのブツブツとは一線を画しているようにおもう。しばらく前に左耳の上あたりがしきりにピクピクしていたのと関係あるんだろうか。
ちなみに昨日行ったインド料理屋はこれ。
ニューメイフィル
ハリドワールとかリシケシとかあのあたりの出身でデリーで料理人として修行したそうだ。神戸の震災で働いていたインド料理屋がつぶれたので自分の店を持つことにしたらしい。奥さん青森の人らしい。
今日は国会図書館と県立図書情報館のどっちにいこうかな。そもそも昨日神戸に行ったので金がなくなったな。
大連はロシア語の極東(Дальний Восток)から来ているという説があるが、日清戦争のとき既に大連湾という言葉がある。もともと大連という町は存在せず、ロシアが建設しダルニーと命名したのはまちがいない。ダルニーと大連をかけたのかどうかそのへんはわからん。ダルニー(青泥窪)を正式に大連としたのは日本だろう。
結局二度寝してしまい10時をまわってしまう。
近代日本のレイシズム : 民衆の中国(人)観を例に
この時代のこの程度のことを証拠にレイシストとかいうなら中国人にはスーパーレイシストとかなんとか尊称を奉らないといけなくなる。あと既に知られている事の用例を並べて妄想つけくわえておいたら論文になるようなのでおれもそんな楽な商売してみたい。
それはともかく、チャンコロへの転換時期を1910年代の後半にもってきているのでつかえない。たぶんこの人、チャンコロの起源をさがしにいって見付けられなかったんで時間もないので適当に日本人を非難する事かいてお茶を濁しただけなんだろうな。
ちゃんころの始まりにはある程度目安がついたけど、語源の一つでまだなんともいえないのが「清国奴」だ。たぶんチャンコロを逆変換しただけだとおもうんだがなんともいえん。用例を検索する手段がない。
東大寺の大仏の足元から見つかった刀の明治時代のイラストが奇麗な剣について - 歴史ニュースウォーカー
「模倣」を忘れて凋落した日本の電機産業 「これからは日本人が創造する時代」という勘違い
うーむ。寝っころがって指先ピコピコうごかしてたらそれなりの調べものができるから布団から出る気にならない。
東京くんだりまで行く用事は... ないな。国会図書館にいってチャンピオンの弱虫ペダルを通読するとかなんとかはなんかの用事のついでにすることでそれを目的にするようなことではない。
国会図書館関西館って開館時間が10時と遅いからどうしても布団のなかでゴロゴロしてしまい、ついつい出れなくなってしまう。うーむ。
結局寝てしまいだった。
アジ歴で検索したら昭和5年に「チヤンコロリ」という南京虫駆除剤をつくった大阪の業者の件がひっかかった。そりゃ問題になるよな...
福建人にはチャンコロが「斬覚羅」と聞こえたらしい。
うーむ。明日の夕方また神戸に行くことになったぞ。金おろさんとあかんな。
台湾で新聞社をやってた人の本をみつけたが、数カ所あってもすべてチャンだった。まぁ「清国奴」は当て字とおもった方がいいだろう。
うーむ。グズグズしてたら電車におくれそう。
神戸でオムロンパーソネルの営業とともに面接。やっぱり例の研究室だった。しかも顔みたことある人が面接にきた。どうもあこに入っている会社が人欲しいというので募集したらしい。精一杯いやがってきた。しかしまぁ向うから仕事もってきてくれてるのに断わる法はないよな。うーむ。まぁ最後は微妙な空気が漂っていたので断られるかもしれない。そうなったらいいなぁ。
神戸華僑歴史博物館
面接おわったあと営業とわかれてこれ見にいってきた。展示の字が細かいので大丈夫かなとおもいつつ気にせず細かいままとってみたが、細かいところでもちゃんとみえる。これが前の携帯だったらボケているところだった。N-08Dやるな。
神戸の中国人の出身地一覧みたいなのがあったが、福建広東で圧倒的なのかとおもったらそうでもなく、山東なんかも意外と多かった。まぁそれでも台湾と福建を足したらかなり多いのは間違いないが。
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華僑の三刀だが、これもおもしろい分析があって、三刀の仕事はあくせく働いて自由時間のない生活になるので子弟が跡をつぎたがらず、今のこっているのは飯屋だけだという。
あと中華料理屋がずっとあったわけでもないらしい。神戸の華僑はそんなに集住してないので横浜の中華街みたいにはならなかったとか。戴季陶が孫文の通訳してる写真があった。
華僑関係の地図ってのがあったが、その中に汪兆銘政権の中国領事館跡が含まれていなかったあたりニヤリとした。
そういうわけでその後ざっと生田神社に行ってたまたま奉納されてた謎の舞など見つつ、坂の上の中国領事館跡まで行くつもりだったが、昼飯のつもりでインド料理屋にはいったらそこのおやじがパソコンなおしてくれと言いだしたので夜までいてUbuntuをいれた。
インド料理屋にはいったのは、千円ちょいで食べ放題というメニューだったからで、まぁそこでドリンクを別にたのまされるところ財布をみたら千円ちょいしかなく、金ないといったらなぜかカレーが大きい入れ物にはいってきた。メニューにある写真だと小さい入れ物ふたつなので、どうも恵んでくれてるらしい。ただ、片方は変な味してたので残飯の気配があり、そっちにはあんまり手をつけなかった。
雑談をしてるとパソコンくわしいならノートパソコンなおしてくれとか言いだす。みてみると「System not found」がでている。あー。くわしい話をきくと、そのノートはそもそも貰いものらしいのだが、入っていたVistaが遅いので人にみてもらったところ、クロアチア人がXPをいれてくれたのでなんとかつかえるようになったという。つまりあれだな。割れWindows が入ってたので Windows のアップデートで死んだとかいうやつだな。韓国のあれって割れOS関係ないとかいう話になってるようだったけどやっぱりそういう理由じゃないのかな。Microsoft の無慈悲なアップデートで。
んでUbuntuをいれてみたんだがやっぱり死ぬほど遅い。メモリが512Mしかないことがわかったので、おやじをひきつれドスパラにいってメモリ1Gを購入。それをさしてなんとか動くようにして、ウィンドウマネージャをLXDEにしておいた。おやじはブラウザでインドのテレビとかをみるだけなのでWindowsである必要がないらしい。
それでやたら感謝されて昼飯代は不要だったほか、晩飯もくってきた。あとビールのまされてホロ酔いで上機嫌。しかも結婚してないなら女の子紹介するとか真剣に言われたのでしかたなく携帯の番号置いてきた。
しかし今日はN-08Dに接続できるケーブルをわすれたのでインド飯屋で充電できず、帰りの電車の中で電池切れになり、一時間くらい手持ち無沙汰になった。N-08D、カメラとしても使えるが、電子書籍リーダとしても使い、カメラとしても使い、ネットも使いと放電しまくっていると電池が足りないということが身にしみた。旅行にいくならモバイルブースター系の充電池が必要だな。
夢をみたんだがはっきりおもいだせない。
国会図書館に行ってきた。時間が足らんな。あっという間に6時閉館。
朝は9時からだと勘違いして行ったが10時だった。うーむ。
「ちゃんころ」になったのは大連とか関係ないような気がしてきたぞ。
日清戦争のころに「ちゃんちゃん固陋画誌」というのがあったがこれは「ちゃんちゃん」+「ころがし」。「ころがし」はそれをネタにして替え歌をつくりまくるという意味で、いわば今のテレビでいうところの「いじり」みたいなものだからあまりつながらない。そもそも歌詞の中に「ころころ」とかでてこない。
むーん。しかしこんな不毛な調査しててもしかたないので適当なところで切り上げた方がいいんだろうな。
ちなみに国会図書館はもう漫画雑誌もかなり電子化しており、そういうのを読みだしたらいつまでたっても終らないという魔窟に化している。残念ながら外部公開されていないので国会図書館まで見にいかねばならない。
例 → 国会図書館で横山光輝を検索
といっても流石に少年サンデーとかマガジンとかはとりこんでないようだが「少年俱樂部」程度なら入っていたりする。
明日面接とやらで神戸にいかないといけないんだが気が進まないのでことわってこようかな。
神戸市立博物館は9月まで閉館か.... それも今日から。
神戸市埋蔵文化財センターは企画展が13日からか。
神戸華僑歴史博物館
竹中大工道具館 は微妙だな。
ほかに神戸映画資料館とかUCC六甲工場とかあるみたいだが...
孫文記念館というのがあるがちょっと遠い。
インスタントラーメン発明記念館 は明日休みだ。チキンラーメンをつくるのは二人以上で要予約らしいからそもそも一人なので無理だがカップヌードルを作るのはそういう制限ないっぽいな。
いろいろ調べたけど西大寺からだと阪神三宮まで直通でいけるので、阪神と近鉄の乗り換え点である難波でおりて日本橋ブラブラみてまわるとかいうオチになるかもしれない。
データの鬼、Googleが解析した「よい上司を製造する8つの条件」 - DNA
朝になっても雨やんでない。気象レーダーをみても日本中に細切れの雨の分布があり、たしかにいつ雨が降るかわからない。
傘あるので雨降ってても激しくなければ問題ないことに今ごろ気付いた。
カルカ-シムラ鉄道を攻略 [世界攻略ジャーナル]
シーズンは席がとれないとかで無理かとおもっていたが、二等車両があって自由に座れるとある。これだな。
peach だと関空-鹿児島が8000円弱か。これだとフェリーに乗る人減るだろうなぁ。
天気のスキをついてトライアルに行き食料をしいれてきた。雨は大したことないけど風が強いのが面倒。近くの小学校の桜が散っていた。
国立国会図書館デジタル化資料 - 支那事変戦跡の栞. 上卷
なんでこれが館内限定で中巻下巻は公開されてるのか。
jquery.xdomainajax.js なんてのがあるのか。
でもソースをみるとyahooのAPIをつかってyahoo経由でデータをとってきている。微妙だな。
不思議なアクセスがやたら増えてる原因がわかった。やはり全画面地図がらみで、IE9だとなぜか地図につかわれている画像を延々と何回もサーバにリクエストを送ってくるらしい。それで中心の位置表示につかっていたものが何回もよびだされ、しかもログの記録ではドメイン名に変換されず素のIPアドレスでのこるためにアクセスログ上では実際にはアクセスしていないことになるようだ。うーむ。
Stv'nin Diziye Efekt Koymayı Unutması - YouTube
空中の水分がだいぶなくなってきたようなので県立図書情報館までいってきた。読売と朝日の過去の新聞記事で「ちゃんころ」を調べていた。だいぶ絞れてきたぞ。一応初出が1908の朝日の記事までさかのぼれた。
しかしこの新聞記事データベース、いろいろ制限がある。読売は支那で検索できない。そもそも全文検索できない。しょうがないので「中国」で検索して、紀行文とか報告文の類の軽い文章をさがして片端から読んでみた。まだはっきりとはいえんがたぶん日露戦争で大連周辺の関東州を日本が直接統治するようになって普通の日本人が普通の漢民族と接するようになってからだとおもう。もっと証拠をあつめよう。
→ その後の調べでなんか違うような気がしてきた。
図書館の帰りに前から気になっていた88円寿司によってみた。案外うまかったけどなんか塩水かなにかが塗ってある。味の素か? 舌が痺れてきたのであんまり食わずに帰ってきた。
デリーシムラーはバスで9時間。シムラーマナーリーは10時間。マナーリーレーは途中峠で一泊。レースリナガルは途中カルギルで一泊。休み休み行かないとスカルドゥ→ラホールよりキツイ。まぁ行くんであればデリーインデリーアウトで輪を書く形にするかな。
スリナガルに一直線に行く場合は、ジャンムーまで電車で行って、そこからジープで10時間。こちらのほうがずっと楽。
たしかに天気あやしいけど悪くもないな。
とおもったが気象レーダーをみるとやばいわこれ。
よしもうコタツのいらん季節になったのでコタツを片づけよう。タンスを部屋の真ん中にもってきて机のかわりにするか。
→ やってみたけどちょっと高い。あとタンスだけあって狭い。
第99回旅行は、文字の無い村ビマ(ベマ) : 日本企業駐在員 インド人化計画
インド系にもこういうノリのブログあるんやな。
アクセス解析をみていると4月にはいってから急にアクセス数が増えている。調べてみるとなぜか「全画面地図」でのアクセスが増えているせいらしい。写真差しこんだせいではなかった。うーむ。
あとアクセス元をみるとVisitsが0なのに何回も来ているところが何箇所もあり、機械的にアクセスしているものとおもわれる。なんだろう。
嵐だな。結局朝トライアルに行っただけだった。明日の朝トライアルにいけるかな。
マヘンドラナガルの国境から、ウッタラカンド州に抜けられるようです。なるほど。
そっからハルドワーニー→アルモラ→リシケシ→デヘラードゥーン→シムラー→マナーリー→レー→カルギル→スリナガル
古き良きインドの大麻行-24[第12章 パールヴァティM作戦の決行 ヒマチャル、デリー、モスクワ、トリノ]
ルートのことを検索してたらこんなページがでてきたのでしばらく読みふけっていたらソ連から日本の左翼への資金援助の運び屋をした人が資金かせぎのために大麻密輸に関係したという話がでてきた。
マヘンドラナガルはもう平野部なわけか。結局灼熱の平野部に何回か降りないとカシミール入りできないわけで、そんならデリーに直接入ってそこからとりあえずレーを目指しスリナガルへ向かう方がいいような気もしてきた。
今日も寝てくらした一日だった。
すげーなぁ。今から日経平均買おうかなぁ。もっと行くだろ。
DPZ:1分で振り返る朝ドラ『純と愛』
たまに見るたび怒涛の展開だったがこんな話だったのか。
福島原発周辺で「動植物異常」相次ぐ | 産業・業界 | 東洋経済
欧米のジャーナリストたちが「ソマリア人の海賊」にだまされた? : 小林恭子
今日はどんなふうに堕落した一日を過ごそうと思っていたが、トライアルに朝飯を買いにいったとき、胸ポケットに鍵が入っているのに気付いた。あ。府立総合資料館のロッカーにスーツを入れっぱなしにしていた。うーむ。不要だとおもっていたから無意識下に忘れてしまったのだろうか。しかたないので取りにいくしかあるまい。
というわけで取りにいってついでに本を読んできた。京都駅のあたりはものすごい人出だった。
なんかオムロンパーソネルからまた電話があって来週火曜面接とかいってくるんよな。めんどくさいなー。その二重派遣先はまたおなじ研究所らしい。おなじ研究室だったら断然ことわる
今から断わって18切符で宮崎まで行ってくるのもいいな。
週末は猛烈低気圧で台風並みの暴風に(2013年4月4日) 日本気象協会
ぐぬぬ。これから出かけるという選択肢はない。
下界におりて百万遍にいきマルニで激流さんと飯くったあと、府立総合資料館で本をみて奈良にもどってきた。
百万遍の大学には新入生がうじゃうじゃいたが、肌がピチピチで年の差を感じた。まぁ彼らの二倍以上の年なんだからしかたないんだが。
カバンよくみたら部品おちてなかったので縫って直した。
今日は午後雨らしいので明日京都にでる
んだが今日は役場の図書室開いてないらしいんよな。うーむ。
免許証もらってきた。なぜか優良ということで講習は30分だけですんだ。ついでに城山(周山城址)にのぼってきた。
小さいころにのぼったときは下から上まで真っ直ぐ一直線に登山道が整備してあった記憶があるんだが、今は歩きやすいようにクネクネ曲げてあった。もっとも違うところから登っていたのかもしれないのでなんともいえない。そういうわけでヒーヒー言いながら登っていた記憶とはちがいスイスイ登れた。こんなに低かったかなぁ。
てっぺんの本丸のあたりも昔は木だらけで何が何やらわからんような状態だったが今は伐採されて城郭の構造がわかりやすくなっている。といってもまだ石に苔蒸していたので伐採されてそんなにたっていないんだろう。
帰りは二の丸の方をまっすぐ進んでみたら登ったのと違う尾根筋に進んでしまった。おかげで周山城から山国が一望できるところに出れた。光秀は縄野坂で山国勢を蹴散らし、常照寺の下まで焼いてしまったという話だが、城山から山国まるみえだなこりゃ。この写真で真正面にみえるのが山国で、写真でその山国をさえぎるように左から右へのびている山筋の右端に縄野坂がある。今はそのあたり削られて中学校のグラウンドになってしまい、写真でもグラウンドがみえる。
降りてしまったものはしょうがないのでそのまま山の斜面をまっすぐ下に降りてみたら卯滝口の方にでた。
午後雨だ。
京北の人なら「城山」という名前でおぼえているところの周山城は最近知る人ぞ知る名城にランクアップしたようで、ググったらいっぱい探訪記録がでてくる。
武家家伝-加藤光泰家
光秀滅亡後、この人が周山城を領していたことがあったらしい。
なんかオムロンパーソネルの営業の人からまた仕事の斡旋の話があった。しかも二重派遣っぽい。実際には二重派遣でないように請負の派遣という形になるのだが、要するに金を二重に中抜きされるわけで、安い金で前より働かされるわけだからなんかいやだなぁ。いやだなぁといいつつナァナァで話を進めることになったのだが。面倒だから以後スーツ無着用スタイルでいこう。
あと気になるのが「英語ができること」という条件だな。またおんなじ研究室とかいうオチが一番いやだ。あの研究室は陰険なので行きたくない。まぁ研究室なんてどこも陰険なところかもしれんが。
1904年の北桑田郡誌に「船井郡八木村ヨリ本郡神吉宇津ヲ經テ周山ニ至ルヲ京都鉄道比較線トシ現ニ神吉村内施工中ナリ」とあるんだが本当だろうか。
元鉄道マンの写真家による中国の鉄道の乗客たちの赤裸々な姿を捉えたモノクロ写真集「Chinese People on the Train」 - DNA
FZ-G1って使ってる人いるのかな。
昨日ノートパソコンひらきながら寝オチしてしまったので今朝日記書いた。寝オチしたのでドコモの7Gの壁をこえるとどんだけ遅くなるのか体験できなかった。
例の謎の病気のブツブツみたいなのが鼻の真ん中の脇にひとつ出現した。うーむ。気になる。
田舎にくるとそもそもネットが遅いので7Gの壁とか関係ないっぽい。
常磐樹会とかいう結婚仲介から手紙がきててなんか腹たったので破って捨てた。
台灣百年歷史地圖 -- 中央研究院人文社會科學研究中心地理資訊科學研究專題中心
やっぱりどっか行ったあとに写真貼るとあとからみてもたのしいな。これからそうしよう。もうすこし写真小さくてもいいような気がするが何分1024x768のレッツノートでしか確認してないのでわからん。