投降派宋江

  投降派宋江  
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 当時は宋朝の徽宗皇帝(※1)の治世にあたり、統治階級の苛斂誅求ははげしく、広大な農民は紛々と起義をおこなった(※2)。北京大名府(※3)留守の梁中書は民衆からしぼりとってきた「十万貫の金珠財宝」を東京(※3)に送り、義父の太師(※4)蔡京への誕生日祝いとしようとした。これを「生辰綱」という。このことが鄆城県の晁蓋らに知られてしまった。

※1 北宋の徽宗(在位 1100-1125) Wikipedia
※2 農民の起義というのは日本でいうなら一揆。ソ連的歴史観では、人間社会に階級分化がおこってから、幾度となく支配される側の反抗があったが、それらは正しい指導がなかったので成功せず、共産党があらわれて正しい指導をおこなったので、支配する側を倒すことができたとする。そして、世界各国で、共産主義革命の前駆者である人たちを顕彰する動きがあった。それが日本では農民一揆であり、中国では農民起義である。そういう歴史観の残滓は今でも見ることができる。ちなみに、日本の農民一揆はそういう意味での暴動ではなく、ほとんどが百姓の権利行使としての恒例行事であり、今の日本の春闘のようなもの。中国で農民起義とされるものは、ほとんどが盗賊の反乱で、地方を占拠し、皇帝になり、中央の皇帝にとってかわろうとしたもの。
※3 北宋の首都は東京開封府(現在の河南省開封市内)。北宋には四つの都があり、その中でも東京が首都であった。北京大名府(現在の河北省邯鄲市大名県近郊)は北の遼国に対する軍事都市であった。留守とは、名目上でも都であるから、皇帝(もしくは皇太子)不在の代理として統治する役職。
※4 太師は中国の最高官位である三公の一つ。ちなみに官位と役職は別で、蔡京の役職は宰相つまり総理大臣である。