内容的にはいろいろと足りませんし今からみるとなおすべきところもありますがこのまま公開しておきます。タダで手にはいる情報にろくなものはないということで。
水滸伝付録1
凡例
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○…小見出し
()…補足説明
【】…ルビ・ふりがな 複数字のルビはこうする。例:下鴨神社【しも:がも:じん:じゃ】糺【ただす】の杜【もり】
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目次
■はじめに
■まち(城市)
○城壁(牆垣【しょう:えん】)
○行政区画、府・州・県
○県の起源
○郡県制
○州県制
○元明清【げん:みん:しん】の州県制
■お役所(衙門【がもん】)
○公務員 官と吏【り】
○胥吏と王安石とモンゴル
○六房(六衙)
○裁判・訟事
○牢について
○治安維持
○租税(税糧)と役
○まとめ
■朝廷 中央政府
○皇帝
○後宮と宦官【かん:がん】
○官員
○三省六部
○使職と六部
○宰相と翰林学士
○内閣大学士と軍機大臣
○位階と官職
■軍隊のこと
○武をいやしむ
○禁軍と廂軍
○軍戸
○牢城営
■参考文献
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水滸伝は北宋末(11世紀はじめ)の中国を舞台としたものがたりで、できあがったのは明代なかば(16世紀頃?)とおもわれていますが、なにぶんむかしのことなのではっきりしたことはわかりません。16世紀以降は版本(木版印刷されたもの)や資料がのこっているので、まだ跡付けはできます。
そんな何百年もむかしの、中国という外国のものがたりなので、わかりかねるところがおおくあります。ここでは宋の官制を中心にいろいろ紹介していきます。
(ここはどうでもいいわとおもって適当にしあげた。)
○城壁(牆垣【しょう:えん】)
中国で城といえば「まち」をさす。城市、城鎮ともいう。中国のまちはぐるりを城壁でかこまれていた。もっと正確にいうと、この城壁が本来の「城」のことであり、中国のまちはほとんど城壁でかこまれていたので「城」がまた「まち」をさすのだ。
城壁は要するに壁である。万里の長城のように立派なのから、貧弱で人がこせるくらいのものまである。でいりのために穴があけてあって、城門とよぶ。盗賊や軍隊にせめられたときには城門をとじてたてこもるのである。たいてい、まちを中心にふたすじのみちが十文字にまじわっているので、城壁の東西南北各面に城門があいている。城門が防衛上ネックになるからここをよく強化する。たとえば城門のところは特別に壁をあつくする。城門の外側へ城壁をつけたしてかこんでしまい二重にすることがある。その地区は城関とよばれ、つけたされた城壁は甕【おう】城とよばれる。もう一重つけたしたものは護城だ。よく、城門のうえなどに望楼を建てる。とおくをながめたり、よせ手を攻撃するのに便利である。城壁の外側にはだいたい堀がある。「金城湯池」とはまもりのかたい城の謂いだ。
城壁は土をつきかためてつくる。木の枠をつくり、その中に土を入れてつきかため、10~20センチくらいの層をつみかさねていく。これは版築という工法で、建物の土台づくりなどにもつかわれた。
磚【せん】はレンガの一種で、ふるくからつかわれていたが、これで城壁すべてをおおうのはそんなにふるいことではない。唐【とう】末五代(9~10世紀)になって雨がよくふる南方のおおきな城市ではじまったが、全国にひろまったのは磚の生産量がふえた明【みん】代(14~17世紀)だ。
城壁があるのは立派なまちの証拠である。北中国は平原なので、城壁がなければほかにまもりをかためるものがない。南中国は山がおおい。まわりを山にかこまれたところなどは峠(嶺【れい】)に守りの重点をおいて、城壁はしょぼいところもあった。水滸伝のおわりのあたり、方臘討伐の舞台は南中国の浙江【せっ:こう】省だが、峠の関所攻略がおおきな意味をもった。
城壁のかこいかたは四角や円形がおおかった。しかし、南中国では地形に制限をうけて、川なりや山なりのかたちになることがおおかった。
まちのまわりを城壁がかこんでいるのは別に中国だけのことではない。西アジアでもヨーロッパでもまちは城壁でかこまれていた。日本で城壁が発達しなかったほうがめずらしいのだ。
その城壁も現代では無用の長物だ。城壁があると交通に不便なのでどんどんとりこわされ道路にしたてなおされている。いまでは完全にのこっているほうがめずらしい。
○行政区画、府・州・県
県はむかしの中国の最小の行政単位だ。水滸伝の舞台である北宋【ほく:そう】末、徽宗【き:そう】の治世(11世紀はじめ)を例にとると、県の数は千二百三十四。この数は中国の歴史を通じてそんなにおおきくかわらない。日本の制度でいえば市町村にあたるが、実際の規模からいえばちいさな市くらいになる。天下の土地はみな、いずれかの県に属するのである。(宋代の制度では、ほかにも県と同格の行政単位もあった。)
州や府は県を統括する行政単位である。府は州のうち大きくて重要なもので、同格だ。同じく徽宗のころには州が二百五十四、府が三十四あった。府は「建徳府」のように二字のなまえがつけられた。
県の中心地は城壁で囲まれている城市(まち)である。まちのなかに衙門【が:もん】(お役所)がある。州や府の衙門もこのまちのなかにある。京都府庁も京都市役所も京都市内にあるようなものである。その城市をさして府・州・県などとよんだりする。府城・州城・県城ともよぶ。水滸伝で例をひくと、石碣【せき:けつ】村・東渓村・宋家村、いづれも鄆【うん】城県の範囲だが、鄆【うん】城県の衙門がある城市も鄆【うん】城県とよぶのである。だいたい、一番上級の衙門でその城市を代表させるのが普通らしい。
宋の府・州と県のおおきなちがいは兵権のあるなしだ。州・府には軍隊がいて県にはいない。県は直接民政にあたるが、州・府は直接あたらず、県に決定権がなくてあがってくることをやる。また、中央政府からの通達を県に伝える。
府・州のうえには路という監察区分がある。ある業務について専門に広域を扱う三司(転運使・安撫使・提点刑獄)などがおかれる。だいたい今の省くらいのおおきさで、この上はもう朝廷(中央政府)だ。
ここまで書いたことは宋に限ったことで、水滸伝すべてに当てはまらない。そこで、だいたいのうつりかわりをのべる。
○県の起源
一万年くらい前、氷河期がおわったころから黄河流域では雑穀の栽培がはじまったといわれている。長江流域でもいつからかははっきりしないが水稲の栽培がはじまり、農耕が生活の一部になった人間の集団が中国にあらわれることになった。各地でそれぞれの発展をみせていたが、紀元前三千年紀には各地の文化圏がおおきくなって、たがいに影響しあうようになり、そのころまでには農耕で食っている人たちは城壁のなかに集住するようになっていたらしい。
こういった「原始集落」が核となっておおきくなっていき、ある程度おおきな集落がちいさな集落をしたがえ、それぞれに指導者をいただく「都市国家」に発展していったといわれている。こうした集落を邑【ゆう】、または国とよんだ。この大きさがだいたい県とおなじくらいだとおもわれる。古代王朝の殷【いん】・周はこういった邑のいわば連合会長だったといえる。
中国の歴史がややはっきりしてくるのは周の邑の連合会長としての力が衰えてから。春秋戦国時代(紀元前八世紀から三世紀なかば)は強い邑が弱い邑を支配下に納めてゆく時代だった。強い邑がほかの中小の邑を併合すると、その邑の王をやめさせ、代わりに官吏をおくりこんで支配させるということがおこなわれた。そうされた邑を「懸【けん】」とよんだ。この「懸」が後の県の由来である。
○郡県制
春秋戦国の争いで最後までいきのこったのが秦【しん】である。天下をはじめて統一した秦の始皇帝(在位紀元前二百四十六年~紀元前二百十年)は天下を三十六の郡にわけ、すべての邑を県にし、それぞれ秦の官吏を派遣した。それまで戦国の各国がばらばらにやってたことをまとめてやったのだ。その上に監督区分として州をおいた。つまり、朝廷―(州)―郡―県だ。大きな県に郡治(郡役所)や州治(州役所)がおかれた。この点については宋代の府・州とおなじである。以後六世紀にいたるまで郡県制が襲踏された。
前漢(紀元前二世紀~一世紀)では建国の功労者に支配領域の一部を割いて国をあたえた。この国の主はやがて漢の一族におきかえられるのだが、それでもやがて反乱をおこした。その反乱をしずめた漢の武帝(在位紀元前百四十一年~紀元前八十七年)は国の王に分割相続させるようにしたので、国はやがてひとつの県とおなじおおきさになった。
州には常置の官がなかったのだが、武帝は刺史【し:し】をおいて民政をうけもつ長官にした。のち、後漢末(二世紀末)、この州長官(州牧【しゅう:ぼく】と改名)に軍政もゆだねたので、おおきな権力をもつようになり、三国志の群雄の拠点になったのである。
その後【ご】の魏晋【ぎ・しん】南北朝時代(三世紀~六世紀)はいわゆる貴族の全盛時代だが、この貴族というのはようするに各地方の土地持ちで、代々つづいた有力者の一族だ。荘園をもち、人をそのなかにかこいこみ、王朝にはマトモに租税をはらわない。後漢のころにのしあがり、そのまま子孫にうけつがれつづけていったことによって、貴種とみなされるようになった人たちのことだ。彼らはだいたい、その土地の郡や州の役人となって、地方に勢力をはりつづけた。その必要に応ずるように州・郡はどんどんこまかくなっていった。
このころの役人の採用法は推薦制だ。地方官がめぼしいのを登用するのだが、地方官もだいたい貴族である。そして地方官の下僚は自己裁量に任されていた。身内で身内を推薦採用しあうようなものだった。皇帝というのはこういう貴族たちのつくる地方社会のうえで右へ左へうつりかわっていっただけのものだった。
○州県制
隋【ずい】の文帝(在位五百八十一~六百四年)はひさしぶりに中国を統一した人だが、いろんな大改革をした。州も郡もズイブンこまかくなっていたので、郡を廃止した。朝廷―州―県というすっきりした系統にし、その官員はすべて中央から派遣とした。本籍地での任官を禁じた。その官員を採用するやり方も変え、試験でとるようにした。これが二十世紀のはじめまでつづいた科挙のはじまりである。
唐代(七世紀~十世紀初)には州のうえに道という監察区分がもうけられた。朝廷―(道)―州―県だ。唐の中期、辺境の警備のため、節度使が十おかれた。節度使は数州の上にたち、軍政をあつかう。ところが軍を握っている彼らが安禄山を筆頭にして反乱を起こし(安史の乱、七百五十五~六十三年)、一応鎮圧したあとも節度使たちは軍政と民政を握り、半独立政権の「藩鎮」を各地につくった。日本の室町時代の守護大名みたいなものだ。朝廷―藩鎮―州―県というかたちになり、州県のあがりが藩鎮にすいとられて中央にとどきにくくなった。唐のなかばから五代(八世紀なかば~十世紀)にかけてはこういう節度使があちこちで戦争している、そういう時代だった。
ということで、そのころ節度使は軍人のひとつの目標、ステータスだった。のちのちにつくられた軍談でも、武芸に秀でたものが紆余曲折を経て最後に節度使になる、というパターンができていた。水滸伝の原型といわれる『宣和遺事』でも、宋江は節度使になった、ということになっている。
貴族たちは科挙に対応してなんとかいきのこっていたのだが、この戦乱の中で生活基盤を失い、消えていった。節度使たちもはげしい競争の結果、あまりにたくさんふえてしまった。貴族が力を得ていた時代には貴族たちは人々と政府のあいだで養分を得ていたのだが、節度使の場合は政府の内部、州県と中央政府のあいだにたち、養分を得ていた。しかし数が多いと当然わけまえもすくなくなり、弱くなる。皇帝のにぎる軍事力が彼ら節度使をなんとかおさえられるようになりつつあった。中央集権・皇帝独裁への道はこのようにして開けていったのだった。
そして北宋(十世紀~十二世紀なかば)になる。政治の担い手は、貴族のような代々つづいた土着の豪族ではなく、節度使のような軍人でもなく、試験をくぐり抜けてきた新しい知識階級、士大夫だった。彼らはまさに皇帝の手足であって、おのが才覚で金儲けに励むことはあっても、政府の機構から養分をえることはなくなったのである。
州の長官は知州、県の長官は知県とよばれる。州にはまた、次官の通判がおかれた。あらゆる決定に通判のハンコがいる。知州をおさえるための官である。
唐の後期というのはまたそれまでにくらべて経済活動がさかんになりだした時期だった。流通の変化と商業の発展のためにそれまではなんでもなかったところに商売のまちができることがある。宋ではそんなところを鎮とよび、県の出張所をおいて税金のとりたてや治安の維持にあたらせた。水滸伝第三十三回の舞台清風鎮はそんなところのひとつである。劉高【りゅう:こう】・花栄は同じ清風鎮・清風寨の知寨であるが、県には兵権がないので所属がちがう。文官の劉高は中央政府から任命され、県に所属。武官の花栄は州の軍隊から派遣され、州に所属しているのである。
○元明清【げん:みん:しん】の州県制
水滸伝の地方区分は元明のものを背景にしているとかんがえた方が無理がすくない。時代劇といっしょで、むかしのことをえがいているつもりでも、つい現代の事象がでてしまうのだ。
モンゴルが中国にのりこんできてつくった元(十三世紀~十四世紀なかば)では、地方区分にもいろいろてがいれられた。めあたらしいのが行【こう】中書省だ。これはもともと軍隊についていって事務をするための中央政府の出先機関で、占領地の経営にあたっていたのがそのまま残った。これを略して行省、省といい、現代の省の由来である。現代の省の二倍くらいのひろさをあつかっていた。人口を基準にした州県の統廃合が何度かおこなわれ、また、宋代の路よりもせまく、州よりも広い範囲をあつかうあたらしい路ができた。複雑なので一概にいえないが、朝廷―行中書省―路―州・県というラインができていた。州と名のつく衙門が直接人民に接するようになるのは元からだ。
明(十四世紀~十七世紀)では元の路を府にし、行省をいくつかにわけて現代とおなじくらいの省をこしらえた。つまり、朝廷―省―府―州・県である。なかには、したに県をしたがえ、うえは省にしたがう直隷州もあった。これは宋代の州と似ているが、ちがうのは、直接人々に接することであった。つまり、宋までの州県制のばあい、天下の地面はすべていずれかの県(及び県と同級の衙門)に属していて、州と名のつく衙門は県の上にたって下からあがってくる事務をこなしていたけど、明では州も自分があつかう地面をもっていた、という点がちがう。府も、厳州府、蘇州府のように州のついた府名をもつことがおおかった。水滸伝で、州の長官が知州でなく、ほとんど「知府」とよばれるのはこういうわけがあった。清(十七世紀~二十世紀初)は明の制度をそのまま引き継いだので、おなじとみてかまわない。
省には布政使、按察【あんさつ】使がおかれ、それぞれ租税と裁判のことを担当し、責任者として巡撫【じゅんぶ】・総督がおかれそれを指揮監督した。
(元のことについてはよくわかんないです。イヤ僕が。かいたけど・・・)
■お役所(衙門【が:もん】)
○公務員 官と吏【り】
むかしの中国では府・州・県の衙門だけが政府と人々が接触する窓口になる。ところが、中央政府から任命された正式な公務員(官)はごく少ない。宋代の県の場合なら、長官である知県、その副官の県丞、治安維持にあたる県尉、租税をあつかう主簿など数人しかいない。これだけの人数で仕事をこなせるのだろうか。しかも連中はそれぞれの任期ごとにくるくる交替するのである。たとえば知県は三年ごとに交替し、州や中央政府に昇進したり、よその県に移ったりする。これは土地に根づいて勢力をもつのを防ぐためだが、結局土地の事情をよくつかめず、よほどのスグレ者でなければたいしたこともできずにおわる。そこで必要なのが仕事を手伝う事務屋。それが胥吏【しょり】である。公式には手分とよぶ。
胥吏は衙門にはつきものの存在だ。県の衙門にいる。州の衙門にいる。中央政府にも軍隊の衙門にもいる。政府と人々のあいだには胥吏という通路が存在するのだ。しかも、胥吏は正式な公務員(官)ではないので政府から給料はもらえない。なんらかの名目でもらえたとしてもごくわずかだ。だから人々から手数料を取る。そのため、人々が衙門となにかでかかわりを持つとただではすまない。衙門のあちこちに手数料という油をたらしておかねばならぬからだ。そんなものだから胥吏は一般に好かれない。
胥吏は徒弟制で育成される。文書をあつかうには専門の知識と経験がいるのだ。見習いのうちは貼書とよばれる。はじめのうちは飯だけくわしてもらって仕事をおぼえ、熟達するにつれ給料をもらえるようになる(胥吏の給料についてはあとで説明)。そのようにしてそだてられ、長年にわたって衙門ではたらく。
科挙には事務の問題なんかでない。だからほとんどの官は実務にうとく、胥吏がいないとなにもできないといってもいい。そんなもんだから官は胥吏をコントロールしにくいし、なめられると任期のあいだ無事つとめられるかどうかあやしくなってくる。したがって官の方もあまり胥吏に好意をもたず、しばしば政治悪の根元のように論じられる。
それは一理あるが、胥吏が人々にたかるように、官も胥吏にたかる。水滸伝のあちこちに出てくるように官も金にきたない。たとえば宋代には誕生日のお祝いがあたりまえになっていたり、宴会の費用をもたせて一切はらわないということが平気でおこなわれていた。
もともと胥吏などの「衙門ではたらく人」というのは人々のあいだから役【えき】という名目で「徴発」されたものだった。科挙の時代になって、事務は専門職化して「胥吏」になっていったが、からだをつかう方も徴発からやといにかわっていった。これを胥吏にたいして衙役とよぶ。胥吏のしたでからだをつかってはたらく。具体的には牢番や門番をしたり、つかいぱしりになったり、警備隊の一員になったりする。徴発するのは差役というが、衙役とのさかいめははっきりしない。やといといってもやっぱり徴発の面はのこっていたのである。
○胥吏と王安石とモンゴル
王安石(千二十一年~千八十六年)の変法といえば世界史の教科書にのるほど有名だが、その目的のひとつは胥吏の存在をみとめ、給料をだしてやり、官員と胥吏のあいだの壁をとりはらうというだった。「胥吏は役【えき】だ」、というたてまえで給料をださないのが必要以上に手数料をとられる原因だし、官員は胥吏に実務を負いながら、胥吏は官員になれず、そのあいだに壁があるのはおおきな矛盾だと考えたからだ。
官員層の反発を受けつつも、この方針はうけつがれていった。たとえば水滸伝にもでてくる高俅【こう:きゅう】自体、胥吏から官員になった例である。北宋をたおし北中国を支配した女真【じょ:しん】の金(十二世紀~十三世紀)、モンゴルがうちたてた元では科挙がほとんどなかったため、胥吏からしか官員になる道がなかった。胥吏の延長上に官員があるものとしてあつかわれ、給料もしはらわれた。
ちなみに元代では衆議とか、連帯責任が重んじられた。そのせいか、自分たちでは判断しきらず、なんでもうえに判断を押しつけるクセがあった。そのうえひとつのことを決めるのにあちこちのハンコがいる。そのため文書が各官庁のあいだを行きかい、煩瑣なこときわまりなかった。いわゆるお役所仕事というヤツだ。ややこしい文書処理のために吏学というのができたほどだ。
金にやぶれ、南中国でなんとかいきのびた南宋(十二世紀~十三世紀)では、「北宋がほろびたのは王安石一派のせいだ」、と目のかたきにしてその政策まで撤回させたので、胥吏のあつかいもあともどりした。元も十四世紀になってから科挙を復活させた。明が元をたおすと、大々的に科挙をやりだし、胥吏と官員のあいだの道はまたせまくなったのだった。
○六房(六衙)
中央政府がその末端に要求すること、それは租税・税金をとりたてて納めることである。それさえきちんとしておけば、あとは知県の裁量次第。しかし、中央政府は給料のほか何も出してくれないので、まず行政費用を何とかやりくりせねばならない。この部分は「役【えき】」でまかなわれる。あらたな銭納の役をつくって人々に課す、というかたちだ。
中央政府の行政部門は吏、戸、礼、兵、刑、工の六省にわかれる。州や県の衙門もそれにならい、六部門にわかれている。呼称は一定しない。これを六房(また、六衙)ともいう。胥吏たちは各房にわかれてはたらいている。もっとも、これは時代や地方によってうつりかわりがある。県衙門では六部門にわかれるほど仕事の量はおおくないし、官員は知県以下ごく少数なので、事務の分業もカナリいい加減だった。
各房の胥吏の親方を押司【おう:じ】とよぶ。押司はその房の仕事をうけおっているといえる。仕事の責任を負うかわりに手数料のとりたてをゆるしてもらう。手数料は一度押司のもとにあつめられ、押司から各胥吏に給料がしはらわれる。だから押司は特に悪いことをしなくても業務の量が多ければもうかるわけだ。
衙門の日常業務は朝がたと昼さがりにおこなわれる。あいだに長い昼休みがある、ともいえる。それぞれ点呼があるので仕事がなくても顔を出さねばならない。
衙門のおもてがわはいわゆるお役所部分だが、そのうらがわは知県とその家族の住む場所になっている。胥吏たちや衙役の連中も衙門のなかにすむことになっている。買収などをふせぐためだが、きびしくまもられなかったし、効果もなかった。
知県の住宅と衙門が一緒にある、というのは奥と表のさかいめが曖昧になりやすい、ということだ。奥向きの用事に胥吏や衙役を平気でつかったりするし、行政費用としてあつめてきた役【えき】の金を流用したってはっきりしたことはわからない。租税・税金をとりたててきて上級衙門におさめたあと、あまった分はすべて自分の役得にできる。清廉な官でも三年知県をつとめれば一生あそんでくらせるというのはこのあたりのことをいう。
○裁判・訟事
男が衙門のまえにあらわれ、ひざまづいてさけぶ。
「冤屈!冤屈!」(訴え事があります!)
ちょうど衙門は昼休みだったが、胥吏たちがでてきて男をなかへみちびき、知県も奥からあらわれてとりあえず事情をききはじめる。お昼やすみにひらかれる臨時の業務だからこれを午衙とよぶ。
小説・戯曲によくでてくる場面だ。むかしの中国では地方官は検事であり、また裁判官でもあるのだ。また、ここが地方官の腕の見せどころなのである。なにしろこみいった案件に判決をくだすときには、物見高い連中が見にくるのだ。見事な判決をくだせば名知県サマじゃ、というのでまわりの見る目がちがうし、お粗末なことをすれば評判がさがり、信用がなくなってしまう。
名判官で有名なのが水滸伝冒頭にあらわれる包拯【ほう:じょう】だ。天子のお膝元開封府の長官となり、法に厳格で高官の子弟といえども容赦はしなかった。名裁判官であることが名地方官の第一歩なのだ。
もっとも、地方官の日常業務のほとんどは裁判だ。裁判の手続きには、犯人・容疑者の捕縛、事実調査、刑罰の適用、の三段階がある。宋・金代にはこのみっつの職掌が完全にわかれておこなわれていたといわれる。つまり、捕縛は捕盗官、事実調査は獄吏、量刑は裁判の係りの胥吏の役目。
水滸伝を見ればわかるとおり、これらも責任は結局地方官にある。だから水滸伝では、捕縛の命令を知県が出し、事実調査を獄吏の協力のもと、知県がおこない、量刑は裁判の係りの胥吏にたすけてもらいつつ最後に知県が判決をくだす。
水滸伝にはあちこちに「孔目【こう:もく】」がでてくるが、孔目とは文書に目を通す人、つまり事務屋のこと。水滸伝ではほとんどが裁判がかりの胥吏のことを指す。そしてあの孔目はまがったことがきらいで・・・とか、金に目のないヤツで・・・とか評される。この場合、官の能力がとわれていない。官のほうはあまり吟味をせずに孔目のいうことをうのみにするのだろう。州や府のように処理する量が膨大だとそうなりやすい。元明代の州や府には特別に刑獄を担当する官、推官がおかれた。
中国の刑罰は隋より清にいたるまで笞・杖・徒・流・死のいわゆる五刑がある。この刑罰をさだめているのが律だが、この律は一度きめたらその王朝がつづくかぎり永遠にかえられない(とみんなが思いこんでいる)ものだった。それでは社会の変化に対応できず、不便なので、宋では律をたてず、そのときそのときに臨時にだす皇帝のおふれ、勅で刑罰を規定することにした。笞・杖・徒・流・死の五刑もそのまま執行せず、死刑以外をすべて杖でよみかえ、死刑相当の罪でも、一部を配流でよみかえることがおこなわれた。それに付属して、罰金もおこなわれた。孔目などがする事務は、事実調査の結果に対して、それに相当する判例、律、勅をしらべてかきだすのである。
中国の官制は各級で決定できる範囲が決まっている。それぞれですべての審議をおこない、この案件はこの罪に相当する、と量刑しても、それがその級で決定実行できる範囲外だった場合、うえにおくられるのだ。県で執行できるのはたたいてすます笞と杖だけで、重大案件は州・府にまわされる。州・府で決定できないときは路の提点刑獄(元なら粛政廉訪使、明清なら省の按察使、督撫)、さらに中央政府の裁判担当部局(刑部・大理寺)にまでのぼって審議することもあるが、こちらはたいてい書類審査だけで、よほどのことがないかぎり、州・府のように事実調査からやりなおしたりはしない。水滸伝の好漢たちはみな人殺しのような重犯罪でつかまるから、州・府で裁判をうける。
ところが、県の段階で死刑相当の刑をくわえることができる。百たたきというやつだ。これをやるとほとんどの人間が死んでしまう。これを杖殺という。宋代はかなり死刑になりやすかった。ちなみに歴代で一番死刑がすくなかったのは元【げん】だ。
県衙門や州衙門がうったえをうけつけるのは当然だが、まったく関係ない衙門や上級衙門にいきなりうったえにいくこともあった。人々にとってはひとしく「おかみ」であるから、うったえに対し、決着をつけてくれる権威があればどこでもいいのである。いくほうもいくほうだが、それをうけつけるほうもうけつけるほうだ。胥吏たちにとって裁判沙汰はたくさん金をしぼれるかせぎどき。カモがネギをしょってやってくるようなものだからいくらでもうけつけるのだ。
殺人事件などがおこったとき、検屍にあたるのが忤作【ごさく】だ。忤作は検屍や葬儀をおこなう職業組織で、一地域の人死ににかかわる事務を官府から委任されている。胥吏の一種であって、病死・事故死・他殺・自殺にかかわらずすべての死体を検死する。しかも忤作の許可がなければ埋葬できない。忤作のかしらが団頭。水滸伝二十五・六回にでてくる何九叔が団頭だ。しかし、団頭というのはおそれと差別のいりまじった一種の蔑称である。人々は面とむかって何九叔を団頭とよばない。
○牢について
さて、だれかがうったえられたりとらえられたりすると、一通り取り調べをうけたうえ、牢にいれられる。この牢というのは判決がきまるまで閉じこめておくための場所だ。
府・州には管下の各県から裁判をうける連中があつまってくるので、広大な牢が必要となる。県の牢はそれにくらべると簡単なものだ。牢の管理にあたる胥吏を節級とよぶ。一番えらいやつが押牢だ。下っ端の牢番連中は牢子・獄子・禁子などとよばれるが、これは胥吏ではなくて衙役にあたる。
まえにいったとおり、この獄吏たちは裁判の過程の中で、事実調査の役目を負っている。水滸伝の中で、地方官が事実調査にあたるとき、獄吏たちがでてきて、犯人をとりまわすのはそういう由来がある。
押牢節級は牢内の囚人たちの死活をにぎるので権力絶大だ。ちゃんと面倒を見てもらおうと思えばきちんとつけとどけをしなければならない。おきまりの手数料だ。また、逆に節級たちに金を積んで相手を始末してくれと頼むのも可能だ。その場合、水滸伝第二十八回にひくように盆吊や土布袋といった方法でこっそり殺してしまい、上のほうには病死した、と報告してすましておく。
押牢節級のことを両院押牢節級の院長、などともいう。唐後期、おなじ州衙門のなかで民政と軍政がわかれていたなごりをうけ、獄訴のことも州院と司理院(開封では軍巡院)の2系統があった。しかし牢はひとつだから、両院と冠するのである。また、院長と蔑称するのである。水滸伝三十八回で院長は湖南一体の呼び方、といっているのは知ったかぶりだろう。
よく節級は首斬人(劊子【かい:し】)も兼ねたらしい。水滸伝の祭福や楊雄も押牢節級兼首斬人だ。
牢では役所のほうで食事を用意してくれない。だからだれかがさしいれしなければならない。水滸伝第三回で魯達が鎮関西をなぐりころしたとき、すぐにげたのはつかまって牢にいれられても身寄りがいないのでだれもしいれしてくれないからだ。
水滸伝では牢の拘置期限が六十日ときまっている。これは裁判の長期化をふせぐためで、期限をもうけるのは唐後期にはじまる。宋代ではその事件の重要度と地域によって段階的に期限を定めてあるが、水滸伝の事例にこれをあてはめると、三十日になる。水滸伝ができあがった明代には特にさだめがなかった。なぜ六十日かはよくわからない。
水滸伝によくでてくる牢城営、ここは軍隊であって牢でも刑務所でもないからあとで説明する。要するにむかしの中国はわるいことをしたら罰をうけさせるだけで、どこかに閉じこめてつぐないをさせたり性格をなおしたりということはなかったのだ。
○治安維持
宋~元代、県には県尉がいて警察関係のことをとりしきっていた。県尉は官である。その配下には弓兵など守備隊といえるようなものがいる。その隊長が都頭だ。宋の県には兵権がない、ということはすでに言った。つまり、この守備隊らしきものは軍隊ではないのだ。衙役なのだ。装備はおそろしく貧弱だ。水滸伝の都頭たちはみな朴刀という武器の一歩手前のものをつかっている。宋以降、民間での武器の所持が禁止され、それは県の守備隊でも同様だったようだ。守備隊というより機動隊といったほうがいいかもしれない。
府・州はもう少し規模が大きく、尉司(県尉も尉司)のしたに緝捕【しゅう:ほ】使臣という捕盗の武官がおかれる。緝捕使臣はまた観察ともよばれる。水滸伝の十八回あたりに済州の観察何濤が必死で強盗団をとらえようとしているのがみえる。
警察関係のことをとりあつかう胥吏は押番とよばれる。警察官、ないしは岡っ引きのような存在が機密。水滸伝には各所で相官・廂官・地廂といった連中がでてきて検屍にたちあったりしている。もともとこの廂官は宋代、都城(みやこ)の内外をいくつかの廂にわけ、廂官をおき、治安を担当させたもの。元代には城市のまわりの区画を廂でわけているところがある。
巡検というのもでてくるが、水滸伝の場合、この言葉のつかいかたは地位の高下にかかわらず、警察関係の仕事をしているものなら誰でも、というくらい大ざっぱである。
明清では県尉はおかれなかった。そのかわり、巡検が要害鎮市におかれ、知県の指揮下にあった。巡検がひきいるのも弓兵らの衙役諸君である。
○租税(税糧)と役
人々が国にはらわなければならなかったものはおおきくわけてふたつあった。租税と役だ。
租税はいわゆる両税だ。唐の七百八十年にさだめられ、以後基本的にかわらなかった。ようするに田地にかかる年貢で、夏の小麦と秋の米の二期にわけてとるので、両税という。小麦の分は銭納やほかのものにおきかえておさめられることがおおかった。明の初期には現物納が強調されたが、なかごろから銀納になっていった。
役は地方税ともいえるもので、仕事の内容にはおもに二種類ある。職役と郷役だ。職役は役所ではたらく役、つまり、衙役のことだ。郷役というのは地方の有力者にその地方の納税責任・自治責任を負わせるものだ。江戸時代の庄屋にも似ている。
水滸伝に出てくる里正・保正はこの郷役である。里というのはむかしからある集落の単位で、時代・地方によってつかわれかたはかわる。保(保甲)というのは王安石の新法のなかでつくられた民間自衛のための組合だが、税をとるのに便利なので、徴税単位としてもつかわれた。
水滸伝三十五回にでてくる社長は元代のもの。これはひとつの村で徳望のあるものがつく名誉職のようなもので、一度なったらまず死ぬまでかわらない。ほかの時代の里老人とか、長老にあたる。これも郷役だ。
役は他にもある。全国をつなぐ駅の管理なんてのもそうだ。原則として、ゆたかな家ほどおもい役をあてられる。しかし、とにかく、役というのはさだまりのないもので、記録にも確実にはのこらない。つまり、官員や胥吏の金儲けの場になりやすかった。
地方の行政費用を捻出するための付加税も役にはいる。明のなかごろには、捻出するためにその場その場でこしらえたいろんな名目が、つもりつもってややこしくなっていた。それをまとめて一括払いにしたのが一条鞭法というヤツだ。清のころには租税、付加税は両方とも地銀・丁銀という銀納になっていた。
租税は裁判とならんで胥吏のメシのタネだ。銀納・銭納となれば、胥吏は私的に納税代行の窓口になってもうけた。清代には包攬【ほう:らん】といって、胥吏が徴税業務全般をうけおうことがおおやけにおこなわれた。これならふっかけほうだいだ。また、たとえば、衙門に土地台帳があるとする。土地は売り買いされるので、毎年いくらか変わる。胥吏はその変化を土地台帳にかきこまず、裏帳簿をつくってそっちに書き込み、両方みないと用をなさないようにする。そうすれば、その裏帳簿自体になんともいえぬ値打ちがでてくるのだ。
両税法と同時におこなわれたのが塩の専売だ。この塩の専売は唐後期以後の重要な政府の財源になった。塩の専売や商税、各所の通行税をあわせると、この時期の政府収入の半分をこえていた。しかし、明清にはいると商税、専売の利益はおおくなかった。経済政策がわるかったせいといわれる。
中国は大陸であるから、塩のとれる場所はかぎられている。そして人間は塩がないといきていけない。しかも塩をつくるのはそれほど金のかかるものではない。であるから塩の専売はどうしても儲かるしくみになっている。そのうえ政府はカナリ値段をふっかけた。すると当然闇ルートで塩の商売をしようとする人がでてくる。政府値より安くしてもやっぱりボロもうけだからだ。政府はこれに重罰で臨んだので、闇商人たちも結束を深め、秘密結社をつくるようになった。こういった裏社会と水滸伝の好漢たちはかなり近い関係にある。
○まとめ
チョット複雑になったので簡単にまとめてみよう。
衙門のする仕事 裁判と徴税
衙門ではたらく人たち 官員と胥吏と衙役
官員は科挙で選抜、胥吏は徒弟制で養育、衙役は雇い
人々のとられるもの 租税と役
人々の受けるサービス 裁判
税は中央の費用に、役は地方の費用に。
○皇帝
皇帝はむかしの中国で一番えらいひとで、皇帝よりえらいのは天しかない。天にかわって実際に政治をおこなうので、天子ともいう。だから三年に一度南郊で天をまつり、そのたびに大赦をおこなうのである。「万機を統べる」といって、世の中のこと全部について責任があり、世の中のことすべてについて決定できる。皇帝がおさめるのは「天下」であって、中国とか大陸とかいうものではないのである。
朝廷というのはそれを助け、実行するためにある。当然そこにいる人たちはすべて臣下である。彼らは皇帝に対して意見を出すことができるが、それはあくまで皇帝の決定を助ける参考意見でしかない。彼らにもその職分に応じて、決定実行できる範囲があるが、それは皇帝が天にかわって政治を行っているのと同様に、彼ら臣下が皇帝にかわって実行しているだけなのである。天の意志はだれにもわからないが、皇帝は現に存在するのでまちがったり、さからったりすると処罰される。
皇帝よりつよいヤツがでてきて、皇帝をたおして、あたらしい皇帝になることを、「天命がうつった」という。やはり天の意志はだれにもわからないので、現実はうけいれざるをえないのである。
○後宮と宦官【かん:がん】
皇帝も人間であるから、生活のための場がある。皇帝は最高権力者だから天下じゅうのいい女をあつめて自分といっしょに生活させることができる。後宮という。後宮に他の男がいたらできた子供がだれの子供かわからなくなってしまう。だから後宮にはおとこははいれない。しかし、後宮にもつかいぱしりがいるので、女か去勢した男をやとってつかう。後宮ではたらく去勢された男を宦官【かん:がん】という。
皇帝は朝廷にいる時間よりも宦官といる時間のほうがながい。自然、宦官としたしくなる。朝廷にいる官員はだいたいが裕福な家でぬくぬくとくらしながら科挙のためにガリガリに勉強してきた連中だから、人生経験において宦官の比でない。朝廷にいるヤツらよりも宦官を信任する、ということもある。そうなると宦官もふるう権力はつよくなり、やる気のない皇帝の場合には皇帝の名をかりて朝廷の臣下をあごでつかうこともできる。科挙をとおって官員になるのがおもての道とすれば、自分で去勢して宦官になるのがうらの道である。
○官員
官員になるのは一番の金儲けである。いわば皇帝の権力の代理人になるからだ。権力のあるところ利権がうまれる。うまくたちまわればおいしい汁がいくらでも吸える。一族に官員になったものがいれば、おおいばりだ。威を借りて少々のムチャもとおる。なんといっても裁判のときに有利だ。だからかどうか、科挙に受かると、それまで一度も顔を見たことのないような「遠縁の親戚」がたかりにきたりもする。
科挙は時代によってうつりかわりがあるが、三段階もしくはそれ以上ある。県でうけて、地方でうけて、最後に中央でうける。みんなだれでも科挙を受けれるが、その受験勉強をするヒマは家が裕福でないととれない。だから、商人や、大地主の家のものがうかりやすかった。文化というのはそういうヒマの産物であるし、科挙の内容は儒学や詩賦・文章の問題がでる。官員層は同時にその時代の文化の担い手でもあった。
○三省六部
皇帝のはじまりは秦の始皇帝(紀元前二世紀)だが、いままでえがいてきた皇帝像がそのころからあてはまるわけではない。皇帝の権力のありかたもつよさも時代によってちがう。その権力を実現させる朝廷のしくみも時代によってちがうのである。
科挙がはじまったころである唐の朝廷のしくみは三省六部とまとめられる。三省とは中書省、門下省、尚書省であり、六部は吏・戸・礼・刑・兵・工の各部にわかれる。それぞれの衙門ではたらく人を分類すれば、長官、次官、判官、主典にわかれる。長官・次官は管理職、判官は仕事する人たち、主典は判官をたすける人たちだ。
中書省は皇帝になりかわって詔勅(おふれ)を立案し、書くところである。長官、次官、判官は中書令、中書侍郎【じ:ろう】、中書舎人だ。門下省はその詔勅の内容をチェックし、よくないものをつっかえすところだ。また、百官(官員の総称)の奏抄(皇帝への意見)を皇帝にとりつぐ。同様にして、侍中、門下侍郎(黄門侍郎)、給事中である。こういう重要機関なので、実際に仕事をする給事中と中書舎人はみんながやりたがる重職だった。
尚書省と、そのしたの六部は門下省を通ってきた詔勅を施行する行政官庁である。尚書省の長官は永久欠員で、次官が僕射(左右の二人)。そのしたの六部は吏部が百官の人事、戸部が戸籍・租税などの財政、礼部が祭祀・儀礼、刑部は司法、兵部は国防・軍事、工部は土木事業などをあつかう。六部の官員構成は尚書、侍郎、郎中・員外郎である。以上は文書行政だが、さらに九寺五監十六衛とまとめられる機関があって、実務につく。裁判のところででた大理寺は九寺のなかのひとつだ。
ほかに御史台というのがある。百官を監視する検察機関だ。
宰相というのは最高議決集団のことである。高級官員の人事をにぎる。中書令・侍中・左右の僕射がそのメンバーだったが、のちにほかの官職についてるものもはいることがあった。そのときには同中書門下平章事といった肩書きを帯びる。
○使職と六部
社会がうつりかわると、官員制度もそのままではいられない。しかし、そんなとき、いちからつくりなおしたり、いままでのしくみにあたらしい官職をつけたしたりはしない。ほかの官職についている人に臨時に肩書きをつけてその仕事をやらせた。その臨時の肩書きのひとつに使職がある。たとえば、節度使も使職である。だいたい、何々使と、使のつくのは使職だ。
この使職が唐中期以降どんどんふくれあがっていき、北宋の中頃には六部はほとんどの仕事を使職にとられて、ほとんどなんもしてない存在になった。
さすがにそれはいきすぎだ、というので、むりやり六部へ機能をもどした。もともと、財政関係の使職がふくらんでいったものだから、吏・戸・礼・刑・兵・工にあらためて仕事をわりふると、礼・兵・工は他にくらべてヒマな部局になる。それでも、六部は文書行政の中心として、このまま清代までつづいた。
○宰相と翰林学士
ほかに機能をうばわれた、という点では当時の三省も似ている。宋代には皇帝が仕事をする禁中にできた、宰相たちの出張所「中書」が重要になった。三省それぞれそとに建物をかまえているが、そこでは仕事にならんのだ。その「中書」ではたらく長官は中書門下平章事、つまり宰相であり、次官は参知政事(執政、副宰相とも)である。六部の機能をもどしたとき、宰相の身分にもいろいろ手がくわえられたが、結局、宰相―参知政事でおさまった。水滸伝の蔡京【さい:けい】はこの宰相だ。
詔勅を起草するのも中書省の仕事ではなくなっていた。唐の玄宗のとき、文学に秀でたものをあつめた翰林【かん:りん】学士院をつくり、たまに書かせていたことがあった。それが宋代になれば、起草は翰林学士の仕事となった。他に官職をもっているものが詔勅書きになるときは知制誥【ち:せい:こう】という肩書きをおびた。
金元代にはそのものズバリの丞相と、平章政事がおかれ、宰相となった。また、元特有の事情として、中書省と尚書省が並立した時期があった。いずれも六部をそなえた行政官庁である。仕事の職掌はわかれていたようだ。元はお家騒動がはげしかったので前皇帝の臣下をそのままのこしたまま、あらたに自分の臣下をつくる、ということがおこなわれたからだ。元は地方にも行中書省があり、その中にも六部がある。文書行政が煩雑だった原因のひとつだ。
○内閣大学士と軍機大臣
学士は三省六部のお仕事からはなれた文化的な職であり、翰林学士もそのひとつである。館職という。官員がみんな科挙によって選ばれた時代は、官員はみないっぱしの知識をそなえた文化人だから、館職をもらう資格をそなえていた。そして、館職は天子のブレーンということを意味していた。宋代以後はすべての官員は天子と直接あうのが可能だったのである。
明にはいると、丞相はたてるなという太祖朱元璋【しゅ:げん:しょう】(在位千三百六十八~九十八)の遺訓があった。しかし、それでは天子はしんどいので、館職の内閣大学士という肩書きをつけて相談役にした。これがのちに宰相とされるようになった。
清も明の制度をひきついだけれど、なにぶん天子以下満州の女真なので、内閣大学士以下の衙門は、満州人官僚と漢人官僚の両方にわかるように文書も満州語と漢語の両方に翻訳しなければならない。翻訳で忙殺されるようになったので、意志決定もままならぬ。ということで、雍正【よう:せい】帝(在位千七百二十二~三十五年)の時代に漢語文書は漢語で、満州語文書は満州語で対応する軍機処がつくられ、政治の実権は軍機処の長官軍機大臣にうつった。ちなみに軍機処には胥吏はいない。逆に言うと今まで説明してきた衙門にはすべて胥吏がいたのである。
○位階と官職
位階というのは一品から九品ある官員のランクだ。後漢末の曹操が役人を九品にわけて採用したのがはじまりである。それにたいして官職は仕事のなかみをしめすもので、ひとつひとつが位階の正何品従何品ということがきまっている。その枠内でおさまりきらないしごとをさせるときには使職などで対応していた。ところが時ながれて王朝がかわるころになると、政府のしくみも社会のしくみもかわってしまって、それまでの官職の体系では対応しきれなくなる。そこでそれまでの官職をきれいさっぱりすててあたらしい官職名だけにすればわかりやすくていいのに、そうはしない。それまでの官職名は位階をあらわす虚名としてのこり、実際の官職とは別のものになったのだ。
たとえば、水滸伝には太尉【たい:い】というのがけっこうでてくるが、これは武官最高の位階名で、実際の官職をしめすものではない。だから殿前司都指揮使の官職をもっている高俅【こう:きゅう】が太尉で、特になにかの官職についているようにみえない宿元景や楊戩【よう:せん】が同じ太尉でもかまわないわけだ。ちなみに太師・太傅・太保の三師と太尉・司徒・司空の三公は漢代には宰相のポストとして機能していた。
ほかに称号としては、勲・爵がある。勲はもともと戦功にたいしてはらわれるボーナスの称号だけれども、のちにはみんなの位階におうじて自動的につけたされるようになった。一番うえの勲は上柱国。爵はいわゆる王公侯伯子男で、本来は土地をもらうことだから、いちおう邑三百戸などとつづくが、名目だけである。ホントにもらえるときはあたまに実がつく。
位階名も官職も両方給料がでる。位階名は何品かできまり、官職はその内容によってかわる。使職などの「臨時の肩書き」官職は給料がきまっていない。給料をはらうためだけに位階名をしめす官職を兼任する。
こんな複雑なことになるのも、官制を変更する権限がないからだ。裁判のところでいったとおり、下級官庁は決定実行できる範囲がきまってて、それ以外のことは上級官庁にゆだねなければならない。これとおなじで、官制も、開国した皇帝がきめたものだから、それを変更する権限は子孫の皇帝にはないのである。なんとかしてよみかえなければならない。
しかし、権限がない、というのも、みんなが納得しない、といいかえたほうがただしいかもしれない。発言力のある人はみないまの状態でなんらかの利益を得ているから、その状態がかわって利権をおかされるのはいやなのだ。社会のありかたは法律できまるのではなく、人間の集団がきめるのである。
○武をいやしむ
軍隊は皇帝にとってたいへんだいじなものだ。皇帝が皇帝でいれるのは一番つよい軍隊をもっているからであって、よわければひとに命令などできない。だから、皇帝は軍隊をにぎるが、民間人が武器をつくったりもったりするのをゆるさない。
そもそも中国人は文をたっとび、武をいやしむ、とはよくいわれる。まともな人は軍隊にはいらない、とまでいわれた。農耕したり商売したりものつくったりしている人たちにとって、軍隊というのは非日常的な特別な存在だったのだ。それにくわえて犯罪者やくいつめた人がおもに軍隊にはいったということもあるだろう。
中国の歴史は一面では北方の遊牧民が中国の農耕地帯にまじっていく歴史でもある。北方の遊牧民はその生活自体が軍事と密接な関係にあり、生活の延長上に軍隊がある。火薬が発明される以前、馬と弓は最大の戦闘兵器だった。騎射と狩猟のための団体行動が常識になっている騎馬遊牧民にとって、軍隊行動はなんでもないことだった。
したがって、皇帝も遊牧民と無縁でなかった。そもそも、科挙制度をつくり、州県制をととのえ、その後の「中国のかたち」におおきな影響をあたえた隋も、それをうけた唐も、もとは遊牧民出身の軍閥だったのである。
唐の後期から五代にかけては各地に軍閥が割拠するような時代だった。その最後の勝利者が宋王朝の基盤になった柴世宗と趙匡胤【ちょう:きょう:いん】の軍閥だったのである。
○禁軍と廂軍
宋の軍隊は禁軍と廂軍の二本立てだ。禁軍は政府直属の軍隊だが、廂軍は州・府に属する。廂軍は軍隊といってもその実人夫の集団で、労働力を提供する。
中央政府には枢密院がおかれ、軍事機密・辺防を管理する。ここの長官が枢密使で、水滸伝の場合、童貫がこの役にあたる。北宋の枢密使は中書とならび称される二大重職で、文官がついた。
国都開封付近の禁軍は三系統にわけられる。殿前司・侍衛歩軍司・侍衛馬軍司の三つだ。ここの長官が都指揮使で、武官がつく。この殿前司の都指揮使が高俅【こう:きゅう】だ。
宋の軍隊は命令をだすところと実行するところがかならずわかれている。作戦をつくるのは文官で、それを実行するのは武官。文官の作戦は往々にして机上の空論のことがおおいから、宋の軍隊はその能力を発揮できたわけではなかった。宋は軍隊に国家予算をかたむけていたのに、そんなにつよくなかったといわれるのはそのあたりにも原因がある。しかし、宋は周辺諸国から平和を金で買っていたので、そもそも軍隊の出番自体がすくなかった。
禁軍はその出身や任務によっていくつかの班・直・軍にわかれる。たとえば徐寧のいた禁槍班は槍術に秀でたものをあつめたところ。竜猛・虎威の二班は帰順した盗賊で編成したもの。水滸伝でも、方臘戦ののち、梁山泊軍のうち兵として残るものはこの二班に編入された。
宋の軍隊の編成で基本になるのが「指揮」だ。営ともいう。一営は五都、一都は百人なので、一営はだいたい五百人である。この営の指揮官が指揮使。この「指揮」が五ないし十あつまって、ひとつの軍がつくられる。この軍の指揮官も都指揮使という。また、北宋の後期からは、あつまる指揮の数にさだまりのない、「将兵」という単位がつくられた。同時に、指揮の構成員も五火五十人からなる「隊」でくみなおされた。
教頭というのは兵卒のうち特に武芸に秀でたものがなるもの。軍隊内の地位は高くなく、下士レベルだが、八十万禁軍教頭というとなんとなくかっこいい。ちなみに十一世紀中ごろの宋の仁宗のころには実際に禁軍は八十万に達していた。
禁軍は首都近辺と北辺にかたよっているが、廂軍は全国にひろがっている。というのももともと、廂軍は地方軍だったからである。唐後期から五代にかけて各地に軍閥が割拠していたなごりで、各州が軍隊をもっていたのだ。宋になってからはそのちからをそぐため、廂軍からつよいヤツをよりだして皇帝直属の禁軍にあつめ、廂軍は戦闘部隊としては役にたたないようにした。かくして労役部隊になりさがったのだが、廂軍にはほかにも役目があった。飢饉・災害などがおこると、生活の基盤をうしなった人がでてくる。そういう人をあつめて廂軍にいれるのだ。反乱防止・治安維持のためである。
さて地方のばあい、大きな府・州の長官がその州の廂軍とその付近の禁軍とをあわせて指揮する。そのときの肩書きは都総菅や都部署であったり、経略使・安撫使であったりする。水滸伝なら延安の経略使老种【ちゅう】相公や北京留守使の梁中書がこれに相当する。そのもとに兵馬都監がおかれ、地方の禁軍の指揮監督にあたる。
ところによっては廂軍の一部に訓練をほどこして戦闘部隊にしたてることがある。これを廂禁軍とよぶ。水滸伝第十六回で生辰綱の重い荷物を背負って運んだのはこの連中だ。廂禁軍のあつかいは禁軍に準ずる。
水滸伝には都統制というのがでてくる。青州の秦明や汝寧州の呼延灼がそうだ。北宋のころは正式な官名ではなく、出征軍を統率するもの、というほどの意味につかわれていた。南宋になって都統制という武官がおかれるようになった。いわゆる抗金の英雄岳飛【がく:ひ】も都統制だった。南宋の初期は岳飛のような軍団の親分にあたえられた官名だが、南宋後期になると、値打ちがさがってあちこちにおかれるようになった。
また、団練使というのもでてくるが、宋代の本来の団練使は高官にあたえられる虚官で、位階名にちかい。水滸伝の団練は編成し、訓練をほどこす人のことで、要するに将校のことだ。使をつけているのは高級感をだすため。他にも何々使というのがでてくるが、でたらめで、えらそうな感じをだすためだけというのがおおい。提轄は提督し、管轄する、の意で上下文武を問わずにつかう。水滸伝の場合、小部隊の隊長程度だろう。
○軍戸
水滸伝の欧鵬【おう:ほう】は軍戸の出身となっている。これは元・明におこなわれた制度だ。モンゴルの軍隊は十進法で、十人隊から万人隊までの単位があった。これを中国風に表現すると、十戸・百戸・千戸・万戸となる。ちなみに十人隊長から万人隊長もおなじように十戸(牌頭)・百戸・千戸・万戸とよぶ。
のちに軍事をになう家は軍戸と戸籍に登録され、その職を世襲することになった。しかし、元の後期になると、欧鵬【おう:ほう】のように逃亡するのが激増したという。
じつは宋の軍隊も世襲でなりたっていた部分もおおい。兵士が死ぬと、その親戚兄弟からおぎなわせたという。
明代の軍政は全国各所に衛という軍隊の詰め所をもうけ、そのまわりに百戸から千戸をすまわせ、代々軍隊に入ってその衛をまもらせるというものだった。その家を軍戸と呼び、逃亡することもかなわなかったという。明の軍戸は民戸からむりやりうつしたのが一番おおかった。この軍戸ものちには廂軍のように労役につかわれるようになった。
他にも元明代の軍制を反映したものがあり、たとえば方臘討伐のときでてくる劉都督の都督は明代の感覚でもちいたものだろう。
ちなみに、衛所制度がうまくはたらかなくなった明後期、戚継光【せき:けい:こう】はあたらしい軍隊をつくって倭寇討伐で名をあげた。かれはやくにたたない衛所の軍隊をつかわずに、自分で田舎にいってまじめなヤツをあつめ、自分の配下として自由につかった。このやり方はのちにおおきな影響をあたえた。
清の女真はモンゴルのように、その軍隊をそのまま中国にもちこんで、八旗として各地においたが、これもやがてやくにたたなくなった。太平天国の乱をしずめたのは八旗ではなく、曾国藩や李鴻章らがそれぞれ戚継光方式であつめてきた軍隊だった。それ以後、その軍隊の力はつよくなり、その後継者がやがて清をたおす力になり、民国前期各地に割拠した軍閥になるのである。
○牢城営
重犯罪者を軍隊にほうりこむことを充軍【じゅう:ぐん】という。死罪一歩手前のおもい刑罰である。宋代には牢城営にいれる、というかたちでおこなわれた。
宋の廂軍のなかでも特異なのが牢城営(流罪人部隊)だ。これが水滸伝によくでてくる。宋の刑罰のひとつに配流がある。これは牢城営に入営させる、ということだ。この判決がくだされた犯罪者は顔に流罪先をイレズミさせられ(水滸伝ではこのイレズミを金印と雅称、そもそも宋では兵隊にはみなイレズミがいれられた)、脊杖【せき:じょう】(背中を棒でたたくこと、五刑のうちの杖刑は背中でなく尻をたたく)をうけ、防送公人(護送役のこと)に配流先の州まで護送させる。配流先の州衙門の方では受け取りを書いて防送公人にわたす一方でその犯罪者を牢城営におくる。
牢城営の部隊長が菅営(典獄と訳されることもある。)だ。下士が差撥【さ:はつ】(番卒頭と訳されることもある)だ。差撥とはよりだす、とかひきぬく、とかいう意味。ふつうの軍隊なら兵卒が順次昇進していくところだろうが、牢城営は流罪人部隊だからそういうわけにはいかぬ。そこで、よその部隊から「差撥」して下士にあてるのだ。流罪人たちはこいつらの下でそれぞれ労役をいいわたされ、せっせせっせとはたらくのである。
さて、牢城営におくられてきた犯罪者はまず単身房(ひとり部屋)にはいる。ここは労役がきまるまでいる場所だ。そのうち点視庁によびだされて菅営とあい、労役を申し渡される。この際、太祖武徳皇帝の遺制だ、といって百たたきしようとする場面が水滸伝にでてくるが、そんな遺制はない。金をせびりとる手段なのだろう。林冲・宋江いずれも常例金(きまりのつけとどけ)をわたしたので菅営は病気を理由に百たたきをおあずけにし、結局そのままなにもなくすむ。ちなみにその場合、たたくのはふとももか足の裏だ。
水滸伝第三十八回で州の牢の胥吏である戴宗が牢城営の新入りの宋江に常例金をせびりに来るシーンがある。一方は拘置所、一方は軍隊なのでせびりにくること自体がおかしいし、戴宗が宋江の生殺与奪の権をにぎっていうようにいっているのもおかしい。
この付録をつくるにあたってこれらの本を参考にしました。事実のひろいかた、まとめかたに間違いがあるかもしれません。大学の講義のノートのたぐいも参考にしているのですが、それはここにかきませんでした。また、どこかでこうゆうことを読んだ、という程度のこともかいてあるので、ここに書いてあることすべてを信用せずによんだ方がいいとおもいます。読んだけど参考にならなかった本、情報源として役にたたなかった本、および工具書はあげていません。一番参考にしたのが宮崎市定『水滸伝 虚構のなかの史実』で、これは中公新書・文庫の両方にはいっている名著です。この付録はそこから適当によりだしてならびかえて話をふくらましたもの、といっても過言ではありません。
宮崎市定『水滸伝 虚構のなかの史実』中公新書・文庫
宮崎市定『宮崎市定全集10宋11宋元12水滸伝』岩波書店
宮崎市定『中国史』上下 岩波全書
砺波護『唐の行政機構と官僚』中公文庫
愛宕元『中国の城郭都市』中公新書
滋賀秀三「清朝時代の刑事裁判 ―その行政的性格、若干の沿革的考察をふくめて―」(『刑罰と国家権力』法制史学会編)
高島俊男「《水滸伝》語彙辞典稿」A~Yの各部
岩波講座世界歴史3中華の形成と東方社会9中華の分裂と再生11中央ユーラシアの統合
中央公論社世界の歴史9大モンゴルの時代
陳群『中国兵制簡史』軍事科学出版社
『中国方志叢書華中地方69・浙江省建徳県志』成文出版社
『金史』『元史』『明史』
『中国古代建築史(第二版)』中国建築工業出版社
陳登原『中国田賦史』