金聖歎といえば水滸伝七十回本をつくったヤツとして有名だ。水滸伝を腰斬したけしからんヤツとか小説を古典と同列に評価したえらいヤツとかいろいろいわれてるけど、実際に金聖歎の水滸伝を読んだ人はいまはすくないとおもう。と、いうのは、金聖歎の水滸伝はまだだれも訳していないからだ。
「七十回本」の翻訳ならある。でも金聖歎の七十回本のミソ、金聖歎の評まで訳した人はいない。金聖歎の水滸伝は評と本文があって意味があるんであって、本文だけならただの水滸伝の七十回本になってしまう。まあ、でも訳しにくいんやけど。
実ははじめて金聖歎の水滸伝をみたとき、びっくりした。はじめてみたのは高校のおわりか一年浪人してたころやったとおもう。高校の時は英語よりも中国のそういう小説らしいモノに熱を入れて読んでた。おかげで今でも英語の単位はそろってない。まあ、それはイイとしても、金聖歎の評はそれまで読んでたモノとなんかちがうとこがあって、おもしろかった。
ちゅうてもそんなバリバリ読めるわけではないので、わかる範囲内でのことやけど。
なにがおもしろかったのか。かれは「妙、妙、絶妙文字!」とさけび、うれしがる。「好!」とよろこび、「嗚呼!」とかなしむ。言いたい放題いって余すところがない。彼は深く読む。たとえば隻言片句に作者の意図を読む。よくでてきて、意味があると彼が感じる言葉を数えていく。シーンを区切って第一第二と数え上げ、滔々とその段落で彼が感じたことを述べていく。彼は敏感だ。大抵気づかぬ所に意味を読みとり、あれこれ考える。
金聖歎の考えや感じ方がもろにあらわれていて、びっくりした。日本語ならそういうモノを読んだことあるけど、漢字の羅列でもこんなことできるんや、とおどろいた。
金聖歎のすごいところを数えていこう。
●水滸伝を途中で切った。
水滸伝はもともと自滅に向かう集団の話だ。それを適当なところで切り上げ、集団ができあがる吉祥な物語にした。
●ワガママを通した。
水滸伝をここまでいじりまわしたり、古典と小説を同列に扱って、これとこれは俺の好み、とかいってるのは彼がワガママだからだ。今風にいえば、「精神が自由」なのか。プニプニがいいとかホエホエがいいとかいってるようなもんで、別にまあ、それほどいうことでもないけど、それを徹底的にやったところがすごい。気にくわない文章を自分の気に食うようになおして自分でほめあげるなんざ普通の人にはできませんぜ。
金聖歎はわるいヤツとかどうとかいうより、彼を一個の「クリエイター」として認識してあげた方がいいと思います(他人の創作物を空想もしくは妄想のとっかかりとする「同人作家」のほうがちかい?)。だから、金聖歎がこしらえたモノは、「金聖歎の水滸伝」であり、「第五才子書」であって、七十回しかない水滸伝ではないのです。
なんかまとまりない文章になってしもた。まあいいか。(1999/5/21)
公平のために追記すると、金聖歎の評や序文については、容与堂本の李卓吾がやったことを拡大してやっただけだという指摘が既になされている。(2010/03/17)
まぁしかし、一番の根本までさかのぼって本人が残したものにできるだけたくさん当たってみるのが一番なのだが、今たやすくそういうことできる環境にないので勘弁勘弁。
(この項未了)
(2003/07/04主題以下すべてかきかえ)
結論でてる。
●貫華堂第五才子書水滸伝 【明末清初】金聖歎:評
言わずとしれた金聖歎評の七十回本。百回本百二十回本をベースにして、金聖歎が文章をいじり、大量に評語を差し込んだもの。108人勢揃いではなしをぶったぎり(腰斬)、盧俊義の夢の一段をつけて終わりとしている。それ以来これが水滸伝のスタンダードとなり、民国期に研究がはじまった頃には研究者でもこの本以外の刊本の存在を知らなかったというほどだ。このシリーズにこれが入ってるのは、多くの続書が七十回本の後を続けているからだそうだ。
●水滸後伝 【清初】陳忱
これも翻訳がでてるので有名。百回本の後を受け、梁山泊の残党とともに李俊がシャムにわたって国王になるはなし。続書の中ではよくできてるほう。
●結水滸伝 【清】兪万春
またの名を「蕩寇志」。猿臂寨の陳希真とか陳麗卿といった面々が官軍とともに梁山泊を掃討する話。七十回本につなげている。とにかく梁山泊皆殺しらしい。
●続水滸伝 【民国】冷佛
これも梁山泊が官軍に掃討されるはなし。新聞連載だったそうで、底本はその新聞。ぱらぱらと見てみると、どうも梁山泊内部分裂してるみたい。
●古本水滸伝 【民国】梅寄鶴
これ、出版当時は「施耐庵がつくったモノホンの水滸伝」といって売ってたそうで。梁山泊が梁山泊のまま官軍に勝ち続けるはなし。張叔夜の梁山泊掃討軍のうわさがでて先に暗雲をただよわせておわり。
●水滸外伝 【民国】劉盛亜
水滸後伝から生まれた「打魚殺家」のはなしをもとにしているらしい。阮小七の娘蕭桂英と、花栄の息子花逢春の恋物語らしい。
●水滸中伝 【民国】姜鴻飛
七十回本と水滸後伝の間を埋めるために作られたそうな。兪万春の結水滸伝(蕩寇志)も、征四寇(文簡本の七十回相当以後だけを切り取ったもの)もダメダメ、といって作ったらしい。
●残水滸 【民国】程善之
これも内部分裂系。適当に終わりのところを読んでみると、獄中の宋江に官軍になった関勝が恩赦をしらせにいくくだりがある。宋江はよほどひどいことをしたらしいぞ。
●新水滸 【清末】陸士諤
●新水滸 【清末】西冷冬青
この二つの「新水滸」は水滸伝人物をつかって当時あたらしくおこってきた新社会を表現したもの。学校とか銀行とか工場とかそういうのがでてくる。回目を紹介すれば、「魯智深が留学生のなりをする」「呉学究が変法をとなえる」「白面郎が女学校を開く」「鼓上蚤が探偵に転職する」(以上、陸士諤の新水滸)「呉学究があたらしく教科書をつくる」「魚利をおこして張順が会社をつくる」「戴宗が電車においつく」「扈三娘が日本に留学する」(いじょう、西冷冬青の新水滸)
●水滸別伝 【民国】張恨水
「打魚殺家」系。
●水滸新伝 【民国】張恨水
流行作家張恨水が作った続書。梁山泊が招安をうけ、金国の侵略と戦うもの。日本軍が中国に侵略している時期で、実際、連載していた上海の新聞が日本の占領で発行停止したため、途中で中断している。その46回以降を書き下ろし、まとめて重慶で出版したもの(1943)。南宋の将領の配下となっていくらかは生き残るらしい。
●戯続水滸新伝 【民国】嘉魚
水滸新伝の連載がとまったので、他の人がほかの新聞でつづきをかいたもの。武松ひとり生き残ってしまうらしい。
【九姑玄女の課】呉楚の地(長江中下流域)では、村巫(いなかまじない師)・野叟(いなかじじい)および婦人(よめさん)・女子(むすめさん)などはだいたい九姑課をたてることができる。そのやりかたは、九本の草の茎を折り、まげて十八とする。一束にしてにぎり、祝してこれを呵し、ふたつづつ端をむすんでいき、そのうちふたつだけ残して、おわれば手をひろげ、それで吉凶を占う。一本につながっていれば、「黄龍儻仙」という。わっかがひとつできてそれをくぐっていれば(穿一圏?)「仙人上馬圏」(仙人乗馬の輪)といい、くぐっていないのを「蟢窠落地」(蜘蛛の巣おちる)という。みな、吉兆である。またグチャグチャになってつかみどころがなく、わけようがないものは凶である。ふたつ紹介されている。両方ともそのへんの草をつかってできるうらない。九姑課の「祝してこれを呵し」というのはなんだろう。なにか祈ってかけ声かけるのか。きまりのまじないのとなえかたをこう表現したのか。「わっかがひとつできてそれをくぐっていれば」(穿一圏)というのがあるが、草の端を適当に結んでいくのだから、できあがるものは輪か線しかない。線が輪をくぐっている状態になったのが穿一圏で、輪と線が別になっているのが不穿の蟢窠落地なんだろう。そしてうまく一本につながったのは龍にたとえたのだろう。
ほかに九天玄女の課というのがある。そのやりかたはこうだ。茎をかぞえずに、ひとつかみの草をおる。筮竹をつかってもよい。てきとうに両手にわけ、左手分を上にしてを縦向きに置き、右手の方を下にして横向きに置く。それぞれについて三本づつ抜いていき、三本以下になって余ったものを卦(占いの結果)とした。たて一よこ一を「太陽」、たて二よこ一を「霊通」、たて二よこ二を「老君」、たて二よこ三を「太呉」、たて三よこ一を「洪石」、たて三よこ三を「祥雲」という。みな吉兆である。たて一よこ二を「太陰」、たて一よこ三を「懸崖」たて三よこ二を「陰中」という。みな凶兆である。
わしがおもうに、俗にいう九姑とは、つまり九天玄女じゃなかろうか。「離騒」経にいう、「索藑茅以筵篿兮、命霊氛爲余卜」(藑茅を索し筵をもって篿す、霊氛に命じて余卜となす?)。注には「藑茅は霊草である。筵はちいさい割り竹である。楚の人は草をむすび、竹を折って占うことを篿という。」とある。ということだから、もとづくところがあるのだ。
さて、両世紀をまたいだこの一年、チョット旅行に出かけてたわけですが、最後に中国でいろいろ本を買いました。そのなかにとてもすごい水滸本があったので、紹介します。
『漫説水滸』陳洪・孫勇進 人民文学出版社 七元(百円)。中国人にこんなすごい本がかけるとは思っていなかったので、びっくりしました。それこそ金聖歎の文章を読んだときのような新しさを感じた。
これ書いた人あきらかに金庸とか梁羽生好きなんですわ。だいたい、一人称が「在下」(それがし)やし。あちこちで引用してるし。それから、するどい目で謎をえぐり出したあと、謎は謎で放りだし、無理に答えをだそうとしない。キミら自分でかんがえろ、とまで言う。文革のころの論調にたいしてははじめはおだやかに、読み進むウチにケチョンケチョンにたたく。こんなに政治から自由で、自分の思うところに率直なうえ、「中国人であること」に固執しない、こういう自由な精神を持った人間が中国で育つとは考えにくいので、香港人だとおもったんですが、どうでしょうか。それとも最近の改革開放はここまですすんでるんでしょうか。
で、内容にわたります。どこもかしこもおもしろいけど、たぶん一番言いたかったあたりを簡単に紹介。
第七章”奸雄”話題では宋江の資質にはじまって、水滸伝がどういう物語か、というところまでつっこんでいて、この人にしては珍しく、解釈をはっきりとみせてるので、ここがいちばんいいたかったのだとわかる。
なぜ、宋江に人望が集まったのか、ということについて、晁蓋と柴進、ついでに盧俊義をもってきてくらべてるんやけど、ひと味違うでぇ。まず、晁蓋。晁蓋のいいところは義を非常に重んじ、温厚なところ。たとえば恩のある宋江を助けにわざわざ江州まで出張る。ちょい役の白勝をわざわざ助ける。白勝は智取生辰綱で肝腎な役目を演じたとはいえ、こいつがつかまって白状したおかげでつかまりそうになったのだから、無視してもいいところ。これが宋江なら、閻婆惜殺しのときたすけてくれた唐牛児にたいしてなにもしてやっていない。
しかし、温厚なのは政治的人物としては欠点で、宋江のように、面の皮が厚く腹黒で、やりかたも辛辣でないとやってけない、という。
さらに晁蓋には欠点がある。一つは優柔不断、一つは幼稚。それが如実に現れているのが宋江の連絡を受けて逃げるとき。宋江は捕り手がかかることを晁蓋に連絡してひっかえし、時間稼ぎをするのにたったの二三時間しかかけていないが、当の晁蓋はその危急の時に、昼から夜まで時間があったのに荷物をまとめきれなかった。にげてからも梁山泊乗っ取りの時も、自分の意見が全くなく、呉用の言いなりだった。さらにいうと、生辰綱の一件が見つかったのは何清が晁蓋の顔を覚えていたからだが、晁蓋はちっとも気づかなかった。宋江のように細心注意して人にあたる人間ならそんなことはなかっただろう。いなかで親分やってる分には問題ないが、政治的人物としては不適格で、宋江にまつりあげられて実権をうしなうのもやむを得ない。
柴進はどうか。柴進は宋江に並ぶほどの名声をもち、前王朝の皇帝の血統をひき、財産も莫大である。風采教養行状も宋江のような田舎モノとはくらべモノにはならず、また、宮中にまぎれこんで、徽宗の地図から文字を切り取ってくるほどの大胆応変さもある。なぜこんな人物が梁山泊の大寨主になれなかったのか。
金聖歎から「神」と評された水滸伝一の好漢武松と宋江・柴進がいっしょにでてくるところをみてみよう。柴進は逃げてきた武松をかくまってやったはいいものの、武松のいいところを見抜けず、酒乱の武松をいやがる使用人の言うことを真にうけて、側杖くわしていた。宋江はそんな武松をみいだし、弟のようなあつかいをして、ねんごろにいたわってやる。自尊心が傷ついていた武松は宋江にいやされ、兄のように慕うようになる。柴進は三人そろいの服をつくらせたりするが、ときすでにおそく、武松の心はもう宋江に奪われたのだった。武松との別れに際しても宋江がしばらく見送ったのに、柴進は屋敷で別れただけ。
ほかにも、洪教頭みたいなのを先生とたてまつって養ってたりするし、林冲に「よく見てくれるよ」と推薦した牢城営の役人たちは林冲を平気で殺そうとするし、おなじくタダでかくまってくれるだろうと推薦した梁山泊の首領の王倫は「投名状」を要求する。要するに柴進は人を見る目がないのだ。
盧俊義も家は大商人、腕前は超一流、なのだが、いうまでもなく、「アタマ」がちと悪い。副首領としては問題ないが、首領の器ではない。
と、そんな感じでこのあと宋江論が続くんですが、知りたい人は本買って読んでくだせぇ。いい本です。西安の図書大厦にはたくさんありました。上海では見ませんでした。あったらおみやげにするつもりやったんやけどなぁ・・・安いし。ちなみに初版第一刷は2000年一月、印数5000冊です。他に漫説シリーズとして、三国、西遊、紅楼もあり。(2001/3/20)
(この本装丁を変えて再版されています。2007末の状態)
水滸伝にはいろんな版本があるのはご承知のとおり。大雑把にわけると、次の四つ。
そうやって書き換えた上で、七十回本の作者金聖歎は「宋江大笑」の次のところにこうゆう批評をくわえているのである。
「「宋江大笑」と大書してあることから、みんなが笑わなかったことがわかる。母親とはだれだ?虎が食うとは何事だ?母親が虎に食われ、子が泪を流すのは、どんな感情だ?これを聞けば言える、賢者でなくともあわれむだろう、と。宋江ひとりあわれまなかっただけでなく、これをわらった。わらったのだ。ただわらっただけでなく、「おおわらい」したのだ。天下の人はみな、子でないものはいない。子でないものがないとはすなわち、それぞれ母親のないものはいない、ということだ。宋江だけは人の子でないというのならいい。宋江がただの人の子なら、人の母親が虎に食われたことを聞いて、どうしてまた大笑いできるのか。宋江は誰を欺くのか、太公を欺くのか?作者は特に、前段で母親を迎えに行くのを宋江が許さなかったことを大書し、後段では母親が虎に食われたことを聞いて宋江が大笑いしたことを大書した。ということで、忠を語り孝を語る人が、その胸のうちにはまったくこころがないことをあきらかにし、小説中の大悪人にしたのである。」自分でやっといてよくゆうわ、とおもうけど、とにかく、こうゆう特徴が七十回本にはある。何箇所か覚えとくと便利。
蒙汗薬は水滸伝にでてくる特殊アイテムで、これをのまされるとたちどころに目がまわり、バタンキューと倒れてしまうすぐれもの。しかしその正体はよくわからない。
王珪・李殿元『水滸大観』(四川人民出版社、1995)ではふたつ候補をあげ、うち、曼陀羅は一種の安眠薬で薬味はないから、蒙汗薬は曼陀羅でつくったんだ、といっている。しかし、任大恵主編『水滸大観』(上海古籍出版社、1998)のなかの何雲麟「百科一覧」蒙汗薬の条では、現代の研究によると曼陀羅の味は「苦い辛い温かい」(こうゆう表現になるのは中国伝統医学の慣習に従ったからだろう)といっている。そして、いろいろ薬品名を挙げるが、結局もう一歩研究を進めなければわからないだろう、といっている。まぁその辺が妥当だ。
でも、みんな、こんなにすぐ薬が効くもんか、とかおもってませんか?あんなんうそや、どうせお話を盛り上げるための虚構や、とかおもってませんか?
すこしでも旅行したことのある人なら知ってるはずやけど、現代の世界には「睡眠薬強盗」というのが存在する。なんとか目標にとりいり、なかよくなって、睡眠薬を仕込んだジュースやクッキーを食べさせ、みぐるみはいでしまう。一般に金持ちでおひとよしの日本人がよく狙われる。うそと思うなら検索エンジンで睡眠薬強盗を検索してみればよい。危険情報や体験談、伝聞がわんさと引っかかる。自分もこういうことがあった。
イスタンブールのこぎたない日本人宿にたどり着き、ドミトリーにはいってからしばらく、荷物があるのに人が寝ていないベッドがあった。ふつかくらいしてその主が帰ってきたが、コンコンと一日中眠っている。あとでその人から聞いたが、なんとイスタンブールについて早々睡眠薬強盗に引っかかったそうだ。
まずはガラタ橋だ、と、とりあえず見に行き、そこで出会ったトルコ人?と音楽の話で意気投合、そいつんちへあそびにいき、クッキーを一口食べたら意識が飛んだそうな。幸いというかマヌケというか、その犯人は常習犯で、トルコ警察に目をつけられていて、このときもあとをつけられ、倒れた時点で警察が踏み込み、現行犯逮捕されたそうだ。
件の彼は目がさめたら病院のベッドに縛り付けられていて、なにがなんやらわからず、混乱したとか。暴れようとしたが、医者がきてしばかれたらしい。そりゃそうだ。日本大使館の人がきてようやく事情を飲み込めたが、クッキー食って二日くらいはねていたということ。現行犯逮捕だから財布も何も無事。・・まさにトホホという感じで語ってくれました。ただで睡眠薬強盗あじわうとはすごいやつ。
クッキー一口でイってしまうくらい大量の睡眠薬を盛るらしい。その彼は「ハッカくさい」とおもったそうだが、なんとも感じなかったという例もきく。クッキーにどうやって薬を盛るのか不思議だが、とにかくそういうことができるのである。蒙汗薬の時代とはちがうから、化学合成したものかもしれない。ただし、他によくあるのはラクという濁る酒に混ぜて出すという手だそうだ。それなら蒙汗薬とつかいかたはいっしょだ。
導眠につかう睡眠薬を想定するから、睡眠薬がすぐ効くものか、ということになるんだとおもう。普通に服用する錠剤は有効成分がすくなく、ほかの小麦粉の部分のほうがおおいようにつくられているはずだ。危険だからだ。
宋元明の中国でどこまで有効成分を濃縮できたか調べてないのでわかんないですが、目的が目的だけにどうですかね。(2001/5/8)
京都外大の図書館に行ってみたら『水滸小英雄』なる小冊子を見つけたので紹介する。
香港育英書局の出版で、1964年9月の出版。小英雄ってだれのことかといえば、鄆哥と李成です。鄆哥って潘金蓮と西門慶のとこでちょっとだけでてきたあの鄆哥。李成は?大刀李成ではなく、この本だけのオリジナルキャラクター。
まぁ、水滸伝のサイドストーリーですな。鄆哥が武松の知りあいなので、鄆哥がこのサイドストーリーの主役になって、梁山泊とからんでいく。それだけだと話にオチがなくなるので、史文恭が親のカタキだという李成がからんできて話にオチをつける形。昔の少年マンガなどに、想定される読者とおなじくらいの年齢の子供がヒーローたちの側にでてくるがあれとおなじとおもえばいい。
以下回目を挙げる。
第一回 景陽岡好漢打虎 清河縣鄆哥傾心
第二回 殲惡霸武松祭兄 重英雄鄆哥拜師
第三回 鄆城避難逢流氓 東溪遭劫遇救星
第四回 上梁山酒店問路 見義父山寨安身
第五回 帶密信太保中迷藥 劫法場搶救及時雨
第六回 燒黃府勇救小李成 巡風船活捉黃文炳
第七回 打青州師徒聚首 歸水泊英雄結義
第八回 回家省親鄆哥喪父 家恨國仇李成殺奸
絵の多い小冊子なので、詳しい話はのっていない。最初、武松の虎退治後のパレードを鄆哥が見にいくところから始まる。水滸伝の本筋はすべて粗筋ですませ、鄆哥のオリジナルストーリーに重点が置かれる。ただこちらは会話で進行するので話自体は大してすすまない。ということで、事態が粗筋で進行し、あいまにちょっとした鄆哥の話がはいるかたちになる。もう一人の主人公李成は三回に出てくる。鄆哥は西門慶の遺族の報復を恐れ、東渓村まで流れてきたが、もう晁蓋などがいなくなって無法地帯となっていたため、ならず者に襲われたところ、颯爽と登場した李成に救われるという筋書。特別話があるのはそれくらいで、あとは物語の従属変数となってしまってなんとなく影がうすいのだが、それはヒーロー物の子供役としてはしかたないところだろう。悪覇という用語から予想されるとおり、解釈は赤いです。当時の香港といっても共産党系の出版社があったわけですな。(2008/05/31)
今梁山泊のあるところには、梁山県の町があってにぎわっているのですが、あれは昔からあったわけではないようです。2009年の最初のころ、中国の南北を旅行し、梁山泊にいったあと、上海でビザの延長まちのため足止めくらいました。せっかくなので毎日上海図書館にかよって、いろいろ本を読んでたんですが、そのとき、ついでに梁山県志を読んで、あのあたりの最近の経緯がだいたいわかりました。以下その記録です。(日記の再利用)
(2009/12/09)梁山県志を読んできた。梁山県、(終戦直後につくられた)米軍地図には街がのっていないので、戦後の水滸伝を持ちあげた時代につくられたんだろうとおもっていたけどすこし違った。この一帯は周囲の県の県境が交錯するところで、辺境になるので、共産党が根拠地に選んだらしい。東平県の東平湖の西にある昆山を中心として昆山県というのを設定し、そのなかに梁山も含まれていたが、実際には梁山のあたりは汪兆銘政府の東平県が支配していたようだ。
その昆山県が中華人民共和国成立後、梁山県と改称し、県の組織も数年で今の位置に落ちついたとか。というわけで、梁山県志の冒頭には、我が県は共和国と同齢で云々と書いてある。しかしこの梁山県志、東平県志以上に面白かった。辺境の土地だったので、無法地帯に近い状態になっていたようだ。そして東平県みたいな歴史や文物がないので、そういうことに積極的に触れている。会道門と総称してある道教系の諸宗教集団や、土匪なんかがうじゃうじゃいて、共産党はそういう連中とも戦っていたらしい。まぁ、それこそ国民党や汪兆銘政権からみてまさしく共匪という状態だったわけだな。最初の昆山抗日民主政府は県組織が一箇所にとどまっていなかったというが、ようするにそういう匪賊に近い状態でうろうろしていたということなんだろう。1941年には会道門の一つに襲撃され、「政府」をのっとられかけている。その一方で、梁山のちかくで、日本軍の一隊を殲滅し、勝利が喧伝されたこともあったらしい。匪賊の規模として、大杆(数十人から数百人)、小杆(二三十人)、小礚叭叭(kēpāpā)(三人や五人)という分類がされている。その集団は外地とのつながりがあり、すぐに散らばって消えたり、集まったりできるという。
活動形態というのが紹介してあっておもしろかった。
- 喊項 夜中に門外で大声で叫んだり、もしくは脅迫状を書き、いくらかの銀もしくは銭を何月何日指定の地点まで持ってこさせるもの。したがわなければ家を焼く。
- 架戸 きっかけをつくって人の家に押しいり、ひとをさらう、もしくは道で人をさらう。さらった人を「架肉蛋」といい、おおくの場合豚の尿をぶっかけ、あるいは綿で口をふさぎ、あるいは熱した蝋で耳を封し、タオルで目をふさいで、地面の穴もしくは山の洞穴にほうりこんでおく。くわしい人に出むいてもらって話し合いをもたなければならない。これを「説項」ともいう。双方が合意に逹して金を支払いさらわれた人を受けとるということになる。
- 牽牛 人の不備に乗じて人の家に闖入し、耕牛を無理矢理牽いていく、もしくは田畑の移動中に無理矢理牽いていく。
- 動路 道路で通行人を待ちうけて襲う。おおくの場合、小杆もしくは散賊の所為。通行人や行商人であろうがなかろうが、ただ乗ずるスキがあれば手段を選ばず略奪を行う。
梁山泊だが、梁山は崇禎帝が水滸伝禁止令を出したときに梁山にあった遺構を破壊したらしい。その後、清初に盗賊がたてこもって清の軍隊に討伐もされている。その後、ここに軍隊が駐留するようになったという。
民国になるとさっそく盗賊300人がたてこもって周囲の地主から金や食料を徴収したとか。民国6年(1917)に討伐されたときには800人、戦馬40匹、銃600余の規模になっていたそうだ。
佐竹靖彦『梁山泊―水滸伝・108人の豪傑たち』という十数年前に出た中公新書があり、そこそこいい本なんですが、そのなかで「これはちがうやろ」という部分がありました。さすがに誰かから指摘されてその後認識変えてるだろうとおもってたんですが、こないだ国会図書館で「水滸伝の衝撃 東アジアにおける言語接触と文化受容 」(アジア遊学131 2010/04)を読んできたらあいかわらず同じ事書いてありました。以下引用。
「このような全身に刺青した好漢の姿は、容與堂本の九紋龍史進を描いた挿絵にみることができる。もろ肌脱ぎになった史進の両腕に見える龍紋は胸に続き、この龍がその長さほぼ一丈の力強い一匹の龍であることを知りうる」
で、ご丁寧に挿絵をはりつけてあるところも新書とおなじです。右に示したのとおなじ画像です。
でもねー。これ刺青? 他の挿絵でもおなじみのアレなんじゃないですか。武将が着用してるアレ。
ということで拡大してみましょう。
まーどう見ても鎧ですね。胸にあるのは護心鏡でしょう。
一丈青の青は刺青の青と安直に思いつくのはよくあることでかまわないんですがこの挿絵で自説を補強するのはよくないですね。
ちなみに北斎の史進はこんなかんじです。(早稲田大学古典籍ライブラリの新編水滸画伝利用)
刺青は細長いのがにょろにょろと描かれています。こういうのだと一丈くらい行けそうです。
北斎も史進が陳達つかまえる場面では鎧着せてますな。
ということで、十数年たっても誰も指摘してないようだったのでネタにしました。
まぁ綽号なんて水滸伝研究のなかでもますます資料がなく、妄想全開のいいっぱなしでもたいがい問題ないジャンルなので正直どうでもいいんですけどね。
(2010/08/26)